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July 24, 2005

燐光群「上演されなかった『三人姉妹』」

 燐光群公演「上演されなかった『三人姉妹』」(作・演出 坂手洋二)の東京公演(7月6日-17日)と関西公演(7月21日-22日)が終わりました。チェホフの「三人姉妹」と、血なまぐさい終結を迎えたモスクワ劇場占拠事件を掛け合わせたような、坂手+燐光群ならではの独特の舞台だったと言われています。大阪芸術大大学院博士課程(文芸学)在学中の高木龍尋さんから、関西公演のレビューをいただきました。結語の切れ味をご賞味ください。以下全文です。

◎トゥーゼンバフはなぜ死んだか?

 チェーホフの『三人姉妹』は言わずと知れた名作である。その名作を燐光群がどうするのか? 上演されなかった、とはどういうことなのか? いささかの戸惑いを覚えながら劇場の席についた。

ひとつは劇場を占拠する武装集団である。配布されたリーフレットによれば、坂手洋二氏はこの作品の着想を、政情、治安の不安定なコロンビアで得たという。架空の国でのつもりで、という構想はロシアで起きた悲劇的な事件に行き着き、それが『三人姉妹』に入りこんだ。『上演されなかった『三人姉妹』』は、『三人姉妹』の中に劇場を占拠する部隊が乱入し、チェーホフに現実(?)が乱入するかたちで組み立てられている。

 その劇場では『三人姉妹』の二十年ぶり再演が始まろうとしていた。新しい演出で、三人の女優以外は他に舞台に登場しない。劇場のスタッフは二十年前の公演で何らかの役を務めた元役者や、公演寸前で切られてしまった役者たち。客にも元役者がいる。その上演が始まって間もなく、武装集団が突入してくる。銃を突きつけられても、普段からオーリガ、マーシャ、イリーナと呼び合うことを決められた三人の女優たちは芝居を止めようとしない。スタッフたちは状況をやり過ごすために次々舞台へ上がり『三人姉妹』をつづける。『三人姉妹』は人質たちはおろか、武装集団をも巻き込んで進む。

 その展開の大枠はチェーホフの原典とほとんど変わりがないと言っていい。設定は劇場の空間や人間関係に合わせて変えられている部分もあるが、『三人姉妹』から引用した台詞も多く、登場人物の行為もそこにすり合わされる。舞台は人物たちの意図とは別に、『三人姉妹』として動いてゆくのだ。どこまでが『三人姉妹』なのか、どこまでが劇場占拠事件なのか、わからない中で劇場に妙な一体感が生まれたとき、大統領の作戦は実行され、武装集団は人質もろとも壊滅し、あとには生とも死ともわからない人々、そして『三人姉妹』が終わる。

 と、観終わってひとつ疑問に思ったのは、なぜ結末を誰ひとり生死のわからない状
態(おそらくはそのほとんどが死)にしたのかということである。

 ロシアの劇場占拠事件が死屍累々に終わったのはニュースの伝えた事実であった。しかし作品をそこで終わらせなければならないわけではない。それに『三人姉妹』で唯一死んだのはソリョーヌイに撃ち殺されたトゥーゼンバフだけで、しかもその死体が舞台に晒されることはない。『上演されなかった『三人姉妹』』でもトゥーゼンバフ役を担ったアメリカ人の演出助手トーマスは正体不明の人質ソリョーヌイに撃ち殺される。けれども、それはトゥーゼンバフとしてではなく、トーマスとしてである。このあたりに、作品の核心を見つける糸口があるかも知れない。

 その鍵となるのは、トゥーゼンバフはなぜ死んだか(チェーホフはなぜトゥーゼンバフを殺したのか)、のような気がする。私はチェーホフの研究者ではないし、おそらく数多の論考が著されているだろうから、これが解答です、と披露するような勇気はないが、少なくともトゥーゼンバフは信じていた男なのではないか。働くということ、イリーナの愛がないことは知っていても未来の生活を信じていた。そして、死ぬとわかっていても希望を持っていた。それと同じだったのは武装集団の若者たちである。故国の解放を信じ、家族の幸福な未来を願い、大統領の策略を信じてしまった。その結果は死である。

 『三人姉妹』の登場人物は「人間でなくなった」ナターシャを除いて、みな絶望と諦めの上に自分自身の生を是認することで立っている。それはどれだけ悲しくとも虚しくとも、生命のあるかぎりつづけなければならない是認である。この作品が示そうとしたのは、何ものかを強く信じ希望するものから死んでゆく現代なのかも知れない。

 ここまで述べてきて、ふと、私が『三人姉妹』を全く知らなかったら、という問いに襲われた。『三人姉妹』がどんな話かを知らなかったら、『三人姉妹』の台詞を一言も知らなかったら、と考える。私はチェーホフの『三人姉妹』からこの作品を理解しようとしたが、その手立てを持たなかった人はどう思っただろう。そう考えると合点のゆかない箇所も多かったのではないだろうか。ただ、それでも、何かを信じ希望を持つことで降りかかる悲劇をみつけることはできるのではないか。それ以外に、それ以上に、この作品が語っていることを聞くのは難しい。この作品が伝えようとしていたことは、その実、チェーホフ『三人姉妹』そのものに既に仕組まれている。
(高木龍尋 尼崎市・ピッコロシアター大ホール、7月21日)


[上演記録]
燐光群公演「上演されなかった『三人姉妹』
作・演出 坂手洋二

東京 紀伊國屋ホール公演(7月6日-17日)
関西 ピッコロシアター大ホール公演(7月21日-22日)

<CAST>
女1・オーリガ(アンフィーサ)…… 中山マリ
女2・マーシャ ………………… 立石凉子
女3・イリーナ ………………… 神野三鈴

人質1・クルイギン …………… 鴨川てんし
人質2・アンドレイ …………… 猪熊恒和
人質3 …………………………… 久保島隆
人質4・ヴェルシーニン ……… 大西孝洋
人質5 …………………………… 杉山英之
人質6・ナスターシャ ………… 江口敦子
人質7・ソリョーヌイ ………… 下総源太朗
人質8・トーマス ……………… JOHN OGLEVEE
人質9・チェブトゥイキン …… 川中健次郎
人質10 ………………………… 宇賀神範子

占拠者1 ………………………… 裴優宇
占拠者2 ………………………… 向井孝成
占拠者たち ……………………… 樋尾麻衣子 宇賀神範子 内海常葉
                 工藤清美 阿諏訪麻子 安仁屋美峰
                市川実令 尾形聡子 坂田恵
                椙本貴子 塚田弥与以 中川稔朗
                樋口史 樋口美恵 松山美雪
若い女 …………………………… 宇賀神範子
若い男 …………………………… 小金井篤
中年男 …………………………… 内海常葉
アナウンサー …………………… 樋尾麻衣子

<STAFF>
照明=竹林功(龍前正夫舞台照明研究所)
音響=島猛(ステージオフィス)
音響操作=岩野直人
舞台監督=森下紀彦・高橋淳一
美術=じょん万次郎
衣裳=宮本宣子
殺陣指導=佐藤正行
演出助手=吉田智久・清水弥生・福田望
文芸助手=久保志乃ぶ・圓岡めぐみ
舞台写真=大原狩行
宣伝写真=竹中圭樹
チラシ写真=酒井文彦
宣伝意匠=高崎勝也
Company Staff =桐畑理佳・塚田菜津子・亀田ヨウコ
制作=古元道広・近藤順子
制作助手=宮島千栄・藤木亜耶・小池陽子
協力=円企画 高津映画装飾株式会社 C-COM
   東京衣裳株式会社 青年劇場
   常田景子 香取智子 山本哲也
   河本三咲 小林優 園田佳奈
   高本愛子 寺島友理子 増永紋美
   宮島久美 召田実子 八代名菜子 

平成17年度文化庁芸術団体重点支援事業

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May 27, 2005

蜷川 幸雄演出/大竹しのぶ主演『メディア』

 東京・渋谷のシアターコクーンで、蜷川 幸雄演出/大竹しのぶ主演『メディア』が上演されています。5月6日-28日の長丁場。いよいよ終盤に差し掛かっていますが、演劇記者の山関英人さんから蜷川さんへのインタビューを踏まえた劇評が届きました。ご覧ください。

◎女の生理で演出を一新 大竹しのぶの『メディア』

 蜷川幸雄の世界デビューとなった作品『王女メディア』。ギリシャでは、1983年、アテネにあるリカヴィトス劇場で上演され、当時、ギリシャ以外の国の人間が同地でギリシャ悲劇を演じるのは有史以来、と言われた。今回は、演出を一新し、「男の論理」に対する「女の生理」を前面に出した。28日までシアターコクーンで上演されている。翻訳も新しくして、題名も『メディア』(賢い人という意味)に改変。男性だった主役とコロスを、全員女性に入れ替えた。

 この物語は究極の、女による復讐劇である。母親が子殺しをして、夫に復讐する「最高の悲劇」で終幕を迎える。その母であり妻である役を演じるのは大竹しのぶ。「翻訳劇の文体を、日本人が生理的にも違和感を持たないでやれる女優」として蜷川は高く評価している。

 大竹の身体には「最果ての地から連れて来られた異民族」を象徴する刺青が施され、衣装の右半身には綻びが目立つ。その露わになった太ももが白く光って、生々しい。短くした頭髪は「2人で相談した結果」(蜷川)であり、この場合も異民族を意識した。「坊主にする」ことまで検討したという。

 印象に残ったのは外見だけではない。淀みのないことばの連続は音楽を奏でるようで心地よい。怒りを含んだ台詞からはエネルギーが迸り、全身を粟立たせる。叫びの声は重みを伴って、観客席に響いた。

 一方、コロスの装いも目を惹いた。子を背負う母親のようであり、孫を背に乗せた老婆のようでもあった。蜷川は「男は観念でしか子どもと接しないけれど、女は生理で関わる。へその緒で繋がってたんだからね。そういうことも含めて、子どもを抱いているということは、一番本質的に、『メディア』という芝居の中ではいいかな」と思ったという。ただ、母親であり老婆でもあるのは「複雑にしたかった、女性の存在をね」という狙いもあったようだ。

 舞台全面に張られた水からも母性が窺えた。羊水を想像させ、胎内を意識させる。それが決定的だったのは、幕切れに舞台後方にある扉を「開門」し、シブヤの空気を劇場に取り入れたことである。2500年前の作品世界と現代の連続性を想起させるとともに、最高の悲劇があろうとも、人は産み落とされ、生き続ける、という宿命を意識せずにはいられなかった。

 扉の開放を決めたのは初日の前日だった。そのために「さまざまな苦労をみんなに強いた」という。せっぱ詰まった中、その作業のために、5時間ほどの遅れが出た。そうまでしたのは「かつての『メディア』より俺は進化しているか」という蜷川自身の問いであり、「自分自身への闘い」だった。その答えは「すべて舞台にある」。〈文中敬称略〉
(山関英人・演劇記者)


[上演記録]
蜷川 幸雄演出/大竹しのぶ主演『メディア
(東京・シアターコクーン、2005年5月6日-28日)

【スタッフ】
作: エウリピデス
翻訳:山形 治江
演出:蜷川 幸雄
美術:中越 司
照明:原田 保
衣裳:前田 文子
音楽:笠松 泰洋
音響:井上 正弘
ヘアメイク:佐藤 裕子
振付:夏貴 陽子
演出助手:井上 尊晶
舞台監督 :小林 清隆

【キャスト】
メディア: 大竹 しのぶ
イアソン:生瀬 勝久
クレオン:吉田 鋼太郎
アイゲウス:笠原 浩夫
メディアの乳母:松下 砂稚子
守役:菅野 菜保之
報告者:横田 栄司
コロス :市川 夏江/土屋 美穂子/井上 夏葉/江幡 洋子/羽子田 洋子/難波 真奈美/スズキ マリ/太田 馨子/関根 えりか/栗田 愛巳/坪井 理奈 ほか

Posted by KITAJIMA takashi : 09:54 AM | Comments (0) | Trackback

May 12, 2005

劇団プロメテウス「目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ」

 劇団プロメテウス公演『目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ』が東京・渋谷の東京ウィメンズプラザで開かれました(4月1日-3日)。2000年の旗揚げ公演の再演。高校時代の先輩2人が参加している舞台をみた小畑明日香さんからレビューが届きました。

◎劇団プロメテウス「目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ」

 ・・・だめだぁー。だめです。面白いんだけど。

 筆者の高校の演劇部で先輩だった人が二人、参加しているこの劇団。二階席まである舞台をフルに使って役者が動き回る。身体能力をフルに生かして走ったり飛んだりもする。照明に関しては何の知識も無いが、贅沢に使っていると思う。

 なのにどうもいけない。
 きっと熱意がありすぎるのだ。
 旗揚げ時の台本を、劇団結成時からの役者が演出して再演したという作品だからかもしれない。演出家にとっては一番距離がとりにくいだろうし、初演のイメージを払拭するために苦労したのが窺える。役者を縦一列にしたり横一列にしたり、円にしたり。凝りすぎてか、役者の動きも自分の動きに似せてしまっていて役者がやりづらそうだった。「左門」というギャグ担当の役が際立って新鮮に見えたのは、きっと彼だけ好き勝手やらせてもらっていたからに違いない。

 台本自体、旗揚げ時のノリが引きずられている感じがする。旧約聖書を土台にシェークスピアと白虎隊を混ぜてトッピングにゲーテ、という話だと、一つ一つの知識がごつごつ主張しているのはいただけない。やっぱ野田秀樹って上手いよな、と思ってしまった。

 殺陣は上手いし、先輩二人(一人は演出兼役者)の動きは図抜けて目を惹いた。上手いのはわかるから、そんなに一生懸命やらないでほしい。演出家は脚本の言い回しを直す権利だってあると思うし、台本から洗い直してみたほうがよかったんじゃないだろうか。
小畑明日香(2005.5.10)


[上演記録]
劇団プロメテウス
目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ

会場:東京ウィメンズプラザ (東京・渋谷)
期間:4月1日-3日

作:金井以政
脚色・演出:三島由流
出演
飯沼貞吉:大橋光
右子/おむね:若山栄子
左子/文子:かわさき愛子
篠田儀三郎:小野一博
神父/日向内記:石部雄一
生徒:桐生真一
黒川雄斗、阿部明日香、松岡貴史、他

企画・制作 小野一博
照明 久保良子
音響 大野幸彦
舞台監督 久保大輔
撮影 根田拓也
美術・衣装 八重沢晃祥
衣装協力 矢内原充志(nibroll about street)
Print textile work by yaezawa (ヤエザワロゴ)www.yaezawa.com
運営 株式会社テクノリンク

出演
飯沼貞吉:大橋 光
右子/おむね:若山 栄子
左子/文子:かわさき愛子
篠田儀三郎:小野 一博
神父/日向内記:石部 雄一
生徒:桐生 真一
黒川雄斗、阿部明日香、松岡貴史、他

Posted by KITAJIMA takashi : 02:37 AM | Comments (0) | Trackback

May 09, 2005

ドロップD 「これからこいつと×××」

 昨年「劇団相殺」主宰者の1人として新宿タイニイアリスで公演を開いた飯田ゆかりさんが、連休中の5月3日-4日、同じアリスで単独ユニット「ドロップD」で、連作コント「これからこいつと×××」公演を開きました。この間何度か寄稿していただいている小畑明日香さんからレビューが届きました。先に西村博子さんがアップしたレビューと併せてご一読ください。

