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August 07, 2004

劇団相殺「含羞」・「箸をかまえて」

劇団相殺の初公演「含羞」「箸をかまえて」(7月6-7日、新宿タイニイアリス)をみた台湾の「無夢楼劇団」(Dreamless Theatre in Taipei)主宰者C・Janさんから英文の劇評が寄せられました。Janさんは台北大学在学中から演劇活動を始め、今年4月に、サルトルの「出口なし」をもとにした「悪戯 Itazura」を作・演出して劇団を旗揚げ。2003年に「榴華殿」の台北公演「月下美人」に姉の役で主演するなど日本との交流があり、現在日本で演劇の勉強中です。Janさんのサイトにも全文が掲載されています。

A Dirge Sang Only at Midnights--劇団相殺「含羞」「箸をかまえて」
by C. Jan (Dreamless Theatre in Taipei)


In Taipei, performances are better took place at weekends to make sure that
the audience have the mood to appreciate the artistic live. However, there
are various kind of plays, talk shows everyday in Tokyo, therefore Iam
always curious at what kind of theatre troupes and their audience will show
up on week days.

Chopsticks are set up or Have chopsticks like sword, performed by July 6th
Tuesday & 7th Wednesday, offers me an opportunity. About 19:20, I enter the
Tiny Alice Theatre and have myself seated. Perhaps it is because the
exhausting daily job, the atmosphere is like the dense fog, lazy and dizzy.
Well, you can also call this a type of relaxation.

Seems like the average age of the troupe isn’t pretty young, maybe the
theme and the sense of values through whole work prove this. The performers
are not few, and the stage-sets, lightings, sounds and projections are
appropriately placed though, which makes you feel even more hollow and
empty, like a dirge of white-collar ideology sang only at midnights.

What interests me is the sense of time through the performance. At the
middle of the play, I feel like it is over twelve o’clock at night and this
is a play only for spirits or phantoms, therefore I’d better remain low-key
in case they will catch me (laugh).

When my mind is somewhere else for a while, the reaction of other audience
draws my attention. Not sleepy, whether this is a good show or not, they
REACT. Obviously the play speaks for them in some way.

Although myself cannot find a tunnel into that world for I can hardly
understand Japanese, sure there are supporters for them. Well, isn’t this
one of the essential meanings of performance, to at least please the
audience?

Most of the time we allow the artists to ignore the voices of the audience
in the process of creating or presenting the artistic works, in order to
reach the pure originality.

However, if there is some experienced creator also creates a space for
audience within the performance - even only an abstract concept, probably
will earn the creator some different admiration.

Posted by KITAJIMA takashi : 01:03 PM | Comments (0) | Trackback

August 06, 2004

The Godfather ゴッドファーザー デジタル・リマスター版

洗礼式のバッハ「パッサカリア」とコルレオーネ・サーガ、及びいくつかの所感  河内山シモオヌ
 
 まだ赤ん坊だったソフィア・コッポラが出演していることで知られる洗礼式の場面は、新しくコルレオーネ・ファミリーのドンを襲名したマイケル(アル・パチーノ)が甥の名づけ親として参列する中、教会でおごそかに進んでいく。その一方でマイケルの放った刺客たちが、各地を仕切る有力者らを次々暗殺していくシークエンスも交互に映し出される。ここは洗礼を進める牧師と銃を整える刺客、宣誓するマイケルと機をうかがう刺客、違う場所で汗をぬぐうそれぞれの刺客というように、粛々と進行する二つの儀式が、画面で重なりあいながら緊張が高まっていく、映画後半の山場だ。

 『ゴッドファーザー』を映画館で観るのは今回が初めてだった。そこでようやく気がついたのだが、この場面で鳴り響くオルガン曲の一部には、バッハ「パッサカリア ハ短調BWV582」(1)が使用されている。ちょうど警官に変装した刺客が紙袋から拳銃を取り出すあたりで、哀調を帯びた、だが力強い主題の旋律が流れてくる。
 バッハは一曲しかオルガン用のパッサカリアを残していない。きわめて優れた作品、バッハ代表作の一つと称されるこの「パッサカリア ハ短調」は、ペダルの独奏による8小節の主題提示で始まる。その後「リズムの細分・複雑化によって徐々に盛りあがり、最後の変奏でクライマックスが築かれる」(2)と説明されるように、20の変奏が続く。つまり最初に奏でられた8小節の低音の旋律が、変奏されながらずっと繰り返されるのである。このように、曲の展開の仕方まで有名な古典音楽をわざわざ被せるのには、場の雰囲気や主人公の感情にマッチした曲を作って使うのと違う意図があるはずだ。
 
