November 24, 2004

鵺の会 『場景』

 『場景』というタイトルは、確かに言い得て妙である。
BeSeTo演劇祭の演目として、都立戸山公園特設会場で上演された鵺の会による『場景』は、11月の野外という条件から来る冷ややかさに妙に調和した舞台で、季節感はずれるものの、音声を消してTVの野球中継を見ているような、妙な感覚をもたらすものだった。しかしそれはもちろん、TVではない。寒いと感じるリアリティが、身体が描く残像の軌跡が、積み重ねられていく「時間」と不可分の舞台上の諸関係が、それが演劇であることを告げていた。

 『場景』は、ヴィジュアル・イメージを強く喚起するジョルジュ・バタイユ『松毬の眼』、太宰治の作品系列において「女語り」と称される『燈籠』、それぞれを前/後半の原作としながら、演劇における身体のあり方それ自体を成果=問いとして提出した舞台であった。そして、それがおそらくは映画にも小説にもふさわしくないという意味において、『場景』はすぐれて演劇的な作品であったと、とりあえずはいえそうである。

 いささか説明過多にも思われる「『場景』演出ノート」は、太宰治の小説にみられる類のサービスに乏しいこの舞台を楽しく見るための格好の導きでもあるのだが、久世直之は、いわゆる演劇に求められがちな劇的なプロット展開や俳優の感情(の振幅)などとはおよそ異なる地平を目指しているようである。従って、それを「前衛」とか「知的冒険」とか呼ぶにはあたらないだろう。そうではなく、おそらく久世が目指していたのは、「演技者の機能」を主題として、「地面との関係」や「俳優による音声化の過程」などを具体的な課題として捉え返す試みであり、我々がそこに見るべきは「身体/空間のドラマ」であるように思われるのだ。実際、久世は、丹念に身体を問うべき環境(観客にとっては解釈コード、となるもの)を劇中において整える。それは舞台に敷かれた6枚の畳であり、メトロノームの刻むリズム=音であり、後半においては卓袱台や着物などのモノたちであり、そして何より、畳の引力に身を任せた俳優の所作であった。しかしそれは単なる導入ではなく、その延長線上においてそのまま本篇へと繋がっていく。畳の上の俳優は、その柔軟な四肢を、畳を手掛かりにして様々な「運動」へと形作っていく。シャープさからはほど遠く、日舞や舞踏とも異なるその身体=「運動」のスピードはほとんど体温を感じさせないが、しかし、おそらくTVや映画のフレームからは舞台に現象していた質量が漏れ落ちるだろうし、様々な方向を目指すベクトルはフレームを容易に突き抜けていくだろう。

 もちろんそうはいっても、台詞のあった後半の方が、観客にとって手掛かりが多く負荷の少ないものであったのは間違いない。こちらは明らかに歌舞伎を思わせる発話が、原作にない「描写」をモノに触れることで現出させながら、若干のメリハリは台詞の間・照明・音響によって付加されていたものの、ほぼ均質なトーン・テンポで、実に淡々と進んでいく。野外空間における声量(の小ささ)がどれくらい演出のコンセプトに叶っていたのかは知るべくもないが、その舞台が物語を追うものでないことは前半の上演で明らかである。従って、おそらく見所は、久世が「『場景』演出ノート」で指摘するように、原作に存在しない「描写」を、発話された言葉との関係において、確かな手触りとして視角化し得たか(もちろん、現実的にそれは不可視である)、その可能性としての俳優の身体にしかないだろう。

 では、こうした舞台に、いかなる『場景』が現出したのだろう。
 むしろそれは、視覚的なものとしてよりも、身体の織りなす運動の残余である軌跡、そのバイブレーションが観客に伝わるかたちで『場景』を成した、というのが精一杯のところであったように思う。これは皮肉ではなく実感として記すが、『場景』の舞台空間において最も劇的だったのは、前後半の装置転換の際、畳に卓袱台が置かれた瞬間であった。それまでダンス・スペースかのような不思議な場であった畳が、一瞬にしてなじみ深い和室に変貌したのだ。観客が『場景』観劇という「時間」を通じて蓄積してきた関係の積み重ねよりも、それは強力な意味を発していた。こうした物質的な意味作用に拮抗する身体表象(のドラマ)がなければ、『場景』を演劇と承認することはできても、作品と呼ぶのは難しいように思われる。(松本和也/2004.11.24.)

Posted by MATSUMOTO,Katsuya : November 24, 2004 08:04 PM | Trackback
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