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August 11, 2005

かもねぎショット「ロシアと20人の女たち」

 かもねぎショットは1989年に「夢のあるうち今のうち」で旗上げしたはずですから、もう16年。いまも活躍している多田慶子さん、高見亮子さんのほか、木内里美さんの女優3人で結成されました。旗揚げ公演は見逃しましたが、その後の「婦人ジャンプ ~ああ、この人生の並木路」「東京の道をゆくと」「婦人ジャンプ2 ~健康を祝って~」など90-91年の作品を立て続けにみて、心躍るときめきを体験しました。あとは知る人ぞ知るの大活躍です。 最新公演「ロシアと20人の女たち」が東京・下北沢のザ・スズナリで開かれました(8月3日-10日)。

 しゃれたデザインのブログサイト「Club Silencio」は「旅行でやってきたと思しき女たちがなぜかロシアの大地をさまよい歩き、『知っているつもり』のロシアと『思い込み』のロシアを演じる」と述べ、さらに次のように報告しています。

ロシアに対する断片的な知識がパッチワークのようにつなぎ合わされて次々に演じられる。罪と罰、桜の園、三人姉妹、オネーギン。そしてエカテリーナ2世、アナスタシア皇女、レーニン、テレシコワ。果てはロシアの葬儀、暖炉、馬車。うろ覚えの知識の心許なさといかがわしさがプンプンしてとても楽しい。今春に上演した「ラプンツェルたち~うろ覚えの童話集~」とほぼ同一の手法で、作者の高見亮子さんはおいしい鉱脈を掘り当てたようだ。奇怪なダンスもいい。注目していた中川安奈さんはイメージを逆手に取った演出が効いて笠久美さんとの主従で見所が多い。演出も兼ねる高見さんはやはりただ者ではない。悪だくみの才能にも溢れている。

なるほど、なるほど。
しのぶの演劇レビュー」は「ウィットに富んだ大人の女性の気軽な娯楽作品」との印象を受けたようです。

結成メンバーだった木内里美さんの消息を訪ね回ったら、いま熊本を拠点にひとり芝居「ばあちゃん」シリーズに打ち込んでいて、昨年10月には九州のテレビ番組にも取り上げられたそうです。当時のファンとして、うれしい限りです。

[上演記録]
かもねぎショット「ロシアと20の人女たち」
下北沢 ザ・スズナリ(8月3日-10日)

作・演出 ●高見亮子
出演 ● 多田慶子 / 小山萌子 / 吉村恵美子 / 笠久美(PROJECT ジョカ) / 林知恵子 / 杉山明子 / 池田素子 (ダンサー) / 公門美佳 (ダンサー)
栗栖千尋 / 高見亮子
(以上2名かもねぎショット)
中川安奈

美術 ● 加藤ちか
照明 ● 中川隆一
音響 ● 藤田赤目
衣裳 ● 高橋 佳
舞台監督 ● 北村雅則
票件管理 ● 高橋衿子
チラシの絵 ● 永山裕子
宣伝美術 ● 西山昭彦
制作 ● かもねぎショット制作部
主催 ● かもねぎショット

Posted by KITAJIMA takashi : 03:18 PM | Comments (0) | Trackback

August 08, 2005

大橋可也&ダンサーズ「サクリファイス」

 「ハードコアダンス」を掲げる大橋可也&ダンサーズの公演をみてきました(神楽坂die pratze、8月2日)。大橋さんの名前は「かくや」と読むそうです。昨年の「あなたがここにいてほしい」公演をみた舞踏評論家の石井達朗さんの推薦で、今年の「die pratze dance festival ダンスがみたい!7」に出場することになりました。「あなたがここにいてほしい」というと、思い浮かべるのはPink Floyd のアルバム「WISH YOU WERE HERE」ですが、この公演は未見なのでコンセプトなどで関連があったかどうか分かりません。石井さんの推薦文には「男(大橋)と女(ミウミウ)の間にある永遠の溝としての身体性が、スカンクのノイズ音により幾重にも増幅された。ソリッドな身体が加速度的に追い込んでいったものは、自虐とも加虐ともつかないエロスである」とあります。期待と好奇心で足を運びました。

 開演前、客席から普段着の男女数人か舞台奥のパイプいすに腰掛け、客席に向かって横一線に並んでいます。主宰の大橋さんが「これから始めます」と言ってステージを去ると、そのうちの女性2人が踊り始めます。1人は狐(犬?)面を着け、指を鳴らしながら舞台の前の方を横歩きで往復したり、四周を素早く動いたり。ベビードールを着た女性はときに調子っぱずれで歌います。この歌は「白鳥のめがね」サイトによると「cocco の『強く儚い者たち』だそうです。
 次はバットを振り回す女性が登場します。床に大の字に寝そべったりしていると、突然教育改革を熱っぽく論じるテレビ番組の音声だけが流れてきます。バット女はその音声にほとんど関わりなく、バットを振り、動き回ります。
 3番目は…記憶がぼやけたので、「ブロググビグビ」サイトの助けを借りると、「ラムネ菓子を並べてつくったテリトリーの中で足を拘束されているキャミソールの少女と、客席や舞台後方をめがけて暴れる男の子」。最後に柄物のサマーシャツにハーフパンツ、頭に野球帽(だったでしょうか?)を乗っけたオッさん風の男性が舞台中央に登場しますが、少しの間ギクシャクと手足を動かして、そそくさと引き揚げてしまします。

