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September 17, 2004

reset-N 『reset-Nの火星年代記』

 横浜STスポットの主催する「劇場武装都市宣言 スパーキング21 vol.15」特別企画公演の先頭を切ったreset-Nによる『reset-Nの火星年代記』は、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』(小笠原豊樹訳)の「戯曲化」をめざした作品である。外題に「reset-Nの」と表記される以上は「原作」への戦術が期待されたが、小説自身の強い問題意識と豊かな詩情に比べて、新たな発見なり批評なりが付加されることなく、些か低調な印象が残る仕上がりだった。とはいえ、私たちが生きる世界での「時間」とは何かという問題に対する、ひとつの見解を示していたように思われる。 

 1999年、アンゴルモアの大王はやって来なかったし、2003年、アトムは生れなかった。奇しくも『鉄腕アトム』と時代を近くして書かれた『火星年代記』は一言で言えば、地球人が火星に浸食することで、火星人が滅びていくという話。数多存在する他の「SF・近未来もの」と同様、予測され、夢想された「未来」を描いている。今日から眺めれば、『火星年代記』の地球及び火星とは生れなかった赤子であり、或る地点から枝分かれしたもう一つの現在でもある。舞台化の過程で多くの「時間」が切り落とされてはいたが、絶対的な「2004年9月16日」という標準時に立っていることは、外された「もう一つの2004年」にも明らかである。物語時間の翌2005年、つまり「来年」、全世界を巻き込んだ核戦争が勃発する。2004年という現在時間を、状況が転換する境界として捉えた。1946年の「過去から見た未来」と「実際の現在」との間に焦点化される時差を一つの契機として、「現在形の未来」とでも云うべき舞台空間をつくろうという試みだった。
 そうした「現在」の感覚を象徴的に訴えるのが、舞台として設定された、現代の、恐らくリゾ-トホテルの一角にあるようなプールサイドである。「場」が提示する「現在」は二つの異なる次元に属する「21世紀」を同一の時間系列につなぐ。

 劇場には開幕前から陽気なレゲエなどの音楽がかかり、薄暗い煉瓦造りの場内も相まって、都心のクラブの如き空気も醸し出していた。すでに舞台に現れていた水着の俳優陣が日光浴や読書、歓談に興じる様は恰も「南国のリゾートホテル」とでもいった風情であり、「現在」の世界(日本)を思わせるに十分である。客席をプールに見立てる趣向は、「水」を契約とした異界への窓ともなる(幕切れの、火星人が運河越しにこちらを見ているという描写にも生きる)けれど、水中の観客から見上げるプールサイドの優雅な光景は、地球から見た火星への憧憬と見ることも可能だ。しかし、非日常空間としての火星=プールサイドという描き方は、たとえ彼らがどんなにそこを「楽園」と呼ぶとしても、「理想土地」は人の手で濁せられ「リゾート地」と化すという自明の主張でしかなかった。

 それらの題目が「演劇」に変換される際、火星に関わるような舞台装置は一切用いられず、台詞(というよりテキストそのもの)によって支えられる舞台は、地の文と台詞部分を役割分担した一種の「朗読劇」だった。ぶつ切りに、殆ど小説を順序立てて追っていく。ただ並列されるそれぞれの状況が、編年体で淡々と叙述されていく。その意味で、火星の「年代記」であること以上の付加価値は見いだせなかった。地球環境、世界情勢への警告もごもっともだし、当然作品の主題の大部分を占めるのだけれど、山場の殆どに「お説教」めいたモノローグがお約束のように配置されるだけでは、行き着く先は何のことはない、レイ・ブラッドベリの「言葉」を借りた「環境保護宣言」としてしか成立しないのではないか。夏井は宣伝文に「レイ・ブラッドベリが書いた『火星年代記』の美しさは何でしょうか。壮大な物語に秘められた深い内省を舞台に乗せたい」と書いていた。たしかに音楽や照明、構成に或る静謐さは感じられたものの、美しい何ものかは感じることができなかったことも事実である。

 総じて、原作を忠実に構成しながら、「火星」という星の美しさにまで届かなかった難はあったし、火星人の「想像」「暗示」「催眠」といった能力への言及欠如も悔やまれる。それらは殆ど「演劇」に対する問題提起でもあったのに。また、舞台上での時間の操作にもう少し気を配ってもいい。挿話の長短はあれ、同じパルスでの2時間は、流石に飽いてしまう観客もいるだろう。あれだけの音響、音楽への配慮があり、かつ人気も世評も決して低くない劇団なのだから(実際、場内はほぼ満員だった)、さらなる「演劇」としての「想像力」が求められる。それこそ、「火星人」を手本として、である。

