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September 17, 2005

二十一世紀舞踊 禁色

「avant」の表象

 照明はグリーンのドット・斜めに横切る赤い通路と変化し、やがて白い帯となって舞台の四辺を照らした。ステージ中央は黒い四角となり、伊藤キムと白井剛はその周縁を動く。

  はたしてこの黒い空間は、溝口の究竟頂(1)なのだろうか。空間の閉ざされた扉を外から叩いてみたが「拒まれているという確実な意識が」生まれたのか、あるいは周りをうろついて空間を探ってみたが何もなかった、と言いたいのだろうか。
 「『いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である』という逆説を示している。この中心とは緑で覆われて、お濠によって防禦さていて誰からも見られることのない皇居であり、『そのまわりをこの都市の全体がめぐっている』」(2)……この話オシマイ。

 何が書きたいかというと、照明の意図を探るまでもなく、組んでかたちをつくることはほとんどない彼らの(軸も重心も外したデュオの動きは、反応を窺いながら重心をあわせるとか相手に呼応するとか、関係性の微細な変化を身体表現で増幅させるなど組んで踊られるダンスの快楽から程遠い)、あの寒々しい距離から、「そこには何もない」という空虚さは伝わってきたのである。

 ではこの照明、可動域をはっきりさせたのだとして、それは外が決まることによって、おのが意識も芽生えてかたちづくられる、という自己認識過程の提示だったのか。それにしてはずいぶん簡単に、外枠は斜め、回廊型と目まぐるしく変わったものだ。つまり「外」を決める条件は、絶対的ではあり得ない。もっといえば「外と内」は相対的な概念のはずであり、むしろ一概に「外」なり「内」なり振り分けること、分けようとする言説、分けられると思い込んできた自明性を疑うという態度が「コンテンポラリー」であり、そこへ批評的に近づくか、また例えば『SHOKU』黒田のように地団駄を踏んで踏み抜こうとするか、というアプローチの違いがあると私は考えている。で、伊藤はどうだったのだろう。

 照明で一貫していたのは、二つの身体がたいそうフォトジェニックに感じられたことだ。簡単に書くと身体は「これみよがし」に光をあてられていた。これと、冒頭で全裸の(または、全裸に見える)伊藤と白井が、腹をつきだしてゆるい脚振り腿上げのような振りで登場し、いちもつを指差した動きに類似性があったと仮定すれば、伊藤は直接指し示しはしないものの、照明で「これが僕を決める外枠」と→を出していたのではないか。メタ・ライティングというべきか、一種の意趣返しの方法で、伊藤は外→内の自明性を問うたのだと思う。

 この場の音楽は楽曲ではなく、無機質な音を使っていたと記憶している。伊藤と白井はもそもそと動き、中腰の姿勢で起きて、転げ、また起きて徘徊する。このような彼らの「振り」というよりは、不規則な拍に対する反応は実にコレクトだった。 
 物理的にいえば、音は空中・水中などを伝わる波動の一種である。彼らの動きは、楽曲を形成する以前の、いかような「外枠」をも透過する波動に反応せずにいられない、という意思ではなかったか。非力で何もしないように見える身体の内側には、波動に対し生体反応をする不定形の生命体が、びっしりつまって蠢いている気味の悪さ、換言すれば空虚な黒い表層の下に貪欲な生の予感があった。したがって舞台は死の表象ではなく、また映画『ベジャール、バレエ、リュミエール』の冒頭の方で、モーリス・ベジャールが定義した「リュミエール=光」によってフォルムを明らかにされる以前の始原的な身体、いうなれば「avant」の表象を試みていたと思われる。(05.06.09 世田谷パブリックシアター)河内山シモオヌ

(1)『金閣時』三島由紀夫 新潮文庫
(2)「都市の中心、空虚な中心-都市を読む-


二十一世紀舞踊 禁色
[原作] 三島由紀夫
[構成・演出・振付] 伊藤キム
[出演] 白井剛/伊藤キム
 


Posted by : 01:00 AM

March 02, 2005

三条会『若草物語』

この原稿の小見出し、のようなもの

・原書『Little Women』原作『若草物語』と、上方歌舞伎の和事の近さ
・歌舞伎・バレエ・ミュージカルを、歌舞伎・バレエ・ミュージカルたらしめる可視・不可視のもの
・三条会に物語は可能か
・倫理と友情よ永遠なれ
・「発条ト」参加の音楽から浮かび上がった三条会の猛々しい魅力

 前作『ひかりごけ』(原作は、厳寒の知床沖でシケに遭い難破した徴用船の乗組員が、死んだ仲間の肉を食べて生き延びたという実際の食肉事件を題材にした武田泰淳の小説/戯曲)で、演出の関が排泄を描かなかったのはなぜだろう、と私は考えていた。どんな肉であれ、食べ続けていたらやっぱり出るものはあっただろうと思うし、なぜ人間は決を「出したがる」かという話でもあったからだ。そのような経緯ゆえに、今回の『若草物語』の「1幕 便所 便所が何より楽しい。」で、しめなわ状の三つ編みを頭の両脇にくっつけたスキンヘッドの男優四人が、横に並び中腰で生理現象に悶える様子で―便器に腰掛けているように見える―プレゼントのないクリスマスについて思いの丈を述べているのを観て、その勢揃いのような絵面に驚くよりまず『ひかりごけ』以来の答えがここにあったという爽快な気持ちになり、勝手に大いに納得した。もちろん、演出の意図とは何の関係もない。

 そんな余談はおくとして、原作『若草物語』の原書『Little Women』についてここで若干の前置きをする。なぜなら訳書『若草物語』のエピソードが意味するものと、日本でいうと江戸の天保期~明治中頃を生きたアメリカ人女性による、19世紀に出版された半自伝的小説だということだけでこの作品を裁断すると、その特性は見えてこないと思うからだ。
 『Little Women』は、もう使われない古い英語表現が四人の娘のバイオリズムに巧みに織り込まれ、婦女子独特の間合いで会話として交わされて日常生活の襞の内側を繰りながら、クリスマスの「めでたし」を目指して進んでいくという、惰力のようなじわーとした感動のある、いいかえれば大変芝居的な作品だ。まずテキストには当時の家庭という固定された場があり、場には定まった人物の関係性がある。一定の関係性があるということは、そこで暮らし周りの環境に育まれた身体が存在するということであり、従って登場人物の言葉というのは、どこの誰とも知らないがただそこにいる人の物言いではなく、固定された場によってつくられた身体から発せられる言葉となる。また、関係性を持続させる上で非効果的な言い方は鮮やかに回避される。さらに作品の言葉には話者の帰属する階級、頭の回転速度、アメリカ人度など人物像を描く筆が沢山用意されているはずだが、その微細は到底わからなくても、言葉が映画などで俳優の口をついて語られる時、今聞く英語の日常会話と異なる音の流れ・間によって綴られる感情や心理の波に乗ると、もらい泣きできたりする。『Little Women』がアメリカで繰り返し映画化されてきた理由の一つは、ここにあるのではないかと思う。
 
 このもらい泣きは上方歌舞伎の和事、人情ものを観てホロりとなるのに近い感覚だといえるだろう。近世の大坂、つまりある時代のある地域で記された言葉(義太夫訛り)が、型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体を通し音として目の前に立ち上る、その生々しく艶のある音の抑揚や運びから、言葉の意味を超えた人間の内面の起伏そのものをありありと感じ取ることによってもらい泣きが起こるのだ。登場人物の感情や心理を解読してもらい泣く、ということではない。エピソードの現実性や普遍性もとるにたらぬ問題である。
 松竹・上方歌舞伎塾の主任講師でもある歌舞伎役者、片岡秀太郎が「現代の男女の在り方と、歌舞伎のドラマに出てくる男女の心の機微とか義理人情というのはかけ離れていて、理解しにくい部分が多々あり」「それを演じてみせて感動を与えるには、まずセリフ」であると述べ、イントネーションに重きを置いて指導すると語っていることは、この私見の証左となるだろう。(1)
 原書と訳書共通の事柄では、物語の中で起きる出来事の意味が、結局ドリフ大爆笑の落ちで鳴るジングル「ブ・パ・パ・ブッ」とほぼ同等という整然としたドラマツルギーもまさに芝居で、『Little Women』『若草物語』と歌舞伎はこれらの点においてそもそも近い、と私は考えている。