 コルレオーネ・ファミリーを取り巻く世界では、生き残りをかけたり、聞く耳を持たない相手にメッセージや要求を伝える多くの場合、選ばれるのは凶悪かつ残忍な手段である。いくらヴィト(マーロン・ブランド)が矛盾を秘めた愛すべきドンであり、温情ある家父長制の体現者だったにせよ、あるいは継いだ三男のマイケルがビジネスの合法化に腐心しようとも、コルレオーネ・ファミリーもその例にもれないことは、容赦ない暗殺の映像が伝えている。この場面に被せられたパッサカリアは、そうした「手段」を音で表現したものと仮定してみよう。
 すでにマイケルの最初の妻アポロニアは、彼の身替わりとなって爆死した。喧嘩っぱやく頭に血がのぼりやすい長兄ソニーは義弟カルロにはめられ蜂の巣に、そのカルロもマイケルの指示により、洗礼式からほどなくして亡きものとなる。それから24年の間に、裏切った気弱な次兄フレドを殺害し(Part2)、愛娘メアリーがマイケルの眼前で射殺される(Part3)に及んで、コルレオーネ・サーガ―長編歴史物語―の全貌は明らかになる訳だが、変奏で繰り返されるパッサカリアの主題旋律と、マイケルの代になって徐々に強調され、より陰惨なかたちで家族を巻き込みながら繰り返し用いたり用いられたりする「手段」、この二つはやはり符合する。言い方を換えれば、パッサカリアの主題旋律によって、コルレオーネ・サーガの一貫したテーマはすでに暗示されていたのである。

 ところで階段というのは、やはり監督の「何か落としたい」気持ちを刺激するのだろうか。階段落ちの元祖『戦艦ポチョムキン』に挑んだ『アンタッチャブル』の乳母車や、(映画監督というより人間の叡智へのラヴレターを自演の映像で綴り続ける狂言作者)マイク水野『シベリア超特急2』の車椅子。『ゴッドファーザー』にも見事な階段落ちを見つけた。例の暗殺場面で任務を終えた刺客が去る後方、屋外の広い階段の上で倒れた有力者はあまりにもきれいにゴロゴロゴロゴロ転がりながら、落ち続けていたのだ。
 しかし『ゴッドファーザー』の階段落ちは、シベ超のように階段途中でやおら乱闘が始まり、踊り場の無人の車椅子が映った時点でもう場内爆笑というギャグにはならない。ケータリングの惣菜を一味でつついている場面ですら、光の差し加減、人物配置などまるで大きな油彩画を眺めているかのように壮麗なこの映画には、そうした壮麗さが生み出す重量感と、嘘だとわかっているのに突き放して笑えない不思議なリアリティがある。
 その反面、うらぶれた、どこかにせこさの残る、しかしそこはかとない薄気味悪さと粗暴な日常が一人一人の身体からにじみ出てくるといった描写はあまりない。高級ジャパニーズ・レストランで「じゃ、じゃあやるか」といわんばかりにオーナーをぽかすか漫然と殴り始める『フェイク』の連中、または『グッドフェローズ』で、いつもは勝気な主人公の妻が半泣きになって引き返すアパレル倉庫からの手招き、いずれもどんづまりな暗さのある場面だが、こうした表現と『ゴッドファーザー』、どちらを欠いても、アメリカのマフィア映画のリアリティは成立しないのかもしれない。

