11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

January 01, 2005

あけましておめでとうございます。

 東京のお正月は雪景色で明けました。大晦日に雪が降り始めると、本格的な冬の始まりだったふるさとの記憶が蘇ります。身を引き締めて新しい年に向かうようにとのメッセージでしょうか。

 このweb サイトがスタートしたのは暑い盛りの昨年8月。この4か月間、力のこもった評を載せていただいた執筆者、多様なレビューを展開している各サイト主宰者の方々に感謝します。またほとんど宣伝もしないのに、熱心にアクセスしていただいた読者、リンクしていただいた各サイトにもお礼を申し上げます。

 今年はもう少し出入り自由な空間にしたいと模様替えを検討中です。またレビューだけでなく、折々に特別企画を用意したいと考えています。

 実は2004年を振り返る年末特別企画を用意していましたが、編集人の引っ越しで、突然のトラブルからインターネット接続不能状態が生じてまだ掲載できていません。今回もひとさまのパソコンからアクセスしています。状況が改善され次第、紹介できると思います。しばらくお待ちください。

 昨年末は個人的な事情で時間的な余裕がなく、編集がままなりませんでした。ページ紹介の中身も回数も極端に落ちてご心配をかけてしまいました。もう少しで一段落。2月からは元のペースに戻ります。
 今年もよろしくお願いします。

 Wonderland サイト 編集人 北嶋孝@ノースアイランド舎 2005.1.1

Posted by KITAJIMA takashi : 04:26 PM | Comments (0) | Trackback

December 25, 2004

八木柊一郎作「コンベヤーは止まらない」

 今年亡くなった劇作家八木柊一郎の岸田戯曲賞受賞作「コンベヤーは止まらない」(1962年)の舞台をみてきました。桐朋学園芸術短大芸術科演劇専攻(2年)による試演会です。高度成長のとば口で、世の中の対立構図がくっきり見えた時代。生産効率一辺倒の工場相手に、下請けのさらに末端に位置づけられる内職家庭がストライキを仕掛けるというお話です。簡素なステージを縦横に生かした演出力もさることながら、労働組合とかストライキとかが死語になりかけているいま、学生にあえて古典的な骨格を持った物語をぶつける演出家の剛毅と侠気を感じる芝居でした。

 12月11日(土)と12日(日)の2日間、Aプロ、Bプロそれぞれ1日2回、計4回公演。Aプロは直球バージョン、Bプロは変化球バージョンだったそうです。ぼくがみたのはAプロでしたから、「直球」を投げ込んでもらったことになります。これほどのステージなら変化球版もみたかったのに、ぼくに時間の余裕がないのは残念でした。演出は、同大講師を務める大岡淳さんです。

 正面と向こう正面に客席が階段状に組み上げられ、ステージはすり鉢型の底のようになっていました。ステージの四分の一ほどが一段高い正方形。天井から小ぶりの布製スクリーンが旗のように下がっているだけで何も置かれていません。

 開演前に黒っぽいコートを着た大岡さんが舞台に登り、囲むように着席した学生の出欠を取ります。これも授業の一環という確認なのでしょうか。そして「演劇は社会を変えられるか」という問いを投げかけます。学生数人がすこし硬く、あるいは迷いつつ答えます。そんな発言を引きだした後、大岡さんはナチスドイツの歴史に触れ、ファシズムは民衆の参加型運動として発展し、演劇も参加者の意識と意欲を高める有力な手段として活用されたこと、つまり社会を変える道具として逆説的に重要な役割を果たしたことなどを話しました。学生と客席をちょっぴり挑発するプロローグと言えるでしょうか。ブレヒトを彷彿とさせるいたずら好きの作風のようにも思えました。

 物語の時代設定は1962年です。ラジオ部品製造工場のコンベヤー前で、本工の中山あつ子が作業中、突然手が動かなくなります。診断はコンベヤー作業からくるノイローゼでした。彼女の母親は下請けから部品組み立ての内職仕事をもらって家計を支え、あつ子と幼馴染の浩一は社外工で、彼の両親も内職仲間という設定です。浩一は将来の望みもないまま低賃金で働き続けることに嫌気がさしています。しかし工場はコンベヤーの速度を上げ、生産増強をあおるだけ。「コンベヤーを止めない」-それが合い言葉のようになっているのです。工場の管理主任も下請けの社長も現場の営業マンも、そして内職に追われる主婦らもみなコンベヤーに振り回され、無理な仕事を引き受けざるを得なくなっています。
 浩一はあつ子と話しているとき、ストライキを思いつきます。末端の主婦らが内職をストップすればコンベヤーは止まります。やがて浩一はストライキで賃金を倍増しようと主婦らを説得、会社や下請けを巻き込んで初日は成功するかと思われたのですが…。

