11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

March 25, 2005

若手演出家コンクール2005

 日本演出者協会主催の「若手演出家コンクール2005」最終審査が行われ、3月8日の公開審査で最優秀賞に佐野崇匡(東京ミルクホール)と広田淳一(ひょっとこ乱舞)の2人、観客賞に左藤慶(WANDELUNG)が選ばれました。
 早稲田大学の学生サークル主催「Review-lution! on-line」サイトが、この選考結果に異議を申し立てています。「演出家協会に物申す」(by 外山タカキ)と「納得できませんね。」(東京ミルクホール 劇評 by 井上晋平)の2本。コメントにも長文の評が載っています。公開審査会で各委員がそれぞれどう言ったかなど、詳細な紹介があれば分かりやすいのですが、演出者協会のwebサイトにも選考経過は載っていないし、「Review-lution! on-line」の東京ミルクホール公演評だけでは状況をつかみがたいのも事実です。もうすこし読む人の判断材料があると助かりますね。

 日本演出者協会のwebサイトには残念ながら、最終的に審査委員はだれか、また審査での発言なども載っていません。昨年の選考委員は次の通りでした。
瓜生正美(青年劇場)/青井陽治(カンパニー・ワン)/岩淵達治(フリー)/加藤ちか(舞台美術家)/七字英輔(演劇評論家)/福田善之(日本演出者協会理事長、フリー)/森井睦(ピープル・シアター)/宮田慶子(青年座)/由布木一平(埼芸)/流山児祥(流山児★事務所)

最終審査に残った参加者は次の通りです。 (50音順)

・小松幸作(東京都) 海市(Kaishi)ー工房『アゲハ』
・左藤慶(東京都) WANDELUNG(ワンデルング) vol 6.9 petitwande『オハコ△▼ロック♪』
・佐野崇匡(東京都) 東京ミルクホール『大連☆純愛カーニバル?ドキッ、春だ!祭りだ!若手演出家コンクールだ!新入学おめでとう特別ディレクターズカット総集編2005~』
・清水友陽(北海道) 清水企画『隣の王様』
・白坂英晃(東京都) はらぺこペンギン『晩餐会』
・広田淳一(東京都) ひょっとこ乱舞『カリギュラ』

Posted by KITAJIMA takashi : 09:03 PM | Comments (0) | Trackback

March 24, 2005

劇団無限蒸気社「BARBER OHCHESTRA」

 劇団無限蒸気社は「質の高い芸術表現を目指し地域性を生かした特色溢れる自作台本を上演し続ける事を目的に1996年愛媛県において創立」したそうです。
今年の東京芸術祭リージョナルシアター・シリーズのトップを切って、東京・池袋の東京芸術劇場小ホールで「BARBER OHCHESTRA」公演を開きました(3月2日-3日)。
 この公演に関して、葛西李奈さんからレビューをいただきました。以下、全文です。

◎日常のリアリティと非日常の訴え それぞれの言葉の意図は?

 劇場に入り、目前に広がるセットに思わず小さく声をあげる。豪華なセットに溜め息、というよりは、奥行きを出すために左右に置かれた数枚のつい立の配色の使い方によるものか、その厳粛な空気に瞬時に入り込んだ驚きを隠し切れなかった、と言ったほうが良いかもしれない。客入れ音楽も一切無し、である。

 パンフレットから、今回の公演「BARBER ORCHESTRA」のあらすじを引用する。

 日露戦争からちょうど百年。日本で一番初めにロシア人捕虜が収容された街。今も彼らの魂が眠るその地から、物語は始まる。街中のとある理容店。そこに小さな小包が届く。差出の日付は百年前。そえられた手紙にはこう書かれていた。
『おばあちゃんです。もうすぐ生まれます』
 歴史の封が開けられる。理容師たちのざわめきはオーケストラの響きに、黒髪の囁きはバイオリンの音色へ。「彼女」をめぐって闇の楽団が動き始める。高らかに鳴るは忘れられた交響曲。イースター(復活祭)の夜。最終楽章は成るや否や。

