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October 07, 2004

BATIK『SHOKU-full version』

 8月最終週の週末は、We Love Dance Festival(このタイトル…素人オーガニックのような臭いが漂う)、芸術見本市とダンス関連の催しが都内各所で同時に行われた。イベントは互いにリンクしていたらしい。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2003 受賞者公演」と銘打たれていたBATIK『SHOKU』も、芸術見本市との提携公演である。会場のトラムは大入りで、公演に寄せられた関心の高さがうかがわれた。  

 さて『SHOKU』のポイントは靴だ。ダンサーの裸足に、ヒールのある尖ったパンプスが履かれている。重心が集まる細い踵の一点に力を込めて、ダンサーはガンガン床を踏む。中盤ではフラメンコ用と思われるシューズを複数のダンサーが履いて、音楽との間合いを取ったりずらしたりしながら激しく音を鳴らす。踏んでいる自分をアピールしているようにも見える。こうして時折靴の片方を脱いだり、両足とも裸足になったり、再び履いたりしながら地面を「踏む」ステップが執拗に繰り返された。
 
 公演当日に配られた来場者用チラシには、振付の黒田育世により「皮膚一枚に隔てられた内と外 内側を『自分』と感じる事、外側を『自分じゃない』と感じる事の不思議」(後略)と記されていた。
 靴と一言でいっても種類があるが、大抵それは皮(靴底)を隔てて内側(足)と外側(地面)を分けるものであり、靴を履いて地面を踏む時には、内・皮・外が必ず触れあう。そう考えると、靴は黒田のいう「内と外」を、もっともわかりやすいかたちで視覚化したものといえるだろう。黒田はおそらく、不思議と感じつつ自らも漫然と受け止めてきた「内と外との隔て」を、空気にさらされている足/靴の中の足、素足で踏む/靴を媒介に踏む、など足に特化してひたすら触れる感覚で検証しようとしたのだと思われる。
 ヒールの高いパンプスだけを用いたのなら、履くことによって「内側(足)」を、決して楽ではない靴の型にあわせる→枠によって「自分」がつくられていくという見方も可能かもしれない。しかし個人的には、踏んで音を出すダンス靴が出てきたことから、タイトルの『SHOKU』は「触(地面に触れる)」と、日蝕など「隠れる」という意味での「蝕(靴の中に隠れているが音で存在がわかる)」を含意しているのだろう考えた。というより、そうした『SHOKU』の音に感覚が導かれて、後から思考が「触」と「蝕」にたどり着いた、と書く方が実際の体験に近い。
 
 前半でダンサーの身体は回転しながら倒れ、痛そうな音をたてて繰り返し床に打ちつけられていた。先の「踏む」ステップは、幼児が癇癪を起こして地団太を踏んでいるようにも捉えることができるが、こちらは五体投地の行を思わせる厳しさがある。いずれにせよこうした黒田のたるみのない表現は、良い意味で彼女の「マーク」になりそうだ。かつて『セメント山海塾』という、セメントに浸かって身体が白くなった後、ゆらゆら動いている内に固まり運ばれて退場するというパロディーがあったが、『SHOKU』 のパフォーマンスもネタの材料にこと欠かない。
 
 身体が回転して打ちつけられる間、手は赤色のマントに覆われて半ば拘束状態にある。ダンサーはそれぞれ一昔前のテニスのアンダースコート(総フリル)状のパンツを身に着けており、別の場面で、手はそのパンツの中に突っ込まれる。何をしているのかは明らかにされないものの、幼児がとりとめもなくパンツの中をいじる、そんな趣がある。他にも、小道具の懐中電灯をつけるのは手でなく足であり、2人のダンサーが向き合って前傾姿勢の1人が相手を叩き続ける振りでは、手は叩いているというより地面と「触」する足のバランスを取って揺れているかに思われた。
 つまり作品では圧倒的に足が優勢であり、軽い手、本来の役割から逃れた手が表現される。徐々に靴を脱いでいき裸足で踊った後、黒田がステージ上をあちこち移動しながら、手に持った靴を叩きつけた。この手は「叩きつける」という役割を負うものの、鋭く伝わってきたのは叩きつける行為に込められた感情や意思や手の力の強さではなく、履いた(皮をまとった)状態の「触」では表すことのできない、内と外を隔てる「皮一枚」だけの音だ。
 場の転換により振りの動静・音楽・照明は大胆に変化するが、そうした中でも靴を叩いてからゆったりと踊る黒田のソロパートの、軽くしなやかな手は抜きん出ている。またラスト近く、膝をついたダンサーたちが横一列になって手を交差させる振りの弱々しく優しい動きには、理科のビデオなどによくある、モヤシがぬるぬると伸びていく様子を想起した。
 
