11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

August 28, 2004

ナイロン100℃「男性の好きなスポーツ」

 「しのぶの演劇レビュー」がナイロン100℃の「男性の好きなスポーツ」公演(8月21日-9月12日、東京・本多劇場)を取り上げています。ステージの内容をいつものように生き生き紹介した後、「というわけで、もうエッチだったことしかほぼ覚えていません(笑)。あ、あと笑いは相変わらず確実で、私は何度も楽しく笑わせていただきました。だから3時間半あっても面白いんだと思うんです。やっぱりナイロン100℃は凄いです」。さあ、あとはクリックして、このレビュー全文を読んでください。
「某日観劇録」も同じ公演を取り上げています。「放送禁止用語はたくさん連発されますけど、ロマンチカのダンスもきれい過ぎてエロく見えないのですから、あとはおして知るべしです。とはいえ、こんな芝居を作れるのは今の日本ではKERAだけでしょう」とのことでした。

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August 27, 2004

ペピン結構設計「ポエムの獣」

◎上質で味わいのある芝居 謎を問いかける仕掛けも
 ペピン結構設計「ポエムの獣」公演を8月19日、横浜・馬車道のBankArt1929で見ることができた。期待したとおり、上質で味わいのある芝居だった。いまどきこれほど演劇的な台本にお目にかかるのは珍しい。役者もしっかり役に馴染んでいて、明治時代に建てられた旧銀行支店という特殊な空間を生かした舞台美術の仕上がりとともに、作者・劇団の才能がうかがえるステージだった。

 筋書きは同時進行が多くて要約しにくいけれど、あまりはやらないコンビニを舞台に、2組の男女関係が同時進行で展開される。まず若い男性店員が、お客として現れたグラビアアイドルに迫られる話、それに絵を描く動物好きの女性店員が遊び人風の男に惹かれていく話。どちらも女心が分からない男が、共通項になっている。

 例えば、迫られながらうつむいたり、「好みではない」とつい答えるうぶな男、指輪を女性の店員に差し出しながら、同棲中と思われる女性とあっけなく結婚するヒモ(遊び人)…。やるせない恋心を扱いかねたり、もてあそんだり。このあたりのやりとりは、こころ憎いばかりのたたみ方である。

 といってしまえば、ごくありきたりの恋愛話になるけれど、この舞台では基本的に男女がカウンターを挟み、金銭のやりとりに媒介される関係として設定されている。こちら側とあちら側。今の世の中を貫く大原則だが、芝居はこれを何度か意識的に破ってみせる。一度は女生徒が衣類を脱いで男に迫るとき、「あちら」と「こちら」を分け隔てているカウンターを一気に乗り越えるのだ。二度目はお客として現れたグラビアアイドルが店員に迫るとき、やはりカウンターを乗り越えて突進する…。乗り越えるのはどちらも女の側。自分で選択し、突き進んでいく-。

 それがぎらつかず、上質の舞台空間を形作るのは、異性関係の間に相互了解の世界が存在することを登場人物が疑いもなく共有しているからである。切ない恋心は相手を思いやる心、それが空気や水のように当たり前と信じられる世界の了解、と言い換えてもよい。

 では、うぶな男とヒモ、つまり男たちは垣根越えが可能なのか。
 芝居は2つの道筋を示唆している。うぶな男は「しっぽ」を取り去ることによって、遊び人はカウンターの「あちら側」から、女性店員のいる「こちら側」に入り込むことによって。しかもそれは2組の男女が「花火」を楽しむ場面で表現される。短いかもしれないが、至福の瞬間として-。というよりも、至福の瞬間ははかないからこそ輝くのだと分かっている同士が、互いに沈黙しながら花火を見つめる濃密な間合いとして提示されている。

 会場は明治時代の銀行建築のせいか天井が高く(約7m)、4本の円柱がフロアーを横切っている。この柱を3本使い、ゆるくカーブする2つのカウンターをフロアーにそのまま作り上げた。客席はステージの、つまりカウンターの両側に配置された。会場の3方に設置されたスクリーンと中央の白い円柱に花火の映像が投影される。美術・装置・映像が一体になった印象深いシーンだった。

 相互了解の心的な空間を日本的といってしまうのはたやすいが、人が人である基礎的な条件に関わるということも出来る。舞台はしかしそこまで言葉の形にせず、また「こちら」と「あちら」の設定も、うぶな男が着けている「しっぽ」の意味も特に解釈を施さず、謎を仕掛けたままステージに載せている。ぼくは終演後、気持ちはしっとりしながら謎解きを求められたような、不思議な感情に襲われた。