 「白鳥のめがね」サイトのyanoz さんは最初のシーンに関して「二人出ていてもデュオというわけでもなく、平行して進行するその隔たっている印象が心に残る」と述べています。「ブロググビグビ」サイトの伊藤亜紗さんは「大橋可也の舞台は、二つの人物中心がディスコミュニケーションなまま並存している」「舞台上におかれた二つの要素は、並置されてディスコミュニケーションの関係にあるけれど、お互いがお互いにとっての「ノイズ」になりながら片方のみに集中することを妨げ、観客を煩わす」「煩わし合いは却って二人をそれぞれの一点へむけて閉じさせる」と指摘しています。

 今回の公演は前回の「ソリッドな身体が加速度的に追い込んでいった」とか「自虐とも加虐ともつかないエロス」というイメージとはかなり離れ、「かみ合わないけどバラバラとも言えない」「バラバラだけれども、よくどこかで見かける」という、ぼんやりした既視感や希薄な現実感が澱のように残りました。
 公演は1日だけ。主催サイドの都合だったようですが、会場は満杯の熱気でした。

[上演記録]
大橋可也&ダンサーズ「サクリファイス」
麻布die pratze (8月2日)
【出演】
ミウミウ、江夏令奈、関かおり、垣内友香里、皆木正純、ロマンス小林
【振付】
大橋可也
【音楽】
スカンク(MEXI)
【照明】
遠藤清敏
【舞台監督】
十亀脩之介

Posted by KITAJIMA takashi : 05:19 PM | Comments (0) | Trackback

August 06, 2005

ク・ナウカ「王女メデイア」

 ク・ナウカの「王女メデイア」 は1999年に初演されて以来、国内はもとより海外8カ国15都市で上演を重ねてきたク・ナウカの代表作です。 古代ギリシアの英雄イアソンとその妻メデイアをめぐって繰り広げられる壮大な「子殺し」の悲劇を、明治時代の日本に舞台を移し、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として再現します。 セリフを語るのはすべて男。その言葉に操られるように動く女たち。 ク・ナウカが15年間追求してきた語りと動きを分ける‘二人一役’の手法がストーリーと密接にからみ合い、 やがて言葉の支配をくつがえすかのように女たちの反乱が始まります――。
 ク・ナウカのWebサイトに載った一文が、「王女メデイア」の簡潔な導入になっています。有力劇団の代表作だけに、力のこもったレビューをいくつも読むことができました。
 今回はCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)の 皆川知子さんのレビューを取り上げます。

 古代ギリシャの世界が、どのように明治時代の日本に移し替えられているのだろうか。皆川さんは次のように簡潔に描写します。

文明開化の情景を描いた布が、方形の舞台を取り囲むように立てかけられている。布が取り払われると、和装の女たちが、頭を袋ですっぽり覆い、自らの顔写真を両手に抱えて並んでいる。そこへ黒い法服を着た男たちが現れ、女たちの品定めを始める。宴会の余興だろうか。男たちの語りに合わせて、女たちが人形のように無言・無表情で演じ、劇中劇が繰り広げられるのだ。メデイアは、朝鮮の民族服チマチョゴリを身につけ、その上から和柄の着物を羽織る。ここでは、ギリシャとギリシャによって支配されたメデイアの祖国コルキスの関係が、明治時代の日本と韓国の関係へと置き換えられている。 ク・ナウカ『王女メデイア』で、演出家はギリシャ時代の法治主義、ロゴス、男性原理社会を、近代化に向けて邁進する明治の日本に見いだす。

 「演出ノート」からではなく、目の前の舞台に何がありどう見えどう聞こえるかということから書き出している手法にきっぱりとした潔さを感じます。
 会場となった東京国立博物館の本館特別5室は天井がとても高く、残響が長くて声が聞き取りにくいとの指摘がかなりありました。しかしその聞き取りにくい有様自体がどう見え、どう聞こえるかと皆川さんは続けます。

(上演会場は)高い天井をもつ空間構造上、残響が長い。このため、男性のコロス(語り手)たちが同時に語ると、ことばが反響し合い、大きな音の塊となって空間を支配する。ひとつひとつのことばは聞き取りにくい。何よりことばを重んじるギリシャ悲劇の上演においてはあるまじき現象かもしれない。しかし見方を変えれば、あたりを圧するように包み込む、獏としたことばの集合体は、近代化のために弱者や不合理な存在を圧殺してきた日本の姿とも重なってくる。

