11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

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June 14, 2005

劇団乞局「耽餌(たぬび)」

 不気味な世界観と丁寧な演出などで評価の高い劇団「乞局」(コツボネ)の第8回公演「耽餌(たぬび)」が6月9日から12日まで王子小劇場で開かれました。同劇場が主催する「2004年佐藤佐吉賞」で最優秀作品賞(「汚い月 『陰漏』改訂現代版」)を受賞したこともあって、期待の舞台でした。

 劇団Webサイトによると、乞局の舞台は「何処かしら欠けた登場人物たちが救いようのないすれ違いを織り成し、不幸な結末へと静かに進んでいく」(プロフィール)と書かれています。確かにこの公演に登場する人物はどこかが「欠けている」ように見受けられます。

 産院で赤ちゃんの首を絞めた過去を持つ不妊の看護婦が刑期を終えて出所、ある安アパートに入居するところから舞台が始まります。犯罪の再犯防止と更正などに協力する「付き人」はゲイだと言い、赤ちゃんを殺された若夫婦が出所を知って付きまとったり、自分をナイフで刺したことのある不登校の中学女生徒にアパートで勉強を教える女教師がいたり、元夫婦でありながら同じアパートに住んで性的関係もあるタクシー運転手の男女も登場したりと、歪んだ人間関係や裏のある性格が描かれます。ちょっと訳ありのアパートの調理人ととんちんかんな見習い(?)も芝居の欠かせない要素なのかもしれません。「欠け方」はさまざまですが、人物配置と性格描写は手筋に適っています。

 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは「表面的には平穏な日常が紡がれているようでいて、でも背後はしっかりと崩壊している。そんな裏と表を抱えている、まさに『欠けた』人たちが織り成すアットホームな日常」を、京極夏彦の小説世界になぞらえます。「漠然とした恐怖がジワジワと積み重ねられていく」特有の雰囲気ですね。特に乞局は「欠けた非日常によって、補完された日常を想起させる」とみた上で「観客は、そのギャップの部分に『気味の悪さ』を感じ、救われないエンディングに『後味の悪さ』というコメントをつける」と述べています。京極ワールドとの対比は鋭いですね。

確かに、エグイ終わり方だったのですが・・・きっとそれだから「後味が悪い」のではなく、結局のところエピローグが無いからで、日常へと引き戻されないから観客はそう感じるのではないだろうか。 残酷な結末に明確な言葉を与えて日常の一部に昇華させない手法、誰もが答えを求めていて答えを与えられる事に慣れている時代の中で、実のところ後味の悪いものが日常に埋もれている・・・そういう答えの無いことに答えを与えないことの価値を与えているものかもしれない。

 「答えを与えないことの価値」に意味を見いだしている吉俊さんとは別に、物語の組み立て面や完成度からみると、また違った道筋が見えてくるようです。
 乞局を「贔屓の劇団」という「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんは、「褒め言葉ばかり考えながら開演を待っていたから、終演後は少しの間唖然としてしまった」「個人的には大変期待外れだった」と書いています。その後も「本作品では粘ついた会話が醗酵しない。いつ醗酵するのかなと思って観ていたら、くしゃっと崩れて終わってしまった。個人的な予測だが、題材を盛り込みすぎて半端に完結してしまい、書き直すに書き直せなくなってしまったのではないだろうか」と推測を交えつつ残念がっています。

 ぼくが見たのは10日(金)の公演です。初めての「乞局」体験なので過去の舞台との比較はできませんが、意外に垢抜けた印象を受けました。不気味さをよい意味で手堅く仕立てた舞台と言い換えてもいいと思います。演出が手堅いだけに、物語の組み立てに構造的な不具合が見え、なにか手違いがあったのではないか思われます。

 物語の隠れたモチーフは、人間の肉体や骨格の手応え、血と粘液の手触りだと思われます。首に手をかけたときの「ポキッと音がした感触」「思い出すたびに心が踊った踊った」という「人に言うわけにいかない」感覚が不気味さの源泉になっています。この穴場に観客をどう引きずり込むかが腕の見せ所でした。