 さて、三条会の『若草物語』に入ろう。
 「ちょっと歌舞伎を意識し」たと当日パンフにあるが、しかし「それに束縛されずに、「物語」とは何か考えてみよう」という言葉どおり、いわゆる「古典への批評と敬意を込めた引用」に眼目は置かれていなかったと思う。(2)後で詳しく述べるが、舞台で表現された歌舞伎らしきものは、どの狂言の何を引用したということではなく、また歌舞伎の他にもクラシック・バレエもどきに頭上へ両腕を上げ爪先立ちで身体を回転させる動きが出てきたり、それからミュージカルと呼ぶかはともかくとして、しばしば俳優は音楽にあわせて台詞を歌っていた。
 ここに挙げた歌舞伎・バレエ・ミュージカルは、いずれも特殊な身体言語と音楽を用いて表現される芸術であり、エンタテイメントでもある。こうした舞台を鑑賞する時、逐一「人はあんなふうじゃない」と考えながら観続ける客は、果たしてどのぐらいいるだろうか。ミュージカルではたまに、作品の骨格を音楽で表現することがわかりやすく提示されているのに「なぜ突然歌うのだ、普通に喋れと思う」、またバレエ・歌舞伎にも動物や「○○の精」など人間以外の役はあまたあるのだが「人間が猫や獅子になるのは苦手」という人を見る。ともあれバレエを観ながら「王子は着替えの途中みたいな格好で、飛びながら宴会に出てこない」「太股あらわな衣装で脚を上げたりブンブン回る姫などいなかっただろう」とか、はたまた歌舞伎にやってきて「男は女ではない」「弁天小僧→青砥藤綱のような、同一作品内での二役なんておかしい」などと、以上思いつくまま列記したが、こんな前座以下の発言は誰もしないはずだ。
 要するにこれらは、観ている内に視聴覚を通して客がなんとなく「そういう形式なのか」と了解する事項であり、何回か通っている客であればとうに了解済みのことであり、そしてバレエならバレエ、歌舞伎なら歌舞伎というように、それぞれをそれぞれたらしめている確固たる約束事だ。三条会の『若草物語』は、具体的な引用を目指したのではなく、こうした約束事を見せることにあったと思われる。胴体部の前後に役者を入れた馬、花道、正面向きの横長の舞台、引幕、勢揃い、役者の名前を狂言の中に出す、一人一役でない役者など、『若草物語』に出てきた歌舞伎を歌舞伎たらしめる約束事を一言でいえば、今やっているのは芝居ですよとはっきり明示することであろう。
 『若草物語』でたよりなくペラペラな、でも芝居の進行を支配する紅白の幕が上演途中にもかかわらず、「女」という役名の女優によって引かれ強制終了しようとする時、台詞を述べながら抗う俳優は、幕が芝居の時間を支配するという観客了解済みの約束事に抗っているのだ。引かれた幕の向こう側で『若草物語』を続けたのも、芝居の時間の主導権を引幕から俳優に置き換えることで、約束事を観客に意識させる意図があったからに相違ない。また白馬の胴体に入った二名の俳優の顔をわざわざ馬から出させ、蹄の音を言わせる演出には、俳優の全存在をかけて、芝居を芝居たらしめる約束事を逆説的に語らせる明快さがあった。

 芝居を芝居たらしめる可視のものが明示されると、今度はおのずと不可視だが、芝居を芝居たらしめるものもわかってくる。それは、先に述べた「ある時代のある地域で記された言葉」を蘇らせる、「型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体」を通した「音の抑揚と運び」だ。両者出揃ったところで、現代演劇の上演集団である三条会に立ち返ってみよう。観客了解の約束事や、特殊な言葉を蘇らせる型と口跡は?と考えると、彼らにはものの見事に何もない。四姉妹を演じるのが男優から女優へ、ある時はその逆へと変則的に入れ替わったり、数々の約束事を見せたのは、代々伝承されてきたものではなく三条会の演出・構成である。
 ところが三条会は訳語を超えて『Little Women』の、生活の襞を繰った時に聞こえてくる登場人物たちの笑い声や戸惑いや意地悪を舞台で実に生き生きと表した。すなわち19世紀アメリカの大変芝居的な作品に、現代の日本の俳優が血肉を与えたということである。「2幕 学校 異性のことだけを考えていた。」では、メグとジョーが舞踏会の招待を受けてから帰ってくるまでの騒動がメインに上演される。ケからハレまで併走して描かれ、見せ場のあるこの章を選んだセンスは、巧いと思わずにいられない。が、奉仕をいとわず姉メグとは違う慎ましさを持ちながら、大きく外れたところのある作者の分身=ジョーを、心底愉快に嫌味も迷いもなく現代の女優がやるのは難しくもあるだろう。
 大川潤子は期待に応えた。三条会の取り上げるテキストと現代とのいつものずれに加えて、今回は訳というもう一つのずれを、彼女は身体で受け止め扱わなければいけない。舞台上にある時、コントロールできなくなる瞬間はまったくないだろうと思わせる感動的な発声と身体や、すらりとした肢体でありながら相撲のしこ踏みのような動きをしてもぶれない重心のとり方などが、ジョーの愉快な表現に生かされていたのはもちろんのことだが、特筆すべきは彼女が、訳語を語っておりますというヨソの意識を常に持ち、外部に発していたことである。このヨソの意識と、期待どおりに失敗するジョーの外しっぷり双方を極限まで絞り出して表現することで、互いに「本」(大川は19世紀のアメリカ娘、ジョーはマナーのお手本)からどうしようもないずれがあるという共通項を引き出そうとする、力強い演技が生まれていた。大川に見られたこうした闊達な、困難に挑む力は、原作に即して考えるとまさにジョーの美点として描かれ、数々のエピソードで披露されるものである。この力があったからこそ、2幕は劇場内から笑いがもれる楽しい場面になり得たのだと思う。

 「3幕 友情 男女間なり国家なりを越えた友情なんて妄想かしら。」では、メグとブルーク先生の結婚話を軸に、おそらく「倫理」と「友情」という単語をモチーフにしたと思われるいくつかのイメージが展開される。前置きで「もう使われない古い英語」と書いたとおり、言葉は時代が変われば変わってしまうと思っていたが、先の大統領選や外交演説をかんがみるに、アイデンティティが変わらなければずっと使える言葉も確かにある、とこの幕を観てひっくり返された。と思いきや、打掛をまとった四姉妹お待ちかねの父が、ファーストフードの包みとコーラを引っさげ千鳥足で帰ってくる。姉妹の成長の様子を、半分眠った酔っ払いのたわ言として語るスーツ姿の父。その言葉は、やはり前置きで述べた『Little Women』における固定された場と関係性によってつくられた身体と言葉から、なんと隔たった得体の知れない軽さで劇空間に浮かんでいることだろう。食べ物やものの食べ方も、人の身体とともに在るものでありながら、言葉とは異なる次元で変化していることに気づく。ここで個人的に映画『スーパーサイズ・ミー』(3)を連想するやいなや、舞台ではネクタイを助六式に頭にしめた父が「あで、電気つけといて」とすべった声で、四姉妹の退場した下手に向かって言っていた。このように、わずかな時間の内に次々新しい『若草物語』が発芽し茎を伸ばしていく、そのどんな瞬間にもユーモアを確実に舞台へ刻む三条会の演出が、3幕ではひときわ輝いていた。
 粟津裕介(発条ト)参加の音楽は、この3幕で使用された「若草物語」が、三条会と音楽との関係に新しい可能性を開いたといえる。メロディは複雑ではない。しかし曲のシンコペーションが、大川・榊原の朗唱と横隊二列に並んだ身体の激しい動きを煽るのではなく、優しく外側から包みこむように用いられていて、これが三条会特有の劇空間の緊張を、たるませず和らげることに成功していた。だがその他は行儀のよさが耳に残る。三条会は『班女 卒塔婆小町』の「Tonight」(WSS)、『ひかりごけ』の「黒の舟歌」「カノン」、そして今回の「imagine」の選曲しかり、歌詞も曲調もメロディもリズムもひっくるめて楽曲としてもうこの世にある、曲の存在それ自体と真剣に対峙しつつ遊ぶところに本来の猛々しい魅力があると思う。演出家個人の薄暗い想い入れを一切練りこまず、また歌われている情景を再現するという関心などさらさらないはずのに、曲を視覚化してしまう関の才能は「imagine」で垣間見ることができた。(05.02.23 ホール椿)河内山シモオヌ

