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April 16, 2005

楽園王「ELECTRIC GARDEN」

 楽園王「ELECTRIC GARDEN」公演が東京・荒川区の町屋ムーブで開かれました(4月13日-15日)。「デジログからあなろぐ」サイトの「吉俊」さんはここまでカバーしているか、というほどまめに都内の小劇場に足を運んでいて、この公演のレビューもしっかり書いています。

とても綺麗ではある、私は好きなタイプだ・・・テクノイズな音楽のノリ+照明効果・・・抽象的な世界を場面展開で次々に語っていく。半円形舞台で、中心の舞台を取り囲むように座った客席の後ろでも役者が演じる。対面の客の後ろの役者を見たり、後ろからの声を聞いたりと、舞台の使い方は変わっていましたね。
 その後、役者の演技、場面転換など「スタッフワークでのセンスのよさ」を指摘しています。ただ「芝居の雰囲気と語られる脚本の親和性」などバランスに欠けるとの苦言も。

 これは神楽坂と麻布に劇場拠点を持つ die pratze 主催の「M.S.A.Collection2005」シリーズの一つ。中野成樹(POOL-5)+フランケンズ「ラブコメ」に次いで2回目の観劇でした。

 舞台はある若い会社員が、不良とみられる男を次々に殺害したという設定で始まります。殺害事実は認めているのに、動機が不明。取り調べと同時進行で、会社員の家庭や幼少期の出来事が、過去のフラッシュバックと語りかける死者たちとの遣り取りなどから浮かんできます。
 ステージらしい舞台は見あたりません。フロアーにパイプで組み上げた客席が三方にあり、劇が始まると間もなく、いわゆる正面にあったキャスター付きの大型組み立てパイプが移動して、死者らの居場所になったりします。フロアー付近から青白い照明がサーチライトのように闇に走り、ノイズ風のテクノ音楽があるときは低くある時は強く轟音のように響いてきます。
 娘(生者と死者に二重化されている)の引きずるような足取りと音節をずらした発語が平仄を合わせ、確かに言葉が生起するどろどろした部分のイメージは伝わってきます。低くかすかに響く鈴の音が、幽明の境を行き来する合図のようにも聞こえました。

 楽園王のWebサイトによると、この作品は「は1992年春、当時田端にあった田端ディプラッツにて初演。楽園王旗揚げ1年目のことである。現実と非現実の境界線を曖昧にし、迷宮的な物語と、それが翻って現実を浮き彫りにする長堀戯曲の特徴を強く持った作品の一つ。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を護身用に常時携帯していた時期の執筆から影響が強く、また現実に起こったある凄惨な事件を扱ったことから何より恐怖感を感じる作品となった」とあります。

 初演から13年たっての再演。作品の構成は余り変わっていない印象を受けます。調べ室と死者との会話、過去のフラッシュバックなどが入り組んで時には理解不能状態になりました。ツァラトゥストラという言葉が表現されるコンテキストも「お母さんのために薬になる言葉を探す」というフレーズも客席に飛び込まず、宙をさまよっているように感じられました。

 主宰・演出の長堀博士は、利賀演出家コンクール2004で、イヨネスコ作「授業」で優秀演出家賞を受賞しています。別の作品で力量のほどを味わいたいと思いました。


[上演記録]
楽園王「ELECTRIC GARDEN」
 町屋ムーブ(4月13日-15日)

作・演出 長堀博士
出演 松の秀明、大畑麻衣子、塩山真知子、杉村誠子、小林奈保子、二階堂洋右、田中新一、植村せい、岩崎雄大、嶋守勇人、辻崎智哉、小田さやか、吉田郷子、丹生谷真由子(OM-2) ほか

スタッフ 照明:南出良治、音響:齋藤瑠美子、選曲/美術:長堀博士、舞台監督:田中新一、宣伝美術:小田善久、制作:楽園王オフィス

Posted by KITAJIMA takashi : 10:29 PM | Comments (4) | Trackback

March 10, 2005

鳳劇団「昭和元禄桃尻姉妹」

 鳳劇団の旗揚げ公演「昭和元禄桃尻娘」を東京・新宿のタイニイアリスでみることができました(2月15-16日)。せりふや所作などでいわゆる大衆演劇の衣を借りているのですが、そこでよくみられる義理人情の淀みに融解するわけではありません。忘却の洪水に浸される現世に、戦中の忘れがたい一筋の記憶を刻もうとする確かな舞台です。「ロマネスク不条理劇」を掲げ、「游劇社」を拠点に長年活動してきた鳳いく太が、新しい展開を図る記念碑的舞台だったと思えます。変わった衣よりも、変わらない原石を見る思いの一夜でした。