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 テレビでも芝居でもブラックユーモア全盛の時に、飯田ゆかりさんのオムニバス・コントを観ると心が安らぐ。驚かない、という意味とは少し違うが、安らぐというのがコントにとって褒め言葉かどうかは自信が無い。

二つの大きな話が卵でリンクしている、というのが全体の構成だろうか。どちらも卵が登場する、という以外は特に話に共通点は無い。一度、お互いの登場人物が少し会話するぐらいで終わっている。
誰も危険な目に遭わないし、不幸な結末を迎えることもない。それでも、笑えるんだなと思う。
ちゃんとお話したことは殆ど無いが、飯田ゆかりさんという人は根っから優しい人なのだろう。役者の熱意や拙さも含めて、演出家の人柄が滲み出ているように感じられた。

せっかくシチュエーションがぶっ飛んでいるのだし、もっと登場人物を追い詰めてほしかった。卵から恐竜が孵ってしまい慌てて箱の蓋を閉めて閉じ込める、というところで暗転してしまうのは惜しい。作中の人物の境遇に関わらず、役者は苦しめどころでしょう。やっぱり。
誰の揚げ足も取らずに観客を笑わせるのは難しい。ドロップDの名でなくても、ぜひまた公演を打ってほしいと思う。
(小畑明日香 2005.5.08)

Posted by KITAJIMA takashi : 05:42 PM | Comments (0) | Trackback

May 03, 2005

劇団唐組「鉛の兵隊」

◎現在と昭和(?)が交錯する“大人の童話”

 スタントマン事務所「ドタンバ」の若き星である二風谷(にぶや)。幼少時から二風谷とは仲ふかく、自衛隊員として赴任しているムサンナ州から帰国する七々雄(ななお)。七々雄の姉でパーラー<マリー・ゴールド>の華である冴(さえ)。弟思いの冴が、二風谷に七々雄の身代わり(スタント)を依頼し、なんとかその期待に応えようとする二風谷・・・というのが、複雑なストーリーのおおまかな導入部です。

 第一幕の序盤が終わるころ、舞台に巨大なアクリルの箱(スタント事務所が請け負った縄抜け・脱出のマジックで使用したもの)が登場。そのマジックで脱出を果たせずに行方不明となったスタントウーマン“ララ”を、いまでも思い続ける伝説のスタントマン“荒巻シャケ”。彼女を思うあまり、その箱のなかで塩とともに埋もれている「新巻鮭」(荒巻が本当に鮭のレプリカを頭につけている)が姿を現して「塩の中から、ゴメンナサイ」のひとことに、場内は拍手喝采でした。単に笑いをとれる役者ということでいえば、小劇団のなかにもたくさんいるでしょうが、登場しただけで拍手喝采を沸き起こせるというのは、唐十郎ならではの貫禄ですね。

 ムサンナ州から帰国した自衛隊員という設定が、2005年の現在をなんとかつなぎとめていますが、舞台のセットやBGM(シャンソンや「桃色吐息」)をはじめ全体の雰囲気としては「昭和の日本」が舞台といっても過言ではありません。最近の若手芸人がテレビで繰り出すような“いまっぽい”笑いとも無縁です。30代前半の評者にとっては、幼かった頃の情景をかろうじて思い起こさせるノスタルジックな舞台でしたが、ハタチ前後の観客には違和感があったかもしれません。

 最近の小劇団の芝居をみていてなんとなく気にかけていたことが、今回の唐十郎の芝居をみてはっきりとしてきました。家庭や職場といった半径5メートルくらいの身辺で起こる日常的な出来事に題材を求めがちな前者に対し、時間的・空間的に広がりをみせて非日常的なドラマを提示しつづける後者。また、スマートで洗練されていてニヒリスティックともいえる人物設定と演出スタイルが多い前者に対し、愚直で粗野で直情径行な人物設定と演出スタイルを貫きつづける後者。

 いまに限らず、昔から唐十郎の芝居はほかと比べて独特なのだともいえるでしょう。そもそも、両者のアプローチは単に芝居に求めるものの違いというふうに割り切るだけのものかもしれません。ただ、唐十郎的な表現者が新たに登場していないように見受けられる現在の状況は、個人的には寂しいということを再認識しました。

 速射砲のごとく繰り出される長ゼリフに加え、終盤では二谷風、七々雄、冴のほか、七々雄の上官の匠(たくみ)や墨師の娘の小谷の感情が複雑に交錯するため、話の筋がやや難解になっていきますが、セリフの展開に合わせて照明と音響が小刻みに切り替えられていく演出は圧巻でした。ラストで、「ドタンバ」には戻らずに一人で骨拾いの仕事に行くという二風谷が、文字どおり「劇場のそと」へ飛び出してこちらを振り返り、終幕になります。

 アンデルセンの「鉛の兵隊」を知らずに公演に出向いたのですが、さほど大きな支障はなかったと思います。唐十郎流の“大人の童話”として堪能できること請け合いです(元の童話を知っていれば「錫のスプーン」とか「片足の兵隊」といった引用が楽しめるようですが)。なお、季刊の文芸誌『en-taxi』(扶桑社)の第9号に、唐版「鉛の兵隊」の文庫本がおまけとして付属しています。

 二幕構成で、幕間の10分を含めて2時間あまり。おそらく状況劇場の時代から足を運んでいるとおぼしき年配客から、唐十郎の孫の世代の小学生!(関係者の親類か?)まで、老若男女およそ400人が花園神社に詰めかけました。

 新緑も心躍らすテントかな

(吉田ユタカ 2005.4.30)


[公演予定]
大阪公演(4月15-17日 大阪城公園・太陽の広場)
神戸公演(4月23日 湊川公園)
東京公演(4月30日-5月1日 新宿・花園神社)
    (5月7-8日、5月14-15日、6月18-19日 西新宿原っぱ)
    (6月10-12日 雑司ヶ谷・鬼子母神)
水戸公演(5月20-22日 水戸芸術館広場)
豊田公演(6月4-5日 挙母神社)

Posted by KITAJIMA takashi : 09:32 PM | Comments (0) | Trackback

May 01, 2005

劇団、本谷有希子「乱暴と待機」

◎卑屈で不謹慎な人々の、上質な愛の物語

劇団、本谷有希子。
言わずもがな、ではあるが今現在、小劇場界で最も注目を集めている劇団の一つである。

 自分の名前を劇団名にした主宰・本谷有希子の専属役者を設けない「プロデュースユニット」として2000年8月に旗揚げされたこの劇団は、女の濃い情念や身勝手な妄想などを題材にして芝居作りを行っていると聞いていた。題材としては非常に私好みであったものの「松尾スズキに影響を受け過ぎている」という反応を多く目にしていたのであまり気が進まなかった。同時期に、別の劇団で松尾スズキに影響を受けたと思われる舞台を観て、そのあまりの出来に落胆していたので、比べるわけではなくともどこか足踏みをする気持ちが生まれていたのかもしれない。

 ところが、前回公演の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と今回公演の反響コメントを目にして、私は居ても立ってもいられなくなった。いろいろとこだわりを持つより自分の目で確かめるべきだ。ということで、恥ずかしながら今回が初見である。本谷有希子の「馬渕英里何にスエットを着せたい」という思いから生まれたという『乱暴と待機』。当日券・立見席で観劇。

 端的に結論を言うと、「面白い!観に来て良かった!」である。
 役者の力も大きいけれど、その役者の力を引っ張り出した台本と演出にも脱帽した。松尾スズキの影は私にはあまり見受けられなかった。特に馬渕英里何の演技力が存分に生かされていることに驚いた。長塚圭史作・演出の『真昼のビッチ』を観た時に「この人は舞台女優として成長するな」という予感があったが、今回の舞台で見事、開花したという印象。

 内容。冒頭で突如、物語のラストの男女四人の光景が繰り広げられる。もちろん、この時点では、おそらくの範囲内でしかなかったのだけれど、観客は物語の前後が分からないままに、男が「最高の復讐を思いついた」と言って家を出て行き、電車に飛び込んだというエピソ―ドを見せつけられる。
 「何で突然、死んじゃってんだよ!」
 印象的なこの台詞を残し、物語は始まる。

 献身的に相手に尽くそうとする小川奈々瀬(馬渕英里何)と寡黙で笑わない山岸(市川訓睦)は二人暮らし。日々、山岸は奈々瀬に対する「最高の復讐」の内容を考えており、奈々瀬はその「最高の復讐」を受ける機会を待ち続けている。奈々瀬は毎晩山岸を笑わせるためのネタを考え、山岸はそのネタに全く表情を変えることなくシュ―ルとベタな笑いの違いについて講義したりしている。そして二人は二段ベッドの上下にそれぞれに横になり
 「おにいちゃん、明日は思いつきそう?」
 「ああ、明日はきっと思いつくさ」
 「良かった」
 と言葉を交わし、眠りにつくのである。どうやら、そんな毎日が繰り返されているらしい。

 そんな中、刑務所で死刑執行のボタンを押す仕事をしている山岸の同僚の万丈(多門優)が奈々瀬に興味を持ち、加えて万丈に思いを寄せている故に振り回されているあずさ(吉本菜穂子)が「奈々瀬に笑いを伝授する」という名目のもと、部屋を訪れるようになってから、二人の不可思議な同居の実態が浮き彫りになってくる。

 なんと「復讐の原因」が何なのか、どちらも思い出せないというのだ。幼なじみだった二人は、十二年前に車の踏切事故で山岸の両親を亡くしているらしい。その際、後部座席に乗っていた山岸と奈々瀬だけが生き残ってしまい、山岸の足に後遺症が残ったとのことだが、そこからは奈々瀬への復讐の原因は汲み取れない。

 山岸いわく、自分の人生がうまくいかなくなり始めた起源を辿ったら奈々瀬に行き着いたのだと言う。奈々瀬も自分のもとに会いに来て「誰も思いつかないような最高の復讐をしてやる」と言った山岸の意思を受け入れ、それで今まで六年間もの共同生活が続いているというのだ。はっきりした復讐の理由もわからないままに。そして山岸は、天井に空いた穴から、時折、奈々瀬の姿を盗み見ては復讐の内容を考えているのである。

 何だかゾクリとした。恐怖とはまた違う。行き場が無いと認識した瞬間の人間の行動に覚えがあるような気がして、興味を惹かれたのだ。感情の理由づけをするために必死な登場人物たち。私は物語の展開と矛盾を楽しみながら、依存状態に入り込む瞬間の人間の姿について考えた。この二人はそれぞれ憎しみと同情の思いに互いが一緒に居ることの意味を持たせているのである。性交渉もない二人の関係は、壁一枚、いや布団一枚を隔てた自身の生きている実感を保つための鎖であるというわけだ。

 その鎖が、万丈とあずさが介入してくることによって徐々に錆びれてゆく。どこか軽快な会話のテンポに笑いながらも、私はちくちくと胸を刺してくる痛みに気付いた。その痛みは、女である自分と奈々瀬を重ねている状況に対するものだった。馬渕英里何は、奈々瀬の「人から嫌われることが何よりも苦痛で、過剰に遠慮して逆に不快感を与えてしまう」キャラクターを堂々とやってのけていた。

 奈々瀬はそれから、誰からも嫌われたくないあまり相手の思うままになり、自分の部屋で万丈と体の関係を持ったり、あずさに見つかって殺されそうになったりする。屋根裏に居た山岸がその行動を止めたことから、覗き見の事実が露呈して、山岸は奈々瀬と別々に暮らすことを提案する。奈々瀬はそれを受け入れる。二人は二段ベッドで、いつもとは違う会話を交わす。嘘を話すという前提で、お互いの思いを伝え合う。

 ところが、いざ奈々瀬が出て行こうとする時に山岸は「復讐の原因」の内容を思い出したと言って部屋に戻ってくる。その理由とは、車が線路内に入ってしまった時に、山岸が「前」と言ったのに奈々瀬が「後ろ」と言って両親を混乱させたからだという。原因を思い出すことが出来た喜びで、六年ぶりに高らかに笑う山岸。しかし、その場で内容を聞いていたあずさが冷静に状況を分析する。

 ―― 前に進んでいたら山岸も奈々瀬も死んでいたのではないか。後ろに戻ったから、二人は助かったのではないのか。

 山岸の笑いが止まる。奈々瀬が焦りを見せる。そんなんじゃない。私が悪いの。私が余計なことを言ったからいけないの。必死で山岸をかばう奈々瀬。呆然とする山岸。すると奈々瀬がここで初めて口調を荒くしながら自分の思いをぶちまける。そうやって、私のことを無かったことにするんでしょうと。そして実は、覗き見の穴は奈々瀬が用意したものだったということが露呈される。奈々瀬は山岸に対し、自分を「復讐」という言葉のもとで受け入れて欲しいがためにそのような行動をとっていたのだった。

 「面倒臭い私ごと、受け入れて欲しかった」

 この台詞が、女である私の胸を突き刺した。う―ん。痛い。どうやらこのシ―ンで奈々瀬が語ったことに対しては賛否両論あるようだが、私は強烈に見入ってしまった。不器用に振舞うことしか出来ない奈々瀬が人間臭くてたまらなかったからだろう。卑屈で不謹慎でどうしようもないけれど、愛しい。・・・と感情移入していると、山岸が「最高の復讐を思いついた」と言って外に飛び出していった。あぁ、冒頭で見せ付けられたラストシーンだ。そういうことか。奈々瀬は山岸が電車に飛び込んだと聞いて笑う。最低で、最強の愛情表現である。なんて、後味の悪い締めくくり。暗転になった舞台を見つめながら、私は胸の中にずっしりと重いものがかぶさってくる感覚を味わっていた。これで終わりだ。カーテンコール・・・と思ったら、舞台は明転し、部屋にひょこひょことミイラ状態になった山岸が帰ってくるではないか!

