11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

September 26, 2005

ポタライブ 吉祥寺編「源」(緊急再演)

 ポタライブという風変わりな公演形態があると知ったのは1年ほど前でしょうか。1度申し込みましたが、満員で参加できませんでした。今回、縁があって「吉祥寺編『源』」公演に参加することができました。すでに柳沢さんが緻密な考察を掲載しています(9.25付)。ぼくの報告は付け足しですが、実際どんなふうに進行したか、小1時間の描写を流れに沿ってまとめてみました。柳沢論考と併せて読んでいただけたら幸いです。

 このライブが行われる直前、次のような知らせが届きました。

緊急再演 吉祥寺編『源』

「まちが演ずる、土地がうたう、記憶が踊る」
お散歩演劇ポタライブを作り始めて2年と半年。舞台に使い、共演してきた町並みが、気づかぬ間に、びっくりするくらいに変わっていることがあります。
昨日、別のポタライブの取材で三鷹を通ったとき、初めてポタライブを作った場所が、ほとんど消えかけているのを見て、愕然としました。市役所にきくと、この11月で、完全に消滅する、ということです。
急な話ではありますが、消え去る前にもう一度だけ、再演させていただくことにしました。
ポタライブの最初に作った作品は、東京のミナモトの場所でのダンス。「源」をご覧いただいた方も、そうでない方も、ぜひにご参加くださいませ。


グリーンパーク遊歩道の入り口です。

きれいな案内板。

薄汚れた掲示板もありました。

公園(広場)にふと視線を向けると、白衣姿のひとが舞っています。

自宅から石造りの階段が遊歩道に延び、自分たちの庭のように出入りできる。

道路計画で住宅が取り壊された空き地に、帽子姿の男性が立っている。風景に馴染んでいますね。

ブランコには女性が…。

ここからまた引き返す。

振り返るといつの間にか…。

道ばたに咲く花も美しい。

わずかに残っている建物の前で…。

白衣の舞の傍らで、五体投地か転倒か。

パフォーマンスは続く。
 前回のポタライブは満員で参加できなかったので、すぐに申し込みました。
 9月18日(日)午後3時、JR三鷹駅集合。主宰の岸井大輔さんがガイド役を務め、参加した5人を前にまず、駅の説明から始めました。  「三鷹駅は武蔵野市と三鷹市のちょうど境界線に建っています。このタイルが境界線上にあるはずです」とタイルを靴で示した後、「駅の案内板を見てください」と言う。  顔を上げると、確かに左(南口)が三鷹市、右(北口)が武蔵野市の町名が記され、きれいに分かれています。これが約1時間続く「散歩」のスタートでした。

 「もうひとつ、この駅の真下を、玉川上水が流れているんです」
 エーッ、ほんとかね。開始早々いきなり顔面にパンチを食らった感じでした。
 玉川上水は、多摩川上流の羽村から9市4区(羽村市、福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、武蔵野市、西東京市、三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区)を通り、四谷大木戸までの総距離約43km。江戸時代は人びとの飲み水を賄ってきたそうです。それが駅地下を流れている? 確かめようじゃないか。
 北口(武蔵野市側)に出て駅裏の小川に降りていくと、流れは駅の手前で地下に消えています。その行き止まりの小さなスペースに、緩やかに動いている人影が見えました。白衣をまとい、葉陰から漏れてくる陽光を浴びながら、手足を広げて鶴のように舞っています。太極拳の稽古かな、邪魔しちゃまずいなあ、と思って進んで行っても動きは止まりそうにありません。そうか、パフォーマンスなのだ!
 初っぱなの軽い連打で、ぼくはすっかりポタライブにさらわれてしまいました。

 やがて上水沿いの遊歩道を歩きます。両側の遊歩道は、三鷹側が舗装され、武蔵野側は土のまま。川縁も三鷹側がコンクリートで固め、武蔵野側には植木が生えたりしてほぼ自然の景観が保たれています。
 「市内の空き地をどのように利用するか、武蔵野市が住民アンケート調査をすると、6割ぐらいが『原っぱ』にしてほしいという結果が出るそうです。自然にあまり手を加えないでそのままにしておくのが多数のようですね。右手の原っぱもその一つです」

 道路の向こうに広場が広がっています。片隅には遊具があり、大きな木が茂っているけれど、真ん中は確かに原っぱです。かけっこしている子供たち、ボールを蹴っている大人が…。と見ていると、スキー帽(のようなもの)を頭からすっぽり被った人が案山子のように立っていました。ブラウン系の汚れた色合いの衣服を身に着けています。まさか案山子のはずはありません。出演者なのでしょうか。近くの石の上を真っ赤なシャツに白っぽいスカートの女性が飛び跳ねながら渡っていく姿が飛び込んできました。ベンチに座っているお年寄り、立てかけるように置かれた自転車、それに乳母車。原っぱに似つかわしい風景がそこにありました。

 「玉川上水が通るようになってから、この辺りは田畑になりました。道が碁盤の目のようになっているのは、その用水路の跡です」と説明が続く。細いけれどもまっすぐ延びた道の先に、赤いシャツの女性が何気なく立っています。やっぱり出演者だったんだ。

 やがて遊歩道から離れ、道路沿いに進むと境浄水場が見えてきます。もうこの辺りは武蔵野市です。 「昔は用水に引く水量を加減したり、汚染など水の扱いに注意を払っていたのも、下流で飲み水に使われるからですね」。岸井さんの語りもすんなり飲み込めるようになっていました。

 浄水場の東側に沿って、珍しく煉瓦敷きの細道が続いています。戦後間もないころ、その先は東京グリーンパーク野球場につながっていました。旧中島飛行機工場跡地に建設された野球場は数万人を収容できるほど大規模で、オープン時はプロ野球が開催されていたそうです。しかし1年で閉鎖、幻の野球場となりました。鉄道も廃線です。グランドの土が関東ローム層のため、土ぼこりが風にあおられて満足に使えなかったのが原因と言われています。

 線路跡はその後、遊歩道に姿を変えました。いまはグリーンパーク遊歩道と呼ばれています。しかし、その遊歩道も近々、姿を消すことになりました。東京都の道路計画が進んでいるからです。

 「ポタライブはここが発祥の地です。2003年4月にここで始め、何度か実施しましたが、舞台自体が消滅することを知って急遽、公演を決めました」と岸井さん。初演当時歩道脇にあった住宅はほぼ姿を消し空き地になっていました。「歩道を自分たちの庭のように使っていた」石積みの階段だけが、取り壊された住宅の気配を残しています。

 軽装の年配夫婦や自転車に乗った主婦らが行き交う歩道を、そんな説明を聞きながら進んでいくと、駅からの途中、2、3度姿を見かけた白衣の人が、ずっと遠くで踊っている姿が見えます。すぐ横の公園でブランコに乗っている女性は、あの赤シャツ、スカート姿の女性。汚れた衣服のパフォーマーは、いつの間にか廃屋跡地に立っている…。

 通りかかりの人も立ち止まったり、パフォーマーの脇をすり抜けたり。パフォーマーもぼくらを追い越していったり、突然視界に入ってきたり。スキー帽の男は遊歩道を折り返して解散地に近づくと、細い道に身体を投げ出す動作を繰り返していました。これは五体投地なのでしょうか。チベット仏教の究極の巡礼作法がここでは、消えゆく景色を慈しむ儀式と重なっているように思えました。

 散歩は終わりました。間もなく緑に覆われた遊歩道も姿を消し、後には、東京都が建設した広い道路が延び、車列が行き交う光景に様変わりするでしょう。


 駅の地下を上水が通っているのは、近代の発展が地底に追いやったとも言えるし、上水はそれでもしぶとく生き残ったとも言えるでしょう。三鷹、武蔵野両市の施策の違い、原っぱづくりを支える住民、水源地としての生活作法を刻んできた歴史、消えた鉄道といま貫通寸前の道路計画、消える風景とリアルな現場と…。「舞台とは、視線が集中するように組織された場所」(柳沢望「ポタライブの『源』」)だとすれば、ポタライブという方法論によって、土地の変遷(歴史)もまた、かけがえのない舞台装置となり作品となるのです。

 柳沢望さんは前掲の論考で次のように述べています。

 歩いていって角を曲がって、風景が開けたとき、そこに不意に出演者があらわれている。後ろから出演者が追い抜いていくこともある。からだを運び視野が動くこと自体が含んでいるドラマの可能性がポタライブでは時折見事に活用される。(中略)演技者が遠景のなかに置かれて、観客は遠くから目をこらすこともあるし、風景の片隅に演技者が立つことで、風景全体が際立つようなこともある。
 これは、「役者中心」「演技中心」的な舞台観からは出てこない、ドラマ的な動的造形の可能性だ。舞台の中心に立つことを特権化するのではない仕方で、多様に移り変わる関係の中に視線が結び付けられ、それが舞台を生み出し、様々に身体や事象が点在する風景そのものが舞台として造形されてゆく。

 「多様に移り変わる関係の中に視線が結び付けられ、それが舞台を生み出し、様々に身体や事象が点在する風景そのものが舞台として造形されてゆく」という表現は、あまりに演劇寄りと言われるかもしれません。その土地、その町(街)の記憶を読み直す作業が、必ずしも演劇を要請しているかどうか自明ではないからです。しかし土地の記憶を立ち上げる方法が、土地の多様性と同じように多様であれば、それはどのような呼称であるかを求めてはいないでしょう。土地(とそこに住む人びと)の歴史と記憶を揺り動かすことによって浮かんでくるイメージとその奥行きが、そこを歩く人びと、見つめる人びとに照射されるよう願っているのではないでしょうか。

 ポタライブの試みによって舞台の可能性が広がります。演じる側も見る側もまた、演出・演技のありようだけでなく、作品という枠組み自体を見直さなければならなくなりそうです。きわめて印象的で、かつ刺激的なスタイルに出会った1日でした。

 今回が 「源」の最終公演になってしまったのは本当に残念です。必要以上にことこまかな紹介だったかもしれません。しかし2度と行われることのない公演への言祝ぎであり追悼の儀式だとみなしてご容赦いただきたいと思います。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 2005.9.27補筆 28日写真追加)

[参考情報]
 ・ポタライブ( 劇作家岸井大輔 website ) http://plaza.rakuten.co.jp/kishii/
  ポタライブ通信 http://plaza.rakuten.co.jp/kishii/diary/200509210000/

 ・玉川上水(東京都水道局) http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/tamagawa/
 ・境浄水場見学記 http://www.nakaco.com/suidou/water%20supply/Tokyo/sakai.htm
 ・東京グリーンパーク野球場(武蔵野市) http://www.city.musashino.tokyo.jp/profile/musashino100/04.html
 ・東京スタディアム(グリーンパーク) http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/yakyujosi/kanto/greenpark.htm


[上演記録]
ポタライブ クラッシック 「源」
15時 JR三鷹駅改札前待ち合わせ(14時45分より受付開始)

作・演出・案内 岸井大輔(劇作家:ポタライブ主宰)
出演 木室陽一(ダンス:ポタライブ主宰)榊原純一(おどり)丹羽洋子(ダンス)

Posted by KITAJIMA takashi : 04:45 PM | Comments (0) | Trackback

August 26, 2005

しずくまち♭「卒塔婆小町 vol.2」

 「しずくまち♭」は「芝居者と音楽家の表現ユニット」と名乗るだけあって、音楽に、ここでは楽器の選定と使い方にこだわっているようです。今回の「卒塔婆小町」は、2001年に利賀村で初演以来、何度か取り組んできた演目だそうですが、昨年末から俳優は3人だけ、音楽もアコースティックな楽器だけというシンプルな新演出で再スタートしました。そのとき使われたピアニカとボンゴのほか、今回はアイリッシュハープに替えてピアノと三味線が生演奏されていました(8月21日、荻窪・クレモニア)。

 老婆の役を受け持つのは三味線でした。奥行きの深い三味線の響きは、若き日の恋物語を、陰影深く浮き彫りにするのに格好の器を提供しました。詩人役はピアノでした。もっぱら澄んだ、線の細い響きに終始しました。役柄に楽器を割り振るというオーソドックスな対応だったと思います。

 老婆役は、伊藤美紀、詩人役は演出も兼ねるナカヤマカズコでした。二人ともほぼ同じ背丈で、声もそれほど際だった違いがありません。楽器の配分よりも、お互いに分身と思える女性二人がほぼ50分余り、休みなく物語を話したり聞いたり、ひっきりなしに遣り取りする舞台から、一つのイメージが問わず語らず立ち上ってきます。それは老婆と詩人のダイアローグではない、老婆の胸中から発する物狂おしいモノローグではないか、物狂いが次々に自己増殖する幻影のドラマではないか、というかイメージでした。最小限の俳優で作る舞台に、それはふさわしい構えかもしれません。音楽の造形作用とイメージの自己増殖/自己開花を結びつけた珍しい舞台だったのではないでしょうか。

 「三島由紀夫はこの作品の中で、日本と西欧、二重の視点から『永遠』を描いているように思われます。今回はそのぶれを、そのままなぞってみようと考えました」-。プログラムにそう書かれていますが、ぼくの器では、そこまで上昇した観念を受け止めかねました。獅子丸の役割も音の響きも、明快な像を結んでいなかったような気がします。

 会場は東京・荻窪の音楽スタジオでした。30人ほどでいっぱいでしたが、「場所を問いません。体育館、会議室、レストランでも上演可能です」というだけあって、楽器さえあれば、生演奏付きでほとんどどこでも公演可能なスタイルです。「半音下がった視点から 物語を言葉として音として立ちのぼらせて行く。想いが液化する瞬間……感情の露点を私達は描きます」(Webサイト)というこのユニットの特色を、よく表した公演だったと思います。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 8.28補筆)


[上演記録]
しずくまち♭「卒塔婆小町 vol.2
■場所:音楽専用空間クレモニア (東京都杉並区荻窪)
■日時 8月21日(日)
■作 三島由紀夫
■演出 ナカヤマカズコ 岡島仁美
■作曲 侘美秀俊
■出演 伊藤美紀 ナカヤマカズコ  岡島仁美
■演奏 ピアノ:侘美秀俊 ボンゴ:由田豪 三味線:和姿子
■衣装 まちことなおこ

Posted by KITAJIMA takashi : 09:33 PM | Comments (0) | Trackback

August 21, 2005

東京黙劇ユニットKANIKAMA 「collection vol.2」

 パントマイムを中心に活動する小島屋万助さんと本多愛也さんの2人が作るユニットKANIKAMA。カニカマボコが名前の由来らしいのですが、ぼくがみた最終日18日のステージはどうしてどうして、鍛えの入った技だけでなく、緩急を効かせたソロマイムやボケとツッコミのコンビ芸に涙が出るほど笑ってしまいました。「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんが的を射たレビューを掲載しています。ちょっと長めになりますが、次のように報告しています。

黙劇ということで、作品としては基本的に演者2人のパントマイムで物語が進みます。 全部で5作品、それぞれにタイトルが付いておりまして、明確な状況設定がタイトルでなされます・・・トータルで1時間20分。一番初めの作品がペンキ塗りの作品だったのですが、この作品があんまり面白くなかった・・・(略)劇場の笑いもクスクスぐらいで、正直残り4作品が思いやられる作品だった。 けど、その残りの作品は一番初めの作品とはうって変わって、マイムの面白さを多方向から切り開いてみせてくれる作品群でした・・・どの作品も面白かったなぁ。 特に度肝を抜かれたのは、本多愛也さんが1人で演じられた「白球」・・・2本目の作品です。(略)大勢の人間をたった1人で演じ分けるという凄さもあるわけですけど、それ以上に感心したのは、作品構成の上手さです。

やっぱり、見抜いているのですね。

 小島屋万助さんの「出勤」(第3作)は忘れっぽいサラリーマンがカギの所在が分からなくなる動作を飽きもぜず繰り返すことから生まれるおかしさがモチーフでしょうか。4作目の「占い師」は通りかかったサラリーマンをなんだかんだと言いながら占いに引きずり込み、お金を巻き上げる一幕。「雨に唄えば」のバックミュージックも生きていたと思います。5番目の「対局」は将棋で張り合う2人の息の合った遣り取りです。

 なかでもやはり2作目の「白球」が抜群のおもしろさでした。本多さんが野球の形態模写をするパフォーマンスです。投手、捕手、打者、応援団、審判などの動きを次々と1人で表現します。その方法がまた多彩でした。

 まずある動作の終わりが次の動作の始まりにシームレスに接続しているのです。例えば、投手が捕手のサインをのぞき込み、首を何度か振った末に投げるのですが、その投球動作がそのまま打者のスイングに接続され、さらにキャッチャーの捕球動作へと滑らかに一連の動作として表現されます。さらに打者が走り、野手が捕球、送球。塁審が両手を上げてセーフの判定、と思ったら左右に伸ばした両手は前後左右に規則的に振り下ろされたり振り上げられたりして応援団のしゃちほこばった動きに変わり、太鼓叩きや校旗持ちのユーモラスな動きに移行するのです。ある時はゆっくりと、ある時はずんずん加速していきます。簡単なように見えて、練り上げた技が生かされているように思えました。夏の高校野球大会が開かれている最中でしたので、舞台がいっそう身近に感じられました。

 もうひとつ、連続技のほかに、動作の切り替えにアクセントを付けて反転したり、切り替えをあえて明示する方法も随所に見られました。連続と反転、それに緩急。これらは身体表現の基本なのでしょうが、そんか小難しいことはまるで感じさせないまま15分余りの熱演で観客を笑いの渦に巻き込んでしまいました。いやはや、参りました。

 演出の吉澤耕一さんは、遊機械◎全自動シアターの初期に構成・演出を担当していました。確かにその舞台はいろいろ工夫されて作られているのですが、見る側の緊張や警戒心を気付かないうちに解き放ち、いつのまにか劇の中にぼくらを溶け合わせる心憎い技を発揮していたと記憶しています。その手法は健在でした。2人の技だけでなく、演出の目配りが効いていたと思います。


追記(8.23)
 「おはしょり稽古」のあめぇばさんが東京黙劇ユニットKANIKAMA 公演を「夏の空き地におじさんが二人」というタイトルで取り上げています。二人のマイムがチャップリンではなく、無声映画時代のディズニーを連想させるというポイントを押さえながら、日本的な「間」について次のように指摘しています。

このソロパフォーマンスも、特筆すべきは「間」だと思う。さぁ始まるぞ、決着つくぞ、ってところでカメラが応援団の風景を映す。鍵が無い無い無いって捜してるサラリーマンがふっと冷蔵庫開けて涼んでしまう。ついでに中のアイスかなんか食べてくつろいでしまう。ついでに言うと本田愛也の女役はどれもミニーマウスやベティーちゃんに似ていた。

なるほど。指摘が具体的で納得でした。なるほど。


[上演記録]
東京黙劇ユニットKANIKAMA 「collection vol.2」
新宿タイニイアリス(8月16日-18日)

