11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

May 20, 2005

桜会「P―天才って何?―」

  正直言うと、はじめちょっと驚いた。たとえば久しぶりの再会なら両手を大きく開いてちょっと後ろへ重心を移してから駆け寄っていって相手を抱きしめるといった、日本人離れした身のこなし。たとえば背筋をぴんと立てたままで話すちょっと気取った?言い回しのせりふ、せりふ。むか~したくさん見た翻訳劇を思い出したからだ。近ごろ稀な「新劇」正統派って感じである。

以下、全文をごらんください。

Posted by : 09:01 AM | Comments (0) | Trackback

May 08, 2005

E.G.WORLD Ⅲ「みにくいフツウの子~突然変異は、未来の常識」

 熊の霊を神のもとに帰す儀式というイヨマンテ。その生贄に捧げられて咆える小熊役の志保(根元千可子)がもし「みにくいフツウの子」だったとしても、サブタイトルの「突然変異は、未来の常識」とは何のことだろう? ひょっとしたら金堂修一(作・演出・制作)の、初め創ろうと思った構想とできあがった舞台とはズレが生じたかも?と思った。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 04:09 AM | Comments (2) | Trackback

May 05, 2005

ドロップD「これからこいつと×××」

  もしもこの“コント・コラージュ”と自称するふんわか・へんてこ芝居が一つのスタイルとして完成したとしたら、日本の演劇はまた少し豊かになる、かも知れない。が、その前途は相当キビシソーという感じがした。飯田ゆかり作・演出の「これからこいつと×××」である。アリス インタビューによれば日本劇作家協会の戯曲セミナー、別役実のクラスを受講した人とか。前回公演のとき、その別役先生に「志の高さを感じる」と励まされた、ともあった。聞くだけで嬉しく、心温まる。が、書くだけでなく実際に演出し役者を集め情宣・制作し経済的な責任まで持つ――こんなにもまともに受けてたってくれる生徒がいるなんて! 長いことコント書くことを奨めてきた先生自身、もしやとまどっていられはしないか?と邪推した。 飯田ゆかりとしては必ずいつか、僕のできなかったことをし遂げたと先生を驚嘆させねばならぬ。

以下、全文をごらんください。

Posted by : 01:30 AM | Comments (0) | Trackback

東京サギまがい・ゲツメンチャクリク「お化け屋敷の中~断髪したライオン達~」

  「東京サギまがい」という名前がいい。なんか面白可笑しい口車、心かっさらってやるぞといった気概がみえる。よき市民よりもうちょっと危ない匂いのするほうに身を寄せようとする姿勢も小気味いい。その若手公演・ゲツメンチャクリクも “人類の偉大な第一歩”たらんと意気軒昂なネーミングである。そのせいか、彼らのVol.1 ♪初めの一歩は、見事に着地に成功した。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 01:17 AM | Comments (0) | Trackback

うずめ劇場「ねずみ狩り」

 「福岡演劇の今」(薙野信喜)に、「最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。〈略〉演出も俳優も結末を当然と受け止め、〈略〉スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ」という言葉をみつけた。東京シアターXのラクを見た私もまったく同じことを思った。

 作者はドイツのペーター・トゥリーニ。1972年の作という。まったく単純明快な設定、単純明快そして力強いプロット。ところはゴミ捨て場なのだから劇場さえ選べば装置も不要、ただ役者の力量だけが問われるはずの舞台だ。何よりその、“すべてを捨てる”という作者の選択が素晴らしい。口で言うのは簡単だがそれを選ぶ=書くことはほんとの思想になっていなければできることではない。観るものにそれができるか!?迫ってくる厳しさだ。ふっと昔ニューヨークのOff Offでみた「Death List」を思い出した。ギャベージ缶もそこらに転がっていそうな汚いビルの上階。黒人がひとり、銃の手入れをしながら殺してやりたい人間の名前を延々と挙げていく。そして、私たちの入ってきた扉が突如蹴破られて弾丸の音。姿はない。黒人は殺されていた。作・演出は誰だったか記憶にないが、私は実際客席で飛び上がっていた。

  男女ふたりの俳優はよく演った、と思う。生まれたままの姿で舞台に立つことは想像するよりずっとずっと大変なことにちがいない。その俳優たちを、上記評の指摘するとおり演出※は生かしきれなかった。白いビニ―ルのゴミ収集袋で埋め尽くされた舞台。覆い被さっていた大きな布地がさっと宙に舞い上がり車の座席が現れる――技術のある、見事な開幕といえよう。が、それはそれだけ。男の手帳?にこれまで交渉を持った何人かの女の名も記されていたと言っていたが、なぜ二人は他の相手とちがって互いにあらゆるものを捨てることができたか、それを演出は見逃した。二人は次第に脱ぎ去り捨て去り一糸纏わぬ姿になっていく。が、Wonderland by KITAZIMA takasiにも「交合の仕草をまねたり」「舞台を飛び跳ね」たりするだけ、「肝心の男性のシンボルに生気がなかった」とあったが、なぜ二人は互いに魅せられないのか。なぜ最高の美となっていかないのか。見るものの感性が引っくり返せるかどうか、舞台はこの一点にかかっていたはずである。

 終幕のライフル持った男二人も同様。戯曲にそうあったからそうやらせたというだけに見えた。「Death List」の黒々と口を開けたドア、得体の知れない恐怖は、創り手の感受をよく伝える一つの方法であった。さっきまでそこにいた自分は殺す側かも知れない。同時に、いつ殺されるか解らない恐怖だ。「ねずみ狩り」の演出にとって現代の恐怖は何だったのだろう。演出は「ねずみ」ではないのか?

  なぜ日本にこういう素晴らしい戯曲が生まれないのか。口惜しまぎれに思わず演出に毒づいたが、いい作品を日本に紹介してくれたことに感謝しないわけにいかない。いつかぜひ、鼠の棲みつきそうな小屋で、二人に惚れ惚れ見惚れるような再演を!と望みたい。     (2005.04.17)

Posted by : 01:02 AM | Comments (0) | Trackback

楽天舞隊「三人三色」

  たいていの俳優はただ与えられた役に力を尽くすだけ。表現の肝心かなめは作・演出におまかせで、そもそも表現したいことなんてまるで内部にないのじゃない? ずっと私は疑っていたのだが、それがそうではないと判って、嬉しかった。石垣まさき(第一話)、大田良(第二話)、中澤昌弘(第三話)、それぞれが原作を担当した楽天舞隊の「三人三色」である。原作を書いた俳優はむろん、それぞれの主役を演じる。俳優がただ演技が上手か下手かだけでなく、その人のものの見方、感じ方が見えて、いい。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 12:25 AM | Comments (0) | Trackback

May 02, 2005

遊牧管理人「ヒマワリ-鰐を飼う人」

 作・演出の広瀬格。力のある人だと思った。なぜかひとの心の中がわかってしまう、と思っていたら、その「ひと」はぜんぶ自分だった!――なんて、複雑骨折気味の人間にはひょっとして私のこと??? ドキッとするようなテーマ。それを、心中を吐露したり台詞で説明するなんて下手なこと一切なし、劇の展開で伝えていく作といい、缶蹴り、鬼ごっこ、もぐら叩き、家族ごっこに兄妹ごっこ……それも俳優の役割をどんどん交替させてお父さんが次から次へと出てきたりお兄さんが次々と出てきたり、テンポよく繰り出す遊びで客をほどよく混乱させたり笑わせたりしながら見せていく演出といい、なまなかの凡手ではない。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 06:13 AM | Comments (0) | Trackback

April 12, 2005

演劇実践集団デスペラーズ「或る告白」

 あとから言えばまったく思い込みだったのだけど、デスペラーズという劇団名から何となくお笑いかな?と思って私は客席にいた。ところが全くの見当違い。まずプロローグ。敗戦直前にB29からパラシュートで降下してきた米兵を日本国民の総意の代行と信じて殺した元日本兵浅倉(吉田智則)が主人公。それが進駐してきたアメリカ軍によっていま捜査中、逮捕されれば戦争犯罪人として処刑は確実。それを、アメリカ生まれ?!の元戦友の友情によって偽名の身分証をもらい、行方をくらますことになる……と始まっていく。アメリカは広島、長崎に原爆落としたと米兵殺しの正当性を言う浅倉に、オッ、イラクの今と比べて敗戦後の日本人はどうしてあんなに簡単にアメリカにナツイテしまったのだろうとかねがね疑問に思っていた私としては、これは硬派。憎んだアメリカと友情受けたアメリカと、引き裂かれた日本人の私たちはさてどうするかの芝居だな、と身を引き締めた。日本演劇史上かつてなかった問題意識であり、真摯なテーマではないか!!

