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March 07, 2005

阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」

 長のご無沙汰でした。昨年末からWonderlandサイト編集がほとんど手つかずでしたが、やっと復帰の条件が整いました。また非力を顧みずあちこち歩き回ります。よろしくお願いします。

 さて、阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」の東京公演(2月17日-3月2日、下北沢・本多劇場)が終わり、大阪、札幌、仙台、 名古屋、福岡、広島公演が3月末まで続きます。楽しみにしている方もいらっしゃると思いますが、東京公演は好評だったようです。「しのぶの演劇レビュー」や「某日観劇録」など多くのサイトが取り上げていますが、今回紹介するのは青木理恵さんのレビューです。 今春から社会人だそうです。これからもどんどん書いてほしいですね。以下、全文です。

◎気持ちが悪いほど人間らしい 阿佐ヶ谷スパイダース『悪魔の唄』

捕らわれ続けるのは簡単である。
難しいのは、一度何かに捕らわれてしまったところからどうやって生きていくのか、なのだ。

ある地方の一軒家に引っ越してきた、愛子(伊勢志摩)と壱朗(吉田鋼太郎)の夫婦。
その家に、「探し物があるのだ」とサヤ(小島聖)と眞(長塚圭史)の夫婦が突然訪問してくる。

愛子は精神的に病んでいる。そのきっかけは、過去の壱朗の浮気が原因だった。
サヤは眞から逃げ回っている。本当に愛する人が他にいるからだ。
思い通りにならない妻に戸惑い、追い詰めてしまったり、無理に優しくつとめようと空回りしたりする夫たち。

そんなさなかに、床下から人格を持ったゾンビが現れる。
戦争中に散ってしまった鏡石二等兵(伊達暁)、平山二等兵(山内圭哉)、立花伍長(中山祐一朗)の三人である。
米国への憎しみが晴れない彼等は、自分たちの手で再び米国を倒そうと立ち上がる。
三人に順応し、愛子は自分も兵の一員だと思い込む。
壱朗は、愛子を壱朗から引き離そうとやってきた愛子の弟、朝倉紀行(池田鉄洋)の力も借りて、何とか愛子を現実に引き戻そうとする。

また、サヤの想い人とは立花伍長であると分かる。
つまり、サヤと眞も死してなお、思いを残して現世に留まっている者たちだったのである。
思いを伝えたいサヤと、それを引き止めようとする眞。

一人一人の思いは、全て別の方向を向いている。誰もが、自分の思いのみ達成されれば良いと願う。

人間は強い思いを持った弱い生き物だ。
しかしその強さとは関わりなく、思いは必ずしも成し遂げられるとは限らない。
そうなった時、思いに強く捕らわれているほど、自らの身は破滅へと向かう可能性が高いということを、人はすぐに忘れたがる。
それを忘れてひた走る登場人物たちの、最期は。空白という言葉が、一番似合っていた。

人は強い意志と混迷との狭間で、いつも苛まれる。
「こうしたい」と「どうしたら良いか分からない」は、矛盾した感情のはずなのに
どちらも強く主張をし、互いに一歩も譲らない。実は矛盾自体が、人間らしさなのかもしれない。

阿佐ヶ谷スパイダースの作品は、気持ちが悪いほど人間らしい。
描かれる世界はファンタジーさえ感じるものなのに、そこに内包されている人々の精神的な動きは他人事には感じられない。
作品を通しながら、「私自身も矛盾した思考を持っているのだ」と見せ付けられる。

この劇団を初めて見たのは、前回公演『はたらくおとこ』である。
日本一まずいりんごを作ろうとして倒産した会社に、いつまでも執着し続ける社員や、農業経営者たちの閉塞的な人間関係を軸にした物語である。

お金を手に入れようと、危険な生物兵器の入った荷物を運ぶ仕事に手を出す。
しかし、事故により生物兵器が外に漏れてしまう。
ラストで一人、また一人と死んでいく中、まだ生きている者が、生物兵器におかされきったりんごを次々とほおばり出す。
自らの正当性を、最期まで否定したくない。私は間違っていないのだ、と。
そこまで抗い続ける姿は、もはや崇高ですらあった。

