11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

October 15, 2004

演劇集団円 『トラップ・ストリート』

 別役実は難しい。何がといって、戯曲の魅力に拮抗する舞台に出会うことが難しいのだ。職業的劇作家としての地位を確立し、多くの集団に作品を提供している別役だが、上演が戯曲を読んだときのおもしろさを超えることは滅多にない。「作:別役実」という文字をチラシの上に見つけたわたしたちは、そっとほくそ笑みながら、誰にも気づかれぬように肩をすくめざるを得ない。ひとつの理由として、俳優の不在がある。別役文法は俳優を選ぶ。それも技術などではなく彼(彼女)の生理をだ。「その人である」ことが、必要絶対条件であるにもかかわらず、「その人」は決して多くないという悲しさ。

 別役戯曲は、状況設定もさることながら台詞の妙に勘所がある。言語レベルで抑制と激昂のバランスが保たれ、〈場〉の静けさと相まって独特の「おかしみ」を醸す。それを舞台上で体現するのはどうやら至難の業のようなのだが、その点、新作『トラップ・ストリート』を書き下ろした演劇集団円は戯曲を危なげなく処理し、戯曲にプラスアルファの楽しさを付加することに成功していた。その中心にいるのが、岸田今日子、三谷昇の二人である。岸田と三谷はまるでタイプの異なる俳優だけれど、別役芝居の登場人物に欠かせない静謐な「タタズマイ」をもっている。三谷昇の老人像は悟達した穏やかさが滑稽を生み、岸田今日子はもはや年齢を超越した色香と、異質さを標準に変えてしまう妖女の魅力を備えている。『トラップ・ストリート』におけるそうした二人の「タタズマイ」は、年齢を重ねた男優と女優の或る到達点を感じさせる好演だった。

 表題の「トラップ・ストリート」とは戯曲のト書きによれば「地図製作者がコピーされることを防ぐために、原図に秘かに書き入れておく偽の街路のこと。当然ながら、人がめったに入りこんでこない袋小路の奥などに、さりげなく隠されている」わけだが、そこに図らずも足を踏み入れてしまった男が、あるはずのない道を地図に書き込んだ女と出会う話。時空間と人間関係の歪んでいく様は圧巻で、自分は「メディア」なのだという女2を病院に入れようと画策する、岸田演じる女1だけが強烈な存在感とともに息づいている。しかし、彼女以外の人物が抱える違和感が、実は精神を病んでいるのは女1であったと転換するのをきっかけにガラリと位相を変える。一瞬で劇世界が転倒し、女1だけが異常な世界にいること、そして、場に対してちぐはぐなその他の人物が極普通の市民なのだと思わされるのである。さりげなさのうちに劇的展開がそっと仕組まれている。とはいえ、「妻を裏切り家を出た夫に復讐するために、我が子二人をその手で殺めた」という壮絶なギリシア悲劇『メディア』を素材にとりながら、ぼんやりとした、何とも奇妙な手触りがじわじわと浸透してくる舞台だった。

 幕切れ近く、「私がメディアである」と舞台から去る女1の後を全員が追い、男1と男3だけが残される。「何があったんです……?」と訊ねる男1に対し、男3が「何もなかったのさ……」とだけ呟く。すると周囲の舞台装置が片づけられ、舞台は無性格な空間に変容していく。そこは地図に記された単なる道で、どこでもない、「ただ通りかかっただけ」の場所。地図上の嘘に迷い込んだ男はもう帰れない。おぼろげに再度現れ、白いパラソルで月光を避ける岸田が「私は、メディア……」と夢のように語れば、存在するはずのない場所だけが存在を示す。

 終演後、果たして今の時間は、この芝居は何だったのかという思いに駆られた。内容の理解云々ではない。自分の身にさえこの90分間には何も起こらなかったのではないかという不安がつきまとう。たまたま通りがかった、内容自体がないような世界。そんな不思議な感覚に戸惑う観客は、もしかすると「トラップ・ストリート」に迷い込んだ一人なのかも知れない。(後藤隆基/2004.10.14)

Posted by : 03:34 AM | Comments (0) | Trackback

October 14, 2004

新国立劇場 THE LOFT Ⅰ 『胎内』(演出:栗山民也)

 新国立劇場〈演劇〉芸術監督である栗山民也からの「THE LOFT」という提案は、小劇場「THE PIT」をさらに縮小し、客席に挟まれる形で劇場中央に設置された小空間の創造。三好十郎『胎内』を皮切りに、『ヒトノカケラ』『二人の女兵士の物語』と、このところの栗山の仕事の根幹ともいえる「時代と記憶」という鍵言葉に沿った作品が上演される。御上のお膝元で行政と個人の演劇的欲求を統括してみせる、意欲的な活動の一環でもある。

 『胎内』の舞台となる、戦中に本土決戦に備え大地に無計画に掘られた洞窟は戦争そのものでもあった。そこに迷い込み、徐々に虚飾をはがれ生一本の精神と肉体をさらけ出していく三人の姿は、戦後責任への問いかけにもつながろう。自分たちのしたことに戻る、それが意図的であってもなくても、闇雲に駆け抜けた過去に立ち帰り、己のものとして見つめることから、「人間」としての再生がはじまる。極限の果てに死を示唆される幕切れ。母胎に帰ることで日本人―人間がもう一度生れなおす物語なのだった。

