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November 14, 2004

Ort-d.d 『こゝろ』

 たとい日常生活からそれらが失われ、またわたしたちが実感として「日本」を愛することが難しいにしろ、日本人であるという血の嗜好は決して拭い去れるものではない。おそらくは自然の衝動として、日本の風土や文物に云い知れぬなつかしさを覚える。年中行事はすでに習慣として暮しの中に根を張っており、イベント化の誹りを受けもしようが、やはり新年のはじまりには幾万の足が寺社仏閣に向かう。桜に携帯電話を向けるのも一つの愛し方であろうと思う。

 しかし、かつて起臥した畳はフローリングへ、寝室にはベッドが設けられる。日本家屋は軒並み洋装に姿を変えた。などと今更鹿爪らしく言い立てることでもないのだけれど、もう少し常套句を積み上げるなら、わたしたちの生活様式は目下西洋化、アメリカナイズの果てに混乱し「共通化」されている。挙げ句、もはや身辺から姿を消した文物は余りに多い。愛したものを昔と同様に愛する術を知らぬ人も多い。「日本はダメね」という声も聞える。あるがままにあるべきものがない状況に、わたしたちは何を己のものとし、正しく生活していけばいいのか。

 日本的なるモノへの憧憬、追求は時代の節目ごとに多く識者の間で行われてきた議論ではあるのだけれど、今日ではそれが広く世上全般に広がっている。アスリートの海外での活躍を例にとるまでもない日本人の通用性や観光業界を筆頭に「忘れかけていた」日本の魅力を再考する動きが高まっており、「日本とは何か」という題目につながる道を懸命に模索しているかに見える。

 無駄に長い枕を漸く爰に引きつけて云えば、Ort-d.d版『こゝろ』には、日本「的」なるモノから「日本」を抽出せんとする作業の一端があった。明治から大正期の、いわゆる「近代化」に伴う環境の変化と自意識のズレを鍵言葉として、夏目漱石『こゝろ』に立ち向った倉迫戦術はまさに、わたしたち日本人のからだに潜む「土」への無意識の愛着に訴えかけようとする。違い棚を拡大したような舞台装置。吊り洋燈が仄かに映す陰翳の風景。わたしたちの美意識はそれらを美しいと観るだろう。音楽は一切用いられない、攻撃的な、武器としての静寂に、言葉(声)や音(したたる水、軋む床など)の、また常にその間を支配しつづける無音の美しさを聴くだろう。作品の読解以上に、『こゝろ』の書かれた「時代」、そこに生きた「夏目漱石」、今なお読みつづける「わたしたち」という距離感そのものを舞台化して見せたように思う。そしてその疑問符自体が『こゝろ』の読み、解釈として提出されていた。

 「物語」にも目を向けてみれば、やはりその構成力、台詞処理の巧さは一言に価するだろう。云わずと知れた『こゝろ』の下巻「先生の遺書」から、「K」の恋の告白から自殺に至までの行を抜き出し、その死の地点から「なぜKさんは死んだの」という疑問を軸に一連の経緯を現在に向けて語り、時間の糸を一気にたぐり寄せるような「私」の死を以て幕を閉じる。読み手がどんな距離をとるとしても十分な魅力を発揮するこの箇所に、原作の「奥さん」と「御嬢さん」を姉妹に置換してさらに父親との近親相姦を盛り込んだ。「恋」や「青春」というものが普遍であるならば、「近代的自我の目覚め」などと読まれる原作へのイメージは当然あるにもせよ、「近代的自我」って何なのさ、という気持もないではないことを鑑みた上で、『こゝろ』が現代のわたしたちにまで届けられた疑問への一つの解ともなる。

 たとえば世界の中での日本文化の独自性や、身体的特質を叫ぶ前段階として、先ずは日本人が日本人であり、何をわたしたちが愛するのか、愛してきたのかという問いかけがなされているとは云えないだろうか。思想云々と大袈裟なことではない、直ぐ隣にあるはずの生活のためにである。漱石が感じたのであろう「近代」のズレと、わたしたちが感じる「現代」のズレの相似形が倉迫康史の『こゝろ』を形づくっている。そういった意味で、歌は世につれではないけれど、極めて今日的な問題提起を含む作品なのだ。(後藤隆基/2004.11.11)