 つぎはぎだらけの大幕が開くと、いきなり「かっぽれ」が始まります。曲に合わせて登場する2人の女優(かぢゅよ、康実紗)が、裾をからげ、ときに足を高く上げ腰を割って、わざとむっちりした太ももを見せびらかしたりします。エロいというかエグいというか、民謡や盆踊りが生まれてきた猥雑な部分をいきなりさらすようなスタートでした。

 物語は年取った仲居と若い女性客が出会う旅館の一室から始まります。仲居はわざわざ腰を曲げ、おぼつかない足取りという年寄り演技のステレオタイプ。怪しげな方言を大げさに話し、野卑な言葉遣いを混ぜています。若い女性客もスカしっ屁をうちわであおいだり。ホントにこの2人よくやるぜ、演出はもっとやるぜ、といった格好で進みます。

 仲居はその昔に別れた妹がいると言い、泊まり客も妹らしき仕草を見せているのですが、身元は確かではありません。その血筋がちらりと見えそうになると、話はがらりと変わってしまいます。

 女の子が人形を相手に会話したり、着せ替え早変わりで学生と娘の役になったり、酔っぱらいサラリーマンになって愚にもつかない与太を飛ばしたり。2人の掛け合いで、岸と安保、池田勇人と貧乏人、新幹線、鬼の大松、白馬童子の山城新吾、遊星王子の梅宮辰夫、ミニスカート、3億円、全学連、背番号3などなど、おじさん世代には懐かしく、若い世代にはおそらく身に覚えのない昭和世相史のオンパレードが続きます。

 劇中で何度か場面転換に使われるのは、吉田拓郎の「今日までそして明日から」。そしてピンクレディーの「UFO」や守屋浩の「ありがたや節」も流れるのですから、確かに昭和元禄だったのかもしれません。

 そんな場面を切り裂き、時間の流れを堰き止めるように携帯電話の音がたびたび鳴り響きます。子供のころ遊んだ糸電話を取り上げて、モシモシ、モシモシと呼びかけると、空襲警報の甲高い音が鳴り、焼夷弾の轟音が響きます。時間の裂け目から、遠い記憶が呼び覚まされる一瞬です。

 大衆演劇でよく、場面と役が振り替わるコーナーがあります。梅沢武生劇団の舞台では、梅沢富美男がドジで間抜けな男役から一瞬で、あでやかな着物姿の女性役に早変わりして歌と踊りを披露します。鳳劇団の舞台はその形を借りながら、時間の流れを入れ替えて、矢継ぎ早にこんな言葉を放ちます。
 「透明人間になれるのと空を飛べるのとどっちがいい?」「不死鳥に生まれるのと人間に生まれるのと、どっちがいい?」「双子の姉に生まれるのと妹に生まれるのと、どっちがいい?」「人形のような人間になるのと人間のような人形になるのと、どっちがいい?」…

 東京大空襲で右耳が聞こえなくなった妹、離ればなれになった姉妹。人間と人形になった2人の間で交わされる問いは、昭和の歌謡曲と空襲の爆音に挟まれ、記憶に差し込まれる糸電話に答は返ってきません。問い掛けはむしろ客席側に向けられていると感じました。

 だからといって、それらしいせりふで客席を白けさせる、なーんてことはありません。恥ずかしいほど猥雑で、ばかばかしいほど楽しい仕草と遣り取りがふんだんに盛り込まれています。手練手管のやり手婆さん顔負けのサービスでしょうか。これで客席が沸かないわけがありません。旅芝居にもってこいの作品でしょう。鳳劇団がこの出し物を持って、各地の公民館や老人ホームを回ってもぼくは驚きません。

 2人の役者は出ずっぱりでくたくただったのではないでしょうか。特に姉役の「かぢゅよ」は個性的。あくの強い、エグイ役どころを生き生きと(?)演じているように見えました。そういえば開演前、浴衣姿でビールをさばいていた売り子は彼女たちでした。「ビールいかがですか。1本飲んだ方は、2本目をお忘れなく。遠慮せずに手を伸ばしてください。どうです、お客さん」なーんて強引に売り付けてたっけ。たくましいですね。

 舞台は役者の個性に彩られていますが、台本の世界はきわめて静謐、透明です。音楽を絞り、役者が違えばまたがらりと違う空気が流れ、違った空間が再現されたに違いありません。

 色の扱いはひときわ鮮やかでした。特に糸電話の赤いヒモ(糸)が闇に伸びるシーンは記憶に残ります。赤は空襲で燃える炎の色であり、流れる血の色でもあります。姉妹の「血」そのものでもあります。また考えてみれば、舞台となった温泉は、地底の裂け目から吹き出す赤い溶岩の賜物でもあります。赤=血が全編のモチーフとなり、記憶の底から噴き出す仕掛けだったのではないでしょうか。