以下、全文をこ覧ください。

Posted by : 11:31 PM | Comments (0) | Trackback

April 01, 2005

チェルフィッチェ「ポスト*労苦の終わり」

あたし的にわァ、めっちゃ面白かった。っていうかあ、こんなのありなんだあ!ってびっくりしたっていうかあ、なるほどなって感心したっていうかあ。しばらく見てて舞台で何しようとしてるか、あたし的にィ、もちろん作・演が何狙ってたんだかなんて、岡田利規さんにチョク聞いてェだけどオ、聞いてもそんなん、口で言えるようなら舞台創らんと言われるに決まってるしィ、決まってないかも知れないけどそういうものじゃない?ってとこあるしィ、だからアあたし的にだけどオ、解ったと思ってからはア、同じこと同じように繰り返しィ話されるとオ、話す人は同じじゃなくて変わったりするんだけどオ、そいでもあんまり同じこと何度も話すとオ、もち、意図的にやってるんだから笑っちゃうんだけどオ、笑っちゃいながらちょっと眠くなったっていうかあ、意識が遠のくってこともあったりしてェ、そっと見まわしてア結構目ェつぶってる人、あたしだけじゃないじゃんなんて、ほっとしなかったと言うとオ嘘になるけどオー、でもやっぱ行ってよかったっていうかあ、見とくべきだったー、見なかったらぜーんぜん損しちゃったんじゃないかなーって、そーんな気持ちみたい、なあんて言ったりして――。

全然うまく真似できなかったけど、チェルフィッチェ「ポスト・労苦の終わり」の言葉はちょっとこんな感じ。話し手の内心がそもそもあやふやな上に、それでもより的確に言い表そうとさ迷いもがくので、言葉はまるで金魚のウンコみたいに延々と続いていく。聞き手への気遣いというか、自分の言葉がどう受け取られるか相手の立場にたってみる想像力もないではないので、言葉はさらに紆余曲折し止めどない。身振りもそう、言葉との内的関係が切れているから、体はまるでどうしたらいいか分からないみたいにふにゃふにゃよじれ、手は意味なく手近の壁を這ったり相手の方に差し伸べられ、しかしくねくねと届かない。

横浜STの空間をそのまま使った白い壁。出入りできない出入り口が二つ。客席の後方から、まるで遅れて来た客といったふうの女性が前列へ出てきてスタンドマイクに向かい、町でみかけた、喧嘩してた夫婦の話をします、と始まって行く。そしてそれから、その二人は暫くは一緒に住んでから、じゃなかったかなと思うんだけど、とにかく別れて、そのたしか2年後の話になって、別れた妻は部屋を探してて、もう一人の部屋を探している女性とルームシェアすることになって、けれども、そのもう一人の女性を誰かが好きになったらしく、その誰かは舞台に出てこないのだけど、その誰かの友達っていう男の話によると、ま、いっか、すぐいっしょに住もかって話になって、けど最初の、別れた妻のほうにしてみれば、別に反対するわけじゃないけど、シェアしている部屋の契約更新料ちょうど払ったばかりだし……今度はちょっと文体似た、かしら?……といったような話が延々と続いていく(第1幕)。

話すのは最初に出てきた女性と、あともう一人の女性と三人の男性。代わる代わる話す。内容はどっかのミーティングか結婚式場でたまたま関係ない人のスピーチが耳に入ってきてしまったみたいな、聞いてもいいし聞かなくてもいいし、いかにもエエ加減な同棲、現代だなあと感心してもいいし主体性ないなあと呆れてもいいし、そんなこと思ったところでどうせすぐ忘れてしまうだろうし、要するにどっちでもいい話。それも、妻と女性の話は二人の女性がそれぞれ話すからまだ混乱はないにしても、夫のほうの話は二人の男性が交替で話すし、いっしょに住もかの男の話は本人ではない、友達と称する男性が話すので、いよいよ主体がぼけていく。誰が話そうと大した違いはないってわけだ。考えて見ればこの話、そもそも彼ら彼女ら自身の身の上ではなく、町でみかけた夫婦とその知り合い?の話だった。話の主体なんて最初ッからありはしなかったのだ。

岡田利規の言葉は「超リアル日本語」と言われているらしい。日本語は「源氏物語」の昔ッから主語なし、述語でちゃんと分かる言葉であったから、ただ主語を言わなかったり語順をテレコにしたり語尾を曖昧にしたりするぐらいではなかなか現代のリアリティを掬い取ることは難しい。が、彼は、ただ言葉をらしくしようとしただけでなく、いったい誰の話やらどうでもいい人の話を採り、つまりと要約すればせいぜい10分で済む話にその10倍もの時間をかけ、さらにその話を誰がなぜするのか、当事者と話し手を替え、その話し手をさらに替えたりずらしたり,――きわめて知的な戦略を施すことによって「超リアル」と感じさせることに成功した。曖昧で不確かな身振りとともに一つの新しい可能性を開いたと言えよう。交互に話す彼らを横から写すカメラとテレビ画面。ときに掌に書いたクイズ?を画面に大写しにしたりして、物語への同化を絶ったのもなかなかの仕掛けであった。身振りにまだまだ工夫の余地ありでは? あれから町のワカモノをいやにジロジロ眺めるようになってしまった私にはそう思われるけれども。

タイトルに「ポスト」がくっついていたのは、前作「労苦の終わり」の改訂版だったからとか。部屋をシェアしている女性が結婚して出て行くなら、その空いた室に元の夫が戻ってくる可能性もないではない。が、あしたは部屋を探しにいこうというその夜、女性は、元妻の愚痴だったか何かの話を聞かされて一睡もできず、出かける気力も体力もない。が、しかし男の友達が話すには、女性は翌朝、敢然と?!男と部屋探しに出かけて行った――と思ったら、それは夢だったと友達は話す。客席は思わず失笑。女性は白い壁のいちばん隅っこ、ペットボトルを口に押し当て、じっとうずくまって萎えたまま――というところで第2幕は終わる。タイトルどおりご苦労さま、でした――。

 岡田の絶望は深い。客席の笑いが彼の唯一の望みであった。   (2005.03.21)

Posted by : 11:23 PM | Comments (0) | Trackback

March 22, 2005

芸術創造館プロデュース「背くらべ」

奥に二段ベッド。舞台ばなに玄関によくみかける帽子やコートをかけるスタンド。やがてひとりの女性が、ネグリジェというかパジャマというか寝姿で出てきて、ぼんやりスタンドのもとに座り込む。と、奥で人の気配。女性は急いでベッドの上段にもぐりこんで寝たふり。男性が入ってきて少し歩きまわってからベッドに背をもたせ、煙草に火をつけようとする……とたんに煙草は止めて! 私はてっきり深夜に帰った夫と待ちかねた妻と思い込んで二人の諍いを見ていった。が、かなり経ってから男性が女性のことをお姉ちゃんと呼び出すので、えッ!

 そう。これは基本的には80年代後半に起こって90年代に隆盛を誇った、いわゆる“静かな劇”あるいは“人間関係の劇”。何か劇的な出来事が起こったり人が相手に行動的に働きかけて発見をするといった“ドラマ”ではなく、あちこちに散りばめられている台詞に気をつけていると次第に相互の関係が見るものに解ってくる、未知が既知になってくるという仕組みの芝居であった。

 が、じゃ旧態依然の“静かな劇”だったか。というと、そうではなく、しばらくすると姉は手ぬぐいかぶった祖母?になり二つ折りの座布団腹に押し込んで妊娠した母になり麦藁帽子かぶった幼児になり、それに応じて弟もまた(祖父?か)父になり幼子になり、ときに二人は男女入れ替わって姉が金ボタンの中学生となり、弟がセーラー服の少女になったりさえする。そう、これは役者がいかに他に成り変わるか、成り変わりうるか、役者の背くらべ、ではない腕前くらべのための劇でもあった。観客はただ二人の演技を楽しめばいい。

世界の他はおろか、すぐ身近の他に対してさえほんとの関心が持てない現代において、後ろ向きに小声で話す台詞にさえ耳をそばだて関係を探らなければならない“静かな劇”なんてもはや有効ではないと感じはじめた幾人もの創り手たちが、静かな劇とみせかけて単なる静かな劇では終わらない方法をいま盛んに追求しはじめたように思われるが、この「背くらべ」の岩崎正裕(作・演出。劇団大阪太陽族)も確実にその旗手の一人だったと言えよう。

