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August 26, 2004

毬谷友子 語り芝居「宮城野」

父矢代静一の「宮城野」を取り上げた毬谷友子の語り芝居が8月4日から6日まで、東京オペラシティー内の近江楽堂で開かれました。後藤隆基さんから、力のこもった劇評が寄せられました。近江楽堂のWebサイトによると、演出は佐藤信。大鷹明良が共演しています。

◎暗がりに点された灯 毬谷友子語り芝居 『宮城野』

 その声は忍びやかに空間を支配する。無邪気な妖艶が切れ長の瞳と毒をも含んだ唇から漏れ出る。吐息が言葉を生み、息が命から生まれる。言葉の火が「演劇」を照らす標であるならば、劇場という暗がりに点された灯は毬谷友子その人である。

 『弥々』につづく語り芝居第二弾として毬谷が選んだのが、一九六六年に父、矢代静一が書いた『宮城野』。登場人物は女郎の宮城野と、馴染みの一番客である絵師、矢太郎の二人で、矢太郎の師、東洲斎写楽殺害の実相をめぐる会話の中に、互いの心の虚と実が巧みに編みあげられた緊密な対話劇である。と同時に宮城野の語りによって物語が展開する一人芝居でもあった。「言葉」による演劇の魅力を十分に発揮し、小空間での「語り芝居」にうってつけの題材。およそ一時間強の上演時間で一種のどんでん返しの起こる構成も見事であり、まずは戯曲ありきという前提のある上は、戯曲の力をいかに「声」と「言葉」において表現しうるかが企画の主眼となるだろう。そしてその試みはひとまず成功していたといっていい。

 彼女が姿を現した瞬間から、劇場はすでに彼女のものになっていた。香りたつ白粉は色街の座敷へと誘う。何か恥じらいのようなものを身にまとい、行燈の灯りの下、やや俯き加減の項からすっと口角を持ちあげて少し媚びるように見上げた先、虚空に相対する男の姿を描き出す。傍には矢太郎を演じる俳優(大鷹明良)も当然いるのだが、宮城野の心に宿る男の姿は遠くにいた。

 言葉の一挙手一投足に、笑う、仰け反る。眉をひそめ、瞳が曇る。愛する男のために騙りつづけた自分の過去、男への思い。それらすべてが裏切られ、幼気な童女のような半開きの口元から、決して恨み言でない本音が響くとき、その歌は何よりも彼女が彼女であることを表現する。矢太郎のためについた「嘘」は嘘をつけないからこその「嘘」。戯曲にはない、毬谷自身の作曲による歌は、男への恋文でさえあった。誰もがどうしようもなく抗えない人間の業。宮城野は魔性と俗性にまみれながら、その無知と無邪気なる純粋は気高く、我が身を犠牲にして、いわば無償の愛を体現する聖女ともなる。生の辛苦悲哀を笑顔に変えてみせる女の姿は矢代作品のひとつの特徴でもあるが、『宮城野』はそうした意味でも『弥々』の源流にいる女性といえる。

 劇作家、矢代静一の描く、聖性と魔性を同時に兼ね備えたヒロインが現世界にそっと障子一枚、隣の部屋から入ってきた。それが毬谷友子である。その純度の高い「女」という結晶は、童女でありながら老女であり、聖母でありながら娼婦である。その幼子のような純粋は、純粋であるが故に、演技を超えて、そこに居る「女」で在ろうとしつづける。純粋過ぎるが故に、強さは危うさと背中合せであり、零れる涙は自分を抑えに抑えこんだ果ての掬いようもない魂の雫である。

 空気を通して伝わる身体的感触の生々しさにもかかわらず、その夢のような存在感は幼児性と妖艶の二面性を示す。「知性」、「痴性」、「稚性」。父の唱えた芸術家に必要な三種の「チ性」は間違いなく娘に宿り、そのすべてを形成している。誤解を恐れずに言えば、「一卵性親子」と云うほど仲がよかった父の作品を演じるとき、毬谷友子は明らかに他の作品の毬谷友子とは異なる姿を見せる。作品を通して、父と、また自分自身と出会い直す苦行を強いているように。往ける処まで内面を掘りさげ、湧水の源泉を探して、水底の砂を掴み浮かびあがる。その潜水と浮上の過程が描く軌跡こそが女優としての毬谷友子という生き様なのではないか。
 (後藤隆基 2004.8.15)

