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November 11, 2004

松田正隆作、平田オリザ演出「天の煙」

 財団法人地域創造と各地の公共ホールが共同で企画・製作(公共ホール演劇製作ネットワーク事業)した、松田正隆作、平田オリザ演出「天の煙」が10月末から12月初めまで各地で開かれています。皮切りの埼玉公演をみた牧園直さんから、力のこもったレビューが寄せられました。以下、全文です。



 固定されることのない街に住む戸籍のない人間、交錯する垂直と水平、あるいは時間と空間。〈虚〉なのか〈実〉なのか判断できないほどに〈虚〉が積み重なった場所の話。それが『天の煙』である。

 焼跡のような石ころだらけの土地で、まず始まるのは天へと続くような綱の先にある鐘を鳴らす仕事だ。鳴手は笑っているのに笑っていない(ように見える)女。彼女は自分が笑い続けていると言うのだが、傍目には仏頂面である。彼女が本当に笑っているのかは確かめようがない。芝居を支配しているのは、この論理である。〈虚〉なのか〈実〉なのか、はたまたどちらでもないのか、舞台に示される要素一つ一つが、定位することができないもので満ちているのだ。

 実母の葬儀のため、毬子は夫の時男を連れ東京から帰郷する。故郷は「西の果ての西の街」と称される、常に揺らいでいる街だ。毬子の家は絶対君主制の王家のようであり、毬子の盲目の姉・霧子はまさに女王のように君臨している。

 霧子は少女のような外見である。成長しないと彼女は言う。だがもうすぐ妹を追い抜くように大きくなるらしく、時男にふたなりの病人・山目の背中の皮を剥いで妹の足で型を取った靴を造り、自分に履かせてくれと頼むのだ。靴屋となって稼業を継ぎ、没落した家を復興させてくれとも。

 この虚言そのものとも思える依頼を、時男は拒みつつも何故か振り切ることができず、毬子との会話で得た断片を手がかりに、この街の構造化を図る。山目の背の上で座標軸をつくり、石ころを並べて時男は悩み続ける。

 霧子のことを考えて生きるようにすれば世界が見えてくる、とこの街の住人は物語の前半で語る。目の前の出来事を霧子を座標軸に受けとめる住人には、虚実を判断する必要がない。判断の放棄が世界を把握する術なのである。

 時男が並べた石を見て、毬子は星座のようだと言うのだが、星座は空に広がる物語そのものだ。実際には並んでいないが、そこにあるように見える(見る)もの。ちなみに星座の神話でよく目につくのは、死んだ後に神によって天上に引き上げられたというエピソードだ。とすると、この街は死の世界なのだろうか? 時男は石を並べてこの世界を探ろうとするが、ある時は縦にも積む。その動作は完成することがないのに延々と試みられる、あの賽の河原の石積みを連想させる。

 結局、一つ一つが区別不可能な小石を並べて世界を可視化しようとする無謀な試みは徒労に終わる。時男は街の要素を山目の背中に配置もしきれないし、互いの関係性による意味すら見いだせない。そして時男の中に色濃い疲労が蓄積されるに従い、霧子による無謀でそれゆえに虚言とも思える願いが現実味を帯びてくるのだ。それは〈虚〉と〈実〉が混じりあい、いよいよ腑分けができなくなってきたあかしでもある。

 ところで霧子が所望する靴というアイテムは、この物語では重要な意味を持つ。靴は霧子たちの家の繁栄時代の象徴であるが、物としての役割は身体の移動を助けるということである。つまり、物語上で「西の果ての西の街」と対置される「東京」という具体的な地名、すなわち〈実〉へ向かう可能性を示すものでもある。〈虚〉の街から〈実〉の東京へ移動できた毬子の足で型取られ両性を具える者の背の皮を材料とする靴は、生きた足そのものと言えなくもない。東京に逃亡したことによって住人の戸籍の剥奪とそれによる街の放浪を導いた毬子は、罪を背負うことを決意し、履いていた靴を奪われて、街を包む業火の中〈処刑〉される。