 指を無くしたものの、助かった山岸は、「本当は絵を描きたかったことを思い出した」と言い放つ。そして再び、奈々瀬との「復讐」という名のもとの共同生活が始まる――。

 本当のカーテンコールの時、私は、しばらくぼんやりとしてしまった。最後に山岸と奈々瀬が、とても幸せそうに笑ったのが印象的だった。これは立派な「愛のカタチ」であるとそう思った。恐るべし。劇団、本谷有希子。心の襞をこのような形で描き出すとは。

 万丈とあずさの展開に強引な箇所は見受けられるものの、それでも充分な満足感を得ることが出来た。女の情念や思い込みを描き出すというから、もっとヒステリックなものを想像していたけれど、全然違う。これは、しっかりと作り込まれた、上質な愛についての物語である。

 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』がDVD化されるらしい。是非、購入して、今回公演との違いを見比べてみたい。
(葛西李奈 2005.4.30)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:07 PM | Comments (2) | Trackback

April 17, 2005

針ヶ谷プロデュース「二十日鼠と人間」

 米国の作家J.スタインベック原作「二十日鼠と人間」が東京・シアターVアカサカで上演されました(4月14日-17日)。主催の針ヶ谷プロデュースは「新劇、小劇場、学校公演、マスコミ-各方面で活躍するキャスト・スタッフが集まり、一つの作品のアンサンブルを創りあげていく、俳優・針ヶ谷修のプロデュース公演」だそうです。この作品は、同じ作者による「怒りの葡萄」「エデンの東」などと同じように、映画化されているほど有名です。実際のステージはどうだったか、小畑明日香さんからレビューをいただきました。

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 開演に遅刻してしまった。劇団関係者の方本当にごめんなさい。

 舞台の使い方が典型的なヨーロッパ演劇、という感じだ。最前列の演技スペース、そこに入ってくる通路、一番奥の遠景と三段に舞台が分かれていて、遠景の役者は風景の一部に徹している。最前列は必ず部屋の中だから、入り口以外のところから新たな役者が入ってくることはできない。
 
 映画化もされているというこの話は、知恵遅れの怪力男レニーと友人のジョージを軸に、アメリカの農場で起こる話だ。

 小作人の二人は、自分達の家と土地を手に入れるために働く。協力者も現れて順調に夢は実現に向かうが、知恵遅れと怪力が災いし、レニーは誤って女性を殺してしまう。ジョージは河原で、兎小屋のある十エーカーの土地の話をしながら、レニーを後ろから射殺する。

 友人がたまたま映画のファンだったので楽しみにしていたが、予想したほどは泣けなかった。
 なんだか詰めが甘い。

 喧嘩っ早くてわがままなハーリーに対して、小作人のジョージは最初から強気な態度を取る。ハーリーは雇い主の息子だ。レニーとジョージは新入りで、おまけに手違いで契約時間に遅れている。明確に身分の違いが示されているのに、いきなり喧嘩売ったりしていいのかよジョージ。それともアメリカではそれが普通なのか。レニーが馬鹿にされたから怒ったんだ、と思わせるには、我慢している時間が少ない。ジョージに限らず他の小作人たちも、主従関係を意に介しているようには見えない。色目を使って歩く、カーリーの妻にも脅威を感じないようだ。

 抑圧があるから、夢を語る口調にも熱意がこもるのだと思う。ハーリーがレニーに喧嘩を仕掛けて逆に怪我しても、場の皆がレニーに味方する。理屈は分かるが嘘っぽい。そうした主従関係への意識の欠如が、一幕目の展開を冗長に見せていた。

 作中に登場する子犬だって、小道具なんだからもうちょっと凝った方がいいと思う。力加減を誤って殺してしまった子犬をレニーが投げるシーンがあるのだが、床に犬が落ちると
「さきゅっ」
とビーズの音がするのだ。ラストシーンでも使われるのだし、素材にも気を遣ってほしかった。ここが嘘になると、怪力ゆえに、大好きな小動物を殺してしまうレニーの哀しさも頭でしか理解できなくなる。

 詰めの甘さを多々論じてきたが、反面、舞台美術に関する神経は行き届いている。大掛かりな場転のため完全暗転はできないでいたが、青いライトを浴びて作業する人達が、農場で働く人達に見える一瞬があって興味深かった。布を床に敷いて納屋の藁を表現するのも、効果的に作用していたと思う。

 日本の近代劇の原点になった欧米形式の芝居を観れただけでも勉強になった。今度ぜひ映画を観ようと思う。
(小畑明日香、2005.4.17)

[上演記録]
針ヶ谷プロデュース「二十日鼠と人間」
 東京・シアターVアカサカ(4月14日-17日)

出演
レニー   針ヶ谷 修
ジョージ  佐藤 太
キャンディ 角谷 栄次(劇団 民芸)
カーリー  日花 一善
スリム   亜南 博士
カールソン 今井 徳太郎(劇団ギルド)
ホィット  藤井 としもり
クルックス 吉岡 扶敏(劇団 民芸)
ボス    元山 裕隆
カーリーの妻 秦 由香里(演劇集団 円)

スタッフ
作/J.スタインベック
訳/守輪 咲良
演出/鷲田 照幸 ・ 阿南 聡
美術/塚本 祐介
照明/北島 雅史
音響/城戸 智行 (オフィス新音)
制作/Youko
制作協力/ぷれいす
チラシ画/深作 廣光

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March 10, 2005

東京ネジ「フロウフユウ」

 「東京ネジ」の第2回公演「フロウフユウ」が東京・王子小劇場で開かれました(1月27日-30日)。このグループは、盛岡を拠点に活動していた劇団ネジのメンバーら女性5人で2003年11月に結成。「佐々木」姓が3人、血液型AB型が3人だそうです(まとまりがいいのでしょうか?)。
 「デジログからあなろぐ」や「しのぶの演劇レビュー」も書いていますが、 
このほど小畑明日香さんから長めの公演評をいただきました。小畑さんは今春から大学生。フレッシュな目に、舞台はどう映ったのでしょうか。

◎思い出して嬉しく、ささやかに描かれて切ない

 座席に赴くと、アンケート用紙の上にマスクが置いてあった。
 王子小劇場の高さを生かして東京ネジが造ったのは、お洒落な2階建ての家の断面図だった。吹き抜けの1階とカーテンで客席から閉ざされた2階を、緩やかに曲がった階段でつないでいる。最近流行りの「暖かみのある建築」。気鋭のデザイナーが一枚噛んでいそうなデザインだ。
 それを見渡す客席の上に、マスク。「演出の関係上少々埃っぽくなりますので」そのときに使えと前説が入って、芝居が始まった。

 この作品の舞台は未来だ。ロボットが人間と共存しているし、世間では温暖化が進んで、この冬は46年ぶりに雪が降るとかでニュースになっている。
 しかしこの話の主役は、あくまでも自らの幸せを模索する人間達だ。そしてその願いを叶え、幸せをもたらしてくれる、ケサランパサラン。
 この生き物はとても小さく、ちょうど綿の塊の表面を八方に引きちぎって毛羽立たせたような形をしている。白粉を食べて増殖し、タンスの奥に隠しておくとその家を繁栄させる。そのため嫁入り道具の1つとして、母から娘に受け継がれていたらしい。ただし人に見られてしまうとそれまでの繁栄も全て失ってしまうので、なかなか広まらなかったんだとか。

 レビューを書くにあたって調べてみて、初めてこれが東北地方に伝わる伝説だと知った。東京ネジの前身である劇団ネジも、北東北を拠点に活動していた。

 オッシャレーな家のインテリア、山吹色の背の低い円柱の中に、増殖したケサランパサランがこっそり飼われている。母の所から盗んできたそれで娘のみつるが願うのは、自分の不老不死と、男女それぞれ1人ずつの子ども。女の子には数字に関する予知能力があって、みつるはその能力を利用し、ギャンブルで大儲けして毎日を暮らす。

 SF的な設定が時代背景に徹している点がいい。それでいて、登場する人物達はちゃんと未来に馴染んでいる。「具現人格」という精神病を患った女から具現化された人格が産まれてきてしまったり、寿命がきた旧式の世話係ロボットを廃棄できない青年がいたりする。

 現代に無い物をたくさん登場させると説明が難しくなるが、この作品はその処理も巧みだ。ケサランパサランのことを東京の人間に解説するために、みつると母に絵本を音読させる。

「しかしその間にもケサランパサランは増えつづけ、とうとうタンスからあふれて部屋中に広がり始めました。
 ああどうしよう、このままじゃ、ケサランパサランが見つかってしまう。
 女の子は必死で考えて、とうとう窓を開けて叫びました。
 ケサランパサラン、風に乗ってゆけ。
 ケサランパサラン、雪になって吹け。」

 増えすぎたケサランパサランは仕舞いに効き目を失って、山吹色の円柱から噴き出す。みつるの目の前で、2人の子どもも、引いては今までの歳月全ても失われてしまう。そして46年ぶりに町に降る、雪。

 この場面は本当に美しい。3つのシーンでそれが表現されるのだが、雪の表現の仕方が3つとも違うのだ。(1つは雪じゃなくてケサランパサランだけど)
 個人的にはぜひ、3つのシーンを連続して観てみたかった。暗転は一切無しで、曲も同じ曲を流しっぱなしにするか、シーンごとに変える程度にして。それまで舞台転換が巧妙だっただけに、ケサランパサランが噴き出すシーンの前の暗転が大変勿体無く思えるのだ。

 芝居全体では3回しか暗転しないのだが、クライマックスからラストシーンまでに暗転が続くので、妙に長く感じてしまった。仕掛けの都合上難しいのかもしれないが、もしこの作品を再演することになったら、ぜひクライマックスを連続で観せてほしい。

 3つの物語が巧妙に展開される「フロウフユウ」の魅力を、文章だけで伝えきるのは本当に難しい。娘と同じく不老不死になった母の、若い恋人とのベッドシーンのことを話すのは特に難しい。
 笑えるのだ。子供用のトランポリンぐらいしか大きさがない円柱の上を、
 「狼!」
 「子羊!」
 「(布団を被って)富士山!」
 「(男に寄り添って)チョモランマ♪」
 などと言いながら2人が走り回る。2人とも下着姿だし、小道具も布団だけ。(最後に母の恋人は煙草を吸う)動き回れるスペースも非常に狭いのに、多彩な表現に意表を衝かれた。ものすごく可笑しいのに品が良くて、2人の愛情の深さがよく伝わってくる。

 同じ恋人同士のシーンでも、「みつるの子ども(♂)と、精神病を患ってしまった30歳の彼女」の話になると、割に力が抜けて純愛もののテレビドラマのような雰囲気の芝居になる。クライマックスのそれは少し間延びして感じられたが、野田秀樹よろしく大騒ぎするみつるの母達と好対照を成していて面白い。

 恋人を想ったり、親が子を思いやったり、喧嘩して仲直りしたり、あるいは、陰湿に旧式ロボットを虐めていた新型ロボットが、旧式ロボットの思い遣りを知ったり。赤面してしまうほど純粋な数々の愛情が話を支えている。ここまで書いてきて初めて思い至ったぐらい、どのエピソードもささやかに描かれていて切ない。

 1つ1つを強烈に感じることは無いけど、全てを失ったみつるの
 「また、ゼロになりました!」
 という台詞で観客が後味良く席を立てるのは、話の中に織り込まれたそうしたエピソードが、(結果的に無かったことになっているとしても)確かに一時そこに存在していたからである。

 観ても面白いし、1つ1つシーンを思い出していると意外な伏線に気づいたりして嬉しくなる。
 いつまでも楽しめる、上質な作品である。
(小畑明日香 2005.3.09)


[上演記録]
東京ネジ第2回公演「フロウフユウ」(公演の予告編=ビデオもありました!)

日時:2005年1月27日-30日

作 :佐々木なふみ
演出:佐々木香与子

出演:
 佐々木香与子
 佐々木富貴子
 佐々木なふみ
 龍田知美(以上、東京ネジ)
 平野圭(ONEOR8)
 明石修平(bird's-eye view)
 宇田川千珠子
 浦井大輔(コマツ企画)
 田保圭一
 サイトウミホ

場所:王子小劇場(王子小劇場賛助公演)

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March 07, 2005

阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」

 長のご無沙汰でした。昨年末からWonderlandサイト編集がほとんど手つかずでしたが、やっと復帰の条件が整いました。また非力を顧みずあちこち歩き回ります。よろしくお願いします。

 さて、阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」の東京公演(2月17日-3月2日、下北沢・本多劇場)が終わり、大阪、札幌、仙台、 名古屋、福岡、広島公演が3月末まで続きます。楽しみにしている方もいらっしゃると思いますが、東京公演は好評だったようです。「しのぶの演劇レビュー」や「某日観劇録」など多くのサイトが取り上げていますが、今回紹介するのは青木理恵さんのレビューです。 今春から社会人だそうです。これからもどんどん書いてほしいですね。以下、全文です。

◎気持ちが悪いほど人間らしい 阿佐ヶ谷スパイダース『悪魔の唄』

捕らわれ続けるのは簡単である。
難しいのは、一度何かに捕らわれてしまったところからどうやって生きていくのか、なのだ。

ある地方の一軒家に引っ越してきた、愛子(伊勢志摩)と壱朗(吉田鋼太郎)の夫婦。
その家に、「探し物があるのだ」とサヤ(小島聖)と眞(長塚圭史)の夫婦が突然訪問してくる。

愛子は精神的に病んでいる。そのきっかけは、過去の壱朗の浮気が原因だった。
サヤは眞から逃げ回っている。本当に愛する人が他にいるからだ。
思い通りにならない妻に戸惑い、追い詰めてしまったり、無理に優しくつとめようと空回りしたりする夫たち。

そんなさなかに、床下から人格を持ったゾンビが現れる。
戦争中に散ってしまった鏡石二等兵(伊達暁)、平山二等兵(山内圭哉)、立花伍長(中山祐一朗)の三人である。
米国への憎しみが晴れない彼等は、自分たちの手で再び米国を倒そうと立ち上がる。
三人に順応し、愛子は自分も兵の一員だと思い込む。
壱朗は、愛子を壱朗から引き離そうとやってきた愛子の弟、朝倉紀行(池田鉄洋)の力も借りて、何とか愛子を現実に引き戻そうとする。

また、サヤの想い人とは立花伍長であると分かる。
つまり、サヤと眞も死してなお、思いを残して現世に留まっている者たちだったのである。
思いを伝えたいサヤと、それを引き止めようとする眞。

一人一人の思いは、全て別の方向を向いている。誰もが、自分の思いのみ達成されれば良いと願う。

人間は強い思いを持った弱い生き物だ。
しかしその強さとは関わりなく、思いは必ずしも成し遂げられるとは限らない。
そうなった時、思いに強く捕らわれているほど、自らの身は破滅へと向かう可能性が高いということを、人はすぐに忘れたがる。
それを忘れてひた走る登場人物たちの、最期は。空白という言葉が、一番似合っていた。

人は強い意志と混迷との狭間で、いつも苛まれる。
「こうしたい」と「どうしたら良いか分からない」は、矛盾した感情のはずなのに
どちらも強く主張をし、互いに一歩も譲らない。実は矛盾自体が、人間らしさなのかもしれない。

阿佐ヶ谷スパイダースの作品は、気持ちが悪いほど人間らしい。
描かれる世界はファンタジーさえ感じるものなのに、そこに内包されている人々の精神的な動きは他人事には感じられない。
作品を通しながら、「私自身も矛盾した思考を持っているのだ」と見せ付けられる。

この劇団を初めて見たのは、前回公演『はたらくおとこ』である。
日本一まずいりんごを作ろうとして倒産した会社に、いつまでも執着し続ける社員や、農業経営者たちの閉塞的な人間関係を軸にした物語である。

お金を手に入れようと、危険な生物兵器の入った荷物を運ぶ仕事に手を出す。
しかし、事故により生物兵器が外に漏れてしまう。
ラストで一人、また一人と死んでいく中、まだ生きている者が、生物兵器におかされきったりんごを次々とほおばり出す。
自らの正当性を、最期まで否定したくない。私は間違っていないのだ、と。
そこまで抗い続ける姿は、もはや崇高ですらあった。

「人間の持つ矛盾の威力」という点に関しては、前回の方が上だったかもしれない。
けれど、「人間の持つ純粋な思いの強さ」という点に関しては、今作は圧倒的だった。

米国に一泡吹かせてやるのだと、愛子の解放と引き換えに、飛行機の手配を要求する兵士たち。壱朗に騙され、体が消えかけているにも関わらず、飛行機が置いてあると指定された、嘘の方向へ突き進んでいく。
壱朗はそんな彼ら姿を見て、大きな罪悪感に苛まれる。そして自らを兵の一員だと信じていた愛子は、心ごと崩壊してしまう。

自分の思いを叶えたい。ただそれだけのために動いたはずだ。
例えそこに憎しみや絶望すら含まれていたとしても、自分の思いだけを信じて。だが結局、背後には取り戻せない何かが口を空けて待っていた。
人生には、そういう瞬間が多々訪れる。