 ネット上を歩いていたら、游劇社webサイトの中でこんな文章と出会いました。

我々は演劇だけが持つ臨場感を愛し、演劇だけがなし得るスペクタクル溢れる舞台を、不条理劇というスタイルを借りて上演し続けている。 (中略)演劇でこの世界は変えられなくとも、游劇社の舞台がひとりの観客の世界を変えていく。そんな、演劇の演劇の【夢見る力】を信じて活動している」(「感性体感浪漫的不条理劇とは」)

 そう、その夢は悪夢かもしれないし正夢かもしれません。しかし今回の舞台は游劇社とスタイルこそ違え、確かに「夢見る力」によって、時間の狭間から赤い闇の響きを現前させる舞台でした。これも鳳ワールドの甘い毒なのでしょうか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 2005.3.10)

(注)東京大空襲は1945年3月10日未明に起きました。日本の木造家屋用に特別開発された焼夷弾を使用。あらかじめ退路を断つ形で40k㎡の周囲に火の壁を築き、その中に約100万発(2,000トン)もの焼夷弾が投下され、さらに機銃掃射が加えられたと記録にあります。死者は判明しているだけで10万5,400人に上ります。この文章は、この10日付で掲載します。

[上演記録]
鳳劇団昭和元禄桃尻姉妹」 (2005年2月15-16日)

作・演出:鳳いく太
会場:新宿・タイニイアリス
出演:かぢゅよ、康実紗(かん しるさ)
照明:中本勝之、村上みゆき、朴須徳
音響:鶴岡泰三、鳳いく太
作曲・振り付け:正田和代
宣伝・美術:もりちえ
総裏方:早坂ちづ
舞台監督:朴茂一

Posted by KITAJIMA takashi : 10:43 AM | Comments (0) | Trackback

March 08, 2005

劇団印象「幸服」

 劇団印象の第3回公演「幸服」が横浜のSTスポットで開かれました(2月10日-13日)。慶応大出身者らが2003年に旗揚げ。当初は言葉遊びを多用した野田秀樹風のスタイルを採用していたが、昨年11月公演から「言葉にこだわった『エッチで、ポップで、ドキュメンタリー』な芝居でオリジナリティーを確立すべく奮闘中」だそうです。
 今回の芝居は父親と息子、それに父が通うバーのホステスがアパートの一室で展開する密度の濃い会話劇と言っていいのではないでしょうか。

 スタッフに友人がいるらしい「Sharpのアンシャープ日記」は「日曜日の夜6時からの開演だったのだが、もうすぐ『サザエさん』が始まるだの、7時から夕飯を食べ始めるのに献立は何にするだの、表面的にはリアルすぎるほどにリアルな日常生活の中で時間を進行させつつ、その根底で、通奏低音のように、家族とは何か、個人のアイデンティティとは何か、という問題を深く掘り下げていく」と書いています。

 舞台はアパートの一室。壁一面に女性の下着が飾られています。父親は女装が趣味。そのせいか母親と別居(離婚だったかな?)しているけれど、息子と同居している。そのアパートに、父がよく行く女装バーのホステスが姿を現すところから舞台が始まります。
 父と子、男と女、客とホステスという3層の関係が濃縮された空間に描かれるのですが、衣装を媒介とした「性」と「生」がいやでも浮かんできます。

 舞台の実際はどうだったか。劇団印象の主宰者鈴木厚人さんが個人ブロク「ゾウの猿芝居」サイトに「酷評から学べること」というタイトルで次のように書いています。

テーマがわからなかった、というアンケートも多かったのですが、
わからないこと、難しいことが問題なのではなく、
わからないけどわかりたい、と思わせられなかったことが問題で、
わからないが面白い、と思ってもらえなかったことが問題なのだと思います。

わからない、と言わせてしまったら負け。
面白い芝居は、わからなくても面白いし、
わからないことを忘れるぐらい面白いものだから。


これはその通りでしょう。唐十郎の芝居はその典型ではないでしょうか。あとでよく考えると荒唐無稽な筋書き、矛盾する仕掛けに気付いても、劇場で見ているときは放射する強烈なエネルギーに圧倒され、劇世界に引き込まれ、気が付けばはるか遠くまで飛ばされてしまうのです。

意味を説明するのだとしたら、 幸福のメタファーとして、幸服を配置し、 孤独のメタファーとして、空腹を配置しました。 (hangerとhungerは別にかかっていない) というのは、現代における空腹とは何に対する空腹なのか、 物質的にはいつも満腹だけど、 精神的にはいつも空腹である、 それは孤独がより一層、重みを増しているからではないのか、

