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October 22, 2005

二兎社 『 歌わせたい男たち 』


最初に書き下ろした劇評からの脱皮を何度も試みた。くり返せばくり返すほど、戯曲に引きずられる運動から逃れられなくなった。今が潮時と妥協して、脱稿することにした。

●〝もしも〟この劇評に興味を抱いたなら…
 観劇前に読むことは勧めません。観劇後に読んで、見方がどう違うのか、比較していただけると、幸いです。さらに、その結果を「コメント」していただけると、お互いにとって、批評眼を鍛えることになるかと想います。欲ばりではありますが。。。


「あなたは卒業式で君が代を歌えますか」。

愚問である、歌う人にとっては。苦悶である、歌わない人にとっては―。

君が代を通して〝原因を憂えず、結果を憂う〟日本人像を活写した『歌わせたい男たち』が、ベニサン・ピットで上演されている。

ある都立高校の卒業式。その直前に、元シャンソン歌手で音楽講師の仲ミチルが眩暈(めまい)を起こす。ミチルが国歌を伴奏するのかしないのか、観客の気を惹きながら、物語は展開する。「眼鏡」と「シャンソン」が随所に場面を引き立てる。

眩暈(めまい)がした時にコンタクト・レンズを落としたミチルは、譜面が読めなくなったので、以前、眼鏡をかけさせてもらったことのある社会科教員・拝島則彦(はいじま・のりひこ)から借りることを想いつく。ところが、拝島は君が代の伴奏に眼鏡を使うのなら貸さない、と拒絶する。この決心が後にシャンソンとの相乗効果をもたらす。

傑作だったのは、校長の「内心」だ。ミチルが本心は国歌の伴奏をしたくないのでは、と疑心暗鬼の塊になる。校長が内心の自由を尊重した過去の文章をビラにされても、あっさりと「前言」を翻す。挙げ句の果てには「もし一人でも不起立者が出たら、ここから飛び降りる」と、校舎の屋上から叫ぶ。内心と「外心」は違う、という裁判所感覚が校長の内心を支える。

この反面教師の見本のような校長が〝教育〟を支配し、不起立者を逆に反面教師の「好例」にして、孤立化に追い込む。その過程を校長は教育「改革」と呼ぶ。その内実は、郵政民営化という「改革」に反対した議員を、造反議員に仕立てる構図と重なる。

最後の局面で、屋上から飛び降りると開き直った校長の「宣言」に、たった一人で不起立を貫こうとした拝島は、選択の自由を奪われる。どっちつかずだったミチルは、拝島の心情を察して、何度頼まれても拒んでいたシャンソンを歌い始める。シャンソンの底流には「反権力の、レジスタンスの魂が流れている」。

ミチルが「どこかけだるく、しかも甘く」歌い出すと、拝島は眼鏡をそっとテーブルの上に置いて姿を消した。心のぬくもりと悲哀を覚えた瞬間だった。


《公演情報》

◇二兎社 『 歌わせたい男たち 』
 ・作/演出:永井愛
 ・出演者:戸田恵子、大谷亮介、小山萌子、中上雅巳、近藤芳正
 ・劇場:ベニサン・ピット (東京都江東区)
 ・上演時間:約1時間50分
 ・公演期間:2005年10月08日-11月13日

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September 18, 2005

ユニークポイント 『脈拍のリズム』

結末に対する私自身の疑問をどう解消するか、で悩んだ作品だった。重いテーマではありつつも、人間の存在の不思議さについて沈思させた。布石の打ち方が巧妙な戯曲と、被害者の父親を演じた山路誠の演技を評価したい。



できるものなら、現実を直視するのは避けたい。偶然なのか、あるいは必然なのか、その瞬間は不意に訪れる。

後輩夫婦に預けていた娘が、交通事故に遭遇(そうぐう)する。娘は帰らぬ人になった。ある日、突然、被害者となった両親の生き地獄は、この瞬間から始まる。
娘が目の前からいなくなった、という現実をどう受け止めればよいのか。思考はその現実の前で立ち止まる。感情は行き場を失う。罪のない被害者が苦しむという不条理が、現実味を帯びて展開する。