 〈処刑〉は火を後景に歩く女(毬子か)の素足によって表される。霧子が自分の足で型どった靴を作ってもらおうとしてふらついた瞬間、とっさに鐘に続く綱を引くことによって執行されたそれは、移動手段の喪失を意味するだろう。あるいは街の外へと移動したいという願いが昇天する瞬間でもあるのかもしれない。物語の進行過程では、唯一街の構成要素を数値化できる装置であった時計も止まってしまう。時計は再び動きだすものの、示す時間が正しいかどうか、確かめられることはない。つまり街は空間のみならず時間軸によってもすでに定位することができなくなっていたのだが、結末において〈実〉へと接続する術も失ってしまった。街と外の役所を繋ぐ伝令役はまだいるが、街の周囲を取り巻く火は伝令の役目を果たさせないだろう。街はあらゆるものから断ち切られることになる。

 だが同時に「西の果ての西の街」は〈虚〉の積み重ねで出来上がる〈実〉の街になったのかもしれない。〈虚〉は〈実〉を参照することで立ち現れる可能性だが、〈実〉が存在も感じ取れないほど遠ざかってしまったら、〈虚〉は〈虚〉とも言えなくなってきてしまうからだ。しかしこの仮定も確定はできない。物語は最後まで可能性を閉ざさないままなのだ。

 この不確定でありながら存在感に満ちた世界の構築をやってのけた松田正隆と、シンプルで、だからこそ無駄なく時には豊富に物語世界を語らせることに成功した平田オリザには、感服した。俳優たちも、この難解でややこしく、ややもすれば観客を遠く遠く引き離してしまう恐れもあるような物語を、よくぞ説得力を持つように表現しえたと思う。

 この劇は「平成16年度公共ホール演劇制作ネットワーク事業」という長い名前のプロジェクトによって創られたそうだが、こんなに質の高い成果が出たことは関係者にとっては喜ばしいことだろう。同時に、こんなに難しくてすっきりしない成果でだいじょうぶなのかと要らぬ心配もしてしまう。上演中首で船を漕いでいる人も見かけたし、終演後、トイレでは演劇関係者らしき人たちによる「よくわかんなかったね、時々すごいけど」という会話が交わされていた。物語が結末を迎えた後の中途半端な規模の拍手は、その評価を端的に示していたように思える。

 明るく「面白かったヨー」とは言えない、誰にでもお勧めできない芝居。でもある人には観てもらって、何を思ったのか聞きたい芝居。今回の芝居は、そういう芝居だった。
(牧園直 2004.10.31)


■同公演公式サイト:http://www.ycam.jp/net16/
【作】    松田正隆
【演出】  平田オリザ

【舞台美術】  奥村泰彦
【照  明】  吉本有輝子
【舞台監督】  寅川英司+突貫屋 斎田創
【大 道 具】   C‐COM
【衣 装】    有賀千鶴
【演出助手】  井上こころ

【出 演】  (五十音順 *印はオーディション合格者)
  秋葉由麻*   内田淳子   佐藤誓   松井周(青年団)
  増田理*    山本裕子*   吉江麻樹*(兵庫県立ピッコロ劇団)

【企画製作】
 (財)つくば都市振興財団
 富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ
 (財)可児市文化芸術振興財団
 兵庫県立尼崎青少年創造劇場〈ピッコロシアター〉
 山口情報芸術センター
 長崎市
 (財)熊本県立劇場
 あしびなー自主事業実行委員会

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November 03, 2004

榴華殿プロデュース R2 「のら猫」

 榴華殿プロデュース R2 「のら猫」公演(9月9日-12日)が新宿タイニイ・アリスで開かれました。 AliceFestival2004参加公演です。本公演とは趣が違い、榴華殿としては珍しいコメディ仕立ての作品でした。小劇場の芝居やダンス表現を伝える新聞「CUT IN」(タイニイアリスとディプラッツの共同発行)の最新第31号で、井上二郎編集長がこの舞台のレビューをトップに掲載しています。以下、井上さんの承諾を得て、全文を転載します。