 当時は臨時工、社外工、内職(アルバイト)の階層型下請け構造が当たり前。労使対立が露出し、ストライキだって珍しくありませんでした。労働運動は政治的社会的に一大勢力を築いていたのです。62年の岸田戯曲賞受賞作品は、十分に当時の雰囲気が刻印されています。

 これらの荒々しい波頭はいま見あたりません。内職などはほぼ「外部化」され、パートやアルバイト、派遣社員や嘱託などの非社員・非正規雇用群が波間に浮き沈みしているように見受けます。生産性や創造性、競争志向が、ほとんどの職場の暗黙の前提になっているのではないでしょうか。

 そんな時代に、内職家庭がストライキを構えるという作品をあえて取り上げるのは、なかなかできることではありません。優れた作品の再演に機会を与えるというだけでなく、現実に風穴を開けたいという意志を鮮明にすることになるからです。といっても、ただ風車に突撃するわけではなく、今回の演出は周到な仕掛けを張り巡らしているように思えます。

 まず簡素なステージによって、せりふと動きで情景をくっきり浮かび上がらせるよう集中したことが挙げられるでしょう。工場のラインもありませんし、道具類も見あたりません。省略とそぎ落としによって目移りする度合いを押さえ、作品のモチーフに関心を向けようという戦略です。ステージの上だけでなく、コンベヤー作業でも下請け社員の内職家庭回りでも、周縁を巧みに使って効果を上げています。

 同時にほどほどの説明と啓蒙を心がけたように思えます。冒頭、ステージにつり下げたスクリーンで当時のコンベヤー作業の映像を映して、場面と気持ちの双方に転換の準備を促します。ステージの周りに着席している学生がベルトコンベヤー作業の動きに移るのも、会場全体でそれほど違和感なく受け入れられたのではないでしょうか。

 今回の作品は登場人物が20人余り。いわば群像劇とも言える舞台をさばくにはそれなりの腕力が必要になります。そのために採用したのは簡素なステージを逆手にとった、暗転の多用という方針でした。照明の手際はさすが。学生の試演とは思えないほど破綻なく、劇の流れにとけ込んでいました。また生のウッドベース演奏も登場します。たった1台ですが、同期したりずれたりしながら舞台を包み、雰囲気を支えていました。
 学生はみな達者でした。もうすっかり役者です。まっすぐ役に立ち向かい、ありきたりの表現ですが、すがすがしい風を受けた気がしました。

 60年代の社会を背景に、内職ストライキを取り上げた物語でしたが、さすがに現在取り上げられるだけあって台本はしっかり書き込まれています。典型的な悪役をこしらえて対立図式を煽るようなまねはしていません。ストライキの切り崩しも、下請け会社の社員が仕事を円滑に回したいと考えている行動だと描かれています。内職の女性たちも、賃上げのために一致団結というほどの覚悟でもないように受け取れます。悪意がないままそれぞれがコンベヤーに、あるいはコンベヤーに象徴される「仕組み」に巻き込まれてもがいている、と作品は言いたいのではないかと思えます。

 逆に言うと、「仕組み」に振り回されたり押さえつけられたりする抵抗感が、それぞれの人物像にかなりがっちり埋め込まれているように感じました。工員だけでなく下請け会社の社員も、また家庭の主婦らにも見て取れます。そういう原形質が、作品の底辺を支えているのでしょう。古典的な骨格が感じられるというのは、そういう意味です。

 作品成立から40年余り。60年代の高度成長、70年代の政治の季節、そして80-90年代のバブルの興隆と破綻を体験したあと、その「骨格」がどれほど変容を被っているかによって、作品に埋め込まれ、前提となるモチーフの射程距離が見えてくるような気がしました。おそらく演出の大岡さんには周知の事柄だと思われます。冒頭の「いたずら」にも、ステージの周縁を活用する演出にも、その気配ありありでしたから。

 作品のモチーフはどこに、どのような焦点を結んだのでしょうか。「役者」として初々しくても「学生」はそれなりにしたたかでもあります。「ターゲット」となった学生の受け止め方、流し方が気になります。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

追記(12/26)
 大岡さん主宰の「商品劇場」公演について、柳澤望さんのplank Blankサイトにレビュー特集「20世紀の大岡淳演出作品から」が掲載されています。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:59 PM | Comments (2) | Trackback

November 06, 2004

野鳩「きみとならんで空の下」

 今年のアリスフェスティバルに参加した野鳩「きみとならんで空の下」公演(10月16-18日)について、「うたうた」サイトが体言止めを多用した長めの感想を書き留めています。
 「ドラえもんを演劇にしたらこんな感じになるかもしれないというような、つまりはベタな展開。話はひどい状況でもマイペースな演技は変わらず。全ての過程を役者さんの演技がチャラにする。安心して観てられる。変な安心感。…ゆるゆる。しかし抜け目なくゆるゆる」

