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October 17, 2004

松平健 錦秋公演

*以下の文章は公演内容について言及しています。新鮮な気持ちで公演をご覧になりたい方、これから劇場に行かれる方はご注意くださいますようお願い申し上げます。河内山

 新宿コマ劇場にはやはり、顔の大きな座長がふさわしい。
 三重の回り盆を従えワイドに丸く張り出したコマの舞台にあうのは、幅の広い顔だ。特に舞台前方で正面を向いて立った時、ワイドTV的(横に引き伸ばしたよう)に広がる舞台空間に負けない顔幅は、座長を座長たらしめる重要なファクターだといえよう。
 逆に顔が小さいと、コマ興行である必然性が希薄になってくる。そのことを確信したのが、昨年の氷川きよし座長公演であった。何かしっくりこないと思っていたら、顔が小さいのだ。もっとも客席へ視線を送る時、高齢の観客を確実に捉えゆっくりと微笑みを与える氷川の正確なアクト、また司会者を置き、氷川への賛辞とMCの段取りは任せる演出など、観るべきものはあったことをつけ加えておく。
 さてブームになって久しい「マツケン」。梅田コマ劇場と博多座に続く今回の新宿コマ興行は、一部を芝居、二部を歌謡ショウに分けた近年の彼のスタイルは取られず、『暴れん坊将軍スペシャル 唄って踊って八百八町~フィナーレ・マツケンサンバ』という一つの作品を上演するかたちで行われた。

 物語は、問屋の娘お七と伊織、元は役者だったお夏と松平演じる新之助(実は上様:徳川吉宗)の二組の恋のゆくえを軸に、連続する不審火・木材買占め・「からゆきさん」の斡旋業にまつわる陰謀の謎が解き明かされていくというものだ。これに上様が親しんだ子守唄の悲しいいわれも絡んでくる。また、上様の母への想いが時折夢幻のように現れる。歌と踊りを交えた物語が一件落着すると、爺の「無礼講ですな」を合図に歌謡ショウの状態に入る。その時刻を確認したところ18:50近く。終演は19:20頃なので、正味30分のショウである。羽根をあしらった白いガウンや金の鱗状に輝くサンバ用着流しなどショウの衣装は数点、セットは無礼講開始時点で幾何学的なデザインに電飾をほどこしたものになり、後はラストまで変わらない。
 
 観劇した当初は、プロットを持ち出し歌や踊りとの辻褄を合わせたことによって、全体が薄くなったという印象を拭えなかった。例えば物語中盤、簡素な芝居小屋の前で朗々と読経声のラヴ・バラードを歌う松平。衣装は「しっかりした身なりのお侍」ではあるとはいえ、それでも日常の動作に即した着物姿だ。寂しい景色の中で、二人の恋心だけが夕日のように煌めく場面に思えないこともない。ところがこの展開では、いなせな若衆から弁財天までやる幅の広さ(以上は明治座で松平が行った)、性ばかりか洋の東西も自在に行き来し予想を超えるセットと衣装、何でも踊る群舞など、予算のある興行ならではのレビューのお楽しみは、ことごとく削がれる。「一回限り」という触れ込みでお夏と新之助が小屋の舞台に立ち、マンボを踊る場面構成はよく練られていたので、いっそ時代考証を全部無視して、上様が世界中の踊り子と出会うインター・ナショナル版にでもするか、喜劇的要素の強いオペレッタの手法を取り入れれば、これほど地味にならずに済んだのではないか。無駄な思索に駆られた。
 結局、彼らは一本のミュージカルを目指したのだと思われる。だが出演者の積極性にも関わらず無礼講前の演出は、「台詞・歌・踊りの順番と場面転換が、緩慢だけれどもそれっぽい舞台」の域を出ていなかった。まず、夢落ちで終わる話のあらすじを皆でかわるがわる朗読しているような台詞が、舞台の時間を停滞させている。その台詞の前後に流れる曲の転調や繰り返しは、乏しく唐突だ。おまけに一幕終わりの縮んだ群舞から露骨に伝わってきたのは、余裕がなくて歌や踊りを忘れていた劇中の人々の辛さより、後の無礼講までずっと抑えで行くという進行上のせこい計算だった。ミュージカルの特性は、楽曲の層の間を泳ぐ(転調・繰り返される)主要なメロディを聞き、振付や身体性を観ただけで、登場人物のキャラクターや心理のみならず作品の構造・背景も大まかに掴めることだ、という自分の認識に従えば、個人的にこれをミュージカルと呼ぶのは苦しい。
 