私は人間らしい作品が好きだ。その中にどんなに汚い感情が含まれていても。
汚さと純粋さ、ひっくるめて人間なのだから。
どちらも堂々と表現できる劇団は、実はとても少ない。
最近とみに人気が上昇してきている阿佐ヶ谷スパイダースだが、人間らしさを見失わない限り、この劇団は今後も成長していけると思う。
(青木理恵 2005.2.18)

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February 16, 2005

KUDAN Project「くだんの件」

 少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」のレビューをお届けします。筆者は青木理恵さん。日本文学専攻の大学生です。実は南船北馬一団の公演評より先ににいただいていたのですが、掲載が遅れました。スミマセン。

◎快感の余韻と気だるさの感覚 イイ男との一夜の火遊び…

夢の中へ紛れ込む。
そこは理想郷のようでもあり、また現実逃避の場でもあり。
それでも、逃れられない現実は、いつだって自分の前に立ちはだかっている。

小熊ヒデジと寺十吾。
昔住んでいた街を訪れた者と、その街である店を営む店主。
いつも一緒に遊んでいる、タロウとヒトシ。
同Project作品である、『真夜中の弥次さん喜多さん』の弥次と喜多。
夢を見ている者と、その夢の中の登場人物。
一対一の関係は、瞬間でその色を変え、
今出てきたのが誰なのか、やっと理解できたかと思うと、またすぐに移り変わってしまう。

この作品を説明しろ、と言われると困る。
私にはそれを上手く説明できるだけの語彙力がない。

リアリティもなければ、取り立ててメッセージがあるわけでもない。
観客は、舞台上の二人の濃密な空気感を、ぼんやりと眺めさせられるだけだ。
またこれが、驚くほど気持ちの良い時間なのだから、たまったもんじゃない。

ラストには、装置が全て取り払われた舞台の上で、二人がそっと離れていく。
初めから、何もなかったのだとでも言うように。
そして閉じられた幕に映し出される、数え切れないほどの「ゆめ」の二文字。
本来自分の眠りの中でしか見られないはずの夢を、舞台の上で見せ付けられる。
そんな感じ、である。

『真夜中の弥次さん喜多さん』を見終わったときも、
今回の『くだんの件』を見終わったときも、
まるで性行為を終えた後のような、
快感の余韻と気だるさが入り混じった、何とも言えない肉体感覚が残っていた。

ただ一時間半座っているだけで、
肉体感覚にまで浸透してくる天野天街の演出力は、
こちらの想像力の貧困さを露呈させる。
だからそこに、何もかも忘れて身を任せたくなってしまうのだ。

溺れるような気持ち良さの中で、一度でも夢を見てしまったら、
なかなか足を洗う事はできない。
だからといって、その世界ばかり見ているわけにもいかない。
夢は、あくまで現実の添え物であり、
現実そのものを「なかった事」にするために存在しているわけではないのだから。

例えて言うなら、私にとって、KUDAN Projectの作品とは、
手に入らないほどのイイ男との一夜の火遊び、のようなものかもしれない。
(青木理恵 2005.2.6)

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February 15, 2005

南船北馬一団「にんげんかんたん」

 昨年夏から続いてきたアリスフェスティバルのしんがりは、大阪を拠点に活動している南船北馬一団の 「にんげんかんたん」公演だった(2月4-6日)。旗揚げ公演「よりみちより」で96年スペースゼロ演劇賞大賞を受賞。2002年4月上演した「帰りたいうちに」で、第7回劇作家協会新人戯曲賞大賞を受賞するなど、活動の幅を広げている実力派劇団。新境地に挑む新作について、青木理恵さんからレビューをいただきました。

◎時の止まった街から、動き出した今へ 「無意味」の「意味」の追求を

幻想に逃避する、その意味を考える。
あなたはどこから逃げたいの?

ひろ子という名の女性と、その姉が共に歩いている。
知らない街なのか、知っている街なのか。それは明かされるわけではなく、
ただ二人がいる街、である。

ある時はパン屋、またある時は喫茶店、そして酒屋と街中を流れる。
乗り損ねてしまったバスの待ち時間を埋めるように繋ぎ合わせられる時間は、
手からするすると零れ落ちていくような、ある種の無意味さを含む。

そしていつの間にか姉は妹の前からいなくなる。
慌てて追いかけていく妹。
街中を探し回り、やっと見つけ出した姉から発せられたのは、
「私はあなたよ」
という言葉だった。
姉は現実から逃げまどうひろ子自身の姿だったのである。

時の止まった街から、動き出した今へ。
逃げ続けていたかった自分を見つけ、前へ進めと。
ひろ子が夢から覚めて、この作品は終わる。

作品を通して伝えたい想いが、明白であればあるほど、
「余剰さ」の扱い方には細心の注意が必要だ。
正直この作品には、無駄が多いという印象が残った。
繰り返される機械的な肉体の動きや、前に進まない台詞の存在価値が
作品に対して、あまりにも薄かったのである。

この作品は、物語を突き詰めれば多分、一時間もかからずに終わってしまう。
ともすれば、ありがちと言われてしまう内容だ。
きついことを言えば、高校演劇的な青いテーマなのだ。
自分自身が高校演劇の経験者なので、「見覚えがあるな・・・」という実感が強くある。

しかし、それをあえて表現し、作品として二時間弱の大きさへと膨らませていくためには、
「自己と向き合うことの難しさ」という作品自身の持つテーマと、
作者は嫌というほど向き合わなければならない。
でなければテーマは上滑りし、
観客の心の中に「可愛らしさすら覚える若さ」しか残らなくなってしまう。

また、作品の中に「無意味」な瞬間を含むのであれば、
「無意味」であることの「意味」を追求しなければならない。
そうでなければ、「無意味」な部分はただの時間稼ぎにしか見えないのだ。

役者たちは良かった。
それぞれの声が印象的な上に、
「間」が作りこまれていて、流れはよくできていた。
完成度が低いわけではないのだ。
なので問題は、やはり作品自体の描き方ということになる。

この南船北馬一団という劇団は、今回の「にんげんかんたん」から
新しい表現を模索し始めている、と伺った。
これまでの公演内容と今回は、随分変化しているそうだ。

ならばぜひ、これまでの作品も見たいと思った。
その上で改めて今回の作品を見つめ直すと、
私の中にまた異なる意見が生まれてくるかもしれない。
十分に可能性は秘めている劇団なので、今後の発展を願っている。
(青木理恵 2005.2.14)

[上演記録]
南船北馬一団 「にんげんかんたん」

★作・演出:棚瀬美幸
★出演:藤岡悠子,末廣一光,菅本城支, 小崎泰嗣(発声ムジカ), 黒田恵(劇団潮流), 河村都, 経塚よしひろ, 後藤麻友, 白野景子, 長瀬良嗣, 山本雅恵
★舞台美術:柴田隆弘
★照明:森正晃
★音響:大西博樹
★舞台監督:中村貴彦
★チラシデザイン:米澤知子
★制作協力:石垣佐登子, 谷弘恵
★制作:南船北馬一団


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February 12, 2005

KUDAN Project「くだんの件」

 公演名を詳細に書くと、少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」。ちょうど10年前に東京・新宿のタイニイアリスで初演され、その後98/99、2000/01年にアジア公演と国内公演が行われています。作・演出は天野天街(少年王者舘)で、小熊ヒデジ(てんぷくプロ)と寺十吾(tsumazuki no ishi)の2人芝居です。1月26日-2月1日まで横浜相鉄本多劇場で。

 KUDAN Projectのwebサイトによると、物語は次の通りです。

 どこでもない時、どこでもないところ、どこでもない夏の或る日……記憶の奥に取り残された荒廃した店頭。ホコリの積もったカウンターの奥に座る一人の男(ヒトシ)のもとに、一人の男(タロウ)が訪ねてくる。タロウは昔、集団疎開をしていた頃、このあたりの二階の片隅で半人半牛の怪物「クダン」を飼っており、その「クダン」を探しに来たという。謎めいた二人の過去をめぐり会話は捩れ、過去と現在を行きつ戻りつしながら世界は迷走し、蝉時雨を背景に分裂と増殖を繰り返す。《夏》のイメージを明滅させながら、まるで極彩色の光の中をジェットコースターで走り抜けるようなスピードで物語は展開し、夢か現(うつつ)かわからぬ世界の先に待つオシマイへと向かいます。

 葛西李奈さんから「くだんの件」のレビューが届きました。「ユメの終わるユメ」とラストの光景を重ねています。以下、全文です。

◎懐かしい「におい」 経過をたどる「おもい」

 わたしは天野天街のキソウテンガイに出会うとき、鼻先に触れる「におい」を実感する。

 それは言わば、子供の頃ぜったいにつかんで離さなかった毛布のボロボロの端切れのような、精一杯にぎりしめることの出来る「軌跡」から漂ってくるものではないかとおもう。
大好きで大好きで、ずっと一緒にいたかったのにくたびれてしまった、あいするものがあったとして、いつの間にかわたしはそれを忘れていて、何故か欠片でも良いから思い出したくて彼の舞台を観続けているような、そんな気がするのだ。

 就職活動を終え、地べたを雨が打ちつける中、わたしは重い身体を引きずって横浜にあらわれた。この日は朝から初めての面接を受けた帰りで、しかも前日は友人と遅くまで語りに力を入れていて、終電を逃し帰宅したのは午前二時、結局睡眠時間は二時間という「最悪」のコンディションで舞台に臨もうとしていた。何度も「今日は諦めよう」と思ったが、この日を逃したらもう時間がない、観るチャンスは二度と訪れないかもしれない・・・と精神と肉体にムチ打って観劇に至ったのである。

 そんな状態で観た舞台はどのようにわたしの胸に響いたのか。結果から言おう。睡魔に襲われる間もなく、わたしは「におい」の心地良さに心を奪われていた。むしろ、そのような疲れを身にまとっていると、空気の揺らぎに敏感になるので、逆にいつもより何倍も「におい」を全身で感知することとなったのである。

 蝉の声のもとに展開される、ヒトシとタロウの、繰り返し見ている夢、夢の見ている夢、夢の終わる夢。つめ、スイカ、しお、うめぼし、コップ、ピザ、わたし達が当たり前のように目にしている日常が、言葉あそびを持って新しい側面を提示していく。同じことを舞台にいる二人が形を変え品を変え繰り返していく中で、「タロウがヒトシを突き落とした」
このようなフレーズが見え隠れする。ギクリとした瞬間に次の場所へと進んでいる二人が、いや、ずっと同じ場所にいるのかもしれないが、わたしは目の前で起きていることを信じられなくなる。

 高校生時代から少年王者舘の舞台をいくつか観てきたけれど、舞台で繰り広げられる「奇跡」の数々と共に、わたしは登場人物達の「軌跡」の経過を追っている。それはとても懐かしいもので、じわじわとたちのぼる痛みを伴いながら、思考をゆっくりと止めてしまう。
まさにこれは、「ユメの終わるユメ」なのだ。

 ラストの舞台上に何もなくなった状態でタバコを吸う二人と、足元に残る現実の一点であるピザの箱に、光は差している。わたしは心地よさをその場で封じ込めるようにして持ち帰り、劇場をあとにした。きっとまだまだ、忘れていることと忘れられることはたくさんある。けれどこの世界を目にすることが出来る限り、救いは生まれているようにおもう。
(葛西李奈 2005.2.12)

[上演記録]
少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」
場所:横浜相鉄本多劇場
日時:1月26日-2月1日

作・演出 天野天街(少年王者舘)
出演:小熊ヒデジ(てんぷくプロ)、寺十吾(tsumazuki no ishi)

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February 06, 2005

劇団タコあし電源×デジタルハリウッド大学院大学プロデュース公演「面接の人達2006」

 劇団タコあし電源×デジタルハリウッド大学院大学プロデュース公演「面接の人達2006」公演が1月28日(金)-2月7日、東京の中野・劇場MOMOで開かれました。就職活動中の大学生、青木理恵さんから身につまされるレポートをいただきました。以下、全文です。

◎作り手の自覚以上に高いニーズ 就職活動を通した自己成長物語

人生のうちで、就職活動ほど特殊なものはない。
・・・そう考えてしまうのは、私自身が今まさにその渦中にいるからなのだろうか。

物語の舞台は、ある就職塾。
就職を目指す学生や、リストラ再就職組の人々が織り成す、
就職活動を通した自己成長物語である。
と、安易にまとめてしまえばそれだけの話なのだ。

就活と恋愛の両立の難しさ。
就活と本当の夢との距離の取り方。
面接。自己PR。一分間スピーチ。
やりたい仕事と、自らの能力に適した仕事とはどう違うのか?
何十社と落ち続けていく自分を、どう位置づければ良いのか?

自分の意識とは無関係とも思えるほどの無常さで繰り広げられる、就職戦線の惨さ。
現在の就職活動というものを本当に知らなければ、描けないドラマである。

「就職活動を続けてきた自分を否定したくない」
面接官と口論になり、
「就職なんかしなければいい」
と言われてしまった男の子が、そう答える。
私は今まさに、そんな思いと戦っているのである。

軽やかな笑いを含んだそつのない構成は、特殊な方法論を使ったものではなかったが、
現在大学4年生、卒業寸前の2月まで就職の決まらない私にとっては、
特別に響いてくるものがあった。
「こんなに自分と向き合って、こんなに惨めになったことはない」
登場人物のセリフが、私の胸をかきむしって涙が出る。

就職支援企業が提供についていたり、
就活生必読の書「面接の達人」が作中で用いられたりと、
これほどリアリティの維持に力が注がれた小劇場作品を見たのは、初めてだと思う。

演劇を本気でやりたいと願う人の多くは、
「夢追い型」と呼ばれるフリーターとなるケースが多い。
演劇と就職活動ほど、並列しがたいものもそうないだろう。
それが同時に目の前で表現される、奇妙な矛盾感。
なのに、この一作を見たことで、どんな就職支援本を読むよりも
深く「就職」について考えさせられてしまったのである。

この作品は多分、作り手の自覚以上にニーズの高い内容である。
日本中の、就職活動学生たちが求め続けている作品だと純粋に思う。
演劇のビジネス活用としてのモデルにも、十分になりえる。
全国の大学で公演してほしい。
それくらい学生には、就職活動というものの具体的イメージが乏しいのである。

もっと早い段階で見られていたら、私も少しは状況が違っていたような気がする。
などというのは言い訳なので、まだ私も諦めずに就職活動を続けるつもりである。
(青木理恵 2005.2.2)

[上演記録]
■劇団劇団タコあし電源×デジタルハリウッド大学院大学 プロデュース公演 「面接の達人2006

▼脚本
 岡本貴也(タコあし電源)
 イケタニマサオ(くろいぬパレード)
 渡邉睦月(TBS「逃亡者」「太陽の季節」他)
 池谷ともこ、みつだりきや
▼演出:ブラジリィー・アン・山田(ブラジル)
▼プロデュース
 岡本貴也+デジハリ大学院演劇プロジェクト
▼1月28日-2月7日/中野・劇場MOMO

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February 02, 2005

ストアハウスカンパニー「Remains」

東京・江古田を本拠としてているストアハウスカンパニーの「Remains」公演が04年11月に開かれました(11月17日-23日)。ストアハウスカンパニーは既存の枠組みにこだわらず、現代演劇の新しい形式を模索し、海外公演にも積極的に取り組んでいる演劇集団です。2ヵ月余り前でやや日時が経っていますが、先に「女囚さちこ」のレビューを寄稿していただいた葛西李奈さんがこの公演を正面から取り上げました。以下、全文です。