(1)関西の伝統芸能 いま・歴史・みらい
(2)三条会の『若草物語』は、春夏秋冬と移り変わる原作を、便所・学校・友情の3幕構成に仕立ててる。俳優が原作の時間の流れの上に乗るのではなく、彼ら自身によって新しい時間の流れをつくり、舞台上の時空間を重層・立体的に広げていくことで、現代に生きる俳優自身の言葉として台詞を語ろうとする三条会の変わらぬ試み(参照レビュー:『班女 卒塔婆小町』)は、役者が物語の流れを止めて見得を切り見せ場を強調することで、具体的な人物の演技から抽象・様式的な表現に飛躍する(この時、舞台上の時空間も具象から抽象へ飛ぶ)歌舞伎の舞台と似ている。
(3)『スーパーサイズ・ミー』思想で身体がふくれた監督のとはタッチの異なる、ユーモアの機能したドキュメンタリー映画。店員からスーパーサイズを勧められたら断らずにファーストフードを食べ続けるとどうなるか、健康な監督モーガン・スパーロック(非ベジタリアン)が試す。本土各所でまともそうな肉魚や野菜や果物を揃えるのは、大変な時間を必要としたり金銭的負担がかかりすぎるのではないかというホラーをアメリカに見る。「マックのロナルド」が愛される理由や学校給食の実態(問題の多い搬入業者の社名がソデクソという図ったような名前)の他、特に戯画化されていないのに限りなくナチュラル・ボーン・マフィアな加工食品業界ロビイストの活躍も捉える。

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October 17, 2004

松平健 錦秋公演

*以下の文章は公演内容について言及しています。新鮮な気持ちで公演をご覧になりたい方、これから劇場に行かれる方はご注意くださいますようお願い申し上げます。河内山

 新宿コマ劇場にはやはり、顔の大きな座長がふさわしい。
 三重の回り盆を従えワイドに丸く張り出したコマの舞台にあうのは、幅の広い顔だ。特に舞台前方で正面を向いて立った時、ワイドTV的(横に引き伸ばしたよう)に広がる舞台空間に負けない顔幅は、座長を座長たらしめる重要なファクターだといえよう。
 逆に顔が小さいと、コマ興行である必然性が希薄になってくる。そのことを確信したのが、昨年の氷川きよし座長公演であった。何かしっくりこないと思っていたら、顔が小さいのだ。もっとも客席へ視線を送る時、高齢の観客を確実に捉えゆっくりと微笑みを与える氷川の正確なアクト、また司会者を置き、氷川への賛辞とMCの段取りは任せる演出など、観るべきものはあったことをつけ加えておく。
 さてブームになって久しい「マツケン」。梅田コマ劇場と博多座に続く今回の新宿コマ興行は、一部を芝居、二部を歌謡ショウに分けた近年の彼のスタイルは取られず、『暴れん坊将軍スペシャル 唄って踊って八百八町~フィナーレ・マツケンサンバ』という一つの作品を上演するかたちで行われた。

 物語は、問屋の娘お七と伊織、元は役者だったお夏と松平演じる新之助(実は上様:徳川吉宗)の二組の恋のゆくえを軸に、連続する不審火・木材買占め・「からゆきさん」の斡旋業にまつわる陰謀の謎が解き明かされていくというものだ。これに上様が親しんだ子守唄の悲しいいわれも絡んでくる。また、上様の母への想いが時折夢幻のように現れる。歌と踊りを交えた物語が一件落着すると、爺の「無礼講ですな」を合図に歌謡ショウの状態に入る。その時刻を確認したところ18:50近く。終演は19:20頃なので、正味30分のショウである。羽根をあしらった白いガウンや金の鱗状に輝くサンバ用着流しなどショウの衣装は数点、セットは無礼講開始時点で幾何学的なデザインに電飾をほどこしたものになり、後はラストまで変わらない。
 
 観劇した当初は、プロットを持ち出し歌や踊りとの辻褄を合わせたことによって、全体が薄くなったという印象を拭えなかった。例えば物語中盤、簡素な芝居小屋の前で朗々と読経声のラヴ・バラードを歌う松平。衣装は「しっかりした身なりのお侍」ではあるとはいえ、それでも日常の動作に即した着物姿だ。寂しい景色の中で、二人の恋心だけが夕日のように煌めく場面に思えないこともない。ところがこの展開では、いなせな若衆から弁財天までやる幅の広さ(以上は明治座で松平が行った)、性ばかりか洋の東西も自在に行き来し予想を超えるセットと衣装、何でも踊る群舞など、予算のある興行ならではのレビューのお楽しみは、ことごとく削がれる。「一回限り」という触れ込みでお夏と新之助が小屋の舞台に立ち、マンボを踊る場面構成はよく練られていたので、いっそ時代考証を全部無視して、上様が世界中の踊り子と出会うインター・ナショナル版にでもするか、喜劇的要素の強いオペレッタの手法を取り入れれば、これほど地味にならずに済んだのではないか。無駄な思索に駆られた。
 結局、彼らは一本のミュージカルを目指したのだと思われる。だが出演者の積極性にも関わらず無礼講前の演出は、「台詞・歌・踊りの順番と場面転換が、緩慢だけれどもそれっぽい舞台」の域を出ていなかった。まず、夢落ちで終わる話のあらすじを皆でかわるがわる朗読しているような台詞が、舞台の時間を停滞させている。その台詞の前後に流れる曲の転調や繰り返しは、乏しく唐突だ。おまけに一幕終わりの縮んだ群舞から露骨に伝わってきたのは、余裕がなくて歌や踊りを忘れていた劇中の人々の辛さより、後の無礼講までずっと抑えで行くという進行上のせこい計算だった。ミュージカルの特性は、楽曲の層の間を泳ぐ(転調・繰り返される)主要なメロディを聞き、振付や身体性を観ただけで、登場人物のキャラクターや心理のみならず作品の構造・背景も大まかに掴めることだ、という自分の認識に従えば、個人的にこれをミュージカルと呼ぶのは苦しい。
 
 しかしそれはおくとして、元ネタであるTVシリーズの『暴れん坊将軍』の大原則、つまり徳田新之助は、視聴者の希望年齢(おそらく三十前半か)のまま歳をとらないということを再考したら、薄いとは言えないと考えを改めた
 TVの上様は身分を隠して江戸の町に行き、徳田新之助と名乗って市井の人々と交わり悪をこらしめる。途中で女性との恋模様他、どんなことがあろうとロンド形式で終わりまでに元へ戻り、爺が見合いを勧めたりする。形式という枠を設けて表現の実験をしたり超法規的手段によりSFドラマになるのと違い、堂々たるロンド形式の中に、主役の松平さえ駒として組み込まれているのが特徴的だ。
 こうした延長上に今回の興行があるとしたら、上様はTVシリーズの「リアル」を死守し、上様然として在ることが第一に求められる。ならばわかる。江戸をうろつかない新之助、町娘や闇金に群がる悪党と絡まない上様など御法度だ。舞台の上様はパワーアップして歌や舞を披露し、町の人々と比較するとその賢さ、格好良さ、善性、浮世離れ度合いは宇宙的だが、あくまでも形式を遵守しながらの純化であったことに注目したい。すでにTVシリーズが終了した事実を踏まえると、SPものとして上様を原則から逸脱せずロング枠で、しかも一度終わらせて永遠になった話を昨日の続きのように、コズミックな身体というTVにはない強さを持って松平が演じたのは意義あることだったのだろう。
  一体TVシリーズはどのくらい続いたのかと思い調べたところ、足掛け26年とのことだった。徳川吉宗の治世は29年(1716-1745)なので、実際の在位期間に迫る長きに渡り、松平は徳川吉宗を演じたことになる。29年の治世の間に幕藩体制の建て直しを図り、貨幣ではなくそれまで引き継がれてきた米の経済に基づいて改革を行った吉宗。かたや26年間、一人の俳優が吉宗/新之助として生きてきたロンド形式の世界。史実とフィクションの20余年の月日を指一本分ぐらいの太さで繋ぐものは、変わっているようで変わらないという在り方かもしれない。
 
 何よりも今回は、殺陣をはじめ身体に入っている芸に関して「マツケン」というソフトが大変優秀であることを実感した。さらに彼は耳が敏感なのだと思われる。踊る音楽によって音の取り方を、とてもさりげなく変えていた。だからあれだけ多種の、時に定義不可能なダンスを数十分の間に次々踊ることが可能になるのだ。舞台のマツケンサンバについては、筆者は明治座公演の時と、それより以前に一度観た記憶がある。初回の衝撃は薄れても、カタルシスは観る度に大きくなっていく。どこまでも朗らかなグルーヴを感じるからだろう。
 松平の歌は音程が合っており、決して不味くない。ただ声質があまりに朗々としすぎていて、張り上げると先にも書いたように読経的に聞こえてくる。でも松平はそのまま「hoo!」と楽しげに掛け声を入れる。歌としてはここでずっこけてしまうのだが、ちょっとでも巧く聞かせようとか、無難にまとめるなどという小細工をしない潔さが端的に表れているのがこの「hoo!」だ。
 とにかく、松平は全身全霊でがんばっていた。将軍の名に恥じぬ天晴れな座長であり、エンターテナーだったと思う。演劇業界のみならず、趣味人の間では知られた松平健のパフォーマンスとはいえ、TVでは北島三郎出演の歌番組に突然現れて踊ったりゲリラ的な露出だったのが、ここ数年で当たり前となった。悲壮感を微塵も漂わせずブームを受け止めた彼の身体性が、今後どこへ向かうのか楽しみだ。