 舞台後ろには大きな扉がそびえ、これは終始開かない。途中でダンサーが1人、逆立ちして寄りかかるがしばらくすると横たわってしまう。このように内省的な空間の使い方を踏まえれば、「内と外」は素足と靴という限定された表層の部分だけでなく、その背後に裸体と服、自分と他者、個人と集団という大きなテーマがあるはずなのだが、閉塞したまま終わった。
 最後、床に転がっている懐中電灯の合間をゆっくりと歩く黒田は、目立って内足だった。カーテンコールも内足だ。仮に内足歩きが振付ではなく単なる身体の癖だとしても、それは自分にとって「伸びやかな」身体の在り方を徹底して観せる、という黒田の意図なのかもしれない。クラシック・バレエの素養を持つ身体がそのように舞台上で表現されるのは、『SHOKU』における強度のある足から踊り手である黒田自身が距離を示す、戦略的な身体の使い方と捉えることもできる。

 しかし群舞は「意図的な脱力・弛緩」では済まない問題を残した。例えば一つ一つのシーンの後半になると、動きの強さ・リズムはそう変わらなのに全体が間延びして、場の転換や黒田の動きに頼りはじめるように見受けられた点。ダンサーたちの、シーンごとの意識のバラつきが原因なのだと思うが、どうみても戦略ではないという困惑を伴って素に引き戻される度に、作品の強度が失われていくのは明白だった。どんなダンスのステップとも違う『SHOKU』の破壊的な音によって、一瞬々の閃光にも似た「内/外の隔て」のゆらぎを感じることはできても、その先まで展開しなかった理由の一つはこんなところにあるのではないか。(04.08.29 シアタートラム)河内山シモオヌ

Posted by : 02:09 AM | Comments (1) | Trackback

September 11, 2004

三条会『班女 卒塔婆小町』

タブーにつきあわない三条会  

 男優は皆スキンヘッドである。かぶると道端の石のように周りから気にされなくなるというドラえもんの道具「石ころぼうし」(てんとう虫コミックス4巻)を着用した絵にそっくりだ。三条会の『班女 卒塔婆小町』は、俳優という出たがりの人間が舞台にいて、三島由紀夫の長台詞を喋っているのに彼らの存在を消そうとするという、石ころぼうしを地で行く公演だった。

 舞台上手にエレベーター。下手に地下階段へ通じる穴がある。エレベーターには途中で俳優が乗るものの、実際のところ上下移動はせず、「上手より退場」と同様の使い方をしている。前半の『班女』で花子を演じる榊原毅(大柄で筋張った体躯に、薄桃色のドレスをまとっている。なお役名は「ドレスの男」)が本作品全体の軸となり、後半の『卒塔婆小町』では榊原を含めた5人の俳優が、変則的に役を入れ替えしていく。間に休憩はなく、一つの作品としての繋がりを持たせていた。

 『班女』は役が固定され、最初からいるのに花子と実子に気づかれない吉雄の存在により、「居ながらにしていない俳優」という演出の意図は明快である。吉雄と花子が、実子に会わせろと揉める場面はいじり倒してコントのように、敢えて長い時間を割きながら上演していた。
 初日では『卒塔婆小町』の公園の恋人、舞踏会の客の処理がうまくできておらず、ところどころ舞台上の時間が停滞したのが残念だ。それらが滞ることなく繋がれば、元々の戯曲に流れる時間のリズムを、消える俳優が自在に変えたのではないかと想像できる。
 中頃で榊原がワインの瓶をぶらさげて登場したのは、最後の場面で警官から泥酔の果てに死んだとみなされる詩人と繋がって効果的だった。