 役者は芝居の流れに乗り、それぞれが役割を果たしている。ヒモ兼遊び人役の岡本祐介の軽い演技は楽しめた。それにもましてグラビアアイドル役の小泉萌は水着姿も美しく、いじらしい女心を演じて切なかった。演出が「ペピン結構設計」となっていて、これまで作・演出も兼ねていた石神夏希ではない。メンバー全員のアイデアを出し合って作った結果がステージに現れたのだろう。

 ペピンの舞台をみるのは今回初めてだったが、評価は高い。1999年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの学生を中心に結成。翌2000年から本格的に学外活動を始め、02年「東京の米」で作者の石神夏希が第2回かながわ戯曲賞最優秀賞を受賞。若手演出家コンクール2002奨励賞も受け、今年2月に東京・池袋で開かれたリージョナルシアターに出場するなど、売り出し中の劇団、作者だった。

 しゃれたシーンもあれば、切なくなる場面もある。お客の来ないコンビニで出入りのチャイムが頻繁に鳴り響くきらいはあるけれど、謎の仕掛けも心得た台本に優れた演劇的才能を感じる。これからどのような作品が誕生するか、楽しみになった。
(北嶋孝 2004.8.26)

「ポエムの獣」
■作  石神夏希
■演出 ペピン結構設計 http://pepin.jp/
■出演 井上知子 岡本祐介 小泉萌 小林悠 吉田能 石神夏希
■日時 2004年8月19日(木)-22日(日) 各回18時開演 全4公演
■会場 BankArt1929馬車道 http://www.bankart1929.com

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August 26, 2004

毬谷友子 語り芝居「宮城野」

父矢代静一の「宮城野」を取り上げた毬谷友子の語り芝居が8月4日から6日まで、東京オペラシティー内の近江楽堂で開かれました。後藤隆基さんから、力のこもった劇評が寄せられました。近江楽堂のWebサイトによると、演出は佐藤信。大鷹明良が共演しています。

◎暗がりに点された灯 毬谷友子語り芝居 『宮城野』

 その声は忍びやかに空間を支配する。無邪気な妖艶が切れ長の瞳と毒をも含んだ唇から漏れ出る。吐息が言葉を生み、息が命から生まれる。言葉の火が「演劇」を照らす標であるならば、劇場という暗がりに点された灯は毬谷友子その人である。

 『弥々』につづく語り芝居第二弾として毬谷が選んだのが、一九六六年に父、矢代静一が書いた『宮城野』。登場人物は女郎の宮城野と、馴染みの一番客である絵師、矢太郎の二人で、矢太郎の師、東洲斎写楽殺害の実相をめぐる会話の中に、互いの心の虚と実が巧みに編みあげられた緊密な対話劇である。と同時に宮城野の語りによって物語が展開する一人芝居でもあった。「言葉」による演劇の魅力を十分に発揮し、小空間での「語り芝居」にうってつけの題材。およそ一時間強の上演時間で一種のどんでん返しの起こる構成も見事であり、まずは戯曲ありきという前提のある上は、戯曲の力をいかに「声」と「言葉」において表現しうるかが企画の主眼となるだろう。そしてその試みはひとまず成功していたといっていい。

 彼女が姿を現した瞬間から、劇場はすでに彼女のものになっていた。香りたつ白粉は色街の座敷へと誘う。何か恥じらいのようなものを身にまとい、行燈の灯りの下、やや俯き加減の項からすっと口角を持ちあげて少し媚びるように見上げた先、虚空に相対する男の姿を描き出す。傍には矢太郎を演じる俳優(大鷹明良)も当然いるのだが、宮城野の心に宿る男の姿は遠くにいた。

 言葉の一挙手一投足に、笑う、仰け反る。眉をひそめ、瞳が曇る。愛する男のために騙りつづけた自分の過去、男への思い。それらすべてが裏切られ、幼気な童女のような半開きの口元から、決して恨み言でない本音が響くとき、その歌は何よりも彼女が彼女であることを表現する。矢太郎のためについた「嘘」は嘘をつけないからこその「嘘」。戯曲にはない、毬谷自身の作曲による歌は、男への恋文でさえあった。誰もがどうしようもなく抗えない人間の業。宮城野は魔性と俗性にまみれながら、その無知と無邪気なる純粋は気高く、我が身を犠牲にして、いわば無償の愛を体現する聖女ともなる。生の辛苦悲哀を笑顔に変えてみせる女の姿は矢代作品のひとつの特徴でもあるが、『宮城野』はそうした意味でも『弥々』の源流にいる女性といえる。