 そしてこの作品を“静かな劇”のふりした役者の腕比べ、芸くらべとして見てみると、中川浩三(弟)もみなみさゆり(姉)も観客をときに笑わせときにしんみりさせ、申し分なくよく演った。40歳になるとパンフにあった弟が、半ズボン姿で地べたを転げ駄々をこねたりするのも面白く、二人の台詞も、下手が当たり前の小劇場演劇では珍しいほどにうまい。昔の、姉弟仲良しがよく伝わってくる。二人の男女が入れ替わるのはお互いの立場に立ってみようとしたからか? 遊びの「ごっこ」でいいからもう少し必然があったらと惜しまれたのと、ときどき姉が喚くところ、(ふつうの台詞は声にも独特の魅力あってよく解るのに)音だけ聞こえて何を言ってるのか判らないということさえなければ満点だろう。あれは喉の奥で音を共鳴させ外へ出さないせいだろうか。

  ……普通ならここでペンをおくべきである。が、長年洗濯屋をしてきた父親がアイロンがけの最中に倒れて救急車。今にも危篤の知らせが来るかも?の実家に、久しぶりに大阪から1時間半かけて帰ってきた弟。それが売れない?俳優(芝居では映画俳優)で、役を貰うには下げたくもない頭も下げなければ……といった台詞を聞いたとき、ふっと作・演出の岩崎正裕のことを想ってしまったからいけない。芝居は冒頭、吸ってはだめと言われた煙草、最後に1本だけと許されてライターを灯し、それがふっと消されて終わったが、岩崎さんの父上はいまなお健在だろうか。好きな道に進むと言ったら父にもう金はやらないと言われ、母にそっともらったと芝居にあったが、あれはまるで作り話? カーテンコールのあとかなり唐突に♪われは湖の子、白波の~」と坂本九の♪見上げてごらん夜の星を」が聞こえてきたが、あれはまさか? 琵琶湖周航の歌にはたしか岩崎さんの故郷鈴鹿は入ってなかったはずだが?……。

だから仕方がない。舌足らずの大急ぎで聞くだけ聞いておきたい。(1)姉は弟に、役者をやめて洗濯屋を継げ、私が家に居ては帰りにくいだろうから嫁に行くと言った。手相見てあげようのグループに接近し、実際に路上で声かけたこともあるとも言った。が、そう言っただけでは嘘かほんとか見るものには判らない。二人は終わりに二段ベッドの柱に背の丈を測りっこしていた。姉はどう生きようとしているのか、弟と生き方くらべはしないのだろうか。 (2)パンフの表紙に父と姉と弟、3人の写真があり、もともとは弟と父との、あるいは姉弟と父との、懐かしい昔を彷彿とさせようとした芝居であった可能性が高い。しかしその父は、最初のほうの二段ベッドの上、なんだか気難しそうだった寝言(あれは祖父?)と、母に乗った父の行為を盗み見てしまった挿話と、真夏の我慢大会優勝と、せいぜいそれぐらいであった。これで作者は十分だった?

もしも、と思った。もう少し弟の創る喜びと経済のことも含めて生きることの辛さ、厳しさが――あの、たった一度撮影時の心持を話すだけでなく――芸くらべのなかで伝わってきたら。もう少し反抗した彼の、今死のうとする父への想いが伝わってきたら……と。姉に吹き消してと言いながら、煙草の火を消したのは弟だったから。

今度が三演とか。いま一度の加筆、不要の削除によって四演、五演。親に背いて芝居の道に走ってしまった若い役者たちからも上演希望が殺到し……帰りの想像は膨らんでいった。  (2005.03.20 東京芸術劇場小ホール)

Posted by : 03:43 PM | Comments (0) | Trackback

HUSTLE MANIA「青青青!!!」 

  あんまりスポーツのこと知らない私が言うことだからアテにはならないが、ラグビーはいちばん垢抜けしない、男臭いスポーツのように思われるのだが、どうだろう。飾り気がないといえば飾り気ないから好感度が低いわけではないが、憧れからほど遠いのは確かである。お世辞にも素敵なデザインとは言えないその横縞の汗っぽいユニホームは、アメリカン・フットボールや野球のそれとちがって太ももの筋肉から下腹の脂肪まですっかり剥き出し。サッカーのユニホームも似たようなものだけれど、泥んこの量が圧倒的にちがう。スマートに走り回るサッカー選手とちがって、ボール抱えて転げたり体こごめて尻をつきだし揉みあったりするからにちがいない。第一ラグビーには、メジャ-リーグだのアジア・カップだのといった陽など全く当らない。渋谷・F・真和作、瀧澤☆孝則演出の「青青青!!!」はそういうラグビーだった、じゃない芝居だった。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 06:11 AM | Comments (0) | Trackback

Big Smile「paper planes」

  Paper plane――訳せば「紙ヒコーキ」。終幕、あちこちから飛んでくる紙ヒコーキがとてもきれいだった。弁護士の夕平(中野正章)が幼かった昔を思い出すシーンだ。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:39 AM | Comments (0) | Trackback

プリンアラモード鯖「DOCK’N DOCK’N」 

  「僕はフリーターです。夜間のアルバイトをして暮らしているフリーターです」――開演前のちょっとした時間に読んだ作・演出細川貴史の「鯖のたわごと」は、こんな書き出しから始まっていた。それは、バイト帰りにコンビニの前でタバコを吸っていたら、ホームレスのおっちゃんから声をかけられたときのこと。たとえそれが知人でも心の準備がなかったら「しどろもどろのこんにゃく」になってしまうという細川は「その場にフリーズ」。タバコ1本やっと渡すと一目散に逃げ出したというのだ。東京なんか出てくるんじゃなかった。これから用のないところに絶対立ち止まらないぞ。人生を投げたりしないぞ……と「あらゆる後悔をしながら」。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:33 AM | Comments (0) | Trackback

鳳劇団「昭和元禄桃尻娘」

  タイトル見たとき思わずカナンワーと首をすくめた。電車の中でおっちゃんたちがよく読んでるスポーツ新聞、そのピンク見出しと同じセンスだからだ。実際、鳳劇団の一本柱かぢゅよと康実紗(劇団アランサムセ)のピチピチ娘、二人だけの1時間半。たとえば踊りに股を開いて♪モッコリ、モッコリ」 両手をハスに上下する手振りがあったり、たとえば○○タマとあけすけな単語が飛び出したり。女優さんたちよう演るわ、よう演らせるわとカンシンする個所も少なくない。游劇社から今回の鳳劇団旗揚げへ。鳳いく太は、怒れる息子世代から現実受け入れのオジン世代へ確実に変貌した、と私は感じた。成長、ではない。受け入れざるをえないから受け入れたのだ。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:28 AM | Comments (0) | Trackback

Jules†ジュール「砂城のビショップ」

 憂いを含んで、きりっとしたルックスも素敵だが、少年サキヤ(伊東香穂里)のほっそりとした両肩、その背中がとりわけ魅力的だった。黒十字のリボンでうしろを絞った白いワイシャツ、細身の黒いズボンもよく似合う。 最近、男優の扮する女性で美しいといえるのが滅多にないのは、たぶん、あれもこれも同じような仕草、同じようなメーキャップ。シホンシュギシャカイにおける女性の商品価値をその美と思いこんでいるせいだろう。それに比べると女優の少年のほうは、こうすれば美少年というジョーシキなんてないから、そのひととして美しいかどうかだけが問われる。もし魅力的ならそのひとにしかない魅力、ということになる。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:24 AM | Comments (0) | Trackback

劇団きらら「ほね屋」

昨年上海演劇大学から、3年に1度開催する国際実験演劇祭in Shanghai にAlice Festival2004から何かいい作品をという依頼をもらったとき、私は躊躇なくAlice 賞の劇団きらら「キリンの眼」を推した。それから始まったいろいろな連絡やりとり。そのうちの一つに、作・演出の池田美樹さんから新作「ほね屋」で行きたい、それで熊本、福岡、東京へも、という希望が出た。で、そのことを上海に。まだ見てない作品、さてそのタイトルをどう伝えよう? 頭をかしげて、とりあえずBone‐sellerと直訳しておいた。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:20 AM | Comments (0) | Trackback

DEAD STOCK UNION「メルティング ポット」

――たっぷりの在庫、上質の人情喜劇――
  まず、役者が揃ってる!ことに驚いた。劇団の公演で老人役を若い人が演るとか、やむを得ぬミスキャストはよくあることだが、ここデッドストックのプロデュース公演にはそんなことがまるでなかった。デッドストックとは未来を目指す俳優たちの「在庫」の意とか、なるほど豊富な在庫から選び出された役者たちはそれぞれの役どころに実にぴったりだった。私の好みを先に言わせてもらうと、なかでもアネサンの二の子分アキラ(石田彬)はピカピカ若くてカッコよくて、意外に可愛い弱虫で、最高に魅力的だった。役者はただ筋を運ぶだけじゃなく、その前にまず観るものを魅了しなくちゃと改めて思ったことだった。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:10 AM | Comments (0) | Trackback

