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DEAD STOCK UNION「メルティング ポット」

――たっぷりの在庫、上質の人情喜劇――
  まず、役者が揃ってる!ことに驚いた。劇団の公演で老人役を若い人が演るとか、やむを得ぬミスキャストはよくあることだが、ここデッドストックのプロデュース公演にはそんなことがまるでなかった。デッドストックとは未来を目指す俳優たちの「在庫」の意とか、なるほど豊富な在庫から選び出された役者たちはそれぞれの役どころに実にぴったりだった。私の好みを先に言わせてもらうと、なかでもアネサンの二の子分アキラ(石田彬)はピカピカ若くてカッコよくて、意外に可愛い弱虫で、最高に魅力的だった。役者はただ筋を運ぶだけじゃなく、その前にまず観るものを魅了しなくちゃと改めて思ったことだった。

以下、全文をご覧ください。

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March 18, 2005

野鳩「お花畑でつかまえて」 

 「お花畑でつかまえて」は、漫画大好き少年が、自分の漫画を舞台に描きたいと作、一作努力してきて、ついに完成!――最後のシーンになぞらえて言えば、ついに卒業!――した舞台だったといえよう。これまでの野鳩の最高の到達であった。

  天王州アイルのスフィアメックス。ラクの客を送りだす出口に恥ずかしそうな顔して立っていた藤子不二雄が、オットット、作・演出の水谷圭一が、これまた恥ずかしそうな小さな声で「こんどはごく単純に創りました」と言っていたが、そのとおり、ストーリーはいたってシンプル。お祖父ちゃん子だった腰巡不二雄(畑田晋事)が同じ中学の美少女小豆畑つぼみ(佐伯さち子)に初恋。が、しかし徹底的に嫌われて終わるという、たったそれだけ。途中不二雄は、仏壇から現われたお祖父ちゃん(鳥打帽に眼鏡の水谷圭一。藤子不二雄にそっくり)の助けで男子から女子に変身、つぼみに近づく。が、不二雄が女子でいる間は、つぼみも、幼いとき太っていていじめられっ子だったと打ち明けてくれたり追っかけてきてくれたり、仲良くしてくれたのに、実は男子と解ったとたんに、いや! ――ひとことで言えばつまりこれは、好きな女子に友だちとしてならつきあってもらえるけど、異性として意識されたことがない、問題外だったという、コンプレックス少年の哀愁物語であった。
  男子中学生のコンプレックス。それが前作「きみとならんで空の下」では目の下にホクロがあるから、となっていて、それはそれで些細なところ、悪くなかった。が、今回はそういう設定いっさいなし。初めのほうで小柄な不二雄と背の高い親友宮野(堀口聡)とをただ並んで舞台に立たせただけ。見るものの想像にまかせたところがなお良かったように思う。他の人にはなんでもないことが気になる。それが人であり思春期であろう。 先に言ったストーリーがただ単線で描かれていくだけなく、つぼみや宮野の、美少年や不二子(腰巡不二雄が変身した女子中学生)への一目惚れと追っかけ、その挫折がそれぞれ挿入されていたのも、全体の厚みとなっていて、よかった。“好き”“嫌い”に理由なく、それが日々のすべてであった昔がほんのりと浮かんでくる。
  いちばん最後、不二雄がつぼみにふられてしまったあとだが、それまでお祖父ちゃんの仏壇が出現してきた以外、あまり使われず、惜しいなあと思っていた後方の石垣から舞台ばなにかけてが、一瞬にして美しい美しいi一面の菜の花畑へと変わる。溜めに溜めた、みごとな使い方であった。そして、そのお花畑に立ったつぼみと、客席まんなかに設けられていた花道、その後方に立っていた不二雄とが、あろうことか、手をあげ声をあげ、懐かしく懐かしく手を振り合っているではないか! それぞれ卒業証書の入った筒を持って――。冒頭、「ついに完成!」「ついに卒業!」と感じたのはこのときだった。 「お花畑でつかまえて」は、腰巡不二雄のつぼみへの憧れ、オマージュであったと同時に、水谷圭一の藤子不二雄へのまぎれもない憧れ、賛歌であった。もちろん見てきたとおり、つぼみが不二雄に手をふる必然は物語のなかにない。にもかかわらず、つぼみ――藤子不二雄はなんと、水谷圭一に手をふってくれたのだった……。おそらく水谷が、コンプレックスあるいは欠落、持っていないということを表現の根拠とし独特の魅力へと逆転させた力技を、それこそが漫画であり野鳩の芝居だと喜んでくれたから、にちがいない。
  嘘かほんとか、野鳩の大切な役者のひとりがこの公演を最後に劇団を去るかも?という噂を小耳に挟んだ。ここまで到達して、さあ卒業と去っていったらあまりに惜しい。一つ宿題を出すことにしよう。果たさなければ卒業させないわよの脅かしである。次回の提出を待っている。卒業がまた新たなる出発となりますように……。      (2005.03.04)
  宿題:つぼみが、不二子実は不二雄と気がつくところ。つぼみが引っ張っていた手を離すと不二子がいったん左袖に入り、入れ替わりに不二雄が出てくるが、これは、あまりに曲のないやりかた。漫画ならもっと上手に描く。これを藤子不二雄ならどう処理するだろうか、考えてきなさい。

