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March 02, 2005

三条会『若草物語』

この原稿の小見出し、のようなもの

・原書『Little Women』原作『若草物語』と、上方歌舞伎の和事の近さ
・歌舞伎・バレエ・ミュージカルを、歌舞伎・バレエ・ミュージカルたらしめる可視・不可視のもの
・三条会に物語は可能か
・倫理と友情よ永遠なれ
・「発条ト」参加の音楽から浮かび上がった三条会の猛々しい魅力

 前作『ひかりごけ』(原作は、厳寒の知床沖でシケに遭い難破した徴用船の乗組員が、死んだ仲間の肉を食べて生き延びたという実際の食肉事件を題材にした武田泰淳の小説/戯曲)で、演出の関が排泄を描かなかったのはなぜだろう、と私は考えていた。どんな肉であれ、食べ続けていたらやっぱり出るものはあっただろうと思うし、なぜ人間は決を「出したがる」かという話でもあったからだ。そのような経緯ゆえに、今回の『若草物語』の「1幕 便所 便所が何より楽しい。」で、しめなわ状の三つ編みを頭の両脇にくっつけたスキンヘッドの男優四人が、横に並び中腰で生理現象に悶える様子で―便器に腰掛けているように見える―プレゼントのないクリスマスについて思いの丈を述べているのを観て、その勢揃いのような絵面に驚くよりまず『ひかりごけ』以来の答えがここにあったという爽快な気持ちになり、勝手に大いに納得した。もちろん、演出の意図とは何の関係もない。

 そんな余談はおくとして、原作『若草物語』の原書『Little Women』についてここで若干の前置きをする。なぜなら訳書『若草物語』のエピソードが意味するものと、日本でいうと江戸の天保期~明治中頃を生きたアメリカ人女性による、19世紀に出版された半自伝的小説だということだけでこの作品を裁断すると、その特性は見えてこないと思うからだ。
 『Little Women』は、もう使われない古い英語表現が四人の娘のバイオリズムに巧みに織り込まれ、婦女子独特の間合いで会話として交わされて日常生活の襞の内側を繰りながら、クリスマスの「めでたし」を目指して進んでいくという、惰力のようなじわーとした感動のある、いいかえれば大変芝居的な作品だ。まずテキストには当時の家庭という固定された場があり、場には定まった人物の関係性がある。一定の関係性があるということは、そこで暮らし周りの環境に育まれた身体が存在するということであり、従って登場人物の言葉というのは、どこの誰とも知らないがただそこにいる人の物言いではなく、固定された場によってつくられた身体から発せられる言葉となる。また、関係性を持続させる上で非効果的な言い方は鮮やかに回避される。さらに作品の言葉には話者の帰属する階級、頭の回転速度、アメリカ人度など人物像を描く筆が沢山用意されているはずだが、その微細は到底わからなくても、言葉が映画などで俳優の口をついて語られる時、今聞く英語の日常会話と異なる音の流れ・間によって綴られる感情や心理の波に乗ると、もらい泣きできたりする。『Little Women』がアメリカで繰り返し映画化されてきた理由の一つは、ここにあるのではないかと思う。
 
 このもらい泣きは上方歌舞伎の和事、人情ものを観てホロりとなるのに近い感覚だといえるだろう。近世の大坂、つまりある時代のある地域で記された言葉(義太夫訛り)が、型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体を通し音として目の前に立ち上る、その生々しく艶のある音の抑揚や運びから、言葉の意味を超えた人間の内面の起伏そのものをありありと感じ取ることによってもらい泣きが起こるのだ。登場人物の感情や心理を解読してもらい泣く、ということではない。エピソードの現実性や普遍性もとるにたらぬ問題である。
 松竹・上方歌舞伎塾の主任講師でもある歌舞伎役者、片岡秀太郎が「現代の男女の在り方と、歌舞伎のドラマに出てくる男女の心の機微とか義理人情というのはかけ離れていて、理解しにくい部分が多々あり」「それを演じてみせて感動を与えるには、まずセリフ」であると述べ、イントネーションに重きを置いて指導すると語っていることは、この私見の証左となるだろう。(1)
 原書と訳書共通の事柄では、物語の中で起きる出来事の意味が、結局ドリフ大爆笑の落ちで鳴るジングル「ブ・パ・パ・ブッ」とほぼ同等という整然としたドラマツルギーもまさに芝居で、『Little Women』『若草物語』と歌舞伎はこれらの点においてそもそも近い、と私は考えている。