 総じて、戯曲に流れる時間のリズムを変えることで「いじれない」といわれる三島の戯曲を操ろうとする面白さがある。その面白さの次に彼らが目指しているものは、俳優が近代能楽集における『班女』及び『卒塔婆小町』の時間の流れの上に乗って演技するのではなく、俳優がそれらの時間を一度身体に入れ、各々の体内リズムによるありとあらゆる再構築の過程を経て、新しい時間の流れそのものを彼らの在・不在によって舞台上に作り出し、老婆の「また100年待つ」という台詞を現代に生きる俳優自身の言葉として語ることだろう。(04.06.10 こまばアゴラ劇場)河内山シモオヌ 
*08.06初出 再掲載

Posted by : 03:47 AM

August 06, 2004

The Godfather ゴッドファーザー デジタル・リマスター版

洗礼式のバッハ「パッサカリア」とコルレオーネ・サーガ、及びいくつかの所感  河内山シモオヌ
 
 まだ赤ん坊だったソフィア・コッポラが出演していることで知られる洗礼式の場面は、新しくコルレオーネ・ファミリーのドンを襲名したマイケル(アル・パチーノ)が甥の名づけ親として参列する中、教会でおごそかに進んでいく。その一方でマイケルの放った刺客たちが、各地を仕切る有力者らを次々暗殺していくシークエンスも交互に映し出される。ここは洗礼を進める牧師と銃を整える刺客、宣誓するマイケルと機をうかがう刺客、違う場所で汗をぬぐうそれぞれの刺客というように、粛々と進行する二つの儀式が、画面で重なりあいながら緊張が高まっていく、映画後半の山場だ。

 『ゴッドファーザー』を映画館で観るのは今回が初めてだった。そこでようやく気がついたのだが、この場面で鳴り響くオルガン曲の一部には、バッハ「パッサカリア ハ短調BWV582」(1)が使用されている。ちょうど警官に変装した刺客が紙袋から拳銃を取り出すあたりで、哀調を帯びた、だが力強い主題の旋律が流れてくる。
 バッハは一曲しかオルガン用のパッサカリアを残していない。きわめて優れた作品、バッハ代表作の一つと称されるこの「パッサカリア ハ短調」は、ペダルの独奏による8小節の主題提示で始まる。その後「リズムの細分・複雑化によって徐々に盛りあがり、最後の変奏でクライマックスが築かれる」(2)と説明されるように、20の変奏が続く。つまり最初に奏でられた8小節の低音の旋律が、変奏されながらずっと繰り返されるのである。このように、曲の展開の仕方まで有名な古典音楽をわざわざ被せるのには、場の雰囲気や主人公の感情にマッチした曲を作って使うのと違う意図があるはずだ。
 
 コルレオーネ・ファミリーを取り巻く世界では、生き残りをかけたり、聞く耳を持たない相手にメッセージや要求を伝える多くの場合、選ばれるのは凶悪かつ残忍な手段である。いくらヴィト(マーロン・ブランド)が矛盾を秘めた愛すべきドンであり、温情ある家父長制の体現者だったにせよ、あるいは継いだ三男のマイケルがビジネスの合法化に腐心しようとも、コルレオーネ・ファミリーもその例にもれないことは、容赦ない暗殺の映像が伝えている。この場面に被せられたパッサカリアは、そうした「手段」を音で表現したものと仮定してみよう。
 すでにマイケルの最初の妻アポロニアは、彼の身替わりとなって爆死した。喧嘩っぱやく頭に血がのぼりやすい長兄ソニーは義弟カルロにはめられ蜂の巣に、そのカルロもマイケルの指示により、洗礼式からほどなくして亡きものとなる。それから24年の間に、裏切った気弱な次兄フレドを殺害し(Part2)、愛娘メアリーがマイケルの眼前で射殺される(Part3)に及んで、コルレオーネ・サーガ―長編歴史物語―の全貌は明らかになる訳だが、変奏で繰り返されるパッサカリアの主題旋律と、マイケルの代になって徐々に強調され、より陰惨なかたちで家族を巻き込みながら繰り返し用いたり用いられたりする「手段」、この二つはやはり符合する。言い方を換えれば、パッサカリアの主題旋律によって、コルレオーネ・サーガの一貫したテーマはすでに暗示されていたのである。