出演 小島屋万助(小島屋万助劇場)、本多愛也(ZOERUNAassociation
演出 吉澤耕一
照明 吉澤耕一
照明操作 青山崇文、根本諭
音響 木下真紀、吉岡英利子
音響操作 吉岡英利子
舞台監督 杉原晋作
宣伝美術 中山京子
宣伝写真 伊東和則
記録 藤本真利
制作 Kanikama制作部

Posted by KITAJIMA takashi : 10:27 PM | Comments (0) | Trackback

August 15, 2005

和栗由紀夫+上杉貢代「神経の秤」

 和栗由紀夫+上杉貢代「神経の秤」公演が8月4日-5日の2日間、東京・麻布die pratze で開かれました。舞踏の世界で、土方巽の弟子(和栗)と大野一雄の弟子(上杉)が共演するのはきわめて珍しいそうですが、その世界に疎いのでともかく舞台に目を注ぐことにします。
 最初は和栗のソロ約20分。次が上杉のソロ約20分。最後が2人で共演というか、「歩み寄る」という象徴的なシーンを作ります。

 和栗のソロは、場所的移動を極端に押さえたパフォーマンス。中央に立つ、というか佇むというか、やや腰を落としたまま、頭、目、眉、鼻、頬、額から始まり、首、肩、腕、手首、手のひら、5×2の計10本の指それぞれが反ったり撓んだり歪んだりきしんだり、お腹も背中も足脚以下も同様に微細な動きが次から次へと伝播するように、目に見えるほど筋肉の緊張が伝わっていきます。目の玉も大きく見開かれたりあらぬ方向を向いたり、それぞれの器官が左右違った動きを見せたり。ほとんど動かない身体は、みる側を息苦しくさせるほど。白塗りと言うか、土色の肌に筋肉の張りつめた形が現れるのを固唾をのんでみていました。

 舞台の後ろは白い幕を左右でからげ、出入りできるようになっています。和栗のソロが終わるころ、右手の幕から上杉がうつぶせになるぐらい身体を這わせて待機、和栗の退場とともにククククッとステージ中央に登場します。黒紫のドレス姿で円を描くように走り回ったり、暗転で大ぶりの着物姿に早変わりしたり、キツネ(犬?)面を被って踊り、面だけ客席に向けて後ろ姿のままのパフォーマンスを見せたり、豊かな表情とステージをいっぱいに使った動きが対照的でした。

 最後のステージは30分あまり続いたでしょうか。「白鳥のめがね」サイトのyanoz さんは次のように述べています。

この公演は、ラストーシーン、上杉と和栗の二人がステージの両端からゆっくりと歩み寄っていく場面が全てだった。
すくなくとも私にとっては、上杉の、まったき感受的な場となったかのごときまなざしを差し向けながらの、一歩一歩がふるえる息吹であるような歩みと、和栗の、眼を馬のようにして、硬く引き締まった筋肉をじりじりと駆動させていく歩みとが、互いの気配を緊迫させながら空間を占めてゆく、この音楽抜きのひとときに立ち会えただけで、十分だった。この時間だけを一時間たっぷり味わう事ができたらどれだけ素晴らしかった事だろう。

 2人の共演をプロデュースした舞踊評論家の志賀信夫さん(デュカスの日記舞台批評)によると、次のような経緯があったそうです。

企画は元々、和栗由紀夫さんと上杉貢代さんの舞踏、特にソロ部分がとても好きだったので、一度一緒に踊ってもらいたい、ということがきっかけでした。
 お話をもちかけても、最初はなかなかウンといって頂けず、一晩3人で飲んでようやくっていう帰り際、「やっぱりやめようか」ってなったり。
 でも実際に動き出してからは、結構スムーズに行かれたようで、最初上杉さんも15分くらい顔を出すだけ、というところから次第に積極的になられて、最終的にはコラボレーションといえるにふさわしい舞台になったと思います。4回のリハーサルであそこまで舞台が作れるのは、やはりプロです。特に後半の2人が絡む場面は、美しく感動的でさえありました。

 志賀さんが司会を務めたポストパフォーマンストークで、この公演の枠組みは和栗提案に沿っていたことが分かりました。「土方舞踏は空間とフォルムの型はあるけれど、時間は踊り手に任されている。この機会に土方舞踏を丁寧に踊ってみたかった」という和栗さんに対し、上杉さんは最初戸惑ったようです。「習っていたクラシックバレエは型そのもの。それが堅苦しくて、型のない大野一雄に引かれた。しかし今回は型のない不安はあったけれど、無防備でいこうと決めてから入り込めた」と話していました。2人の間柄について和栗さんは「わけ登るふもとの道は違えども、同じ高嶺の月を見るかな」という歌を何度か引用しながら、「同世代で話の合う”戦友”」と表現していたのが印象に残っています。

 蛇足を承知で付け加えますと、「神経の秤」はアントナン・アルトーの作品から取られています。「アルフレッド・ジャリ劇場を創設し、身体演劇である『残酷劇』を提唱。現代演劇に絶大な影響を与える」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と言われています。音楽は「バルトークやリストが好き」(和栗)「いつかワグナーの『トリスタンとイゾルデ』や『タンホイザー』で踊ってみたかった」(上杉)と話していました。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:59 PM | Comments (0)

August 10, 2005

南船北馬一団「どこかにいます」

 大阪を拠点に活動している南船北馬一団が、2000年夏に上演した「どこかにいます」の改訂版再演を東京・梅ヶ丘BOXで開きました(8月4日-7日)。子供のころの友達関係やほのかな好意を、大人になってから記憶の底をかき回しながら引き揚げるとどうなるか-。いまの微妙な人間関係を映しつつ、繊細かつ濃密に作り上げるサイコスリラーとも言える舞台になっていました。

 いまは廃校になっている小学校の講堂、という舞台設定です。成人式から8年後に再会を約束して集まった女性2人、男性1人の元同級生。やがて男性と結婚した同級の女性が欠席することが明らかになり、その女性が好きだったクラスメイトの男性との関係をめぐって話がもつれていく…。いやその前に、先に来ていた女性の間でも、無意識か隠微か判然としないいじめの加害と被害をめぐってエキサイトしたり、未婚既婚の差異を微妙に投影しながら、起伏と緩急の織り込まれた会話が続きます。手元に台本がなくて具体的に再現できないのが残念ですが、他人には計り知れない「ささいな」いじめ行為をいささか辟易するほど丹念にあげつらうときの運び方に作者の力量がうかがえるように思えます。

 現在は過去とのつながりで成り立っているとの強い執着が、無意識のうちに登場人物を支配しているようです。やり取りすることばはまっすぐ相手に向けられ、退路を断つほどに追い詰めるので、心理的緊張は次第に高まっていきます。舞台に立つ3人の関係が段々濃縮され、ラストのクライマックスでいくつかの謎を仕掛けたどんでん返しが用意されています。

 過去と現在を出入りする演出にも工夫が凝らされていました。会場は狭かったのですが、その狭さを逆用するように、実際の出入り口がそのまま講堂の出入り口とされ、入ったすぐ前のスペースがステージになり、座席はその両側に作られていました。昔の大事な記憶を蘇らせる場面は、白いレースのカーテンがざざっと引かれます。ライトを絞りながらカーテンの内側で交わされる会話は、確かにベールのかかった空気を醸し出していました。

 思い出探しの旅はどこかで、さまざまな距離感を失いがちです。その旅が同級会という場で実行されたら、現在の人間関係とはまた違った局面をもたらすのでしょうか。それぞれの感情の接近・遭遇という心理状態を克明に、ドラマ仕掛けで見せてもらった気がします。2001年度の第7回劇作家協会新人戯曲賞を受賞した作者の才能の片鱗が見えたと言っていいでしょうか。

 作・演出の棚瀬美幸さんは海外研修派遣制度によるドイツ留学が決まっているそうです。しばらく活動休止する最後の公演とのことでした。厳しい寒さとそびえ立つ建築物の土地に1年余り滞在した後、どのような演劇体験を持ち帰ってくるか楽しみです。
 東京公演は終わりましたが、大阪公演が8月18日から精華小劇場で予定されています。

[上演記録]
南船北馬一団「どこかにいます」
東京・梅ヶ丘BOX(8月4日-7日)

作・演出:棚瀬美幸
出演:藤岡悠芙子 谷弘恵 後藤麻友 末廣一光 他

舞台美術:柴田隆弘
照明:森正晃
音響:大西博樹
舞台監督:中村貴彦
チラシイラスト・デザイン:米澤知子
企画製作:南船北馬一団

Posted by KITAJIMA takashi : 07:23 PM | Comments (0)

August 08, 2005

大橋可也&ダンサーズ「サクリファイス」

 「ハードコアダンス」を掲げる大橋可也&ダンサーズの公演をみてきました(神楽坂die pratze、8月2日)。大橋さんの名前は「かくや」と読むそうです。昨年の「あなたがここにいてほしい」公演をみた舞踏評論家の石井達朗さんの推薦で、今年の「die pratze dance festival ダンスがみたい!7」に出場することになりました。「あなたがここにいてほしい」というと、思い浮かべるのはPink Floyd のアルバム「WISH YOU WERE HERE」ですが、この公演は未見なのでコンセプトなどで関連があったかどうか分かりません。石井さんの推薦文には「男(大橋)と女(ミウミウ)の間にある永遠の溝としての身体性が、スカンクのノイズ音により幾重にも増幅された。ソリッドな身体が加速度的に追い込んでいったものは、自虐とも加虐ともつかないエロスである」とあります。期待と好奇心で足を運びました。

 開演前、客席から普段着の男女数人か舞台奥のパイプいすに腰掛け、客席に向かって横一線に並んでいます。主宰の大橋さんが「これから始めます」と言ってステージを去ると、そのうちの女性2人が踊り始めます。1人は狐(犬?)面を着け、指を鳴らしながら舞台の前の方を横歩きで往復したり、四周を素早く動いたり。ベビードールを着た女性はときに調子っぱずれで歌います。この歌は「白鳥のめがね」サイトによると「cocco の『強く儚い者たち』だそうです。
 次はバットを振り回す女性が登場します。床に大の字に寝そべったりしていると、突然教育改革を熱っぽく論じるテレビ番組の音声だけが流れてきます。バット女はその音声にほとんど関わりなく、バットを振り、動き回ります。
 3番目は…記憶がぼやけたので、「ブロググビグビ」サイトの助けを借りると、「ラムネ菓子を並べてつくったテリトリーの中で足を拘束されているキャミソールの少女と、客席や舞台後方をめがけて暴れる男の子」。最後に柄物のサマーシャツにハーフパンツ、頭に野球帽(だったでしょうか?)を乗っけたオッさん風の男性が舞台中央に登場しますが、少しの間ギクシャクと手足を動かして、そそくさと引き揚げてしまします。

 「白鳥のめがね」サイトのyanoz さんは最初のシーンに関して「二人出ていてもデュオというわけでもなく、平行して進行するその隔たっている印象が心に残る」と述べています。「ブロググビグビ」サイトの伊藤亜紗さんは「大橋可也の舞台は、二つの人物中心がディスコミュニケーションなまま並存している」「舞台上におかれた二つの要素は、並置されてディスコミュニケーションの関係にあるけれど、お互いがお互いにとっての「ノイズ」になりながら片方のみに集中することを妨げ、観客を煩わす」「煩わし合いは却って二人をそれぞれの一点へむけて閉じさせる」と指摘しています。

 今回の公演は前回の「ソリッドな身体が加速度的に追い込んでいった」とか「自虐とも加虐ともつかないエロス」というイメージとはかなり離れ、「かみ合わないけどバラバラとも言えない」「バラバラだけれども、よくどこかで見かける」という、ぼんやりした既視感や希薄な現実感が澱のように残りました。
 公演は1日だけ。主催サイドの都合だったようですが、会場は満杯の熱気でした。

[上演記録]
大橋可也&ダンサーズ「サクリファイス」
麻布die pratze (8月2日)
【出演】
ミウミウ、江夏令奈、関かおり、垣内友香里、皆木正純、ロマンス小林
【振付】
大橋可也
【音楽】
スカンク(MEXI)
【照明】
遠藤清敏
【舞台監督】
十亀脩之介

Posted by KITAJIMA takashi : 05:19 PM | Comments (0) | Trackback

July 27, 2005

ケイタケイ'Sムービングアース「ライトpart4“ジグソーパズル”」「ランチ」

 東京のdie pratze を舞台にした「ダンスが見たい!7」は今年「批評家推薦シリーズ」を始めました。多くのフェスティバルではなぜその団体が参加したのか不明な場合が少なくないけれど、この方式は選出の理由やダンスの特長が、推薦者によって明らかになるがありがたい。ケイタケイを推薦した舞踊評論家の山野博大さんは「オックスフォードの舞踊事典には、伊藤道郎、森下洋子、土方巽、天児牛大、吉田都と並んでケイタケイの名前が載っている。日本人舞踊家の名前が外国の舞踊事典に載ることはほとんどないのだから、彼女に対する海外での評価が高いことが、これでわかると思う。(略)1967年にニューヨークに渡り、苦労の末にムービングアースを主宰するまでになった。彼女の『ライト』シリーズの評価は高い」と書いています。

 公演はライトシリーズの1作と近作の2本立て。最初のライトシリーズは 「part4 ジグソーパズル」。ケイタケイがポリウレタン製と思われる白板の破片を文字通り、床に敷き詰めていく。数人のダンサーは次第に踊るスペースが狭くなり、あちこち揺れ動くように追い込まれ、最後にステージから出されてしまいます。始まるとすぐに、結末は見えていますが、パズルの並べ方とダンサーの揺れ具合の微妙な関係が、踊りの稜線を描くことになります。自明な結末はさておき、その「微妙」のプロセスに付き合うことができるかどうかによって、集中が持続するか弛緩するかの分かれ道になりそうな気がします。
 「白鳥のめがね」サイトのyanoz さんは、「白い切片を床にしきつめていくプロセスが作品の軸になっている」とした上で、次のように指摘しています。

ダンスは、読み取られるべき形をプロセスに与えるための媒体となっているかのようだ。どのように解釈するかは別にしても、何かの寓意がいかようにも読み取れるようなドラマの原型をなすようなものが、作品の構造に織り込まれているのだとおもう。だが、プロセスそのものが身体の状態を変えるということはない。作品としての展開と身体運動は、どこまでも並行関係を保ち続けるかのようだ。 そこにケイタケイの作品の限界があるとも言えるのかもしれないけれど、それはそれで、舞台作品としてゆるぎなく構成されているとも言える。

 後半の「ランチ」は、夫(あるいは父親)らしき男性と妻と娘らしい女性2人、それに猫の仕草を軽やかに演じるウエイターが登場。レストランのテーブルを囲んでステージが始まります。宝飾類を皿に載せ、ナイフやフォークで突き回す男、テーブルをナイフとフォークで切ろうとしたり、皿ごとテーブルにこすりつける女たち。ぎこちないが故にユーモラス。そんな動作に思わず頬が緩みかけると、男が女たちに向かって、ブラジャーの紐がはみ出しているなどと文句を言います。一瞬氷付く空気。やがて床にまき散らされた貝殻を拾い、奴さんのようなスタイルで女たちが踊ります。男はときにいすを持ち運びながら踊りに巻き込まれ、軽やかな時間を共有したようにみえます。やがて再びテーブルを囲んだとき、食卓には和やかな時間が流れます-。

 こちらも、作品の出口が明確だとの印象を与えます。しっかり構成され、コンセプトは明晰。身体の動線も突発的衝動的なところはみられず、あらかじめ描かれた了解ポイントを静かに美しくたどっていくように思えます。
 ケイタケイは1967年ニューヨークに渡りジュリアード音楽院舞踊科に留学。学生時代よりケイタケイ'Sムービングアースを学生仲間と結成、アメリカ、ヨーロッパでの公演活動が高い評価を得ていたそうです(Muse company サイト)。60年代アメリカのモダンダンス活動の中から生まれた、きわめて独創的なダンスであることは間違いないでしょう。古典的なたたずまいを感じたのはそのせいかもしれません。

[上演記録]
■ ケイタケイ'Sムービングアース
「ライトpart4“ジクゾーパズル”」「ランチ」
麻布die pratze(7月21日-22日

作構成=ケイタケイ
出演=石田知生 岩崎倫夫 木室陽一 大塚麻紀 西巻直人 ケイタケイ 岩崎倫夫 石田知生 大塚麻紀 西巻直人

照明/清水義幸
音響/越川徹郎
舞台監督/河内連太
衣装/ケイタケイ
協力/早田洋子 原口理

Posted by KITAJIMA takashi : 10:42 AM | Comments (0) | Trackback

July 17, 2005

劇団あおきりみかん「ホップ・ストップ・バスストップ」(東京公演)

 名古屋を本拠とする劇団あおきりみかん「ホップ・ストップ・バスストップ」の東京公演が新宿のシアターモリエールで開かれました(7月9日-10日)。名古屋公演の模様は先に紹介しましたが、東京公演も内容はほぼ同じだったようです。開幕するといきなり、バス待ちの長い列が舞台いっぱいに延びています。その列に並んだ人たちがバス停ごと、男女2人に乗っ取られます。いわゆる「バス停ジャック」の始まりです。

 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは「基本的にテンション芝居・・・私、芝居してますよ!っていう空気が体や台詞からブワ~って放たれてくるのでは、私は冷めてしまったりしてしまうのですが、客席の笑いの大きいこと大きいこと・・・お客さんが笑いたくなるのも十分理解できる・・・だって面白いから」と要約しています。また「「敏腕Pの日々のつぶやき」サイトのtakahashi_pさんは「台本には多くの破綻があるものの、それすら魅力に感じるほどの“役者熱”が魅力で」「とにかくやってる面々が楽しそうだし、弁護士役(竹之内豊似?)やパー人役など、個々の力量が高かったので安定感がありました」と評価しています。

 よく動く身体と過剰な身振りや発声、あり得ない状況設定と意表を突く行動があいまって、舞台に笑いをまき散らします。これぞ小劇場のエンターテインメント、こってりしたシチュエーションコメディーという舞台に見えました。
 終演後、ほぼ満員のお客さんがなかな席を離れません。一斉に感想文を書き込んでいるのです。劇団の熱意が客席に通じた瞬間だったのではないでしょうか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:49 PM | Comments (0) | Trackback

July 14, 2005

劇団桃唄309「ブラジャー」

 劇団桃唄309「ブラジャー」公演が、オープンしたばかりの東京・吉祥寺シアターで開かれました(7月7日-11日)。桃唄はこのところ「多数のシーンを暗転などを全く用いずに間断なくつなげることで、人物像や人間関係、社会状況や歴史的背景などを俯瞰してみせる手法が中心」(劇団Webサイト)の舞台を提供してきたようです。この手法は今回も踏襲され、取り上げた題材はタイトル通り「ブラジャー」です。