自責の念が突如、襲う。あの時、こうしていたら、という想い。妻が、結婚は間違いだったと言い出して、思いやるはずの夫婦にも気持ちのズレ、が生じる。この、重いことばのやりとりを2人の俳優はリアルに演じた。顔の表情、声の調子、しぐさ。感情の起伏と機微が活写されて、やり切れない想いが私の中で何度もこみ上げてきた。

今、自分はなぜ存在しているのか。突き詰めた思考の果てに訪れる疑問。運命、のひと言では何も解決しない。ここでも行き詰まってしまう。

考えても考えても、出口にはたどり着けない。突然、感情が重みに耐え切れなくなる。現実への直視が再開される―。周到な布石と精緻な描写による、終わることのない日常が的確に構築されている。

唯一、物語の結末に良い意味での疑問が募った。

最後の場面で、間接的に娘の死に関わった後輩夫婦が、引越してしまった先輩の家に移り住む。この行動が不自然に映った。むしろ、先輩との関わりを避けたいと願うのが、後輩の心情だと察するからだ。

妻が強く望むので、後輩はやむを得ず引越に同意したという理由が、その後に明らかにされる。なぜ、彼女は強硬だったのか。その背景には、ぬいぐるみを使って、先輩の娘が道路に飛び出すように仕組んだという事情があった。妻が3度、流産しているというのが、その動機である。

舞台では明示されなかったので、ここからは推測になるが、妻に後悔の念が生じて、罪悪感を背負って生きていく、という意味で、引越を決意したようだった。

この仮定が正しいとしたなら、妻が罪悪感を持って生き続ける、という行為が、果たして現代的で現実的であるかどうか、疑問に想えるが、流産をくり返した妻のトラウマが事故につながった、というだけの結末より、魔が差すといった人間の予期せぬ行為を盛り込んだ結末のほうが好ましいように実感した。

(敬称略) 【観劇日:14日(初日)、座席:2列目中央】

山関英人 記者)


《公演情報》

◇ユニークポイント 『脈拍のリズム』
 ・作/演出:山田裕幸
 ・下北沢OFF・OFFシアター(東京・下北沢)
 ・上演時間:約1時間40分
 ・公演期間:2005年9月14日-19日
 

Posted by : 10:49 PM | Comments (11) | Trackback

September 15, 2005

猥雑な『天保十二年のシェイクスピア』

舞台の途中で拍手が起こり、休憩前にも拍手があって、と観客席が沸(わ)いた『天保十二年のシェイクスピア』。文字通り、シェイクスピアの作品を江戸期のバクチ打ちの日常に移し換え、ことば遊びも巧妙に盛り込んだ井上ひさしの妙味と、華美な演出から一転して今回は猥雑(わいざつ)さを前面に打ち出した蜷川の手腕が、エンターテイメント性の高い喜劇を生んだ。もしもシェイクスピアがいなかったら、で始まる歌を聴きながら、『ロミオとジュリエット』で商業演劇に転身することになった蜷川は、もし歌詞通りだったら今ごろどうなっていただろうか、という想像も働いて、奇縁を不思議がり、偶然の「産物」を享受した。

視覚に訴えるような美を表出させる蜷川幸雄の演出が、『天保十二年のシェイクスピア』では卑(いや)しく、猥(みだ)らに変わった。シェイクスピアの37作品を、江戸期の侠客(きょうきゃく)講談に編み込んだ井上ひさしの原作は、上流階級の世界を社会秩序の外にいる無法者の日常に、絶妙に融合させた。対極であり、意外な組み合わせが舞台のエンターテイメント性を高める効果をもたらした。戯曲には一切手を加えないことで有名な蜷川は、ト書きまでも忠実に表現してみせた。

開演前の舞台ではグローブ座を想わせる美術があり、王侯貴族風の男女が現れては消える。「開幕」が近づくにつれて、静寂さが劇場内に浸透していく。しばらくすると、大音量の音楽が鳴り響き、観客席の方向から土埃で汚れた裸の男たちがなだれ込んで来て、一斉に「グローブ座」を壊し始める。蜷川得意の「開幕3分間」は、シェイクスピアの世界から博打打ちの日常への変換だった。