◎日常に潜む何処にでもある溝にはまる人々

 ひとつ咳をしたら、客席から劇場の隅々にまで伝わってしまうような静寂の中、役者は互いに肉体を放棄したかのように舞台奥に積み重なっている。薄暗い照明にてらされて、誰が誰の顔なのかもわからない。

 私たちは彼らの姿を意志を持って確認している。演出の意図を探ろうとして頭をめぐらせながら、次に起こることを予測する。都会の孤独に疲れ果てた老若男女が互いを貪り合い飲み込んでいく姿を思い浮かべる。舞台からは皮膚に染み込んでくるような冷たさがひしひしと伝わってきていた。

 客電が消える。舞台は薄暗い。ようやく役者の動きが見えるぐらいだ。彼らはようやっと目を覚ましたかのように起き上がり、うつろな目で地に足がついていることを確認するように歩き出す。それぞれが、ばらばらに、それぞれの視点を保ち、だんだん歩調は早くなり、照明も明るくなり、一人にもう一人、さらにもう一人と連なりを作っていく。なんとか無視をしようとしていた他の人々も、その状況に耐えることが出来なくなり、連なりに加わる。加われなかった最後の一人が突き飛ばされ、地に身体を打ちつけ、苦い表情を浮かべる。なんとか抵抗しようともがくが、誰も助けてはくれない。仕方なく連なりに加わる。仕方なく加わるが、連なりの一人となった今は違和感なくその場に存在している。何も問題はないように見える。しかし、それぞれに破綻が生まれてくる。もともとの自分のリズムに逆らって動いているのだ。どうしようもない痛みにうずくまる人々。その痛みを振り払い連なりを作ろうとする人々。そして脱落者。不調和音に舞台が飲み込まれる。ぼろぼろになっていく人間の姿が浮き彫りにされ、最終的にはうずたかく積まれていた洋服の山に助けを求めるようにして人々はしがみついていく。

 舞台に洋服がちらばっていく。人々の身体に絡みついた洋服が私達の目の前にさらされていく。舞台の上をごろごろと転がりながら胎児のように目をつぶり、自分の在りかを確かめているようだ。自身が身につけているものをはぎとっていく姿は、まるで生まれ変わろうとしているかのよう。

 なんと集中力を用する舞台なのだろう。気付くと動けなくなってしまっている自分がいる。何故か、自分もその舞台にいるような気になるのだ。役者の視線はまっすぐで、澱んでいて、まるで私が日々目にしている電車の中のサラリーマンではないか。私が無意識に恐れている社会に押しつぶされそうになっている人々ではないか。それは、私なのか? 問いは頭の中でぐるぐる巡る。役者の熱気がこちらまで伝わってくるようだ。いつの間にか冬だというのに私は汗をかいていた。台詞の一切無い舞台というのは、以前観た「上海異人娼館」と同じように私達の想像力をまんべんなく刺激してくる。

 舞台の人々は、ストッキングを頭から一人一人かぶっていく。顔が再び見えなくなる。のっぺらぼうがたくさんいる。さきほど、最後まで抵抗していた人物も、他の人物にストッキングをかぶせられ、苦しそうにもがく。誰の表情も見えない。静寂。私は逃げ出したくなっている。人間が人間ではなくなる瞬間をさらされているようだからだ。最終的に彼らは互いにストッキングを引きちぎり、足元に落ちている洋服に着替え、日常に帰っていった。ストアハウスカンパニーは、毎回このような芝居を作っているとのことである。役者の肉体から発せられるものの威力を存分に信頼している劇団のようだ。海外公演もなしているとのことで、これから私が注目していきたい劇団の一つと相成った。
(葛西李奈 2004.11.17)

[上演記録]
ストアハウスカンパニー「Remains」公演
作・演出 木村真悟
出演  真篠剛 星野和香子 柴山美保 田口アヤコ 岡本考史 大沢元輝 新健二郎

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January 22, 2005

仏団観音びらき「女囚さちこ」

 「仏団観音びらき」という演劇ユニットが新春、新宿タイニイアリスで「女囚さちこ~ブス701号怨み節」公演(1月10-12日)を開きました。大阪を中心に活動しているようですが、今回は年末に大阪公演、年明けは東京公演と意欲的な活動展開です。インパクトのあるユニット名、包丁を持ってにらみつける怖そうな女性のポスターを見てひるむ向きがいるかもしれませんが、寄稿していただいた葛西李奈さんのレビューをまず読んでください。次回公演は出かけたくなるかもしれません。葛西さんは日大芸術学部在学中。これからも書いていただけそうです。(北嶋孝@ノースアイランド舎)

◎「笑い」共有、浄化作用もたらす 惨めさ、愚かさ、欲望に向き合って

 刃物を手にしている女性のインパクトに魅せられ、チラシを読むと

「ぶち破られた鉄格子!」
「ブスの怨みをたぎらせた、女囚さちこの『美女狩り』がはじまる!!」

 三秒後にこの芝居を観に行かなければという瞬間が訪れた。話題性や他者の評価に惑わされることなく、「この劇団の芝居を観たい!」と強烈に感じたのは久しぶりのことだ。
 劇団名は、仏団観音びらき・・・。ますます怪しい。聞けばシアターリパブリック主催の「E-1グランプリ」に出場し、旗揚げ公演前に大阪大会にて予選を勝ち抜き決勝進出した経歴を持つ劇団とのこと。気になって仕方がなくなってしまった私は就職活動後、氷のように冷えた空気に身を震わせながらふらふらとタイニイアリスを訪れた。

 私は潔い芝居が好きである。ここで言う「潔い」とは事実と真っ向から向き合おうとする姿勢のことだ。無意識に理想を追い求めて生きようとする私たちは、その理念に沿って動く社会に多かれ少なかれ希望を抱いている。ところが時折、ついていないと思い込んでいる傷口がひらき痛みが発せられる瞬間がある。私たちはその瞬間が一時性のものだと思い込み、生活を続けていく。その思い込みを取り払ってしまうと、あっという間に絶望の津波が押し寄せ、息をすることがかなわなくなるからだ。わざわざ波にのまれてまで苦しい思いをする必要はないから見ないようにしているだけのことであって、私たちは常に全否定という名のブラックホールを携えて生きている。

 仏団観音びらき「女囚さちこ」はそのブラックホールに飲み込まれた人々が大量に出てくる。扱われているテーマは「女性の美醜」だ。要するに「社会における美人とブスの扱われ方の違い」である。私は、女性の汚さ、いやらしさ、醜さを扱った芝居に目がない。つまりは自らの中にそのような感情が存在していることを肯定してほしいという気持ちのあらわれである。私が芝居を観続けている理由のひとつはこれ。「潔さ」に憧れているのだ。「女囚さちこ」は潔さの上に、さらに大阪特有のパワーを感じさせてくれる舞台だった。

 今回の公演「女囚さちこ」のあらすじはこうだ。
誰もがブスと罵らずにはいられない主人公、轟幸子(とどろき・さちこ)は満員電車の中で痴漢に処女を奪われる。駅員はさちこの被害の訴えを信じようとせず、他に被害を訴えてきた美女に対しては過剰なまでの応対ぶり。そのあまりの露骨さに怒りを覚え、さちこは反抗するが「黙れ!ブス!」と余計罵られるばかり。さちこは逆上し、美女を含めその場にいた合計五人を刺し殺してしまう。さちこは刑務所に入れられるが、そこは容姿の優劣で待遇が左右される仕組みになっていた。さちこは当然のように「ブス房」に入れられ、更なるいじめを受けることとなるのだが…。

 どうにも救われない物語である。紹介文だけではとても暗く、ねちっこく、いやらしい芝居の印象を受ける。私は舞台を出て行くときに肩を落とし無言になってしまうような作品の内容を予想していた。ところが実際、展開される物語は勢いづいていて、客席からは何度も大きな笑いが起こり、なにをかいわんや、私も声を出して笑ってしまっていた。

 女性が自身の汚さ、いやらしさを掲げて芝居作りをしている場合、過剰な自意識に呑まれて観客を二の次にしている印象を受けることがある。しかし、バカバカしい設定だけに留まらない笑いの作り込み方、大袈裟だけれど空回りせず場をおさえる役者の演技、所々織り込まれるダンスの美しさには荒削りだけれどもエンターテイメントとしての要素を提供する大阪人の気迫が感じられた。これは主宰であり、轟幸子役を演じた本木香吏の「『いるよね、こんなバカ』と嘲笑って頂き、ふと『もしかして私のこと!?』と気付いて頂きたい」という信念によるものだろう。

 確かにふと「私、どうして笑ってるんだろう」と思わせる瞬間が組み込まれている。ブラックジャックの手によって美しく変身したさちこが、自ら顔を傷つけるシーンには圧倒される。しかし、どちらかと言えばこのような問いかけをするほうが滑稽な気分になる。それは「まさにこの世は生き地獄」と歌いながら生き様を笑いにすりかえる姿勢があまりにもまっすぐで、健全だからだ。人間の惨めさ、愚かさ、欲望に真正面から向き合いながら、客席と「笑い」を共有することで浄化作用をもたらしている舞台を前にして、今更何を考えているのだろうという気分にさせられてしまう。おかしいのだからおかしい。何が悪い。仕方ないだろう、事実は事実としてあるのだから、おかしいのならば笑ってしまえば・・・。果たして、劇団側が意図したものに私自身がうまくハマっているかはわからないが、
「美醜に関係なく幸福な奴は幸福で、不幸な奴は不幸」
といういまだはびこる社会理念を明るくぶち壊してくれたこの劇団の、これからの可能性に期待大である。
(葛西李奈、2005.1.21)


[上演記録]
仏団観音びらき
 第3回公演「女囚さちこ~ブス701号怨み節

★作・演出=本木 香吏
★出演=本木 香吏 峰U子 水津安希央 ゆであずき 新井英彦 クスミヒデオ 松岡里花 西阪舞(劇団赤鬼) 大森都 藤原新太郎
櫟原将宏(大阪公演)・濱崎右近(東京公演)<ダンサー>兵庫江美・豊田文緒・近藤雪江・鎌田直美 他

■大阪公演(2004年12月8-10日、シアトリカル應典院)
■東京公演(2005年1月10-12日、新宿タイニイアリス)

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November 21, 2004

演劇集団 円「ビューティークイーン・オブ・リーナン」

 演劇集団 円の「ビューティークイーン・オブ・リーナン」公演が東京・両国のシアターΧで開かれています(11月16日-22日)。原作は、いま脂の乗っている英国の作家マーティン・マクドナーの戯曲第1作。1998年にトニー賞4部門を受賞、世界各地で上演されたそうです。ファッションやデザインの世界が長かった佐々木眞さんから、この公演のレビューが寄せられました。芝居は「年に1本ぐらいしかみない」と言いますが、どうしてどうして。奔放・闊達、読みごたえのある文章です。以下、全文です。


 快晴の土曜日の午後、久し振りに回向院に詣で山東京伝兄弟の墓前に額ずいた後で、すぐ隣のシアターXで演劇集団 円が公演している『ビューティークイーン・オブ・リーナン』を観た。何の予備知識もなく飛び込んだのだが、作者はマーティン・マクドナーというロンドン生れのアイルランド系の若者で、本作は彼が23歳の時にわずか8日間で書き上げたのだという。

 舞台はそのアイルランドの僻地。人よりは牛だの鶏の方が多い荒地に佇立する一軒家。厳しい自然の真っ只中で、その自然よりもシビアな40歳の娘と70歳の母の「戦争」がおもむろにはじまる---。

 ハジメチョロチョロ、ナカパッパ。もとい、はじめは処女のごとく、終りは脱兎の如し、テカ。母が頑固なら、娘も頑固である。吹きすさぶ海風と荒れ狂う雷鳴をBACKに、2人のしたたかな女が骨肉の争いを、あるときは軽妙なユーモアとウイットで、またあるときは口以外の手段を総動員してしのぎをけずる。その、しのぎの切口とけずりの多様性こそが、マクドナルドじゃなかったマクドナーの独壇場だ。

 若き天才劇作家は、かわるがわる黒い笑いと赤い殺意を3分おきにまるでパイのように舞台せましと僕らに投げつけ、僕らははらはらドキドキしながらどこか訳の分からない遠いところまで引っ張りまわされる。その不快さ!そして、その愉悦! お楽しみはどこまで続く。いっそ地獄の底まで落ちていけ!

 そして期待通りに悲劇は訪れるだろう。それはどこかヒッチコックのサスペンス劇に似ている。それはまたどこかギリシア神話のこだまに似ている。でも、ちょっとばかり違う。それは、今日たったいまあなたの家のキッチンのロッキングチエアで進行している「それ」に一番似ているのである。

 例えば僕だが、僕は僕の死んだ母と、それ以前に死んだ義理の祖母との間で最後の数年間に繰り広げられたの悪夢のような戦いを思い出していたよ。ったく、なんて芝居なんだ!! そしてなんてにっくったらしい奴なんだ、マーティン。

 ちなみに、役者は僕にははじめての人たち(年に1本くらいしか見ないもんね)。最高ではないだろうがまああんなもんだろう(ごめんなさい)。でも立石凉子の黒の下着はとてもエロチックで石田登星ならずとも興奮する。「もっと下、もっと下--」、なーんちゃって、ほんとに原作に書いてあるセリフなんだろうか? 演出美術照明は可もなく、不可もなし。音楽と芦沢みどりの翻訳がいい。11月22日までやっている。
(佐々木眞 2004.11.20)


【上演記録】
■演劇集団 円公演 シアターX提携 「ビューティークイーン・オブ・リーナン

キャスト
モーリン・フォーラン 立石凉子
マグ・フォーラン   有田麻里
パド・ドゥーリー   石田登里
レイ・ドゥーリー  佐藤銀平
ラジオの声    青山伊津美

スタッフ
作    マーティン・マクドナー
訳    芦沢みどり
演出   岸田 良二
美術   島次郎
照明   小笠原純
衣装   畑野一惠
音響   斎藤美佐男
舞台監督 田中伸幸
演出助手 渡邉さつき
宣伝美術 坂本志保
イラストレーション 深津真也
制作 桃井よし子

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November 11, 2004

松田正隆作、平田オリザ演出「天の煙」

 財団法人地域創造と各地の公共ホールが共同で企画・製作(公共ホール演劇製作ネットワーク事業)した、松田正隆作、平田オリザ演出「天の煙」が10月末から12月初めまで各地で開かれています。皮切りの埼玉公演をみた牧園直さんから、力のこもったレビューが寄せられました。以下、全文です。



 固定されることのない街に住む戸籍のない人間、交錯する垂直と水平、あるいは時間と空間。〈虚〉なのか〈実〉なのか判断できないほどに〈虚〉が積み重なった場所の話。それが『天の煙』である。

 焼跡のような石ころだらけの土地で、まず始まるのは天へと続くような綱の先にある鐘を鳴らす仕事だ。鳴手は笑っているのに笑っていない(ように見える)女。彼女は自分が笑い続けていると言うのだが、傍目には仏頂面である。彼女が本当に笑っているのかは確かめようがない。芝居を支配しているのは、この論理である。〈虚〉なのか〈実〉なのか、はたまたどちらでもないのか、舞台に示される要素一つ一つが、定位することができないもので満ちているのだ。

