11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

November 26, 2004

三条会 『ひかりごけ』

 処女作を超えることは難しく、そこには作家の表現衝動がすべて潜んでいる、というような言説は屡々耳にするところだが、BeSeTo演劇祭の大トリを飾った三条会の『ひかりごけ』はまさにそうした性格を有している。1997年の旗揚げ以降も幾本となく公演を打ってきたことを蔑ろするのではない。2001年の利賀演出家コンクール最優秀賞を受賞し、第三者からの評価がまず確定した上で劇壇の表舞台に現れたというその意味において『ひかりごけ』は「処女作」と呼ぶにふさわしく、そこには近来の関美能留の演劇活動を通して感じられた多く魅力の原初形が表れていたと思うからだ。

 「自我」が発見され、「個人」の意識が重要を帯びるようになった「近代」という装置を糧に、三条会という濃密な「集団」と否応なく他者との関わりによって成立する「演劇」を以て、脈々と続く歴史の河に流れる「現在」を検証する。その方法論の根幹には演劇そのものへの問いかけがある。そしてその疑問符は、安くなってしまうのを恐れずに云えば、現代に生きることや、人間性という主題へとそのまま移行する。関美能留のつくりだす舞台は異様である。従来の「演劇」のルールからは大きくかけ離れて見えるのだ。しかし、芸術が常に温故知新と前世代の否定によって生かされてきたとすれば、三条会の描く「演劇」は極めて現在的な創造の一つである。

 近代戯曲の言葉を徹底的に異物として扱い、現代ではあり得ない台詞を云える状態をつくるため実に多彩な趣向が凝らされる。たとえば『ひかりごけ』では「人を食べる」感覚などとてもわからないという立地点から、舞台を学校に設定し、生徒たちはふざけ合いながら『ひかりごけ』を朗読していく。女教師に導かれて本を読み進める内に、生徒は台詞を咀嚼しながら舞台に置かれた机―もう一つ上の劇世界に上り、『ひかりごけ』の住人となる。観客は生徒と一緒になって「教育」されていく。戯曲に実感を伴わせる手段の一つとして、外からの視点をつくりだす劇についての劇という二層構造それ自体は決して珍しいものではなくなったのかも知れないけれど、その特異性で他との圧倒的なレヴェル差を感じさせられるのは、劇中劇にもまた一段、「演劇」への異和が表明されている点である。『ひかりごけ』の劇中で演じられる『ひかりごけ』は果てがない。額縁的な二次元の舞台から三次元へ、そこから先、四次元へと向かう劇時・空間の歪みが、或る種の異様さと映るのかも知れない。つまり演劇そのものが異物であるかのような「反演劇」的な世界を構築する手つきによって、演劇及び舞台を全き他者として扱い、その上で幾度も再生する。演劇に対して愛に溺れない、潔癖に距離をとりながら問いを発しつづける姿勢が、何処までも作品を奥深いものに仕立てていき、結果として底の見えない十二単のような世界が生れる。いわゆる「劇的」というイメージから遠く離れたところに、かくも「劇的」なものがある。愛するが故に、愛する為に憎み、その憎しみの裏側にこそ真の愛が見えるようにである。それだけの複雑にもかかわらず、すべて偉大なものは単純であるという箴言のように、そこで行われていることはひたむきなまでの王道である。技法が芸術家の思想を示すとすれば、関美能留という才能が演劇を選んだその時点で彼の思想哲学がそっくりそのまま「演劇」において表現されることはすでに決っていたのだ。

 彼は広義で「作家」であり、集団を束ねる「組織者」であり、同時に「教育者」でもある。個人の主宰する劇団においては演出家による俳優教育というものが絶対不可欠だと思われるし、制度として演劇教育の場がない日本では「たまたまそばにいた人」と演劇の現場をつくっていかなければならない。また俳優芸術としての演劇のかたちを考えてもである。舞台に閃く俳優の力量は創造が持続し行われる集団という場の価値に他ならない。何よりも「演出家」である関美能留が指揮棒を振る爰ではおそらくは正しく個人が「個人」として在り、だからこそその集合が「集団」として一つの有機体になり得るのではないだろうか。

 現代の日本という命題を示しながら、いわゆる日本的なモノは可視物としては一切用いられない。「~的」と括弧で綴じられるような様式の真似事もない。にもかかわらずどうして日本の演劇の伝統を消化した上で特異な関節に昇華できるのか。「心ノ中ノ日本」を眼に見える、耳に聞えるように演劇として立ち上げる作業は、ともすれば自閉的になりかねない。しかし、三条会の舞台では俳優の身体も、戯曲の言葉も、絶えず外に向って開かれているのである。四角四方の舞台を飛び出し、客席をも包み込んだ挙げ句にさらに遠くへまでその振幅は広がっていく。『ひかりごけ』の非常にミニマルなところから発信された宇宙的スケールは、衝撃とともに何処までもわたしたちの記憶に残っていくような気がしてならない。(後藤隆基/2004.11.25)

Posted by : 11:42 PM | Comments (0)