March 18, 2005

野鳩「お花畑でつかまえて」 

 「お花畑でつかまえて」は、漫画大好き少年が、自分の漫画を舞台に描きたいと作、一作努力してきて、ついに完成!――最後のシーンになぞらえて言えば、ついに卒業!――した舞台だったといえよう。これまでの野鳩の最高の到達であった。

  天王州アイルのスフィアメックス。ラクの客を送りだす出口に恥ずかしそうな顔して立っていた藤子不二雄が、オットット、作・演出の水谷圭一が、これまた恥ずかしそうな小さな声で「こんどはごく単純に創りました」と言っていたが、そのとおり、ストーリーはいたってシンプル。お祖父ちゃん子だった腰巡不二雄(畑田晋事)が同じ中学の美少女小豆畑つぼみ(佐伯さち子)に初恋。が、しかし徹底的に嫌われて終わるという、たったそれだけ。途中不二雄は、仏壇から現われたお祖父ちゃん(鳥打帽に眼鏡の水谷圭一。藤子不二雄にそっくり)の助けで男子から女子に変身、つぼみに近づく。が、不二雄が女子でいる間は、つぼみも、幼いとき太っていていじめられっ子だったと打ち明けてくれたり追っかけてきてくれたり、仲良くしてくれたのに、実は男子と解ったとたんに、いや! ――ひとことで言えばつまりこれは、好きな女子に友だちとしてならつきあってもらえるけど、異性として意識されたことがない、問題外だったという、コンプレックス少年の哀愁物語であった。
  男子中学生のコンプレックス。それが前作「きみとならんで空の下」では目の下にホクロがあるから、となっていて、それはそれで些細なところ、悪くなかった。が、今回はそういう設定いっさいなし。初めのほうで小柄な不二雄と背の高い親友宮野(堀口聡)とをただ並んで舞台に立たせただけ。見るものの想像にまかせたところがなお良かったように思う。他の人にはなんでもないことが気になる。それが人であり思春期であろう。 先に言ったストーリーがただ単線で描かれていくだけなく、つぼみや宮野の、美少年や不二子(腰巡不二雄が変身した女子中学生)への一目惚れと追っかけ、その挫折がそれぞれ挿入されていたのも、全体の厚みとなっていて、よかった。“好き”“嫌い”に理由なく、それが日々のすべてであった昔がほんのりと浮かんでくる。
  いちばん最後、不二雄がつぼみにふられてしまったあとだが、それまでお祖父ちゃんの仏壇が出現してきた以外、あまり使われず、惜しいなあと思っていた後方の石垣から舞台ばなにかけてが、一瞬にして美しい美しいi一面の菜の花畑へと変わる。溜めに溜めた、みごとな使い方であった。そして、そのお花畑に立ったつぼみと、客席まんなかに設けられていた花道、その後方に立っていた不二雄とが、あろうことか、手をあげ声をあげ、懐かしく懐かしく手を振り合っているではないか! それぞれ卒業証書の入った筒を持って――。冒頭、「ついに完成!」「ついに卒業!」と感じたのはこのときだった。 「お花畑でつかまえて」は、腰巡不二雄のつぼみへの憧れ、オマージュであったと同時に、水谷圭一の藤子不二雄へのまぎれもない憧れ、賛歌であった。もちろん見てきたとおり、つぼみが不二雄に手をふる必然は物語のなかにない。にもかかわらず、つぼみ――藤子不二雄はなんと、水谷圭一に手をふってくれたのだった……。おそらく水谷が、コンプレックスあるいは欠落、持っていないということを表現の根拠とし独特の魅力へと逆転させた力技を、それこそが漫画であり野鳩の芝居だと喜んでくれたから、にちがいない。
  嘘かほんとか、野鳩の大切な役者のひとりがこの公演を最後に劇団を去るかも?という噂を小耳に挟んだ。ここまで到達して、さあ卒業と去っていったらあまりに惜しい。一つ宿題を出すことにしよう。果たさなければ卒業させないわよの脅かしである。次回の提出を待っている。卒業がまた新たなる出発となりますように……。      (2005.03.04)
  宿題:つぼみが、不二子実は不二雄と気がつくところ。つぼみが引っ張っていた手を離すと不二子がいったん左袖に入り、入れ替わりに不二雄が出てくるが、これは、あまりに曲のないやりかた。漫画ならもっと上手に描く。これを藤子不二雄ならどう処理するだろうか、考えてきなさい。

Posted by : 06:18 PM | Comments (0) | Trackback

February 22, 2005

流山児★事務所「ハムレット」

 日韓演劇交流2005ワークショッププロジェクト公演と銘うたれていた。演出は流山児★事務所に招聘されて来日した玄志勳。10か月間の研修も終わりに近づき、その成果を公開しようというわけだ。実りのある、とてもいい企画だと思った。
 演出の言葉に「初めて東京に来た。初めて東京の町を歩いた」……「そして初めて日本で演出した」云々とある。初々しい若武者の、胸の高鳴りが聞こえるようだった。出演は人形糸操り崔永度とヴァイオリンの朴昡柱、そのほか7人はすべて流山児★事務所の役者たちだったから、日韓演劇交流がかけ声だけでないこともよくわかる。

  SPACE早稲田の階段を降りてまずまっさきに目についたのは、真っ白な段々で作られた李倫洙(「倫」のにんべんがない漢字)の装置。ハムレットの城壁なのだろう。壁のところどころから半分埋もれた車輪や靴やお皿や梯子などが顔を出している。都会の粗大ゴミ、廃棄物だろうか。みごとな才能だった。途中で段々の一つが客席の方に向かって開き、その上でも演技できるよう工夫されていた。
  この舞台、もとはチャールズ・マロウウイッツの「ハムレット」に拠ったのだとか。玄志勳はそのハムレットに「まだ全ての行動や思考が未熟な子供」をみつけたと記している。「まるで東京にいる自分みたい」に、と。
  ハムレットはしたがって、学生服を着た浅倉洋介。父を殺され母を伯父に寝とられながら復讐できない臆病ものとして登場する。彼に、自分の顔を見ろと鏡を渡したりナイフを持たせたり、同じ学生服を着た阿川竜一が何とか行動に踏み切らせようと励まし挑発する。フォーティンブラスであり、ハムレットの内心にいるもう一人のハムレットである。
  玄志勳は、マロウイッツ同様、筋や事件でなくハムレットの「意識変化」「心理的変化」に焦点をあてたいと書いていた。が、その後ハムレットがどう変わったかは、正直言うとよく分からなかった。どうやら最後のほうでハムレットは復讐に立ち上がった?らしいが、なぜそうできたか呑みこめなかった。どこから行動に踏み切ったか、ほんとに行動したのかどうかも、終始動きの激しい舞台だったので見分けが難しかった。ツンツンの可愛いワンピース、腕や足が食べてしまいたいほど魅力的なオフィーリア(佐藤華子)も出てきて、ピンク・パンツのお尻を捲くったりして吃驚させたが、ハムレットの「心理的変化」にどう関わったか? 王妃役の母親は? ……ここで言ってもしょうがないけれど、ひとこと女性の扱い方についてつけ加えると、性の対象としてしか見ていないこと、女性にばかり“操”を求めているところは、女の端くれとして大いに不満であった。どの国の「男」もまったくしょうがない。ブルータス、お前もか、である。
  この「ハムレット」、全体が街角の傀儡師崔永度に操られる人形たちという仕掛けになっていた。素敵な着想だ。はじめ役者たちが全員人形振りで動き始めたところなど、思わず期待で身を乗り出した。が、残念ながら折角の仕掛け。彼がどんなふうに人形を操り、どこに引っ込んでまたどこから出てきたか、お終いは?などなど、見ていくうちに彼は何者かどんどん曖昧になっていった。配役表に崔永度は「道化」とあったから、私たちは道化に操られているとただ設定してみただけかも知れないのだけれど……。
  いま、激しい戦火に見舞われている遠くを除いて、世界はどこもかしこもto be or not to beのハムレットばやり。自分をじっと凝視める誠実な玄志勳はやがての再演に、彼は、私たちは何ものに操られているのか、きっと明快な一つの回答を差し出してくれるにちがいない。私はそう信じている。        (西村博子 2005.02.19)

Posted by : 06:50 PM | Comments (0) | Trackback

February 18, 2005

Ugly duckling 「フル・オーケストラ」

ものすごくリキの入った、スケールのでかい装置にまず驚かされる。ヨーロッパ風の建物かなあ、広い舞台いっぱいに規則正しい長四角の石を積み上げたいくつかの階段や壁。町と言われればそんな気もするし、あちこちにマンホールの蓋があり、高い壁が上のほうでカーブを描き、ぽっかりあいた丸い穴に向かって垂直な梯子が伸びているので、都市の下を流れる下水道と見れば見えないこともない。