 なーるほど。「抜け目なくゆるゆる」という指摘は秀逸ですね。ぼくも見ましたが、こういう表現は思い浮かびませんでした。太極拳やヨガは、緩い動きを意識的に採用して、心身の緊張と弛緩をコントロールします。野鳩はそれと同じような方法論をとっていると感じました。新しいこころみではないでしょうか。期待している劇団の一つです。(北嶋孝@ノースアイランド舎)

「野鳩」公式サイト
□野鳩 第7回 公演「きみとならんで空の下」
 アリスフェスティバル2004参加作品
 2004年10月16日(土)~18日(月) 新宿 タイニイアリス
□作・演出 水谷圭一
□出演
 佐伯さち子
 畑田晋事
 村井亮介
 菅谷和美
 山田桐子
 水谷圭一
 吉田友則 (シベリア少女鉄道)

□スタッフ
 照明/増田純一
 舞台美術/仁平祐也
 小道具・造形部 部長/中島香奈子
 衣裳/矢島春恵
 イラスト/ル・カバコ
 宣伝美術/水谷圭一 畑田晋事
 制作/山下千春

Posted by KITAJIMA takashi : 10:45 PM | Comments (0) | Trackback

October 28, 2004

野田秀樹「赤鬼 日本バージョン」

 今年の演劇界で、野田秀樹の「赤鬼」(RED DEMON)3バージョン公演は、長く記憶に残る出来栄えだったのではないでしょうか。ぼくも日本バージョンを見終わった瞬間は人並みに心動かされたのですが、会場を出ることは、かなり違和感が湧いてきました。どうしてそうなったのか、自分なりに舞台の構造を踏まえて考えたのが、以下の文章です。少し長くなりましたが、ご覧ください。

◎クライマックスはどこにあるか 鮮やかな舞台実践とテキストとの差異
 赤鬼(RED DEMON) 日本バージョン(10.13.2004 at Bunkamura's Theater Cocoon)

 うわさの「赤鬼」(日本バージョン)をやっとみることが出来た。10月13日のマチネ、場所はシアター・コクーンの中2階席だった。中央にしつらえられたひょうたん型の舞台を斜め上からみる2時間弱。おそらく今年の演劇界で特筆される公演だと思われる。野田の成熟が存分に発揮された芝居として語り継がれるかもしれない。日本バージョンをみただけのぼくでも、容易に想像できる見事な仕上がりだった。
 また外国人を配役に加えるとか海外公演に出かけるという例はあけれど、英語だけでなく、タイ語、日本語の3バージョン公演を実現する試みは聞いたことがない。しかもそれぞれの国ですでに公演したうえで3バージョンを一挙に国内で実現したケースは、一国的な空間に閉じこめがちな芝居を、アジアを含めて多元的に展開する鮮やかな実践と言うべきだろう。

 海外の俳優をそれぞれに配置し、演出も変え、その都度野田がステージにも立つ。8月14日のロンドンバージョン(「RED DEMON」)を皮切りに、タイバージョン(9月14日から)、そして10月2日から20日まで続く日本バージョンで「赤鬼」全体が締めくくられた。

 日本バージョンで舞台に立つのは小西真奈美、野田秀樹、大倉孝二の3人。「あの女」と、知恵遅れの兄「とんび」、それに「女」にまとわりつく村の道化役「ミズカネ(水銀)」だ。また3人は乳飲み子をさらわれたと訴える母親や、村人、長老などの役を一瞬のうちに演じ分ける。赤鬼はヨハネス・フラッシュバーガー。長身、ひげ面。明らかに異人と分かる体躯と風貌である。

 筋はそう入り組んでいるわけではない。
 ある日、異人が浜に打ち上げられる。怪異な風貌から村人は「赤鬼」と名付けるが、よそ者ゆえに疎まれている「あの女」ら3人はやがて「鬼」に近づき、気持ちの通じ合う「人間」だと気付く。赤ん坊をさらったという誤解や、安住の地を求めて航海する船団の斥候役だと見破られたことなどが重なって、赤鬼と女の処刑が決まる。しかしミズカネの機転で舟を調達、3人は海の向こう目指してこぎ出す…。

 四周を座席で囲まれたひょうたん型のステージで、ポールとネットという簡単な道具で浜辺や広場、洞窟を構成する手際。海の揺れと心の動揺を身体の揺れで同期させる技法。暗転を多用して時の推移を表現する工夫。せりふを効かせるため用いられる言葉遊びと道化的=異化的な身振り。いずれも淀みなく、巧みな手筋で運ばれる。せりふも演技も、熟達した演出のタクトで可能になった。