November 25, 2004

劇団大阪新撰組 『玄朴と長英』

 BeSeTo演劇祭には東京だけでなく全国各地から多種多様の劇団が一堂に会し、他地域の芝居に出会える貴重な機会に恵まれた。最終日の早稲田どらま館で上演された劇団大阪新撰組『玄朴と長英』は今年度の利賀演出家コンクール参加作品で、伊東玄朴と高野長英の二人が真山青果の筆によって議論を戦わせる緊密な対話劇。劇団が日頃どのような作品をつくっているかは「ギャグがないのがつらい」という演出メモを手に想像する他ないけれど、今作は利賀に出品したということもあってか、戯曲をそのまま上演するのではなく外側からの視線を送り劇中劇として扱うという、もはや常套でさえある手法を実に簡素なかたちで用いていた。

 裸舞台に行燈が一つ、書物が散乱している舞台。暗闇にそっと浮かんだ、背広と茶髪、仕事に疲れたサラリーマン風の男がため息一つ漏らすと、彼の眼前に突然『玄朴と長英』の世界が「白日夢」として立ち現れる。家族を治療してもらった四人の女が順番に医者である玄朴に礼を述べていく。「先生、ありがとうございました」と一人一人の台詞が重ねられていき、それぞれ終えると四人は声を揃えて玄朴に呼びかける。戯曲にないこの操作、ありがちと云えばそうかも知れないけれど、幕開きの見せ方にはその先を期待させるだけの処置がされていた。女たちは玄朴の妻になり、終始舞台奥で家事をしつづける。男は目の前に繰り広げられる光景を不審そうに眺める。しかし、余りにわかりやすいその二層構造はそのあと特に大きな展開を見せるでもなく、兎に角『玄朴と長英』が進行していくのだ。そして最後には玄朴と長英の幻が消え、残された女たちが無言のまま男を睨みつけるところで幕となる。

 シンプルには違いないけれど、玄朴と長英それぞれを演じる俳優の真っ直ぐな熱演とただ二人を見つめつづける男の温度差は二つの世界を拮抗させる力に乏しく、現実世界に居るはずの男の姿が歯切れのよい(少しばかりよすぎるほどの)長英の台詞回しなどに圧倒されてかき消えてしまうような印象を持った。現実と幻想の価値が転倒し、夢こそが現実を覆い隠す。現実としての現代人が舞台から見えなくなる時、それではあえて二つの異なる世界の住人を出会わせる意味は何処にあるのかという疑問が生れた。いやむしろ、男の存在感の稀薄こそが狙いであり、そうすることで現実を超越する芝居がかることの力を再確認しようとしたのだろうか。たしかに「白日夢」としての『玄朴と長英』には、それとして観劇するに足るだけの力強さはあった。とはいえやはり「男」を舞台上の人物として創造するからには、彼がそこに居ることの意味づけがもう少し必要ではないだろうか。でなくては、作品の制作過程自体が単に「利賀」向けの御挨拶だったのかと思わざるを得ない。ならばいっそ純粋に俳優の勢い以て戯曲通りの『玄朴と長英』を積み上げた方が余程芯のしっかりした上演になったろう、などと思うのは余計なお節介かしら。(後藤隆基/2004.11.23)

Posted by : 01:28 AM | Comments (0) | Trackback

November 24, 2004

ユニークポイント 『あこがれ』

 2001年の初演以後、地方公演を経て今回BeSeTo演劇祭で再演されたユニークポイントの『あこがれ』は、太宰治『斜陽』を原作としながらそれとまったく毛色の違う、別の話に再構築された作品。小説で物語の裏にひっそりと隠されていたものを繊細に表舞台に引きずり出した戯曲は、『斜陽』を準拠にはするも奇を衒った新解釈は狙わない、山田裕幸という劇作家のスタイルが明確に示されている。

 「演出家」の活躍が眼を惹くBeSeTo演劇祭において、ユニークポイントはその名の通り、やや特異な存在とも云える。たとえば文学作品の演劇化は様々の演出家の手で行われているけれど、その他の劇団が作品を言語と身体の関係性から意識的に構築し、また作品読解にも過激な冒険が試みられているのに較べて、小説から「わたしたちの生活」を掬いとり「戯曲」化していく山田の筆致は此方もリアリスティックな演出法と併せて、一般に浸透しているであろう「演劇」というものの「標準形」をそのかたちのままに伝達する。

 新劇的リアリズムに則った作法は観客に安心感を与えるだろう。淡々とした日常描写、わかりやすい話し言葉。わたしたちの生活に近しい感情の表現。一々のリアルさは舞台を覆う清潔感とも無関係ではない。一歩間違えれば「平凡」の一言に止まってしまう危うさを、『斜陽』という、また「太宰治」という名前を利用して超克しようとする。それが『あこがれ』という物語の強度なのだった。原作の上原を大学で太宰研究をする先生にし、直治をそのゼミ生と設定する遊びもそれなりに活きていたようだ。全体に無駄を省いた台詞及び舞台構成は、『あこがれ』の裏に隠された『斜陽』という物語を観客の想像力に訴えかける。思えば、最後まで登場しない母親は観客によって想像されるべき『斜陽』そのものだとも云えるだろう。『斜陽』から生まれた新しい物語は何よりも『斜陽』によって生かされ、『あこがれ』を通して『斜陽』に別の角度から光があたるよう細工されていた。作家としての山田裕幸の恥じらいを微塵も見せない誠実がそこにある。