 実母の葬儀のため、毬子は夫の時男を連れ東京から帰郷する。故郷は「西の果ての西の街」と称される、常に揺らいでいる街だ。毬子の家は絶対君主制の王家のようであり、毬子の盲目の姉・霧子はまさに女王のように君臨している。

 霧子は少女のような外見である。成長しないと彼女は言う。だがもうすぐ妹を追い抜くように大きくなるらしく、時男にふたなりの病人・山目の背中の皮を剥いで妹の足で型を取った靴を造り、自分に履かせてくれと頼むのだ。靴屋となって稼業を継ぎ、没落した家を復興させてくれとも。

 この虚言そのものとも思える依頼を、時男は拒みつつも何故か振り切ることができず、毬子との会話で得た断片を手がかりに、この街の構造化を図る。山目の背の上で座標軸をつくり、石ころを並べて時男は悩み続ける。

 霧子のことを考えて生きるようにすれば世界が見えてくる、とこの街の住人は物語の前半で語る。目の前の出来事を霧子を座標軸に受けとめる住人には、虚実を判断する必要がない。判断の放棄が世界を把握する術なのである。

 時男が並べた石を見て、毬子は星座のようだと言うのだが、星座は空に広がる物語そのものだ。実際には並んでいないが、そこにあるように見える(見る)もの。ちなみに星座の神話でよく目につくのは、死んだ後に神によって天上に引き上げられたというエピソードだ。とすると、この街は死の世界なのだろうか? 時男は石を並べてこの世界を探ろうとするが、ある時は縦にも積む。その動作は完成することがないのに延々と試みられる、あの賽の河原の石積みを連想させる。

 結局、一つ一つが区別不可能な小石を並べて世界を可視化しようとする無謀な試みは徒労に終わる。時男は街の要素を山目の背中に配置もしきれないし、互いの関係性による意味すら見いだせない。そして時男の中に色濃い疲労が蓄積されるに従い、霧子による無謀でそれゆえに虚言とも思える願いが現実味を帯びてくるのだ。それは〈虚〉と〈実〉が混じりあい、いよいよ腑分けができなくなってきたあかしでもある。

 ところで霧子が所望する靴というアイテムは、この物語では重要な意味を持つ。靴は霧子たちの家の繁栄時代の象徴であるが、物としての役割は身体の移動を助けるということである。つまり、物語上で「西の果ての西の街」と対置される「東京」という具体的な地名、すなわち〈実〉へ向かう可能性を示すものでもある。〈虚〉の街から〈実〉の東京へ移動できた毬子の足で型取られ両性を具える者の背の皮を材料とする靴は、生きた足そのものと言えなくもない。東京に逃亡したことによって住人の戸籍の剥奪とそれによる街の放浪を導いた毬子は、罪を背負うことを決意し、履いていた靴を奪われて、街を包む業火の中〈処刑〉される。

 〈処刑〉は火を後景に歩く女(毬子か)の素足によって表される。霧子が自分の足で型どった靴を作ってもらおうとしてふらついた瞬間、とっさに鐘に続く綱を引くことによって執行されたそれは、移動手段の喪失を意味するだろう。あるいは街の外へと移動したいという願いが昇天する瞬間でもあるのかもしれない。物語の進行過程では、唯一街の構成要素を数値化できる装置であった時計も止まってしまう。時計は再び動きだすものの、示す時間が正しいかどうか、確かめられることはない。つまり街は空間のみならず時間軸によってもすでに定位することができなくなっていたのだが、結末において〈実〉へと接続する術も失ってしまった。街と外の役所を繋ぐ伝令役はまだいるが、街の周囲を取り巻く火は伝令の役目を果たさせないだろう。街はあらゆるものから断ち切られることになる。

 だが同時に「西の果ての西の街」は〈虚〉の積み重ねで出来上がる〈実〉の街になったのかもしれない。〈虚〉は〈実〉を参照することで立ち現れる可能性だが、〈実〉が存在も感じ取れないほど遠ざかってしまったら、〈虚〉は〈虚〉とも言えなくなってきてしまうからだ。しかしこの仮定も確定はできない。物語は最後まで可能性を閉ざさないままなのだ。

 この不確定でありながら存在感に満ちた世界の構築をやってのけた松田正隆と、シンプルで、だからこそ無駄なく時には豊富に物語世界を語らせることに成功した平田オリザには、感服した。俳優たちも、この難解でややこしく、ややもすれば観客を遠く遠く引き離してしまう恐れもあるような物語を、よくぞ説得力を持つように表現しえたと思う。

 この劇は「平成16年度公共ホール演劇制作ネットワーク事業」という長い名前のプロジェクトによって創られたそうだが、こんなに質の高い成果が出たことは関係者にとっては喜ばしいことだろう。同時に、こんなに難しくてすっきりしない成果でだいじょうぶなのかと要らぬ心配もしてしまう。上演中首で船を漕いでいる人も見かけたし、終演後、トイレでは演劇関係者らしき人たちによる「よくわかんなかったね、時々すごいけど」という会話が交わされていた。物語が結末を迎えた後の中途半端な規模の拍手は、その評価を端的に示していたように思える。

 明るく「面白かったヨー」とは言えない、誰にでもお勧めできない芝居。でもある人には観てもらって、何を思ったのか聞きたい芝居。今回の芝居は、そういう芝居だった。
(牧園直 2004.10.31)


■同公演公式サイト:http://www.ycam.jp/net16/
【作】    松田正隆
【演出】  平田オリザ

【舞台美術】  奥村泰彦
【照  明】  吉本有輝子
【舞台監督】  寅川英司+突貫屋 斎田創
【大 道 具】   C‐COM
【衣 装】    有賀千鶴
【演出助手】  井上こころ

【出 演】  (五十音順 *印はオーディション合格者)
  秋葉由麻*   内田淳子   佐藤誓   松井周(青年団)
  増田理*    山本裕子*   吉江麻樹*(兵庫県立ピッコロ劇団)

【企画製作】
 (財)つくば都市振興財団
 富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ
 (財)可児市文化芸術振興財団
 兵庫県立尼崎青少年創造劇場〈ピッコロシアター〉
 山口情報芸術センター
 長崎市
 (財)熊本県立劇場
 あしびなー自主事業実行委員会

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November 03, 2004

榴華殿プロデュース R2 「のら猫」

 榴華殿プロデュース R2 「のら猫」公演(9月9日-12日)が新宿タイニイ・アリスで開かれました。 AliceFestival2004参加公演です。本公演とは趣が違い、榴華殿としては珍しいコメディ仕立ての作品でした。小劇場の芝居やダンス表現を伝える新聞「CUT IN」(タイニイアリスとディプラッツの共同発行)の最新第31号で、井上二郎編集長がこの舞台のレビューをトップに掲載しています。以下、井上さんの承諾を得て、全文を転載します。

◎異言語飛び交う状況を笑いで伝える これぞ小劇場の機知

 韓国人、日本人、在日中国人三世、在日朝鮮人三世の若い俳優たちが、それぞれの母国語をそのまま用いながら、言語の壁を笑いに変えて繰り広げるコメディだ。舞台が進むにつれ、言葉不用の生き生きしたコミュニティがその場に形成されていく。その活気、笑い、屈託のなさが持つ意味を、注意深い観客は見逃さないだろう。

 はじめ、洋服がびっしりぶら下がった洗濯屋の店内で主人(金世一)と女房(李知映)が韓国語で何か言い争っていると、そこにタマ(森田小夜子)が現れ、従業員募集に応募してきた旨を、当たり前のように日本語で喋る。女房はこれまた当然のごとく韓国語で受けるから会話はアサッテの方向へ。トンチンカンな面談を経て話はなんとかまとまり、タマは洗濯物の片づけに入る。主人と女房がそそくさと出て行くと、今度はミー(王美芳)が仕事を求めて現れ、タマの日本語とミーの中国語のずっこけた応酬に。数分後、これも適当な解決を見てタマとミーは仲良く働きだす。が、ミーがあらゆるものにアイロンをかけたがったりして、気配はスラップスティックに。それからやはり求職中でやたらと漬け物を作りたがるモゴ(梁學允)、リッチ&グラマラスにきめて洗濯物をとりに来たおバカなマリー(愛花)、探偵オタクのハナ(内藤加奈江)、さらには正体不明の放浪少女ラン(金蘭)も登場。

 狙ってない人の顔にモップの先が飛んで行く、「撫でてくれ」を「殴ってくれ」と聞き違えて殴る、あるいは日本語の語尾にやたらとスミダをつけて意志疎通を図る---。言葉が通じないことを逆手にとり、あるいは、その場のノリで雑駁な理解を成立させながら、俳優は伸び伸びと笑いを巻き起こしていった。

 この粗製濫造風のコメディは、言葉が違う人々の交流の実際をおおげさにデフォルメしながらたいへんよく伝えている。家庭や職場、飲食店の厨房や小劇場の楽屋、私やあなたの隣家。すなわちアジアの巷に無数に存在するその現場では、言葉の壁に逡巡するヒマなどなく、機知とギャグで壁を飛び越え、相手と自分の関係を見いだしていくしかない。舞台のちゃらんぽらんな方法は、じつはそういう真実をとらえる機知である。

 これは今の東京の状況を肌で感じ、率直に見つめるところから生まれた作品だ。逆に言えば、ようやく小劇場でごく自然に話題になるほど、異文化混交状況が熟して来たということかもしれない。だからこそ、この舞台には招聘とか翻訳上演という「交流」にはないリアリティがあるし、この地点から、例えばオフオフ・ブロードウェイの名作である「インド人はブロンクスへ行きたがっている」のような言語の壁を扱う秀作も生まれるのだろう。この先が楽しみである。ともあれ、なによりまず出演した俳優たちとって、本質的で根強い交流の端緒となったのは間違いないと思う。
(井上二郎 「CUT IN」編集長)


☆榴華殿プロデュース R2 「のら猫」
☆作・演出=川松理有
☆出演=森田小夜子 内藤加奈江 愛花 金蘭 金世一 李知映 梁斅允 王美芳
☆劇団サイト http://www.rukaden.com/

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October 31, 2004

TRASHMASTERS「trashtandard」

 スピード感のある展開、緊密な構成、意外な結末などで人気上昇中のTRASHMASTERS(トラッシュマスターズ)が新宿タイニイアリスで第9回公演「trashtandard」(10月21日-27日)を開きました。舞台セットがすばらしいステージでしたが、その芝居をみた吉田ユタカさんから、「蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻」と題するレビューをいただきました。「すべてが一本の線でつながった」という吉田さんの驚きと戸惑いが伝わってきます。以下、全文です。(北)

◎蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻

 物語の舞台は小さな設計事務所。男女九人の社員とアルバイトは、消費者金融から返済を督促されたり、ゲームソフトを買うために徹夜で並んだり、仕事の合間にそろってジョギングに出かけたり、社内で恋に落ちたりしながら、コンペを勝ち抜くために日夜仕事に励んでいる。舞台横にスクリーンが設置されており、序盤は九人のうちの何人かの独白が順番に字幕で流れ、その各人の視点を通して話が進んでいくという構成だ。

 芝居のテンポは小気味よく、会話のやりとりは自然体で、キャラクターの感情の流れがわかりやすい。ストーリーの展開も巧みで、二時間超の長さを感じさせない。舞台では左右二つずつのドアから出入りすることで、広いとはいえないタイニイアリスのスペースでも多人数の演者の動きがうまく整理されていた。また、応接室という設定で客席部分の一角が活用されたのだが、観客のすぐ近くで二人だけの本音の会話やセックスが演じられ、非常に効果的だったと思う。

 しかし、腑に落ちないことが一つあった。事務所の社員(桃子)とつき合いながら、別の社員とも浮気におよぶ男(赤堀)の心情がまったくみえてこないことだ。政治や設計の話、哲学じみた議論では長広舌をふるいながらも、二人の女性に関する発言はほとんどない。二人の手前、単に冷静さを装っているだけというふうでもなく、浮気相手の女性が無断欠勤を続けてもどこ吹く風といった無関心ぶりだ。同じように事務所内の二人の女性に振り回される男(青柳)は、その苦悩と苦労が如実に描き出されているだけに、どうしても引っかかってしまう。

 その青柳をめぐる女性二人の修羅場は、みものだった。加害者の立場と被害者の立場がめまぐるしく入れ替わっていく状況を、客演の二人が見事に演じきっていたという印象だ。とりわけ、かたや顔面に硫酸を浴び、かたやビルから突き落とされて片足を失ったとたんに、二人とも憎々しく高圧的に性格が歪んでいくさまは、悲しいほどに人間の弱さを感じさせた。

 やがて物語は衝撃のラストを迎える。社長のビリー、赤堀、青柳、中国人の黄(こう)、桃子の社員五人がいつものようにジョギングに出かける。閑散とした事務所で、片足を失った女性社員が今度はみずから窓を超えて飛び降り、茫然自失となっている社員と警備員を残して幕が閉じる。スクリーンには「構成・演出:中津留章仁」の文字。

 ところが、次の瞬間「おまけ」という表示に変わり、そこから数分ほどスクリーンに流れる映像は、先ほどの五人の社員が戦隊もののヒーローに変身し、悪の軍団を倒すという奇想天外なストーリーだ。

 ふたたび舞台の幕が開き、事務所には普通の姿の五人。彼らの会話の内容から、実はこの五人は“地球人ではない”ことが明らかになる。やがて、新たに事務所に採用された女性社員三人が加わって、終わりのない会話のなかで今度こそ終幕となる。

 たしかに劇中で、ある登場人物がいっていた。いま起こっていることは劇みたいなものなのだと。だとすれば、東京に大地震が起こるのも「あり」だし、日本が戦争に参加するのも「あり」だと。その言葉に従うならば、最後の最後になって登場人物が実は宇宙人だったというのも、きっと「あり」なのだ。

 さらには前述の疑問も氷解する。赤堀の二股は当の桃子と仕組んだものなのだから、良心が痛む理由もなければ、苦悩する必要もない。浮気相手が無断欠勤しているのは、実は桃子が事務所の物置に監禁しているからであることを赤堀も知っていたのだし、そもそも、宇宙人に人間の感情の発露を期待するのはまったく無意味なことだったのだ。これで、すべてが一本の線でつながった。なんと見事な結末なのか!