 しかしそれはおくとして、元ネタであるTVシリーズの『暴れん坊将軍』の大原則、つまり徳田新之助は、視聴者の希望年齢(おそらく三十前半か)のまま歳をとらないということを再考したら、薄いとは言えないと考えを改めた
 TVの上様は身分を隠して江戸の町に行き、徳田新之助と名乗って市井の人々と交わり悪をこらしめる。途中で女性との恋模様他、どんなことがあろうとロンド形式で終わりまでに元へ戻り、爺が見合いを勧めたりする。形式という枠を設けて表現の実験をしたり超法規的手段によりSFドラマになるのと違い、堂々たるロンド形式の中に、主役の松平さえ駒として組み込まれているのが特徴的だ。
 こうした延長上に今回の興行があるとしたら、上様はTVシリーズの「リアル」を死守し、上様然として在ることが第一に求められる。ならばわかる。江戸をうろつかない新之助、町娘や闇金に群がる悪党と絡まない上様など御法度だ。舞台の上様はパワーアップして歌や舞を披露し、町の人々と比較するとその賢さ、格好良さ、善性、浮世離れ度合いは宇宙的だが、あくまでも形式を遵守しながらの純化であったことに注目したい。すでにTVシリーズが終了した事実を踏まえると、SPものとして上様を原則から逸脱せずロング枠で、しかも一度終わらせて永遠になった話を昨日の続きのように、コズミックな身体というTVにはない強さを持って松平が演じたのは意義あることだったのだろう。
  一体TVシリーズはどのくらい続いたのかと思い調べたところ、足掛け26年とのことだった。徳川吉宗の治世は29年(1716-1745)なので、実際の在位期間に迫る長きに渡り、松平は徳川吉宗を演じたことになる。29年の治世の間に幕藩体制の建て直しを図り、貨幣ではなくそれまで引き継がれてきた米の経済に基づいて改革を行った吉宗。かたや26年間、一人の俳優が吉宗/新之助として生きてきたロンド形式の世界。史実とフィクションの20余年の月日を指一本分ぐらいの太さで繋ぐものは、変わっているようで変わらないという在り方かもしれない。
 
 何よりも今回は、殺陣をはじめ身体に入っている芸に関して「マツケン」というソフトが大変優秀であることを実感した。さらに彼は耳が敏感なのだと思われる。踊る音楽によって音の取り方を、とてもさりげなく変えていた。だからあれだけ多種の、時に定義不可能なダンスを数十分の間に次々踊ることが可能になるのだ。舞台のマツケンサンバについては、筆者は明治座公演の時と、それより以前に一度観た記憶がある。初回の衝撃は薄れても、カタルシスは観る度に大きくなっていく。どこまでも朗らかなグルーヴを感じるからだろう。
 松平の歌は音程が合っており、決して不味くない。ただ声質があまりに朗々としすぎていて、張り上げると先にも書いたように読経的に聞こえてくる。でも松平はそのまま「hoo!」と楽しげに掛け声を入れる。歌としてはここでずっこけてしまうのだが、ちょっとでも巧く聞かせようとか、無難にまとめるなどという小細工をしない潔さが端的に表れているのがこの「hoo!」だ。
 とにかく、松平は全身全霊でがんばっていた。将軍の名に恥じぬ天晴れな座長であり、エンターテナーだったと思う。演劇業界のみならず、趣味人の間では知られた松平健のパフォーマンスとはいえ、TVでは北島三郎出演の歌番組に突然現れて踊ったりゲリラ的な露出だったのが、ここ数年で当たり前となった。悲壮感を微塵も漂わせずブームを受け止めた彼の身体性が、今後どこへ向かうのか楽しみだ。

 あとは脇の話を少し。ドスの効いた声がするなと思ったら三原じゅん子が出ていた。松平が「寂しくなったらまた来てください」で〆るMCの間、三原は両腕の力を抜かず下げた十手でぴしっと×印をつくって待機しており、きれいな立ち姿を見せていた。
 物語についても補足しよう。「火事になると会える」という台詞もあることから「八百屋お七」を意識しているのは間違いない。古典を下敷きにするとか本歌取りとか、この際なくても誰も困らないのに読みかえや引用が半端に終わっていて、かといって単に客へのサービスとして取り入れたにしては、脚本の余計な自意識が感じられた。
 かつて藤田まことはコマ劇公演の際、『必殺仕事人』のオープニングを映すスクリーンの後ろから、ターミネーターよろしくにゅっと出てきた。むろん観客は、そのもてなしに大喜びである。長寿番組は、古典に頼らずともそれ自体がすでに笑いの種の宝庫だ。今回もTVあっての公演ならば、使用曲や馬上姿の松平など、TVシリーズとの連歌の関係を密にすると、長寿番組のマンネリズムを逆手に取ったサービスができたと思う。(04.10.08 夜の部 新宿コマ劇場)河内山シモオヌ
松平健とエンターテイメントについて

Posted by : October 17, 2004 12:19 AM | Trackback