 上演に際し、栗山から『胎内』という作品に込められた願いがある。「THE LOFT」そのものを「胎内」に見立て、空間と演劇の関係性を再構築する。身体と言語の交流など殊更強調するまでもない常套句だけれど、作品の主題を覆う、題名にも示されるように霊的な防空壕を磁場にした原初的な人間存在と、言葉による濃密な舞台の追求を念頭においていた。

 にもかかわらず、舞台との間に感じた距離には劇場に仕組まれたはずの「胎内」感覚の欠如を思わずにいられない。「胎内」の言葉から単純に連想する内包感、肉感性は稀薄で、それは舞台演出にさえもやや洗練されすぎていた。各台詞は緊密に処理されるけれど、息づかいや肉感までも肌で見聞きするまでには至らない。そこでは「胎内」に観客が入ることは歓迎されず、傍観者としての立場を余儀なくされる。共犯者としてその場に居ることができない。ときに露骨な性的描写を気恥かしくも感じてしまったのは、筆者の小心だけが原因ではないだろう。粘着質の暴力性が目を惹く千葉哲也、おきゃんと艶の同居が魅力的な秋山菜津子、淡々としかし誠実な演技を見せた壇臣幸ら俳優陣は、肉体と精神の飢餓が牽引する狂気を熱演したが、その体温が客席にまで届かない。どこか冷静を保つ劇場は未完成の感も拭えず、観客と舞台が一体化することないまま幕は下りた。母胎の外側に置き去りにされたわたしたちは、登場人物の狂気と正気がせめぎ合う様をすら、ただ茫と眺めているほかに術がないのである。また三好十郎の硬質な言葉と生と死をめぐる重厚な観念―人生哲学に重きが置かれたためか、或いは空間上の問題もあってか、戯曲に見えるような、空気にすっと刃をひけばぬらっと血の滲みそうな頽廃的な生々しさが感じられなかったのが残念だ。(後藤隆基/2004.10.13)

Posted by : 02:02 AM | Comments (0) | Trackback

October 02, 2004

世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』

 シェイクスピアには「普遍性」があるのだという。すぐれた古典作品が漏れず有するものだという。時代によらず常に「いま」を生きる人びとの共感できる心情があって、多く人が「本質」と呼ぶのがそれだろうか。シェイクスピアは世界でおそらく最も名の知られた劇作家。古今東西の劇場で、書斎で、学校で、「シェイクスピア」の読解が昼夜行われている。日本とて例外ではなく、上演、翻訳、研究は止まることを知らない。新解釈、新訳が次々と産み落とされ、また今日も「新しい」シェイクスピアが世田谷パブリックシアターに産声を上げた。母たるは四大悲劇の一『リア王』。彼女を孕ませた父親はこれも名高き佐藤信である。

 『リア王の悲劇』という劇がある。「古典作品の現代化」を眼目とした主演俳優と演出家に、リア王は居酒屋のオッサンにたとえられた。だからわたしたちにも彼の気持がわかるのだそうだ。リア王の苦悩が「俺の問題だ」と思えるのだそうだ。しかし果たして本当にリア王は居酒屋のオッサンなのか。いや、そういうことではないというのはわかるけれど、もしもリア王とオッサンを同じ位置に並べて古典の現代化を歌いあげるならば、これは喜劇である。リア王という大なるものを居酒屋でくだを巻く小なるオッサンにおとしめ、小さき中年男性を巨大な一国の王と比肩させる。従って『リア王』の「悲劇」はパロディとユーモアのきらめくべき「喜劇」となりうる。しかしならなかった。これは『リア王の悲劇』なのだ。実際、舞台には当然ながら居酒屋の風景などでてこない。くるはずもない。

 「共感」と「等身大」、二つの鍵言葉から導き出された「ぼく(わたし)にもできる」という誤解はプロフェッショナルとアマチュアの境界を曇らせる。誰もがはじめは素人、それは当り前だけれど、自らを「プロ」と誤認したアマチュアがプロフェッショナルとして成立してしまう昨今の情勢は憂慮して然るべきものがある。と、訳知り顔にくどくど遠回りして何を云いたいのか。つまり、物語を自分たちの「身の丈」に合せることで古典作品を「現代化」するという論理は一見理解しやすそうに見えて、その実、原寸のスケールを甚だしく縮小してしまう危険も孕んでいる。石橋蓮司のリア王とて然りである。決して古典を現代に引きつける方法論の模索を否定するものではないし、むしろ心情は逆なのだけれども、「わかりやすく」することがどこまで「古典」の風味を保ちうるかは疑問だ。その点に於いて、演出家の視線はどうもシェイクスピアを上演することそのものに釘打たれ、出来上がった『リア王の悲劇』は斯く云われる「普遍性」とやらの誤解によって積み上げられた舞台にしか見えなかった、とは言い過ぎだろうか。先達て静岡グランシップで上演された『夢の浮橋』を、一年がかりで『源氏物語』を通読した結果の新解釈と宣うた佐藤はここでまた同じ失敗を犯してはいないか。「古典」という力に満ちた物語がある。「現代」という間口の広がった表現方法がある。『源氏物語』にしても同様、シェイクスピアは都合のいい実験材料になるのかもしれない。しかし実験に付合される観客こそいい面の皮である。観客は完成された商品を求めるのであって、フラスコに揺れる怪しげな液体を買うのではないのだ。