「人間の持つ矛盾の威力」という点に関しては、前回の方が上だったかもしれない。
けれど、「人間の持つ純粋な思いの強さ」という点に関しては、今作は圧倒的だった。

米国に一泡吹かせてやるのだと、愛子の解放と引き換えに、飛行機の手配を要求する兵士たち。壱朗に騙され、体が消えかけているにも関わらず、飛行機が置いてあると指定された、嘘の方向へ突き進んでいく。
壱朗はそんな彼ら姿を見て、大きな罪悪感に苛まれる。そして自らを兵の一員だと信じていた愛子は、心ごと崩壊してしまう。

自分の思いを叶えたい。ただそれだけのために動いたはずだ。
例えそこに憎しみや絶望すら含まれていたとしても、自分の思いだけを信じて。だが結局、背後には取り戻せない何かが口を空けて待っていた。
人生には、そういう瞬間が多々訪れる。

私は人間らしい作品が好きだ。その中にどんなに汚い感情が含まれていても。
汚さと純粋さ、ひっくるめて人間なのだから。
どちらも堂々と表現できる劇団は、実はとても少ない。
最近とみに人気が上昇してきている阿佐ヶ谷スパイダースだが、人間らしさを見失わない限り、この劇団は今後も成長していけると思う。
(青木理恵 2005.2.18)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:52 PM | Comments (1) | Trackback

February 16, 2005

KUDAN Project「くだんの件」

 少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」のレビューをお届けします。筆者は青木理恵さん。日本文学専攻の大学生です。実は南船北馬一団の公演評より先ににいただいていたのですが、掲載が遅れました。スミマセン。

◎快感の余韻と気だるさの感覚 イイ男との一夜の火遊び…

夢の中へ紛れ込む。
そこは理想郷のようでもあり、また現実逃避の場でもあり。
それでも、逃れられない現実は、いつだって自分の前に立ちはだかっている。

小熊ヒデジと寺十吾。
昔住んでいた街を訪れた者と、その街である店を営む店主。
いつも一緒に遊んでいる、タロウとヒトシ。
同Project作品である、『真夜中の弥次さん喜多さん』の弥次と喜多。
夢を見ている者と、その夢の中の登場人物。
一対一の関係は、瞬間でその色を変え、
今出てきたのが誰なのか、やっと理解できたかと思うと、またすぐに移り変わってしまう。

この作品を説明しろ、と言われると困る。
私にはそれを上手く説明できるだけの語彙力がない。

リアリティもなければ、取り立ててメッセージがあるわけでもない。
観客は、舞台上の二人の濃密な空気感を、ぼんやりと眺めさせられるだけだ。
またこれが、驚くほど気持ちの良い時間なのだから、たまったもんじゃない。

ラストには、装置が全て取り払われた舞台の上で、二人がそっと離れていく。
初めから、何もなかったのだとでも言うように。
そして閉じられた幕に映し出される、数え切れないほどの「ゆめ」の二文字。
本来自分の眠りの中でしか見られないはずの夢を、舞台の上で見せ付けられる。
そんな感じ、である。

『真夜中の弥次さん喜多さん』を見終わったときも、
今回の『くだんの件』を見終わったときも、
まるで性行為を終えた後のような、
快感の余韻と気だるさが入り混じった、何とも言えない肉体感覚が残っていた。

ただ一時間半座っているだけで、
肉体感覚にまで浸透してくる天野天街の演出力は、
こちらの想像力の貧困さを露呈させる。
だからそこに、何もかも忘れて身を任せたくなってしまうのだ。

溺れるような気持ち良さの中で、一度でも夢を見てしまったら、
なかなか足を洗う事はできない。
だからといって、その世界ばかり見ているわけにもいかない。
夢は、あくまで現実の添え物であり、
現実そのものを「なかった事」にするために存在しているわけではないのだから。

例えて言うなら、私にとって、KUDAN Projectの作品とは、
手に入らないほどのイイ男との一夜の火遊び、のようなものかもしれない。
(青木理恵 2005.2.6)

Posted by KITAJIMA takashi : 10:07 PM | Comments (0) | Trackback

February 15, 2005

南船北馬一団「にんげんかんたん」

 昨年夏から続いてきたアリスフェスティバルのしんがりは、大阪を拠点に活動している南船北馬一団の 「にんげんかんたん」公演だった(2月4-6日)。旗揚げ公演「よりみちより」で96年スペースゼロ演劇賞大賞を受賞。2002年4月上演した「帰りたいうちに」で、第7回劇作家協会新人戯曲賞大賞を受賞するなど、活動の幅を広げている実力派劇団。新境地に挑む新作について、青木理恵さんからレビューをいただきました。

◎時の止まった街から、動き出した今へ 「無意味」の「意味」の追求を

幻想に逃避する、その意味を考える。
あなたはどこから逃げたいの?