 舞台上にセットらしきものはほぼ皆無。正面奥に、役者を乗せて移動する2メータ四方のキャスターがあるだけです。ステージは照明で正方形に縁取りされ、内側で役者が演じ、薄暗い外側は衣装や小道具の準備をしたり座って待機したりというオフ空間として処理されます。「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんはこの辺りを「舞台というリングに出たり入ったり・・・表現空間へと入り込むその瞬間の役者の変貌が面白かったりします。なんか・・・芝居というよりは、祭事のように見えなくも無い」と書き留めています。ブラジャーの歴史をさまざまなエピソードを交え、登場人物がさまざまに出入りする群像(+ミシン)劇として構成します。終演後には「祭事」ということばが不思議に記憶に残ります。

 作・演出の長谷基弘さんによると、ブラジャーは近代ヨーロッパで「再発明」され、身体を締め付けるコルセットを瞬く間に駆逐。この芝居は当時誕生した中産階級、女性労働、そしてミシンや化学繊維、ファッション意識の転換など社会の変遷をからめ、そいうブラジャー史をエンターテイメントとして描こうとしているそうです。
 スッピンのステージで、ミシンとボビン(糸巻き)の誕生、活躍から、やがて廃用品として忘れられ、その後手作りブラジャー製作用にさび付いた個所を整備し直して再登場。最後に寿命が尽きてこと切れるまでが狂言回しというより、物語の縦糸として織り込まれています。ですから、ミシンとボビンの幸せな(としか言いようのない)一生を葬送=言祝ぐ時間と空間とみなせばなるほど、「祭事」にふさわしい舞台なのかもしれません。

 冒頭、舞台上手奥から、ブラジャーの幟を立てた一行十数人がマント姿でトランクなどを携え、一列になって登場します。アンゲロプロス監督の映画「旅芸人の記録」の冒頭シーンかと一瞬戸惑いましたが、映画のような現代史の濃い影が差しているようにはみえません。一行はぐるりとステージを回り、やがてばらけて、照明外のオフ空間に散らばります。
 そこから1時間40分余り、ミシンの豆知識から大勢の人物の出し入れ、開発、製造、販売のエピソードや過去と現在の組み合わせなど、めまぐるしいほど場面は切り替わります。しかし混乱することはなく、むしろ整然といっていいほど鮮やかで確かな手並み。歌も交えて「ブラジャー史をエンターテイメントとして描こう」という熟達した技を見せてもらった気分です。

 劇団Webサイトには書き込み可能な 「ブラジャー」専用サイト [BraWiki] を開設。公演ページで大人も子供の楽しめる芝居だと告知しています。

お子様とご一緒にどうぞ!
この劇には過度の暴力表現や猥褻表現はありません。お子様連れのお客様も安心してご覧頂けます。

 今回の舞台作りに携わった劇団関係者の考えがストレートに表現されているような気がします。「新鮮で、豊かで、後で思い返すことで何度でも楽しめる体験」を観客に味わってもらおうという劇団の姿勢の表れなのでしょう。終演後の「バックステージ・ツァー」も大変ありがたい企画でした。


[上演記録]
劇団桃唄309ブラジャー
2005年7月7日(木)~11日(月)
吉祥寺シアター

戯曲・演出:長谷基弘
出演:
楠木朝子
森宮なつめ
山口柚香
藤本昌子
橋本健
吉原清司
バビィ
吉田晩秋
佐藤達
貝塚建
ほりすみこ (Website)
生井歩 (劇団レトロノート)
鈴木ゆきを
坂本和彦
北村耕治

スタッフ:
演出助手/小林佐千絵 (劇団レトロノート)
舞台監督/井上義幸(F.F企画)
照明/伊藤馨
照明協力/有限会社アイズ
音響/萩田勝巳
宣伝美術/岡崎伊都子
制作/ウィンドミルオフィス SUI
協力/株式会社ワコール にしすがも創造舎

Posted by KITAJIMA takashi : 02:43 PM | Comments (0) | Trackback

June 27, 2005

劇団鹿殺し「百千万」

 劇団鹿殺し第12回公演「百千万(モモチマ)」(6月23日-28日)を王子小劇場でみました。入り口で眉をそり上げ、アイシャドウを塗ったお兄ちゃんが幟を抱えて客入れしています。いささか気持ちの悪いチラシの絵柄と同じ雰囲気。結局、舞台も似たような印象に終始しました。ゴキブリコンビナートと大人計画を足して2で割って、結果をすこし薄めたような感じのステージです。

 福井県の美浜原発3号機で爆発事故が起き、巨大な頭部を持つ子供「エンゲキ」が生まれます。父が欲しがった越前ガニや行方知れずの母を求めて、彼女が美浜町を目指すロードムービー、ある種の成長物語=ビルドゥングス・ロマンのような展開でした。
 ほぼ時系列順に6話構成。カニ売りとの出会い、父が属したことのある大学の原子力研究所の内幕、核爆発事故の真相などがチープなセット上で進行します。筋はあってなきがごとし、というより最後まで太線で引いてしまったので、かえってウソっぽく感じられてしまいます。

 役者はだれもが薄汚れて見え、粗野な男っぽい雰囲気。男の体臭というか、精液まみれの空気を漂わせています。エイズで亡くなったクイーンのボーカル、フレディー・マーキュリーのビデオ映像を流しながら、マイクを男性器に見立てて振り回すコピー・パフォーマンスは十八番(おはこ)のようでした。振りも堂に入って、さすがにビシッと決まっていたのが、そんなイメージをかき立てました。

 後半は局部を辛うじて隠した男性陣が、ほぼ全裸で踊ったり体をぶつけ合ったりの見せ場が出てきます。そこで宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をとことんコケにしたシーンは特筆モノでした。乙女チックな幻想に泥を浴びせるのですから、宮沢ファンにとっては憤激モノかもしれませんが、ぼくは文句なく笑えました。どこかで被いが外れるのではないかという一部観客の期待は満たされなかったようです。少なくともぼくが見た23日は、微妙なはみ出し!だけでした。

 原発反対のプラカードが出てきたりそれらしいせりふが散りばめられています。初期の大人計画にもそんなシーンがあったと記憶しますが、しかし本筋というより、ストーリー展開の上で織り込まれた背景のひとつに過ぎないような気がします。

 公演がひとまず終了したら、役者たち自身が両袖で「アンコール」「アンコール」と叫び出します。苦笑気味の客席がぱらぱら拍手すると、おそろいの黒いTバック姿で役者たちが登場し、路上ライブで鍛えたと思われるおそろいのダンスシーンを見せていました。劇団のWebサイトによると、セルフアンコールだそうです。男の肌のすべすべやムキムキ、それにモッコリ好きのファンにはたまらないおまけだったのではないでしょうか。

 劇団サイトに、昨年11月の大阪公演アンケートがいくつか掲載されています。
 「あたたかい劇でした」「初めて旅に出たくなりました」「やりたい放題、汗だくでやっている姿にしびれました」「楽しかったです。なんか元気でました」「カッコいいよ!粋だよ!キタねー、変態が!最高だよ!」…。
 筆跡がどれも似たり寄ったりに見えたのがご愛嬌ですが、ファンの関心のありようとともに、こういうアンケートを掲載した劇団の心情が吐露されているとみたほうがいいのかもしれません。(北嶋孝@ノースアイランド舎、6月29日、7月1日補筆)

[上演記録]
劇団鹿殺し第12回公演「百千万」(モモチマ)
東京・王子小劇場(6月23日-28日)

作 :丸尾丸一郎
演出:髭の子チョビン

出演:髭の子チョビン、丸尾丸一郎、山本聡治、JIRO..J.WOLF、渡辺プレラ、オレノグラフィティ、中村達也
サポート:リアルマッスル泉
歌手:青山和弘

スタッフ:
舞台監督 吉田慎一
舞台美術 津郷峰雪
照明デザイン 戒田竜治(満月動物園)
照明操作 海老澤美幸
音響協力 (有)T&Crew
衣装 赤穂美咲
コスチューム製作 坂下智宏
映像 三木康平・高堂勝
写真 溝添真紀
フライヤーデザイン&WEBデザイン 李
製作助手 山田裕美、内藤玲奈、束野奈央、李

企画製作 オフィス鹿


Posted by KITAJIMA takashi : 10:44 PM | Comments (4) | Trackback

June 26, 2005

劇団くねくねし「おみそれテクニク大辞典 ろくろっ首ロードくねくね!」

 芝居が始まると下手のスクリーンに、キューピーが半ズボンを履いたような2頭身のキャラが現れ、例のごとくピョンピョン跳ね回るのですが、危ないと思ったら案の定、地面の裂け目に落下。と同時に、ドーンという音で半ズボン姿の少年が舞台に登場する…。
 下北沢駅前劇場で開かれた劇団くねくねし「おみそれテクニク大辞典 ろくろっ首ロードくねくね!」公演(6月16日-19日)は、映像と現実との巧みな接合、ゲームを芝居に仕立てたというか、おとぎ話をゲーム感覚で作り上げたような冒頭のシーンで、切れ味のよいポップな芝居を予感させました。それから2時間。期待通り奇想天外なアイデアが次々に繰り出されるステージがスピーディーに、しかも手抜きなく目の前に現れ、エーッ、そんなのアリか、と思っているウチに、あれよあれよという間にラストのハッピーエンドまで連れて行かれます。ホントに、おみそれしました。

 「おみそれテクニク」の習得を目指す主人公の少年が、そのノウハウを集めた「大辞典」全100巻の読破、習得を目指す旅、というのがストーリーの大きな流れです。敵を倒してポイントを稼ぐような仕掛ではなく、桃太郎のように家来を集めて幼なじみの女友達と結婚するのがゴールですから、幸せなおとぎ話と言っていいかもしれません。

 ただ、登場人物はほとんどゲーム世界の住人そのまんまです。野球帽の下にお皿を隠した河童のクォー、巨大な野菜を売り歩く喜瓜風太朗、主人公と同じようにテクニックを学ぶおみそれケンジロウは「若」と呼ばれ、3人の部下もそれなりに技を身に着けている-。ゲームというかマンガの中にいるような登場人物が動き回る世界を、全力を傾けて作り上げます。おみそれテクニクの修行物語に加え、姉のなりすまし、父の母捜し、芸比べに負けてころりと相手方に寝返る部下の離反、終着駅まで行くのに20年もかかる地中列車など、副筋を絡ませる作劇上のテクニックもてんこ盛りです。
 「おみそれテクニク」も具体的に言われてみれば、「醤油の染みはゴシゴシこするな、根気よく叩け!」とか「円周率はπに置き換えて計算」とかいう類の「常識」レベル。そのおばかさ加減が笑いを呼ぶほどです。オゲイジュツの臭みはこれっぽっちもありません。
 しかし劇中に使われる映像はクオリティーが高く、お化け屋敷に入る前後でカップルの親密度が違ってくるイラストも秀逸。舞台美術も物語世界にぴったりだし、特にオリジナル楽曲を使った音楽は知らないうちにぼくらをドライブしてくれました。
 荒唐無稽や無邪気な要素が散りばめられたストーリーを、それぞれの分野の才能が寄ってたかって、しかもおもしろがって実現しようとする姿勢に、むしろけなげな潔さがうかがえるような気がします。

 月並みな言い方を借りると、この芝居は大人も子供も楽しめますが、それでも観客を選ぶのではないでしょうか。芝居を見て、なにかをつかみ取ろうとする「飢えた人たち」には場違いな気がします。レストランのメーンディッシュではないのです。夜店でにぎわうお祭りの空間で、裸電球に照らされた綿菓子を思い浮かべればいいのではないでしょうか。デザートの甘い香りと舌触りに似ているかもしれません。必要なのは、ほんのちょっぴりでいい、夢みる力と遊び心なのです。

 それにしても、主役の少年を演じた小田井孝夫はカッコよかった。初々しいというか、好奇心に満ちた百武マナブのキャラクターを、とてもすがすがしく演じていました。謎の列車の案内役だった新倉壮一郎は8頭身。立ち姿というより、長い手足がすてきに目立ちます。羽鳥ユリコは謎のキャラクター。あの頭に乗せた風車は何なんだ、どういう役回りなのか分かりにくいのですが、若い時代を演じた吉川かおりさんはとても印象に残ります。ひそかにファンに…。

くねくねし「おみそれテクニク大辞典」公演チラシ 才能が集まっていると言えば、文庫本のカバーに見立てたチラシも楽しめます。アイデアもいいし、出来栄えも図抜けていて、本物がみすぼらしく見えるほどでした。目立ちますよね。
 もう一つ、劇団のWebサイトも作りはプロはだし。スタッフの力をこれほど集められるのも、くねくねしの魅力だと思います。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 6.28補筆)

【参考】
杉林充章(脚本)インタビュー「ウソとホントの境界線を渡る 固有名詞が出ない芝居づくり」(2004年10月3日)


[上演記録]
劇団くねくねし第4回公演「おみそれテクニク大辞典ろくろっ首ロードくねくね!」
 下北沢駅前劇場(6月16日-19日)

作 :杉林充章
演出:小田井孝夫
出演:
小田井孝夫/三土幸敏/新倉壮一郎/真下かおる/斎藤祐介/塩田泰典/吉川かおり/奥村香里/藤本征史郎/やまざきゲジゲジ/持永雄恵
役者松尾マリヲ(ロリータ男爵)/猿飛佐助(ベターポーヅ)/財団法人ノリオChan(エッヘ)

Posted by KITAJIMA takashi : 07:43 PM | Comments (0) | Trackback

June 21, 2005

とくお組「マンション男爵」

 慶応義塾演劇研究会出身の「とくお組」第4回公演「マンション男爵」が東京・渋谷の LE DECOで開かれました(6月15日-19日)。昨年のガーディアンガーデン演劇フェスティバルでは残念ながら出場枠から外れましたが、多くの審査員が実力を認める存在でした(「公開審査」参照)。ぼくも予選審査会場にいて、彼らのパフォーマンスに感心した記憶があります。
 明治通りに面したビルの5階。マンションの一室らしいフロアーが会場です。時間ぎりぎりに入場したら、すでに大きなテーブルを囲んで「男爵」たちが席に着いています。すぐにメンバー同士が口論したりして内輪もめの様子でした。

 一段落したところで、片想いに悩む若い男が、会場入り口から入ってきます。恋の成就のために、男爵たちがそれぞれの特技を生かして悩みの原因を特定し、さまざまな手段を駆使して解決策を授けていきます。コンピュータを使って分析するアナリスト(クロコダイル男爵)、恋の相手に他人の名を騙って電話するネゴシエーター(スネーク男爵)、ダンディー気取りで説教を繰り返し、挙げ句の果てに豹柄の服装を強要するホスト(タイガー男爵)、そしてトイレットペーパーで恋の行方をみせようとする占い師(ポテト男爵)はストーリーの節々でボケ役を演じてみせる…。エピソードの割り振りやストーリーの起伏作りなど腕は確かです。

 会場の使い方が変わっていました。テーブルと同じフロアーの3面に客席がセットされ、正面にはスクリーンが張られています。怪しげなデータ解析はここに大写しされるわけです。扉を開けてベランダでケイタイを傍受しようとすると、会場には街の騒音が飛び込んできてなんとなくリアルな感じがします。大詰め近く、恋敵を妨害しつつ、女の子の行動を見張る場面を「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんは「場所いじり」として次のように書いています。

 出演する役者を決めてから台本を書くことを「あて書き」と言うけど、今回のとくお組の公演は劇場版「あて書き」かもしれない。観客と同じドアから相談者は入り、クロコダイル男爵はベランダに通じる扉から外に出て、パソコンで相手の女の子の居場所を特定する。
「いました!」
「どこだ!」
「向かいのスターバックスコーヒーです!」
 この辺のやり取りは学園モノの学生劇団のノリだ。「マンション男爵」のすごい所はこの場所いじりを徹底させて、最後は実際に役者を(道路向かい側にある)スタバまで往復させてしまったところだ。(といっても真意は観客には分からないのだが)

 相談者を助けるつもりでアルバイト先の店長に電話したポテト男爵が、ささいなことでキレて店長と怒鳴り合いを演じたり、ケータイ傍受用のアンテナが鉄製のフライパンだったり、まことしやかな口舌と裏腹に、実際は恋の行方をあらぬ方向にそらす場面作りは会場の笑いを呼んでいました。この辺の呼吸は、好みの人にはこたえられないでしょう。よくできたシチュエーションコメディーと言っていいのではないでしょうか。ポテト男爵を演じた役者の個性が笑いに拍車をかけていました。

 今回の公演はおもしろかったのですが、フォーマルウエアに身を固め、舶来の「男爵」を演じる姿は、やはりどこか窮屈な印象を免れません。昨年のガーディアンガーデン演劇フェスティバルでみせたコント・パフォーマンスは軽快でしゃれていて、みていて気持ちが伸びやかになりました。しゃれたコントを連発して見せた舞台とガチガチに筋書きを固めた舞台と、劇団の才能の幅を見せてもらいましたが、これからどちらの流れに乗っていくのでしょうか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

[上演記録]
とくお組 第四回公演『マンション男爵』
渋谷 LE DECO(6月15日-19日 )

脚本・演出 徳尾浩司
キャスト 堀田尋史、岡野勇、篠崎友、北川仁、鈴木規史、永塚俊太郎
舞台監督 高山隼佑
舞台美術 山崎愛子・久保大輔・金子隆一・恩地文夫
照明 中島誠
音響 とくお組
映像 岡野勇
制作 飯塚美江・菊池廣平・吉田陽子・佐藤仁美
宣伝美術 飯塚美江

Posted by KITAJIMA takashi : 10:19 PM | Comments (0) | Trackback

June 14, 2005

劇団乞局「耽餌(たぬび)」

 不気味な世界観と丁寧な演出などで評価の高い劇団「乞局」(コツボネ)の第8回公演「耽餌(たぬび)」が6月9日から12日まで王子小劇場で開かれました。同劇場が主催する「2004年佐藤佐吉賞」で最優秀作品賞(「汚い月 『陰漏』改訂現代版」)を受賞したこともあって、期待の舞台でした。

 劇団Webサイトによると、乞局の舞台は「何処かしら欠けた登場人物たちが救いようのないすれ違いを織り成し、不幸な結末へと静かに進んでいく」(プロフィール)と書かれています。確かにこの公演に登場する人物はどこかが「欠けている」ように見受けられます。