 無限蒸気社は、1996年に愛媛県松山市他の有志により創立された「半抽象表現」をコンセプトとして掲げている劇団である。「半抽象表現」とは、日常と非日常のはざまを描き、そこから見える真実性を舞台に乗せる表現方法、つまりは「夢の具現化」を試みるような方法論であるとのこと。また、愛媛特有の神事や歴史を表現の中に取り入れており、他には無い、地域に根ざした芝居づくりを目指しているそうだ。コンテンポラリーダンスなど、言葉と表現の融合なども試みとして行っているとあって、今回はその在り方の難しさと奥深さを、観客そして表現者に投げかけた公演であったのではないだろうか。

 物語は観客に背を向けた男の独白で始まる。早口で言葉を並べ立てると、すぐに別の男2人が現れる。2人は、舞台に背を向けていた男に新聞紙をかぶせる。3人の男の後ろからもう1人の男が現れ、男2人は呼吸を整え始める。が、瞬時にしてその空間は壊れる。男達は全員何かに引っ張られるようにして舞台から消える。次に現れるのは少年の匂いを漂わせる女。音に合わせて体をくねらせる。その動きは機械的であり、かつ操り人形のようだ。つい立ての脇からすっと現れる机に乗った人形の生首。女はゆっくりと、舞台奥の暗闇に消えていく。私は寺山修司の戯曲世界を思い出す。視覚的・聴覚的に訴える力が非常に大きい舞台だ。

 ところが、この後理容室の場面が出てきて、生首がカット見習い練習用のものだと観客に知れたところから、舞台は「物語性」を持ち始める。あらすじは上に引用させていただいたものを記載したが、要するに過去と現在の繋がりが描かれるのである。

 しかし、「物語性」は瞬時に観客の身に委ねられ、舞台では幻想世界が展開する。そしてまた、物語の展開は舞台上に返される。つい立てを利用し、左右自在に移動することによって空間を駆使しているのは興味を惹かれるが、私はこの抽象表現とリアリティの差がはっきりしないことで集中力が遮られてしまい、物語を追うことが出来なくなってしまった。途中で新聞紙が大量に落ちてくる演出があったが、「美しい」と感じられるばかりで、意図が読みきれず、ある種のもどかしさと悔しさを拭い去ることが出来ないまま、終演後、会場を後にした。

 開演前、案内で「半抽象表現」を表現方法として用いていると知って「なるほど」と思ったが、だとすると私のように「物語性」を追ってしまう観客には厳しい一面があるのではないかと感じられた。その一番の問題はこちら側に「言葉を発する責任」の重さが投げられてしまっているように感じられることだ。放たれる言葉が、こちら側に思考を帯びさせてしまう言葉なのである。感覚の流れに放り出されることは心地良いが、それに思考が伴うと何がやりたいのかこちらに伝わらず、息苦しくなってしまい、舞台を見る目に素直になれなくなってしまう。もし、これが劇団側が確信犯でやっていることだとしたらまた違ってくるが、もしそうではないのだとしたらもっと「日常のリアリティ」を作り込み、提示して欲しいと思ってしまった。美術や音響のセンスが高い故に、このように感じる気持ちが強くなっているのかもしれない。どちらにせよ、非常に勿体無いと思った。

 ただ、これから先、この劇団が「半抽象表現」を追求していくことには興味がある。このバランスの取り方は難しい。「日常のリアリティと非日常の訴え」を確立するまでの劇団の成長が、今後の課題となってくるところではないだろうか。
(葛西李奈 2005.3.3 観劇)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:54 PM | Comments (0) | Trackback

March 21, 2005

ファミリア・プロダクション「ジュヌン 狂気」

 実在の若い統合失調症患者と女性精神療法医の15年に渡る対話の記録を題材に、家族の崩壊、貧困と虐待、アラブ社会の敗北、宗教的抑圧など、さまざまな社会的重圧によって押しつぶされたチュニジアの若者の出口なき絶望と屈折、内面の崩壊と再構築を見事に描き切る。社会と狂気の関係に深く切り込んだ問題作-。東京国際芸術祭(TIF)のwebサイトでこう紹介されているチュニジアの劇団ファミリア・プロダクションによる公演「ジュヌン . 狂気」が東京・パークタワーホールで開かれました(3 月18日-20日)。
 TIFのwebサイトに設けられた「劇評通信」ページにも早速、河野孝 ( 演劇ジャーナリスト )、エグリントンみか ( 英演劇・演劇批評 )の2人によるレビューが掲載されています。作品の内容、社会的背景、演劇の特質などがそれぞれ力を込めて紹介されています。
 同サイトの公演情報プレス資料も貴重な紹介だと思います。興味のある方はご一読ください。