 さて、三条会の『若草物語』に入ろう。
 「ちょっと歌舞伎を意識し」たと当日パンフにあるが、しかし「それに束縛されずに、「物語」とは何か考えてみよう」という言葉どおり、いわゆる「古典への批評と敬意を込めた引用」に眼目は置かれていなかったと思う。(2)後で詳しく述べるが、舞台で表現された歌舞伎らしきものは、どの狂言の何を引用したということではなく、また歌舞伎の他にもクラシック・バレエもどきに頭上へ両腕を上げ爪先立ちで身体を回転させる動きが出てきたり、それからミュージカルと呼ぶかはともかくとして、しばしば俳優は音楽にあわせて台詞を歌っていた。
 ここに挙げた歌舞伎・バレエ・ミュージカルは、いずれも特殊な身体言語と音楽を用いて表現される芸術であり、エンタテイメントでもある。こうした舞台を鑑賞する時、逐一「人はあんなふうじゃない」と考えながら観続ける客は、果たしてどのぐらいいるだろうか。ミュージカルではたまに、作品の骨格を音楽で表現することがわかりやすく提示されているのに「なぜ突然歌うのだ、普通に喋れと思う」、またバレエ・歌舞伎にも動物や「○○の精」など人間以外の役はあまたあるのだが「人間が猫や獅子になるのは苦手」という人を見る。ともあれバレエを観ながら「王子は着替えの途中みたいな格好で、飛びながら宴会に出てこない」「太股あらわな衣装で脚を上げたりブンブン回る姫などいなかっただろう」とか、はたまた歌舞伎にやってきて「男は女ではない」「弁天小僧→青砥藤綱のような、同一作品内での二役なんておかしい」などと、以上思いつくまま列記したが、こんな前座以下の発言は誰もしないはずだ。
 要するにこれらは、観ている内に視聴覚を通して客がなんとなく「そういう形式なのか」と了解する事項であり、何回か通っている客であればとうに了解済みのことであり、そしてバレエならバレエ、歌舞伎なら歌舞伎というように、それぞれをそれぞれたらしめている確固たる約束事だ。三条会の『若草物語』は、具体的な引用を目指したのではなく、こうした約束事を見せることにあったと思われる。胴体部の前後に役者を入れた馬、花道、正面向きの横長の舞台、引幕、勢揃い、役者の名前を狂言の中に出す、一人一役でない役者など、『若草物語』に出てきた歌舞伎を歌舞伎たらしめる約束事を一言でいえば、今やっているのは芝居ですよとはっきり明示することであろう。
 『若草物語』でたよりなくペラペラな、でも芝居の進行を支配する紅白の幕が上演途中にもかかわらず、「女」という役名の女優によって引かれ強制終了しようとする時、台詞を述べながら抗う俳優は、幕が芝居の時間を支配するという観客了解済みの約束事に抗っているのだ。引かれた幕の向こう側で『若草物語』を続けたのも、芝居の時間の主導権を引幕から俳優に置き換えることで、約束事を観客に意識させる意図があったからに相違ない。また白馬の胴体に入った二名の俳優の顔をわざわざ馬から出させ、蹄の音を言わせる演出には、俳優の全存在をかけて、芝居を芝居たらしめる約束事を逆説的に語らせる明快さがあった。

 芝居を芝居たらしめる可視のものが明示されると、今度はおのずと不可視だが、芝居を芝居たらしめるものもわかってくる。それは、先に述べた「ある時代のある地域で記された言葉」を蘇らせる、「型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体」を通した「音の抑揚と運び」だ。両者出揃ったところで、現代演劇の上演集団である三条会に立ち返ってみよう。観客了解の約束事や、特殊な言葉を蘇らせる型と口跡は?と考えると、彼らにはものの見事に何もない。四姉妹を演じるのが男優から女優へ、ある時はその逆へと変則的に入れ替わったり、数々の約束事を見せたのは、代々伝承されてきたものではなく三条会の演出・構成である。
 ところが三条会は訳語を超えて『Little Women』の、生活の襞を繰った時に聞こえてくる登場人物たちの笑い声や戸惑いや意地悪を舞台で実に生き生きと表した。すなわち19世紀アメリカの大変芝居的な作品に、現代の日本の俳優が血肉を与えたということである。「2幕 学校 異性のことだけを考えていた。」では、メグとジョーが舞踏会の招待を受けてから帰ってくるまでの騒動がメインに上演される。ケからハレまで併走して描かれ、見せ場のあるこの章を選んだセンスは、巧いと思わずにいられない。が、奉仕をいとわず姉メグとは違う慎ましさを持ちながら、大きく外れたところのある作者の分身=ジョーを、心底愉快に嫌味も迷いもなく現代の女優がやるのは難しくもあるだろう。
 大川潤子は期待に応えた。三条会の取り上げるテキストと現代とのいつものずれに加えて、今回は訳というもう一つのずれを、彼女は身体で受け止め扱わなければいけない。舞台上にある時、コントロールできなくなる瞬間はまったくないだろうと思わせる感動的な発声と身体や、すらりとした肢体でありながら相撲のしこ踏みのような動きをしてもぶれない重心のとり方などが、ジョーの愉快な表現に生かされていたのはもちろんのことだが、特筆すべきは彼女が、訳語を語っておりますというヨソの意識を常に持ち、外部に発していたことである。このヨソの意識と、期待どおりに失敗するジョーの外しっぷり双方を極限まで絞り出して表現することで、互いに「本」(大川は19世紀のアメリカ娘、ジョーはマナーのお手本)からどうしようもないずれがあるという共通項を引き出そうとする、力強い演技が生まれていた。大川に見られたこうした闊達な、困難に挑む力は、原作に即して考えるとまさにジョーの美点として描かれ、数々のエピソードで披露されるものである。この力があったからこそ、2幕は劇場内から笑いがもれる楽しい場面になり得たのだと思う。