 あとは脇の話を少し。ドスの効いた声がするなと思ったら三原じゅん子が出ていた。松平が「寂しくなったらまた来てください」で〆るMCの間、三原は両腕の力を抜かず下げた十手でぴしっと×印をつくって待機しており、きれいな立ち姿を見せていた。
 物語についても補足しよう。「火事になると会える」という台詞もあることから「八百屋お七」を意識しているのは間違いない。古典を下敷きにするとか本歌取りとか、この際なくても誰も困らないのに読みかえや引用が半端に終わっていて、かといって単に客へのサービスとして取り入れたにしては、脚本の余計な自意識が感じられた。
 かつて藤田まことはコマ劇公演の際、『必殺仕事人』のオープニングを映すスクリーンの後ろから、ターミネーターよろしくにゅっと出てきた。むろん観客は、そのもてなしに大喜びである。長寿番組は、古典に頼らずともそれ自体がすでに笑いの種の宝庫だ。今回もTVあっての公演ならば、使用曲や馬上姿の松平など、TVシリーズとの連歌の関係を密にすると、長寿番組のマンネリズムを逆手に取ったサービスができたと思う。(04.10.08 夜の部 新宿コマ劇場)河内山シモオヌ
松平健とエンターテイメントについて

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October 13, 2004

THE DEAF WEST THEATRE PRODUCTION OF『BIG RIVER THE ADVENTURES OF Huckleberry Finn』  

ミュージカル ビッグ・リバー ハックルベリー・フィンの冒険

アメリカの劇団、デフ・ウエスト・シアターに見た「違い」の意識 

 観に行こうと決めたのは、健常者と聾唖者が一緒に演じるこのミュージカルについて、手話が「いわばダンスの振付になっている」と紹介している文を読み、疑問を覚えたのが最大の理由だ。一見舞台をイメージしやすそうな説明だが、手話とダンス、どちらから考えてもその言い方は雑すぎるのではないかと思った。
 まず、アメリカ式手話(American sign language)はれっきとした言語(language)の一つだ。マイムとも違う。なぜダンスになるのだろう。ものの喩えだとしたら随分外している。『ビッグ・リバー』の俳優が創る身体のかたちは、最初から具体的な、決まった意味を持つsignが言葉として組み立てられたもののはずである。対してダンスは、必ずしも意味を持たされたり、物語のお供をする表現ではない。ダンスから振付家独自の音楽性や舞踊言語を観客が様々に受容し、作品をたぐり寄せることと、手話を見るのとはまったく別の行為である。いっしょくたに「どちらも身体の動き」と捉える目が、同じなのではないだろうか。
 紹介文の説明に疑問を呈するだけでは仕方がないので、道徳教育的な狙いが強い公演だろうか、と若干かまえるところもあったがとにかく観に行った。

 果たしてそれは、目で聞くパフォーマンスであった。彼らは手話で台詞を述べ、またある時はステップを踏みながら手話で歌っていた。声に出して同じ台詞を喋っても俳優の個性が出るのと同様に、一人一人の表現は違う。そうした彼らの台詞や歌のリズム、ブレス、強弱などを、私は語り手の身体を通して聞いているのだ。
 
 俳優は忙しい。ハックとともに旅をする逃亡奴隷のジム(M.マッケロイ)は、声に出して話し歌い、同時に手話を行う。厳しいダグラス未亡人の元から無法者の父親に引き取られ、逃げ出すハック(T.ジョルダーノ)は全身を駆使して手話で話し歌う。ハックの声の台詞と歌は、原作者のマーク・トウェイン役を兼ねた俳優(D.ジェンキンズ)が脇から担当する(彼は楽器も弾く)。麦藁帽に柔らかそうなシャツのハックに対し、三つ揃いを着こなしたマークのように、手話/音声の両者のいでたちは違う場合と、似た装いで出てくるパターンがある。その上、彼らの立ち位置が離れている(小説のページを模したパネルが立ち並ぶ装置の斜め上方、あるいはサイドから、または群集にまぎれ、音声担当が手話にあわせて台詞を言う・歌う)場合と、両者ぴったりくっつく場合に分かれる。立ち位置が離れている時は、聾唖の俳優の位置に近い方のスピーカーから音声が出る。
 ぴったりくっつく場合で代表的なのは、ハックの父親だ。容貌はあまり似ていないが、まったく同じ衣装を着て迫力ある髪型をした2人の俳優が現れ、ほぼ同じ振りをしながら手話と音声に分かれる。父親の周囲へ及ぼす迷惑、粗暴な振舞いは両者により増幅して表現される。両者はわずかに違う振りの時を中心に、細かく合図しあっているようだ。なお両者は、このように手話/音声に分かれる時と、手話/音声+手話になる場合がある。
 こうしたヴァリエーションは、演出上最大の効果を発揮するよう緻密に計算されているはずなのだが、繰り返し観ないと全貌を掴むのは難しいだろう。おまけに日本公演は字幕つきである。台詞を字で追いすぎると、手話による台詞を見逃してしまう瞬間がままあった。

 舞台を観ていると、手話は顔の表情や全身を駆使する特徴を持つ言語であり、感情を伝えるための身体表現力が鍛えられるのだなということもわかる。
 特にジョルダーノの、くるくる円を描くような滑らかな手話の軌道は際立っており、それは快活な喋り方のハックを思わせ、また一カ所に納まらない自由の希求者という、キャラクターの完結した側面をにじみ出させていた。一つ一つの手話が慎重で、強い意思を感じさせるマッケロイとともに卓抜した表現力である。ただし俳優の個性として突出しているジョルダーノの清潔感は、ハックという役柄を考えると評価が分かれるかもしれない。また弔いの場面で、メイドの母娘による深い海を思わせる圧倒的な声量の霊歌と、天上を繰り返し仰ぐ手と表情の、観ていて息が出来なくなるほどの万感を込めた手話の歌の二重唱は、今までに体験したことのない音楽だった。
 これらの動きは手話の言語的特性を生かして、手話による台詞や歌に発展させたものである。ステップ・表情・音による歌・手話による歌が層のように重なりキャラクターの感情の発露となった場面でも、他のミュージカル作品と同じく、歌とダンスが別の表現であることは注意深く観ていればわかるはずだ。仲間たちで遊びの計画を立てるところの、全員が浮き足立つステップなど、細かな振付は別に存在している。
 
 断っておくが、私は手話がダンスに見えたにもかかわらず「これは言語だ」と頑なに念じ続けていたのではない。実際に俳優の手話が始まったら、それは見るからに感情を伴う怒涛のsignsであり「言葉を話しているけれど、日常の喋り方とは違って、歌や台詞になっているのだろう」と、ごく自然に察したのだ。そして観ている間中、ここは語尾を伸ばしヴィヴラートを効かせているのだろうかとか、弾むように節をつけているのだろう、と想像力をかきたてられた。
 クライマックスでは大勢の俳優が舞台にいて、それまでの音声による合唱がふつっと消え、全員の手話だけが続く場面がある。静寂の中、大音量の歌が目に押し寄せてくるような、不思議な感覚にとらわれた。しかしいつもの「ものを見る手段としての目」を変えずに「揃って上体を動かしている」と考えたら、目から聞こえる歌の音量は絞られ、彼らの手話は群舞にも見えたかもしれない。結局のところ、手話が「ダンスの振付になっている」という言葉は、目を目としてしか使わなかった場合の感想なのだろうという結論に落ち着いた。

 『ビッグ・リバー』は筆者のように手話を学んだ経験がない者にも、手話という言語が、作品を成立させる他の諸条件―例えば音で聞こえる台詞や歌・ダンスなど―とまったく対等に舞台表現として機能していることを、明快に示す作品である。さらに手話が作品の中で孤立せず、他の諸条件と睦みあい、かけあったりアンサンブルになったりしながら、奴隷制をめぐる当時のアメリカ南部社会の通念(キリスト教義の解釈が背景にある)と実際に友人ジムへ抱く尊敬・信頼の念との壮絶な矛盾に悩み、後者を信じて成長するハックルベリー・フィンの姿を描いているから感動的なのだと思う。
 ジムとハックが仲違いの後に、月夜のミシシッピ河上でデュエットする「見える太陽や月は同じ でも 僕らは違う世界にいる 一つより二つの方がいい」という内容の歌詞には、デフ・ウエスト・シアターのスタイルが簡明に表されている。歌が強調するフレーズは、明らかに「同じ」ではなく「違う」である。『ビッグ・リバー』は『ハックルベリー・フィンの冒険』の骨組みを借りながら、聾唖者と健常者が用いる言語の違いを知ることの難しさと、違いを侵さず協調して一つの作業をすることの難しさに挑んだ軌跡の記録でもあるのだろう。
 