◎異言語飛び交う状況を笑いで伝える これぞ小劇場の機知

 韓国人、日本人、在日中国人三世、在日朝鮮人三世の若い俳優たちが、それぞれの母国語をそのまま用いながら、言語の壁を笑いに変えて繰り広げるコメディだ。舞台が進むにつれ、言葉不用の生き生きしたコミュニティがその場に形成されていく。その活気、笑い、屈託のなさが持つ意味を、注意深い観客は見逃さないだろう。

 はじめ、洋服がびっしりぶら下がった洗濯屋の店内で主人(金世一)と女房(李知映)が韓国語で何か言い争っていると、そこにタマ(森田小夜子)が現れ、従業員募集に応募してきた旨を、当たり前のように日本語で喋る。女房はこれまた当然のごとく韓国語で受けるから会話はアサッテの方向へ。トンチンカンな面談を経て話はなんとかまとまり、タマは洗濯物の片づけに入る。主人と女房がそそくさと出て行くと、今度はミー(王美芳)が仕事を求めて現れ、タマの日本語とミーの中国語のずっこけた応酬に。数分後、これも適当な解決を見てタマとミーは仲良く働きだす。が、ミーがあらゆるものにアイロンをかけたがったりして、気配はスラップスティックに。それからやはり求職中でやたらと漬け物を作りたがるモゴ(梁學允)、リッチ&グラマラスにきめて洗濯物をとりに来たおバカなマリー(愛花)、探偵オタクのハナ(内藤加奈江)、さらには正体不明の放浪少女ラン(金蘭)も登場。

 狙ってない人の顔にモップの先が飛んで行く、「撫でてくれ」を「殴ってくれ」と聞き違えて殴る、あるいは日本語の語尾にやたらとスミダをつけて意志疎通を図る---。言葉が通じないことを逆手にとり、あるいは、その場のノリで雑駁な理解を成立させながら、俳優は伸び伸びと笑いを巻き起こしていった。

 この粗製濫造風のコメディは、言葉が違う人々の交流の実際をおおげさにデフォルメしながらたいへんよく伝えている。家庭や職場、飲食店の厨房や小劇場の楽屋、私やあなたの隣家。すなわちアジアの巷に無数に存在するその現場では、言葉の壁に逡巡するヒマなどなく、機知とギャグで壁を飛び越え、相手と自分の関係を見いだしていくしかない。舞台のちゃらんぽらんな方法は、じつはそういう真実をとらえる機知である。

 これは今の東京の状況を肌で感じ、率直に見つめるところから生まれた作品だ。逆に言えば、ようやく小劇場でごく自然に話題になるほど、異文化混交状況が熟して来たということかもしれない。だからこそ、この舞台には招聘とか翻訳上演という「交流」にはないリアリティがあるし、この地点から、例えばオフオフ・ブロードウェイの名作である「インド人はブロンクスへ行きたがっている」のような言語の壁を扱う秀作も生まれるのだろう。この先が楽しみである。ともあれ、なによりまず出演した俳優たちとって、本質的で根強い交流の端緒となったのは間違いないと思う。
(井上二郎 「CUT IN」編集長)


☆榴華殿プロデュース R2 「のら猫」
☆作・演出=川松理有
☆出演=森田小夜子 内藤加奈江 愛花 金蘭 金世一 李知映 梁斅允 王美芳
☆劇団サイト http://www.rukaden.com/

Posted by KITAJIMA takashi : 08:55 PM | Comments (0) | Trackback

October 31, 2004

TRASHMASTERS「trashtandard」

 スピード感のある展開、緊密な構成、意外な結末などで人気上昇中のTRASHMASTERS(トラッシュマスターズ)が新宿タイニイアリスで第9回公演「trashtandard」(10月21日-27日)を開きました。舞台セットがすばらしいステージでしたが、その芝居をみた吉田ユタカさんから、「蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻」と題するレビューをいただきました。「すべてが一本の線でつながった」という吉田さんの驚きと戸惑いが伝わってきます。以下、全文です。(北)

◎蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻

 物語の舞台は小さな設計事務所。男女九人の社員とアルバイトは、消費者金融から返済を督促されたり、ゲームソフトを買うために徹夜で並んだり、仕事の合間にそろってジョギングに出かけたり、社内で恋に落ちたりしながら、コンペを勝ち抜くために日夜仕事に励んでいる。舞台横にスクリーンが設置されており、序盤は九人のうちの何人かの独白が順番に字幕で流れ、その各人の視点を通して話が進んでいくという構成だ。

