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December 25, 2004

八木柊一郎作「コンベヤーは止まらない」

 今年亡くなった劇作家八木柊一郎の岸田戯曲賞受賞作「コンベヤーは止まらない」(1962年)の舞台をみてきました。桐朋学園芸術短大芸術科演劇専攻(2年)による試演会です。高度成長のとば口で、世の中の対立構図がくっきり見えた時代。生産効率一辺倒の工場相手に、下請けのさらに末端に位置づけられる内職家庭がストライキを仕掛けるというお話です。簡素なステージを縦横に生かした演出力もさることながら、労働組合とかストライキとかが死語になりかけているいま、学生にあえて古典的な骨格を持った物語をぶつける演出家の剛毅と侠気を感じる芝居でした。

 12月11日(土)と12日(日)の2日間、Aプロ、Bプロそれぞれ1日2回、計4回公演。Aプロは直球バージョン、Bプロは変化球バージョンだったそうです。ぼくがみたのはAプロでしたから、「直球」を投げ込んでもらったことになります。これほどのステージなら変化球版もみたかったのに、ぼくに時間の余裕がないのは残念でした。演出は、同大講師を務める大岡淳さんです。

 正面と向こう正面に客席が階段状に組み上げられ、ステージはすり鉢型の底のようになっていました。ステージの四分の一ほどが一段高い正方形。天井から小ぶりの布製スクリーンが旗のように下がっているだけで何も置かれていません。

 開演前に黒っぽいコートを着た大岡さんが舞台に登り、囲むように着席した学生の出欠を取ります。これも授業の一環という確認なのでしょうか。そして「演劇は社会を変えられるか」という問いを投げかけます。学生数人がすこし硬く、あるいは迷いつつ答えます。そんな発言を引きだした後、大岡さんはナチスドイツの歴史に触れ、ファシズムは民衆の参加型運動として発展し、演劇も参加者の意識と意欲を高める有力な手段として活用されたこと、つまり社会を変える道具として逆説的に重要な役割を果たしたことなどを話しました。学生と客席をちょっぴり挑発するプロローグと言えるでしょうか。ブレヒトを彷彿とさせるいたずら好きの作風のようにも思えました。

 物語の時代設定は1962年です。ラジオ部品製造工場のコンベヤー前で、本工の中山あつ子が作業中、突然手が動かなくなります。診断はコンベヤー作業からくるノイローゼでした。彼女の母親は下請けから部品組み立ての内職仕事をもらって家計を支え、あつ子と幼馴染の浩一は社外工で、彼の両親も内職仲間という設定です。浩一は将来の望みもないまま低賃金で働き続けることに嫌気がさしています。しかし工場はコンベヤーの速度を上げ、生産増強をあおるだけ。「コンベヤーを止めない」-それが合い言葉のようになっているのです。工場の管理主任も下請けの社長も現場の営業マンも、そして内職に追われる主婦らもみなコンベヤーに振り回され、無理な仕事を引き受けざるを得なくなっています。
 浩一はあつ子と話しているとき、ストライキを思いつきます。末端の主婦らが内職をストップすればコンベヤーは止まります。やがて浩一はストライキで賃金を倍増しようと主婦らを説得、会社や下請けを巻き込んで初日は成功するかと思われたのですが…。

 当時は臨時工、社外工、内職(アルバイト)の階層型下請け構造が当たり前。労使対立が露出し、ストライキだって珍しくありませんでした。労働運動は政治的社会的に一大勢力を築いていたのです。62年の岸田戯曲賞受賞作品は、十分に当時の雰囲気が刻印されています。

 これらの荒々しい波頭はいま見あたりません。内職などはほぼ「外部化」され、パートやアルバイト、派遣社員や嘱託などの非社員・非正規雇用群が波間に浮き沈みしているように見受けます。生産性や創造性、競争志向が、ほとんどの職場の暗黙の前提になっているのではないでしょうか。