 劇作家、矢代静一の描く、聖性と魔性を同時に兼ね備えたヒロインが現世界にそっと障子一枚、隣の部屋から入ってきた。それが毬谷友子である。その純度の高い「女」という結晶は、童女でありながら老女であり、聖母でありながら娼婦である。その幼子のような純粋は、純粋であるが故に、演技を超えて、そこに居る「女」で在ろうとしつづける。純粋過ぎるが故に、強さは危うさと背中合せであり、零れる涙は自分を抑えに抑えこんだ果ての掬いようもない魂の雫である。

 空気を通して伝わる身体的感触の生々しさにもかかわらず、その夢のような存在感は幼児性と妖艶の二面性を示す。「知性」、「痴性」、「稚性」。父の唱えた芸術家に必要な三種の「チ性」は間違いなく娘に宿り、そのすべてを形成している。誤解を恐れずに言えば、「一卵性親子」と云うほど仲がよかった父の作品を演じるとき、毬谷友子は明らかに他の作品の毬谷友子とは異なる姿を見せる。作品を通して、父と、また自分自身と出会い直す苦行を強いているように。往ける処まで内面を掘りさげ、湧水の源泉を探して、水底の砂を掴み浮かびあがる。その潜水と浮上の過程が描く軌跡こそが女優としての毬谷友子という生き様なのではないか。
 (後藤隆基 2004.8.15)

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August 25, 2004

淵野尚プロデュース「おまえがそれを愛というなら」

 東京・新宿の「アリスフェスティバル」第2弾は、淵野尚プロデュース「おまえがそれを愛というなら」でした。「Stereo」サイトがこの3部構成の作品を取り上げています。
 作・演出は淵野尚、出演は村井千恵(第1部「雷魚」)、原尚子(第2部「雲雀」)、広重島典・小崎泰嗣(第3部「おまえがそれを愛というなら)。村井、原、広重の3人は今年の4月公演「黄昏のカンガルーハイツ」を最後に解散した「立身出世劇場」出身。「新宿の喧騒の中、帰途に着く私の内には、この芝居の不思議で暖かな余韻と零余子(むかご)の味が残っていた」と締めくくっています。
うたうた」サイトもこの公演を取り上げ、「三作品はそれぞれ全く別の話だけど、どれも不思議な、妙な、魅力があった」と述べています。
 台本は公演用Webサイトからダウンロード可能になっています。こういう試みは珍しいのではないでしょうか。

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August 24, 2004

劇団ズーズーC「ずうずうしい容疑者」

五つの劇団が30分の芝居を朝から晩まで休む暇無く上演する新宿演劇祭りが8月21日と22日の両日、新宿ミニホールFu-で開かれました。「オレdays.」サイトが、このなかの劇団ズーズーC公演「ずうずうしい容疑者」をみて、「小劇場初体験」のたかぶりを綴っています。記憶の底に沈んでいる初発の感情を呼び覚まされました。
Posted by KITAJIMA takashi : 10:48 PM | Comments (2) | Trackback

ニブロール「NOTES」

東京・世田谷のシアタートラムで開かれたニブロール「NOTES」公演は、「日の丸ノート」、演劇公演「ノート」(裏)、ダンス公演「NO-TO」の三作品をベースに再構成した「最終バージョン」でした。ここでたびたび紹介している「白鳥のメガネ」サイトが「ニブロール『NOTES』についての注釈」というタイトルで取り上げています。振り付けの精度や密度、絶妙な造形性などを指摘、評価するとともに、このグループの特質とそれゆえの「隘路」を示唆する、読み応えのあるテキストです。plank Blank というページに集約されている過去の評も、今日の演劇やダンスを考える上で、貴重な手がかりを残していると思います。
Posted by KITAJIMA takashi : 10:22 PM | Comments (0) | Trackback