 いくつかのレビューで言及されている「子殺し」の場面も、「子殺しの場面が、物語を転覆させる契機として描き出されている」とした上で、その前後の舞台上で生起した動きを具体的に伝えて次のように提示されます。

自分を裏切った夫への復讐のため、メデイアは逃げまどう我が子に向かい、刃物をふりおろそうとする。それまで阿部一徳の猛々しい声によって突き動かされてきた美加理のメデイアは、刃物をふりおろす瞬間、初めて彼女自身の、低く短い叫び声を発する。虐げられ、裏切られてきた者の恨みの声、そしてことばを奪い返さんとする逆襲の声である。

なるほど、美加理が「初めて彼女自身の、低く短い叫び声を発する」意味が、その決定的に重要な意味が、短い文章に濃縮されているように受け取れます。そこに細部を見逃さない確かな目を感じました。指摘はさらに続きます。

そしてメデイアはしずかに刃物を口にくわえなおすと、優しく子どもを引き寄せる。子どもが母親の涙を拭くしぐさをした直後、彼女は口にくわえた刃物を、子どもの腹に突き刺す。叫び声をあげた後で、刃物をくわえて自らの口を再び封じた行為は、子殺しという罪と引き換えに、ことばを奪われる立場を受け入れる女の悲しき覚悟をしめす。さらにメデイアが象徴する、近代化によって虐げられてきた国の諦念ともみえる。しかしこの後、語り手(男)と動き手(女)の関係が転倒する。動く人形、あるいは裏方の演奏者に徹していた女たちが、赤いスリップドレス一枚になり、つぎつぎと男たちに刃物を突き立てていったのである。

と言う形で、レビューをほとんど引用してしまうのはマナーを外しているかもしませんが、目に見えたこと、耳に伝わってきたこと、肌で感じたことから具体的に構成するという皆川さんの劇評作法を伝えたかったのです。あとは原文(全文)をご覧ください。彼女の分析や指摘に違和を感じる部分もあるかもしれません。ぼくも異論のあることを隠しませんが、しかし繰り返しますが、きっぱりとした潔さを感じました。


[上演記録]
ク・ナウカ王女メデイア
原作: エウリピデス
台本・演出: 宮城聰

東京国立博物館 本館特別5室
2005年7月19日-8月1日

出演:
美加理・阿部一徳・吉植荘一郎・中野真希・大高浩一・野原有未
萩原ほたか・本多麻紀・江口麻琴・片岡佐知子・諏訪智美
桜内結う・たきいみき・藤本康宏・牧野隆二・池田真紀子
大道無門優也・黒須幸絵

Posted by KITAJIMA takashi : 04:46 PM | Comments (2) | Trackback

August 05, 2005

MIKUNI YANAIHARA Project「3 年2 組」(続)

 ニブロールの矢内原美邦によるプロデュース公演「3年2組」に関して、「中西理の大阪日記」サイトが鋭い指摘をしています。身体と言葉の関係が取り上げられる舞台がこれから多くなりそうですが、中西さんの指摘はこの問題を考えるひとつの勘所をとらえているように思われます。

 ダンス系の舞台でダンサーが言葉を話すという設定になったとき、動いている身体と馴染まずに言葉だけ浮き上がったり、逆に言葉が明瞭でも身体が弛緩したりする(つまり時間が淀む)場面に出くわすことが少なくありません。中西さんはそのアポリアを「矢内原は『3年2組』では、会話体としての台詞を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせることに成功し、それが音楽や映像とシンクロしていくことで、高揚感が持続する舞台を作りあげた」とみています。
 少し長い引用になりますが、矢内原の「振付」の特長を絡めて、この点をさらに次のように展開しています。

ここで興味深いのは矢内原の振付において特徴的なことのひとつにパフォーマー、ダンサーの動きをダンサーがその身体能力でキャッチアップできる限界ぎりぎり、あるいは限界を超えた速さで動かし、そうすることで既存のダンステクニックではコントロールできないエッジのようなものを意図的に作り出すというのがあるが、この作品ではその方法論を身体の動きだけでなくて、台詞のフレージングにも応用しようと試みていることで、そういう意味で言えばここでの台詞の発話に対する演出においてダンスの振付と同じことを目指しているように思われたことだ。
 ダンスの振付と一応、書いたけれども、これは通常「振付」と考えられているある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していくというのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の面白さで、もちろん彼女の場合にも最初の段階としてはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるのだけれど、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく*1のに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだが、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに狙いがあるのじゃないかと思う。

 この「ノイズ的身体」というキーワードは、これから重要になるのではないでしょうか。中西さんはここから、チェルフィッチュ=岡田利規の方法論などに言及していきます。これ以降は、中西さんの原文をご覧ください。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:28 PM | Comments (0) | Trackback
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