 同じアパートに住む人たちの群像劇のようにみえながら、最後には些細な仕草を周到な伏線に変え、一挙に全編を集約するラストシーンが用意されるのではないかと思わせる進行でした。しかし元看護婦の最後の行動で、その暗闇に収斂される登場人物は半分もいません。残りはただ周りを取り囲む一員の役回りとなって、結末からこぼれ落ちているように思えました。

 これとも関係しますが、やはりストーリーの構造的な問題に触れないわけにはいきません。この芝居は、出所する元看護婦に「付き人」が伴うという設定でした。再犯防止と更正、さらには被害者の復讐防止のためだとプログラムに書かれています。しかしその存在が、劇全体を動かすキーパーソンの役割だとは最後まで思えませんでした。またゲイだから女性と同居して構わないという設定は、ゲイの実体を誤解しているか、でなければ偏見の影をまとっていると言われかねません。また付き人とは関係なく、ほかのカップルらが別々に動いていて、結末で束ねられるような印象も受けませんでした。

 もう一つ、プログラムでは、鳴き石という石塚のようなものを舞台上に配置しています。みんながツバを引っかける対象として存在していたことは分かりますが、物語にどう絡んでいたのか明瞭でありません。石の傍らで惨劇が起きるにしても、その場所が必然であるとも思えません。プログラムにわざわざ解説まで掲載された「付き人制度」と「鳴き石の伝承」が、プロット進行の捨て石になっているような印象を残しました。

 乞局のこれまでの公演をみて「演技も演出も洗練されてきた分、魅力が薄れてきた」という意見も耳にしました。確かに不快感を呼び覚ますほどの気味悪さが、ある種の稚拙な演技と演出によって醸し出されるかもしれません。しかしそれは一回性のパプニングに過ぎないでしょう。次のステップに踏み出してしまったのですから、後味の悪いドロドロした感触を、緻密な演出と練り上げた演技で具体化していく以外に道はあせません。

 京極ワールドになぞらえるわけではありませんが、これからは物語が決定的に重要になってくるはずです。骨格がしっかりすれば、血も肉もたわわに育ち、粘膜も粘液も発酵するほど滲み出ます。そうなってこそ、おぞましいほど後味の悪い収穫が期待できるのではないでしょうか。後味の悪さやおそましい結末の意味と意義の考察は、そのときまで待ちたいと思います。


[上演記録]
劇団乞局 第8回公演「耽餌」(たぬび)王子小劇場提携公演
2005年6月9日-12日

【脚本・演出】下西啓正
【出  演】役者紹介
秋吉 孝倫
田中 則生
下西 啓正
三橋 良平
石井  汐
酒井  純
古川 祐子

安藤 裕康
佐野 陽一
吉田 海輝
五十嵐 操
加藤めぐみ(零式)
松岡 洋子(風琴工房)

【スタッフ】
舞台美術
:丸子橋土木店(綱島支店)
照明
:椛嶋善文
照明操作
:谷垣敦子
音響効果
:木村尚敬
:平井隆史(末広寿司)
舞台監督
:谷澤拓巳
衣装
:中西瑞美
宣伝美術
:石井淳子
WEB管理
:柴田洋佑(劇団リキマルサンシャイン)
制作
:阿部昭義
:尾形聡子
制作協力
:玉山 悟
:石原美加子
:林田真(Sky Theater PROJECT)
協力
:田村雄介
:(有)エム・イー・シー
:岡崎修治・勉子
:古藤雄己(創像工房 in front of.)
:飯田かほり(蜷局美人)

製作
:乞(コツボネ)局

Posted by KITAJIMA takashi : 11:05 AM | Comments (0) | Trackback

May 23, 2005

bird's-eye view 「un_titled」

 bird's-eye viewのステージは前からみたいと思っていました。知人に誘われて勇躍、出向いた結果は正解でした。文句なく楽しい舞台、極上の演劇体験でした。以下、前後のいきさつを知らないまま、臆面もなくまとめてみた文章です。焦点を絞ったので全体の目配りがかけているかもしれません。乞うご容赦。

◎コードを揺さぶる言語ゲーム bird's-eye view の「un_titled」公演

 こまばアゴラ劇場でbird's-eye view の「un_titled」公演をみました(5月11日-22日)。
 おもしろい。あまりおもしろすぎて、涙が出るほど笑いました。うわさの演劇ユニットの初体験でしたが、テキストのロジカルな処理と構成の妙、それに演じている俳優の楽しそうなようすが伝わってきます。評判通りの才気と才能を堪能した一夜でした。