正面の高い出入り口から二代目針子と名乗る主人公?(山下平祐)が出てきて、まず、自分の母親は(お)針子、布を縫い足していろいろなものを創り上げる。自分も母の仕事を継ぎたいが許してくれないので、針ではなく、コンクリとセメントで同じことをしたい、といったことを言う。実際に母親とお針子の女性たちも出てきて、その動作を見ながら聞く自己紹介?だから、説明的な感じはしないが、論理はかなり強引である。
彼はどうやら都市造り、あるいは再建をしようとする現場監督らしい。工事人夫たちを指揮して工事をすすめているところへ、スコップを持った男(早川丈二)がまぎれこんできて、これは違う、前の町ではないと言う。と、あちこちにあった穴やマンホールから、「東西屋」をはじめいろんな人々が代わる代わる出てきて、いろんなことをする。あるいは彼らのさまざまをみせる。それぞれの孤独、といってしまえば簡単だろうが、彼らが一体何もので、その関係はほんとのところ何だったのかといったことは、脚本でも借りてじっくり読んでみないことには分からない。ただ池田祐佳理の見せ方の巧い演出にただあれよ、あれよと見ているばかりである。
おしまいに二代目針子がもう一度出てきて、客席に背を向け、役者全員に向かってタクトを振りかざしたところで、終わる。一人一人音色の違う役者たちが総力挙げてこの芝居を創ってきたという想いであろうし、これから力を合わせて新しい町を創っていこうという決意表明でもあった、にちがいない。タイトル、「フル・オーケストラ」の所以である。縫ったり修復したり纏めたり指揮する人、といえばそれにちがいはないが、それにしても二代目針子=現場監督=オーケストラの指揮者とはまた、強引としか言いようがない。最初と最後に、少年更生施設?の金網挟んで少年(樋口美友喜)が愛と憎しみをこめて少女(吉川貴子)の髪を強く引っ掴んで離さないシーンがあったから、この町づくり、ないしフル・オーケストラによる芝居づくりのすべてが樋口少年の遠くへの憧れ、夢ないしは欲望――だったかも知れない、という可能性が残る。
強引という言葉を2度も使ったが、たしかに作劇術のふつうの常識では考えられない構造である。二代目針子に主人公?とクエッション・マークをつけたのも、一見主人公にみえて、実はそれからのさまざまな出来事に関わってはいかず、古典的な意味で言う「ドラマ」の主人公にはならないからである。にもかかわらず終わりに、まるで「ドラマ」の主人公みたいに「発見」をし、再び指揮をとりはじめるのだから、不思議である。
が、前回の東京公演「アドウェントューラ」(2003)を見て、今回の「フル・オーケストラ」を見て、この不思議、この強引こそ樋口美友喜だと思った。「フル・オーケストラ」も古いカセットテープを聞こうとした「アドウェントューラ」も、基本的な構造として変わりはない。不良少年、少女が仮設されただけ複雑になったと言えようか。だが、その底の底に樋口の、“町”や“人々”あるいはそれとごっちゃになったそれらによって“創りだされる芝居”に対する強い希求がある。旧約聖書から逆に現代を眺めようとするのがいかにも体験不在の現代っ子らしいが、それがよくある日常のふとした想いなどに収斂せず、思いっきりでかく世界や日本を向こうにまわしているところも並みではない。彼女の祈りにも似た感受がどうしたら観るもののそれとなるか、Ugly ducklingに今一息の工夫をと望んでも、期待が大きすぎるということはない、だろう。                     (西村博子 2005.02.13 東京芸術劇場小ホール)

Posted by : 07:44 AM | Comments (0) | Trackback

February 10, 2005

双対天使「赤い、赤い、赤い靴」

  少女カーレン(上ノ空はなび)が何とも言えない、飾り気なしの可愛いらしさだった。レースの縁飾りのある黒いドレス、その短いスカートからにゅっと突き出た白いふっくらした両足が、後ろに前に右に左に、赤い靴に引っ張られて、めちゃ踊りする。もっと見ていたかった。もっと踊って欲しかった。

  あんまり洋ものを見ない私がなぜ阿佐谷アートスペース・プロットに? 理由は簡単。ルコック・システムとはそも何ぞや、この目で確かめたかったからだ。脚本・演出の猪俣哲史は、本場で実際に学んできた人。Physical Theatreに関する論文もいくつかある。帰国後の公演はこの「赤い、赤い、赤い靴」で3回目とか。どこまでこだわるかも見届けたいと思った。
作品は題名から明らかなとおりアンデルセンがもと。靴も母親手製の布靴がやっとという貧しい家の少女が、貴婦人に仕えることになり、夫人の目が見えないのを幸い、いけないと言われた赤い靴を靴屋で買い……と、ほぼ原作に添って始まって行く。が、その後、夫人はかつて自分の実の娘に嫉妬して見殺しにしたことがあり、その夫は戦いに負けて人肉を食べ、告白を聞くのが役目の牧師はロリコン、足フェチだった……と、話は思いがけない方向に進んでいく。が、実はこれはショータイム。誰がいちばん残酷かのコンテストだったというどんでん返しとなる。そして再びアンデルセンのほうに戻っていって、踊って踊って踊り続けなければならない少女は足を切ってと頼み、願いどおりの足切り。しかしなぜか天使が足を返してくれて、めでたしめでたし――のはず。
ところがこのハッピーエンド。放ったらかしの飢え死にか、実母のお葬式のすぐあとに続いており、少女の赤い靴はまたぴくぴく動きはじめる――というところで終わる。そう、これは、いちばん純真、可憐な少女が実はいちばん残酷だったという物語であった。少女がまったく少女。オンナなんかでないからいっそう残酷、理屈でいえない怖さである。その昔、童話を読みなおし、本来持っていた残酷さを蘇生させようとする作業が盛行したことがあったが、これもその流れ。別役の初期傑作と同様だ。
ほんとのことをいうと、初めはなかなか物語の中に入れなかった。日本人の顔や声と、もとはコメディア・デラルテとか、ガイジン風手振り身振りとが、しっくりしなかったからだ。やがて出てきた少女には、そういう型っぽい動きがなかったので助かった。幸い?少女は口もきけなかった。いずれ日本の、役者一人ひとりにぴったりの、イノマタ・システム?が生まれていくにちがいない。
とはいうものの、貴婦人の今は亡き娘の成長が3足の赤い靴で示されたり、電動ノコの音が少女カーレンの足の切断だったり、説明でなく観客の想像と感受に直接伝えようとするルコック・システム。そのポイントをという猪俣哲史の意図はよく伝わってきた。たとえば懺悔室が横に倒されると棺桶になったり、道具(モノと言ってくれと抗議されそうだが…)を、自然主義的にでなく、演劇として面白く使おうとする工夫もよく凝らされていた。
欲を言えばまだまだ。3階から落下した娘の音は? 人肉の味は手触りは? 言葉でなく直接伝えられるはずのことは少なくない、と思った。着想が面白いカニバリズムも、犠牲者決めるくじ引きと赤い靴の関係が今イチ呑みこめなかったし。盲目に聾唖に足の切断――知ってか知らずか、残酷はもっともっとあったのに、とも思った。
「赤い靴」とは、アンデルセンのなかでも飛び切り素敵な選択だったと思う。このままではもったいない。練り直して再度の挑戦をぜひ期待したい。少女はなぜ踊り続けないではいられなかったのだろう。赤い靴は猪俣哲史にとってなんだったのだろう。そして私には?――刺激的な芝居を見ると、あとが楽しい。                 (西村博子 2005.02.05)

Posted by : 07:32 AM | Comments (0)

November 21, 2004

アル・ムルワッス劇団「イラクから、船乗りたちのメッセージ」

――自由と平和の国!?へ、バグダッドからオリーブの枝をくわえて飛んできたかもめたち――

 Al-Murwass Group Folklore and Modern Artsの“Message Carried by Ship from Iraq”は東京、名古屋、大阪と、まるで16号台風に逆らうようにして元気に駆け抜けていった(10/3~25)。イラクの人を見るのは初めて、ましてやその舞台を見るなんて全く未知との遭遇だったといえる今度の新鮮体験は、実に実に多くの挿話と驚きを私に残していってくれた。 