 そんな時代に、内職家庭がストライキを構えるという作品をあえて取り上げるのは、なかなかできることではありません。優れた作品の再演に機会を与えるというだけでなく、現実に風穴を開けたいという意志を鮮明にすることになるからです。といっても、ただ風車に突撃するわけではなく、今回の演出は周到な仕掛けを張り巡らしているように思えます。

 まず簡素なステージによって、せりふと動きで情景をくっきり浮かび上がらせるよう集中したことが挙げられるでしょう。工場のラインもありませんし、道具類も見あたりません。省略とそぎ落としによって目移りする度合いを押さえ、作品のモチーフに関心を向けようという戦略です。ステージの上だけでなく、コンベヤー作業でも下請け社員の内職家庭回りでも、周縁を巧みに使って効果を上げています。

 同時にほどほどの説明と啓蒙を心がけたように思えます。冒頭、ステージにつり下げたスクリーンで当時のコンベヤー作業の映像を映して、場面と気持ちの双方に転換の準備を促します。ステージの周りに着席している学生がベルトコンベヤー作業の動きに移るのも、会場全体でそれほど違和感なく受け入れられたのではないでしょうか。

 今回の作品は登場人物が20人余り。いわば群像劇とも言える舞台をさばくにはそれなりの腕力が必要になります。そのために採用したのは簡素なステージを逆手にとった、暗転の多用という方針でした。照明の手際はさすが。学生の試演とは思えないほど破綻なく、劇の流れにとけ込んでいました。また生のウッドベース演奏も登場します。たった1台ですが、同期したりずれたりしながら舞台を包み、雰囲気を支えていました。
 学生はみな達者でした。もうすっかり役者です。まっすぐ役に立ち向かい、ありきたりの表現ですが、すがすがしい風を受けた気がしました。

 60年代の社会を背景に、内職ストライキを取り上げた物語でしたが、さすがに現在取り上げられるだけあって台本はしっかり書き込まれています。典型的な悪役をこしらえて対立図式を煽るようなまねはしていません。ストライキの切り崩しも、下請け会社の社員が仕事を円滑に回したいと考えている行動だと描かれています。内職の女性たちも、賃上げのために一致団結というほどの覚悟でもないように受け取れます。悪意がないままそれぞれがコンベヤーに、あるいはコンベヤーに象徴される「仕組み」に巻き込まれてもがいている、と作品は言いたいのではないかと思えます。

 逆に言うと、「仕組み」に振り回されたり押さえつけられたりする抵抗感が、それぞれの人物像にかなりがっちり埋め込まれているように感じました。工員だけでなく下請け会社の社員も、また家庭の主婦らにも見て取れます。そういう原形質が、作品の底辺を支えているのでしょう。古典的な骨格が感じられるというのは、そういう意味です。

 作品成立から40年余り。60年代の高度成長、70年代の政治の季節、そして80-90年代のバブルの興隆と破綻を体験したあと、その「骨格」がどれほど変容を被っているかによって、作品に埋め込まれ、前提となるモチーフの射程距離が見えてくるような気がしました。おそらく演出の大岡さんには周知の事柄だと思われます。冒頭の「いたずら」にも、ステージの周縁を活用する演出にも、その気配ありありでしたから。

 作品のモチーフはどこに、どのような焦点を結んだのでしょうか。「役者」として初々しくても「学生」はそれなりにしたたかでもあります。「ターゲット」となった学生の受け止め方、流し方が気になります。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

追記(12/26)
 大岡さん主宰の「商品劇場」公演について、柳澤望さんのplank Blankサイトにレビュー特集「20世紀の大岡淳演出作品から」が掲載されています。

Posted by KITAJIMA takashi : December 25, 2004 12:59 PM | Trackback
コメント

文中の「チェロ」はウッドベース(コントラバス)が正しいですね。

Posted by: yanoz : January 11, 2005 03:23 PM

> 文中のチェロはウッドベース(コントラバス)
> が正しいですね。

ご指摘の通りです。痛み入ります。本文を訂正しておきました。

Posted by: 北嶋孝@ノースアイランド舎 : January 11, 2005 10:03 PM
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