 舞台は透明アクリル板らしきもので仕切られた空間がメーンになっています。左右と奥の余白は、出入りする廊下の役割。アクリル板のドアを開閉して俳優が登場する仕掛けです。

 冒頭、俳優が大勢現れて(前後左右3人ずつ9人だった?)アゴラの狭いステージで踊ります。といってもただ踊るわけではなく、ある規則性があるように感じられました。両手を挙げる。水平と垂直。腕の関節を直角に。斜め前方に曲げる。首と頭を左右に。開脚30度…。などなどの動作をユニゾンでそろえるのはまれで、互い違いにいくつかの動作を組み合わせ、前後左右が異なりながら統一したイメージを残しています。どんな規則性か正確に言い当てられませんが、パズルをはめ込むような知的な作業だったのではないかという気がしました。

 この集団はダンスも衣装もステキですが、テキストの扱いが特に印象的でした。いくつかのことばの規則を決め、それぞれ身近に適用した連作形式を取るのです。例えば「…でない」というルールを定めた場面(話)が登場します。

 それがお芝居かと言えば、いわゆる芝居ではない。コントかと言われれば、いわゆるコントではない。ダンスかというと、ダンスでもない。混じり合っているのかと言えば、そうとも言えない-。
 舞台のせりふを真似ると、こんな感じでしょうか。仮に「…でない」というルールを「否定則」と名付けてみましょう。この否定則は、名詞だけでなく形容詞や動詞など、この場面のせりふすべてに厳しく適用されます。

 自分で初発の言葉の場合は適用を免れるようですが、他者の問いかけにはこの規則がまとわりつくことになります。恋人に好意を打ち明けようと「ぼくのこと、好き?」と尋ねると、返ってくるのは「好きではない」。逆に恋人から「わたしのこと、好きなの?」と聞かれて、ルールに縛られているので否応なく「好きではない」と答えてしまいます。恋敵が逆手を取って「ぼくが嫌いだよね」と尋ね、彼女から「嫌いではない」という返答をゲットするのと対照的な遣り取りでした。

 名詞に関しては、一般名詞も固有名詞も等しく適用されます。事実上「名付け」が禁じられるのです。父親が出勤しようとするのに、家族との会話で身動きできなくなってしまう場面がありました。父親は「出勤しない」「そこはドアではない」「父ではない」などなどの言葉に囲まれます。家族の口からこういう言葉が出るだけでなく、家族がが差し向ける問いに対して、自分でもそう答えざるを得ないのです。固有名前と続柄が否定されれば、家族の関係は無化されざるを得ません。自分がだれで、どこに属しているか、どんな関係の網の目に育ったかという履歴(歴史)が自他ともに取り結べなくなってしまうからです。

 これは、日常なにげなく使っている言葉に、特定の禁止あるいは拘束のルールを持ち込んでみるというゲームでした。人間関係がもつれたり歪んだりして、そこに予期せぬ笑いが生まれます。さらにある種の緊張関係が、舞台から伝播してきたように思えます。言葉ゲームの枠を超え、友人や恋人といった2者間関係だけでなく、家族のつながりをも空白にしてしまうからでしょうか。お腹が痛くなるほど笑いつつ、どこかでドキッとする自分に気付かされるのです。

 もうひとつ、忘れがたいルールがありました。「言動反復則」とでも言いましょうか。鏡のような対象性だったかどうか記憶が定かではありませんが、相対する人に向き合って、同じように手足を動かし、相手の言葉をオウム返しに繰り返すのです。まねするのが女性、まねされるのは男性。「まね女」は男の部屋に突如現れます。恋人が訪ねてきたら、男の部屋に見知らぬ女性がいるのですから、穏やかに済むはずがありません。

 先の否定則が究極的には自分を取り巻く関係を無化して存在の条件を剥奪しているのに対し、言動反復則は自分の模倣=コピーに直面するという逆のベクトルを描いていました。終幕近く、ステージの奥で鏡を使って無限の鏡像を映し出すシーンもそのだめ押しだったのでしょうか。一方では「名付け」が禁じられ、他方では「名付け」が複数存在することになる。こうなると文字通り「un_titled」であるほかないと思われます。