 装置についてつけ加えると、 舞台の中央に二畳ほどの台が置かれ、それにジムとハックが乗ると、彼らは筏の上にいるという見立てになっている。いざ河へ漕ぎ出す時は、台の周囲に並んだセピア色のパネルが上と横にはねて、鮮やかなブルーのスクリーンが現われた。冒険が始まるという物語上の展開だけではなく、紙と文字で親しまれてきた古い原作から新しく作品が旅立つ、という意図もあって、小説のページを模した古めかしいパネルがはねる装置を創ったのだと思われる。
 だが、当時の空気が鮮明に舞台に映し出されていたか、さらにその空気を現代に生きる彼らがどう捉えたのかということに関しては、全般に解像度が低く不明瞭であった。一言で書くと、舞台は無臭で温暖で清潔すぎた。
 原作は『トム・ソーヤの冒険』とともに、本国では大変よく知られた物語なのだろう。のみならずこの小説を支えるアメリカの、これぞ大陸という広大な土地、場所によって激しく変わる自然や気候、父と息子の関係の重要性、自由の重さ、州ごとの強い権限などはいにしえの神話的事柄ではなく、文化を育み今の生活とも少なからず地続きであるに違いない。
 そんな空気のように共有されているものを、地形も歴史も宗教も違うところにいる人間が、この作品を観て想像・喚起できる描法がどれだけあっただろうか。今回はその一番大事な空気が真空パックのように抜かれ、ハックの冒険譚があらすじに沿って上演されている印象を受けた。
 それよりも作品の時代を生きた人々が感じ、嗅いだであろう南部の空気、大陸の内側にいる人間が意識/無意識的に「当たり前」だと思っている背景を彼ら自身がよく見て立脚点を定め、劇場で描法を駆使して観客の五感に訴えることこそ、アートの初歩的な仕事ではないかと思う。俳優らがとまどいを見せるほど淡々と舞台が進んだのは、言葉のギャグを理解できない観客のせいだけではないはずだ。カントリーやゴスペルを用いた楽曲は「Dang Me」で知られるロジャー・ミラー後期の作品(作詞・作曲)である。が、演奏は凡庸で、特にカントリーは勘所とでもいうべき盛り上がりがなく平坦に流れてしまっていて、俳優の歌唱力と身体のふんばりに頼っていたという点も、舞台の弱さの原因として挙げられるだろう。(04.10.11 青山劇場)河内山シモオヌ 

Posted by : 08:25 AM

October 07, 2004

BATIK『SHOKU-full version』

 8月最終週の週末は、We Love Dance Festival(このタイトル…素人オーガニックのような臭いが漂う)、芸術見本市とダンス関連の催しが都内各所で同時に行われた。イベントは互いにリンクしていたらしい。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2003 受賞者公演」と銘打たれていたBATIK『SHOKU』も、芸術見本市との提携公演である。会場のトラムは大入りで、公演に寄せられた関心の高さがうかがわれた。  

 さて『SHOKU』のポイントは靴だ。ダンサーの裸足に、ヒールのある尖ったパンプスが履かれている。重心が集まる細い踵の一点に力を込めて、ダンサーはガンガン床を踏む。中盤ではフラメンコ用と思われるシューズを複数のダンサーが履いて、音楽との間合いを取ったりずらしたりしながら激しく音を鳴らす。踏んでいる自分をアピールしているようにも見える。こうして時折靴の片方を脱いだり、両足とも裸足になったり、再び履いたりしながら地面を「踏む」ステップが執拗に繰り返された。
 
 公演当日に配られた来場者用チラシには、振付の黒田育世により「皮膚一枚に隔てられた内と外 内側を『自分』と感じる事、外側を『自分じゃない』と感じる事の不思議」(後略)と記されていた。
 靴と一言でいっても種類があるが、大抵それは皮(靴底)を隔てて内側(足)と外側(地面)を分けるものであり、靴を履いて地面を踏む時には、内・皮・外が必ず触れあう。そう考えると、靴は黒田のいう「内と外」を、もっともわかりやすいかたちで視覚化したものといえるだろう。黒田はおそらく、不思議と感じつつ自らも漫然と受け止めてきた「内と外との隔て」を、空気にさらされている足/靴の中の足、素足で踏む/靴を媒介に踏む、など足に特化してひたすら触れる感覚で検証しようとしたのだと思われる。
 ヒールの高いパンプスだけを用いたのなら、履くことによって「内側(足)」を、決して楽ではない靴の型にあわせる→枠によって「自分」がつくられていくという見方も可能かもしれない。しかし個人的には、踏んで音を出すダンス靴が出てきたことから、タイトルの『SHOKU』は「触(地面に触れる)」と、日蝕など「隠れる」という意味での「蝕(靴の中に隠れているが音で存在がわかる)」を含意しているのだろう考えた。というより、そうした『SHOKU』の音に感覚が導かれて、後から思考が「触」と「蝕」にたどり着いた、と書く方が実際の体験に近い。
 
 前半でダンサーの身体は回転しながら倒れ、痛そうな音をたてて繰り返し床に打ちつけられていた。先の「踏む」ステップは、幼児が癇癪を起こして地団太を踏んでいるようにも捉えることができるが、こちらは五体投地の行を思わせる厳しさがある。いずれにせよこうした黒田のたるみのない表現は、良い意味で彼女の「マーク」になりそうだ。かつて『セメント山海塾』という、セメントに浸かって身体が白くなった後、ゆらゆら動いている内に固まり運ばれて退場するというパロディーがあったが、『SHOKU』 のパフォーマンスもネタの材料にこと欠かない。
 
 身体が回転して打ちつけられる間、手は赤色のマントに覆われて半ば拘束状態にある。ダンサーはそれぞれ一昔前のテニスのアンダースコート(総フリル)状のパンツを身に着けており、別の場面で、手はそのパンツの中に突っ込まれる。何をしているのかは明らかにされないものの、幼児がとりとめもなくパンツの中をいじる、そんな趣がある。他にも、小道具の懐中電灯をつけるのは手でなく足であり、2人のダンサーが向き合って前傾姿勢の1人が相手を叩き続ける振りでは、手は叩いているというより地面と「触」する足のバランスを取って揺れているかに思われた。
 つまり作品では圧倒的に足が優勢であり、軽い手、本来の役割から逃れた手が表現される。徐々に靴を脱いでいき裸足で踊った後、黒田がステージ上をあちこち移動しながら、手に持った靴を叩きつけた。この手は「叩きつける」という役割を負うものの、鋭く伝わってきたのは叩きつける行為に込められた感情や意思や手の力の強さではなく、履いた(皮をまとった)状態の「触」では表すことのできない、内と外を隔てる「皮一枚」だけの音だ。
 場の転換により振りの動静・音楽・照明は大胆に変化するが、そうした中でも靴を叩いてからゆったりと踊る黒田のソロパートの、軽くしなやかな手は抜きん出ている。またラスト近く、膝をついたダンサーたちが横一列になって手を交差させる振りの弱々しく優しい動きには、理科のビデオなどによくある、モヤシがぬるぬると伸びていく様子を想起した。
 
 舞台後ろには大きな扉がそびえ、これは終始開かない。途中でダンサーが1人、逆立ちして寄りかかるがしばらくすると横たわってしまう。このように内省的な空間の使い方を踏まえれば、「内と外」は素足と靴という限定された表層の部分だけでなく、その背後に裸体と服、自分と他者、個人と集団という大きなテーマがあるはずなのだが、閉塞したまま終わった。
 最後、床に転がっている懐中電灯の合間をゆっくりと歩く黒田は、目立って内足だった。カーテンコールも内足だ。仮に内足歩きが振付ではなく単なる身体の癖だとしても、それは自分にとって「伸びやかな」身体の在り方を徹底して観せる、という黒田の意図なのかもしれない。クラシック・バレエの素養を持つ身体がそのように舞台上で表現されるのは、『SHOKU』における強度のある足から踊り手である黒田自身が距離を示す、戦略的な身体の使い方と捉えることもできる。

 しかし群舞は「意図的な脱力・弛緩」では済まない問題を残した。例えば一つ一つのシーンの後半になると、動きの強さ・リズムはそう変わらなのに全体が間延びして、場の転換や黒田の動きに頼りはじめるように見受けられた点。ダンサーたちの、シーンごとの意識のバラつきが原因なのだと思うが、どうみても戦略ではないという困惑を伴って素に引き戻される度に、作品の強度が失われていくのは明白だった。どんなダンスのステップとも違う『SHOKU』の破壊的な音によって、一瞬々の閃光にも似た「内/外の隔て」のゆらぎを感じることはできても、その先まで展開しなかった理由の一つはこんなところにあるのではないか。(04.08.29 シアタートラム)河内山シモオヌ