 そのうちの一つは、国際交流基金フォーラム→タイニイアリス→ちくさ座→アリス零番舘-ISTと、公演を重ねるにしたがってその声は次第に少なくなっていったけれども、戦争の国から来た芝居、暗いかと想像していたら思いがけず元気でよかった、楽しかったといった感想のあとに、「ところで、あれは何を演っていたんです?」と、観た人から必ず質問されたことである。とくにそれは、フォーラムでの公演のあとに多かった。  
 しかし、それもまったく無理のないこと。4000年の歴史を持つというウート(ギターやマンドリンの先祖)の、いわば古代へのいざないに続いて、バスラ地方に古くから伝わるという民俗舞踊によるPart1と、マイムによるPart2の、いわば現代とが、まったく分離したような形で上演されたから、である。

 かなり長い休憩を間に挟んで、Part1は、①白い帽子をかぶり腰布をつけた船乗りたちが遠く大洋へと元気に漕ぎ出す踊り。②まるで月の砂漠かアラビアンナイトの昔みたいな衣装の女性たちが出てきて、遠くにいる恋人を想う踊り(むろん恋人は日本と重なろう)。③アラジンの魔法のランプから出てくるあの魔法使いをそれぞれ鞭のような杖をもって叩き伏せ、祈り伏せする踊り(魔法使いはフセイン独裁政権だろうかアメリカ占領軍だろうか)。④裾まで届く白い衣装の男性たちが手をつないで歌詞なしで踊る優雅な踊り(婚礼の祝い。とともに誤爆されたファルージャの婚礼が想いだされた)。⑤人類発生の地・アフリカから伝わってきたという打楽器、自分たちの劇団名でもあるムルワスを称え、伝統を守る決意を表わす歌と踊り。そして⑥最後のフィナーレ。イラクの国旗をふりながら、大丈夫、僕たちはへこたれてはいない、日本のみなさん、友情ありがとうを歌う歌で終わる。これはこんど来日のために新しく作られた歌という。そしてこれらの踊りや歌の合間を、物語の宝箱のなかに(あるいはフセイン政権下に?)長く閉じ込められていたシンドバッドが生き生きと新生し、しかし彼はみんなといっしょに踊ることができないという悲しみのマイムが――あまり上手くはなかったが――縫っていった。

 Part2はバグダッドの日常、現代のシンドバッドである。往来もままならぬ窮屈な中を友だちも訪ねて来てくれた。が、石油を運び出す汽車はひっきりなしにどこか遠くに向かって走っていくのに、僕たちはどこにも行けない。錠のおりた扉、コチコチと時を刻む秒針、日々の貧しい食事、決して通じぬ妻との会話。僕らはただ遠く、高くを望み見るしかない。(爆撃によって)人々もおおぜい倒れていく……といった無言の想いが、窓にもトランクにも時計にも額縁にもなる四角の白い木組みや、「戦場のメリークリスマス」のメロディに合わせたくるくる廻りや、ムンクの「叫び」のように大きく口を開けた顔――ただ額縁から片足突き出ているところがいかにも今のバグダッド。Pat2のタイトル「声にならない叫び」にふさわしい――の写真撮影やで表現されていった。

 以上の全体がイラクからのメッセージ。劇の冒頭、船といっしょに海を渡ってきたかもめが、観客たちに配布したもの、ということになっている。よく考えられた、わかりやすい舞台である。ムルワッスをはじめ、ウート、ゼルーナ、タール2丁、シンセサイザーによるライブ演奏もこよなく楽しく、私たちを遠い昔へといざなってくれたし、ときに力強くときに哀愁に満ちてこれからの困難を想わせたりした。

にもかかわらず、「あれは何を演っていたんです?」であった。これは構成に問題があるにちがいない。歌詞が分からないからということもむろん理解の拒否に影響あっただろうが、1960~70年代の言葉の意味に頼らない演劇を歴史的に経験した日本の私たちにとって、それはさしたる問題ではない、はず。私は耐えに耐えたけれども、とうとう、「Part2は、⑤と⑥の間でなければならないのでは?」と口を出してしまった。それはやっと、アリス零番舘でのシンポジウムが終わった夜のことだった。

驚いたことに、ジャバール団長とシャカール演出から即座に「それは僕たちの最初からのプランです」という返事が返ってきた。フォーラムである人に言われて急遽、構成を変更したというのである。な、なんと素直な人たちだろう。「ごめんなさい。私は日本の人たちにも、ほんとうに仲良くなり何でも思ったことが言いあえるようになるまで決してこういうことは言わないのだけど。あなた達とはもう会えないかも知れないので」と私は詫びて、話は次に移っていった。が、再び驚いたことに、翌日、アリス零番舘での初日からすぐ、①~⑤→マイム→⑥の友情と連帯の歌、と順序が変わっていたのだった。まあ、なんという素直な人たちであることか! これで、“ようやく新生した僕たちは民族の伝統を守りながら、厳しい今に耐え未来に向かっていくんだ”といった彼らの演劇的決意が、私たちに初めて伝わってくるようになったのであった。

むろん課題はまだまだ多い。①~⑤をつなぐマイムが、実際の宝箱を使うことのできたフォーラムやちとせ座はともかく、小スペースのタイニイアリス、アリス零番舘ではマイムの身体表現が貧しくて、シンドバットが何のためにたびたび出てくるのか分かりにくかったこと。伝統的な演奏者たちと現代を表現するマイマーたちとが、日本の「新劇」以上に分業的、バラバラだったこと。踊りとマイムとのあいだの幕間をいかに縮めるか、その工夫が足りなかったこと、等々。

 彼らが関空からドバイ経由、アンマンに向かって発っていくのとほとんど入れ違いみたいに、バグダッドでは行方不明を報じられていた香田証生さんが遺体で発見され、ファルージャでは米軍の包囲が総攻撃へと変わっていった。間一髪であった。いつか演奏者たち(完全なプロ。その技術がすばらしい)と、踊り手(近代日本が喪ってしまったなんばや、後ろに跳ねてしか進まない歴史的な身体を保持している)と、マイマー(パントマイムの型を演ずるのではなく、言葉にならぬ想いをどう表現するかが必然的にマイムの手法を採らせた)が、互いに役を担いあい一つの有機体となるとき――そのとき初めてムルワッス劇団はFolklore and Modern Artsという呼び名を胸張って言えるにちがいない。私はその困難な未来を、しかし羨望とともに夢みている。日本の同時代演劇では決して試みられなかったこと、だからである。   (3都市随行。西村博子 タイニイアリス主宰)

シンポジウム「イラクの今!―バグダッドの街、バグダッドの演劇―」
 10/6フォーラム, 10/18 名古屋女性文化学院, 10/21(大阪)アリス零番舘-IST

公演:国際交流基金フォーラム 10/7(木)~9(土) 3回
   タイニイアリス 10/12(木)~14(土) アフタ^トーク 各3回
   名古屋ちくさ座 10/19(火)~20(水) 3回
   アリス零番舘-IST 10/22(金)~24(日) 5回

団長・歌:MHAMMED/JABAR
演出:MOHAMMED SHAKAR
マイム:ANES AGEEL
ウート:ZUBER/HUSSIN
ぜル-ナ:JABAR/NASIR
ムルワース:SALMAN/SALEM
キーボード:SHIMAL./MAJEED
タール:JABAR/IBRAHEM,
     FARAS/MTANE
ダンサー:METHAK/SHNEN
     NAHAD/LAZEN 
     ADAE/ KAMEL
     ADAL/JAABAR
     HAEDAR/SHLAKA
     SAAD/SALAR
     MAHAMED/MAHAMED
     JAPAR/ANSAM  MS
     MOHAMMED/BOSHRA MS
メーキャップ:AEMAN/KHODHER  MS

Posted by : 12:20 PM | Comments (0) | Trackback

November 19, 2004

庭劇団ペニノ 「黒いOL」

――新宿西口広場の、今日、たった今―― 庭劇団ペニノ 「黒いOL」

 右手から静かに裸身の女性が出てきて、薄暗い舞台の真中、客席から見おろすと凸型に見える水溜りの窪みをビジョビジョと奥のほうへとゆっくり渡っていき、やがてその尖端でぼんやり立ち尽くす……と、舞台は果てた。もし私が男だったらここで最高のエロスを感じた、のかも知れない。私はひとりクスクス笑っていた。ペニノのいたずら?がおもしろかった。

 案内の声にいざなわれて、拍手ひとつないポカンとした感じの客席から舞台へ、付け根?に掘られた深い穴や続けて細長く掘られた浅い水溜りや、それを取り巻くさまざまな道具や器具をタニノさんは好きなんだなあとつくづく眺めながら通り抜け、出口に設けられた丸橋を渡ってテントの外に出る。が、ふと黒い空を見上げると、周囲には巨大な高層ビルがニョキニョキとそそり立っていて、それらが今見たばかりの貧しい――とあえて言おう――ペニノの営為を見下し、まるであざ笑っているように感じられた。もっともっと粘ればいいのに。資本主義にはかなわない、のでは? 私はがっくりした。