 しかもこういう対照的な右往左往がしかつめらしい相貌をまとうことなく、ユーモラスに、コミカルに、しかもリズミカルに展開されるのです。その練達した技に感心しました。

 そのほかにもゲームルールがあったようですが、ぼくが受けたイメージはこの二つが強烈でした。どちらも、ふだんは疑うことなく「生きている」現実のコードを、演劇的操作を通じて前景化していると言っていいでしょう。友人、恋人、夫婦の暗黙の了解から、集団、組織、民族、国家の文化的政治的コードにまで射程をのばすことも可能かもしれません。

 これらのコードが絶対であるはずがありません。ゲーム上でも、突如ルールが崩壊する場面がちゃんと用意されていました。自分の言動をまねする女に手を焼いていた男が、最後に突然、女の胸に手を触れるのです。すると女は、フリーズしてしまいます。言動反復則のルールが崩れる瞬間です。セクシャルな行為の多義性をあらわにする場面でした。

 この演劇ユニットは、演出家が提起したコンセプトをエチュードで骨肉化していくそうです。禁則ルールを舞台で生き生きさせたのは、ひとえに稽古場でのたたき合いがあったからに違いありません。そのうえでの舞台ですから、俳優が生き生きしていたのは言うまでもないでしょう。ぼくが観劇した5月17日のステージは、特に出来が良かったと聞きました。ぼく(ら)が楽しかったのは、彼ら彼女らが楽しんでいるステージの余熱のようなものだったかもしれません。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、2005年5月23日)


[上演記録]
bird's-eye view 「un_titled」
こまばアゴラ劇場(5月11日-22日)

構成+演出_内藤達也

出演
杉浦理史
小野ゆたか
大内真智
日栄洋祐
松下好
山中郁
近藤美月
後藤飛鳥
小手伸也(innerchild)
櫻井智也(MCR)
森下亮(クロムモリブデン)

スタッフ
音楽  岡屋心平
舞台美術  秋山光洋
照 明  榊美香[I's] 
音 響  ヨシモトシンヤ
振付  ピエール
舞台監督  藤林美樹
コスチューム   伊藤摩美 
写真  引地信彦
宣伝美術 石曽根有也 
演出助手  明石修平
プロデューサー 赤沼かがみ
制作  山崎華奈子、保田佳緒

Posted by KITAJIMA takashi : 10:30 PM | Comments (0) | Trackback

May 16, 2005

ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」

 連休が明けてもまだボーっとしています。あまりにも怠惰に過ごしすぎた報いかもしれません。連休中にみたステージで最も印象に残ったのは、ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」公演でした。彼らのステージは初めて。以下、妄想をまとめてみました。いつものことながら、遅くなってすみません。

◎モノクロ・ステージの不思議感覚

 ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」を世田谷・シアタートラムでみてきました(5月2日-3日、第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加)。ほとんどモノクロの舞台、言葉数の少ないテキスト、1人か2人の男たちが次々に登場、振幅の大きな声や動作を繰り返すパフォーマンス構成など、不思議な感覚に浸されたステージでした。
 2003年初演の作品の再演。このユニットの舞台は初めてなので、どこがどう変わったのか分かりませんが、選ばれての参加作品ですので、おそらくこのユニットの基本形が提示されているような気がします。
 ステージは、白い砂が支配していたと言ってもいいと思います。ほとんどモノクロに染められた空間を、ヒンドゥー五千回のWebサイトはこう描写しています。

白い砂がしきつめられた空間。
二脚の椅子と、天井に向かって伸びる一本の梯子がある。
そこはどうやら地下にあるらしく、
梯子の先からの差し込む光が、薄ぼんやりと砂地を照らしている。
誰かがそこに砂を運び入れたのか、また何かが長い年月をかけて風化し、
そうなったのか、その辺りのことは定かではないが、
そこが美しい場所であることは、どうやら間違いないようだ。

背景はほぼ黒一色。白砂とのコントラストがくっきりした舞台です。いすはハシゴを挟んで左右対称に、向き合って置かれています。「ますだいっこうのこと」サイトはこの舞台を「皮膚から空間を感じるようなヒンヤリした感覚」と表現していました。巧みな比喩だと思います。

