11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

August 28, 2004

ナイロン100℃「男性の好きなスポーツ」

 「しのぶの演劇レビュー」がナイロン100℃の「男性の好きなスポーツ」公演(8月21日-9月12日、東京・本多劇場)を取り上げています。ステージの内容をいつものように生き生き紹介した後、「というわけで、もうエッチだったことしかほぼ覚えていません(笑)。あ、あと笑いは相変わらず確実で、私は何度も楽しく笑わせていただきました。だから3時間半あっても面白いんだと思うんです。やっぱりナイロン100℃は凄いです」。さあ、あとはクリックして、このレビュー全文を読んでください。
「某日観劇録」も同じ公演を取り上げています。「放送禁止用語はたくさん連発されますけど、ロマンチカのダンスもきれい過ぎてエロく見えないのですから、あとはおして知るべしです。とはいえ、こんな芝居を作れるのは今の日本ではKERAだけでしょう」とのことでした。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:43 PM | Comments (0) | Trackback

August 27, 2004

ペピン結構設計「ポエムの獣」

◎上質で味わいのある芝居 謎を問いかける仕掛けも
 ペピン結構設計「ポエムの獣」公演を8月19日、横浜・馬車道のBankArt1929で見ることができた。期待したとおり、上質で味わいのある芝居だった。いまどきこれほど演劇的な台本にお目にかかるのは珍しい。役者もしっかり役に馴染んでいて、明治時代に建てられた旧銀行支店という特殊な空間を生かした舞台美術の仕上がりとともに、作者・劇団の才能がうかがえるステージだった。

 筋書きは同時進行が多くて要約しにくいけれど、あまりはやらないコンビニを舞台に、2組の男女関係が同時進行で展開される。まず若い男性店員が、お客として現れたグラビアアイドルに迫られる話、それに絵を描く動物好きの女性店員が遊び人風の男に惹かれていく話。どちらも女心が分からない男が、共通項になっている。

 例えば、迫られながらうつむいたり、「好みではない」とつい答えるうぶな男、指輪を女性の店員に差し出しながら、同棲中と思われる女性とあっけなく結婚するヒモ(遊び人)…。やるせない恋心を扱いかねたり、もてあそんだり。このあたりのやりとりは、こころ憎いばかりのたたみ方である。

 といってしまえば、ごくありきたりの恋愛話になるけれど、この舞台では基本的に男女がカウンターを挟み、金銭のやりとりに媒介される関係として設定されている。こちら側とあちら側。今の世の中を貫く大原則だが、芝居はこれを何度か意識的に破ってみせる。一度は女生徒が衣類を脱いで男に迫るとき、「あちら」と「こちら」を分け隔てているカウンターを一気に乗り越えるのだ。二度目はお客として現れたグラビアアイドルが店員に迫るとき、やはりカウンターを乗り越えて突進する…。乗り越えるのはどちらも女の側。自分で選択し、突き進んでいく-。

 それがぎらつかず、上質の舞台空間を形作るのは、異性関係の間に相互了解の世界が存在することを登場人物が疑いもなく共有しているからである。切ない恋心は相手を思いやる心、それが空気や水のように当たり前と信じられる世界の了解、と言い換えてもよい。

 では、うぶな男とヒモ、つまり男たちは垣根越えが可能なのか。
 芝居は2つの道筋を示唆している。うぶな男は「しっぽ」を取り去ることによって、遊び人はカウンターの「あちら側」から、女性店員のいる「こちら側」に入り込むことによって。しかもそれは2組の男女が「花火」を楽しむ場面で表現される。短いかもしれないが、至福の瞬間として-。というよりも、至福の瞬間ははかないからこそ輝くのだと分かっている同士が、互いに沈黙しながら花火を見つめる濃密な間合いとして提示されている。

 会場は明治時代の銀行建築のせいか天井が高く(約7m)、4本の円柱がフロアーを横切っている。この柱を3本使い、ゆるくカーブする2つのカウンターをフロアーにそのまま作り上げた。客席はステージの、つまりカウンターの両側に配置された。会場の3方に設置されたスクリーンと中央の白い円柱に花火の映像が投影される。美術・装置・映像が一体になった印象深いシーンだった。