Posted by : 02:09 AM | Comments (1) | Trackback

September 11, 2004

三条会『班女 卒塔婆小町』

タブーにつきあわない三条会  

 男優は皆スキンヘッドである。かぶると道端の石のように周りから気にされなくなるというドラえもんの道具「石ころぼうし」(てんとう虫コミックス4巻)を着用した絵にそっくりだ。三条会の『班女 卒塔婆小町』は、俳優という出たがりの人間が舞台にいて、三島由紀夫の長台詞を喋っているのに彼らの存在を消そうとするという、石ころぼうしを地で行く公演だった。

 舞台上手にエレベーター。下手に地下階段へ通じる穴がある。エレベーターには途中で俳優が乗るものの、実際のところ上下移動はせず、「上手より退場」と同様の使い方をしている。前半の『班女』で花子を演じる榊原毅(大柄で筋張った体躯に、薄桃色のドレスをまとっている。なお役名は「ドレスの男」)が本作品全体の軸となり、後半の『卒塔婆小町』では榊原を含めた5人の俳優が、変則的に役を入れ替えしていく。間に休憩はなく、一つの作品としての繋がりを持たせていた。

 『班女』は役が固定され、最初からいるのに花子と実子に気づかれない吉雄の存在により、「居ながらにしていない俳優」という演出の意図は明快である。吉雄と花子が、実子に会わせろと揉める場面はいじり倒してコントのように、敢えて長い時間を割きながら上演していた。
 初日では『卒塔婆小町』の公園の恋人、舞踏会の客の処理がうまくできておらず、ところどころ舞台上の時間が停滞したのが残念だ。それらが滞ることなく繋がれば、元々の戯曲に流れる時間のリズムを、消える俳優が自在に変えたのではないかと想像できる。
 中頃で榊原がワインの瓶をぶらさげて登場したのは、最後の場面で警官から泥酔の果てに死んだとみなされる詩人と繋がって効果的だった。

 総じて、戯曲に流れる時間のリズムを変えることで「いじれない」といわれる三島の戯曲を操ろうとする面白さがある。その面白さの次に彼らが目指しているものは、俳優が近代能楽集における『班女』及び『卒塔婆小町』の時間の流れの上に乗って演技するのではなく、俳優がそれらの時間を一度身体に入れ、各々の体内リズムによるありとあらゆる再構築の過程を経て、新しい時間の流れそのものを彼らの在・不在によって舞台上に作り出し、老婆の「また100年待つ」という台詞を現代に生きる俳優自身の言葉として語ることだろう。(04.06.10 こまばアゴラ劇場)河内山シモオヌ 
*08.06初出 再掲載

Posted by : 03:47 AM

August 06, 2004

The Godfather ゴッドファーザー デジタル・リマスター版

洗礼式のバッハ「パッサカリア」とコルレオーネ・サーガ、及びいくつかの所感  河内山シモオヌ
 
 まだ赤ん坊だったソフィア・コッポラが出演していることで知られる洗礼式の場面は、新しくコルレオーネ・ファミリーのドンを襲名したマイケル(アル・パチーノ)が甥の名づけ親として参列する中、教会でおごそかに進んでいく。その一方でマイケルの放った刺客たちが、各地を仕切る有力者らを次々暗殺していくシークエンスも交互に映し出される。ここは洗礼を進める牧師と銃を整える刺客、宣誓するマイケルと機をうかがう刺客、違う場所で汗をぬぐうそれぞれの刺客というように、粛々と進行する二つの儀式が、画面で重なりあいながら緊張が高まっていく、映画後半の山場だ。

 『ゴッドファーザー』を映画館で観るのは今回が初めてだった。そこでようやく気がついたのだが、この場面で鳴り響くオルガン曲の一部には、バッハ「パッサカリア ハ短調BWV582」(1)が使用されている。ちょうど警官に変装した刺客が紙袋から拳銃を取り出すあたりで、哀調を帯びた、だが力強い主題の旋律が流れてくる。
 バッハは一曲しかオルガン用のパッサカリアを残していない。きわめて優れた作品、バッハ代表作の一つと称されるこの「パッサカリア ハ短調」は、ペダルの独奏による8小節の主題提示で始まる。その後「リズムの細分・複雑化によって徐々に盛りあがり、最後の変奏でクライマックスが築かれる」(2)と説明されるように、20の変奏が続く。つまり最初に奏でられた8小節の低音の旋律が、変奏されながらずっと繰り返されるのである。このように、曲の展開の仕方まで有名な古典音楽をわざわざ被せるのには、場の雰囲気や主人公の感情にマッチした曲を作って使うのと違う意図があるはずだ。
 
 コルレオーネ・ファミリーを取り巻く世界では、生き残りをかけたり、聞く耳を持たない相手にメッセージや要求を伝える多くの場合、選ばれるのは凶悪かつ残忍な手段である。いくらヴィト(マーロン・ブランド)が矛盾を秘めた愛すべきドンであり、温情ある家父長制の体現者だったにせよ、あるいは継いだ三男のマイケルがビジネスの合法化に腐心しようとも、コルレオーネ・ファミリーもその例にもれないことは、容赦ない暗殺の映像が伝えている。この場面に被せられたパッサカリアは、そうした「手段」を音で表現したものと仮定してみよう。
 すでにマイケルの最初の妻アポロニアは、彼の身替わりとなって爆死した。喧嘩っぱやく頭に血がのぼりやすい長兄ソニーは義弟カルロにはめられ蜂の巣に、そのカルロもマイケルの指示により、洗礼式からほどなくして亡きものとなる。それから24年の間に、裏切った気弱な次兄フレドを殺害し(Part2)、愛娘メアリーがマイケルの眼前で射殺される(Part3)に及んで、コルレオーネ・サーガ―長編歴史物語―の全貌は明らかになる訳だが、変奏で繰り返されるパッサカリアの主題旋律と、マイケルの代になって徐々に強調され、より陰惨なかたちで家族を巻き込みながら繰り返し用いたり用いられたりする「手段」、この二つはやはり符合する。言い方を換えれば、パッサカリアの主題旋律によって、コルレオーネ・サーガの一貫したテーマはすでに暗示されていたのである。

 ところで階段というのは、やはり監督の「何か落としたい」気持ちを刺激するのだろうか。階段落ちの元祖『戦艦ポチョムキン』に挑んだ『アンタッチャブル』の乳母車や、(映画監督というより人間の叡智へのラヴレターを自演の映像で綴り続ける狂言作者)マイク水野『シベリア超特急2』の車椅子。『ゴッドファーザー』にも見事な階段落ちを見つけた。例の暗殺場面で任務を終えた刺客が去る後方、屋外の広い階段の上で倒れた有力者はあまりにもきれいにゴロゴロゴロゴロ転がりながら、落ち続けていたのだ。
 しかし『ゴッドファーザー』の階段落ちは、シベ超のように階段途中でやおら乱闘が始まり、踊り場の無人の車椅子が映った時点でもう場内爆笑というギャグにはならない。ケータリングの惣菜を一味でつついている場面ですら、光の差し加減、人物配置などまるで大きな油彩画を眺めているかのように壮麗なこの映画には、そうした壮麗さが生み出す重量感と、嘘だとわかっているのに突き放して笑えない不思議なリアリティがある。
 その反面、うらぶれた、どこかにせこさの残る、しかしそこはかとない薄気味悪さと粗暴な日常が一人一人の身体からにじみ出てくるといった描写はあまりない。高級ジャパニーズ・レストランで「じゃ、じゃあやるか」といわんばかりにオーナーをぽかすか漫然と殴り始める『フェイク』の連中、または『グッドフェローズ』で、いつもは勝気な主人公の妻が半泣きになって引き返すアパレル倉庫からの手招き、いずれもどんづまりな暗さのある場面だが、こうした表現と『ゴッドファーザー』、どちらを欠いても、アメリカのマフィア映画のリアリティは成立しないのかもしれない。