 これは、タニノクロウの究極のテーマ、一度は必ず立ち上げなければならない舞台であったにちがいない。

 初めは確かにタイトルに惑わされ、黒いOLたちを追っかけて観ていた。が、途中でアッと気がついた。これは舞台からストーリーやメッセージを読み取るための舞台ではなかった。ただ紗の奥にポッと灯がともりそれが次第に数をまし、女性たちが長いことかかって濁った溜まり水でストッキングを洗い、すすいだり揉んだり、ときにはちょっと喫煙所に固まって休んだりもし、やがて暗く静かなクライマックスを迎える――といったプロセスを、ただ感じるための芝居であった。そういえば事前に、ピアノ演奏していた左手の男性とDJみたいにマイクを前にしてハンディ・テレビに見入っていた右手の男性とが、薄い乳白色の手袋――スキンのような――を両手にはめ、準備はすでに整っていたのであった。やがて全身ぽっと熱くなって行為がはじまるのだが、うす暗がりの中でうごめくOLたちの、あるときはさざめき、あるときは呟いたり声が高くなったり、音としては聞こえてきてもあまり粒立つことのなかった言葉たちのなかで、唯一正面切って言われ、はっきり耳に響いたのは、“私は「今」おか「今日」こです”の、ひとことだった。

 それにしてもその行為は貧しかった、と思う。60年代の黒人ジャズかホットな音楽で客入れ、それがやがてピアノのライブ演奏に変わり、ずっと奥でかすかに灯がともり、それが次第に数を増してこちらに近づいてきて……最初舞台は、十分すぎるほどの期待感から始まっていった。がその後、その行為はあまりにもひそやか、あまりに暗く単調で、愉楽に欠けるものになっていった。

 何日もかかって営々と労力を注ぎこんできたに違いないテント作りまで※勘定に入れるとこれは、途方もない前戯とそれに比べてあまりにも呆気ない行為であった。ほとんど不能と言わなければならない。折角火のついた蝋燭がなぜか一つひとつ消され片づけられていくのをじっと待っていなければならなかったり、何より、折角バカでかいパンティ・ストッキングが滴りを垂らしていたのに、それが丁寧に畳まれてしまうまで延々と無駄な時間を待っていなければならなかったことが辛かった。蝋燭はせめて燃え尽きるまでともっていなければならなかったし、デカパンはほかにすることないの?と気が揉めた。

 同じように行為を描いた作品に三好十郎の「胎内」(1949)、「冒した者」(52)がある。牟森作・演出の「紅鯡魚DES HARENGS ROUGES」(95 中日合作)もそうだった。が、前者は死を目前にした人間の生の実感、それを追求する粘りにおいて、後者は、さわやかな風のなかの田植え、噴き溢れる井戸、大きな水桶の中で嬉々として戯れる女、ぴちぴちはねながら噴出する泥鰌……その明るさ、勢いにおいて、圧倒的にパワフルだった。

 「黒いOL」に発射はあったのだろうか?屹立はしたのだろうか? 濁った溜まり水は最後まで澱んで残存していたような気がする。今日、ただ今、なのであろう。私たちはそれを(望遠鏡で)覗き見るしかない――とペニ●のタニノは考えているのかも知れない。そう思うよりない舞台だった。 (2004.11.13所見。西村博子)

 ※ 「黒いOL ドキュメント」(タイニイアリス 11/16)を見た。それによると、テント作りは10月15日から。16号台風にも襲われた大変な作業であったことがわかる。
 ※前回公演「小さなリンボのレストラン」(2004.4.29-5.16 追加公演 5.20-21, 27-28)の劇評は「気違いMealパーティーのAbsurd劇」をご覧ください。


【上演記録】
■庭劇団ペニノ 「黒いOL
作・演出:タニノクロウ
場所:西新宿6丁目13番地広場(グリーンタワー横)
日時:2004年11月3日-9日 11月3・4日・5・8・9日 20時開演 
    6・7日18時・21時開演 開場は開演の30分前
    ※上演時間は1時間を予定しております。
料金:日時指定 前売り2800円 当日3000円

出演
島田桃依
瀬口妙子 
墨井鯨子 
野中美子 
磯野友子 
六分一サラ 
河野辺舞 
野崎浩司
吉野万里雄 
海老原聡 
野平久志

スタッフ
舞台装置 掛樋亮太
舞台補佐 鈴木仁美
舞台美術 玉置潤一郎、谷野九朗

照明    今西理恵
音響    小野美樹
宣伝美術 渡辺太郎
演出助手 小野美樹

Web    定岡由子   
制作協力 三好佐智子
制作    小野塚 央、野平久志
舞台総括 海老原聡平
企画・製作 puzz works
協力  (有)quinada
写真モデル O.J.Loco


Posted by : 06:53 PM | Comments (1) | Trackback

August 01, 2004

庭劇団ペニノ 「小さなリンボのレストラン」

――気違いMealパーティーのAbsurd劇―― 庭劇団ペニノ 「小さなリンボのレストラン」

  話題のユーメー劇団、立見の当日券求めて並ぶ行列を尻目にゆうゆうA席に着席するのも悪くないのかも知れないが、面白いから見てみたら?日ごろ信頼するシアター・ゴア-からのミニコミ、地図を片手にやっとのことで劇場を探し当て、さあ、何が展開するかドキドキしながら見ていく気分はこたえられるものではない。いわんやそれが期待以上の舞台においておや!である。 庭劇団ペニノの「小さなリンボのレストラン」はそういう、久しぶりの芝居見の醍醐味であった。

 舞台は骨董店かとみまごうほどごちゃごちゃっとした、汚いレストラン。タイトルにレストランとあるからレストランなのだろうが、カンテラ風のシャンデリア?や鹿の頭の剥製を見れば猟師小屋かも知れないし、出入口の庇に生えてるぺんぺん草?がこっち側に伸び、舞台バナはほんものの土、蕪なんかも植えてあるところをみると、ひょっとしたらここはかつての天野天街、内外逆転の世界みたいだし。そんな奇妙空間にシスターと呼ばれる女と寺山修司の大山デブ子のような女性と山高帽?かぶった紳士の三人が順に現れ、それぞれの食事をまあ済ませるといえば済ませるまで。ウエイトレスが「いらっしゃいませ、これはこれは本日はお日柄も良く、<略>ねえ。心よりお待ちしておりました」「ご予約の○○様でいらっしゃいますでしょう?」と尋ねるたびに、それは男女に否定されるから、ここはゴドー空間。客たちはポッツオー、ラッキーの末裔だったのかも知れない。

  その上彼らの食事はといったら! 背丈ほどもある皿の大山盛りを見る間に平らげ、楽譜メニューをピアノで弾きだす女性。ちっとも出てこない料理に札束を勘定し続けるシスター。豚の角煮を注文しながら最後までありつけない紳士――それはまるで「不思議の国のアリス」の気違いティー・パーティ、おっ!とではない、気違いMealパーティであった。昔、absurb theatreという海のあなたからの言葉が“不条理”劇なんてムズカシー日本語に訳されてしまったので、こういう、何が起こるかわからない、まるでワケ分からん可笑しな芝居をAbsurd劇といえば誤解を招くかも知れない。またこの小さなレストラン、言葉が決して噛み合わない私たちの日常にどこか似通うというには、この小品、あまりにささやか、大げさすぎると反論されるかも知れない。けれども庭劇団ペニノが見据えている(であろう)未来も含めて、私はあえて言いたいと思う。これは私たちの今居るAbsurb世界だった、と。

  もちろん、そう言い切ってしまうには躊躇がないわけではない。たとえば匂いや土や皮むき器の林檎やぶっちゃける赤ワイン、天井からしたたるネバネバなどなど、創り手はおそらく、意味の頭理解ではなく体感として直接伝えようとしたのだろう。が、その企みが、たとえば、よく拵えてはあるもののまるで食感に関わりのない料理たちや、終始目潰しくらわすシャンデリアの光や、何より、せめて意味不明の台詞にでも耳澄ますぐらいしか仕方のない、何にも伝えない俳優たちの体や声などによって、裏切られることが少なくなかったからである。

  作・演出の名はタニノクロウとあった。今言ったことがクロウ氏の目指すものだったかどうか、一度の出会いに断言することはできない。けれども、彼の狙う、何かこれまでの芝居にはない不思議世界が将来、観るものに十全に伝わっていくためには、これから山あり「谷」あり、散々「苦労」するにちがいない――そんな予感とこれからへの快い期待に、いま私の体は、クスクス笑っている。  (西村博子 5/27 所見 「Cut In」第28号=2004年7月号所載)