 蛇足ながら、開幕前の光景は、男優と女優(男と女)の違いをあからさまに示す興味深い一場面であった。男女ともにプールサイドで過ごす「普通」の状態を「演じ」ているわけだが、如何に男が「見られる」ことに不器用かがよくわかる。水着という無防備な状況だったにしろ、男とは主体的に場にあろうとする。「見せる」という「過剰」な意識以て演技を成立させる。一方、女は自らを客体化でき、「そこにいる」という状態に軽々と移行できる。日常生活の中で常に「被視」意識を持続して保ち得る女性が、板の上でのこうしたたたずまいを身につけていることは、「演技」と「生活」というものが不可分であることの一つの証明ではないかとさえ思えるのだ。

 ともあれ、一夜の舞台に現れた火星人たちを思い返し、原作を読み返してみることで、改めてreset-N のめざした「美しいもの」が見えるかも知れない。(後藤隆基/2004.09.16)

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September 11, 2004

文学座アトリエの会 『TERRA NOVA』

 文学座のアトリエ公演として、『羊たちの沈黙』でアカデミー賞脚本賞を受賞したテッド・タリーによる戯曲『TERRA NOVA』が、座内の新鋭、高橋正徳の演出で上演されている。外部作家への執筆依頼など、「新劇」という枠内で実験的な試みを展開するアトリエの会だが、今回は劇団内での演出プランコンペで選ばれたという企画。26歳の若手演出家と経験豊富な俳優陣という顔合せが、すでに話題を呼んでいた。

 『TERRA NOVA』は、アムンゼン率いるノルウェー隊とスコット大佐の英国隊が南極点初到達を競った、男たちの物語である。表題はスコット隊が南極に向かった船の名で、「新しい大地」の意。アムンゼンに先を越されたスコットらが極寒の地で遭難、死を迎えるまでが描かれており、極限の状況下での人の誇りと苦悩を問う。

 劇はスコットが日誌に「報告」を記しているところから幕を開ける。劇中の出来事は、すべてスコットが死の間際に出会った意識の奔流であり、その地点からの回顧を含んだ幻想が、たたみかけるように襲いかかる。常に示唆されつづけるのは、二者のうち一方だけが目的達成の名誉を得られる「競争」と、南極探検への参加から生死まで、求心化されるそれぞれの「選択」という問題。二者択一、二進法の現実に、制約のない「夢」がオーロラの光に乗せてあらゆる角度から侵入してくる劇構造は秀作といえるだろう。また、メフィストフェレスのようにスコットのまわりを徘徊するアムンゼンの影は、「紳士を犬の如く」扱ったアムンゼンと、「犬を紳士の如く」扱ったスコットが、実は表裏一体であることを示していた。『TERRA NOVA』とは、果てのない南極と一人の人間を対比させ、「回想記」という形式をとることで、一つの人生における様々な葛藤を描いた物語だったともいえる。

 この芝居を上記のように考えるとき、高橋の演出はスコットに収束すべき約束事を、分散させがちだったように見受けられる。彼の手つきは現代風ながら、恐らく重点を「対話」に置いていたと察せられるあたり、岸田国士らの提唱した「聴かせる芝居」を継承する「文学座らしさ」に好感が持てた。また、作品の選択にも、自ら「新しい大地」を開拓せんとする意欲が感じられる。しかし、全体として冗漫な印象は否めない。俳優の「身の丈」と合わない舞台のサイズもあってか、氷原を表現した純白の舞台は時に白々しい。2時間45分という長い上演時間(いまではそう珍しくもないが)に、リズムの単調が目立てば、演劇的振幅の稀薄という誹りは免れまい。とはいえ、台詞のやりとり、人間関係の構築における瞬間々々の密度は濃く、部分の描写に巧さがある。混在する時・空間の処理に難はありながら、対話によって「演劇」を成立させようという意思とともに、戯曲に対して真摯に真っ直ぐに取り組む姿勢が窺えた。

 戌井市郎、鵜山仁、高瀬久男、松本祐子など、内外で活躍めざましい好演出家を多く抱える文学座にあって、こうした新しい才能の抜擢は好ましいことだ。ここ数年、「新劇」の諸劇団が続々と創立から凡そ半世紀を迎えている。先達の志が果たしてどのように受け継がれてきているのか。伝統が伝統として単に習慣化されてしまってはいないか。歴史に甘んじることなく、「新しい劇」の模索をこそ追求するべきであって、いま、そのひとつの成果が問われている。などと訳知り顔に云わずもがなではあるけれど、新劇界を見渡して、否、日本の劇壇全体が、たしかにある転換期にさしかかっているように思われるのだ。そんな中、高橋は先輩俳優の胸を借りて、経験値不足は拭えないまでも、堂々たる「楷書」の舞台をつくりあげた。今後も、訓練された熟練の俳優が身近にあることの幸運を、存分に生かしてもらいたい。そして、楷書ばかりでなく時には草書も観たい。世にはくずし字ならぬ「崩れ字」や「丸文字」が、果てには「記号」までも横行しているが、正確な楷書が書けなければ、美しさを保ったまま字体をくずすことは叶わぬ。新しさは新しさそのものに価値があるのではない。しかし、一つの方法論を愚直なまでにどこまでも掘り進めることで芋蔓式に多くの収穫を得られるというのは、自明のようで難しい。