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August 20, 2004

燐光群「だるまさんがころんだ」

燐光群「だるまさんがころんだ」公演は、「私たちの戦争」とともに、多くの反響を呼びました。2つの東京公演は7月15日から8月4日で終わり、その後8月末まで各地で開かれています。
こまつ座公演の評をいただいた後藤隆基さんから、「だるまさんがころんだ」のレビューが届きました。坂手洋二(「燐光群」作・演出)の発信方向を見定めようとしているように思われます。

◎「創作」という冒険の道行―燐光群『だるまさんがころんだ』

 坂手洋二という才能は常に歩いている。「現実」の道を踏み外すことなく、自身が現代を生きている、極めて強い自覚を肌身離さずに歩いている。彼は自己模倣を嫌悪する。予定調和を拒否する。貪欲に演劇表現を追求し、常に現行の「坂手洋二」で在り続けようとする姿勢は、作品においても、その創作過程においても貫かれている。

 坂手洋二は、今のそして少し先にあるものを捉える、敏感な社会的な眼を持った劇作家である。その手法は、たとえば評伝劇を確立した井上ひさしと同様の影響を後続に与えたともいえよう。

 近年の劇作の特徴として、坂手は現代社会が抱える問題に基づいた或る一つのキーワードをもとに、そこにまつわるあらゆる事象を吹き寄せにしてみせる。一見それぞれが孤立して見える世界が、実はひとつの輪であることに気づかせる。『だるまさんがころんだ』で言えば「地雷」。しかし、独断の大薙刀を振るって言えば、主題が「地雷」であることにそれほどの大きな意味はない。「素材としての地雷」というならば別としても。彼の意識は「社会派」と括られるのを自らはねのける如く、題材が如何に演劇として成立し、且つ表現が演劇でなければならないのか。それに終始している。何をモチーフとするかは入り口でしかなく、その後の処理如何で綺羅星にも塵芥にもなる。

 今回の「地雷」の選択は、坂手洋二自身が世界とつながろうとする意思表示そのものなのであり、そこに関わるすべての人びとが「演劇」を通してある種の共同性を獲得することに他ならない。もちろんそのすべてが、9.11以後の世界情勢や、地雷という申し子が眠りのうちに牙を研いでいたすべての戦争の上、「現代社会の構成員としての私たち」という立地点にあることが前提なのである。

 『だるまさんがころんだ』は、ここ数年の坂手洋二、燐光群の創作活動のひとつの達成であったといえる。たとえば坂手は『屋根裏』から、十分から十五分ほどの短い場面をつないで一つの大きな物語を完成させるという手法に可能性を見出しているようだ。コマーシャルの挿入が度重なるテレビに慣らされてしまった現代において、短時間のシーンを暗転でつなぐ劇時間の処理は有効に作用する。「笑い」への意識的作業も『屋根裏』以降の産物である。

 時空の広がりは海外に及び、挿話も自立した意味を持つようになった。ラップ調の口上で地雷を売り歩く死せる武器商人は、多用される「専門用語」や坂手の硬質な劇言語と拮抗し、独自の文体を紡ぎだす。また今回の収穫としては非現実の領域にもう一歩足を踏み入れた点があろう。地雷敷地対の兄弟や地雷製作に従事する男の娘、地雷を食べる巨大トカゲなど、死者と生者との共生がより顕著となり、現実と非現実の柔らかな境界が異界への出入口を自在に広げる。

 小さな「挿話」という個人が集合してある形態を形成する。物語の中心に据えられる「家族」は最小限の共同体としてのモデルである。登場人物のそれぞれが集団のうちに生きている。地雷と一人で戦うヒロインの女(宮島千栄)がすべての登場人物と各国語で「だるまさんがころんだ」を遊ぶ。あらゆる種類の人間の共生という可能性を追うこの物語は、今失われつつある人間性の回復を眼中においてはいないか。

 思えば、無差別に不特定の人間を破壊する「地雷」と「通り魔殺人」を重ねた意図もそこにあった。作家の技法が彼の思想を体現するならば、まさに「創作」という冒険を通じて最小限の「劇団」単位から世界へ向けて発信されるメッセージが、ここにはある。
(後藤隆基 / 2004.8.15 )

