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April 01, 2005

チェルフィッチェ「ポスト*労苦の終わり」

あたし的にわァ、めっちゃ面白かった。っていうかあ、こんなのありなんだあ!ってびっくりしたっていうかあ、なるほどなって感心したっていうかあ。しばらく見てて舞台で何しようとしてるか、あたし的にィ、もちろん作・演が何狙ってたんだかなんて、岡田利規さんにチョク聞いてェだけどオ、聞いてもそんなん、口で言えるようなら舞台創らんと言われるに決まってるしィ、決まってないかも知れないけどそういうものじゃない?ってとこあるしィ、だからアあたし的にだけどオ、解ったと思ってからはア、同じこと同じように繰り返しィ話されるとオ、話す人は同じじゃなくて変わったりするんだけどオ、そいでもあんまり同じこと何度も話すとオ、もち、意図的にやってるんだから笑っちゃうんだけどオ、笑っちゃいながらちょっと眠くなったっていうかあ、意識が遠のくってこともあったりしてェ、そっと見まわしてア結構目ェつぶってる人、あたしだけじゃないじゃんなんて、ほっとしなかったと言うとオ嘘になるけどオー、でもやっぱ行ってよかったっていうかあ、見とくべきだったー、見なかったらぜーんぜん損しちゃったんじゃないかなーって、そーんな気持ちみたい、なあんて言ったりして――。

全然うまく真似できなかったけど、チェルフィッチェ「ポスト・労苦の終わり」の言葉はちょっとこんな感じ。話し手の内心がそもそもあやふやな上に、それでもより的確に言い表そうとさ迷いもがくので、言葉はまるで金魚のウンコみたいに延々と続いていく。聞き手への気遣いというか、自分の言葉がどう受け取られるか相手の立場にたってみる想像力もないではないので、言葉はさらに紆余曲折し止めどない。身振りもそう、言葉との内的関係が切れているから、体はまるでどうしたらいいか分からないみたいにふにゃふにゃよじれ、手は意味なく手近の壁を這ったり相手の方に差し伸べられ、しかしくねくねと届かない。

横浜STの空間をそのまま使った白い壁。出入りできない出入り口が二つ。客席の後方から、まるで遅れて来た客といったふうの女性が前列へ出てきてスタンドマイクに向かい、町でみかけた、喧嘩してた夫婦の話をします、と始まって行く。そしてそれから、その二人は暫くは一緒に住んでから、じゃなかったかなと思うんだけど、とにかく別れて、そのたしか2年後の話になって、別れた妻は部屋を探してて、もう一人の部屋を探している女性とルームシェアすることになって、けれども、そのもう一人の女性を誰かが好きになったらしく、その誰かは舞台に出てこないのだけど、その誰かの友達っていう男の話によると、ま、いっか、すぐいっしょに住もかって話になって、けど最初の、別れた妻のほうにしてみれば、別に反対するわけじゃないけど、シェアしている部屋の契約更新料ちょうど払ったばかりだし……今度はちょっと文体似た、かしら?……といったような話が延々と続いていく(第1幕)。

話すのは最初に出てきた女性と、あともう一人の女性と三人の男性。代わる代わる話す。内容はどっかのミーティングか結婚式場でたまたま関係ない人のスピーチが耳に入ってきてしまったみたいな、聞いてもいいし聞かなくてもいいし、いかにもエエ加減な同棲、現代だなあと感心してもいいし主体性ないなあと呆れてもいいし、そんなこと思ったところでどうせすぐ忘れてしまうだろうし、要するにどっちでもいい話。それも、妻と女性の話は二人の女性がそれぞれ話すからまだ混乱はないにしても、夫のほうの話は二人の男性が交替で話すし、いっしょに住もかの男の話は本人ではない、友達と称する男性が話すので、いよいよ主体がぼけていく。誰が話そうと大した違いはないってわけだ。考えて見ればこの話、そもそも彼ら彼女ら自身の身の上ではなく、町でみかけた夫婦とその知り合い?の話だった。話の主体なんて最初ッからありはしなかったのだ。