そして、今思えば、そこが描き足りなかったのですが、
孤独になることが幸福か、
孤独を埋めることが幸福か、という対立を見せたかった、
ゆえに、
孤独な人間が家族を食べて、空腹と孤独を埋める、
そのことを腑に落ちるように描く演出力、脚本力が及ばず、
わからない、と言わせてしまっているのだと思います。
また、一人の人間が家族を食べてしまうまでのバックグラウンドが、
見えてこない、そこが「私の中では落ち」なかった原因だと思います。


 そこまでの射程があったとは気が付きませんでした。「父子相克」の末の「父子同根」が、この芝居の着地点に用意されています。それがまた、家族や孤独や空腹と絡んで重要なポイントだというわけです。おそらくその辺を実感できるかどうかに、公演評価のカギがあったように思われます。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:40 PM | Comments (0) | Trackback

February 04, 2005

人形劇団プーク「かちかち山」「金壺親父恋達引」

 人形劇団プークの本拠地を通りががりに眺めたことがある。新宿南口から徒歩5分ぐらいだろうか。甲州街道から少し代々木寄りに入った絶好の場所だった。 3日夜、その専用劇場ではなく、こまばアゴラ劇場で初めてプークのステージを体験した。おもしろかった。客席で無防備に、ころころ笑ってしまった。

 人形劇団というと、操り糸で人形を動かすというイメージがあったけれど、「かちかち山」は違っていた。被り物はあっても俳優は素面で、詰め物で膨らせた白の吊ズボンをはいて登場した。ヨーロッパのダンス集団で、豚の仮面をかむって登場したダンサーがそんなズボンをそろってまとっていたような記憶がある。A.C.O.A.がBeSeTo演劇祭でみせた「煙草の害について」でも、同じような衣装をかなりグロテスクに仕立てて登場した。 A.C.O.A.では衣装が重要な伏線になっていたけれど、プークでは動物との近縁を示す導線の役割を果たさせようとしているような気がする。

 「かちかち山」だから、登場するのは狸とウサギ。かたや37歳の古狸なら、ウサギは今年16歳の処女という設定である。狸の死骸を発見した男女の警察官が現場を調べる冒頭から、やがて2人が狸とウサギに成り代わり、それぞれ狸とウサギの人形をときに手に持ち、人間と人形が一体となって舞台が進んでいく。語りと身体との間に人形が入り込んだり、人形が姿を消して俳優が表に出たり、その逆に人形の影に役者が隠れたり…。

 劇中劇という構造が演劇の相対化によく用いられる。しかし人形の効果的な登場が、今回の舞台でどれほど意識されているかどうか分からないけれど、劇自体を豊富化する手がかりになるのではないかと示唆深かった。プーク体験はぼくには目から鱗の舞台だった。同じように人形をメーンに登場させる文楽が、メタ演劇実現の視点から再評価されたことはあるのだろうか。
 そういえば、客席には「地点」演出の三浦さんや田島さんらの姿がみえていた。なるほど、よくベンキョウしてますね。

 狸汁から逃れようと、つかまえたおじいさんを殺した狸は、美しいウサギにほれ込んで疑うことを忘れているが、ウサギは殺されたおじいさん夫婦に恩義を感じており、冷静に復讐を図るという話。御伽噺をもとにした太宰の原作。ウサギ役の桐丘さんが舞台に登場すると、匂い立つような雰囲気が広がった。恩義と復讐を秘めつつ古狸の一挙手一投足に妖しく冷たい視線を向ける。その光景の背後にオーラが見えるような気がした。

 井上ひさし作の「金壺親父恋達引」はモリエールの翻案だが、相変わらずうまくできている。ただ劇形態は文楽方式で、黒子役が人形を動かし、同時にせりふも。足脚の動きが笑いを誘ったけれど、方法的には従来どおりのパターンを踏襲しているように思えた。

 決定的に重要なのは、人形だと思われる。そのキャラ、作り方で印象が決まるからだ。主役と同じ、いやそれ以上の比重があるのではないだろうか。

 今回登場した人形は、2つの演目で同じ作者と思われる。いや、同じかどうか分からないが、少なくとも「作風」は似ている。しかし人形の作風は上演する作品によって、がらりと変わっていいのではないか。リアルもあればシュールもパンクもあっておかしくはない。なるほど、人形制作者に問われるのは技量だけでなく、演出も含めた劇全体の方向が問われるようになるかもしれないと密かに考えた。

 こまばアゴラ劇場の 「冬のフェスティバル2004」参加公演。声をかけてくれた劇団のKさんに感謝。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:18 PM | Comments (0) | Trackback
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