追記(3.23, 29)
 曽田修司さんの「 ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。」がこの公演をみて次のように書き記しています。

終演後、某放送局最高幹部の人が、「私は絶対に確信したわ」という口調で、「(この舞台は)モノが違うわね」と宣言していた。そうだったのだ。「モノが違う」。
つまり、舞台の構成力や、表現の力強さがケタはずれなのだ。これほどまでに妥協を排した舞台を作り出せる精神というものに、日本ではなかなか出会えない。
・・・ということを、見終わったあとに自分の中で何度も確認し、反芻するような、そう、そうせざると得ないような舞台である。あたかも、チェスのチャンピオンの試合を見ているような、理詰めの、しかし、自分の存在をあらわにするような、神経がヒリヒリするのが明らかに見える、すべてがあらわな舞台なのである。

また「世界があらかじめ毀れてしまっていることに知らず知らず気がつかされてしまったかのような、とんでもない舞台」とも述べています。

 「福岡演劇の今」サイトを主宰する薙野信喜さんは「言葉の力が、迫ってくる」とのタイトルで取り上げています。「現実をギリギリまで見つめ顕わにしていて、暗くて救いのないという内容だが、この舞台を観ていると、表現することで現実が客観化され、救いのない現実が浄化されるようにさえ感じられた」とした上で、次のように書いています。

ヌンを嫌いつづけた母親をはじめとする家族の心の中の”おり”が言葉となって出てくる(略)。独白が多い中で、兄が刑務所から戻ってくる海辺のシーンや、家族の食事における皿のやりとりのような象徴的なシーンが織り込まれ、独白シーンとガッチリと繋がれるというみごとな構成だ。

 「Somethig So Right」も「もっともこころに残ったのは、言葉の圧倒的な強度である」と書きとめ、具体的にその場面を提示、分析しています。

 しかし、この芝居を評価するレビューばかりではありません。「しばいにっき」サイトはまったく逆の見立てです

">(ファーデル・ジャイビは)フランス語圏演劇の二流(三流にはあらず)演出家というのが実際のところだろう。見事だが空虚なミザンセーヌ、思わせぶりな沈黙やポーズ、子供のゲームに打ち興じる俳優たち、音楽に合わせて振り付けられた俳優の動きなどはどこかで見たことのあるようなものばかり。光と音がシンクロする中で俳優たちがポーズを決め、短い言葉がテンポよく交わされる幕切れは80年代日本の小劇場演劇のフラッシュバックかと思ってしまった。

 複数の知人も同じような感想を漏らしていたので、これもまた有力な見方だと思います。
 それにしても、同じステージが多様な見方を可能にする。その不可思議なおもしろさを味わうこのごろです。
(注)ぼくの感想は、別建て掲載に回します。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:21 PM | Comments (3) | Trackback

March 20, 2005

アルカサバ・シアター「壁―占領下の物語II」

 パレスチナの状況を演劇で発信するアルカサバ・シアターが昨年の「アライブ・フロム・パレスチナ―占領下の物語」公演に続き、今年の東京国際芸術祭に新作「壁-占領下の物語II」で登場しました(3月10-15日、東京・新宿のパークタワーホール)。今回はNPO法人アートネットワーク・ジャパンとの国際共同制作。舞台美術は日本のメディアアーチスト椿昇が担当し、自治区を貫いて建設されている「壁」を舞台に組み上げ、圧倒的な迫力でせまります。
 「東京国際芸術祭(TIF)」のwebサイトに「劇評通信」ページが設けられ、河野孝 ( 演劇ジャーナリスト )とエグリントンみか ( 英演劇・演劇批評 )の2人がそれぞれ「 壁-占領下の物語II 」のレビューを掲載しています。主催団体がレビューを掲載するという試みは、公演の意義を広く社会に定着させたいという熱意の表れかもしれません。
 またこのwebサイトは公演紹介ページも充実し、「プレス資料」(pdfファイル)は作品の内容や背景を詳細に紹介しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 09:48 PM | Comments (0) | Trackback
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