 と、納得できた観客はどれだけいただろうか。少なくとも筆者は頭と気持ちの整理をするために、後日ふたたび劇場に足を運び、同じストーリーをなぞる必要があった。かりに、飛び降り自殺の直後の幕で話が完結していたならばどうだったのかと考える。夢も希望もないラストにはなるが、少なくとも、書かれざるその後の展開にあれこれと思いをめぐらせるだけの余地はあったはずだ。しかし、宇宙人という“なんでもあり”の結末を知らされてしまった以上、もはや我々はひたすらその事実に引きずられていくしかない。

 この毒こそが今回の芝居の肝であり、この劇団の持ち味だとすれば、受け入れるべきなのかもしれない。自明と思われることを疑うのは、これほどまでにむずかしくショッキングなものだということを。トラッシュマスターズの公演に初めて接した筆者は、まだそのあたりの判断が下せずにいる。
(吉田ユタカ/2004.10.25、10.27)

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September 12, 2004

龍昇企画「続・ああ無情」

 ストアハウスと提携した龍昇企画「続・ああ無情」公演が東京・江古田のストアハウスで開かれました(8月31日-9月5日)。舞台が始まってもライトは灯らず、闇の中で声明や祝詞を彷彿とさせる男たちのうなり声が響き渡る-。家族のきしみと悲鳴を予感させるアイデアに満ちたパフォーマンスでした。
 この公演を共同通信の中井陽さんに報告してもらいました。自分と触れあうリアルな叫びをステージから聞き取ったようです。

◎さらけ出される家族の軋み 自意識の殻を破って描く

 帰宅した「妹」が足を投げ出して座る。仕事も恋愛も何もかもうまくいかない。
 「疲れた…疲れた。なんだかわかんないけど…一生懸命やるのに疲れちゃったんだよ!」―。はじめはつぶやくように。最後は悲鳴のように、「祖父」に訴える。

 それを聞いていて、涙が出た。私は彼女を知っている。その台詞は俳優になる以前、演劇への想いが日に日に大きくなりながら会社勤めを続けた彼女が、実際に経験した感情に違いない。

 「ああ無情」は、役者が台本からすべて作っていくエチュード方式の芝居だ。会社でうまく働くことができない長男と、それぞれ問題を抱えつつ、彼を取り巻く家族の姿を描いた。

 駅前の果物店の上階にある小さな劇場。俳優たちは冒頭、顔をしわくちゃにして笑顔を浮かべ、観客席の前を無言でゆっくり横切る。観客席のすぐ前でライトに照らされてさらけ出される顔、顔、顔。見ている方は落ち着かない気分になる。

 舞台空間にあるのは、二脚の椅子だけ。父と母、長男とその妻、妻と二男、祖父と妹のように二人ずつ観客の前に姿を現し、対話する。家族に君臨しながら社会に居場所を見つけられないでいる長男、色っぽい長男の妻にほんろうされつつ、家族を想う二男。長年連れ添っているのにすれ違う父と母、祖父に当たり散らす妹…。

 演劇の上では、家族の関係を浮かび上がらせるための台詞が、ここでは役者の「素」の心をかいま見せるすき間でもあった。一つ一つが役者が自分をさらけ出した証しだから、おかしさや悲しさも、時に生々しい。

 母親が父親に言う。「あなた、私の目を見てしゃべってよ。あなたは昔からそうだった。出会った頃はなんて奥ゆかしい人なのかしらって思ったけれどずっとそうだったのよ」。父親はそれでも目をそらせてぼそぼそ話し、最後は怒鳴る。「うるさい!」。

 なぜ演じるのか。その問いに、出演者や演出家が背伸びせずに考えた。自分の悲惨な体験を皆の前で話してみる。お互いを本気でけなしあってみる。約三カ月のけいこは演出・企画を手掛けた龍昇氏のもと、まず普段まとっている自意識の殻を少しずつ破っていくところから始めたという。

 年齢も個性もばらばらな俳優たちが、今までの自分の人生の断片をそれぞれ持ち寄って、本物の感情で芝居の台詞を作った。見ていると、日常生活の中で、薄いほこりに覆われて見えなくなったものを再発見できる気がした。
(中井陽)


【構成・演出】龍昇
【CAST】直井おさむ
     米田 亮
     猪股俊明
     吉田重幸
     龍昇
     伊藤弘子(流山児★事務所)
     岩井さやか(流山児★事務所)
     桜井昭子
【会場・日時】江古田ストアハウス
  2004年8月31日(火)/19:30
      9月1日(水)/19:30
      9月2日(木)/15:00・19:30
      9月3日(金)/19:30
      9月4日(土)/15:00・19:30
      9月5日(日)/19:00

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August 26, 2004

毬谷友子 語り芝居「宮城野」

父矢代静一の「宮城野」を取り上げた毬谷友子の語り芝居が8月4日から6日まで、東京オペラシティー内の近江楽堂で開かれました。後藤隆基さんから、力のこもった劇評が寄せられました。近江楽堂のWebサイトによると、演出は佐藤信。大鷹明良が共演しています。

◎暗がりに点された灯 毬谷友子語り芝居 『宮城野』

 その声は忍びやかに空間を支配する。無邪気な妖艶が切れ長の瞳と毒をも含んだ唇から漏れ出る。吐息が言葉を生み、息が命から生まれる。言葉の火が「演劇」を照らす標であるならば、劇場という暗がりに点された灯は毬谷友子その人である。

 『弥々』につづく語り芝居第二弾として毬谷が選んだのが、一九六六年に父、矢代静一が書いた『宮城野』。登場人物は女郎の宮城野と、馴染みの一番客である絵師、矢太郎の二人で、矢太郎の師、東洲斎写楽殺害の実相をめぐる会話の中に、互いの心の虚と実が巧みに編みあげられた緊密な対話劇である。と同時に宮城野の語りによって物語が展開する一人芝居でもあった。「言葉」による演劇の魅力を十分に発揮し、小空間での「語り芝居」にうってつけの題材。およそ一時間強の上演時間で一種のどんでん返しの起こる構成も見事であり、まずは戯曲ありきという前提のある上は、戯曲の力をいかに「声」と「言葉」において表現しうるかが企画の主眼となるだろう。そしてその試みはひとまず成功していたといっていい。

 彼女が姿を現した瞬間から、劇場はすでに彼女のものになっていた。香りたつ白粉は色街の座敷へと誘う。何か恥じらいのようなものを身にまとい、行燈の灯りの下、やや俯き加減の項からすっと口角を持ちあげて少し媚びるように見上げた先、虚空に相対する男の姿を描き出す。傍には矢太郎を演じる俳優(大鷹明良)も当然いるのだが、宮城野の心に宿る男の姿は遠くにいた。

 言葉の一挙手一投足に、笑う、仰け反る。眉をひそめ、瞳が曇る。愛する男のために騙りつづけた自分の過去、男への思い。それらすべてが裏切られ、幼気な童女のような半開きの口元から、決して恨み言でない本音が響くとき、その歌は何よりも彼女が彼女であることを表現する。矢太郎のためについた「嘘」は嘘をつけないからこその「嘘」。戯曲にはない、毬谷自身の作曲による歌は、男への恋文でさえあった。誰もがどうしようもなく抗えない人間の業。宮城野は魔性と俗性にまみれながら、その無知と無邪気なる純粋は気高く、我が身を犠牲にして、いわば無償の愛を体現する聖女ともなる。生の辛苦悲哀を笑顔に変えてみせる女の姿は矢代作品のひとつの特徴でもあるが、『宮城野』はそうした意味でも『弥々』の源流にいる女性といえる。

 劇作家、矢代静一の描く、聖性と魔性を同時に兼ね備えたヒロインが現世界にそっと障子一枚、隣の部屋から入ってきた。それが毬谷友子である。その純度の高い「女」という結晶は、童女でありながら老女であり、聖母でありながら娼婦である。その幼子のような純粋は、純粋であるが故に、演技を超えて、そこに居る「女」で在ろうとしつづける。純粋過ぎるが故に、強さは危うさと背中合せであり、零れる涙は自分を抑えに抑えこんだ果ての掬いようもない魂の雫である。

 空気を通して伝わる身体的感触の生々しさにもかかわらず、その夢のような存在感は幼児性と妖艶の二面性を示す。「知性」、「痴性」、「稚性」。父の唱えた芸術家に必要な三種の「チ性」は間違いなく娘に宿り、そのすべてを形成している。誤解を恐れずに言えば、「一卵性親子」と云うほど仲がよかった父の作品を演じるとき、毬谷友子は明らかに他の作品の毬谷友子とは異なる姿を見せる。作品を通して、父と、また自分自身と出会い直す苦行を強いているように。往ける処まで内面を掘りさげ、湧水の源泉を探して、水底の砂を掴み浮かびあがる。その潜水と浮上の過程が描く軌跡こそが女優としての毬谷友子という生き様なのではないか。
 (後藤隆基 2004.8.15)

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August 20, 2004

燐光群「だるまさんがころんだ」

燐光群「だるまさんがころんだ」公演は、「私たちの戦争」とともに、多くの反響を呼びました。2つの東京公演は7月15日から8月4日で終わり、その後8月末まで各地で開かれています。
こまつ座公演の評をいただいた後藤隆基さんから、「だるまさんがころんだ」のレビューが届きました。坂手洋二(「燐光群」作・演出)の発信方向を見定めようとしているように思われます。

◎「創作」という冒険の道行―燐光群『だるまさんがころんだ』

 坂手洋二という才能は常に歩いている。「現実」の道を踏み外すことなく、自身が現代を生きている、極めて強い自覚を肌身離さずに歩いている。彼は自己模倣を嫌悪する。予定調和を拒否する。貪欲に演劇表現を追求し、常に現行の「坂手洋二」で在り続けようとする姿勢は、作品においても、その創作過程においても貫かれている。

 坂手洋二は、今のそして少し先にあるものを捉える、敏感な社会的な眼を持った劇作家である。その手法は、たとえば評伝劇を確立した井上ひさしと同様の影響を後続に与えたともいえよう。

 近年の劇作の特徴として、坂手は現代社会が抱える問題に基づいた或る一つのキーワードをもとに、そこにまつわるあらゆる事象を吹き寄せにしてみせる。一見それぞれが孤立して見える世界が、実はひとつの輪であることに気づかせる。『だるまさんがころんだ』で言えば「地雷」。しかし、独断の大薙刀を振るって言えば、主題が「地雷」であることにそれほどの大きな意味はない。「素材としての地雷」というならば別としても。彼の意識は「社会派」と括られるのを自らはねのける如く、題材が如何に演劇として成立し、且つ表現が演劇でなければならないのか。それに終始している。何をモチーフとするかは入り口でしかなく、その後の処理如何で綺羅星にも塵芥にもなる。

 今回の「地雷」の選択は、坂手洋二自身が世界とつながろうとする意思表示そのものなのであり、そこに関わるすべての人びとが「演劇」を通してある種の共同性を獲得することに他ならない。もちろんそのすべてが、9.11以後の世界情勢や、地雷という申し子が眠りのうちに牙を研いでいたすべての戦争の上、「現代社会の構成員としての私たち」という立地点にあることが前提なのである。

 『だるまさんがころんだ』は、ここ数年の坂手洋二、燐光群の創作活動のひとつの達成であったといえる。たとえば坂手は『屋根裏』から、十分から十五分ほどの短い場面をつないで一つの大きな物語を完成させるという手法に可能性を見出しているようだ。コマーシャルの挿入が度重なるテレビに慣らされてしまった現代において、短時間のシーンを暗転でつなぐ劇時間の処理は有効に作用する。「笑い」への意識的作業も『屋根裏』以降の産物である。

 時空の広がりは海外に及び、挿話も自立した意味を持つようになった。ラップ調の口上で地雷を売り歩く死せる武器商人は、多用される「専門用語」や坂手の硬質な劇言語と拮抗し、独自の文体を紡ぎだす。また今回の収穫としては非現実の領域にもう一歩足を踏み入れた点があろう。地雷敷地対の兄弟や地雷製作に従事する男の娘、地雷を食べる巨大トカゲなど、死者と生者との共生がより顕著となり、現実と非現実の柔らかな境界が異界への出入口を自在に広げる。

 小さな「挿話」という個人が集合してある形態を形成する。物語の中心に据えられる「家族」は最小限の共同体としてのモデルである。登場人物のそれぞれが集団のうちに生きている。地雷と一人で戦うヒロインの女(宮島千栄)がすべての登場人物と各国語で「だるまさんがころんだ」を遊ぶ。あらゆる種類の人間の共生という可能性を追うこの物語は、今失われつつある人間性の回復を眼中においてはいないか。

 思えば、無差別に不特定の人間を破壊する「地雷」と「通り魔殺人」を重ねた意図もそこにあった。作家の技法が彼の思想を体現するならば、まさに「創作」という冒険を通じて最小限の「劇団」単位から世界へ向けて発信されるメッセージが、ここにはある。
(後藤隆基 / 2004.8.15 )

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August 19, 2004

劇団バカバッドギター「伝染するラプンツェル」

無夢楼劇団(Dreamless Theatre、台湾)の主宰者C. Jan さんから劇団バカバッドギター「伝染するラプンツェル」公演(7月23-25日、新宿タイニイアリス)のレビューが届きました。筋書き、俳優の所作、演出から最後のあいさつ(礼)まで、同じ演劇人の経験を基にした詳細なレポートです。

Morbid, Twisted, Wicked - Eventually Indescribable Beauty
by C. Jan (Dreamless Theatre in Taipei)

Through conversation, when we use the word 'you', the concept 'you' actually means 'the memory memorized by you', not your mortal flesh or beautiful face, and the way things to be memorized decides one's personality.

Memories, sometimes equal forgetfulness, the play 「伝染するラプンツェル」 wraps the sentimental theme with spread little tizzies. At the beginning, performers wear cartoon clothes made by paper and cutely act a short part of the fairy tale, Rapunzel, unveils the main scene.

The structure of the plot is designed to be suspense drama, there is a mainly indoor scenic background and someone gets killed or injured, though the criminals all got caught at once, even themselves can't describe the motivations. Eventually, they find out that there seem to be hypnosis, or rather, under a curse.

The first suspense is a female staff member, Rinko Saeki. After the injury event, seem to lose her mind slightly, she whispers repeatedly: Memory A and memory B...it is a theory about how things being memorized can affect the way things looked like. For example, the truth, fact or reality, is nothing but how you recall it when needed. In other words, the so-called truth can be chosen, or even delicately designed.

I like the short stories told by different roles through the play, though some may say that those are irrelative to the plots and the theme, or it is just the show time for each character. Uh, well, at least the showers on stage widely open their arms to the audience.

A ghostly role, Karasu, without a face and acting like an old-age witch, symbolizes the hypnosis and the curse. As more appearances on stage, astonishingly, the atmosphere is becoming scary and breathless.

It is not easy to deeply convince the audience that there is a ghost at live theatre; especially this is not a high-budget production. However, the director seems to reach it. At least a foreigner like me who believes in the character Karasu at the moment. The only character without a face on stage arouses me lots of imagination; morbid, twisted, wicked, eventually expresses the elegant and indescribable beauty. Interesting.

Gradually, all clues point to one of the main characters, Shigeko Shigeta. Perhaps because Karasu is part of Shigeta's interior, she decides to chase Karasu. They have a long talk with each other. Eventually Karasu fades away to relief.

This production does his best to explore the vague part of the mind. Feeling like some scenes break my heart with theirs. It is the fragility (not weakness) courageously expressed on stage moves me. The performers are shining under the spotlight because of doubtlessness from director I suppose. Actresses and actors are trained to reach the ability to expose their deepest softness artistically to the audience, which makes the performance art.

At the bow of this play, each performer speaks the name of the role and themselves' one by one. The illusion created in about 120 minutes may be gone by the 3 minutes bow or not.

A wonderful bow at stage won't save a plain drama except their audience, but an inappropriate bow will drag down an excellent performance. The art about how to arrange the bow at the end of a play sometimes is even tougher than to direct the work itself.