岡田利規の言葉は「超リアル日本語」と言われているらしい。日本語は「源氏物語」の昔ッから主語なし、述語でちゃんと分かる言葉であったから、ただ主語を言わなかったり語順をテレコにしたり語尾を曖昧にしたりするぐらいではなかなか現代のリアリティを掬い取ることは難しい。が、彼は、ただ言葉をらしくしようとしただけでなく、いったい誰の話やらどうでもいい人の話を採り、つまりと要約すればせいぜい10分で済む話にその10倍もの時間をかけ、さらにその話を誰がなぜするのか、当事者と話し手を替え、その話し手をさらに替えたりずらしたり,――きわめて知的な戦略を施すことによって「超リアル」と感じさせることに成功した。曖昧で不確かな身振りとともに一つの新しい可能性を開いたと言えよう。交互に話す彼らを横から写すカメラとテレビ画面。ときに掌に書いたクイズ?を画面に大写しにしたりして、物語への同化を絶ったのもなかなかの仕掛けであった。身振りにまだまだ工夫の余地ありでは? あれから町のワカモノをいやにジロジロ眺めるようになってしまった私にはそう思われるけれども。

タイトルに「ポスト」がくっついていたのは、前作「労苦の終わり」の改訂版だったからとか。部屋をシェアしている女性が結婚して出て行くなら、その空いた室に元の夫が戻ってくる可能性もないではない。が、あしたは部屋を探しにいこうというその夜、女性は、元妻の愚痴だったか何かの話を聞かされて一睡もできず、出かける気力も体力もない。が、しかし男の友達が話すには、女性は翌朝、敢然と?!男と部屋探しに出かけて行った――と思ったら、それは夢だったと友達は話す。客席は思わず失笑。女性は白い壁のいちばん隅っこ、ペットボトルを口に押し当て、じっとうずくまって萎えたまま――というところで第2幕は終わる。タイトルどおりご苦労さま、でした――。

 岡田の絶望は深い。客席の笑いが彼の唯一の望みであった。   (2005.03.21)

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March 22, 2005

芸術創造館プロデュース「背くらべ」

奥に二段ベッド。舞台ばなに玄関によくみかける帽子やコートをかけるスタンド。やがてひとりの女性が、ネグリジェというかパジャマというか寝姿で出てきて、ぼんやりスタンドのもとに座り込む。と、奥で人の気配。女性は急いでベッドの上段にもぐりこんで寝たふり。男性が入ってきて少し歩きまわってからベッドに背をもたせ、煙草に火をつけようとする……とたんに煙草は止めて! 私はてっきり深夜に帰った夫と待ちかねた妻と思い込んで二人の諍いを見ていった。が、かなり経ってから男性が女性のことをお姉ちゃんと呼び出すので、えッ!

 そう。これは基本的には80年代後半に起こって90年代に隆盛を誇った、いわゆる“静かな劇”あるいは“人間関係の劇”。何か劇的な出来事が起こったり人が相手に行動的に働きかけて発見をするといった“ドラマ”ではなく、あちこちに散りばめられている台詞に気をつけていると次第に相互の関係が見るものに解ってくる、未知が既知になってくるという仕組みの芝居であった。

 が、じゃ旧態依然の“静かな劇”だったか。というと、そうではなく、しばらくすると姉は手ぬぐいかぶった祖母?になり二つ折りの座布団腹に押し込んで妊娠した母になり麦藁帽子かぶった幼児になり、それに応じて弟もまた(祖父?か)父になり幼子になり、ときに二人は男女入れ替わって姉が金ボタンの中学生となり、弟がセーラー服の少女になったりさえする。そう、これは役者がいかに他に成り変わるか、成り変わりうるか、役者の背くらべ、ではない腕前くらべのための劇でもあった。観客はただ二人の演技を楽しめばいい。

世界の他はおろか、すぐ身近の他に対してさえほんとの関心が持てない現代において、後ろ向きに小声で話す台詞にさえ耳をそばだて関係を探らなければならない“静かな劇”なんてもはや有効ではないと感じはじめた幾人もの創り手たちが、静かな劇とみせかけて単なる静かな劇では終わらない方法をいま盛んに追求しはじめたように思われるが、この「背くらべ」の岩崎正裕(作・演出。劇団大阪太陽族)も確実にその旗手の一人だったと言えよう。

 そしてこの作品を“静かな劇”のふりした役者の腕比べ、芸くらべとして見てみると、中川浩三(弟)もみなみさゆり(姉)も観客をときに笑わせときにしんみりさせ、申し分なくよく演った。40歳になるとパンフにあった弟が、半ズボン姿で地べたを転げ駄々をこねたりするのも面白く、二人の台詞も、下手が当たり前の小劇場演劇では珍しいほどにうまい。昔の、姉弟仲良しがよく伝わってくる。二人の男女が入れ替わるのはお互いの立場に立ってみようとしたからか? 遊びの「ごっこ」でいいからもう少し必然があったらと惜しまれたのと、ときどき姉が喚くところ、(ふつうの台詞は声にも独特の魅力あってよく解るのに)音だけ聞こえて何を言ってるのか判らないということさえなければ満点だろう。あれは喉の奥で音を共鳴させ外へ出さないせいだろうか。