 芝居のテンポは小気味よく、会話のやりとりは自然体で、キャラクターの感情の流れがわかりやすい。ストーリーの展開も巧みで、二時間超の長さを感じさせない。舞台では左右二つずつのドアから出入りすることで、広いとはいえないタイニイアリスのスペースでも多人数の演者の動きがうまく整理されていた。また、応接室という設定で客席部分の一角が活用されたのだが、観客のすぐ近くで二人だけの本音の会話やセックスが演じられ、非常に効果的だったと思う。

 しかし、腑に落ちないことが一つあった。事務所の社員(桃子)とつき合いながら、別の社員とも浮気におよぶ男(赤堀)の心情がまったくみえてこないことだ。政治や設計の話、哲学じみた議論では長広舌をふるいながらも、二人の女性に関する発言はほとんどない。二人の手前、単に冷静さを装っているだけというふうでもなく、浮気相手の女性が無断欠勤を続けてもどこ吹く風といった無関心ぶりだ。同じように事務所内の二人の女性に振り回される男(青柳)は、その苦悩と苦労が如実に描き出されているだけに、どうしても引っかかってしまう。

 その青柳をめぐる女性二人の修羅場は、みものだった。加害者の立場と被害者の立場がめまぐるしく入れ替わっていく状況を、客演の二人が見事に演じきっていたという印象だ。とりわけ、かたや顔面に硫酸を浴び、かたやビルから突き落とされて片足を失ったとたんに、二人とも憎々しく高圧的に性格が歪んでいくさまは、悲しいほどに人間の弱さを感じさせた。

 やがて物語は衝撃のラストを迎える。社長のビリー、赤堀、青柳、中国人の黄(こう)、桃子の社員五人がいつものようにジョギングに出かける。閑散とした事務所で、片足を失った女性社員が今度はみずから窓を超えて飛び降り、茫然自失となっている社員と警備員を残して幕が閉じる。スクリーンには「構成・演出:中津留章仁」の文字。

 ところが、次の瞬間「おまけ」という表示に変わり、そこから数分ほどスクリーンに流れる映像は、先ほどの五人の社員が戦隊もののヒーローに変身し、悪の軍団を倒すという奇想天外なストーリーだ。

 ふたたび舞台の幕が開き、事務所には普通の姿の五人。彼らの会話の内容から、実はこの五人は“地球人ではない”ことが明らかになる。やがて、新たに事務所に採用された女性社員三人が加わって、終わりのない会話のなかで今度こそ終幕となる。

 たしかに劇中で、ある登場人物がいっていた。いま起こっていることは劇みたいなものなのだと。だとすれば、東京に大地震が起こるのも「あり」だし、日本が戦争に参加するのも「あり」だと。その言葉に従うならば、最後の最後になって登場人物が実は宇宙人だったというのも、きっと「あり」なのだ。

 さらには前述の疑問も氷解する。赤堀の二股は当の桃子と仕組んだものなのだから、良心が痛む理由もなければ、苦悩する必要もない。浮気相手が無断欠勤しているのは、実は桃子が事務所の物置に監禁しているからであることを赤堀も知っていたのだし、そもそも、宇宙人に人間の感情の発露を期待するのはまったく無意味なことだったのだ。これで、すべてが一本の線でつながった。なんと見事な結末なのか!

 と、納得できた観客はどれだけいただろうか。少なくとも筆者は頭と気持ちの整理をするために、後日ふたたび劇場に足を運び、同じストーリーをなぞる必要があった。かりに、飛び降り自殺の直後の幕で話が完結していたならばどうだったのかと考える。夢も希望もないラストにはなるが、少なくとも、書かれざるその後の展開にあれこれと思いをめぐらせるだけの余地はあったはずだ。しかし、宇宙人という“なんでもあり”の結末を知らされてしまった以上、もはや我々はひたすらその事実に引きずられていくしかない。