 相互了解の心的な空間を日本的といってしまうのはたやすいが、人が人である基礎的な条件に関わるということも出来る。舞台はしかしそこまで言葉の形にせず、また「こちら」と「あちら」の設定も、うぶな男が着けている「しっぽ」の意味も特に解釈を施さず、謎を仕掛けたままステージに載せている。ぼくは終演後、気持ちはしっとりしながら謎解きを求められたような、不思議な感情に襲われた。

 役者は芝居の流れに乗り、それぞれが役割を果たしている。ヒモ兼遊び人役の岡本祐介の軽い演技は楽しめた。それにもましてグラビアアイドル役の小泉萌は水着姿も美しく、いじらしい女心を演じて切なかった。演出が「ペピン結構設計」となっていて、これまで作・演出も兼ねていた石神夏希ではない。メンバー全員のアイデアを出し合って作った結果がステージに現れたのだろう。

 ペピンの舞台をみるのは今回初めてだったが、評価は高い。1999年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生を中心に結成。翌2000年から本格的に学外活動を始め、02年「東京の米」で作者の石神夏希が第2回かながわ戯曲賞最優秀賞を受賞。若手演出家コンクール2002奨励賞も受け、今年2月に東京・池袋で開かれたリージョナルシアターに出場するなど、売り出し中の劇団、作者だった。

 しゃれたシーンもあれば、切なくなる場面もある。お客の来ないコンビニで出入りのチャイムが頻繁に鳴り響くきらいはあるけれど、謎の仕掛けも心得た台本に優れた演劇的才能を感じる。これからどのような作品が誕生するか、楽しみになった。
(北嶋孝 2004.8.26)

「ポエムの獣」
■作  石神夏希
■演出 ペピン結構設計 http://pepin.jp/
■出演 井上知子 岡本祐介 小泉萌 小林悠 吉田能 石神夏希
■日時 2004年8月19日(木)-22日(日) 各回18時開演 全4公演
■会場 BankArt1929馬車道 http://www.bankart1929.com

Posted by KITAJIMA takashi : 05:38 PM | Comments (0) | Trackback

August 26, 2004

毬谷友子 語り芝居「宮城野」

父矢代静一の「宮城野」を取り上げた毬谷友子の語り芝居が8月4日から6日まで、東京オペラシティー内の近江楽堂で開かれました。後藤隆基さんから、力のこもった劇評が寄せられました。近江楽堂のWebサイトによると、演出は佐藤信。大鷹明良が共演しています。

◎暗がりに点された灯 毬谷友子語り芝居 『宮城野』

 その声は忍びやかに空間を支配する。無邪気な妖艶が切れ長の瞳と毒をも含んだ唇から漏れ出る。吐息が言葉を生み、息が命から生まれる。言葉の火が「演劇」を照らす標であるならば、劇場という暗がりに点された灯は毬谷友子その人である。

 『弥々』につづく語り芝居第二弾として毬谷が選んだのが、一九六六年に父、矢代静一が書いた『宮城野』。登場人物は女郎の宮城野と、馴染みの一番客である絵師、矢太郎の二人で、矢太郎の師、東洲斎写楽殺害の実相をめぐる会話の中に、互いの心の虚と実が巧みに編みあげられた緊密な対話劇である。と同時に宮城野の語りによって物語が展開する一人芝居でもあった。「言葉」による演劇の魅力を十分に発揮し、小空間での「語り芝居」にうってつけの題材。およそ一時間強の上演時間で一種のどんでん返しの起こる構成も見事であり、まずは戯曲ありきという前提のある上は、戯曲の力をいかに「声」と「言葉」において表現しうるかが企画の主眼となるだろう。そしてその試みはひとまず成功していたといっていい。

 彼女が姿を現した瞬間から、劇場はすでに彼女のものになっていた。香りたつ白粉は色街の座敷へと誘う。何か恥じらいのようなものを身にまとい、行燈の灯りの下、やや俯き加減の項からすっと口角を持ちあげて少し媚びるように見上げた先、虚空に相対する男の姿を描き出す。傍には矢太郎を演じる俳優(大鷹明良)も当然いるのだが、宮城野の心に宿る男の姿は遠くにいた。