 産院で赤ちゃんの首を絞めた過去を持つ不妊の看護婦が刑期を終えて出所、ある安アパートに入居するところから舞台が始まります。犯罪の再犯防止と更正などに協力する「付き人」はゲイだと言い、赤ちゃんを殺された若夫婦が出所を知って付きまとったり、自分をナイフで刺したことのある不登校の中学女生徒にアパートで勉強を教える女教師がいたり、元夫婦でありながら同じアパートに住んで性的関係もあるタクシー運転手の男女も登場したりと、歪んだ人間関係や裏のある性格が描かれます。ちょっと訳ありのアパートの調理人ととんちんかんな見習い(?)も芝居の欠かせない要素なのかもしれません。「欠け方」はさまざまですが、人物配置と性格描写は手筋に適っています。

 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは「表面的には平穏な日常が紡がれているようでいて、でも背後はしっかりと崩壊している。そんな裏と表を抱えている、まさに『欠けた』人たちが織り成すアットホームな日常」を、京極夏彦の小説世界になぞらえます。「漠然とした恐怖がジワジワと積み重ねられていく」特有の雰囲気ですね。特に乞局は「欠けた非日常によって、補完された日常を想起させる」とみた上で「観客は、そのギャップの部分に『気味の悪さ』を感じ、救われないエンディングに『後味の悪さ』というコメントをつける」と述べています。京極ワールドとの対比は鋭いですね。

確かに、エグイ終わり方だったのですが・・・きっとそれだから「後味が悪い」のではなく、結局のところエピローグが無いからで、日常へと引き戻されないから観客はそう感じるのではないだろうか。 残酷な結末に明確な言葉を与えて日常の一部に昇華させない手法、誰もが答えを求めていて答えを与えられる事に慣れている時代の中で、実のところ後味の悪いものが日常に埋もれている・・・そういう答えの無いことに答えを与えないことの価値を与えているものかもしれない。

 「答えを与えないことの価値」に意味を見いだしている吉俊さんとは別に、物語の組み立て面や完成度からみると、また違った道筋が見えてくるようです。
 乞局を「贔屓の劇団」という「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんは、「褒め言葉ばかり考えながら開演を待っていたから、終演後は少しの間唖然としてしまった」「個人的には大変期待外れだった」と書いています。その後も「本作品では粘ついた会話が醗酵しない。いつ醗酵するのかなと思って観ていたら、くしゃっと崩れて終わってしまった。個人的な予測だが、題材を盛り込みすぎて半端に完結してしまい、書き直すに書き直せなくなってしまったのではないだろうか」と推測を交えつつ残念がっています。

 ぼくが見たのは10日(金)の公演です。初めての「乞局」体験なので過去の舞台との比較はできませんが、意外に垢抜けた印象を受けました。不気味さをよい意味で手堅く仕立てた舞台と言い換えてもいいと思います。演出が手堅いだけに、物語の組み立てに構造的な不具合が見え、なにか手違いがあったのではないか思われます。

 物語の隠れたモチーフは、人間の肉体や骨格の手応え、血と粘液の手触りだと思われます。首に手をかけたときの「ポキッと音がした感触」「思い出すたびに心が踊った踊った」という「人に言うわけにいかない」感覚が不気味さの源泉になっています。この穴場に観客をどう引きずり込むかが腕の見せ所でした。

 同じアパートに住む人たちの群像劇のようにみえながら、最後には些細な仕草を周到な伏線に変え、一挙に全編を集約するラストシーンが用意されるのではないかと思わせる進行でした。しかし元看護婦の最後の行動で、その暗闇に収斂される登場人物は半分もいません。残りはただ周りを取り囲む一員の役回りとなって、結末からこぼれ落ちているように思えました。

 これとも関係しますが、やはりストーリーの構造的な問題に触れないわけにはいきません。この芝居は、出所する元看護婦に「付き人」が伴うという設定でした。再犯防止と更正、さらには被害者の復讐防止のためだとプログラムに書かれています。しかしその存在が、劇全体を動かすキーパーソンの役割だとは最後まで思えませんでした。またゲイだから女性と同居して構わないという設定は、ゲイの実体を誤解しているか、でなければ偏見の影をまとっていると言われかねません。また付き人とは関係なく、ほかのカップルらが別々に動いていて、結末で束ねられるような印象も受けませんでした。

 もう一つ、プログラムでは、鳴き石という石塚のようなものを舞台上に配置しています。みんながツバを引っかける対象として存在していたことは分かりますが、物語にどう絡んでいたのか明瞭でありません。石の傍らで惨劇が起きるにしても、その場所が必然であるとも思えません。プログラムにわざわざ解説まで掲載された「付き人制度」と「鳴き石の伝承」が、プロット進行の捨て石になっているような印象を残しました。

 乞局のこれまでの公演をみて「演技も演出も洗練されてきた分、魅力が薄れてきた」という意見も耳にしました。確かに不快感を呼び覚ますほどの気味悪さが、ある種の稚拙な演技と演出によって醸し出されるかもしれません。しかしそれは一回性のパプニングに過ぎないでしょう。次のステップに踏み出してしまったのですから、後味の悪いドロドロした感触を、緻密な演出と練り上げた演技で具体化していく以外に道はあせません。

 京極ワールドになぞらえるわけではありませんが、これからは物語が決定的に重要になってくるはずです。骨格がしっかりすれば、血も肉もたわわに育ち、粘膜も粘液も発酵するほど滲み出ます。そうなってこそ、おぞましいほど後味の悪い収穫が期待できるのではないでしょうか。後味の悪さやおそましい結末の意味と意義の考察は、そのときまで待ちたいと思います。


[上演記録]
劇団乞局 第8回公演「耽餌」(たぬび)王子小劇場提携公演
2005年6月9日-12日

【脚本・演出】下西啓正
【出  演】役者紹介
秋吉 孝倫
田中 則生
下西 啓正
三橋 良平
石井  汐
酒井  純
古川 祐子

安藤 裕康
佐野 陽一
吉田 海輝
五十嵐 操
加藤めぐみ(零式)
松岡 洋子(風琴工房)

【スタッフ】
舞台美術
:丸子橋土木店(綱島支店)
照明
:椛嶋善文
照明操作
:谷垣敦子
音響効果
:木村尚敬
:平井隆史(末広寿司)
舞台監督
:谷澤拓巳
衣装
:中西瑞美
宣伝美術
:石井淳子
WEB管理
:柴田洋佑(劇団リキマルサンシャイン)
制作
:阿部昭義
:尾形聡子
制作協力
:玉山 悟
:石原美加子
:林田真(Sky Theater PROJECT)
協力
:田村雄介
:(有)エム・イー・シー
:岡崎修治・勉子
:古藤雄己(創像工房 in front of.)
:飯田かほり(蜷局美人)

製作
:乞(コツボネ)局

Posted by KITAJIMA takashi : 11:05 AM | Comments (0) | Trackback

May 23, 2005

bird's-eye view 「un_titled」

 bird's-eye viewのステージは前からみたいと思っていました。知人に誘われて勇躍、出向いた結果は正解でした。文句なく楽しい舞台、極上の演劇体験でした。以下、前後のいきさつを知らないまま、臆面もなくまとめてみた文章です。焦点を絞ったので全体の目配りがかけているかもしれません。乞うご容赦。

◎コードを揺さぶる言語ゲーム bird's-eye view の「un_titled」公演

 こまばアゴラ劇場でbird's-eye view の「un_titled」公演をみました(5月11日-22日)。
 おもしろい。あまりおもしろすぎて、涙が出るほど笑いました。うわさの演劇ユニットの初体験でしたが、テキストのロジカルな処理と構成の妙、それに演じている俳優の楽しそうなようすが伝わってきます。評判通りの才気と才能を堪能した一夜でした。

 舞台は透明アクリル板らしきもので仕切られた空間がメーンになっています。左右と奥の余白は、出入りする廊下の役割。アクリル板のドアを開閉して俳優が登場する仕掛けです。

 冒頭、俳優が大勢現れて(前後左右3人ずつ9人だった?)アゴラの狭いステージで踊ります。といってもただ踊るわけではなく、ある規則性があるように感じられました。両手を挙げる。水平と垂直。腕の関節を直角に。斜め前方に曲げる。首と頭を左右に。開脚30度…。などなどの動作をユニゾンでそろえるのはまれで、互い違いにいくつかの動作を組み合わせ、前後左右が異なりながら統一したイメージを残しています。どんな規則性か正確に言い当てられませんが、パズルをはめ込むような知的な作業だったのではないかという気がしました。

 この集団はダンスも衣装もステキですが、テキストの扱いが特に印象的でした。いくつかのことばの規則を決め、それぞれ身近に適用した連作形式を取るのです。例えば「…でない」というルールを定めた場面(話)が登場します。

 それがお芝居かと言えば、いわゆる芝居ではない。コントかと言われれば、いわゆるコントではない。ダンスかというと、ダンスでもない。混じり合っているのかと言えば、そうとも言えない-。
 舞台のせりふを真似ると、こんな感じでしょうか。仮に「…でない」というルールを「否定則」と名付けてみましょう。この否定則は、名詞だけでなく形容詞や動詞など、この場面のせりふすべてに厳しく適用されます。

 自分で初発の言葉の場合は適用を免れるようですが、他者の問いかけにはこの規則がまとわりつくことになります。恋人に好意を打ち明けようと「ぼくのこと、好き?」と尋ねると、返ってくるのは「好きではない」。逆に恋人から「わたしのこと、好きなの?」と聞かれて、ルールに縛られているので否応なく「好きではない」と答えてしまいます。恋敵が逆手を取って「ぼくが嫌いだよね」と尋ね、彼女から「嫌いではない」という返答をゲットするのと対照的な遣り取りでした。

 名詞に関しては、一般名詞も固有名詞も等しく適用されます。事実上「名付け」が禁じられるのです。父親が出勤しようとするのに、家族との会話で身動きできなくなってしまう場面がありました。父親は「出勤しない」「そこはドアではない」「父ではない」などなどの言葉に囲まれます。家族の口からこういう言葉が出るだけでなく、家族がが差し向ける問いに対して、自分でもそう答えざるを得ないのです。固有名前と続柄が否定されれば、家族の関係は無化されざるを得ません。自分がだれで、どこに属しているか、どんな関係の網の目に育ったかという履歴(歴史)が自他ともに取り結べなくなってしまうからです。

 これは、日常なにげなく使っている言葉に、特定の禁止あるいは拘束のルールを持ち込んでみるというゲームでした。人間関係がもつれたり歪んだりして、そこに予期せぬ笑いが生まれます。さらにある種の緊張関係が、舞台から伝播してきたように思えます。言葉ゲームの枠を超え、友人や恋人といった2者間関係だけでなく、家族のつながりをも空白にしてしまうからでしょうか。お腹が痛くなるほど笑いつつ、どこかでドキッとする自分に気付かされるのです。

 もうひとつ、忘れがたいルールがありました。「言動反復則」とでも言いましょうか。鏡のような対象性だったかどうか記憶が定かではありませんが、相対する人に向き合って、同じように手足を動かし、相手の言葉をオウム返しに繰り返すのです。まねするのが女性、まねされるのは男性。「まね女」は男の部屋に突如現れます。恋人が訪ねてきたら、男の部屋に見知らぬ女性がいるのですから、穏やかに済むはずがありません。

 先の否定則が究極的には自分を取り巻く関係を無化して存在の条件を剥奪しているのに対し、言動反復則は自分の模倣=コピーに直面するという逆のベクトルを描いていました。終幕近く、ステージの奥で鏡を使って無限の鏡像を映し出すシーンもそのだめ押しだったのでしょうか。一方では「名付け」が禁じられ、他方では「名付け」が複数存在することになる。こうなると文字通り「un_titled」であるほかないと思われます。

 しかもこういう対照的な右往左往がしかつめらしい相貌をまとうことなく、ユーモラスに、コミカルに、しかもリズミカルに展開されるのです。その練達した技に感心しました。

 そのほかにもゲームルールがあったようですが、ぼくが受けたイメージはこの二つが強烈でした。どちらも、ふだんは疑うことなく「生きている」現実のコードを、演劇的操作を通じて前景化していると言っていいでしょう。友人、恋人、夫婦の暗黙の了解から、集団、組織、民族、国家の文化的政治的コードにまで射程をのばすことも可能かもしれません。

 これらのコードが絶対であるはずがありません。ゲーム上でも、突如ルールが崩壊する場面がちゃんと用意されていました。自分の言動をまねする女に手を焼いていた男が、最後に突然、女の胸に手を触れるのです。すると女は、フリーズしてしまいます。言動反復則のルールが崩れる瞬間です。セクシャルな行為の多義性をあらわにする場面でした。

 この演劇ユニットは、演出家が提起したコンセプトをエチュードで骨肉化していくそうです。禁則ルールを舞台で生き生きさせたのは、ひとえに稽古場でのたたき合いがあったからに違いありません。そのうえでの舞台ですから、俳優が生き生きしていたのは言うまでもないでしょう。ぼくが観劇した5月17日のステージは、特に出来が良かったと聞きました。ぼく(ら)が楽しかったのは、彼ら彼女らが楽しんでいるステージの余熱のようなものだったかもしれません。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、2005年5月23日)


[上演記録]
bird's-eye view 「un_titled」
こまばアゴラ劇場(5月11日-22日)

構成+演出_内藤達也

出演
杉浦理史
小野ゆたか
大内真智
日栄洋祐
松下好
山中郁
近藤美月
後藤飛鳥
小手伸也(innerchild)
櫻井智也(MCR)
森下亮(クロムモリブデン)

スタッフ
音楽  岡屋心平
舞台美術  秋山光洋
照 明  榊美香[I's] 
音 響  ヨシモトシンヤ
振付  ピエール
舞台監督  藤林美樹
コスチューム   伊藤摩美 
写真  引地信彦
宣伝美術 石曽根有也 
演出助手  明石修平
プロデューサー 赤沼かがみ
制作  山崎華奈子、保田佳緒

Posted by KITAJIMA takashi : 10:30 PM | Comments (0) | Trackback

May 16, 2005

ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」

 連休が明けてもまだボーっとしています。あまりにも怠惰に過ごしすぎた報いかもしれません。連休中にみたステージで最も印象に残ったのは、ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」公演でした。彼らのステージは初めて。以下、妄想をまとめてみました。いつものことながら、遅くなってすみません。

◎モノクロ・ステージの不思議感覚

 ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」を世田谷・シアタートラムでみてきました(5月2日-3日、第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加)。ほとんどモノクロの舞台、言葉数の少ないテキスト、1人か2人の男たちが次々に登場、振幅の大きな声や動作を繰り返すパフォーマンス構成など、不思議な感覚に浸されたステージでした。
 2003年初演の作品の再演。このユニットの舞台は初めてなので、どこがどう変わったのか分かりませんが、選ばれての参加作品ですので、おそらくこのユニットの基本形が提示されているような気がします。
 ステージは、白い砂が支配していたと言ってもいいと思います。ほとんどモノクロに染められた空間を、ヒンドゥー五千回のWebサイトはこう描写しています。

白い砂がしきつめられた空間。
二脚の椅子と、天井に向かって伸びる一本の梯子がある。
そこはどうやら地下にあるらしく、
梯子の先からの差し込む光が、薄ぼんやりと砂地を照らしている。
誰かがそこに砂を運び入れたのか、また何かが長い年月をかけて風化し、
そうなったのか、その辺りのことは定かではないが、
そこが美しい場所であることは、どうやら間違いないようだ。

背景はほぼ黒一色。白砂とのコントラストがくっきりした舞台です。いすはハシゴを挟んで左右対称に、向き合って置かれています。「ますだいっこうのこと」サイトはこの舞台を「皮膚から空間を感じるようなヒンヤリした感覚」と表現していました。巧みな比喩だと思います。

最初、上手のいすに男が腰掛けています。反対側のいすには古びた消火器の箱がおかれています。この赤さび色の塗料が剥げかけた箱に、男が話しかけるところから始まります。次に殴り殺してしまった死体の処理にうろたえる男2人。手に持った訳書を交互に読み上げる男2人。かつて会ったことがあると主張する男と記憶がないと言い張る男のまたまた2人組。本を読み上げる声がだんだん大きくなったり、記憶のない男を声高になじったり、追い駆け回したり。こういう独立した数個のエピソードの組み合わせが登場し、確か最後はまた、男と消火器箱の組み合わせになったと記憶しています。

こういう舞台構成は、音楽の楽曲形式を強く意識しているような気がしました。モチーフの提示、変奏、さらに変奏または繰り返し、モチーフへの回帰。しかし元のままの回帰ではなく、少しずつ崩れたり壊れたり、時間という関数に挟まれて不可避の変形を被っているのです。時の経過による物体や関係の崩れを定着させようというのが、この作品(演出)のねらい所だったのでしょうか。

その意味で、殴り殺された死体の男(扇田 森也)がステージを軽やかに駆け回る姿が最も印象に残りました。裸の上半身はやや薄白く化粧され、白っぽいショートパンツと併せて身体の生臭さを消しています。まず目につくのは長い手でした。手首や腕の関節を折り曲げる動作が身体全体と調和しています。円弧を描くときのしなやかな動きも可動範囲が広く、遅からず早からずとてもスムーズでした。陳腐な表現ですが、鶴のように舞うイメージを想像していただけばいいかもしれません。そぎ落とされたというより、若さ特有の無駄のない身体が音もなく駆け回り、跳躍するのです。生者のどたばたした動きと対照的に、軽々と動く死者。ほれぼれするシーンでした。

舞台で飛び交ったテキストは残念ながらうまく取り出すことができません。辛うじて記憶に残っているのは「いのちは一つ、うまく出会ったかどうかが問題」「どうして僕らが会ったことを忘れてしまうのか」「死んだら身体は骨になり、やがて砂に変わる」「自分を埋めてくれる誰かに出会いたい」などの断片だけです。記憶があやふやで、引用したことばも正確ではないと思います。またことばにどれほどの重さを持たせたのかも測りかねるのですが、ぼくがことばの群れから想起したのは「ゴドー待ち」のぼんやりした影でした。

この作品では、「待つ」対象は第3者に仮託されることなく、2人の男の間に直接的関係として固着されます。登場人物が1人だけの設定でも誰かや何かを強烈に求め、しかし関係はいずれも崩れてしまいます。というより、あらかじめ壊れていることを前提に構成されたシーンで一貫しているような気がしました。それだけ切なさが、見終わった後にもじんわり感じられるのではないでしょうか。

このステージをみた「しのぶの演劇レビュー」サイトの高野さんは、音楽の音量、せりふや動作のダイナミックな変化を採用する演出に触れ、「それをヒンドゥー五千回の個性だと言うのも可能ですが、私にはまだまだ発展途上の実験段階で、これからもっと洗練させられる余地があるように感じられました」と指摘しています。

彼らが洗練に向かうのか、ハメツに向かうのか(!)は分かりません。どちらにしろ、しばらくは「実験」に付き合ってみようかと思せる魅力を感じました。


[上演記録]
ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」
第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加
世田谷・シアタートラム(5月2日-3日)