 「壊れたグローブ座」を背景に、江戸の情緒を感じさせる舞台セットが下手から運び込まれる。場面転換があるたびに、この動作がくり返された。

物語の口火を切ったのは「リア王」だった。3人の娘に王の財産を分け与える導入は、家同士が争う「ロミオとジュリエット」へと発展していく。井上の戯曲は無理にシェイクスピアの作品を溶かし込んだとは、まったく想像させることはなかった。

様相は、醜い身なりをした〝佐渡の三世次(みよじ)〟が登場してから一変する。三世次がひと通り、自らの身の上を語った後、女郎を強引に「抱く」。歌と同時進行しながら、三世次を演じる唐沢寿明が肌を露わにした巨漢な女性(中島陽子)の乳房を揉みしだく。観客席のほうを向きながらの演技で、巨大な乳房が唐沢の両手で上下に動かされる様子がはっきりわかる。ここから猥褻の度合は一層濃厚になっていく。

蜷川は英国のような「論理的な裏付けのある演劇」に一時期、傾倒していたが、今年から「自分の立脚点であるアジア的猥雑(わいざつ)さをもっと出したい」と、年初のインタビューで応えていた。今年演出した5作品の中で、『天保十二年……』が如実にそのことばを体現することになる。

この戯曲はもともと趣向に富んでおり、蜷川の演出による趣向と相まって、場面の面白味が増す。「ハムレット」の場面では、一昨年、シアターコクーンで上演されたキャストの再現ともなり、蜷川の采配が窺える。ハムレット王(西岡徳馬)の亡霊の出現を彷彿(ほうふつ)させる場面でその采配は良い意味で裏切られ、本来なら復讐を告げる重々しい雰囲気にもかかわらず、〝ボケ〟役の設定に西岡が見事に応えて、笑いを誘った。西岡のボケは、この後でも決まって、意外な一面を印象付けた。

女郎が客引きをする場面では「新・近松心中物語」、文楽の技法を応用した場面では「ペリクリーズ」と、過去の演出を懐かしませる場面も表出。今年7月に蜷川は歌舞伎を演出したが、場面転換の合図には柝(き)を多用し、早替りも披露した。戯曲と演出の趣向が重なって、相乗効果が生まれ、場を大いに盛り上げた。

主役級の俳優たち、特に猥雑さと縁遠い唐沢や藤原竜也、夏木マリは板に付いた演技で真価を発揮し、2役を美事に演じた毬谷友子は錚々(そうそう)たる顔ぶれの中でも、情感がこもった演技によって、その存在を際立たせていた。

シェイクスピアでありながらシェイクスピアでない『天保十二年のシェイクスピア』。それは二体の彫像によって常に意識させられた。2階の高さぐらいに設置された像は、舞台セットの真上に来るように仕組まれていて、開幕から終幕までセットが出入りしても観客席から観られる形で鎮座(ちんざ)していた。博打打ちの日常が舞台で現前しても、シェイクスピアの世界が混入するように演出されていた。

終幕は集大成だった。もしもシェイクスピアがいなかったら、で始まる歌が、舞台でくり広げられた数々の出来事に有り難みを付け加える格好となった。

(敬称略) 【観劇日:10日、座席:H列12番】

山関英人 記者)

【注】 「宮殿」は「グローブ座」という指摘がありましたので、改めました。(9月15日)


《公演情報》

◇『天保十二年のシェイクスピア
 ・作:井上ひさし/演出:蜷川幸雄
 ・シアターコクーン(東京・渋谷)
 ・上演時間:約4時間(途中に休憩20分)
 ・公演期間:2005年9月9日-10月22日

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September 08, 2005

再見 『戯曲 赤い月』

『赤い月』にこだわっているわけではない。観劇したのが初日であったのと、座席が舞台から離れていたのが、しばらく気になっていた。主演の平淑恵の演技を評価しなかった、というのも頭から離れず、もう一度、観劇することにした。自らの観劇姿勢を問う、という試みでもある。

今回は前から3列目の座席だった。俳優の演技が間近で観られて、全体的に水準の高さを実感させられた。ロシア人、中国人、朝鮮人と演じ分けたのにはリアルさが充分にあって、迫真の演技を想わせた。