 映画のリアリティを支えた俳優たちについても、新たに気づいたことがあった。アクターズ・スタジオの花形だった、家父長ヴィト(ブランド)のみならず、息子たち三兄弟(ジェームズ・カーン、ジョン・カザーレ、パチーノ)、非イタリア系の養子トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)、三男の嫁ケイ(ダイアン・キートン)は皆舞台出身で、この意味においても彼らは劇場を母としたファミリーのようで興味深い。
 『ゴッドファーザー』のアメリカ初封切は1972年である。ベトナム戦争など社会的・文化的環境の大きな変化があった後の70年代アメリカという時代に、敢えて家父長制の、役柄の類型がはっきりしたジャンル映画を世に出したコッポラ。彼は大学の映画学科で学びヌーヴェルヴァーグの影響を受けた人だ。その若き監督が、68年のヘイズ・コード撤廃までは克明に描けなかった殺人や血をこれでもかと撮りつつ、一方で深夜の病院の場面のように、暗示にとどめる古典的手法を意識的に使い、スターに老け役を依頼し新進の舞台俳優らとつくったのが『ゴッドファーザー』だとすれば、この映画は大変な実験作だったといえるだろう(ブランド側には、タヒチに理想のリゾートを作る大プロジェクト―実際20年かかった―の資金集めという出演理由もあったらしい)。
 類型的とはいえ、兄弟の中でも特にヴィトから可愛がられたマイケルは、家業を避けイタリア娘ではないケイと交際しているという込み入った役柄だ。そのマイケルが、自ら志願して報復のため警部とソロッツォを射殺する時のクローズ・アップは忘れがたい。こんこんと涌く泉の水のように、役柄の類型というマス目を瞬く間に満たし画面からあふれ出すマイケルの意識と感情の流れが、台詞なしに伝わってくる。パチーノの表情の演技しか映っていないにも関わらず、観る側が得られるマイケルについての情報は無尽蔵だ。
 
 要するに、コッポラの狙いと意図がすべてぴたりと決まった作品、それがこの『ゴッドファーザー』なのだろう。そんな奇跡がめったに起こらないことは、『ゴッドファーザー』から5年後の『地獄の黙示録』を観るとよくわかる。(04.07.10 東劇)

(1)通常は「パッサカリアとフーガ ハ短調」と呼ばれる。パッサカリアの後に同じ主題による長大なフーガが展開されるため。また、ローラン・プティの振付けたバレエ『若者と死』(初演1946年)には、レピシーギ編曲の「パッサカリア」が使用されている。
030328「若者と死」と040129「プティ:ガラ/若者と死」に関連記事あり。
(2)『バッハ事典』磯山雅/他 東京書籍株式会社 1996.10.24
参考:『ゴッドファーザー』デジタル・リマスター版パンフレット(ブランドのフィルモグラフィーから、1956年『八月十五夜の茶屋』が漏れていた。ブランドはなぜか日本人役で出演し、いい味を出している。)

Posted by : 12:53 AM

August 04, 2004

青年団・五反田団「忠臣蔵・OL編」「ヤルタ会談」「家が遠い」

名古屋の舞台を伝えるblogサイト「名古屋の小演劇インプレッション」が、青年団・五反田団「忠臣蔵・OL編」「ヤルタ会談」「家が遠い」公演を取り上げています。三作とも名古屋の七ツ寺共同スタジオで7月21-26日に開かれました。東京で見た舞台とは違っているかもしれませんが、「家が遠い」の感想の中で、「役者が人形に感情を吹き込もうと試行錯誤して、最後に舞台上に残る哀愁」という表現がありました。意表を突かれた視角ですが、書かれてみると納得でした。

Posted by KITAJIMA takashi : 03:49 PM | Comments (0) | Trackback

劇団タコあし電源「阪神淡路大震災」

Blogサイト「某日観劇録」が、劇団タコあし電源「阪神淡路大震災」公演を取り上げています。「個人的にはものすごく良く出来ているという感想なのですが、観に行ったという感想をblogでも一行レビューでも見かけません」と観劇を勧めていました。東京・中野劇場MOMOで7月28日(水)~8月3日(火)の公演ですから、残念ながら昨日で終了しています。劇団主宰者の岡本貴也さんは早稲田大学院で生物物理学を修め、いまはテレビや映画の脚本などを手掛ける売り出し中の作家、演出家です。

Posted by KITAJIMA takashi : 03:24 PM | Comments (0) | Trackback

永井愛「こんにちは、母さん」

no hay banda サイトの「観劇アーカイブ」は読み応えのある劇評が集められ、いつも掲載されるのが楽しみです。今年3月に新国立劇場小劇場で開かれた永井愛の作・演出「こんにちは、母さん」公演の評が最近(8月3日)追加されました。舞台の様子や役者の動きなどが筆者の目を通してしっかり伝わってきます。

Posted by KITAJIMA takashi : 02:56 PM | Comments (0) | Trackback
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