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August 14, 2004

こまつ座「父と暮せば」

力作をいただきました。こまつ座第73回公演「父と暮せば」です。
執筆した後藤隆基さんは「『演劇って何だろう』という素朴な疑問を、一つの舞台がどのように構成されているか、主に「聴く芝居」という観点から考えています」という大学院生。これから内容の濃い原稿が次々に登場します。
今回の記事は内容を考えればもっと早く掲載すべきでした。編集サイドの怠慢です。ご容赦ください。

◎劇場はなみだにゆすれ こまつ座第73回公演「父と暮せば」

 1994年の初演から数えて10回目の再演となる『父と暮せば』のこまつ座公演(ロシア公演1回を含む)は、過去の例に漏れず、劇場に笑いと涙の汪溢する舞台であった。紀伊國屋サザンシアターを埋め尽くした客席が流した、その涙の理由はどこにあるのか。そこには何より圧倒的なまでの戯曲の力が存在している。

 作品の主題を云々することはこれまで散々行われてきており、夢幻能の形式を借りた「一人二役(二人一役)」の劇構造についても作者自身が常々語っていることなので今更鹿爪らしく愚言を弄することもあるまい。しかし、「戦争を知らない子供たち」のそのまた子供である筆者のような世代から見える「戦争」とは何か。井上ひさしとこまつ座が「昭和」、「戦争」についての演劇をつくりつづけている理由がそこにはあるし、『父と暮せば』の軸に少しは触れることにもつながろう。

 「戦争」、あるいは「原爆」という「鍵言葉」を柱の一つに置くことは、次世代への啓蒙でも同世代への共感でもない。かつて存在した「昭和」という時間に、「こんなことがあったそうじゃ」と語られる「おはなし」。知らなければならないことがある。聞いてしまった声がある。井上ひさしはそれを話してくれる。ただそれだけのことだが、ここには「物語」の本質がある。「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを」伝える図書館の司書であり、広島女専では「前の世代が語ってくれた話をあとの世代にそっくりそのまま忠実に伝える」いう根本方針である「昔話研究会」の副会長を務めた美津江。郊外の村々で土地の年寄から仕入れてきた昔話を、今度は自分が子供たちに聞かせようとする。そこで竹造は、よく知られている話の中に原爆資料をくるみ込むことを思いつく。

 「原爆」を物語に組み込むことは、「被爆者」と「非被爆者」との意識の間に横たわる溝は計り知れないほどに深く大きい。「非被爆者」であること自体がすでに「原爆」を語る資格を持ち得ない。「絵空事」が許されない世界が、事実があるということを、井上ひさしは資料収集の過程で被爆者の生の叫びを聞いた。井上が「聖書」とさえ呼ぶ、被爆者たちの「手記」がある。その手記から原爆にまつわる逸話を抜き出し、折り込む。美津江や、その周囲に起こった出来事はすべてが手記からの引用である。話をいじらず、一人の被爆者の女性の人生に託す。劇構造そのものが作者の思想を表現する。しかし、木下さんに「気に入ってもらおう思うて」「話をいじっ」てしまった「ヒロシマの一寸法師」は、美津江の古傷を思い出させ、被爆者にとっての被爆体験を「忘れたい」記憶にしてしまう。竹造の存在が、その行動は実は美津江のものだとしたら……。竹造は美津江自身であるという趣向は、劇中のあらゆる細部に効いてくる。劇中に現れるすべての逸話がそのまま『父と暮せば』の作劇法なのである。

 時間、世代をを超えて被爆者を痛め続ける「原爆症」は命の連鎖にまで言及する。恋を諦め、静かに生きて世の中から姿を消そうと思っている美津江。恋の成就はそのまま、つながっていく命を認めることにもなろう。口承による「物語」の伝播も、記憶と命の連鎖そのものであることは言うまでもない。『父と暮せば』という「物語」がいつか観客のそれぞれが語り伝えられる「おはなし」になったら。そんな願いがある。たとえば「一寸法師」のように。

 今公演の収穫は西尾まりではないか。『父と暮せば』は初演キャストのすまけい・梅沢昌代というこまつ座常連コンビによって、すでに一つの「完成形」が提出されてしまっている。幽霊の竹造と、竹造が死んでいるとわかっている美津江。遊びのある軽妙な個性の衝突によってつくりあげられた地点から見ると、果たして以降に以上の出来は期待できないのではないかさえと思わされる。実際その後、前田吟・春風ひとみ、沖恂一郎・斉藤とも子と引き継がれたが、初演を超える評判は聞かない。今回の辻萬長・西尾まりは四代目の竹造・美津江父娘である(1992年のカンパニー・パリ21によるフランス公演での小野地清悦とバルバラ・サルシを勘定に入れれば5代目)。すま・梅沢コンビとはまるで違う方向から攻めた好演であった。激情を、文字通り「必死で」抑え込み、一語一語吐き出すようにして台詞を語る西尾まりの演技は出色であり、「生きること」の困難に耐えながら過ごしてきた美津江の、意識の奥底に沈む記憶を表現して見せた。辻萬長の冗談が冗談にならない、力一杯、真っ直ぐな竹造とあいまって、新しい竹造・美津江像の可能性を示したといえる。
(後藤隆基 2004.8.1)

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August 10, 2004

宮本亜門演出「ドン・ジョヴァンニ」

 今年7月末に東京文化会館で行われた宮本亜門演出の「ドン・ジョヴァンニ」公演について、長文の評が寄せられました。欧米の演出家はドラマだけでなく、オペラを手掛けることは珍しくありません。このサイトではちょっと異例ですが、演出の問題に焦点を当てた力作ですので掲載することにしました。
 筆者の嶋田直哉さんは1971年生まれで現在横浜市内の私立中高教員。歌舞伎、文楽、能からストレートプレイ、バレエ、オペラ、舞踏など「ジャンルを越えた上で〈身体〉と〈政治〉を演劇的視座で考察してみたい」とのことでした。

モーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」(東京文化会館 2004/7/22~25)
指揮:パスカル・ヴェロ
演出:宮本亜門
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団 
合唱: 二期会合唱団
主催:二期会オペラ振興会

 オペラが演出の時代といわれて久しいが、そのような意味での「演出」に出会うことなんて滅多にない。しかし宮本亜門が昨年の「フィガロの結婚」に引き続き今回手がけた「ドン・ジョヴァンニ」はこのような意味でまさしく「演出」されたオペラであった。

 作品としての「ドン・ジョヴァンニ」を考えれば、レポレッロが歌う「カタログの歌」に代表されるように、女を口説いて回る色事師の滑稽さがどうしても前面に出てしまうのだが、この舞台はその滑稽さを敢えて回避し、あくまでこれが現代の物語であることを強調した。例えば「カタログの歌」ではそれぞれの国で口説き落とした女の数をレポレッロがいくつもの携帯電話をかばんから取り出すことで示すのだし、無邪気な村娘ツェルリーナと、その婚約者マゼットは麻薬中毒のヤッピーとして描かれ、毎夜狂ったようなパーティーが打ち上げられるといった設定だ。このような設定について宮本は現代の人々が愛に飢え「心枯れすさんでいる」風景を描きたかったとインタビューで語っている。

 実はこのような設定には1990年代のピーター・セラーズの演出が先立つものとしてあって、そこでもやはり舞台は90年代のニューヨーク、ドン・ジョヴァンニも麻薬中毒者として登場したのである。

 その流れを考えれば舞台を現代のニューヨークにして、スーツ姿の歌手が登場するなんて今となってはさほど驚くに当たらない演出なのだが、問題はこの演出が明らかに9・11以降を視野に入れている点だ。ニール・パテルの舞台装置は瓦礫で荒廃したニューヨークを描き出す。イラクの惨状を日常的に見せられているわれわれにとっては既に過去のものになろうとしている光景だ。宮本の「ドン・ジョヴァンニ」はここから始まる。

 第1幕冒頭で起こるドン・ジョヴァンニによる騎士長の殺害は単なる殺害ではなく、新聞記者やテレビ・キャスターがドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオを取り囲むことによって無理失理なまでに〈復讐〉というテーマが紡ぎ出されてゆく。問題はそこに星条旗が介在する点だ。殺された騎士長はアメリカ軍人として星条旗に包まれて棺桶の中に収められ、オッターヴィオはスーツを脱ぎ捨て軍服に着替え、星条旗を片手に名アリア「今こそ、私のいとしい人を慰めに行って下さい」を歌い、〈復讐〉を誓う(第2幕)。幕を追うごとに「アメリカ」が舞台全面に押し出されていく。

 第3幕のジョヴァンニ邸でのパーティーではホームレスを相手にケンタッキーやハンバーガーといったいかにも「アメリカ」なジャンク・フードが登場する。そして最後は通常ならば騎士長の化身である石像によってドン・ジョヴァンニは地獄へ落とされるのだが、ここでは新聞記者、カメラマンに囲まれ〈復讐〉を誓ったオッターヴィオにいとも簡単に射殺されてしまう。〈復讐〉は遂げられ、「悪人の末路はこの通り」とオッターヴィオをはじめとする人物は高らかに歌いだすのだが、彼らの手には誇らしげに星条旗がはためいている。かくして「アメリカ」は「悪」に勝利したのだ、と思わせたその瞬間、舞台奥、地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニの手から一片の白い羽根が落ちる。

 あの9・11を髣髴とさせる瓦礫のなかでこの作品を観つづけると、結局この作品で「アメリカ」が戦っている相手がわからなくなってくるのだ。宮本はドン・ジョヴァンニを愛が枯れ、すさんだ現代に舞い降りた堕天使として考えているようなのだが、それが成功したかどうかはさておき、どう考えてもドン・ジョヴァンニはテロリストでも、サダム・フセインにも見えてこない。ただ彼だけが17世紀風の服装で、あの瓦礫の中を彷徨う異様な光景は、まさしく「アメリカ」のナショナリズムの、ただ単に〈復讐〉だけを念頭に起き、星条旗を振り回すことでしか表明できない時代錯誤な姿と重なってくる。

 このように考えてみれば宮本には既に9・11以前にスティーブン・ソンドハイム作曲、ジョン・ワイドマン台本のミュージカル「太平洋序曲」の優れた演出(新国立劇場主催2000/10)がある。日本開国を主題にしたこの作品は、まさにオリエンタリズムを逆手に「アメリカ」そのものをパロディで脱構築する演出であったのだが、ここでもやはり天井に張り付く星条旗や開国を迫る「アメリカ」人にくるまれた星条旗は日本への侵略と威圧の象徴として用いられるだけでなく、さらにはその象徴を無にするパロディがねらいとしてあった。今秋この作品が「東洋人初」の演出という触れ込みでブロードウェイで上演されるという。大いに期待したい。

 最後に演奏について触れておこう。演出がこれだけ読み替えを打ち出しているにもかかわらず演奏はあまりにも歯切れが悪かった。ただドン・ジョヴァンニ役黒田博は宮本の意図をよく理解し、過度に滑稽になることなく「悪人」を表現した。凛々しい舞台姿はもちろん、歌唱は問題なし。特に第2幕、ラジカセを片手に歌う「ドン・ジョヴァンニのセレナーデ」は美しかった。
(嶋田直哉 2004/7/22)

宮本亜門公式サイト
二期会サイト「ドン・ジョヴァンニ」公演

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August 07, 2004

劇団相殺「含羞」・「箸をかまえて」

劇団相殺の初公演「含羞」「箸をかまえて」(7月6-7日、新宿タイニイアリス)をみた台湾の「無夢楼劇団」(Dreamless Theatre in Taipei)主宰者C・Janさんから英文の劇評が寄せられました。Janさんは台北大学在学中から演劇活動を始め、今年4月に、サルトルの「出口なし」をもとにした「悪戯 Itazura」を作・演出して劇団を旗揚げ。2003年に「榴華殿」の台北公演「月下美人」に姉の役で主演するなど日本との交流があり、現在日本で演劇の勉強中です。Janさんのサイトにも全文が掲載されています。

A Dirge Sang Only at Midnights--劇団相殺「含羞」「箸をかまえて」
by C. Jan (Dreamless Theatre in Taipei)


In Taipei, performances are better took place at weekends to make sure that
the audience have the mood to appreciate the artistic live. However, there
are various kind of plays, talk shows everyday in Tokyo, therefore Iam
always curious at what kind of theatre troupes and their audience will show
up on week days.

Chopsticks are set up or Have chopsticks like sword, performed by July 6th
Tuesday & 7th Wednesday, offers me an opportunity. About 19:20, I enter the
Tiny Alice Theatre and have myself seated. Perhaps it is because the
exhausting daily job, the atmosphere is like the dense fog, lazy and dizzy.
Well, you can also call this a type of relaxation.

Seems like the average age of the troupe isn’t pretty young, maybe the
theme and the sense of values through whole work prove this. The performers
are not few, and the stage-sets, lightings, sounds and projections are
appropriately placed though, which makes you feel even more hollow and
empty, like a dirge of white-collar ideology sang only at midnights.

What interests me is the sense of time through the performance. At the
middle of the play, I feel like it is over twelve o’clock at night and this
is a play only for spirits or phantoms, therefore I’d better remain low-key
in case they will catch me (laugh).

When my mind is somewhere else for a while, the reaction of other audience
draws my attention. Not sleepy, whether this is a good show or not, they
REACT. Obviously the play speaks for them in some way.

Although myself cannot find a tunnel into that world for I can hardly
understand Japanese, sure there are supporters for them. Well, isn’t this
one of the essential meanings of performance, to at least please the
audience?

Most of the time we allow the artists to ignore the voices of the audience
in the process of creating or presenting the artistic works, in order to
reach the pure originality.

However, if there is some experienced creator also creates a space for
audience within the performance - even only an abstract concept, probably
will earn the creator some different admiration.

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July 11, 2004

水と油「スケジュール」

海外でも評判の高いパフォーマンス集団「水と油」の公演「スケジュール」の国内ツアーが始まっています。6月末の東京・世田谷のシアタートラムを皮切りに、高知、大阪、名古屋、札幌、釧路を8月中旬まで回る予定です。「スケジュール」は、一昨年3月シアタートラムで初演。第2回朝日舞台芸術賞“寺山修司賞”を受賞しました。
 「ぱうる」さんが自分のblog 「うたうた」でこの公演を取り上げています。マイムを軸としたダンス・パフォーマンスに触れた驚きが率直に表現されていると思います。以下、ぱうるさんの了解を得て転載します。ありがとうございました。



schedule.jpe

2004年06月17日(木)    「スケジュール」 @シアタートラム  /  芝居
2002年初演。
初日。(6/27まで)
マイムと、ダンスともいえるようなパフォーマンスのみの一時間。

感想を一言でいうと「すげぇーなー!」
その身体能力、動きにまず驚く。スピーディーでスレスレな動きも逆にスローな動きも、どうしてこんなに、目の前で起こっていることなのに、自分の目を疑える。
よく見てないと、アレ?これいつの間にこうなったんだっけと、わからなくなってしまうよ。
メンバー四人が四人すごい高いレベルなもんだからむしろそれが普通に見えてきてしまったりして不思議。不条理なユーモアにも、すんなり自然に入りこめる。
言葉、セリフは一切なし。しかしそれはシチュエーション的にもないほうが自然だったり、動きだけで伝わってくるので気にならない。

他者の介入によって思惑通りに行かなくなる未来。状況は目の前でどんどん変化していく。
全体のベースとなるのは日常風景を舞台にありがちな出来事、四人のチームワークあってこその誇張表現。 のはずが次第に展開の「展開」が展開されてしまったり、頭フル回転でも追いつかず。圧巻の展開とパフォーマンスにただただ驚き、感動。すごい想像力とその実現力だわ。

一時間あっという間で、もっと見たい物足りないと、劇場出るまで思ってた私がバカだった。
当たり前の世界の認識を自覚する。
現実の世界の普通の出来事が、全て特別に見えてしまったりする始末。自分の身に降り掛かるこの公演の影響はけっこう大きかった。

モウモトニハモドレナイ。

「水と油」のwebサイト:
http://www.mizutoabura.com/

Posted by : 02:40 PM | Comments (0) | Trackback
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