 外国人を暮らしの中に受け入れられるか、村世界を頑なに閉じて異人を排除するのか-。海に漕ぎ出すまでの展開が押し出す問い掛けは疑いようもなく直裁で、大小のエピソードと演劇的な起伏を折り重ね、だれにもわかりやすく提起される。開始早々は野田のせりふの一つ一つに笑いで応えようと待ちかまえていた客席も、幕切れ近くになると舞台に引き寄せられ、しわぶき一つ聞こえない。終演と同時に漏れるため息に似た高揚が熱い拍手に現れている。野田の直球が確かにそれぞれの胸に届いているように見えた。

 しかし、果たしてそうなのだろうか。会場から引き揚げる満足そうな顔、顔、顔を見ているうちに、何とも言えないわだかまりが胸に巣くうのを感じた。「異人排除」だって? それでは海に漕ぎ出してからの展開は、どこへ行ってしまったのか-。

 最後のドラマは、海に漕ぎ出した小舟の上で起きる。
 赤鬼を待っているはずの船団は姿を消していた。行くあてもなく食料もないまま、漂う小舟の上で意識が薄れた「女」は、ミズカネが与えるフカのスープで命を長らえた。やがて3人は飛び出したはずの浜辺に打ち上げられる。「鬼」の姿はない。消えたなぞをだれも語らない。「女」はあるとき、自分が食べたフカのスープが「赤鬼」の人肉だと知り、崖から身を投げて死を選ぶ。「鬼が人間を食うのではなく、人間が鬼を食う」事実がストレートに投げ出されるのである。

 Web上で演劇評を掲載してきたCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)サイトで、評論家の長谷部浩は「純粋な結晶」というタイトルで次のように述べている。
 「『RED DEMON』は、単なる異文化コミュニケーションをめぐる寓話ではない。差別と被差別、自由への憧憬、人肉食と生の意味、知性の脆弱さなど、野田秀樹がこれまで執拗にこだわってきたテーマ系が、すべて出揃い、しかも縒り糸のようにからみあっていると気がついた」
 野田の軌跡を同伴しつつ考察してきた人らしいさすがの深読みだが、実際の舞台は深読み通り進行したとは言えなかった。

 野田はどこに力点を置いたのか。「RED DEMON」に関して、ロンドンバージョンに登場した役者のコメントが、会場で販売されたプログラムにずらりと並んでいる。長いけれども引用してみよう。

 タムジン・グリフィン(あの女) アウトサイダーのこと、自分と違っている者を悪魔化してみることなどが、シンプルな美しさで描かれている。…シンプルと言っても浅いわけではなく、テーマが深く明確に描かれている作品です。
 マルチェロ・マーニー(とんび) 人が自分と違うものに対してどう扱うのかということが描かれています。われわれは決して開かれていない。人種問題を乗り越えたつもりでいても、自分でも気が付かないうちに壁を作ってしまう。だから戦争がある。秀樹はそういったことを普遍的な物語の形にして伝えている、すばらしい作品です。
 サマンサ・マクドナルド(村人) だれもが人生の中で、人と違うということを感じることがあるだろうけれど、人を受け入れる寛容さが重要であると語っている作品だと思います。

 これらのコメントで指摘されるのは人種的対立、異なる意見を持つ人との対応と受容である。少なくともロンドンバージョンの役者たちはこの作品を「異文化受容」問題として受け止め、演じていた。作品の基本性格について、野田がそう解釈されるよう仕向けたことは間違いないだろう。日本バージョンもその線に沿って構成されていた。だから、異文化コミュニケーションがテーマだとする評が圧倒的に多かったのもそれなりに根拠があると思われる。

 逆に言うと、この舞台は、海原で起きる一連の出来事をあっさり端折ったとしかいいようがない。特に赤鬼を食べて命をながらえた「あの女」が真相を知って崖から身を投げ、命を絶つエピソードも、伝聞の一こまとして簡単に処理されるのである。

 他人を食べて生きながらえる-。自分の命と他人の命がぶつかり合うアポリア、その事実を自死によって贖おうとする心性を、真っ向から問いかけるはずの結末は、物語のエピローグとして手短に美しく、しかも心のひだをすり抜けるように扱われる。演じられるクライマックスは、それ以前の村での出来事に集約されているのである。

 野田が意識的にそう仕向けたのかどうかは分からない。テーマの分割を避ける無意識の知恵が働いたのかもしれない。客席を混乱させず、しかも客席に過度に重いテーマを投げかけない。これは観客に余分な負荷をかけず、しっかり感動して帰ってもらうための確かな選択だったことは間違いない。

 演じられた舞台と語られたテキストとでは、クライマックスが違っていた。「赤鬼」に見えた狭間はまた、野田芝居の人気の秘密を裏から照らし出してくれたのかもしれない。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、10月28日)

Posted by KITAJIMA takashi : 01:21 AM | Comments (0) | Trackback
 1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  | 7 |  8  |  9  |  10  | all pages