ひろ子という名の女性と、その姉が共に歩いている。
知らない街なのか、知っている街なのか。それは明かされるわけではなく、
ただ二人がいる街、である。

ある時はパン屋、またある時は喫茶店、そして酒屋と街中を流れる。
乗り損ねてしまったバスの待ち時間を埋めるように繋ぎ合わせられる時間は、
手からするすると零れ落ちていくような、ある種の無意味さを含む。

そしていつの間にか姉は妹の前からいなくなる。
慌てて追いかけていく妹。
街中を探し回り、やっと見つけ出した姉から発せられたのは、
「私はあなたよ」
という言葉だった。
姉は現実から逃げまどうひろ子自身の姿だったのである。

時の止まった街から、動き出した今へ。
逃げ続けていたかった自分を見つけ、前へ進めと。
ひろ子が夢から覚めて、この作品は終わる。

作品を通して伝えたい想いが、明白であればあるほど、
「余剰さ」の扱い方には細心の注意が必要だ。
正直この作品には、無駄が多いという印象が残った。
繰り返される機械的な肉体の動きや、前に進まない台詞の存在価値が
作品に対して、あまりにも薄かったのである。

この作品は、物語を突き詰めれば多分、一時間もかからずに終わってしまう。
ともすれば、ありがちと言われてしまう内容だ。
きついことを言えば、高校演劇的な青いテーマなのだ。
自分自身が高校演劇の経験者なので、「見覚えがあるな・・・」という実感が強くある。

しかし、それをあえて表現し、作品として二時間弱の大きさへと膨らませていくためには、
「自己と向き合うことの難しさ」という作品自身の持つテーマと、
作者は嫌というほど向き合わなければならない。
でなければテーマは上滑りし、
観客の心の中に「可愛らしさすら覚える若さ」しか残らなくなってしまう。

また、作品の中に「無意味」な瞬間を含むのであれば、
「無意味」であることの「意味」を追求しなければならない。
そうでなければ、「無意味」な部分はただの時間稼ぎにしか見えないのだ。

役者たちは良かった。
それぞれの声が印象的な上に、
「間」が作りこまれていて、流れはよくできていた。
完成度が低いわけではないのだ。
なので問題は、やはり作品自体の描き方ということになる。

この南船北馬一団という劇団は、今回の「にんげんかんたん」から
新しい表現を模索し始めている、と伺った。
これまでの公演内容と今回は、随分変化しているそうだ。

ならばぜひ、これまでの作品も見たいと思った。
その上で改めて今回の作品を見つめ直すと、
私の中にまた異なる意見が生まれてくるかもしれない。
十分に可能性は秘めている劇団なので、今後の発展を願っている。
(青木理恵 2005.2.14)

[上演記録]
南船北馬一団 「にんげんかんたん」

★作・演出:棚瀬美幸
★出演:藤岡悠子,末廣一光,菅本城支, 小崎泰嗣(発声ムジカ), 黒田恵(劇団潮流), 河村都, 経塚よしひろ, 後藤麻友, 白野景子, 長瀬良嗣, 山本雅恵
★舞台美術:柴田隆弘
★照明:森正晃
★音響:大西博樹
★舞台監督:中村貴彦
★チラシデザイン:米澤知子
★制作協力:石垣佐登子, 谷弘恵
★制作:南船北馬一団


Posted by KITAJIMA takashi : 09:40 PM | Comments (3) | Trackback

February 12, 2005

KUDAN Project「くだんの件」

 公演名を詳細に書くと、少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」。ちょうど10年前に東京・新宿のタイニイアリスで初演され、その後98/99、2000/01年にアジア公演と国内公演が行われています。作・演出は天野天街(少年王者舘)で、小熊ヒデジ(てんぷくプロ)と寺十吾(tsumazuki no ishi)の2人芝居です。1月26日-2月1日まで横浜相鉄本多劇場で。