 新劇とは、対話によってその山場がつくられる演劇。と云ったのは井上ひさしである。筆者などは、演劇は言葉であり、人の「声」を聴きたいのだなどと安直に考えているから、台詞を語り、対話でぐいぐい劇世界を広げることで成立する新劇には、まだまだ開墾の余地ありと思っている。それに加え、『TERRA NOVA』のように、どこか破綻を伴う筆記法にも工夫を凝らし、「聴かせる」だけでなく、「見せる」芝居づくりが求められる。結果として、今公演では未踏の地平を切り開く可能性を示す極点には到達できなかったが、文学座の文学座たるところを見せたという点で、ひとまず及第といっていいだろう。(後藤隆基/2004.09.09)

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August 16, 2004

毬谷友子 語り芝居 『宮城野』

 その声は忍びやかに空間を支配する。無邪気な妖艶が切れ長の瞳と毒をも含んだ唇から漏れ出る。吐息が言葉を生み、息が命から生まれる。言葉の火が「演劇」を照らす標であるならば、劇場という暗がりに点された灯は毬谷友子その人である。

 『弥々』につづく語り芝居第二弾として毬谷が選んだのが、一九六六年に父、矢代静一が書いた『宮城野』。登場人物は女郎の宮城野と、馴染みの一番客である絵師、矢太郎の二人で、矢太郎の師、東洲斎写楽殺害の実相をめぐる会話の中に、互いの心の虚と実が巧みに編みあげられた緊密な対話劇である。と同時に宮城野の語りによって物語が展開する一人芝居でもあった。「言葉」による演劇の魅力を十分に発揮し、小空間での「語り芝居」にうってつけの題材。およそ一時間強の上演時間で一種のどんでん返しの起こる構成も見事であり、まずは戯曲ありきという前提のある上は、戯曲の力をいかに「声」と「言葉」において表現しうるかが企画の主眼となるだろう。そしてその試みはひとまず成功していたといっていい。

 彼女が姿を現した瞬間から、劇場はすでに彼女のものになっていた。香りたつ白粉は色街の座敷へと誘う。何か恥じらいのようなものを身にまとい、行燈の灯りの下、やや俯き加減の項からすっと口角を持ちあげて少し媚びるように見上げた先、虚空に相対する男の姿を描き出す。傍には矢太郎を演じる俳優(大鷹明良)も当然いるのだが、宮城野の心に宿る男の姿は遠くにいた。

 言葉の一挙手一投足に、笑う、仰け反る。眉をひそめ、瞳が曇る。愛する男のために騙りつづけた自分の過去、男への思い。それらすべてが裏切られ、幼気な童女のような半開きの口元から、決して恨み言でない本音が響くとき、その歌は何よりも彼女が彼女であることを表現する。矢太郎のためについた「嘘」は嘘をつけないからこその「嘘」。戯曲にはない、毬谷自身の作曲による歌は、宮城野が愛した男たちへの恋文でさえあった。誰もがどうしようもなく抗えない人間の業。宮城野は魔性と俗性にまみれながら、その無知と無邪気なる純粋は気高く、我が身を犠牲にして、いわば無償の愛を体現する聖女ともなる。生の辛苦悲哀を笑顔に変えてみせる女の姿は矢代作品のひとつの特徴でもあるが、『宮城野』はそうした意味でも『弥々』の源流にいる女性といえる。

 劇作家、矢代静一の描く、聖性と魔性を同時に兼ね備えたヒロインが現世界にそっと障子一枚、隣の部屋から入ってきた。それが毬谷友子である。その純度の高い「女」という結晶は、童女でありながら老女であり、聖母でありながら娼婦である。その幼子のような純粋は、純粋であるが故に、演技を超えて、そこに居る「女」で在ろうとしつづける。純粋過ぎるが故に、強さは危うさと背中合せであり、零れる涙は自分を抑えに抑えこんだ果ての掬いようもない魂の雫である。