最初、上手のいすに男が腰掛けています。反対側のいすには古びた消火器の箱がおかれています。この赤さび色の塗料が剥げかけた箱に、男が話しかけるところから始まります。次に殴り殺してしまった死体の処理にうろたえる男2人。手に持った訳書を交互に読み上げる男2人。かつて会ったことがあると主張する男と記憶がないと言い張る男のまたまた2人組。本を読み上げる声がだんだん大きくなったり、記憶のない男を声高になじったり、追い駆け回したり。こういう独立した数個のエピソードの組み合わせが登場し、確か最後はまた、男と消火器箱の組み合わせになったと記憶しています。

こういう舞台構成は、音楽の楽曲形式を強く意識しているような気がしました。モチーフの提示、変奏、さらに変奏または繰り返し、モチーフへの回帰。しかし元のままの回帰ではなく、少しずつ崩れたり壊れたり、時間という関数に挟まれて不可避の変形を被っているのです。時の経過による物体や関係の崩れを定着させようというのが、この作品(演出)のねらい所だったのでしょうか。

その意味で、殴り殺された死体の男(扇田 森也)がステージを軽やかに駆け回る姿が最も印象に残りました。裸の上半身はやや薄白く化粧され、白っぽいショートパンツと併せて身体の生臭さを消しています。まず目につくのは長い手でした。手首や腕の関節を折り曲げる動作が身体全体と調和しています。円弧を描くときのしなやかな動きも可動範囲が広く、遅からず早からずとてもスムーズでした。陳腐な表現ですが、鶴のように舞うイメージを想像していただけばいいかもしれません。そぎ落とされたというより、若さ特有の無駄のない身体が音もなく駆け回り、跳躍するのです。生者のどたばたした動きと対照的に、軽々と動く死者。ほれぼれするシーンでした。

舞台で飛び交ったテキストは残念ながらうまく取り出すことができません。辛うじて記憶に残っているのは「いのちは一つ、うまく出会ったかどうかが問題」「どうして僕らが会ったことを忘れてしまうのか」「死んだら身体は骨になり、やがて砂に変わる」「自分を埋めてくれる誰かに出会いたい」などの断片だけです。記憶があやふやで、引用したことばも正確ではないと思います。またことばにどれほどの重さを持たせたのかも測りかねるのですが、ぼくがことばの群れから想起したのは「ゴドー待ち」のぼんやりした影でした。

この作品では、「待つ」対象は第3者に仮託されることなく、2人の男の間に直接的関係として固着されます。登場人物が1人だけの設定でも誰かや何かを強烈に求め、しかし関係はいずれも崩れてしまいます。というより、あらかじめ壊れていることを前提に構成されたシーンで一貫しているような気がしました。それだけ切なさが、見終わった後にもじんわり感じられるのではないでしょうか。

このステージをみた「しのぶの演劇レビュー」サイトの高野さんは、音楽の音量、せりふや動作のダイナミックな変化を採用する演出に触れ、「それをヒンドゥー五千回の個性だと言うのも可能ですが、私にはまだまだ発展途上の実験段階で、これからもっと洗練させられる余地があるように感じられました」と指摘しています。

彼らが洗練に向かうのか、ハメツに向かうのか(!)は分かりません。どちらにしろ、しばらくは「実験」に付き合ってみようかと思せる魅力を感じました。


[上演記録]
ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」
第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加
世田谷・シアタートラム(5月2日-3日)


構成・演出
扇田 拓也


出演
谷村 聡一
久我 真希人
結縄 久俊
向後 信成
藤原 大輔

宮沢 大地
鈴木 燦
谷本 理
扇田 森也


●スタッフ
演出助手 藤原 大輔
舞台監督 松下 清永
美術   袴田 長武(ハカマ団)
照明   吉倉 栄一
音響   井上 直裕(atSound)
宣伝写真 降幡 岳
宣伝美術 米山 菜津子
制作   関根 雅治 山崎 智子

