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February 18, 2005

Ugly duckling 「フル・オーケストラ」

ものすごくリキの入った、スケールのでかい装置にまず驚かされる。ヨーロッパ風の建物かなあ、広い舞台いっぱいに規則正しい長四角の石を積み上げたいくつかの階段や壁。町と言われればそんな気もするし、あちこちにマンホールの蓋があり、高い壁が上のほうでカーブを描き、ぽっかりあいた丸い穴に向かって垂直な梯子が伸びているので、都市の下を流れる下水道と見れば見えないこともない。

正面の高い出入り口から二代目針子と名乗る主人公?(山下平祐)が出てきて、まず、自分の母親は(お)針子、布を縫い足していろいろなものを創り上げる。自分も母の仕事を継ぎたいが許してくれないので、針ではなく、コンクリとセメントで同じことをしたい、といったことを言う。実際に母親とお針子の女性たちも出てきて、その動作を見ながら聞く自己紹介?だから、説明的な感じはしないが、論理はかなり強引である。
彼はどうやら都市造り、あるいは再建をしようとする現場監督らしい。工事人夫たちを指揮して工事をすすめているところへ、スコップを持った男(早川丈二)がまぎれこんできて、これは違う、前の町ではないと言う。と、あちこちにあった穴やマンホールから、「東西屋」をはじめいろんな人々が代わる代わる出てきて、いろんなことをする。あるいは彼らのさまざまをみせる。それぞれの孤独、といってしまえば簡単だろうが、彼らが一体何もので、その関係はほんとのところ何だったのかといったことは、脚本でも借りてじっくり読んでみないことには分からない。ただ池田祐佳理の見せ方の巧い演出にただあれよ、あれよと見ているばかりである。
おしまいに二代目針子がもう一度出てきて、客席に背を向け、役者全員に向かってタクトを振りかざしたところで、終わる。一人一人音色の違う役者たちが総力挙げてこの芝居を創ってきたという想いであろうし、これから力を合わせて新しい町を創っていこうという決意表明でもあった、にちがいない。タイトル、「フル・オーケストラ」の所以である。縫ったり修復したり纏めたり指揮する人、といえばそれにちがいはないが、それにしても二代目針子=現場監督=オーケストラの指揮者とはまた、強引としか言いようがない。最初と最後に、少年更生施設?の金網挟んで少年(樋口美友喜)が愛と憎しみをこめて少女(吉川貴子)の髪を強く引っ掴んで離さないシーンがあったから、この町づくり、ないしフル・オーケストラによる芝居づくりのすべてが樋口少年の遠くへの憧れ、夢ないしは欲望――だったかも知れない、という可能性が残る。
強引という言葉を2度も使ったが、たしかに作劇術のふつうの常識では考えられない構造である。二代目針子に主人公?とクエッション・マークをつけたのも、一見主人公にみえて、実はそれからのさまざまな出来事に関わってはいかず、古典的な意味で言う「ドラマ」の主人公にはならないからである。にもかかわらず終わりに、まるで「ドラマ」の主人公みたいに「発見」をし、再び指揮をとりはじめるのだから、不思議である。
が、前回の東京公演「アドウェントューラ」(2003)を見て、今回の「フル・オーケストラ」を見て、この不思議、この強引こそ樋口美友喜だと思った。「フル・オーケストラ」も古いカセットテープを聞こうとした「アドウェントューラ」も、基本的な構造として変わりはない。不良少年、少女が仮設されただけ複雑になったと言えようか。だが、その底の底に樋口の、“町”や“人々”あるいはそれとごっちゃになったそれらによって“創りだされる芝居”に対する強い希求がある。旧約聖書から逆に現代を眺めようとするのがいかにも体験不在の現代っ子らしいが、それがよくある日常のふとした想いなどに収斂せず、思いっきりでかく世界や日本を向こうにまわしているところも並みではない。彼女の祈りにも似た感受がどうしたら観るもののそれとなるか、Ugly ducklingに今一息の工夫をと望んでも、期待が大きすぎるということはない、だろう。                     (西村博子 2005.02.13 東京芸術劇場小ホール)

Posted by : February 18, 2005 07:44 AM | Trackback
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