 シェイクスピアには昼下りのテレビに映る「愛の劇場」がある。ゴシップがあり、遺産争いがあり、それらを包み込む目眩く台詞群がある。シェイクスピアのそうしたサーカスのような人間模様と佐藤信のアジア的な猥雑がどのように結びつくかに期待はあったが、幕切れ近い立ち回りにわずか横顔を覗かせたものの、あとはワダエミや東儀秀樹の趣向かと見紛う衣装と音楽がそれぞれにそれらしさを醸すに止まった。(後藤隆基/2004.10.01)

*『夢の浮橋』に関して、「『源氏物語』をひと月かけて読破」との記述は、佐藤氏ご本人の御指摘がありましたように、筆者の間違いでした。深くお詫びの上、訂正致します。以後はこのようなことのない様、十分に注意致します。

Posted by : 03:48 AM | Comments (2) | Trackback

September 29, 2004

青年劇場 『夜の笑い』

「再演」の意味を問う

 青年劇場創立40周年と飯沢匡没後10周年を記念して、紀伊國屋サザンシアターで『夜の笑い』が上演された。前世紀の忠義や「御国のため」という絶対的な標語の下に否定される命の価値を批判的に再現してみせたものの、結局のところ、戯曲の力に大いに助けられた公演だった。

 「授業中に餡パンくったら死刑!?」という惹句に内容はほぼ集約されるだろう。島尾敏雄の小説『接触』を原作に飯沢匡が筆を振った快作で、かつてあった一時代の現実を不条理劇に見立て、変わらぬ国の論理の危うさに言及する。『夜の笑い』は「ブラック・ユーモア」に通ずる。そうして描かれた歪んだ世界のおもしろさに対し、要所要所で演出の不徹底が目についた。

 たとえば「死」を前にした子供らの明るさ。校則を破ったのだから、士族の名に恥じぬよう自決を潔しとする志。しかし彼らは「死」が一体どういうものかを理解しておらず、単純な名誉と忠義心によって支えられている。明け方、一番鶏とともに死が眼前に迫る。生徒はその恐ろしさを知る。単に天晴れ軍人の型を演じせしめなかったところに飯沢の望みがある。そこに「御国のため」という物語を背負って死すら厭わなかった若き特攻の「侍」たちの姿を連想し、また若者の純心を利用せし学徒出陣の罪を問うことは容易いけれど、根底を流れるのは「笑いは武器になる」という精神である。終始無邪気に教師と相対し、自決までの時間を子供らしく演じなければならない。それがあって、いよいよとなった際の「おら急に死ぬっとん恐ろしゅうなってきたばい」が生きるのだ。にもかかわらず、五人いる生徒の人物造詣が真面目一辺倒で画一的だったためか、少年の心境の変化が舞台に立ち現れなかった。また、死を命じられた生徒の一人、細川の嫁、いよが夫を助けるべく学校に乗り込んでくるわけだけれど、その無学な娘が学校制度の曖昧な論理を、極めて「論理的」に看破していく様の滑稽味が物足りない。全体に芝居がかった台詞回しと声の強さで押しきった印象は拭えないし、リアリズムを貫いた生真面目さが、肝心の「笑い」を抑える皮肉に陥ってしまった。

 紀伊國屋演劇賞をはじめ多くの賞を浚った初演は1978年、四半世紀前である。1987年の再演を経、今回再再演となる。初演、再演ともに指揮棒を執った飯沢匡はすでになく、劇団の古株、松波喬介がコンダクターとなった。劇団の代表作とも云える作品だけれど、今回は単に記念碑的上演でしかなかった。戯曲は秀作、しかし舞台は戯曲紹介の場ではないし、追悼の気持と追従とはまるで違う。過去の好評と戯曲の出来にのみ寄りかかった「再演」は、決して新しい舞台の魅力を伝えはしない。再演に足る作品を持つことは劇団にとって本当に心強かろう。けれども、二度三度と上演しつづけるならばそのときどきの工夫があってしかるべき。もしも今回の「正攻法」だけがそうだというならば、あまりに単純すぎる。どんなにすばらしい戯曲でも却ってその面白みを損なってしまうのでは悲しすぎる。出来のいい戯曲を使い回すのが再演ではないという、周知ではあれどこの一事にもう一度思いをめぐらしてもよいのではと思うのだ。(後藤隆基/2004.9.28)

Posted by : 03:12 AM | Comments (0) | Trackback
 1  |  2  |  3  |  4  | 5 |  6  |  7  | all pages