 ところで階段というのは、やはり監督の「何か落としたい」気持ちを刺激するのだろうか。階段落ちの元祖『戦艦ポチョムキン』に挑んだ『アンタッチャブル』の乳母車や、(映画監督というより人間の叡智へのラヴレターを自演の映像で綴り続ける狂言作者)マイク水野『シベリア超特急2』の車椅子。『ゴッドファーザー』にも見事な階段落ちを見つけた。例の暗殺場面で任務を終えた刺客が去る後方、屋外の広い階段の上で倒れた有力者はあまりにもきれいにゴロゴロゴロゴロ転がりながら、落ち続けていたのだ。
 しかし『ゴッドファーザー』の階段落ちは、シベ超のように階段途中でやおら乱闘が始まり、踊り場の無人の車椅子が映った時点でもう場内爆笑というギャグにはならない。ケータリングの惣菜を一味でつついている場面ですら、光の差し加減、人物配置などまるで大きな油彩画を眺めているかのように壮麗なこの映画には、そうした壮麗さが生み出す重量感と、嘘だとわかっているのに突き放して笑えない不思議なリアリティがある。
 その反面、うらぶれた、どこかにせこさの残る、しかしそこはかとない薄気味悪さと粗暴な日常が一人一人の身体からにじみ出てくるといった描写はあまりない。高級ジャパニーズ・レストランで「じゃ、じゃあやるか」といわんばかりにオーナーをぽかすか漫然と殴り始める『フェイク』の連中、または『グッドフェローズ』で、いつもは勝気な主人公の妻が半泣きになって引き返すアパレル倉庫からの手招き、いずれもどんづまりな暗さのある場面だが、こうした表現と『ゴッドファーザー』、どちらを欠いても、アメリカのマフィア映画のリアリティは成立しないのかもしれない。

 映画のリアリティを支えた俳優たちについても、新たに気づいたことがあった。アクターズ・スタジオの花形だった、家父長ヴィト(ブランド)のみならず、息子たち三兄弟(ジェームズ・カーン、ジョン・カザーレ、パチーノ)、非イタリア系の養子トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)、三男の嫁ケイ(ダイアン・キートン)は皆舞台出身で、この意味においても彼らは劇場を母としたファミリーのようで興味深い。
 『ゴッドファーザー』のアメリカ初封切は1972年である。ベトナム戦争など社会的・文化的環境の大きな変化があった後の70年代アメリカという時代に、敢えて家父長制の、役柄の類型がはっきりしたジャンル映画を世に出したコッポラ。彼は大学の映画学科で学びヌーヴェルヴァーグの影響を受けた人だ。その若き監督が、68年のヘイズ・コード撤廃までは克明に描けなかった殺人や血をこれでもかと撮りつつ、一方で深夜の病院の場面のように、暗示にとどめる古典的手法を意識的に使い、スターに老け役を依頼し新進の舞台俳優らとつくったのが『ゴッドファーザー』だとすれば、この映画は大変な実験作だったといえるだろう(ブランド側には、タヒチに理想のリゾートを作る大プロジェクト―実際20年かかった―の資金集めという出演理由もあったらしい)。
 類型的とはいえ、兄弟の中でも特にヴィトから可愛がられたマイケルは、家業を避けイタリア娘ではないケイと交際しているという込み入った役柄だ。そのマイケルが、自ら志願して報復のため警部とソロッツォを射殺する時のクローズ・アップは忘れがたい。こんこんと涌く泉の水のように、役柄の類型というマス目を瞬く間に満たし画面からあふれ出すマイケルの意識と感情の流れが、台詞なしに伝わってくる。パチーノの表情の演技しか映っていないにも関わらず、観る側が得られるマイケルについての情報は無尽蔵だ。
 
 要するに、コッポラの狙いと意図がすべてぴたりと決まった作品、それがこの『ゴッドファーザー』なのだろう。そんな奇跡がめったに起こらないことは、『ゴッドファーザー』から5年後の『地獄の黙示録』を観るとよくわかる。(04.07.10 東劇)