庭劇団ペニノ
第9回公演 「小さなリンボのレストラン

作・演出:タニノクロウ
公演日:2004.4月29日(木)~5月16日(日)
追加公演 5月20日(木)、21日(金)、27日(木)、28日(金)
場所:はこぶね
料金:前売 ¥1200 /当日 ¥1500

CAST
野平久志
絹田ぶーやん 
島田桃依
瀬口タエコ

STAFF
舞台美術/谷野九郎
照明/谷野九郎
音響/谷野九郎
チラシ画/谷野九郎
制作/小野塚央・野平久志
Web/定岡由子
製作/puzz works

Posted by : 06:24 PM | Comments (0)

July 14, 2004

DEAD STOCK UNION/渡辺熱の「メルティング ポット」

◎たっぷりの在庫、上質の人情喜劇 (西村博子)

 まず、役者が揃ってる!ことに驚いた。劇団の公演で老人役を若い人が演るとか、やむを得ぬミスキャストはよくあることだが、ここデッドストックのプロデュース公演にはそんなことがまるでなかった。デッドストックとは未来を目指す俳優たちの「在庫」の意とか、なるほどたっぷりの在庫から選び出された役者たちはそれぞれの役どころに実にぴったりだった。

  私の好みを先に言わせてもらうと、なかでもアネサンの二の子分アキラ(石田彬)は若くてカッコよくて、意外に可愛い弱虫で、最高に魅力的だった。役者はただ筋を運ぶだけじゃなく、その前にまず観るものを魅了しなくちゃと改めて思ったことだった。

  おそらく役者たちがそう見えた、ということは、作・演出が相当な手だれであったということに違いない。実際、場と人物設定がすこぶるうまい。ところは共同トイレ、共同炊事の安アパート2室。左は犬に足を噛まれた男(あとで空き巣だったということが分かってくる)と、家計を担うけなげなその娘(終わりのほうで昏睡泥棒だったことが分かる)。右には東南アジアから来た不法滞在のニューハーフ3人。仕送りしたいし乳房ももっと大きくしたいし。だが入管の係り官は嗅ぎまわっているし、いつ逮捕されるかわからない。2室の裏には同じく不法滞在のインド人も住んでいるらしい。

  話は、一の子分の大政、二の子分、三の子分を引き連れたアネサンが突如、男からは借金を、ニューハーフたちやインド人からは先に渡した偽パスポートの代金を、取り立てに押し入って来るあたりから、あれよ、あれよの展開となっていく。小刀チラチラ、大政が金を巻き上げる。と、そこへ中国人兄弟とそのバイト仲間がピストルや大きな釘抜きを持って飛び込んでくる。中国語と日本語のチャンポン、有り金出せのその要求は、強盗に失敗したから彼らを人質にして北朝鮮経由で中国へ帰るのだという。さらにそれから人質たちが、警察に保護されては困ると強盗兄弟の側についたり、身代金を1億円から3億円に吊り上げさせたり、また寝返ったり……。初日のせいか、台詞のテンションが下がりがち、何度か笑いが沈んではまた立ち上げなければならなかったのは惜しかったが、それはおいおい改善されていくにちがいな。ふだん知っていて知らなかった日本の底辺が、笑いのうちに見えてくる。

  親のために日本に出稼ぎに来なければならなかった兄弟たちと、生きていればと自首をすすめる大政との会話あたりから話が少々ウソっぽくなる。大政がそれを言う必然がないから、であろう。もし大政の代わりにそれが昏睡泥棒の孝行娘だったらどうなる?とチラと思った。が、それは「泣いて笑えて楽しめる芝居を作」りたい、「『寅さん』のような芝居ができたらいいなあと」(「アリスインタビュー」)言う作者のこと、これでなければ書く気にもならなかったのかも知れない。最後に、人質も含めて全員の「北国の春」、♪故郷に帰りたい」の大合唱となって、投降を決意していくことになる。エンディングに、それぞれの出所後の姿がユ-モアたっぷりに紹介されていくと、客席はあったかい拍手に湧いた。

  そこから目をそらそうとどうしようと、実際に「メルティング ポット」である現代日本を、それも社会から白い目で見られる人たちの側から描いたのはさすがに大人の仕事。上質の喜劇であった。

  見終わって快い満足感のなかに、しかしほんのちょっぴり不満が残ったのは、彼らを取り巻く外側――小さく言えば警官隊やマスコミ、大きく言えば日本――に対する作・演出の目線が全体的に弱かったからではないだろうかと思った。もしも、両手を挙げて外へ出て行った人質や強盗たちがその直後、警官隊に全員射殺!なんて大どんでん返しがもう一つ仕組まれていたとしたら?伏線は三の子分が解放されて外に出ようとしたときすでに張られていたし……。

想像が当たっているかどうかではない。外へ出たとたんに忘れてしまうのでなく、あれこれ想像の尾を引くこと自体が芝居の面白さの証拠であろう。帰りの私は楽しかった。
(2004.7.9 所見 東京・新宿タイニイアリス)

DEAD STOCK UNIONのWebサイト:
http://www.grand-x.com/dsu/

Posted by : 02:04 PM | Comments (0) | Trackback

June 29, 2004

私たちはアジアのことをちっとも知らない。もっと知らなければ

-6th National Theatre Festival
この3月末から4月にかけて2週間、ニューデリーへ行ってきた。目的は第6回インド・ナショナル演劇祭を見ること。インドの国中から、あるいはイラン、スリランカ、パキスタン、タイ、ネパールなどアジアの国々から招かれた75劇団が、おのおの1回公演。したがって1日に4本、多い日には6本というペースで休みなく上演されていくという大きな演劇祭である。

主催はNational School of Drama という大学院大学。そのNSDの、ANURADHA KAPUR教授というエレガントで美しい女性の先生に、プログラムの、これは見たほうがいいという舞台には○を、中でもこれは見逃さないでというものには※をつけてもらい、全公演フリー・パスまでもらって、すぐに観劇開始。演劇祭の後半、ほぼ32本を見ることができた。

劇場は、大学のキャンパス内に実験的な演劇を主とする小劇場と中劇場があり、期間中に野外劇のための仮設舞台もみるみる作られていった。他に大学の、正門からほんの数分のところに大劇場が2つある。4つの劇場の開演時間はそれぞれ午後の3時、5時、7時、9時と決まっていて、1本見ると次の劇場へと移動する。ときどき8時から開演する野外劇もあるから油断はできない。結構忙しい。

どうしてまたわざわざニューデリーまで出向いたかというと、Alice Festival2003 に海外から招いた3劇団のうちの一つ、The Indian Shakespeare Companyの「Love: A Distant Dialogue」が、ただ大道芸人の通じぬ片言英語と身体でロメオとジュリエットみたいな一目惚れとその別れを描いただけなのに、国境ってなーに?といったことまで想いを馳せずにはいられない、素晴らしい舞台だったからである。タイニイアリスの相棒の丹羽が2002年の第4回演劇祭で観てきたのだった。私もそれまで、インドにこんな演劇祭があり、こんな同時代演劇が上演されてるなんて全然知らなかった。

この第6回演劇祭。柳の下に、すぐさま掴まえられる2匹目の泥鰌はいなかった。が、しかし、魅惑的な役者、工夫を凝らした演出に惚れ惚れ眺めたのが2本、もうちょっと何とかすれば、もったいないというのが4~5本あった。キャンパスのベンチで一休み、紅茶を飲んでいると、これ見てくれないかと自薦他薦のCDを持った若い演出家たちが話しかけて来てくれる。日本への関心が強いのだ。残念ながらそのCD見る時間はまだないが、この中にも素敵な舞台が詰まっているにちがいない。

小劇場を中心とした実験的な舞台には、陰に陽に9・11やイラク戦争やイスラエルの攻撃など戦争を踏まえた作品が少なくない。夢の構造を採って日々の生活に抑圧された内面を描こうとする作品も多い。 今!自分が生きているこの時代を表現しようとするその姿勢は、日本の小劇場演劇とまったく同じと言っていい。古典芸能の、なかでも庶民的、開放的な身体の伝統を生かそうとするところが日本の小劇場演劇にはない強みであろうか。

一家50人で1劇団、200年も続いているというS.V.N.M、昼間はココナツ栽培の農業、夜は芝居というコンミューン劇団HOST-O-THEATRE等々、ほかに報告したいことも多いが、紙数がない。私たち日本人は欧米のフェスティバルのことなら結構知っているのに、アジアのことはちっとも知らない。まず♪初めの第一歩」であった。

(西村博子 2004.5.25 「Cut In」6月号掲載)

Posted by : 01:02 AM | Comments (0) | Trackback
 1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  |  7  | all pages