●企画・製作
ヒンドゥー五千回
●主催
財団法人せたがや文化財団、フリーステージ実行委員会

Posted by KITAJIMA takashi : 05:08 PM | Comments (2) | Trackback

April 18, 2005

うずめ劇場「ねずみ狩り」

 「あの“いまわのきわ”から3年、衝撃の問題作、日本初公開!」というコピーで上演されたうずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』は、オーストリアの劇作家ペーター・トゥリーニの出世作。1971年にウイーンで初演され、非難と賛辞が半ばする曰く付きの作品とのことでした。「いまわのきわ」という優れた作品を紹介した鑑識眼を信頼して劇場に足を運んだ人は少なくなかったに違いありませんが、3月初めの福岡を皮切りに、北九州(3月10日-13日)、東京(4月15日-17日)、そして名古屋(4月22日-24日)という国内ツアーの実際はどうだったのでしょうか-。皮切りの福岡公演をみた「福岡演劇の今」サイトの薙野信喜さんは「演出の力はどこに行ってしまったのだろうか」として次のように述べています。

最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。ここに緊張がないのは、演出も俳優も結末を当然と受け止め、それに向かって障害らしい障害を出すこともなく、スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ。(中略)戯曲と拮抗し火花が散る舞台を期待していたがみごとに裏切られた。ペーター・ゲスナーは、後進を育てることを理由に手を抜いていると見た。全力で取り組んでその力を見せつけることこそ、観客への礼儀であり、いちばんの後進指導ではないのか。  期待がものすごく大きかったので、つい厳しい感想になってしまった。

 演出はペーター・ゲスナーと藤沢友。共同演出とは、実質的には藤沢にほとんど任せ切りということなのでしょうか。薙野さんの指摘通り、ゴミ集積場に車で乗りつけた若い男女が身に着けたものをゲーム感覚で次々に投げ捨てていくプロセスが芝居のへそになるような構造だったように思えます。それにしては確かにふくらみが足りません。なにしろ客席に銃を向けるだけでなく、最後には客席に向かってネズミ呼ばわりしながら乱射する作品なのですから、どういう形であれ観客のコンテキストに作品の世界が収まらなければ、反発どころか無視という、最も望まないそぶりに振れかねません。

 演出に問題が残ったことは確かででしょうが、ぼくはその上、作品選択に関しても、やはりどこかに錯誤があったのではないかという気がします。演出方法とも関連しますが、いまさらこの手の威圧的、一方通行の作品を、どうして日本に紹介しなければならなかったのでしょう。いまの日本はこの手の「威圧」でへこむほど薄い単層構造でできていません。地肌がそれほどまでに荒れていて、よほど工夫しないと緑が育たないと考えた方がよさそうです。アングラ演劇の歴史に詳しいはずのゲスナーなのに、過去に何度も繰り返されたこの手のテーマを蒸し返すのは、いささか目測を誤ったのではないかと懸念します。

 最後に、撃ち殺される男女2人のヌード演出に触れないわけにいかないでしょう。ほとんど予定調和の進行の末に裸になる2人には、お疲れさまとしか言いようがありません。欲望をぎらつかせて交合の仕草をまねたりしながら舞台を飛び跳ねるのですが、肝心の男性のシンボルに生気がなかったのは、その舞台全体が不能だったことの象徴にみえました。反対にそうでなければ、それこそ無粋の極みですし、演劇としての場所を失いかねません。
 30年前はいざ知らず、この作品は日本デビューの時期を見誤ったような気がしてなりません。

[参考]
面白さに◎びっくり」(「福岡演劇の今」サイト「いまわのきわ」評)2002.3
筋書きを逆にたどるオムニバス」(wonderland「いまわのきわ」評)

[上演記録]
◎うずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』
■上演スケジュール
福岡:3月5-6日(ぽんプラザ)
北九州:3月10日-13日(スミックスエスタ)
東京:4月15日-17日(シアターX提携公演)
名古屋:4月22日-24日(第5回愛知県芸術劇場演劇フェスティバル参加)

作 ペーター・トゥリーニ
翻訳 寺尾格
演出 ペーター・ゲスナー/藤沢友
上演台本 うずめ劇場
出演 後藤ユウミ、荒牧大道、藤沢友 他
主催 うずめ劇場
共催 北九州市・北九州市教育委員会
助成 (財)セゾン文化財団、芸術文化振興基金、
(財)アサヒビール芸術文化財団
後援 オーストリア大使館

Posted by KITAJIMA takashi : 08:00 PM | Comments (0) | Trackback
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