Posted by KITAJIMA takashi : 11:19 AM | Comments (0) | Trackback

August 19, 2004

劇団バカバッドギター「伝染するラプンツェル」

無夢楼劇団(Dreamless Theatre、台湾)の主宰者C. Jan さんから劇団バカバッドギター「伝染するラプンツェル」公演(7月23-25日、新宿タイニイアリス)のレビューが届きました。筋書き、俳優の所作、演出から最後のあいさつ(礼)まで、同じ演劇人の経験を基にした詳細なレポートです。

Morbid, Twisted, Wicked - Eventually Indescribable Beauty
by C. Jan (Dreamless Theatre in Taipei)

Through conversation, when we use the word 'you', the concept 'you' actually means 'the memory memorized by you', not your mortal flesh or beautiful face, and the way things to be memorized decides one's personality.

Memories, sometimes equal forgetfulness, the play 「伝染するラプンツェル」 wraps the sentimental theme with spread little tizzies. At the beginning, performers wear cartoon clothes made by paper and cutely act a short part of the fairy tale, Rapunzel, unveils the main scene.

The structure of the plot is designed to be suspense drama, there is a mainly indoor scenic background and someone gets killed or injured, though the criminals all got caught at once, even themselves can't describe the motivations. Eventually, they find out that there seem to be hypnosis, or rather, under a curse.

The first suspense is a female staff member, Rinko Saeki. After the injury event, seem to lose her mind slightly, she whispers repeatedly: Memory A and memory B...it is a theory about how things being memorized can affect the way things looked like. For example, the truth, fact or reality, is nothing but how you recall it when needed. In other words, the so-called truth can be chosen, or even delicately designed.

I like the short stories told by different roles through the play, though some may say that those are irrelative to the plots and the theme, or it is just the show time for each character. Uh, well, at least the showers on stage widely open their arms to the audience.

A ghostly role, Karasu, without a face and acting like an old-age witch, symbolizes the hypnosis and the curse. As more appearances on stage, astonishingly, the atmosphere is becoming scary and breathless.

It is not easy to deeply convince the audience that there is a ghost at live theatre; especially this is not a high-budget production. However, the director seems to reach it. At least a foreigner like me who believes in the character Karasu at the moment. The only character without a face on stage arouses me lots of imagination; morbid, twisted, wicked, eventually expresses the elegant and indescribable beauty. Interesting.

Gradually, all clues point to one of the main characters, Shigeko Shigeta. Perhaps because Karasu is part of Shigeta's interior, she decides to chase Karasu. They have a long talk with each other. Eventually Karasu fades away to relief.

This production does his best to explore the vague part of the mind. Feeling like some scenes break my heart with theirs. It is the fragility (not weakness) courageously expressed on stage moves me. The performers are shining under the spotlight because of doubtlessness from director I suppose. Actresses and actors are trained to reach the ability to expose their deepest softness artistically to the audience, which makes the performance art.

At the bow of this play, each performer speaks the name of the role and themselves' one by one. The illusion created in about 120 minutes may be gone by the 3 minutes bow or not.

A wonderful bow at stage won't save a plain drama except their audience, but an inappropriate bow will drag down an excellent performance. The art about how to arrange the bow at the end of a play sometimes is even tougher than to direct the work itself.

Posted by KITAJIMA takashi : 07:33 AM | Comments (0) | Trackback

August 14, 2004

こまつ座「父と暮せば」

力作をいただきました。こまつ座第73回公演「父と暮せば」です。
執筆した後藤隆基さんは「『演劇って何だろう』という素朴な疑問を、一つの舞台がどのように構成されているか、主に「聴く芝居」という観点から考えています」という大学院生。これから内容の濃い原稿が次々に登場します。
今回の記事は内容を考えればもっと早く掲載すべきでした。編集サイドの怠慢です。ご容赦ください。

◎劇場はなみだにゆすれ こまつ座第73回公演「父と暮せば」

 1994年の初演から数えて10回目の再演となる『父と暮せば』のこまつ座公演(ロシア公演1回を含む)は、過去の例に漏れず、劇場に笑いと涙の汪溢する舞台であった。紀伊國屋サザンシアターを埋め尽くした客席が流した、その涙の理由はどこにあるのか。そこには何より圧倒的なまでの戯曲の力が存在している。