 小説に散りばめられた豊富な言語表現を登場人物に丁寧に分配して、極普通の善良なる人びとの生活を描く。そう、そこに居るのは本当に「普通」の人たちなのだ。東京に住む叔父夫妻、ゼミの同期の友人たち、田舎の病院の跡を継いだ若い医者、直治に連れられてきた女など、直治とかず子を取り巻く人びとに血を通わせることで、姉弟の異質さ、疎外感を浮き上がらせむとする作業があった。そしてもう少し付言するなら、たとい直治が破天荒な振舞いをし、かず子の御嬢様然たる世間知らずがあるにもせよ、将来への不安と、周囲の人間のしあわせに対比される己の不幸は、平々凡々としたわたしたちの送る毎日と同じ苦悩ではなかったか。繰り言にもなってしまうけれど、一見『斜陽』の衣を借りただけ、原作からは遠い、現代家庭劇であるかに見えるにもかかわらず、やはり『斜陽』あっての『あこがれ』なのだと思わざるを得ない。その意味で、原作との付合い方という可能性の幅の広さを感じさせられた。

 ユニークポイントは普通さやリアルを真摯に突き詰め、日常からの違和感を感じさせない舞台の創出をめざしているように思う。よくまとめられており、静穏な会話劇でもある『あこがれ』は極めて新劇的な風味をもっている。それが山田裕幸という人の作家性でもあるのだろうが、そうした仕方を身につけ、尚かつ的確に表現できる才能は決して多くない。BeSeTo演劇祭だけでなく現代演劇という問題を考えたとき、リアリズムについて或る意味で「昔ながら」の延長線上を歩いているユニークポイントは、それがより洗練されていくにつれ、新劇的小劇場演劇を実践する稀有な団体になっていくのかも知れない。(後藤隆基/2004.11.23)

Posted by : 07:34 PM | Comments (0) | Trackback

November 21, 2004

鵺の会 『場景』

 BeSeTo演劇祭の中でも注目劇団の一つである鵺の会を都立戸山公園につくられた特設会場で観た。作品はジョルジュ・バタイユ『松毬の眼』と太宰治『燈籠』を原作に編まれた『場景』。構成・演出をつとめる久世直之の実験精神が満々と浸した舞台はまさに、「前衛」と云う名で呼んでも決して遜色のない精練された知的冒険の世界だった。

 二部構成。畳六畳の舞台には白い衝立が三枚。前半『松毬の眼』は人間のからだの動きを視座に、まずメトロノームによって一定のテンポを与えられた俳優は単純な動作を繰り広げる。途中BPMに合わせた照明、音響の微妙な変化は劇時間に揺らぎを与え、メトロノームと単調なピアノ曲に示唆されるビートの音間をたゆたうような舞踊めいた運動への変換を促す。一人で全編を演じきる藤間叟之助は、久世直之の観念を舞台上に表現してみせたと云える。

 一方、後半の『燈籠』は前半で確認された身体試論を言葉(台詞)に置き換えた。卓袱台が持ち込まれ真白の衝立は襖に変わると、一気にそこは親しみ深い空間になる。太宰治という男性作家が女性の独白体で書いた小説の言葉を男優が語る。そこに一つの趣向があったがしかし、言語を主体として描く『燈籠』では振付の一つとして言葉は機能していた。藤間が一枚きものを羽織って現れる。女性的な仕草と独特の発声はそれだけで有効な武器になり得るけれど、たとえ太宰の小説を素材にしたとはいえ、淡々と何の処理もされずに語られる言葉は起伏に乏しい。『松毬の眼』に比べて一定のパルスが舞台に流れつづけ、緊張を強いられたままの観客の身体は、寒さも相まって舞台を心から楽しめはしなかった。

 知的ゲームや実験は時に退屈なものになる。ストイックな場の提示は創造という過程においてよしと見るべきだけれど、如何せん観客は「楽しい」気持にならないだろう。実験性は評価するものにしても、果たしてそのままのかたちで提出された場合に「芸術作品」という呼称を与えられるかどうか。芸術観なぞそれこそ十人十色、人により相違はあるし、何を以て楽しみとするか、演劇に何を求めるのかは各々の勝手自由だと思う。しかし、とあえて私見を云えば、やはり理屈抜きに楽しみたいのが本音ではないかしら。「芸術」とは「注」を振らずとも楽しめるモノ。いや、こんなことは愚言に違いない。発展の途上をゆく確かな知性は、万事承知の上で或る仮定の実践を試みたのだろうから。(後藤隆基/2004.11.20)

Posted by : 11:47 PM | Comments (0) | Trackback
 1  |  2  | 3 |  4  |  5  |  6  |  7  | all pages