構成・演出
扇田 拓也


出演
谷村 聡一
久我 真希人
結縄 久俊
向後 信成
藤原 大輔

宮沢 大地
鈴木 燦
谷本 理
扇田 森也


●スタッフ
演出助手 藤原 大輔
舞台監督 松下 清永
美術   袴田 長武(ハカマ団)
照明   吉倉 栄一
音響   井上 直裕(atSound)
宣伝写真 降幡 岳
宣伝美術 米山 菜津子
制作   関根 雅治 山崎 智子

●企画・製作
ヒンドゥー五千回
●主催
財団法人せたがや文化財団、フリーステージ実行委員会

Posted by KITAJIMA takashi : 05:08 PM | Comments (2) | Trackback

April 18, 2005

うずめ劇場「ねずみ狩り」

 「あの“いまわのきわ”から3年、衝撃の問題作、日本初公開!」というコピーで上演されたうずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』は、オーストリアの劇作家ペーター・トゥリーニの出世作。1971年にウイーンで初演され、非難と賛辞が半ばする曰く付きの作品とのことでした。「いまわのきわ」という優れた作品を紹介した鑑識眼を信頼して劇場に足を運んだ人は少なくなかったに違いありませんが、3月初めの福岡を皮切りに、北九州(3月10日-13日)、東京(4月15日-17日)、そして名古屋(4月22日-24日)という国内ツアーの実際はどうだったのでしょうか-。皮切りの福岡公演をみた「福岡演劇の今」サイトの薙野信喜さんは「演出の力はどこに行ってしまったのだろうか」として次のように述べています。

最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。ここに緊張がないのは、演出も俳優も結末を当然と受け止め、それに向かって障害らしい障害を出すこともなく、スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ。(中略)戯曲と拮抗し火花が散る舞台を期待していたがみごとに裏切られた。ペーター・ゲスナーは、後進を育てることを理由に手を抜いていると見た。全力で取り組んでその力を見せつけることこそ、観客への礼儀であり、いちばんの後進指導ではないのか。  期待がものすごく大きかったので、つい厳しい感想になってしまった。

 演出はペーター・ゲスナーと藤沢友。共同演出とは、実質的には藤沢にほとんど任せ切りということなのでしょうか。薙野さんの指摘通り、ゴミ集積場に車で乗りつけた若い男女が身に着けたものをゲーム感覚で次々に投げ捨てていくプロセスが芝居のへそになるような構造だったように思えます。それにしては確かにふくらみが足りません。なにしろ客席に銃を向けるだけでなく、最後には客席に向かってネズミ呼ばわりしながら乱射する作品なのですから、どういう形であれ観客のコンテキストに作品の世界が収まらなければ、反発どころか無視という、最も望まないそぶりに振れかねません。

 演出に問題が残ったことは確かででしょうが、ぼくはその上、作品選択に関しても、やはりどこかに錯誤があったのではないかという気がします。演出方法とも関連しますが、いまさらこの手の威圧的、一方通行の作品を、どうして日本に紹介しなければならなかったのでしょう。いまの日本はこの手の「威圧」でへこむほど薄い単層構造でできていません。地肌がそれほどまでに荒れていて、よほど工夫しないと緑が育たないと考えた方がよさそうです。アングラ演劇の歴史に詳しいはずのゲスナーなのに、過去に何度も繰り返されたこの手のテーマを蒸し返すのは、いささか目測を誤ったのではないかと懸念します。

 最後に、撃ち殺される男女2人のヌード演出に触れないわけにいかないでしょう。ほとんど予定調和の進行の末に裸になる2人には、お疲れさまとしか言いようがありません。欲望をぎらつかせて交合の仕草をまねたりしながら舞台を飛び跳ねるのですが、肝心の男性のシンボルに生気がなかったのは、その舞台全体が不能だったことの象徴にみえました。反対にそうでなければ、それこそ無粋の極みですし、演劇としての場所を失いかねません。
 30年前はいざ知らず、この作品は日本デビューの時期を見誤ったような気がしてなりません。

[参考]
面白さに◎びっくり」(「福岡演劇の今」サイト「いまわのきわ」評)2002.3
筋書きを逆にたどるオムニバス」(wonderland「いまわのきわ」評)

[上演記録]
◎うずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』
■上演スケジュール
福岡:3月5-6日(ぽんプラザ)
北九州:3月10日-13日(スミックスエスタ)
東京:4月15日-17日(シアターX提携公演)
名古屋:4月22日-24日(第5回愛知県芸術劇場演劇フェスティバル参加)

作 ペーター・トゥリーニ
翻訳 寺尾格
演出 ペーター・ゲスナー/藤沢友
上演台本 うずめ劇場
出演 後藤ユウミ、荒牧大道、藤沢友 他
主催 うずめ劇場
共催 北九州市・北九州市教育委員会
助成 (財)セゾン文化財団、芸術文化振興基金、
(財)アサヒビール芸術文化財団
後援 オーストリア大使館

Posted by KITAJIMA takashi : 08:00 PM | Comments (0) | Trackback

April 16, 2005

楽園王「ELECTRIC GARDEN」

 楽園王「ELECTRIC GARDEN」公演が東京・荒川区の町屋ムーブで開かれました(4月13日-15日)。「デジログからあなろぐ」サイトの「吉俊」さんはここまでカバーしているか、というほどまめに都内の小劇場に足を運んでいて、この公演のレビューもしっかり書いています。

とても綺麗ではある、私は好きなタイプだ・・・テクノイズな音楽のノリ+照明効果・・・抽象的な世界を場面展開で次々に語っていく。半円形舞台で、中心の舞台を取り囲むように座った客席の後ろでも役者が演じる。対面の客の後ろの役者を見たり、後ろからの声を聞いたりと、舞台の使い方は変わっていましたね。
 その後、役者の演技、場面転換など「スタッフワークでのセンスのよさ」を指摘しています。ただ「芝居の雰囲気と語られる脚本の親和性」などバランスに欠けるとの苦言も。

 これは神楽坂と麻布に劇場拠点を持つ die pratze 主催の「M.S.A.Collection2005」シリーズの一つ。中野成樹(POOL-5)+フランケンズ「ラブコメ」に次いで2回目の観劇でした。

 舞台はある若い会社員が、不良とみられる男を次々に殺害したという設定で始まります。殺害事実は認めているのに、動機が不明。取り調べと同時進行で、会社員の家庭や幼少期の出来事が、過去のフラッシュバックと語りかける死者たちとの遣り取りなどから浮かんできます。
 ステージらしい舞台は見あたりません。フロアーにパイプで組み上げた客席が三方にあり、劇が始まると間もなく、いわゆる正面にあったキャスター付きの大型組み立てパイプが移動して、死者らの居場所になったりします。フロアー付近から青白い照明がサーチライトのように闇に走り、ノイズ風のテクノ音楽があるときは低くある時は強く轟音のように響いてきます。
 娘(生者と死者に二重化されている)の引きずるような足取りと音節をずらした発語が平仄を合わせ、確かに言葉が生起するどろどろした部分のイメージは伝わってきます。低くかすかに響く鈴の音が、幽明の境を行き来する合図のようにも聞こえました。

 楽園王のWebサイトによると、この作品は「は1992年春、当時田端にあった田端ディプラッツにて初演。楽園王旗揚げ1年目のことである。現実と非現実の境界線を曖昧にし、迷宮的な物語と、それが翻って現実を浮き彫りにする長堀戯曲の特徴を強く持った作品の一つ。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を護身用に常時携帯していた時期の執筆から影響が強く、また現実に起こったある凄惨な事件を扱ったことから何より恐怖感を感じる作品となった」とあります。

 初演から13年たっての再演。作品の構成は余り変わっていない印象を受けます。調べ室と死者との会話、過去のフラッシュバックなどが入り組んで時には理解不能状態になりました。ツァラトゥストラという言葉が表現されるコンテキストも「お母さんのために薬になる言葉を探す」というフレーズも客席に飛び込まず、宙をさまよっているように感じられました。

 主宰・演出の長堀博士は、利賀演出家コンクール2004で、イヨネスコ作「授業」で優秀演出家賞を受賞しています。別の作品で力量のほどを味わいたいと思いました。


[上演記録]
楽園王「ELECTRIC GARDEN」
 町屋ムーブ(4月13日-15日)

作・演出 長堀博士
出演 松の秀明、大畑麻衣子、塩山真知子、杉村誠子、小林奈保子、二階堂洋右、田中新一、植村せい、岩崎雄大、嶋守勇人、辻崎智哉、小田さやか、吉田郷子、丹生谷真由子(OM-2) ほか

スタッフ 照明:南出良治、音響:齋藤瑠美子、選曲/美術:長堀博士、舞台監督:田中新一、宣伝美術:小田善久、制作:楽園王オフィス

Posted by KITAJIMA takashi : 10:29 PM | Comments (4) | Trackback

March 10, 2005

鳳劇団「昭和元禄桃尻姉妹」

 鳳劇団の旗揚げ公演「昭和元禄桃尻娘」を東京・新宿のタイニイアリスでみることができました(2月15-16日)。せりふや所作などでいわゆる大衆演劇の衣を借りているのですが、そこでよくみられる義理人情の淀みに融解するわけではありません。忘却の洪水に浸される現世に、戦中の忘れがたい一筋の記憶を刻もうとする確かな舞台です。「ロマネスク不条理劇」を掲げ、「游劇社」を拠点に長年活動してきた鳳いく太が、新しい展開を図る記念碑的舞台だったと思えます。変わった衣よりも、変わらない原石を見る思いの一夜でした。

 つぎはぎだらけの大幕が開くと、いきなり「かっぽれ」が始まります。曲に合わせて登場する2人の女優(かぢゅよ、康実紗)が、裾をからげ、ときに足を高く上げ腰を割って、わざとむっちりした太ももを見せびらかしたりします。エロいというかエグいというか、民謡や盆踊りが生まれてきた猥雑な部分をいきなりさらすようなスタートでした。

 物語は年取った仲居と若い女性客が出会う旅館の一室から始まります。仲居はわざわざ腰を曲げ、おぼつかない足取りという年寄り演技のステレオタイプ。怪しげな方言を大げさに話し、野卑な言葉遣いを混ぜています。若い女性客もスカしっ屁をうちわであおいだり。ホントにこの2人よくやるぜ、演出はもっとやるぜ、といった格好で進みます。

 仲居はその昔に別れた妹がいると言い、泊まり客も妹らしき仕草を見せているのですが、身元は確かではありません。その血筋がちらりと見えそうになると、話はがらりと変わってしまいます。

 女の子が人形を相手に会話したり、着せ替え早変わりで学生と娘の役になったり、酔っぱらいサラリーマンになって愚にもつかない与太を飛ばしたり。2人の掛け合いで、岸と安保、池田勇人と貧乏人、新幹線、鬼の大松、白馬童子の山城新吾、遊星王子の梅宮辰夫、ミニスカート、3億円、全学連、背番号3などなど、おじさん世代には懐かしく、若い世代にはおそらく身に覚えのない昭和世相史のオンパレードが続きます。

 劇中で何度か場面転換に使われるのは、吉田拓郎の「今日までそして明日から」。そしてピンクレディーの「UFO」や守屋浩の「ありがたや節」も流れるのですから、確かに昭和元禄だったのかもしれません。

 そんな場面を切り裂き、時間の流れを堰き止めるように携帯電話の音がたびたび鳴り響きます。子供のころ遊んだ糸電話を取り上げて、モシモシ、モシモシと呼びかけると、空襲警報の甲高い音が鳴り、焼夷弾の轟音が響きます。時間の裂け目から、遠い記憶が呼び覚まされる一瞬です。

 大衆演劇でよく、場面と役が振り替わるコーナーがあります。梅沢武生劇団の舞台では、梅沢富美男がドジで間抜けな男役から一瞬で、あでやかな着物姿の女性役に早変わりして歌と踊りを披露します。鳳劇団の舞台はその形を借りながら、時間の流れを入れ替えて、矢継ぎ早にこんな言葉を放ちます。
 「透明人間になれるのと空を飛べるのとどっちがいい?」「不死鳥に生まれるのと人間に生まれるのと、どっちがいい?」「双子の姉に生まれるのと妹に生まれるのと、どっちがいい?」「人形のような人間になるのと人間のような人形になるのと、どっちがいい?」…

 東京大空襲で右耳が聞こえなくなった妹、離ればなれになった姉妹。人間と人形になった2人の間で交わされる問いは、昭和の歌謡曲と空襲の爆音に挟まれ、記憶に差し込まれる糸電話に答は返ってきません。問い掛けはむしろ客席側に向けられていると感じました。

 だからといって、それらしいせりふで客席を白けさせる、なーんてことはありません。恥ずかしいほど猥雑で、ばかばかしいほど楽しい仕草と遣り取りがふんだんに盛り込まれています。手練手管のやり手婆さん顔負けのサービスでしょうか。これで客席が沸かないわけがありません。旅芝居にもってこいの作品でしょう。鳳劇団がこの出し物を持って、各地の公民館や老人ホームを回ってもぼくは驚きません。

 2人の役者は出ずっぱりでくたくただったのではないでしょうか。特に姉役の「かぢゅよ」は個性的。あくの強い、エグイ役どころを生き生きと(?)演じているように見えました。そういえば開演前、浴衣姿でビールをさばいていた売り子は彼女たちでした。「ビールいかがですか。1本飲んだ方は、2本目をお忘れなく。遠慮せずに手を伸ばしてください。どうです、お客さん」なーんて強引に売り付けてたっけ。たくましいですね。

 舞台は役者の個性に彩られていますが、台本の世界はきわめて静謐、透明です。音楽を絞り、役者が違えばまたがらりと違う空気が流れ、違った空間が再現されたに違いありません。

 色の扱いはひときわ鮮やかでした。特に糸電話の赤いヒモ(糸)が闇に伸びるシーンは記憶に残ります。赤は空襲で燃える炎の色であり、流れる血の色でもあります。姉妹の「血」そのものでもあります。また考えてみれば、舞台となった温泉は、地底の裂け目から吹き出す赤い溶岩の賜物でもあります。赤=血が全編のモチーフとなり、記憶の底から噴き出す仕掛けだったのではないでしょうか。

 ネット上を歩いていたら、游劇社webサイトの中でこんな文章と出会いました。

我々は演劇だけが持つ臨場感を愛し、演劇だけがなし得るスペクタクル溢れる舞台を、不条理劇というスタイルを借りて上演し続けている。 (中略)演劇でこの世界は変えられなくとも、游劇社の舞台がひとりの観客の世界を変えていく。そんな、演劇の演劇の【夢見る力】を信じて活動している」(「感性体感浪漫的不条理劇とは」)

 そう、その夢は悪夢かもしれないし正夢かもしれません。しかし今回の舞台は游劇社とスタイルこそ違え、確かに「夢見る力」によって、時間の狭間から赤い闇の響きを現前させる舞台でした。これも鳳ワールドの甘い毒なのでしょうか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 2005.3.10)

(注)東京大空襲は1945年3月10日未明に起きました。日本の木造家屋用に特別開発された焼夷弾を使用。あらかじめ退路を断つ形で40k㎡の周囲に火の壁を築き、その中に約100万発(2,000トン)もの焼夷弾が投下され、さらに機銃掃射が加えられたと記録にあります。死者は判明しているだけで10万5,400人に上ります。この文章は、この10日付で掲載します。

[上演記録]
鳳劇団昭和元禄桃尻姉妹」 (2005年2月15-16日)

作・演出:鳳いく太
会場:新宿・タイニイアリス
出演:かぢゅよ、康実紗(かん しるさ)
照明:中本勝之、村上みゆき、朴須徳
音響:鶴岡泰三、鳳いく太
作曲・振り付け:正田和代
宣伝・美術:もりちえ
総裏方:早坂ちづ
舞台監督:朴茂一

Posted by KITAJIMA takashi : 10:43 AM | Comments (0) | Trackback

March 08, 2005

劇団印象「幸服」

 劇団印象の第3回公演「幸服」が横浜のSTスポットで開かれました(2月10日-13日)。慶応大出身者らが2003年に旗揚げ。当初は言葉遊びを多用した野田秀樹風のスタイルを採用していたが、昨年11月公演から「言葉にこだわった『エッチで、ポップで、ドキュメンタリー』な芝居でオリジナリティーを確立すべく奮闘中」だそうです。
 今回の芝居は父親と息子、それに父が通うバーのホステスがアパートの一室で展開する密度の濃い会話劇と言っていいのではないでしょうか。

 スタッフに友人がいるらしい「Sharpのアンシャープ日記」は「日曜日の夜6時からの開演だったのだが、もうすぐ『サザエさん』が始まるだの、7時から夕飯を食べ始めるのに献立は何にするだの、表面的にはリアルすぎるほどにリアルな日常生活の中で時間を進行させつつ、その根底で、通奏低音のように、家族とは何か、個人のアイデンティティとは何か、という問題を深く掘り下げていく」と書いています。

 舞台はアパートの一室。壁一面に女性の下着が飾られています。父親は女装が趣味。そのせいか母親と別居(離婚だったかな?)しているけれど、息子と同居している。そのアパートに、父がよく行く女装バーのホステスが姿を現すところから舞台が始まります。
 父と子、男と女、客とホステスという3層の関係が濃縮された空間に描かれるのですが、衣装を媒介とした「性」と「生」がいやでも浮かんできます。

 舞台の実際はどうだったか。劇団印象の主宰者鈴木厚人さんが個人ブロク「ゾウの猿芝居」サイトに「酷評から学べること」というタイトルで次のように書いています。

テーマがわからなかった、というアンケートも多かったのですが、
わからないこと、難しいことが問題なのではなく、
わからないけどわかりたい、と思わせられなかったことが問題で、
わからないが面白い、と思ってもらえなかったことが問題なのだと思います。

わからない、と言わせてしまったら負け。
面白い芝居は、わからなくても面白いし、
わからないことを忘れるぐらい面白いものだから。


これはその通りでしょう。唐十郎の芝居はその典型ではないでしょうか。あとでよく考えると荒唐無稽な筋書き、矛盾する仕掛けに気付いても、劇場で見ているときは放射する強烈なエネルギーに圧倒され、劇世界に引き込まれ、気が付けばはるか遠くまで飛ばされてしまうのです。

意味を説明するのだとしたら、 幸福のメタファーとして、幸服を配置し、 孤独のメタファーとして、空腹を配置しました。 (hangerとhungerは別にかかっていない) というのは、現代における空腹とは何に対する空腹なのか、 物質的にはいつも満腹だけど、 精神的にはいつも空腹である、 それは孤独がより一層、重みを増しているからではないのか、

そして、今思えば、そこが描き足りなかったのですが、
孤独になることが幸福か、
孤独を埋めることが幸福か、という対立を見せたかった、
ゆえに、
孤独な人間が家族を食べて、空腹と孤独を埋める、
そのことを腑に落ちるように描く演出力、脚本力が及ばず、
わからない、と言わせてしまっているのだと思います。
また、一人の人間が家族を食べてしまうまでのバックグラウンドが、
見えてこない、そこが「私の中では落ち」なかった原因だと思います。