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October 23, 2004

文学座『踏台』

◎愛すべきオジサンのための一喜劇

 文学座の喜劇である。創立以来、多岐に渡る喜劇のかたちに挑戦し、そのたびに白眉の出来を見せてきた。彼の系譜を辿れば久保田万太郎や岸田國士から別役実、つかこうへいまで、本当に多くの作家による良質の作品を上演しつづけている。水谷龍二の筆による『踏台』は、2000年に初演され好評を博した『缶詰』の後日譚。キャストはほぼ変わらず、渡辺徹が加わり花を添える。いや、添えるどころではなかったけれど。ともあれ、歌ありドタバタあり、そしてシンミリさせる。文学座流の風俗喜劇である。

 物語は大筋で感傷のかたまりであると云ってよい。かつて靴工場の社長、常務、専務だった三人のオジサンは、今やビルの清掃業者。或る夜、大手広告代理店の一室で社内人事をめぐる騒動に巻き込まれる。過去の悪夢を踏台として今を、未来を生きようとするオジサンたちは、我等遺物に非ずと気を吐くがしかし、どうにも「オジサン」然たる姿は否めるものではない。いわゆる「団塊の世代」と若者たちとのあからさまな時代表象的やりとりに思わず鼻が鳴る。その潔いまでのジェネレーション・ギャップ自体がすでに微笑ましく、敬遠されがちなオヤジギャグさえ何の臆面もなく連発される。それが許されるのは百戦錬磨の文学座オジサン俳優たちの魅力に他ならない。

 主演トリオを演ずる角野卓造、たかお鷹、田村勝彦ら文学座の手練の周りを気にしない必死さが笑いを誘う。そう、オジサンたちは一生懸命なのだ。そして熱い。ときに暑苦しいほどに。内向の世代もすでに遠く、目下流行の銘柄は「自閉」を旨として憚ることも知らない世情だけれど、愛すべきオジサンたちは負けじと舞台を駆け回る。中でも角野卓造は本当に達者で、そこに居るだけで或る種のおかしみを醸すのは、別役作品で演劇の基礎を築いた功でもあろう。たかお鷹の即興や楽屋ネタにさえ見える、計算し尽くされた演技や田村勝彦のすっとぼけた新喜劇調の優しさもいい。また渡辺徹の存在感は、舞台をあっと言う間にお茶の間に引き寄せてしまう求心力を持っており、観客の目を惹く。全体として線の細い女優OL陣の中、栗田桃子の器の大きさが光る。ジョニー・サマーズの「ワン・ボーイ」をはじめとするフォーク・ソングも郷愁を誘う。至って現代風、ややもすれば平々凡々とやり過ごしてしまうオフィス・コメディであり、鼻もちならぬ懐古趣味と見られておかしくない設定を、戯曲世界を丁寧に視覚化する鵜山仁の演出のもと、ほのぼのと、あっけらかんとした「おもしろい」舞台へと昇華させた。

 しかし、以上の長所はどうしても俳優の手慣れた演技だけに寄りかかり過ぎて、作品としての精度は物足りないと云わざるを得ない。前作の好評からか、それを受け継いでの路線が展開されるため、初見の観客にとっては少しばかり戯曲の不備を問わずにはいられないし、「つづきもの」として考えても、強引な展開とあまりに唐突な幕切れは予想の範囲内であるにもせよ、「物語」としての強度に欠ける。時代を超えて響く音楽のモチーフも、主演三人の歌の巧さは措いて、劇的機能は不発だった。文学座という恵まれた「場」に甘んじて、安易な「おもしろい芝居」をつくるだけではどうにも足りないと思うのだ。でなくては、劇場で味わう思いが本当にただの「団塊の世代のための演劇的感傷」になってしまわないかと、杞憂ながらもつい考えてしまった。それとも、筆者が団塊以降の世代であるがため舞台の熱を肌で感じきれずに、知らず冷めた眼で観ていたのだろうか。(後藤隆基/2004.10.22)