(1)通常は「パッサカリアとフーガ ハ短調」と呼ばれる。パッサカリアの後に同じ主題による長大なフーガが展開されるため。また、ローラン・プティの振付けたバレエ『若者と死』(初演1946年)には、レピシーギ編曲の「パッサカリア」が使用されている。
030328「若者と死」と040129「プティ:ガラ/若者と死」に関連記事あり。
(2)『バッハ事典』磯山雅/他 東京書籍株式会社 1996.10.24
参考:『ゴッドファーザー』デジタル・リマスター版パンフレット(ブランドのフィルモグラフィーから、1956年『八月十五夜の茶屋』が漏れていた。ブランドはなぜか日本人役で出演し、いい味を出している。)

Posted by : 12:53 AM

August 02, 2004

REAL TOKYOに寄稿したレビュー

文字数は250。半角カナなら倍に増やせるかと血迷ったが、往生際が悪いと思い直し、いざ始めてみるとそれは一筆描きのようで楽しい作業だった。  河内山シモオヌ

 UPしたのは、日英2ヶ国語の情報サイトREAL TOKYOに寄稿した舞台・興行のレビューだ。サイトでは、記事は公演終了とともに削除される。元々の記事には舞台写真などの画像、公演データへのリンク、星取り、執筆者一覧にリンクできる署名、読者星がついていた(今回は割愛する)。
 
 事前紹介が原則とのことだったが、私はできるだけ観劇後に書くようにしていた。そんな訳で、紹介できたのは比較的上演期間の長かった作品が多い。事前紹介した作品に関しては、ニュース記事的な文、過去の公演の様子などを記すにとどまった。
 
 やんわり原則を破ったのは、私の場合観てからでないと、扇ならば要となる一文が書きづらいという理由があったからだ。けれども演劇や興行全体を盛り上げるためのアプローチは、事前事後に関わらずいろいろな方法があっていいと思う。REAL TOKYOは執筆者の独断と偏見による取捨選択を前面に出す、という点で一貫している情報サイトだ。またREAL TOKYO向きの作品があれば紹介していきたい。
 
*特に記載のないものは、サイト内のSTAGEカテゴリーに掲載された。
 各タイトルの左はUPされた年月日、下はトップページ一行コメント

030327 白鳥の湖
ロンドンの人気ダンスカンパニー、AMPの追加公演
『くるみ割り人形』など古典バレエの楽曲を借りながら、バレエの「お形」への疑問を実験的な作品に変えてきたイギリスのダンスカンパニーAMP。映画大好きM.ボーンの現代人心理考察(何を観たがっているか、どんな悲劇に共感するか)が卓越している。いかにもクラシック、のスタイルで描かれるワキ筋との対比鮮やかな白鳥の踊りは、パワー全開でラストへ垂直落下。ある時は己に向き合えない王子を、ドッペルゲンガー的に揺さぶる。ゲイ表現は映画『セルロイド・クローゼット』の、隠喩を駆使した同性愛描写テクとは隔世の直球勝負だ。

030328 若者と死
斬新な装置も見どころ      
ジャン・コクトー原案による、ローラン・プティの初期代表作(1946年初演)。日本では牧阿佐美バレヱ団がプティの許可を得、4年前に初めて当時の装置を再現した状態で上演された。椅子が無秩序に置かれた汚い屋根裏のアトリエが、一転して40年代パリの上空夜景に変わる装置の斬新さもさることながら、高いアクロバティックな跳躍の後の激しい落下、首と肩を起点にしたねじれた倒立など、振りは意図的に重力を感じさせる。死神に操られて一人の青年が命を「落とす」テーマを含めて、この約18分の落ちるバレエは時代を超えた新しさに満ちている。
*固有名詞訂正・加筆