 KUDAN Projectのwebサイトによると、物語は次の通りです。

 どこでもない時、どこでもないところ、どこでもない夏の或る日……記憶の奥に取り残された荒廃した店頭。ホコリの積もったカウンターの奥に座る一人の男(ヒトシ)のもとに、一人の男(タロウ)が訪ねてくる。タロウは昔、集団疎開をしていた頃、このあたりの二階の片隅で半人半牛の怪物「クダン」を飼っており、その「クダン」を探しに来たという。謎めいた二人の過去をめぐり会話は捩れ、過去と現在を行きつ戻りつしながら世界は迷走し、蝉時雨を背景に分裂と増殖を繰り返す。《夏》のイメージを明滅させながら、まるで極彩色の光の中をジェットコースターで走り抜けるようなスピードで物語は展開し、夢か現(うつつ)かわからぬ世界の先に待つオシマイへと向かいます。

 葛西李奈さんから「くだんの件」のレビューが届きました。「ユメの終わるユメ」とラストの光景を重ねています。以下、全文です。

◎懐かしい「におい」 経過をたどる「おもい」

 わたしは天野天街のキソウテンガイに出会うとき、鼻先に触れる「におい」を実感する。

 それは言わば、子供の頃ぜったいにつかんで離さなかった毛布のボロボロの端切れのような、精一杯にぎりしめることの出来る「軌跡」から漂ってくるものではないかとおもう。
大好きで大好きで、ずっと一緒にいたかったのにくたびれてしまった、あいするものがあったとして、いつの間にかわたしはそれを忘れていて、何故か欠片でも良いから思い出したくて彼の舞台を観続けているような、そんな気がするのだ。

 就職活動を終え、地べたを雨が打ちつける中、わたしは重い身体を引きずって横浜にあらわれた。この日は朝から初めての面接を受けた帰りで、しかも前日は友人と遅くまで語りに力を入れていて、終電を逃し帰宅したのは午前二時、結局睡眠時間は二時間という「最悪」のコンディションで舞台に臨もうとしていた。何度も「今日は諦めよう」と思ったが、この日を逃したらもう時間がない、観るチャンスは二度と訪れないかもしれない・・・と精神と肉体にムチ打って観劇に至ったのである。

 そんな状態で観た舞台はどのようにわたしの胸に響いたのか。結果から言おう。睡魔に襲われる間もなく、わたしは「におい」の心地良さに心を奪われていた。むしろ、そのような疲れを身にまとっていると、空気の揺らぎに敏感になるので、逆にいつもより何倍も「におい」を全身で感知することとなったのである。

 蝉の声のもとに展開される、ヒトシとタロウの、繰り返し見ている夢、夢の見ている夢、夢の終わる夢。つめ、スイカ、しお、うめぼし、コップ、ピザ、わたし達が当たり前のように目にしている日常が、言葉あそびを持って新しい側面を提示していく。同じことを舞台にいる二人が形を変え品を変え繰り返していく中で、「タロウがヒトシを突き落とした」
このようなフレーズが見え隠れする。ギクリとした瞬間に次の場所へと進んでいる二人が、いや、ずっと同じ場所にいるのかもしれないが、わたしは目の前で起きていることを信じられなくなる。

 高校生時代から少年王者舘の舞台をいくつか観てきたけれど、舞台で繰り広げられる「奇跡」の数々と共に、わたしは登場人物達の「軌跡」の経過を追っている。それはとても懐かしいもので、じわじわとたちのぼる痛みを伴いながら、思考をゆっくりと止めてしまう。
まさにこれは、「ユメの終わるユメ」なのだ。

 ラストの舞台上に何もなくなった状態でタバコを吸う二人と、足元に残る現実の一点であるピザの箱に、光は差している。わたしは心地よさをその場で封じ込めるようにして持ち帰り、劇場をあとにした。きっとまだまだ、忘れていることと忘れられることはたくさんある。けれどこの世界を目にすることが出来る限り、救いは生まれているようにおもう。
(葛西李奈 2005.2.12)

[上演記録]
少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」
場所:横浜相鉄本多劇場
日時:1月26日-2月1日

作・演出 天野天街(少年王者舘)
出演:小熊ヒデジ(てんぷくプロ)、寺十吾(tsumazuki no ishi)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:21 PM | Comments (0) | Trackback
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