 映画のリアリティを支えた俳優たちについても、新たに気づいたことがあった。アクターズ・スタジオの花形だった、家父長ヴィト(ブランド)のみならず、息子たち三兄弟(ジェームズ・カーン、ジョン・カザーレ、パチーノ)、非イタリア系の養子トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)、三男の嫁ケイ(ダイアン・キートン)は皆舞台出身で、この意味においても彼らは劇場を母としたファミリーのようで興味深い。
 『ゴッドファーザー』のアメリカ初封切は1972年である。ベトナム戦争など社会的・文化的環境の大きな変化があった後の70年代アメリカという時代に、敢えて家父長制の、役柄の類型がはっきりしたジャンル映画を世に出したコッポラ。彼は大学の映画学科で学びヌーヴェルヴァーグの影響を受けた人だ。その若き監督が、68年のヘイズ・コード撤廃までは克明に描けなかった殺人や血をこれでもかと撮りつつ、一方で深夜の病院の場面のように、暗示にとどめる古典的手法を意識的に使い、スターに老け役を依頼し新進の舞台俳優らとつくったのが『ゴッドファーザー』だとすれば、この映画は大変な実験作だったといえるだろう(ブランド側には、タヒチに理想のリゾートを作る大プロジェクト―実際20年かかった―の資金集めという出演理由もあったらしい)。
 類型的とはいえ、兄弟の中でも特にヴィトから可愛がられたマイケルは、家業を避けイタリア娘ではないケイと交際しているという込み入った役柄だ。そのマイケルが、自ら志願して報復のため警部とソロッツォを射殺する時のクローズ・アップは忘れがたい。こんこんと涌く泉の水のように、役柄の類型というマス目を瞬く間に満たし画面からあふれ出すマイケルの意識と感情の流れが、台詞なしに伝わってくる。パチーノの表情の演技しか映っていないにも関わらず、観る側が得られるマイケルについての情報は無尽蔵だ。
 
 要するに、コッポラの狙いと意図がすべてぴたりと決まった作品、それがこの『ゴッドファーザー』なのだろう。そんな奇跡がめったに起こらないことは、『ゴッドファーザー』から5年後の『地獄の黙示録』を観るとよくわかる。(04.07.10 東劇)

(1)通常は「パッサカリアとフーガ ハ短調」と呼ばれる。パッサカリアの後に同じ主題による長大なフーガが展開されるため。また、ローラン・プティの振付けたバレエ『若者と死』(初演1946年)には、レピシーギ編曲の「パッサカリア」が使用されている。
030328「若者と死」と040129「プティ:ガラ/若者と死」に関連記事あり。
(2)『バッハ事典』磯山雅/他 東京書籍株式会社 1996.10.24
参考:『ゴッドファーザー』デジタル・リマスター版パンフレット(ブランドのフィルモグラフィーから、1956年『八月十五夜の茶屋』が漏れていた。ブランドはなぜか日本人役で出演し、いい味を出している。)

Posted by : 12:53 AM

August 02, 2004

REAL TOKYOに寄稿したレビュー

文字数は250。半角カナなら倍に増やせるかと血迷ったが、往生際が悪いと思い直し、いざ始めてみるとそれは一筆描きのようで楽しい作業だった。  河内山シモオヌ

 UPしたのは、日英2ヶ国語の情報サイトREAL TOKYOに寄稿した舞台・興行のレビューだ。サイトでは、記事は公演終了とともに削除される。元々の記事には舞台写真などの画像、公演データへのリンク、星取り、執筆者一覧にリンクできる署名、読者星がついていた(今回は割愛する)。
 
 事前紹介が原則とのことだったが、私はできるだけ観劇後に書くようにしていた。そんな訳で、紹介できたのは比較的上演期間の長かった作品が多い。事前紹介した作品に関しては、ニュース記事的な文、過去の公演の様子などを記すにとどまった。
 
 やんわり原則を破ったのは、私の場合観てからでないと、扇ならば要となる一文が書きづらいという理由があったからだ。けれども演劇や興行全体を盛り上げるためのアプローチは、事前事後に関わらずいろいろな方法があっていいと思う。REAL TOKYOは執筆者の独断と偏見による取捨選択を前面に出す、という点で一貫している情報サイトだ。またREAL TOKYO向きの作品があれば紹介していきたい。
 
*特に記載のないものは、サイト内のSTAGEカテゴリーに掲載された。
 各タイトルの左はUPされた年月日、下はトップページ一行コメント

030327 白鳥の湖
ロンドンの人気ダンスカンパニー、AMPの追加公演
『くるみ割り人形』など古典バレエの楽曲を借りながら、バレエの「お形」への疑問を実験的な作品に変えてきたイギリスのダンスカンパニーAMP。映画大好きM.ボーンの現代人心理考察(何を観たがっているか、どんな悲劇に共感するか)が卓越している。いかにもクラシック、のスタイルで描かれるワキ筋との対比鮮やかな白鳥の踊りは、パワー全開でラストへ垂直落下。ある時は己に向き合えない王子を、ドッペルゲンガー的に揺さぶる。ゲイ表現は映画『セルロイド・クローゼット』の、隠喩を駆使した同性愛描写テクとは隔世の直球勝負だ。

030328 若者と死
斬新な装置も見どころ      
ジャン・コクトー原案による、ローラン・プティの初期代表作(1946年初演)。日本では牧阿佐美バレヱ団がプティの許可を得、4年前に初めて当時の装置を再現した状態で上演された。椅子が無秩序に置かれた汚い屋根裏のアトリエが、一転して40年代パリの上空夜景に変わる装置の斬新さもさることながら、高いアクロバティックな跳躍の後の激しい落下、首と肩を起点にしたねじれた倒立など、振りは意図的に重力を感じさせる。死神に操られて一人の青年が命を「落とす」テーマを含めて、この約18分の落ちるバレエは時代を超えた新しさに満ちている。
*固有名詞訂正・加筆

030423 障害者プロレス『ドッグレッグス』第59回興行 Approach2
拝啓、健常者さま   
代表北島行徳が著した『無敵のハンディキャップ』から5年余り、最近は満員御礼続きのドッグレッグス興行。健常者と障害者、もしくは障害者同士が、その障害の程度に応じ階級別に分かれて試合を行う。ボランティアを取り巻くゆるぅい感動、自己満足、甘えを断固拒否。他者と自分との違いを、身をもって知る彼らが興行を続けるのは、人間同士が本気でぶつかることを決して厭わないという彼ら自身の立場表明でもある。女社長(すばらしい喋りのセンス)による漆黒ジョーク連発の実況は、北島のいう通りまさしく観客との「言葉のプロレス」。
*TOWNに掲載

030425 東京国際コメディフェスティバル
お台場だヨ!全員集合(ドリフは出ません)   
G.W.のお台場に内外のコメディアンやパフォーマーが大集結。見て楽しめる作品と、言葉を理解して笑うステージの内訳は5分5分の模様。日本発のプリンセス・テンコー、「一線を超えた物はすべてギャグである」が持論の大川豊総裁の下、政治・宗教・経済にお笑いゲリラを仕掛けてきた大川興業の江頭2:50など、今や某国関連のニュース映像経由で目にすることの多い2人を生で見られる絶好の機会だ。電撃ネットワークは、人間効果音のアンビリカル・ブラザーズと共演。ラーメンズ片桐仁も、エレキコミックとのコラボレーションで出演する。

030605 六月大歌舞伎 夜の部
ご存じ、幸四郎の幡随長兵衛に注目
三千余人の子分がいたという江戸の侠客、長兵衛を主人公にした狂言は数多い。かつて染五郎時代に、河竹黙阿弥作『極付 幡随長兵衛』を演じ、手塚治虫に「"二十一世紀に歌舞伎役者が示すような"芝居」と評された幸四郎。今回は長兵衛と白井権八の出会いを描く鶴屋南北作『御存 鈴ケ森』で、どんな幸四郎長兵衛を見せるのか。美貌の花形役者が演じてきた権八の殺陣、客席を海に見立てた趣向など、40分ほどの演目だが見どころは沢山。仁左衛門・玉三郎の顔合わせで贈る通し狂言『曽我綉侠御所染』は、両花道を用いる珍しい舞台だ。
*家庭画報国際版ウェブサイトに翻訳転載

030609 サド侯爵夫人―澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』による―
三島由紀夫作、シアターアーツが選ぶ戦後戯曲ベスト1
6人の女が語るサド侯爵。客席に張り出したチェス盤のような舞台の上で、彼女たちはシンプルにアレンジされたロココ調の衣装に身を包み、各々を象徴する思想に跨ってサドを語り、革命へと移り行く時代を背景に言葉のみの騎馬戦を繰り広げる。場ごとの立ち位置が細かく変わるので、人物相関や各人の心理の動きは明解だ。中央の空いた椅子はおそらく不在のサドであり、からっぽの椅子で示された、この世で「一番ふしぎな」実体サドと対峙し続けるルネの宿命は、19年の歳月を経た終幕で明らかとなる。ベタ過ぎるSEが台詞のリズムを分断。

030610 The Musical CHICAGO
ボブ・フォッシー渾身のトリック
ボードビル形式を取り入れたステージ。トリックやどんでん返し満載の物語ラスト、命運を賭けた「ショータイム」の終了を悟った後のロキシーとヴェルマの歌には、あえて猥雑な世界から機微を、老いと疲労から希望を描き続けたフォッシーの人生観と人間賛歌が託されている。このミュージカル最大のトリックは、50年もたてば全て変わってしまうと劇中で歌っておきながら、今なお踊り継がれている『CHICAGO』そのものだろう。元Wet Wet Wetのボーカル、M.ぺロウの扱いは座長公演的だが、自信を持って軽快に弁護士ビリーを演じている。

