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September 18, 2005

#0. 劇評と劇(場)の概念について

未来社のPR誌『未来』の2005年9月号が、舞台芸術関連の記事を二本載せている。そこから、このあいだの『ユリイカ』「小劇場」特集、についても触れつつ、劇と劇場、の概念についてちょっと考えてみたい。

これから執筆者としてこのサイトに参加するにあたり、まずはこういう形で投稿を始めてみようと思った。

まずは、『未来』の2005年9月号から見てみよう(ちなみに、大きめの書店や人文書に力を入れている書店などでは、『未来』を無料で配布している場合もある。公立図書館などに所蔵している場合もある)。

現在日本滞在中のハンス=ティース・レーマン氏による著書『ポストドラマ演劇』への書評として書かれた横山義志氏の「演劇の低俗さについて」は、それ自身独立した論考としても読める。横山氏は、件の邦訳でも「演劇」と訳されている “theater” という語が「劇場」も意味するものであることに触れつつ、ギリシャ語の語源にも遡りながら、歌や踊りを排除した「演劇」が成立した系譜を解きほぐし、身体を見る経験の場としての「シアター」を捉えなおそうとしている。

もうひとつは、岩崎稔氏による、「コレオグラーフ、ウヴェ・ショルツの死」で、普通なら振付家と訳される“choreographer”という語を、ギリシャ語の語源にも遡りながら、コロスの配置によって創作する芸術家と捉えなおし、その演劇的力を原初へのまなざしにおいて再評価することから語り起こして、日本には十分に紹介されてはいない(私も不勉強ながら知らなかった)ウヴェ・ショルツという芸術家の生涯を簡潔に描いている。

ともかく、すでに日本に定着している、劇、演劇、劇場、といった語がそのような訳語として用いられ定着したいきさつを見直すところから始めないと、日本では「小劇場」とか「コンテンポラリーダンス」とかいった言葉で語られてもいる舞台芸術の今日性を捉えそこなうことになりかねないという問題設定が、ここから浮かび上がってくるようだ。

そこで思い起こすのは『ユリイカ』2005年7月号の「小劇場」特集のこと。

たとえば「この劇団がすごい’05 」としてまとめられているコーナーでは、ダンスカンパニーやダンサーも紹介されていたりした。この一見でたらめな「劇団」という言葉の乱用を見て、「劇団・手塚夏子」とか言って笑ってすましているだけはもったいないだろう。

ちょっと立ち止まって考えてみれば、この紙面構成は、本来ならば「小劇場」とか「劇団」という言葉で括れなかったはずの事柄をそこに投げ込み、あえてカテゴリーを誤用し、概念をきしませてみせることで、舞台をめぐる言葉が、日本の舞台芸術の動向に追いついていない現状を、そのまま露呈するパフォーマンスになっていた、と言えるのかもしれない。

と、ここまで書いて、もう一度立ち止まってみる必要があることにあとから気がついた。この晩夏、日本のマスメディアで「劇場」という言葉がどのように隠喩的に用いられていたかについても、注意を怠るべきではなかったかもしれない・・・・。

さて、今まで「はてなダイアリー・白鳥のめがね」の記事をこちらで度々紹介していただいたわけだが、このたび、Wonderlandの執筆者として、直接投稿させていただくことになった。

これから、個々の舞台作品に触れた経験にも折々言及しつつ、劇場という場所の成り立ちを問い返すことを目標に置きながら、時評的な文章を投稿していきたいと思う。公演評+αといった感じで、舞台を見る文脈が新しく開かれることを願いながら、「劇評」の射程をちょっとでも広げようと試みつつ、書いてみようと思っている。今回の記事は、いわばその問い直しにむけた序論であり導入である。

Posted by : September 18, 2005 01:10 PM | Trackback
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