 この毒こそが今回の芝居の肝であり、この劇団の持ち味だとすれば、受け入れるべきなのかもしれない。自明と思われることを疑うのは、これほどまでにむずかしくショッキングなものだということを。トラッシュマスターズの公演に初めて接した筆者は、まだそのあたりの判断が下せずにいる。
(吉田ユタカ/2004.10.25、10.27)

Posted by KITAJIMA takashi : 08:58 PM | Comments (0) | Trackback

September 12, 2004

龍昇企画「続・ああ無情」

 ストアハウスと提携した龍昇企画「続・ああ無情」公演が東京・江古田のストアハウスで開かれました(8月31日-9月5日)。舞台が始まってもライトは灯らず、闇の中で声明や祝詞を彷彿とさせる男たちのうなり声が響き渡る-。家族のきしみと悲鳴を予感させるアイデアに満ちたパフォーマンスでした。
 この公演を共同通信の中井陽さんに報告してもらいました。自分と触れあうリアルな叫びをステージから聞き取ったようです。

◎さらけ出される家族の軋み 自意識の殻を破って描く

 帰宅した「妹」が足を投げ出して座る。仕事も恋愛も何もかもうまくいかない。
 「疲れた…疲れた。なんだかわかんないけど…一生懸命やるのに疲れちゃったんだよ!」―。はじめはつぶやくように。最後は悲鳴のように、「祖父」に訴える。

 それを聞いていて、涙が出た。私は彼女を知っている。その台詞は俳優になる以前、演劇への想いが日に日に大きくなりながら会社勤めを続けた彼女が、実際に経験した感情に違いない。

 「ああ無情」は、役者が台本からすべて作っていくエチュード方式の芝居だ。会社でうまく働くことができない長男と、それぞれ問題を抱えつつ、彼を取り巻く家族の姿を描いた。

 駅前の果物店の上階にある小さな劇場。俳優たちは冒頭、顔をしわくちゃにして笑顔を浮かべ、観客席の前を無言でゆっくり横切る。観客席のすぐ前でライトに照らされてさらけ出される顔、顔、顔。見ている方は落ち着かない気分になる。

 舞台空間にあるのは、二脚の椅子だけ。父と母、長男とその妻、妻と二男、祖父と妹のように二人ずつ観客の前に姿を現し、対話する。家族に君臨しながら社会に居場所を見つけられないでいる長男、色っぽい長男の妻にほんろうされつつ、家族を想う二男。長年連れ添っているのにすれ違う父と母、祖父に当たり散らす妹…。

 演劇の上では、家族の関係を浮かび上がらせるための台詞が、ここでは役者の「素」の心をかいま見せるすき間でもあった。一つ一つが役者が自分をさらけ出した証しだから、おかしさや悲しさも、時に生々しい。

 母親が父親に言う。「あなた、私の目を見てしゃべってよ。あなたは昔からそうだった。出会った頃はなんて奥ゆかしい人なのかしらって思ったけれどずっとそうだったのよ」。父親はそれでも目をそらせてぼそぼそ話し、最後は怒鳴る。「うるさい!」。

 なぜ演じるのか。その問いに、出演者や演出家が背伸びせずに考えた。自分の悲惨な体験を皆の前で話してみる。お互いを本気でけなしあってみる。約三カ月のけいこは演出・企画を手掛けた龍昇氏のもと、まず普段まとっている自意識の殻を少しずつ破っていくところから始めたという。

 年齢も個性もばらばらな俳優たちが、今までの自分の人生の断片をそれぞれ持ち寄って、本物の感情で芝居の台詞を作った。見ていると、日常生活の中で、薄いほこりに覆われて見えなくなったものを再発見できる気がした。
(中井陽)


【構成・演出】龍昇
【CAST】直井おさむ
     米田 亮
     猪股俊明
     吉田重幸
     龍昇
     伊藤弘子(流山児★事務所)
     岩井さやか(流山児★事務所)
     桜井昭子
【会場・日時】江古田ストアハウス
  2004年8月31日(火)/19:30
      9月1日(水)/19:30
      9月2日(木)/15:00・19:30
      9月3日(金)/19:30
      9月4日(土)/15:00・19:30
      9月5日(日)/19:00

Posted by KITAJIMA takashi : 12:25 PM | Comments (0) | Trackback
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