030805 世界バレエフェスティバル
フォーサイス、キリアンらコンテンポラリー作品も上演
世界各国のプリンシパル、エトワールが競演するバレエフェスも10回目を迎え、コンテンポラリー作品の上演が増加。期間中は度々、談笑しながら電車で上野から帰るダンサーたちに遭遇する。日常空間に現れた、この高い音楽性を備えた特殊技能集団には、強烈な個性を持つ者がいる一方で、美しいがよく似ているダンサーも。厳しい練習の連続、そして日々表現するものが似た場合、外見も相似形になるのだろうか。ジル・ロマン(ベジャールバレエ団)の『アダージェット』は涙が踊っているかのような哀しみに溢れ、かつて観た江頭2:50の一人芝居が思い起された。

030805 blast
超マーチングバンド!
ドラム&ビューグル・コーとマーチングバンドを極限までショウアップ。サーベルやカラーフラッグも登場する。久々に「すべての芸術は音楽に憧れる」という言葉を思い出し、アメリカの多様性と寛容な文化を堪能した。ところで、軍の伝統でもあるマーチングバンド。たしかに聞いていると大変気持ちが高まる編曲であり、もしこれが「地元の」とか「自国の」バンドならば、連帯意識も芽生えよう。これだけ寛容で多様性を持った文化の利用目的の一つが、国威発揚というのは皮肉だ。オーチャードはいつもの通り、どこで観ても満足度の低いホールである。

030922 ALICE FESTIVAL '03
21回目の小劇場演劇祭、国内外10都市13劇団が参加
東アジアとの演劇交流を続けてきた「ALICE FESTIVAL」。今年は新たに2カ国のカンパニーが参加する。アクロバット、マジック、バレエ、コンテンポラリーダンスで構成された、旅芸人の愛の道行『Love:A Distant Dialogue_愛:よそよそしい対話』(ニューデリー)、夜の人々の物語を独特のダンス・テクニックで描く『Melatonin』(シンガポール)、両者に共通するテーマは「孤独」のようだ。なお『Melatonin』は、『Serotonine』(銀幕遊學◎レプリカント・大阪)との競作。演出家やゲストを交え、各都市の演劇状況、彼らの創造方法などについて話し合うシンポジウムも同時開催される。

031031 CVRチャーリー・ビクター・ロミオ
「ふるえるほどリアルだ!」(N.Y.Times) 
管制官との交信やパイロットの会話などを記録するCVR(コックピット・ボイス・レコーダー)。実際の飛行機事故のCVRに残された記録を、操縦室に模した舞台で俳優が演じる。網のような飛行マニュアルが何かの原因でほつれた時、その破れ目から立ちのぼるクルーの声は、専門用語のやりとりというより危機に向かう人間の精神そのものの発露だ。これはフィクションの広野から台詞で心理を掘り出す戯曲以上にタイトな「ドラマ」の構図であり、なぜ上演側が「演劇」として取り上げたかという問いへの答えだろう。初演時は「台詞を喋っている」感が強かったが・・・・・・。
*加筆

031121 野村萬斎企画・監修 現代能楽集 I『AOI』『KOMACHI』
麻実れい、手塚とおる好演
川村毅が「右に能の詞章を、左に三島由紀夫『近代能楽集』を置いて」書き下ろした2戯曲の上演。『KOMACHI』の小町は、原節子の軌跡を彷彿とさせる女優に置き換えられて登場。全編から川村の、映画に対する特異な、気味の悪さを感じさせるまなざしがこぼれてくる。『AOI』は『近代能楽集』収録の「葵上」の骨格や、幽界と現実の配置をそのまま踏襲した川村流日本演劇クロニクルに思えた。光源氏はカリスマ美容師。やや酸味を覚える「現代の」設定だが、そうしたディテールや通俗性より、すべてが個人の物語へ収斂されていたことに違和感が残る。

040119 プティ:マ・パヴロヴァ【DVD】
詩情あふれるカルフーニの熱演 
「ピアニストがピアノを持つのと同じように、自分のカンパニーを持つことは振付家には欠かせない」と語ったR.プティ。1972年の創立当初から26年間芸術監督を務めたマルセイユ・バレエ団出演の『マ・パヴロヴァ』は、ショパンやマスネ、ドリゴらの曲に振付けた16のパートで構成されている。バレエ団のミューズでプティの美しい楽器、D.カルフーニの全身を貫く詩情が、彼の舞踊言語をあますところなく伝える。信頼するダンサーとの共同創作こそ、プティの原点であったことを雄弁に語る作品だ。共演はD.ガニオ他。87年スタジオ収録映像。
*BOOK/DISKに掲載

040122 NANYA-SHIP:かけがえのない日々
動物を演ずるのはミュージシャン
1967年に書かれたラジオドラマ。上演にあたって、演出の宮田慶子は「夢を語った途端に『獏』に襲われる動物園の警備員たちという、清水邦夫作品特有の観念性を踏まえつつ、彼らと『拘束されることにむしろ安心感を持つ現代人』との間にブリッジをかける作品に仕上げたい」と話す。今回は3人のミュージシャンがアニマルと化し、生演奏でその生態を表現する。俳優とのコラボが楽しみだ。『萩家の三姉妹』やマキノノゾミ作品などで活躍中の女優、南谷朝子を中心に意欲的なプロデュース公演を続けるNANYA-SHIPの連続プロジェクト第一回。

040129 プティ:ガラ/若者と死【DVD】
トゥシューズで蹴られるヌレエフ 
野外ガラ公演と、約18分の傑作『若者と死』の二部構成。『若者と死』は、青年が娘(死神)に翻弄され命を落とすプロットや重力を強調した振付をはじめ、表象されるもの全てが「落ちていく」バレエだ。今回のヌレエフ版はギリギリと力を内側にためるような動きが多用され、小爆発を繰り返すアクロバティックなバリシニコフ版(映画『白夜』に収録)との違いに目を見張る。屋根裏部屋が上空夜景に一転する装置を使用していないので、屋根の彼方へ消え去る若者の最後の「浮遊」が見られずやや残念。音楽は管弦楽編曲のバッハ「パッサカリア」。
*BOOK/DISKに掲載

040315 三月大歌舞伎 夜の部
煩悩を焼き尽くせ! 息を飲むお坊さんの大群舞
お勧めは『達陀(だったん)』。達陀は梵語で「焼く」の意。奈良東大寺二月堂の秘法、火と水の行「修二会」のクライマックスで、達陀の行は燃えた松明を堂内で振り回し行われる。二世松緑はこれを4場の舞踊劇にした。行中の僧集慶(菊五郎)は、己の煩悩のあわせ鏡として現れた青衣の女人(菊之助)の誘惑と切ない訴えに、たまに負けながらも打ち勝つ。圧巻は練行衆による大群舞。グーパンチの両手を突き出し、邪悪を焼き煩悩を切る群舞は不揃いだが、骨まで斬れる肉厚いみだれ刃文の刀のような凄味があり、舞台に舞う春雪は炎の熱に解ける。
*家庭画報国際版ウェブサイトに翻訳転載

040315 Matthew Bourne's Nutcracker! くるみ割り人形
92年初演作品を全面的にリ・クリエイト
曲を物語に読みかえるM.ボーンが最初に手がけた全幕ダンスをリ・クリエイト。くるみ割り人形をもらった孤児院のクララは、夢の中でチクロやサッカリンをふんだんに使ったとおぼしき菓子の国の宴から締め出しをくらい、想いを寄せる相手には裏切られる。明るいが不安材料山積みで、強引な救済をもたらさないラストはボーンの宗教観でもあるのだろうか。映画からの引用は、古典バレエへの旺盛な批評精神に較べてオマージュ捧げっ放し。一人二役で踊られる孤児と菓子の国の住人は性格が一貫しており、DVD特典映像的に微細を楽しむことができる。

040331 四月大歌舞伎 夜の部
おなじみ白浪五人男、巡る因果をひも解こう
2月『三人吉三』と対をなすかのように、またも嬉しい黙阿弥の白浪(盗賊)物、『白浪五人男』を通し上演。弁天小僧や勢揃の名台詞、がんどう返しの大仕掛けに加え、通してこそ観られる因果の紐解き。『三人吉三』は、宿命を知り罪を抱えたまま極寒の中果てる悪党3人と、脇の人々の冬日にも似た善行とのコントラストが鮮やかだった。初役玉三郎のお嬢と共に、お坊吉三で圧倒的な歌舞伎の絵画美を見せつけ、滲む諦観が涙を誘った仁左衛門は今月、義賊と名高い駄右衛門親分に。背景も雪から桜へ。勘九郎の弁天らが快・怪盗ぶりを披露する。

Posted by : 01:15 AM
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