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October 20, 2004

三条会 『女の平和』

 古のアテナイの地に戦争の雨が降る。どうにも止まぬに業を煮やした女たちが緊急に会議を開く。リーダーたるリュシストラテは各地から同志を招集、議題は「如何に戦争をやめさせるか」。アリストパネスの『女の平和』とは、男たちのつづける戦争に女たちが性のストライキによって終止符を打たんとするギリシア喜劇である。戯曲、演出、俳優という三条の光柱が舞台に会す。演劇にとって当り前と云えば当り前の、しかしその圧倒的な力強さと魅力で他の追随を許さない三条会が挑んだ最古典劇は、関美能留の演出が炸裂し、本当に「演劇を観た」という手応えを実感できる刺激的な一夜だった。

 もう時代遅れなのだろうか、いわゆる9.11からイラク戦争の頃、世の中を反戦運動が席巻したが、ほとんど裾野にとってデモはパレード、反戦歌は流行歌、言葉は虚ろに懸命な叫びも響けど余韻は残らなかった。古典に対する態度も同様のことが云える。特にギリシア劇などは概念と様式ばかりが先行して取り扱われ、「古典」という名のもと無条件に礼讃されることがままある。海の向こうからの時差を無理に我が身に抱き寄せたところでポーズにとどまり、さりとて今の生活感覚に沿って等身大に縮小すれば事実や物語を歪曲するだけなのである。これは一種の反戦劇でもある作品だけれど、関版『女の平和』は二十一世紀の日本に生きるわたしたちが声を大にして戦争反対を唱える胡散臭さを絶妙に回避し、本質を見事に抽出した上で現代に引きつけられている。しかも、ただわかりやすいだけではない、本当の意味での古典作品を現代に上演する試みが証明されている。

 「目眩く」という言葉がよく似合う舞台には一見、アリストパネスの影も形も消えてしまっているかのようだ。しかしよくよく観ていれば、たしかにアリストパネスの鋭い批判意識と猥雑さが心のあらゆる岸辺に押し寄せてくる。ギリシア、アテナイ、反戦、平和、オリンピック。恐ろしく単純な連想ゲームになってしまったけれど、遊び心沸き立つ祭典に宝石箱のような趣向が凝らされ、大上段に構えることのない反戦劇に仕上げられていた。そこで起こるすべて事は至極シンプル且つ親切なのだった。

 性愛は生活の必要である。男女変わらぬ生命の根幹である。従って我慢にも限界がある。いい加減に困り果ててしまうのだ。しかし、一方的ではない。互いに強いた忍耐の攻防の末、比較的あっさりと男が折れた。結局のところ戦争とは男同士のとったとらない、欲しい嫌だという喧嘩なのであって、単純化すれば殴り合いや「ぐさ」「いて」と刺しつ刺されつする一事に他ならない。男と女の風景も、男の強がりと情けなさに集約される。今日の性意識とのズレを、コミカルな男女模様と性描写によって、心情の上で大いに共感できる、しかし戯曲の風味は損なわない寓話として映しだした。降り止まぬ雨はイメージの連鎖を経て、やがて平和的な解決に向っていく。ピンカートンの帰りを信じて待つ蝶々夫人が歌う、プッチーニは『蝶々夫人』〈ある晴れた日に〉の美しさとともに、立崎真紀子から榊原毅へと移行したリュシストラテの宣言を受けて朝陽の注ぐなか、別れし男女は再びひとつに戻る。それまでの猥雑は静まり、神聖な光に満ちた大団円のフィナーレである。

 三条会は思想とか哲学とか呼ばれるものを、叩いて千切って丸めて捏ねて、しかし決して放り投げない。否、遙か遠くへ投げ飛ばす、ように見せる。行方を追うも視線の先には太陽が輝くばかり、ふと振返れば彼の手に花一輪、姿を変えてそこに在る。浅はかな予測などはまるで信じられぬ角度から裏切られる魔術的演出。BankART1929馬車道ホールの上下、左右、縦横、遠近とあらゆる位相に俳優が配され、すべての場所で同時多発的にそれぞれ登場人物の心情が交差する立体的空間。各場で温度と速度の抑揚が波のように襲いかかり、展開につれ楽しさに拍車がかかる、健康的な衝撃の連続。胸躍り、しみじみとし、笑いが溢れる。知性に富んだ比較の矛先を探せないユーモア感覚。荒唐無稽な哄笑とも昨今流行のナンセンスとも違う上質の喜劇がそこにはあった。もはや単なる古典劇の翻案ではない、紛うことなき現代演劇としての三条会的喜劇である。俳優の汗と唾、肉体の脈動。鍛えあげられた声の交響楽。次々と空間が塗り替えられていく、オリンピック競技300種目を束ねたような躍動を繰り返しながら50分をただならぬ昂奮のうちに駆け抜けた爽快感に、思わず我を忘れてしまった。肩こらず楽しめ、奥深い人生を考えさせてくれる。こうした魅力溢れる演劇を、身体中の全細胞が希求している。(後藤隆基/2004.10.15)