 そこまでの射程があったとは気が付きませんでした。「父子相克」の末の「父子同根」が、この芝居の着地点に用意されています。それがまた、家族や孤独や空腹と絡んで重要なポイントだというわけです。おそらくその辺を実感できるかどうかに、公演評価のカギがあったように思われます。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:40 PM | Comments (0) | Trackback

February 04, 2005

人形劇団プーク「かちかち山」「金壺親父恋達引」

 人形劇団プークの本拠地を通りががりに眺めたことがある。新宿南口から徒歩5分ぐらいだろうか。甲州街道から少し代々木寄りに入った絶好の場所だった。 3日夜、その専用劇場ではなく、こまばアゴラ劇場で初めてプークのステージを体験した。おもしろかった。客席で無防備に、ころころ笑ってしまった。

 人形劇団というと、操り糸で人形を動かすというイメージがあったけれど、「かちかち山」は違っていた。被り物はあっても俳優は素面で、詰め物で膨らせた白の吊ズボンをはいて登場した。ヨーロッパのダンス集団で、豚の仮面をかむって登場したダンサーがそんなズボンをそろってまとっていたような記憶がある。A.C.O.A.がBeSeTo演劇祭でみせた「煙草の害について」でも、同じような衣装をかなりグロテスクに仕立てて登場した。 A.C.O.A.では衣装が重要な伏線になっていたけれど、プークでは動物との近縁を示す導線の役割を果たさせようとしているような気がする。

 「かちかち山」だから、登場するのは狸とウサギ。かたや37歳の古狸なら、ウサギは今年16歳の処女という設定である。狸の死骸を発見した男女の警察官が現場を調べる冒頭から、やがて2人が狸とウサギに成り代わり、それぞれ狸とウサギの人形をときに手に持ち、人間と人形が一体となって舞台が進んでいく。語りと身体との間に人形が入り込んだり、人形が姿を消して俳優が表に出たり、その逆に人形の影に役者が隠れたり…。

 劇中劇という構造が演劇の相対化によく用いられる。しかし人形の効果的な登場が、今回の舞台でどれほど意識されているかどうか分からないけれど、劇自体を豊富化する手がかりになるのではないかと示唆深かった。プーク体験はぼくには目から鱗の舞台だった。同じように人形をメーンに登場させる文楽が、メタ演劇実現の視点から再評価されたことはあるのだろうか。
 そういえば、客席には「地点」演出の三浦さんや田島さんらの姿がみえていた。なるほど、よくベンキョウしてますね。

 狸汁から逃れようと、つかまえたおじいさんを殺した狸は、美しいウサギにほれ込んで疑うことを忘れているが、ウサギは殺されたおじいさん夫婦に恩義を感じており、冷静に復讐を図るという話。御伽噺をもとにした太宰の原作。ウサギ役の桐丘さんが舞台に登場すると、匂い立つような雰囲気が広がった。恩義と復讐を秘めつつ古狸の一挙手一投足に妖しく冷たい視線を向ける。その光景の背後にオーラが見えるような気がした。

 井上ひさし作の「金壺親父恋達引」はモリエールの翻案だが、相変わらずうまくできている。ただ劇形態は文楽方式で、黒子役が人形を動かし、同時にせりふも。足脚の動きが笑いを誘ったけれど、方法的には従来どおりのパターンを踏襲しているように思えた。

 決定的に重要なのは、人形だと思われる。そのキャラ、作り方で印象が決まるからだ。主役と同じ、いやそれ以上の比重があるのではないだろうか。

 今回登場した人形は、2つの演目で同じ作者と思われる。いや、同じかどうか分からないが、少なくとも「作風」は似ている。しかし人形の作風は上演する作品によって、がらりと変わっていいのではないか。リアルもあればシュールもパンクもあっておかしくはない。なるほど、人形制作者に問われるのは技量だけでなく、演出も含めた劇全体の方向が問われるようになるかもしれないと密かに考えた。

 こまばアゴラ劇場の 「冬のフェスティバル2004」参加公演。声をかけてくれた劇団のKさんに感謝。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:18 PM | Comments (0) | Trackback

January 23, 2005

特別企画「振り返る 私の2004」(3)

 特別企画「振り返る 私の2004」の5-6回を掲載しました。第5回は「演劇への視線を問う 」。演劇ジャーナリスト 山関英人 (「舞台芸術の小窓」サイト主宰) の執筆です。6回目は北嶋がまとめました。タイトルは「劇評(レビュー)サイトを始めてみたら」。昨年8月にスタートして半年間に感じたことに触れています。(北嶋孝@ノースアイランド舎)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:51 PM | Comments (0) | Trackback

January 19, 2005

特別企画「振り返る 私の2004」(2)

 特別企画「振り返る 私の2004」の3-4回を掲載しました。1-2回はこのサイトに「名札」のある2人でしたが、今回の2人は自分のwebログで芝居を取り上げ、鋭い分析や斬新な文章表現で知られています。特にお願いして書いていただきました。第3回「ネットで芝居について何か書く、ということ」を寄稿した熊上みつみさんは「X-ray」サイト、第4回「私的演劇の追想」を書いた鈴木麻那美 さんは「うたうた」サイトを舞台に書いています。
(注)最終分の掲載は21日の予定でしたが、都合により23日となります。ご容赦ください。(1月21日)

Posted by KITAJIMA takashi : 08:47 PM | Comments (1) | Trackback

January 17, 2005

特別企画「振り返る 私の2004」(1)

 新しい年もすでに月半ば。さまざまな公演が元旦から始まり、今年も劇場はどこもにぎわいそうな気配です。年があらたまったからというわけではありませんが、新しい年にあたらしい芝居をみたいという望みは簡単に手放せません。昨年はどんなシーンが展開され、新しい芽はどんな土の上に育つのか。これまで観劇体験を重ねてきた人たちの演劇・芝居・舞台に関わる率直な感想を得たいと考え、特別企画「振り返る 私の2004」を17日から3回に分けて掲載します。本来は年末の予定が延びに延びて、やっと掲載の運びとなりました。このサイトの常連執筆者を中心に寄稿していただきました。初回は、常連執筆者の松本和也さんと河内山シモオヌさんです。(北嶋孝@ノースアイランド舎)

Posted by KITAJIMA takashi : 10:21 PM | Comments (0) | Trackback

January 08, 2005

クロムモリブデン『ボウリング犬エクレアアイスコーヒー』

 年末から新年にかけて東京・王子小劇場でクロムモリブデンの「ボウリング犬 エクレア アイスコーヒー」公演(12月29日-1月3日)が開かれました。佐藤佐吉演劇祭の掉尾を飾るこの越年公演に関して、さまざまなレビューが掲載されています。
 「しのぶの演劇レビュー」は「期待していたよりも面白かった!はっきりと独自色があるってことの強さを思い知りました。関西の劇団なのに関西っぽさをアピールしていないのも良いです」と温かな扱いです。

  「デジログからあなろぐ」はもっと熱くて、「生半可に芝居を見ている者には味わえない感覚・・・それが「演劇好きで良かった」の瞬間です。この作品は、そんな瞬間を私に齎してくれました」と芝居の世界に入りこんでいます。
 「休むに似たり。」は「物語とは明らかに関係のないような遊びが楽しい。みてるうちに妙なグルーブ感が出てくるのです。勢い、物語は追いづらい」と、いつもながら距離感のある見方です。

 この公演は、ネット上で知り合った自殺志願者と他殺願望者がそれぞれ、「影法師」と名乗る女によって山奥に集められるという設定です。近くのボーリング場で出合う2組の集団と、殺し屋の男女、それにボーリング場の再興を計画している男女(兄妹?)が入り乱れてドラマが進行します。米国のコロンバイン高校で起きた乱射事件で、直前に実行者がボーリングをしたことが影響しているという記載が報告書にあったと、劇中でなんどか触れられます。しかし「物語を追うよりは、会話の断片が楽しい」というのは、こういう筋書きが十分消化されていないという指摘なのでしょうか。

 「踊る芝居好きのダメ人間日記」はこの点について「ストーリーに、それほど惹きつけられません。分かり難いとかいうわけでもないんですが、なんか今さら感が漂ってしまうんですよね。集団自殺とかコロンバイン高校とか。一周遅れて走っているような」と生の感想を漏らしています。
 「Review-lution! on-line」はもっとストレート。「刺激的なシチュエーションながら、特に劇的事件が起こるわけではない。自殺と他殺という問題や、主人公の女性の離人症的心象風景<ボウリングレーンの上を走るどうしてもまっすぐ走れない犬を、エクレアを食べながら見ている自分>、コロンバイン高校の銃乱射事件など、奥の深い題材を用いながら、それを明確にかみ合わせることがうまく出来なかったようだ」と書いています。

 ぼくも2日の公演をみましたが、芝居の作り方を心得た集団という印象を受けました。起承転結をかちっと決めることよりも、劇団の関心はむしろ照明や舞台美術、衣装などを駆使して、パワーとアイデアを客席にめまぐるしく放射することに向けられているような気がします。サービス精神というか、よい意味で職人芸に秀でているのではないでしょうか。才気と才能を存分に感じます。古い話で恐縮ですが、「疾風Do党」の舞台をチラッと思い出しました。作・演出の福田卓郎はいま映画やテレビドラマでも活躍しているので、ご存じの方もいるでしょう。この劇団は現在、Dotoo!(ドトォ!)と名乗っているようですが、ステージを見ていないので「昔の名前」を出しました。ご容赦のほどを。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

クロムモリブデン公式サイト
■ボウリング犬 エクレア アイスコーヒー
■作・演出 / 青木秀樹
■出演 / 森下亮・金沢涼恵 ・板倉チヒロ・山本景子
   重実百合・信国輝彦・奥田ワレタ・齊藤桂子(dd69)
   大沢秋生(ИEUTRAL)・岡本竜一
■大阪公演 2005年1月23日(日)~25日(火)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:44 PM | Comments (0) | Trackback

January 01, 2005

あけましておめでとうございます。

 東京のお正月は雪景色で明けました。大晦日に雪が降り始めると、本格的な冬の始まりだったふるさとの記憶が蘇ります。身を引き締めて新しい年に向かうようにとのメッセージでしょうか。

 このweb サイトがスタートしたのは暑い盛りの昨年8月。この4か月間、力のこもった評を載せていただいた執筆者、多様なレビューを展開している各サイト主宰者の方々に感謝します。またほとんど宣伝もしないのに、熱心にアクセスしていただいた読者、リンクしていただいた各サイトにもお礼を申し上げます。

 今年はもう少し出入り自由な空間にしたいと模様替えを検討中です。またレビューだけでなく、折々に特別企画を用意したいと考えています。

 実は2004年を振り返る年末特別企画を用意していましたが、編集人の引っ越しで、突然のトラブルからインターネット接続不能状態が生じてまだ掲載できていません。今回もひとさまのパソコンからアクセスしています。状況が改善され次第、紹介できると思います。しばらくお待ちください。

 昨年末は個人的な事情で時間的な余裕がなく、編集がままなりませんでした。ページ紹介の中身も回数も極端に落ちてご心配をかけてしまいました。もう少しで一段落。2月からは元のペースに戻ります。
 今年もよろしくお願いします。

 Wonderland サイト 編集人 北嶋孝@ノースアイランド舎 2005.1.1

Posted by KITAJIMA takashi : 04:26 PM | Comments (0) | Trackback

December 25, 2004

八木柊一郎作「コンベヤーは止まらない」

 今年亡くなった劇作家八木柊一郎の岸田戯曲賞受賞作「コンベヤーは止まらない」(1962年)の舞台をみてきました。桐朋学園芸術短大芸術科演劇専攻(2年)による試演会です。高度成長のとば口で、世の中の対立構図がくっきり見えた時代。生産効率一辺倒の工場相手に、下請けのさらに末端に位置づけられる内職家庭がストライキを仕掛けるというお話です。簡素なステージを縦横に生かした演出力もさることながら、労働組合とかストライキとかが死語になりかけているいま、学生にあえて古典的な骨格を持った物語をぶつける演出家の剛毅と侠気を感じる芝居でした。

 12月11日(土)と12日(日)の2日間、Aプロ、Bプロそれぞれ1日2回、計4回公演。Aプロは直球バージョン、Bプロは変化球バージョンだったそうです。ぼくがみたのはAプロでしたから、「直球」を投げ込んでもらったことになります。これほどのステージなら変化球版もみたかったのに、ぼくに時間の余裕がないのは残念でした。演出は、同大講師を務める大岡淳さんです。

 正面と向こう正面に客席が階段状に組み上げられ、ステージはすり鉢型の底のようになっていました。ステージの四分の一ほどが一段高い正方形。天井から小ぶりの布製スクリーンが旗のように下がっているだけで何も置かれていません。

 開演前に黒っぽいコートを着た大岡さんが舞台に登り、囲むように着席した学生の出欠を取ります。これも授業の一環という確認なのでしょうか。そして「演劇は社会を変えられるか」という問いを投げかけます。学生数人がすこし硬く、あるいは迷いつつ答えます。そんな発言を引きだした後、大岡さんはナチスドイツの歴史に触れ、ファシズムは民衆の参加型運動として発展し、演劇も参加者の意識と意欲を高める有力な手段として活用されたこと、つまり社会を変える道具として逆説的に重要な役割を果たしたことなどを話しました。学生と客席をちょっぴり挑発するプロローグと言えるでしょうか。ブレヒトを彷彿とさせるいたずら好きの作風のようにも思えました。

 物語の時代設定は1962年です。ラジオ部品製造工場のコンベヤー前で、本工の中山あつ子が作業中、突然手が動かなくなります。診断はコンベヤー作業からくるノイローゼでした。彼女の母親は下請けから部品組み立ての内職仕事をもらって家計を支え、あつ子と幼馴染の浩一は社外工で、彼の両親も内職仲間という設定です。浩一は将来の望みもないまま低賃金で働き続けることに嫌気がさしています。しかし工場はコンベヤーの速度を上げ、生産増強をあおるだけ。「コンベヤーを止めない」-それが合い言葉のようになっているのです。工場の管理主任も下請けの社長も現場の営業マンも、そして内職に追われる主婦らもみなコンベヤーに振り回され、無理な仕事を引き受けざるを得なくなっています。
 浩一はあつ子と話しているとき、ストライキを思いつきます。末端の主婦らが内職をストップすればコンベヤーは止まります。やがて浩一はストライキで賃金を倍増しようと主婦らを説得、会社や下請けを巻き込んで初日は成功するかと思われたのですが…。

 当時は臨時工、社外工、内職(アルバイト)の階層型下請け構造が当たり前。労使対立が露出し、ストライキだって珍しくありませんでした。労働運動は政治的社会的に一大勢力を築いていたのです。62年の岸田戯曲賞受賞作品は、十分に当時の雰囲気が刻印されています。

 これらの荒々しい波頭はいま見あたりません。内職などはほぼ「外部化」され、パートやアルバイト、派遣社員や嘱託などの非社員・非正規雇用群が波間に浮き沈みしているように見受けます。生産性や創造性、競争志向が、ほとんどの職場の暗黙の前提になっているのではないでしょうか。

 そんな時代に、内職家庭がストライキを構えるという作品をあえて取り上げるのは、なかなかできることではありません。優れた作品の再演に機会を与えるというだけでなく、現実に風穴を開けたいという意志を鮮明にすることになるからです。といっても、ただ風車に突撃するわけではなく、今回の演出は周到な仕掛けを張り巡らしているように思えます。

 まず簡素なステージによって、せりふと動きで情景をくっきり浮かび上がらせるよう集中したことが挙げられるでしょう。工場のラインもありませんし、道具類も見あたりません。省略とそぎ落としによって目移りする度合いを押さえ、作品のモチーフに関心を向けようという戦略です。ステージの上だけでなく、コンベヤー作業でも下請け社員の内職家庭回りでも、周縁を巧みに使って効果を上げています。

 同時にほどほどの説明と啓蒙を心がけたように思えます。冒頭、ステージにつり下げたスクリーンで当時のコンベヤー作業の映像を映して、場面と気持ちの双方に転換の準備を促します。ステージの周りに着席している学生がベルトコンベヤー作業の動きに移るのも、会場全体でそれほど違和感なく受け入れられたのではないでしょうか。

 今回の作品は登場人物が20人余り。いわば群像劇とも言える舞台をさばくにはそれなりの腕力が必要になります。そのために採用したのは簡素なステージを逆手にとった、暗転の多用という方針でした。照明の手際はさすが。学生の試演とは思えないほど破綻なく、劇の流れにとけ込んでいました。また生のウッドベース演奏も登場します。たった1台ですが、同期したりずれたりしながら舞台を包み、雰囲気を支えていました。
 学生はみな達者でした。もうすっかり役者です。まっすぐ役に立ち向かい、ありきたりの表現ですが、すがすがしい風を受けた気がしました。

 60年代の社会を背景に、内職ストライキを取り上げた物語でしたが、さすがに現在取り上げられるだけあって台本はしっかり書き込まれています。典型的な悪役をこしらえて対立図式を煽るようなまねはしていません。ストライキの切り崩しも、下請け会社の社員が仕事を円滑に回したいと考えている行動だと描かれています。内職の女性たちも、賃上げのために一致団結というほどの覚悟でもないように受け取れます。悪意がないままそれぞれがコンベヤーに、あるいはコンベヤーに象徴される「仕組み」に巻き込まれてもがいている、と作品は言いたいのではないかと思えます。

 逆に言うと、「仕組み」に振り回されたり押さえつけられたりする抵抗感が、それぞれの人物像にかなりがっちり埋め込まれているように感じました。工員だけでなく下請け会社の社員も、また家庭の主婦らにも見て取れます。そういう原形質が、作品の底辺を支えているのでしょう。古典的な骨格が感じられるというのは、そういう意味です。

 作品成立から40年余り。60年代の高度成長、70年代の政治の季節、そして80-90年代のバブルの興隆と破綻を体験したあと、その「骨格」がどれほど変容を被っているかによって、作品に埋め込まれ、前提となるモチーフの射程距離が見えてくるような気がしました。おそらく演出の大岡さんには周知の事柄だと思われます。冒頭の「いたずら」にも、ステージの周縁を活用する演出にも、その気配ありありでしたから。

 作品のモチーフはどこに、どのような焦点を結んだのでしょうか。「役者」として初々しくても「学生」はそれなりにしたたかでもあります。「ターゲット」となった学生の受け止め方、流し方が気になります。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

追記(12/26)
 大岡さん主宰の「商品劇場」公演について、柳澤望さんのplank Blankサイトにレビュー特集「20世紀の大岡淳演出作品から」が掲載されています。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:59 PM | Comments (2) | Trackback