圧巻だったのは、関東軍参謀の大杉寛治を演じた大滝寛と、森田酒造の従業員・池田を演じた塾一久(じゅく・いっきゅう)である。大滝はアクセントの効いた声調と、鷹揚(おうよう)に構えた立ち居振る舞いによって、品格が生まれ、魅力的な人物として造形されていた。一方、塾は番頭格を想わせる風格で、円熟味のある演技が観ていて心地よかった。ともに、役に乗り移ったかのようであったが、朗々とした発声が身体に響くようで、圧倒され、魅了された。

さて、ここからが書きあぐねた。主人公の波子を演じた平をどう評価するか、である。

率直に云って、初見と同様、演技にそつはないけれども、その迫力に欠けた。なぜ、迫力に欠けたのか。その点を突き詰めて考えていくと、小説との違いに思い当たった。4年前に小説『赤い月』を読んだが、その中で描かれている波子と、今回演じられた波子では、大きな違いが感じられた。思いもよらない人物、というのが小説の波子に対する記憶だった。

自らの観劇姿勢を問う、という試みはまだ終わらない。

【観劇日:1日、座席:D列2番】

山関英人 記者)


Posted by : 10:39 PM | Comments (0) | Trackback

August 30, 2005

文学座 『戯曲 赤い月』

23日から、東京・新宿にある紀伊國屋ホールで、文学座が『赤い月』を上演している(来月2日まで)。映画やテレビ・ラジオのドラマにもなった、なかにし礼の小説『赤い月』を、主役の波子を演じる平淑恵が企画し、なかにし自らが今回新たに書き下ろした。初日を観劇したけれども、場面の描写が微妙に不調和で、展開も駆け足、主人公波子の情念が足りない、というのが率直な印象だった。

母であり、女であり、妻ではなかった波子。

「大切なのは自分自身の命を生きつづけるための愛よ。愛あってこその命、命あってこその母なのよ。母として生きるとはそういうことなのよ」

なかにし礼の自伝的小説を舞台化した『赤い月』。なかにし自らが脚本化した。「愛あってこその命」を貫き通した主人公の波子は、なかにしの母がモデルになっている。

昭和20年8月9日。ソ連軍による満州への侵攻が始まった。当地で栄華を極めていた森田酒造は離散を余儀なくされる。森田波子と2人の子は、避難列車で死屍累々の道中を命からがら逃げ落ちた。1946年10月末に引揚船で日本へ帰国するまでの生き地獄が活写される。

戦争とは、国家に裏切られるということなのだろう。国を信じて疑わなかった人々のなれの果ては凄まじく、胸に重くのしかかる。波子に裏切られ続けた夫のやるせなさとも重なって、観劇中は鉛を飲み込んだような心境に陥った。

欲求は満たされても欲望に終わりはない。夫が死の間際に裏切らないよう釘を刺したにもかかわらず、波子は次の愛を欲する。性を生へのエネルギーに変換する波子は情念にあふれていたかのようだった。極限状況における人間の生存本能をそこに視た。

その波子を演じたのは文学座の看板女優のひとり、平淑恵(たいら・よしえ)。正確さと安定感のある演技は記憶に残るけれども、舞台から距離があったせいか、情念の迫力、がもの足りず、もう少し強靱(きょうじん)さがほしかった。その一方で、母と常に対立する長女美咲を演じた尾崎愛の、等身大ではありながらも初々しい姿が今でも目に浮かぶ。

演出では、場面転換が数多く、設定と美術のすり合わせ-場面の描写-に苦渋の跡が窺えた。暗転に入る速度がすばやく、余韻を味わう暇(いとま)がないほど、展開が駆け足に感じられた。舞台右上に大きく現れる日章旗のような旗と、舞台中央に吊される映像用のスクリーンが重なる点も気になった。苦心作というのが全体の印象だ。

(敬称略) 【観劇日:23日(初日)、座席:N列3番】

山関英人 記者)


《公演情報》

◇文学座 『赤い月』
 ・作:なかにし礼/演出:鵜山仁
 ・紀伊國屋ホール(東京・新宿)
 ・上演時間:約3時間(途中に休憩15分)
 ・公演期間:2005年8月23日-9月2日
 (※)全国各地の公演情報
  

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