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October 18, 2004

チェーホフ記念モスクワ芸術座 『リア王』(演出:鈴木忠志)

 1984年、「利賀山房」における劇団SCOTの初演以来、世界中で絶賛されてきた鈴木忠志の代表作『リア王』を、ロシアリアリズム演劇の総本山であるモスクワ芸術座が上演する。今10月末のモスクワ芸術座公演に先駆けての静岡初演である。鈴木忠志と芸術座は水と油ではないか、などと素人考えに杞憂してしまったが、起用された劇団の若手俳優たちは馴染みのない演技と身体表現の要求にもかかわらず、流石の力量を見せつけた。日本語字幕はあるものの、ロシア語で語られる台詞に言葉自体の意味伝達性は弱かったけれど、そこは台詞回しで聴かせ、また物語を十分に届け得る身体演技の美しさは刮目に価する。

 親子の生き方の違いが悲劇を呼び、その信頼と愛情が問題化される中にリアの精神錯乱が狂乱にまで高まる『リア王』。鈴木版では病院を舞台に、家族の崩壊によって精神を冒された車椅子の病人(狂人)が主人公となる。男の過去の記憶が『リア王』の物語と重なる。自身がリア王となり、幻想世界の住人として物語を語れば、病院という「現実」と男の住まう「幻想」という二層の劇構造により、そこで演じられる『リア王』は劇中劇として機能する。男の意識がつくりあげた登場人物と実際の病院の医師や看護婦は舞台に同居しながら、互いに気づくことはない。男を媒介にして二つの世界が奇妙な符合を見せ、混沌とした人間の意識を観客に示していた。外界の刺激が内部に与える影響が視覚化されて舞台に立ち現れる。リア王のような孤独と狂気は、誰もの横に寄り添うているのである。明確な意図と徹底した演出のため、尊厳は保たれ、決して浅くならない。そうした二重構造は悲劇的な緊張感に滑稽味と不吉さを与えていた。最終場でヘンデルの「ラールゴ」が音量を上げながら、男の死体を傍に『リア王』を読みつづける看護婦の哄笑響く幕切れの美しさには胸が震える。

 劇全体を通して抑制された表情や動作は、たとえば今なお記憶に新しいシンクロナイズドスイミングのロシア勢に見える豊かな感情表現とは正反対である。表情は殆ど一定に保たれ、足袋を履き、普段の生活ではあり得ない制約を受けながらの演技を要請されている。しかし、たとえば車椅子での脚の動きや、人形の如く直立しながら上半身をつかった振付などに顕著な恵まれた肢体が描く大きな軌跡は、日本人俳優では届かない身体美にも到達していた。細かな所作などにやや未完成はあるにせよ、十分な教育を受けた俳優の力には圧倒される。また、様式美が時に過剰な印象もあったが、稽古により解決される範囲内の問題であろう。リアリズムが写実ではなく「真実」主義であるならば、鈴木忠志の方法論が厳しい規範に基づく特殊な様式であっても、モスクワ芸術座の現代俳優に無理なく浸透するはずなのだ。

 ロシア人俳優の肉体と鈴木忠志の幸福な出会いは、奥床しさと荘厳なスケール漂う舞台を生んだ。白鳥が空を舞うことはないが、大地に根ざした力強く美しい能とバレエの融合とでも云えばいいか、そんな幽玄と華麗の混在する新しい『リア王』の姿がある。鈴木忠志が演出する、物語を貫く悲哀と静かな滑稽はどうやらロシアの民族性とよく似合う。堂々たる「芸術」という呼称を以て何ら遜色のない演劇的舞台の萌芽を見た。今後さらに訓練を積み、俳優たちがスズキ・メソッドを獲得していくとしたら、「スズキ・バレエ」とでも云うべき『リア王』が確立するかも知れない。という考えは少しばかり突飛だろうか。(後藤隆基/2004.10.17)

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