 作品の主題を云々することはこれまで散々行われてきており、夢幻能の形式を借りた「一人二役(二人一役)」の劇構造についても作者自身が常々語っていることなので今更鹿爪らしく愚言を弄することもあるまい。しかし、「戦争を知らない子供たち」のそのまた子供である筆者のような世代から見える「戦争」とは何か。井上ひさしとこまつ座が「昭和」、「戦争」についての演劇をつくりつづけている理由がそこにはあるし、『父と暮せば』の軸に少しは触れることにもつながろう。

 「戦争」、あるいは「原爆」という「鍵言葉」を柱の一つに置くことは、次世代への啓蒙でも同世代への共感でもない。かつて存在した「昭和」という時間に、「こんなことがあったそうじゃ」と語られる「おはなし」。知らなければならないことがある。聞いてしまった声がある。井上ひさしはそれを話してくれる。ただそれだけのことだが、ここには「物語」の本質がある。「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを」伝える図書館の司書であり、広島女専では「前の世代が語ってくれた話をあとの世代にそっくりそのまま忠実に伝える」いう根本方針である「昔話研究会」の副会長を務めた美津江。郊外の村々で土地の年寄から仕入れてきた昔話を、今度は自分が子供たちに聞かせようとする。そこで竹造は、よく知られている話の中に原爆資料をくるみ込むことを思いつく。

 「原爆」を物語に組み込むことは、「被爆者」と「非被爆者」との意識の間に横たわる溝は計り知れないほどに深く大きい。「非被爆者」であること自体がすでに「原爆」を語る資格を持ち得ない。「絵空事」が許されない世界が、事実があるということを、井上ひさしは資料収集の過程で被爆者の生の叫びを聞いた。井上が「聖書」とさえ呼ぶ、被爆者たちの「手記」がある。その手記から原爆にまつわる逸話を抜き出し、折り込む。美津江や、その周囲に起こった出来事はすべてが手記からの引用である。話をいじらず、一人の被爆者の女性の人生に託す。劇構造そのものが作者の思想を表現する。しかし、木下さんに「気に入ってもらおう思うて」「話をいじっ」てしまった「ヒロシマの一寸法師」は、美津江の古傷を思い出させ、被爆者にとっての被爆体験を「忘れたい」記憶にしてしまう。竹造の存在が、その行動は実は美津江のものだとしたら……。竹造は美津江自身であるという趣向は、劇中のあらゆる細部に効いてくる。劇中に現れるすべての逸話がそのまま『父と暮せば』の作劇法なのである。

 時間、世代をを超えて被爆者を痛め続ける「原爆症」は命の連鎖にまで言及する。恋を諦め、静かに生きて世の中から姿を消そうと思っている美津江。恋の成就はそのまま、つながっていく命を認めることにもなろう。口承による「物語」の伝播も、記憶と命の連鎖そのものであることは言うまでもない。『父と暮せば』という「物語」がいつか観客のそれぞれが語り伝えられる「おはなし」になったら。そんな願いがある。たとえば「一寸法師」のように。

 今公演の収穫は西尾まりではないか。『父と暮せば』は初演キャストのすまけい・梅沢昌代というこまつ座常連コンビによって、すでに一つの「完成形」が提出されてしまっている。幽霊の竹造と、竹造が死んでいるとわかっている美津江。遊びのある軽妙な個性の衝突によってつくりあげられた地点から見ると、果たして以降に以上の出来は期待できないのではないかさえと思わされる。実際その後、前田吟・春風ひとみ、沖恂一郎・斉藤とも子と引き継がれたが、初演を超える評判は聞かない。今回の辻萬長・西尾まりは四代目の竹造・美津江父娘である(1992年のカンパニー・パリ21によるフランス公演での小野地清悦とバルバラ・サルシを勘定に入れれば5代目)。すま・梅沢コンビとはまるで違う方向から攻めた好演であった。激情を、文字通り「必死で」抑え込み、一語一語吐き出すようにして台詞を語る西尾まりの演技は出色であり、「生きること」の困難に耐えながら過ごしてきた美津江の、意識の奥底に沈む記憶を表現して見せた。辻萬長の冗談が冗談にならない、力一杯、真っ直ぐな竹造とあいまって、新しい竹造・美津江像の可能性を示したといえる。
(後藤隆基 2004.8.1)

Posted by KITAJIMA takashi : 03:15 PM | Comments (0) | Trackback
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