030423 障害者プロレス『ドッグレッグス』第59回興行 Approach2
拝啓、健常者さま   
代表北島行徳が著した『無敵のハンディキャップ』から5年余り、最近は満員御礼続きのドッグレッグス興行。健常者と障害者、もしくは障害者同士が、その障害の程度に応じ階級別に分かれて試合を行う。ボランティアを取り巻くゆるぅい感動、自己満足、甘えを断固拒否。他者と自分との違いを、身をもって知る彼らが興行を続けるのは、人間同士が本気でぶつかることを決して厭わないという彼ら自身の立場表明でもある。女社長(すばらしい喋りのセンス)による漆黒ジョーク連発の実況は、北島のいう通りまさしく観客との「言葉のプロレス」。
*TOWNに掲載

030425 東京国際コメディフェスティバル
お台場だヨ!全員集合(ドリフは出ません)   
G.W.のお台場に内外のコメディアンやパフォーマーが大集結。見て楽しめる作品と、言葉を理解して笑うステージの内訳は5分5分の模様。日本発のプリンセス・テンコー、「一線を超えた物はすべてギャグである」が持論の大川豊総裁の下、政治・宗教・経済にお笑いゲリラを仕掛けてきた大川興業の江頭2:50など、今や某国関連のニュース映像経由で目にすることの多い2人を生で見られる絶好の機会だ。電撃ネットワークは、人間効果音のアンビリカル・ブラザーズと共演。ラーメンズ片桐仁も、エレキコミックとのコラボレーションで出演する。

030605 六月大歌舞伎 夜の部
ご存じ、幸四郎の幡随長兵衛に注目
三千余人の子分がいたという江戸の侠客、長兵衛を主人公にした狂言は数多い。かつて染五郎時代に、河竹黙阿弥作『極付 幡随長兵衛』を演じ、手塚治虫に「"二十一世紀に歌舞伎役者が示すような"芝居」と評された幸四郎。今回は長兵衛と白井権八の出会いを描く鶴屋南北作『御存 鈴ケ森』で、どんな幸四郎長兵衛を見せるのか。美貌の花形役者が演じてきた権八の殺陣、客席を海に見立てた趣向など、40分ほどの演目だが見どころは沢山。仁左衛門・玉三郎の顔合わせで贈る通し狂言『曽我綉侠御所染』は、両花道を用いる珍しい舞台だ。
*家庭画報国際版ウェブサイトに翻訳転載

030609 サド侯爵夫人―澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』による―
三島由紀夫作、シアターアーツが選ぶ戦後戯曲ベスト1
6人の女が語るサド侯爵。客席に張り出したチェス盤のような舞台の上で、彼女たちはシンプルにアレンジされたロココ調の衣装に身を包み、各々を象徴する思想に跨ってサドを語り、革命へと移り行く時代を背景に言葉のみの騎馬戦を繰り広げる。場ごとの立ち位置が細かく変わるので、人物相関や各人の心理の動きは明解だ。中央の空いた椅子はおそらく不在のサドであり、からっぽの椅子で示された、この世で「一番ふしぎな」実体サドと対峙し続けるルネの宿命は、19年の歳月を経た終幕で明らかとなる。ベタ過ぎるSEが台詞のリズムを分断。

030610 The Musical CHICAGO
ボブ・フォッシー渾身のトリック
ボードビル形式を取り入れたステージ。トリックやどんでん返し満載の物語ラスト、命運を賭けた「ショータイム」の終了を悟った後のロキシーとヴェルマの歌には、あえて猥雑な世界から機微を、老いと疲労から希望を描き続けたフォッシーの人生観と人間賛歌が託されている。このミュージカル最大のトリックは、50年もたてば全て変わってしまうと劇中で歌っておきながら、今なお踊り継がれている『CHICAGO』そのものだろう。元Wet Wet Wetのボーカル、M.ぺロウの扱いは座長公演的だが、自信を持って軽快に弁護士ビリーを演じている。

030805 世界バレエフェスティバル
フォーサイス、キリアンらコンテンポラリー作品も上演
世界各国のプリンシパル、エトワールが競演するバレエフェスも10回目を迎え、コンテンポラリー作品の上演が増加。期間中は度々、談笑しながら電車で上野から帰るダンサーたちに遭遇する。日常空間に現れた、この高い音楽性を備えた特殊技能集団には、強烈な個性を持つ者がいる一方で、美しいがよく似ているダンサーも。厳しい練習の連続、そして日々表現するものが似た場合、外見も相似形になるのだろうか。ジル・ロマン(ベジャールバレエ団)の『アダージェット』は涙が踊っているかのような哀しみに溢れ、かつて観た江頭2:50の一人芝居が思い起された。