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February 22, 2005

流山児★事務所「ハムレット」

 日韓演劇交流2005ワークショッププロジェクト公演と銘うたれていた。演出は流山児★事務所に招聘されて来日した玄志勳。10か月間の研修も終わりに近づき、その成果を公開しようというわけだ。実りのある、とてもいい企画だと思った。
 演出の言葉に「初めて東京に来た。初めて東京の町を歩いた」……「そして初めて日本で演出した」云々とある。初々しい若武者の、胸の高鳴りが聞こえるようだった。出演は人形糸操り崔永度とヴァイオリンの朴昡柱、そのほか7人はすべて流山児★事務所の役者たちだったから、日韓演劇交流がかけ声だけでないこともよくわかる。

  SPACE早稲田の階段を降りてまずまっさきに目についたのは、真っ白な段々で作られた李倫洙(「倫」のにんべんがない漢字)の装置。ハムレットの城壁なのだろう。壁のところどころから半分埋もれた車輪や靴やお皿や梯子などが顔を出している。都会の粗大ゴミ、廃棄物だろうか。みごとな才能だった。途中で段々の一つが客席の方に向かって開き、その上でも演技できるよう工夫されていた。
  この舞台、もとはチャールズ・マロウウイッツの「ハムレット」に拠ったのだとか。玄志勳はそのハムレットに「まだ全ての行動や思考が未熟な子供」をみつけたと記している。「まるで東京にいる自分みたい」に、と。
  ハムレットはしたがって、学生服を着た浅倉洋介。父を殺され母を伯父に寝とられながら復讐できない臆病ものとして登場する。彼に、自分の顔を見ろと鏡を渡したりナイフを持たせたり、同じ学生服を着た阿川竜一が何とか行動に踏み切らせようと励まし挑発する。フォーティンブラスであり、ハムレットの内心にいるもう一人のハムレットである。
  玄志勳は、マロウイッツ同様、筋や事件でなくハムレットの「意識変化」「心理的変化」に焦点をあてたいと書いていた。が、その後ハムレットがどう変わったかは、正直言うとよく分からなかった。どうやら最後のほうでハムレットは復讐に立ち上がった?らしいが、なぜそうできたか呑みこめなかった。どこから行動に踏み切ったか、ほんとに行動したのかどうかも、終始動きの激しい舞台だったので見分けが難しかった。ツンツンの可愛いワンピース、腕や足が食べてしまいたいほど魅力的なオフィーリア(佐藤華子)も出てきて、ピンク・パンツのお尻を捲くったりして吃驚させたが、ハムレットの「心理的変化」にどう関わったか? 王妃役の母親は? ……ここで言ってもしょうがないけれど、ひとこと女性の扱い方についてつけ加えると、性の対象としてしか見ていないこと、女性にばかり“操”を求めているところは、女の端くれとして大いに不満であった。どの国の「男」もまったくしょうがない。ブルータス、お前もか、である。
  この「ハムレット」、全体が街角の傀儡師崔永度に操られる人形たちという仕掛けになっていた。素敵な着想だ。はじめ役者たちが全員人形振りで動き始めたところなど、思わず期待で身を乗り出した。が、残念ながら折角の仕掛け。彼がどんなふうに人形を操り、どこに引っ込んでまたどこから出てきたか、お終いは?などなど、見ていくうちに彼は何者かどんどん曖昧になっていった。配役表に崔永度は「道化」とあったから、私たちは道化に操られているとただ設定してみただけかも知れないのだけれど……。
  いま、激しい戦火に見舞われている遠くを除いて、世界はどこもかしこもto be or not to beのハムレットばやり。自分をじっと凝視める誠実な玄志勳はやがての再演に、彼は、私たちは何ものに操られているのか、きっと明快な一つの回答を差し出してくれるにちがいない。私はそう信じている。        (西村博子 2005.02.19)