 言葉の一挙手一投足に、笑う、仰け反る。眉をひそめ、瞳が曇る。愛する男のために騙りつづけた自分の過去、男への思い。それらすべてが裏切られ、幼気な童女のような半開きの口元から、決して恨み言でない本音が響くとき、その歌は何よりも彼女が彼女であることを表現する。矢太郎のためについた「嘘」は嘘をつけないからこその「嘘」。戯曲にはない、毬谷自身の作曲による歌は、男への恋文でさえあった。誰もがどうしようもなく抗えない人間の業。宮城野は魔性と俗性にまみれながら、その無知と無邪気なる純粋は気高く、我が身を犠牲にして、いわば無償の愛を体現する聖女ともなる。生の辛苦悲哀を笑顔に変えてみせる女の姿は矢代作品のひとつの特徴でもあるが、『宮城野』はそうした意味でも『弥々』の源流にいる女性といえる。

 劇作家、矢代静一の描く、聖性と魔性を同時に兼ね備えたヒロインが現世界にそっと障子一枚、隣の部屋から入ってきた。それが毬谷友子である。その純度の高い「女」という結晶は、童女でありながら老女であり、聖母でありながら娼婦である。その幼子のような純粋は、純粋であるが故に、演技を超えて、そこに居る「女」で在ろうとしつづける。純粋過ぎるが故に、強さは危うさと背中合せであり、零れる涙は自分を抑えに抑えこんだ果ての掬いようもない魂の雫である。

 空気を通して伝わる身体的感触の生々しさにもかかわらず、その夢のような存在感は幼児性と妖艶の二面性を示す。「知性」、「痴性」、「稚性」。父の唱えた芸術家に必要な三種の「チ性」は間違いなく娘に宿り、そのすべてを形成している。誤解を恐れずに言えば、「一卵性親子」と云うほど仲がよかった父の作品を演じるとき、毬谷友子は明らかに他の作品の毬谷友子とは異なる姿を見せる。作品を通して、父と、また自分自身と出会い直す苦行を強いているように。往ける処まで内面を掘りさげ、湧水の源泉を探して、水底の砂を掴み浮かびあがる。その潜水と浮上の過程が描く軌跡こそが女優としての毬谷友子という生き様なのではないか。
 (後藤隆基 2004.8.15)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:41 PM | Comments (0) | Trackback

August 25, 2004

淵野尚プロデュース「おまえがそれを愛というなら」

 東京・新宿の「アリスフェスティバル」第2弾は、淵野尚プロデュース「おまえがそれを愛というなら」でした。「Stereo」サイトがこの3部構成の作品を取り上げています。
 作・演出は淵野尚、出演は村井千恵(第1部「雷魚」)、原尚子(第2部「雲雀」)、広重島典・小崎泰嗣(第3部「おまえがそれを愛というなら)。村井、原、広重の3人は今年の4月公演「黄昏のカンガルーハイツ」を最後に解散した「立身出世劇場」出身。「新宿の喧騒の中、帰途に着く私の内には、この芝居の不思議で暖かな余韻と零余子(むかご)の味が残っていた」と締めくくっています。
うたうた」サイトもこの公演を取り上げ、「三作品はそれぞれ全く別の話だけど、どれも不思議な、妙な、魅力があった」と述べています。
 台本は公演用Webサイトからダウンロード可能になっています。こういう試みは珍しいのではないでしょうか。

Posted by KITAJIMA takashi : 05:45 PM | Comments (2) | Trackback

August 24, 2004

劇団ズーズーC「ずうずうしい容疑者」

五つの劇団が30分の芝居を朝から晩まで休む暇無く上演する新宿演劇祭りが8月21日と22日の両日、新宿ミニホールFu-で開かれました。「オレdays.」サイトが、このなかの劇団ズーズーC公演「ずうずうしい容疑者」をみて、「小劇場初体験」のたかぶりを綴っています。記憶の底に沈んでいる初発の感情を呼び覚まされました。
Posted by KITAJIMA takashi : 10:48 PM | Comments (2) | Trackback
1 |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  |  7  |  8  |  9  |  10  | all pages