November 06, 2004

野鳩「きみとならんで空の下」

 今年のアリスフェスティバルに参加した野鳩「きみとならんで空の下」公演(10月16-18日)について、「うたうた」サイトが体言止めを多用した長めの感想を書き留めています。
 「ドラえもんを演劇にしたらこんな感じになるかもしれないというような、つまりはベタな展開。話はひどい状況でもマイペースな演技は変わらず。全ての過程を役者さんの演技がチャラにする。安心して観てられる。変な安心感。…ゆるゆる。しかし抜け目なくゆるゆる」

 なーるほど。「抜け目なくゆるゆる」という指摘は秀逸ですね。ぼくも見ましたが、こういう表現は思い浮かびませんでした。太極拳やヨガは、緩い動きを意識的に採用して、心身の緊張と弛緩をコントロールします。野鳩はそれと同じような方法論をとっていると感じました。新しいこころみではないでしょうか。期待している劇団の一つです。(北嶋孝@ノースアイランド舎)

「野鳩」公式サイト
□野鳩 第7回 公演「きみとならんで空の下」
 アリスフェスティバル2004参加作品
 2004年10月16日(土)~18日(月) 新宿 タイニイアリス
□作・演出 水谷圭一
□出演
 佐伯さち子
 畑田晋事
 村井亮介
 菅谷和美
 山田桐子
 水谷圭一
 吉田友則 (シベリア少女鉄道)

□スタッフ
 照明/増田純一
 舞台美術/仁平祐也
 小道具・造形部 部長/中島香奈子
 衣裳/矢島春恵
 イラスト/ル・カバコ
 宣伝美術/水谷圭一 畑田晋事
 制作/山下千春

Posted by KITAJIMA takashi : 10:45 PM | Comments (0) | Trackback

October 28, 2004

野田秀樹「赤鬼 日本バージョン」

 今年の演劇界で、野田秀樹の「赤鬼」(RED DEMON)3バージョン公演は、長く記憶に残る出来栄えだったのではないでしょうか。ぼくも日本バージョンを見終わった瞬間は人並みに心動かされたのですが、会場を出ることは、かなり違和感が湧いてきました。どうしてそうなったのか、自分なりに舞台の構造を踏まえて考えたのが、以下の文章です。少し長くなりましたが、ご覧ください。

◎クライマックスはどこにあるか 鮮やかな舞台実践とテキストとの差異
 赤鬼(RED DEMON) 日本バージョン(10.13.2004 at Bunkamura's Theater Cocoon)

 うわさの「赤鬼」(日本バージョン)をやっとみることが出来た。10月13日のマチネ、場所はシアター・コクーンの中2階席だった。中央にしつらえられたひょうたん型の舞台を斜め上からみる2時間弱。おそらく今年の演劇界で特筆される公演だと思われる。野田の成熟が存分に発揮された芝居として語り継がれるかもしれない。日本バージョンをみただけのぼくでも、容易に想像できる見事な仕上がりだった。
 また外国人を配役に加えるとか海外公演に出かけるという例はあけれど、英語だけでなく、タイ語、日本語の3バージョン公演を実現する試みは聞いたことがない。しかもそれぞれの国ですでに公演したうえで3バージョンを一挙に国内で実現したケースは、一国的な空間に閉じこめがちな芝居を、アジアを含めて多元的に展開する鮮やかな実践と言うべきだろう。

 海外の俳優をそれぞれに配置し、演出も変え、その都度野田がステージにも立つ。8月14日のロンドンバージョン(「RED DEMON」)を皮切りに、タイバージョン(9月14日から)、そして10月2日から20日まで続く日本バージョンで「赤鬼」全体が締めくくられた。

 日本バージョンで舞台に立つのは小西真奈美、野田秀樹、大倉孝二の3人。「あの女」と、知恵遅れの兄「とんび」、それに「女」にまとわりつく村の道化役「ミズカネ(水銀)」だ。また3人は乳飲み子をさらわれたと訴える母親や、村人、長老などの役を一瞬のうちに演じ分ける。赤鬼はヨハネス・フラッシュバーガー。長身、ひげ面。明らかに異人と分かる体躯と風貌である。

 筋はそう入り組んでいるわけではない。
 ある日、異人が浜に打ち上げられる。怪異な風貌から村人は「赤鬼」と名付けるが、よそ者ゆえに疎まれている「あの女」ら3人はやがて「鬼」に近づき、気持ちの通じ合う「人間」だと気付く。赤ん坊をさらったという誤解や、安住の地を求めて航海する船団の斥候役だと見破られたことなどが重なって、赤鬼と女の処刑が決まる。しかしミズカネの機転で舟を調達、3人は海の向こう目指してこぎ出す…。

 四周を座席で囲まれたひょうたん型のステージで、ポールとネットという簡単な道具で浜辺や広場、洞窟を構成する手際。海の揺れと心の動揺を身体の揺れで同期させる技法。暗転を多用して時の推移を表現する工夫。せりふを効かせるため用いられる言葉遊びと道化的=異化的な身振り。いずれも淀みなく、巧みな手筋で運ばれる。せりふも演技も、熟達した演出のタクトで可能になった。

 外国人を暮らしの中に受け入れられるか、村世界を頑なに閉じて異人を排除するのか-。海に漕ぎ出すまでの展開が押し出す問い掛けは疑いようもなく直裁で、大小のエピソードと演劇的な起伏を折り重ね、だれにもわかりやすく提起される。開始早々は野田のせりふの一つ一つに笑いで応えようと待ちかまえていた客席も、幕切れ近くになると舞台に引き寄せられ、しわぶき一つ聞こえない。終演と同時に漏れるため息に似た高揚が熱い拍手に現れている。野田の直球が確かにそれぞれの胸に届いているように見えた。

 しかし、果たしてそうなのだろうか。会場から引き揚げる満足そうな顔、顔、顔を見ているうちに、何とも言えないわだかまりが胸に巣くうのを感じた。「異人排除」だって? それでは海に漕ぎ出してからの展開は、どこへ行ってしまったのか-。

 最後のドラマは、海に漕ぎ出した小舟の上で起きる。
 赤鬼を待っているはずの船団は姿を消していた。行くあてもなく食料もないまま、漂う小舟の上で意識が薄れた「女」は、ミズカネが与えるフカのスープで命を長らえた。やがて3人は飛び出したはずの浜辺に打ち上げられる。「鬼」の姿はない。消えたなぞをだれも語らない。「女」はあるとき、自分が食べたフカのスープが「赤鬼」の人肉だと知り、崖から身を投げて死を選ぶ。「鬼が人間を食うのではなく、人間が鬼を食う」事実がストレートに投げ出されるのである。

 Web上で演劇評を掲載してきたCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)サイトで、評論家の長谷部浩は「純粋な結晶」というタイトルで次のように述べている。
 「『RED DEMON』は、単なる異文化コミュニケーションをめぐる寓話ではない。差別と被差別、自由への憧憬、人肉食と生の意味、知性の脆弱さなど、野田秀樹がこれまで執拗にこだわってきたテーマ系が、すべて出揃い、しかも縒り糸のようにからみあっていると気がついた」
 野田の軌跡を同伴しつつ考察してきた人らしいさすがの深読みだが、実際の舞台は深読み通り進行したとは言えなかった。

 野田はどこに力点を置いたのか。「RED DEMON」に関して、ロンドンバージョンに登場した役者のコメントが、会場で販売されたプログラムにずらりと並んでいる。長いけれども引用してみよう。

 タムジン・グリフィン(あの女) アウトサイダーのこと、自分と違っている者を悪魔化してみることなどが、シンプルな美しさで描かれている。…シンプルと言っても浅いわけではなく、テーマが深く明確に描かれている作品です。
 マルチェロ・マーニー(とんび) 人が自分と違うものに対してどう扱うのかということが描かれています。われわれは決して開かれていない。人種問題を乗り越えたつもりでいても、自分でも気が付かないうちに壁を作ってしまう。だから戦争がある。秀樹はそういったことを普遍的な物語の形にして伝えている、すばらしい作品です。
 サマンサ・マクドナルド(村人) だれもが人生の中で、人と違うということを感じることがあるだろうけれど、人を受け入れる寛容さが重要であると語っている作品だと思います。

 これらのコメントで指摘されるのは人種的対立、異なる意見を持つ人との対応と受容である。少なくともロンドンバージョンの役者たちはこの作品を「異文化受容」問題として受け止め、演じていた。作品の基本性格について、野田がそう解釈されるよう仕向けたことは間違いないだろう。日本バージョンもその線に沿って構成されていた。だから、異文化コミュニケーションがテーマだとする評が圧倒的に多かったのもそれなりに根拠があると思われる。

 逆に言うと、この舞台は、海原で起きる一連の出来事をあっさり端折ったとしかいいようがない。特に赤鬼を食べて命をながらえた「あの女」が真相を知って崖から身を投げ、命を絶つエピソードも、伝聞の一こまとして簡単に処理されるのである。

 他人を食べて生きながらえる-。自分の命と他人の命がぶつかり合うアポリア、その事実を自死によって贖おうとする心性を、真っ向から問いかけるはずの結末は、物語のエピローグとして手短に美しく、しかも心のひだをすり抜けるように扱われる。演じられるクライマックスは、それ以前の村での出来事に集約されているのである。

 野田が意識的にそう仕向けたのかどうかは分からない。テーマの分割を避ける無意識の知恵が働いたのかもしれない。客席を混乱させず、しかも客席に過度に重いテーマを投げかけない。これは観客に余分な負荷をかけず、しっかり感動して帰ってもらうための確かな選択だったことは間違いない。

 演じられた舞台と語られたテキストとでは、クライマックスが違っていた。「赤鬼」に見えた狭間はまた、野田芝居の人気の秘密を裏から照らし出してくれたのかもしれない。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、10月28日)

Posted by KITAJIMA takashi : 01:21 AM | Comments (0) | Trackback

October 21, 2004

パパ・タラフマラ「パレード」

 パパ・タラフマラは息の長い活動を続けています。Webサイトをみると、1982年の公演がトップに載っているので、20年余りの長い歩みを続けてきたことになります。
 今秋、稽古場としても使っているスタジオサイで開かれた「島~ISLAND」公演をみました。ぼくがパパ…のステージを何度かみたのはもう10年あまり前ですから比べるといっても期限切れかもしれませんが、やはり年月の重みを感じさせるパフォーマンスでした。詳しくは別の機会に譲りますが、渋い、熟成した雰囲気が漂っていると思います。
 以下、参考までに、90年末の「パレード」公演について書いた感想を掲載します。

◎PAPA TARAHUMARA /PARADE
1990年12月26日、青山スパイラルホール。

冷たくてあったかい。モダンで懐かしい。さり気ないのに緻密…。そんなふしぎな撞着に出会うことはないだろうか。パパ・タラフマラの「パレード」公演をみて、相反する二重三重の感情のもつれを体験した。

パパ・タラフマラを初めてみたのは一昨年の秋、東京・恵比寿のファクトリーで行われた「パレード」公演だった。今回は東京・青山のスパイラル・ホールでの年末公演。何度か上演している代表的作品だけに、骨格は変わっていなかった。

白が基調のステージに、先の丸い白の円筒が何本か立っている。やはり白っぽい運動着ふうの衣服を身に着けた男女が、素早く、あるいはゆっくり、時には疾走して舞台を横切っていく-。そんなオープニングに、モダンなステージの特質がよく出ているように思えた。

言葉はほとんど出てこない。鳥の交信のような短い叫び、意味不明の言葉の散布が時折、ミニマル風ありアフリカのリズムありの音楽に乗ってみられるだけ。とりたててストーリーがあるわけでもない。時折ふしぎな形態のオブジェが現れ、出演者が戯れたりする-。

 基本のコンセプトをむりに振り付けたりしないから、こちらの身体にも余計な力が入らないし、自然なまなざしでいられた。 だから「意味」を汲み取ろうという試みは、肩すかしを食わされる。ぼくらはただ、そこに拡がるひとの動き、光と影(照明)、空間を演出する音楽に身を浸し、同調するだけである。

そんな「充実した空白」とでも表現するしかないステージから、何が浮かび上がってくるのだろうか。

都市でなければ発想できないモダンなオブジェや音楽。汗も臭いも感じさせない白っぽい清潔感。「意味」を消去する洗練されたスタイル。どこにでもあって、どこにもない、宇宙の異星に現れる無国籍の風景-。海外にも通じる普遍的な内実であろうか。

しかし何かが足りない。隙のない動き、統率された空間に欠けているのは何だろうか。しばらくぼんやりしていると、あるイメージが浮かんできた。それは笑いだった。身体に宿る哄笑、爆笑、失笑、微笑…。場を和らげ、空気を解き放つ笑い-。

 アランはたしか「幸福だから笑うのではない。笑いが私たちを幸福にするのだ」と語っていた。そのたった一つの欠如が、パパ・タラフマラの国境と国籍を、それこそさり気なく表しているように思えた。当然のことながらそれは、ぼく(ら)と通底しているという痛みの感覚を伴っている。

パパ・タラフマラは新作「ストーン・エイジ」の東京公演を3月にした後、京都、大阪、名古屋でも公演する予定という。また秋にはロンドンで開催される「ジャパン・フェスティバル91」に参加が決まっている。

それが待ち切れない人は、TEL0425(74)3270(サイ)でイベントやCDの問い合わせを-。
( 初出:医療総合誌 「ばんぶー」 1991年2月号)

Posted by KITAJIMA takashi : 05:53 PM | Comments (2) | Trackback

September 15, 2004

第14回ガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル

 第14回ガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル公開二次審査会が9月5日、天王洲アイルのスフィアメックスで開かれました。1次審査で選ばれた9団体が10分間のプレゼンテーションでアピールした結果、中学生の思春期をメルヘン風に表現した「野鳩」、音楽やサウンドを使ったコント集団「ラ・サプリメント・ビバ」、のぞき窓形式の芝居小屋を始めている「マダムゴールドデュオ」の3団体が選ばれ、来年2-3月に開かれるフェスティバルで公演できることになりました。
 「X-ray」サイトのkumaさんが、この審査経過を詳細にリポートしています。個々のグループや劇団の評価、さらに審査員のとんちんかんなコメントへの鋭い突っ込みなど、確かな鑑賞眼を示しています。

 このフェスティバルは「これからの演劇界を担う表現者を発掘し、表現の場を提供するとともに、演劇における新しい表現の可能性を 探る実験の場を提供」するのが目的で、「既存の演劇フェスティバルとは一線を画し、公募制というシステムをとることで、誰にでも公平にチャンスが与えられてい」るそうです。過去に選ばれた劇団やグループには、「珍しいキノコ舞踊団」「reset-N」「ポかリン記憶舎」「ニブロール」「チェルフィッチュ」などなど有名どころがそろっています。
 というわけで、ぼくも丸1日付き合いました。「野鳩」は審査員の満票をとるだけあって、関西や九州の方言を取り入れ、思春期をあっさり薄味で調理した奥行きのある芸風が決まっていて、頭一つ抜けていました。慶応義塾演劇研究会から独立した「とくお組」も才能を感じさせるグループでしたが、アイデア勝負の「マダムゴールドデュオ」にあぶらげをさらわれた感じです。それぞれの公演が楽しみです。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)
 

Posted by KITAJIMA takashi : 10:25 PM | Comments (0) | Trackback

September 10, 2004

サッカリンサーカス「女番長メス猫ブルース」

 サッカリンサーカスの 「女番長メス猫ブルース」公演が新宿のサンモールスタジオで開かれました(9月7日-13日)。精力的に都内の舞台を見ている「休むに似たり。」サイトがこの公演を取り上げています。「話は破綻しまくりというよりハナから放棄している気がします。(中略)話はともかくそれぞれキャラクタが生きてて見てて楽しいのです。とはいえ、じゃあ彼らは何がしたかったのかなあ、と思ったりもしますが」という感想が的を射ているのではないでしょうか。

 初日7日、雨の中を出かけて、ぼくも見てきました。
 Webサイトによると、作・演出の伊地知ナナコさんは早稲田大学大学院文学研究科方言学教室修士課程中退、第六回沖縄市戯曲賞大賞受賞、第二回日本演出者協会若手優秀賞受賞。その上、紀伊國屋書店のサイトですてきなエッセーも書いているので期待していました。しかし見事返し技(肩すかし)で場外に投げ飛ばされたような感じです。
 舞台は新宿と立川のスケ番たちが縄張り争いを繰り広げるというお話です。でも、頼りない女性数人で新宿のシマを仕切るなんて…。大沢在昌の「新宿鮫」シリーズをお読みになっているのか心配になりました。有名女子校の生徒が「裏番長」を張るという設定も「セーラー服と機関銃」を誤読したとしか思えません。「さあ、カツアゲに行くか」という女の子たちが「新宿にユートピアを作るんだ」と言ってもチグハグですよね。
 リアルであるかどうかよりも、リアルを知らないままファンタジーを紡いでいるような気がします。ミュージカルっぽいステージにしても、ウエストサイド物語が念頭にあったのかもしれませんが、歌や踊りで楽しませるところまでいきません。どこかで方針を誤ったとしか言いようのないステージでした。
 伊地知さん、どうしたのでしょう。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

Posted by KITAJIMA takashi : 10:09 PM | Comments (0) | Trackback

August 27, 2004

ペピン結構設計「ポエムの獣」

◎上質で味わいのある芝居 謎を問いかける仕掛けも
 ペピン結構設計「ポエムの獣」公演を8月19日、横浜・馬車道のBankArt1929で見ることができた。期待したとおり、上質で味わいのある芝居だった。いまどきこれほど演劇的な台本にお目にかかるのは珍しい。役者もしっかり役に馴染んでいて、明治時代に建てられた旧銀行支店という特殊な空間を生かした舞台美術の仕上がりとともに、作者・劇団の才能がうかがえるステージだった。

 筋書きは同時進行が多くて要約しにくいけれど、あまりはやらないコンビニを舞台に、2組の男女関係が同時進行で展開される。まず若い男性店員が、お客として現れたグラビアアイドルに迫られる話、それに絵を描く動物好きの女性店員が遊び人風の男に惹かれていく話。どちらも女心が分からない男が、共通項になっている。

 例えば、迫られながらうつむいたり、「好みではない」とつい答えるうぶな男、指輪を女性の店員に差し出しながら、同棲中と思われる女性とあっけなく結婚するヒモ(遊び人)…。やるせない恋心を扱いかねたり、もてあそんだり。このあたりのやりとりは、こころ憎いばかりのたたみ方である。

 といってしまえば、ごくありきたりの恋愛話になるけれど、この舞台では基本的に男女がカウンターを挟み、金銭のやりとりに媒介される関係として設定されている。こちら側とあちら側。今の世の中を貫く大原則だが、芝居はこれを何度か意識的に破ってみせる。一度は女生徒が衣類を脱いで男に迫るとき、「あちら」と「こちら」を分け隔てているカウンターを一気に乗り越えるのだ。二度目はお客として現れたグラビアアイドルが店員に迫るとき、やはりカウンターを乗り越えて突進する…。乗り越えるのはどちらも女の側。自分で選択し、突き進んでいく-。