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February 18, 2005

Ugly duckling 「フル・オーケストラ」

ものすごくリキの入った、スケールのでかい装置にまず驚かされる。ヨーロッパ風の建物かなあ、広い舞台いっぱいに規則正しい長四角の石を積み上げたいくつかの階段や壁。町と言われればそんな気もするし、あちこちにマンホールの蓋があり、高い壁が上のほうでカーブを描き、ぽっかりあいた丸い穴に向かって垂直な梯子が伸びているので、都市の下を流れる下水道と見れば見えないこともない。

正面の高い出入り口から二代目針子と名乗る主人公?(山下平祐)が出てきて、まず、自分の母親は(お)針子、布を縫い足していろいろなものを創り上げる。自分も母の仕事を継ぎたいが許してくれないので、針ではなく、コンクリとセメントで同じことをしたい、といったことを言う。実際に母親とお針子の女性たちも出てきて、その動作を見ながら聞く自己紹介?だから、説明的な感じはしないが、論理はかなり強引である。
彼はどうやら都市造り、あるいは再建をしようとする現場監督らしい。工事人夫たちを指揮して工事をすすめているところへ、スコップを持った男(早川丈二)がまぎれこんできて、これは違う、前の町ではないと言う。と、あちこちにあった穴やマンホールから、「東西屋」をはじめいろんな人々が代わる代わる出てきて、いろんなことをする。あるいは彼らのさまざまをみせる。それぞれの孤独、といってしまえば簡単だろうが、彼らが一体何もので、その関係はほんとのところ何だったのかといったことは、脚本でも借りてじっくり読んでみないことには分からない。ただ池田祐佳理の見せ方の巧い演出にただあれよ、あれよと見ているばかりである。
おしまいに二代目針子がもう一度出てきて、客席に背を向け、役者全員に向かってタクトを振りかざしたところで、終わる。一人一人音色の違う役者たちが総力挙げてこの芝居を創ってきたという想いであろうし、これから力を合わせて新しい町を創っていこうという決意表明でもあった、にちがいない。タイトル、「フル・オーケストラ」の所以である。縫ったり修復したり纏めたり指揮する人、といえばそれにちがいはないが、それにしても二代目針子=現場監督=オーケストラの指揮者とはまた、強引としか言いようがない。最初と最後に、少年更生施設?の金網挟んで少年(樋口美友喜)が愛と憎しみをこめて少女(吉川貴子)の髪を強く引っ掴んで離さないシーンがあったから、この町づくり、ないしフル・オーケストラによる芝居づくりのすべてが樋口少年の遠くへの憧れ、夢ないしは欲望――だったかも知れない、という可能性が残る。
強引という言葉を2度も使ったが、たしかに作劇術のふつうの常識では考えられない構造である。二代目針子に主人公?とクエッション・マークをつけたのも、一見主人公にみえて、実はそれからのさまざまな出来事に関わってはいかず、古典的な意味で言う「ドラマ」の主人公にはならないからである。にもかかわらず終わりに、まるで「ドラマ」の主人公みたいに「発見」をし、再び指揮をとりはじめるのだから、不思議である。
が、前回の東京公演「アドウェントューラ」(2003)を見て、今回の「フル・オーケストラ」を見て、この不思議、この強引こそ樋口美友喜だと思った。「フル・オーケストラ」も古いカセットテープを聞こうとした「アドウェントューラ」も、基本的な構造として変わりはない。不良少年、少女が仮設されただけ複雑になったと言えようか。だが、その底の底に樋口の、“町”や“人々”あるいはそれとごっちゃになったそれらによって“創りだされる芝居”に対する強い希求がある。旧約聖書から逆に現代を眺めようとするのがいかにも体験不在の現代っ子らしいが、それがよくある日常のふとした想いなどに収斂せず、思いっきりでかく世界や日本を向こうにまわしているところも並みではない。彼女の祈りにも似た感受がどうしたら観るもののそれとなるか、Ugly ducklingに今一息の工夫をと望んでも、期待が大きすぎるということはない、だろう。                     (西村博子 2005.02.13 東京芸術劇場小ホール)

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