  ……普通ならここでペンをおくべきである。が、長年洗濯屋をしてきた父親がアイロンがけの最中に倒れて救急車。今にも危篤の知らせが来るかも?の実家に、久しぶりに大阪から1時間半かけて帰ってきた弟。それが売れない?俳優(芝居では映画俳優)で、役を貰うには下げたくもない頭も下げなければ……といった台詞を聞いたとき、ふっと作・演出の岩崎正裕のことを想ってしまったからいけない。芝居は冒頭、吸ってはだめと言われた煙草、最後に1本だけと許されてライターを灯し、それがふっと消されて終わったが、岩崎さんの父上はいまなお健在だろうか。好きな道に進むと言ったら父にもう金はやらないと言われ、母にそっともらったと芝居にあったが、あれはまるで作り話? カーテンコールのあとかなり唐突に♪われは湖の子、白波の~」と坂本九の♪見上げてごらん夜の星を」が聞こえてきたが、あれはまさか? 琵琶湖周航の歌にはたしか岩崎さんの故郷鈴鹿は入ってなかったはずだが?……。

だから仕方がない。舌足らずの大急ぎで聞くだけ聞いておきたい。(1)姉は弟に、役者をやめて洗濯屋を継げ、私が家に居ては帰りにくいだろうから嫁に行くと言った。手相見てあげようのグループに接近し、実際に路上で声かけたこともあるとも言った。が、そう言っただけでは嘘かほんとか見るものには判らない。二人は終わりに二段ベッドの柱に背の丈を測りっこしていた。姉はどう生きようとしているのか、弟と生き方くらべはしないのだろうか。 (2)パンフの表紙に父と姉と弟、3人の写真があり、もともとは弟と父との、あるいは姉弟と父との、懐かしい昔を彷彿とさせようとした芝居であった可能性が高い。しかしその父は、最初のほうの二段ベッドの上、なんだか気難しそうだった寝言(あれは祖父?)と、母に乗った父の行為を盗み見てしまった挿話と、真夏の我慢大会優勝と、せいぜいそれぐらいであった。これで作者は十分だった?

もしも、と思った。もう少し弟の創る喜びと経済のことも含めて生きることの辛さ、厳しさが――あの、たった一度撮影時の心持を話すだけでなく――芸くらべのなかで伝わってきたら。もう少し反抗した彼の、今死のうとする父への想いが伝わってきたら……と。姉に吹き消してと言いながら、煙草の火を消したのは弟だったから。

今度が三演とか。いま一度の加筆、不要の削除によって四演、五演。親に背いて芝居の道に走ってしまった若い役者たちからも上演希望が殺到し……帰りの想像は膨らんでいった。  (2005.03.20 東京芸術劇場小ホール)

Posted by : 03:43 PM | Comments (0) | Trackback

HUSTLE MANIA「青青青!!!」 

  あんまりスポーツのこと知らない私が言うことだからアテにはならないが、ラグビーはいちばん垢抜けしない、男臭いスポーツのように思われるのだが、どうだろう。飾り気がないといえば飾り気ないから好感度が低いわけではないが、憧れからほど遠いのは確かである。お世辞にも素敵なデザインとは言えないその横縞の汗っぽいユニホームは、アメリカン・フットボールや野球のそれとちがって太ももの筋肉から下腹の脂肪まですっかり剥き出し。サッカーのユニホームも似たようなものだけれど、泥んこの量が圧倒的にちがう。スマートに走り回るサッカー選手とちがって、ボール抱えて転げたり体こごめて尻をつきだし揉みあったりするからにちがいない。第一ラグビーには、メジャ-リーグだのアジア・カップだのといった陽など全く当らない。渋谷・F・真和作、瀧澤☆孝則演出の「青青青!!!」はそういうラグビーだった、じゃない芝居だった。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 06:11 AM | Comments (0) | Trackback

Big Smile「paper planes」

  Paper plane――訳せば「紙ヒコーキ」。終幕、あちこちから飛んでくる紙ヒコーキがとてもきれいだった。弁護士の夕平(中野正章)が幼かった昔を思い出すシーンだ。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:39 AM | Comments (0) | Trackback
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