030805 blast
超マーチングバンド!
ドラム&ビューグル・コーとマーチングバンドを極限までショウアップ。サーベルやカラーフラッグも登場する。久々に「すべての芸術は音楽に憧れる」という言葉を思い出し、アメリカの多様性と寛容な文化を堪能した。ところで、軍の伝統でもあるマーチングバンド。たしかに聞いていると大変気持ちが高まる編曲であり、もしこれが「地元の」とか「自国の」バンドならば、連帯意識も芽生えよう。これだけ寛容で多様性を持った文化の利用目的の一つが、国威発揚というのは皮肉だ。オーチャードはいつもの通り、どこで観ても満足度の低いホールである。

030922 ALICE FESTIVAL '03
21回目の小劇場演劇祭、国内外10都市13劇団が参加
東アジアとの演劇交流を続けてきた「ALICE FESTIVAL」。今年は新たに2カ国のカンパニーが参加する。アクロバット、マジック、バレエ、コンテンポラリーダンスで構成された、旅芸人の愛の道行『Love:A Distant Dialogue_愛:よそよそしい対話』(ニューデリー)、夜の人々の物語を独特のダンス・テクニックで描く『Melatonin』(シンガポール)、両者に共通するテーマは「孤独」のようだ。なお『Melatonin』は、『Serotonine』(銀幕遊學◎レプリカント・大阪)との競作。演出家やゲストを交え、各都市の演劇状況、彼らの創造方法などについて話し合うシンポジウムも同時開催される。

031031 CVRチャーリー・ビクター・ロミオ
「ふるえるほどリアルだ!」(N.Y.Times) 
管制官との交信やパイロットの会話などを記録するCVR(コックピット・ボイス・レコーダー)。実際の飛行機事故のCVRに残された記録を、操縦室に模した舞台で俳優が演じる。網のような飛行マニュアルが何かの原因でほつれた時、その破れ目から立ちのぼるクルーの声は、専門用語のやりとりというより危機に向かう人間の精神そのものの発露だ。これはフィクションの広野から台詞で心理を掘り出す戯曲以上にタイトな「ドラマ」の構図であり、なぜ上演側が「演劇」として取り上げたかという問いへの答えだろう。初演時は「台詞を喋っている」感が強かったが・・・・・・。
*加筆

031121 野村萬斎企画・監修 現代能楽集 I『AOI』『KOMACHI』
麻実れい、手塚とおる好演
川村毅が「右に能の詞章を、左に三島由紀夫『近代能楽集』を置いて」書き下ろした2戯曲の上演。『KOMACHI』の小町は、原節子の軌跡を彷彿とさせる女優に置き換えられて登場。全編から川村の、映画に対する特異な、気味の悪さを感じさせるまなざしがこぼれてくる。『AOI』は『近代能楽集』収録の「葵上」の骨格や、幽界と現実の配置をそのまま踏襲した川村流日本演劇クロニクルに思えた。光源氏はカリスマ美容師。やや酸味を覚える「現代の」設定だが、そうしたディテールや通俗性より、すべてが個人の物語へ収斂されていたことに違和感が残る。

040119 プティ:マ・パヴロヴァ【DVD】
詩情あふれるカルフーニの熱演 
「ピアニストがピアノを持つのと同じように、自分のカンパニーを持つことは振付家には欠かせない」と語ったR.プティ。1972年の創立当初から26年間芸術監督を務めたマルセイユ・バレエ団出演の『マ・パヴロヴァ』は、ショパンやマスネ、ドリゴらの曲に振付けた16のパートで構成されている。バレエ団のミューズでプティの美しい楽器、D.カルフーニの全身を貫く詩情が、彼の舞踊言語をあますところなく伝える。信頼するダンサーとの共同創作こそ、プティの原点であったことを雄弁に語る作品だ。共演はD.ガニオ他。87年スタジオ収録映像。
*BOOK/DISKに掲載