 それがぎらつかず、上質の舞台空間を形作るのは、異性関係の間に相互了解の世界が存在することを登場人物が疑いもなく共有しているからである。切ない恋心は相手を思いやる心、それが空気や水のように当たり前と信じられる世界の了解、と言い換えてもよい。

 では、うぶな男とヒモ、つまり男たちは垣根越えが可能なのか。
 芝居は2つの道筋を示唆している。うぶな男は「しっぽ」を取り去ることによって、遊び人はカウンターの「あちら側」から、女性店員のいる「こちら側」に入り込むことによって。しかもそれは2組の男女が「花火」を楽しむ場面で表現される。短いかもしれないが、至福の瞬間として-。というよりも、至福の瞬間ははかないからこそ輝くのだと分かっている同士が、互いに沈黙しながら花火を見つめる濃密な間合いとして提示されている。

 会場は明治時代の銀行建築のせいか天井が高く(約7m)、4本の円柱がフロアーを横切っている。この柱を3本使い、ゆるくカーブする2つのカウンターをフロアーにそのまま作り上げた。客席はステージの、つまりカウンターの両側に配置された。会場の3方に設置されたスクリーンと中央の白い円柱に花火の映像が投影される。美術・装置・映像が一体になった印象深いシーンだった。

 相互了解の心的な空間を日本的といってしまうのはたやすいが、人が人である基礎的な条件に関わるということも出来る。舞台はしかしそこまで言葉の形にせず、また「こちら」と「あちら」の設定も、うぶな男が着けている「しっぽ」の意味も特に解釈を施さず、謎を仕掛けたままステージに載せている。ぼくは終演後、気持ちはしっとりしながら謎解きを求められたような、不思議な感情に襲われた。

 役者は芝居の流れに乗り、それぞれが役割を果たしている。ヒモ兼遊び人役の岡本祐介の軽い演技は楽しめた。それにもましてグラビアアイドル役の小泉萌は水着姿も美しく、いじらしい女心を演じて切なかった。演出が「ペピン結構設計」となっていて、これまで作・演出も兼ねていた石神夏希ではない。メンバー全員のアイデアを出し合って作った結果がステージに現れたのだろう。

 ペピンの舞台をみるのは今回初めてだったが、評価は高い。1999年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生を中心に結成。翌2000年から本格的に学外活動を始め、02年「東京の米」で作者の石神夏希が第2回かながわ戯曲賞最優秀賞を受賞。若手演出家コンクール2002奨励賞も受け、今年2月に東京・池袋で開かれたリージョナルシアターに出場するなど、売り出し中の劇団、作者だった。

 しゃれたシーンもあれば、切なくなる場面もある。お客の来ないコンビニで出入りのチャイムが頻繁に鳴り響くきらいはあるけれど、謎の仕掛けも心得た台本に優れた演劇的才能を感じる。これからどのような作品が誕生するか、楽しみになった。
(北嶋孝 2004.8.26)

「ポエムの獣」
■作  石神夏希
■演出 ペピン結構設計 http://pepin.jp/
■出演 井上知子 岡本祐介 小泉萌 小林悠 吉田能 石神夏希
■日時 2004年8月19日(木)-22日(日) 各回18時開演 全4公演
■会場 BankArt1929馬車道 http://www.bankart1929.com

Posted by KITAJIMA takashi : 05:38 PM | Comments (0) | Trackback

June 29, 2004

五反田団公演「家が遠い」 

青年団と緊密な関係を保つ「五反田団」は相変わらず活発な活動を続けています。今年の5月公演「おやすまなさい」が第25回。ぼくの初見は昨2003年春でした。そのときの第20回公演「家が遠い」(5月2-5日、東京・こまばアゴラ劇場)の評をある雑誌に発表しました。以下、その再掲です。

◎ほろ苦い傷みの記憶 五反田団第20回公演「家が遠い」

 三方は客席で囲まれ、残りは高い塀で仕切られている。こんな鍋底のような舞台で、塀を背に座り込んだ中学生4人が暇つぶしに過ごす下校途中のひととき-。五反田団の第20回公演「家が遠い」(5月2-5日、東京・こまばアゴラ劇場)は閉ざされたビルの谷間で過ごす中学生の緩やかな時間が描かれている。

 学生服の4人はたばこをふかし、ジュースを飲む。親のはげ頭をけなし合い、カツラを話題にする。バンドを始めようと1人がテープレコーダーに吹き込んだ自作の曲を再生すると、ほかの仲間は白けてしまう。楽器を弾ける人がいない、楽器を買うお金がない…。

 あちこちに話が飛び移けれども、座り込んだまま口もきかない仲間が1人。その姉が、弟を連れ帰りに現れる。言うことを聞かないため、バイト先に断りを入れる姉。時間がいたずらに過ぎていく。ほかの生徒が無理に立たせようとすると、弟は思い切り暴れ回る…。その役どころはじつは、生身の役者ではなく、人形だった!

 劇的でも起伏のある筋書きでもない。淡々というか、だらだらというか、学校の話題や家庭の出来事も突き詰められることなく、うっすらとたなびく雲のように続いていく。退屈だけれど、退廃するほど尖っていない時間-。

 事件らしい事件は最後近くに起きる。何度か起きあがらせようとして果たせなかった姉が、寝ころぶ弟にまたがって、無言のまま殴りつける。バシッ、バシッ、バシッ…。殴りつける音だけが会場いっぱいに響く。淡々と進んできた芝居の中で、異様な時間帯だった。

 しかしまた、それが新しいドラマを生むわけでもない。とりとめのない話題に転換してしばらくしたあと、ゆっくり暗転して舞台が終わる。

 作・演出は前田司郎。近く平田オリザの青年団と合併するという。今回の舞台は、二つの劇団の合同連続公演の一環だった。

 五反田団は「静かな舞台」では共通するけれど、青年団のようにステージの奥に社会の影が色濃く差すような作風ではない。今回の舞台はフツーの中学生の一こまが、閉じた形で繰り広げられると思えばいいのだろうか。閉塞というにはあまりに素直。無理にお話を作らない、作ろうとしないスタイルが特色なのかもしれない。

 しかし、いや、だからこそ、だれもが記憶の片隅に持つささやかな場所を、ほろ苦い傷みとともに思い起こさせる舞台だった。

(北嶋孝@ノースアイランド舎、初出「ばんぶう」03年6月号)

Posted by : 03:03 AM | Comments (0) | Trackback

June 02, 2004

うずめ劇場「いまわのきわ」

うずめ劇場の東京公演は2002年11月2-4日、東京練馬区の黒テント作業場で開かれました。当時の劇評を以下、再掲しますが、世界には恐るべき書き手がいるものだとあらてめて感じ入った次第です。

◎筋書きを逆にたどるオムニバス

 一筋縄ではいかない芝居を見せてもらった。スペイン・カタルニアの劇作家セルジ・ベルベルの「いまわのきわ」。彼の作品は国内で初めての紹介らしい。

 いったん語られた筋書きを逆にたどる意外性、ばらばらのエピソードを結び直す構成力、最後の最後にシニカルな結末を用意する批評精神。風変わりなオムニバス形式のドラマは、前半と後半では異なる場面に導き、登場人物の関係をさまざまに変奏する。曲がりくねった筋の枝葉に連なる私たちの関係のあり方を提示するとでも言うべきだろうか。見事な収拾と言うほかない作劇の力である。 まず7つの物語が前半の2時間で演じられる。

 事故に遭った人が見る光景を語る作家と聞き入る妻、薬物中毒の弟と入院させようとする姉、しつけで対立する母と娘、階段から落ちて骨折し入院した男性と看護婦、親戚に深夜の電話でお金を無心する孤独な老女、パトローカーに乗っている男女警官、帰宅した男と待ち受けた暗殺者…。

 ごく普通のオムニバス形式の舞台かと思っていると、後半の1時間は、7つ目の話から場面が逆にたどられ、ドラマは冒頭に向かって巻き上げられていく。

 暗殺者を捕まえたという警察への通報が男女警官を乗せたパトカーに届く。そのパトカーにはねられた男は、老女の息子。息子が担ぎ込まれた病室に隣り合わせだったのが骨折男で、娘が食べ物を喉に詰まらせたとき助けに飛び込んでくるのが退院した骨折男だった。麻薬中毒の弟を訪ねる姉が同行するのは、喉に食べ物を詰まらせた少女で、弟が自殺未遂で担ぎ込まれた病院は、作家の妻が勤務する病院…。前半とは異なる筋書きの下で、ばらばらのエピソードが糸をたどるように結びついていくのである。

 しかも前半の無造作な死は、後半の展開でさま変わりする。

 前半で殺される男が後半では神をかたって生き残り、病室で孤独死する骨折男が同室のオートバイ事故に遭った若い男とアルコール中毒の母親に助けられ、その骨折男が食べ物を詰まらせた少女を助ける…。

 だがすべてが生き残るわけではない。最初で最後のエピソードで皮肉な結末が用意される。夢を語る作家と、現実を直視せよとなじる妻を対比させながら-。

 演出は、第1回利賀演出家コンクールで最優秀演出家賞を受賞した東ドイツ出身のペーター・ゲスナー。彼はブレヒトやハイナー・ミュラーの伝統を生かし、北九州を拠点に劇団「うずめ劇場」を主宰する、いま注目の演出家である。

(北嶋孝@ノースアイランド舎、初出「月刊ばんぶう」2002年12月号)

Posted by : 11:57 PM | Comments (1) | Trackback

燐光群公演「屋根裏」

 劇団「燐光群」は設立直後から注目していました。美香が主演していたテンションの高い初期の作品から飛び飛びにしか見ていないので忠実な観察者とは言えませんが、節目の作品を目にしているので、流れはつかめているつもりです。ここに掲載した「屋根裏」は2002年に上演され、これらの作品で主宰者(作・演出)の坂手洋二がその年の読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞しています。

◎虚実すれすれ、緩急自在な世界

 劇団「燐光群」を主宰する坂手洋二の活躍がめざましい。毎年新作を劇団で上演するほか、他の舞台に作品を提供したり演出を手がけたり、休む暇がないように見える。社会を見据えたテーマで問題作を次々に繰り出す彼が、この夏取り組んだのは、5-6月に上演した「屋根裏」の追加公演バージョンだった(8月22日-28日)。

 幕開きの光景は異様だった。明るくなった舞台は壁のように塞がれ、そこに屋根裏の断面が穴のように空いている。壁にサインが書き込まれたオリジナルのユニット。個人の空間を求める人たちに売れた人気商品、という設定だった。ありそうでなさそうな、虚実すれすれの境界領域に物語が架橋される。特異な設定から力業でドラマを作り出す坂手ワールドの始まりである。

 その屋根裏で、5カ月も閉じこもった末に弟が自殺したという男性がまず登場する。レンタルだった屋根裏の管理人を問い詰め、制作者を割り出そうとする行動がオムニバス形式による物語の発火点となった。

 屋根裏に閉じこもる少女を訪ねてきた同級生の男の子が、やましい訪問動機をあばかれていきなりオナニーを始めたり、屋根裏に若い女を監禁している中年の息子とその母親が相互依存関係であることが明らかになったり、浮浪者風の男女が屋根裏ごと水中に突き落とされたり…。屋根裏ユニットもビルの屋上や公園の片隅をさすらい、最後にたどり着いた先は、若い兄弟がいる穏やかな作業場だった。

 製作者の弟と重度障害の兄。若い2人が働く静謐な世界から生まれた工作物が、かえっておどろおどろしい現実をめくりあげるように露出させ、どん詰まりと見えた場所を一転して心安らぐ空間に変える。緩急を心得たストーリーテリングの才能を堪能させてくれる2時間だった。

 俳優たちも粒揃い。とりわけ閉じこもりの少女を過激に演じた江口敦子の姿が印象深い。

 会場となった梅丘ボックスは、稽古場などに使ってきた劇団の拠点。数十人も入れば満員の小さなスペースだったが、その狭さを逆手にとり、「ブレスレス」で岸田國士戯曲賞、「天皇と接吻」で読売演劇大賞を受賞した坂手の実力のほどを見せた舞台だった。
 10月は劇団公演「最後の一人までが全体である」とプロデュース公演「阿部定と睦夫」など。予定が目白押しの売れっ子である。

(北嶋 孝@ノースアイランド舎、 初出「月刊ばんぶう」02年10月号)

Posted by : 11:47 PM | Comments (0) | Trackback

June 01, 2004

グリング第7回公演「ヒトガタ」

 「グリング(Gring)」は地味ながら、優れた舞台をみせていると評判が高い。ぼくは昨年2月、初めてみることができました。そのときまとめたのが、以下のコラムです。残念ながら、その後は機会がありませんが、また出かけたい劇団の一つです。

◎父子の不和と和解に注ぐ切ないまなざし

 「面白いわよ。私は2回見て2回とも、よかったああ~ですから」

 芝居通の知人がこんな褒め言葉をメールで送ってくれた。その誘いに乗って、劇団「グリング」第7回公演「ヒトガタ」を見た(下北沢・スズナリ、2月21日)。家族の間に潜むわだかまりと和解のドラマが切なく、またさりげなく演じられる。初めて見る公演だったが、成熟した芝居をまたひとつ、発見した思いだった。

 舞台はちゃぶ台や座いす、二段ベッドが置かれた居間。人形職人の父親が仕事で使う作業場でもあるらしい。その雑然とした和室に、葬儀に集まった家族、親類、知人が出入りして話が進んでいく。

 何げない会話から、人形職人の息子には自殺した弟がいると分かる。弟の死にこだわる兄。身ごもっている兄の妻は、前向きになれない夫に不満を隠さない。やがて弟の遺品を収めた箱の中から、バラバラに壊された人形が出てくる。その人形は亡くなった母の面影を残し、弟が大切にしていたものだった。壊したのは父親なのか。息子は父を厳しく問い詰める。人形はなぜ壊れているのか。弟はなぜ自殺したのか…。

 家族の間がいつでも、平穏無事に過ぎていくとは限らない。派手なけんかがなくとも、気持ちの食い違いやあつれきがあって当たり前。そのもつれ合いの形が、そのまま家族の形になると言っていいかもしれない。

 グリング公演は父子の不和と和解という古典的な家庭劇を取り上げながら、新しい切り口を無理に探そうとか、大げさな身振りを求めない。そこにあるものを、あるがままに見つめるのがこの演劇ユニットの流儀らしい。作風も演技もこなれていて、しかもメリハリがある。

 例えば-。父の人形教室で学んだという若い女性が夜になって現れ、美しさとなぞが同時に居間に舞い降りるようシーン。人形販売会社の若社長が「吃音者」として登場、よどみがちな空気を言葉で攪乱する場面。緩急と振幅を織り交ぜた作劇手法は、鍛えられた演技に支えられ、舞台に陽が差すような効果を生んでいる。

 見終わってから、小説なら芥川賞より直木賞、山本周五郎の世界を思い浮かべた。映画なら山田洋次監督の描く雰囲気かもしれない。ありふれた光景にそそがれる温かくて切ないまなざし。公演にも通底する特徴のように思えた。

 「グリング」という聞き慣れない名前は、ドイツの知的障害者の施設名に由来するという。作演出の青木豪ら主要メンバーは演劇集団「円」の関係者が多い。芝居好きの評価が高い集団になりそうだ。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、下北沢・スズナリ 初出「月刊ばんぶう」2003年4月号)

Posted by : 11:33 PM | Comments (0) | Trackback

劇団☆新感線「七芒星」

 劇団☆新感線が評判になってから10年以上経つでしょうか。いまはすっかり人気劇団になりました。なんの気まぐれか、2002年の暮れ、4800円を払って赤坂ACTシアターの立ち見でみたのが「七芒星」でした。当時書いた雑誌のコラムを以下、転載します。

◎ヘビメタ伴奏付きの大衆演劇

 大衆演劇というジャンルがある。梅沢富美男の兄が座長を務める梅沢武生劇団や筑紫劇団、玄姫劇団、藤川劇団などが比較的知られているだろうか。絵に描いたような勧善懲悪と義理人情の筋書き、泥臭い演技、地方巡業が多くて家族ぐるみも珍しくない…。といえば想像がつくだろう。 東京・赤坂ACTシアターで劇団☆新感線の「七芒星」公演を見たとき、久しぶりに大衆演劇の雰囲気を感じた。音楽はハードロックかヘビメタかという大音響で照明もきらびやか、会場も広々して舞台は遠くに見えるから大衆演劇にはほど遠いと思われるかもしれない。元光genjiの佐藤アツヒロと、最近はすっかり芝居づいている女優の奥菜恵をゲストに迎えているところも大違いだが、ド派手な化粧と衣装、勧善懲悪の分かりやすい物語に踊りと歌が付くのは大衆演劇そのもの。ひとことで言うと、ヘビメタ伴奏付きの今風大衆芝居という趣だった。

 その昔、世界を支配しようとした女魔術師を七人の勇者が退治した。そのリーダーの子供が佐藤アツヒロ、世界を守ろうとする女王の化身が奥菜恵という配役である。

 押し込められた鏡の世界から女魔術師がよみがえり、かつての勇者七人を味方に付けて現れる。奥菜が持っている「虹のしずく」を奪って世界支配を完全なものにしようとするのだが、佐藤ら勇者ゆかりの新しい七人が奥菜を守って戦う-。善と悪、勇者と裏切り者の戦いの末、善と勇者が勝利する。てらいもためらいもない一本道の筋立てである。

 スピーディーなアクション、殴り合い、蹴り合いの音も会場いっぱいに響く手際よさ。ドタバタしたギャグも適度に泥臭く、ぼけ役を要所に配した演出もツボを心得ている。

 中島かずき作、いのうえひでのり演出のコンビで作り上げる新感線ワールドはおゲイジュツには見向きもせず、ひたすら客席サービスに徹した浪速の芝居である。このところ「いのうえ歌舞伎」と称しているのも、舞台をみるとうなずける。

 1980年、大阪芸術大学舞台芸術学科の4回生を中心に、つかこうへい作品「熱海殺人事件」で旗揚げしたから20年余の活動歴がある。途中でつか作品と決別、ヘビメタ伴奏付きの劇画チックな作風に転換して観客が増えたという。年末の東京公演全19回はいずれも満席。若い女性の熱気でむせかえるようだった。年明けの大阪、新潟公演も好評という。人気は当分続きそうだ。

(北嶋孝@ノースアイランド舎、2002年12月27日 赤坂ACTシアター、初出「ばんぶう」)

Posted by : 11:19 PM | Comments (0) | Trackback
 1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  |  7  |  8  |  9  |  10  | all pages