 空気を通して伝わる身体的感触の生々しさにもかかわらず、その夢のような存在感は幼児性と妖艶の二面性を示す。「知性」「痴性」「稚性」。父の唱えた芸術家に必要な三種の「チ性」は間違いなく娘に宿り、そのすべてを形成している。誤解を恐れずに言えば、「一卵性親子」と云うほど仲がよかった父の作品を演じるとき、毬谷友子は明らかに他の作品の毬谷友子とは異なる姿を見せる。作品を通して、父と、また自分自身と出会い直す苦行を強いているように。往ける処まで内面を掘りさげ、湧水の源泉を探して、水底の砂を掴み浮かびあがる。その潜水と浮上の過程が描く軌跡こそが女優としての毬谷友子という生き様なのではないか。 (後藤隆基/2004.08.15)

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燐光群 『だるまさんがころんだ』

創作という冒険の道行 

 坂手洋二という才能は常に歩いている。「現実」の道を踏み外すことなく、自身が現代を生きている、極めて強い自覚を肌身離さずに歩いている。彼は自己模倣を嫌悪する。予定調和を拒否する。貪欲に演劇表現を追求し、常に現行の「坂手洋二」で在り続けようとする姿勢は、作品においても、その創作過程においても貫かれている。

 坂手洋二は、今のそして少し先にあるものを捉える、敏感な社会的な眼を持った劇作家である。その手法は、たとえば評伝劇を確立した井上ひさしと同様の影響を後続に与えたともいえなくはない。

 近年の劇作の特徴として、坂手は現代社会が抱える問題に基づいた或る一つのキーワードをもとに、そこにまつわるあらゆる事象を吹き寄せにしてみせる。一見それぞれが孤立して見える世界が、実はひとつの輪であることに気づかせる。『だるまさんがころんだ』で言えば「地雷」。しかし、独断の大薙刀を振るって言えば、主題が「地雷」であることにそれほどの大きな意味はない。「素材としての地雷」というならば別としても。彼の意識は「社会派」と括られるのを自らはねのける如く、題材が如何に演劇として成立し、且つ表現が演劇でなければならないのか。それに終始している。何をモチーフとするかは入り口でしかなく、その後の処理如何で綺羅星にも塵芥にもなる。

 今回の「地雷」の選択は、坂手洋二自身が世界とつながろうとする意思表示そのものなのであり、そこに関わるすべての人びとが「演劇」を通してある種の共同性を獲得することに他ならない。もちろんそのすべてが、9.11以後の世界情勢や、地雷という申し子が眠りのうちに牙を研いでいたすべての戦争の上、「現代社会の構成員としての私たち」という立地点にあることが前提なのである。

 『だるまさんがころんだ』は、ここ数年の坂手洋二、燐光群の創作活動のひとつの達成であったといえる。たとえば坂手は『屋根裏』から、十分から十五分ほどの短い場面をつないで一つの大きな物語を完成させるという手法に可能性を見出しているようだ。コマーシャルの挿入が度重なるテレビに慣らされてしまった現代において、短時間のシーンを暗転でつなぐ劇時間の処理は有効に作用する。「笑い」への意識的作業も『屋根裏』以降の産物である。

 時空の広がりは海外に及び、挿話も自立した意味を持つようになった。ラップ調の口上で地雷を売り歩く死せる武器商人は、多用される「専門用語」や坂手の硬質な劇言語と拮抗し、独自の文体を紡ぎだす。また今回の収穫としては非現実の領域にもう一歩足を踏み入れた点があろう。地雷敷地対の兄弟や地雷製作に従事する男の娘、地雷を食べる巨大トカゲなど、死者と生者との共生がより顕著となり、現実と非現実の柔らかな境界が異界への出入口を自在に広げる。ただ、個々の挿話の完成度は高いけれど、それらが一つの物語として大きな影を落とさない。世界観を広げるあまり、収集が難しいという一点が、今後の課題となるのではないだろうか。

 小さな「挿話」という個人が集合してある形態を形成する。物語の中心に据えられる「家族」は最小限の共同体としてのモデルである。登場人物のそれぞれが集団のうちに生きている。地雷と一人で戦うヒロインの女(宮島千栄)がすべての登場人物と各国語で「だるまさんがころんだ」を遊ぶ。あらゆる種類の人間の共生という可能性を追うこの物語は、今失われつつある人間性の回復を眼中においてはいないか。

 思えば、無差別に不特定の人間を破壊する「地雷」と「通り魔殺人」を重ねた意図もそこにあった。作家の技法が彼の思想を体現するならば、まさに「創作」という冒険を通じて最小限の「劇団」単位から世界へ向けて発信されるメッセージが、ここにはある。(後藤隆基/2004.08.15 )

Posted by : 03:29 AM | Comments (0) | Trackback
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