040122 NANYA-SHIP:かけがえのない日々
動物を演ずるのはミュージシャン
1967年に書かれたラジオドラマ。上演にあたって、演出の宮田慶子は「夢を語った途端に『獏』に襲われる動物園の警備員たちという、清水邦夫作品特有の観念性を踏まえつつ、彼らと『拘束されることにむしろ安心感を持つ現代人』との間にブリッジをかける作品に仕上げたい」と話す。今回は3人のミュージシャンがアニマルと化し、生演奏でその生態を表現する。俳優とのコラボが楽しみだ。『萩家の三姉妹』やマキノノゾミ作品などで活躍中の女優、南谷朝子を中心に意欲的なプロデュース公演を続けるNANYA-SHIPの連続プロジェクト第一回。

040129 プティ:ガラ/若者と死【DVD】
トゥシューズで蹴られるヌレエフ 
野外ガラ公演と、約18分の傑作『若者と死』の二部構成。『若者と死』は、青年が娘(死神)に翻弄され命を落とすプロットや重力を強調した振付をはじめ、表象されるもの全てが「落ちていく」バレエだ。今回のヌレエフ版はギリギリと力を内側にためるような動きが多用され、小爆発を繰り返すアクロバティックなバリシニコフ版(映画『白夜』に収録)との違いに目を見張る。屋根裏部屋が上空夜景に一転する装置を使用していないので、屋根の彼方へ消え去る若者の最後の「浮遊」が見られずやや残念。音楽は管弦楽編曲のバッハ「パッサカリア」。
*BOOK/DISKに掲載

040315 三月大歌舞伎 夜の部
煩悩を焼き尽くせ! 息を飲むお坊さんの大群舞
お勧めは『達陀(だったん)』。達陀は梵語で「焼く」の意。奈良東大寺二月堂の秘法、火と水の行「修二会」のクライマックスで、達陀の行は燃えた松明を堂内で振り回し行われる。二世松緑はこれを4場の舞踊劇にした。行中の僧集慶(菊五郎)は、己の煩悩のあわせ鏡として現れた青衣の女人(菊之助)の誘惑と切ない訴えに、たまに負けながらも打ち勝つ。圧巻は練行衆による大群舞。グーパンチの両手を突き出し、邪悪を焼き煩悩を切る群舞は不揃いだが、骨まで斬れる肉厚いみだれ刃文の刀のような凄味があり、舞台に舞う春雪は炎の熱に解ける。
*家庭画報国際版ウェブサイトに翻訳転載

040315 Matthew Bourne's Nutcracker! くるみ割り人形
92年初演作品を全面的にリ・クリエイト
曲を物語に読みかえるM.ボーンが最初に手がけた全幕ダンスをリ・クリエイト。くるみ割り人形をもらった孤児院のクララは、夢の中でチクロやサッカリンをふんだんに使ったとおぼしき菓子の国の宴から締め出しをくらい、想いを寄せる相手には裏切られる。明るいが不安材料山積みで、強引な救済をもたらさないラストはボーンの宗教観でもあるのだろうか。映画からの引用は、古典バレエへの旺盛な批評精神に較べてオマージュ捧げっ放し。一人二役で踊られる孤児と菓子の国の住人は性格が一貫しており、DVD特典映像的に微細を楽しむことができる。

040331 四月大歌舞伎 夜の部
おなじみ白浪五人男、巡る因果をひも解こう
2月『三人吉三』と対をなすかのように、またも嬉しい黙阿弥の白浪(盗賊)物、『白浪五人男』を通し上演。弁天小僧や勢揃の名台詞、がんどう返しの大仕掛けに加え、通してこそ観られる因果の紐解き。『三人吉三』は、宿命を知り罪を抱えたまま極寒の中果てる悪党3人と、脇の人々の冬日にも似た善行とのコントラストが鮮やかだった。初役玉三郎のお嬢と共に、お坊吉三で圧倒的な歌舞伎の絵画美を見せつけ、滲む諦観が涙を誘った仁左衛門は今月、義賊と名高い駄右衛門親分に。背景も雪から桜へ。勘九郎の弁天らが快・怪盗ぶりを披露する。

Posted by : 01:15 AM
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