 「3幕 友情 男女間なり国家なりを越えた友情なんて妄想かしら。」では、メグとブルーク先生の結婚話を軸に、おそらく「倫理」と「友情」という単語をモチーフにしたと思われるいくつかのイメージが展開される。前置きで「もう使われない古い英語」と書いたとおり、言葉は時代が変われば変わってしまうと思っていたが、先の大統領選や外交演説をかんがみるに、アイデンティティが変わらなければずっと使える言葉も確かにある、とこの幕を観てひっくり返された。と思いきや、打掛をまとった四姉妹お待ちかねの父が、ファーストフードの包みとコーラを引っさげ千鳥足で帰ってくる。姉妹の成長の様子を、半分眠った酔っ払いのたわ言として語るスーツ姿の父。その言葉は、やはり前置きで述べた『Little Women』における固定された場と関係性によってつくられた身体と言葉から、なんと隔たった得体の知れない軽さで劇空間に浮かんでいることだろう。食べ物やものの食べ方も、人の身体とともに在るものでありながら、言葉とは異なる次元で変化していることに気づく。ここで個人的に映画『スーパーサイズ・ミー』(3)を連想するやいなや、舞台ではネクタイを助六式に頭にしめた父が「あで、電気つけといて」とすべった声で、四姉妹の退場した下手に向かって言っていた。このように、わずかな時間の内に次々新しい『若草物語』が発芽し茎を伸ばしていく、そのどんな瞬間にもユーモアを確実に舞台へ刻む三条会の演出が、3幕ではひときわ輝いていた。
 粟津裕介(発条ト)参加の音楽は、この3幕で使用された「若草物語」が、三条会と音楽との関係に新しい可能性を開いたといえる。メロディは複雑ではない。しかし曲のシンコペーションが、大川・榊原の朗唱と横隊二列に並んだ身体の激しい動きを煽るのではなく、優しく外側から包みこむように用いられていて、これが三条会特有の劇空間の緊張を、たるませず和らげることに成功していた。だがその他は行儀のよさが耳に残る。三条会は『班女 卒塔婆小町』の「Tonight」(WSS)、『ひかりごけ』の「黒の舟歌」「カノン」、そして今回の「imagine」の選曲しかり、歌詞も曲調もメロディもリズムもひっくるめて楽曲としてもうこの世にある、曲の存在それ自体と真剣に対峙しつつ遊ぶところに本来の猛々しい魅力があると思う。演出家個人の薄暗い想い入れを一切練りこまず、また歌われている情景を再現するという関心などさらさらないはずのに、曲を視覚化してしまう関の才能は「imagine」で垣間見ることができた。(05.02.23 ホール椿)河内山シモオヌ

(1)関西の伝統芸能 いま・歴史・みらい
(2)三条会の『若草物語』は、春夏秋冬と移り変わる原作を、便所・学校・友情の3幕構成に仕立ててる。俳優が原作の時間の流れの上に乗るのではなく、彼ら自身によって新しい時間の流れをつくり、舞台上の時空間を重層・立体的に広げていくことで、現代に生きる俳優自身の言葉として台詞を語ろうとする三条会の変わらぬ試み(参照レビュー:『班女 卒塔婆小町』)は、役者が物語の流れを止めて見得を切り見せ場を強調することで、具体的な人物の演技から抽象・様式的な表現に飛躍する(この時、舞台上の時空間も具象から抽象へ飛ぶ)歌舞伎の舞台と似ている。
(3)『スーパーサイズ・ミー』思想で身体がふくれた監督のとはタッチの異なる、ユーモアの機能したドキュメンタリー映画。店員からスーパーサイズを勧められたら断らずにファーストフードを食べ続けるとどうなるか、健康な監督モーガン・スパーロック(非ベジタリアン)が試す。本土各所でまともそうな肉魚や野菜や果物を揃えるのは、大変な時間を必要としたり金銭的負担がかかりすぎるのではないかというホラーをアメリカに見る。「マックのロナルド」が愛される理由や学校給食の実態(問題の多い搬入業者の社名がソデクソという図ったような名前)の他、特に戯画化されていないのに限りなくナチュラル・ボーン・マフィアな加工食品業界ロビイストの活躍も捉える。

Posted by : March 2, 2005 08:20 AM | Trackback