August 23, 2004

ハイレグタワープロデュース「GUNMA」

「群馬県人による群馬県人を描いた群馬県人中心に、それ以外の人にも楽しんでもらおう」という企画。元ハイレグジーザスの岸潤一郎、大人計画村杉蝉之介とベターポーズ加藤直美のほぼ3人芝居。3人とも群馬県人。「30's SubCulture Blog」サイトがこの企画公演(ザムザ阿佐ヶ谷)を取り上げ「芝居としては(略)雑味が多いといえば多いのも確か。最初の群テレネタで結構爆笑をとったせいか、後半は失速していた感もあり」と指摘しています。
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August 22, 2004

tsumazuki no ishi「寝覚町の旦那のオモチャ」

「No hay banda」サイトがtsumazuki no ishi「寝覚町の旦那のオモチャ」公演のレビューを載せています。「美術はグッジョブ」と評価していますが、舞台には厳しく、「寺十(演出・出演)ほどの才能を持つ人が何でこの作品を取り上げ、どういうつもりで演出したのかが理解できません」と指摘しています。

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August 21, 2004

聖史劇『The Creation』@カンタベリー大聖堂

「イギリス国教会の総本山、イギリスで最も由緒ある教会であるカンタベリー大聖堂の構内で芝居をやるという。しかも演目は中世聖史劇の復活上演。滅多に観れるものじゃない。これを見逃す手はないぜ」-英国から発信している「PLAY NOTE.NET」サイトがカンタベリー大聖堂で開かれた聖史劇復活上演の模様を伝えています。なるほど、英国の人々はこういう文化土壌で暮らしているのかと実感させる、臨場感あふれるルポです。

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KAKUTAと麻生美代子「女の夜」プログラムB

休むに似たり。」サイトが川上弘美の作品を取り上げた「朗読の夜vol.2」の「KAKUTAと麻生美代子『女の夜』公演」(プログラムB)に関する感想を書き留めています。「麻生さんの、声の艶っぽさはどうでしょうか。決しておもねるではないのだけど、でもほんとにどきどきしちゃいます」。

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August 20, 2004

tpt「シカゴの性倒錯+カモの変奏曲」

某日観劇録」サイトがtpt「シカゴの性倒錯+カモの変奏曲」(8月12-29日、 ベニサン・ピット)のレビューを掲載しています。いずれも「現代アメリカ演劇の言葉の戦士」デヴィッド・マメットの作品ですが、「アメリカには全国的にもはや一般常識となってしまったような悩みがあって、それを観客も共有しているという前提でもともと書かれた脚本」なので「日本で上演するには、それらの解説に相当するような演出が必要になる」と述べています。
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燐光群「だるまさんがころんだ」

燐光群「だるまさんがころんだ」公演は、「私たちの戦争」とともに、多くの反響を呼びました。2つの東京公演は7月15日から8月4日で終わり、その後8月末まで各地で開かれています。
こまつ座公演の評をいただいた後藤隆基さんから、「だるまさんがころんだ」のレビューが届きました。坂手洋二(「燐光群」作・演出)の発信方向を見定めようとしているように思われます。

◎「創作」という冒険の道行―燐光群『だるまさんがころんだ』

 坂手洋二という才能は常に歩いている。「現実」の道を踏み外すことなく、自身が現代を生きている、極めて強い自覚を肌身離さずに歩いている。彼は自己模倣を嫌悪する。予定調和を拒否する。貪欲に演劇表現を追求し、常に現行の「坂手洋二」で在り続けようとする姿勢は、作品においても、その創作過程においても貫かれている。

 坂手洋二は、今のそして少し先にあるものを捉える、敏感な社会的な眼を持った劇作家である。その手法は、たとえば評伝劇を確立した井上ひさしと同様の影響を後続に与えたともいえよう。

 近年の劇作の特徴として、坂手は現代社会が抱える問題に基づいた或る一つのキーワードをもとに、そこにまつわるあらゆる事象を吹き寄せにしてみせる。一見それぞれが孤立して見える世界が、実はひとつの輪であることに気づかせる。『だるまさんがころんだ』で言えば「地雷」。しかし、独断の大薙刀を振るって言えば、主題が「地雷」であることにそれほどの大きな意味はない。「素材としての地雷」というならば別としても。彼の意識は「社会派」と括られるのを自らはねのける如く、題材が如何に演劇として成立し、且つ表現が演劇でなければならないのか。それに終始している。何をモチーフとするかは入り口でしかなく、その後の処理如何で綺羅星にも塵芥にもなる。

 今回の「地雷」の選択は、坂手洋二自身が世界とつながろうとする意思表示そのものなのであり、そこに関わるすべての人びとが「演劇」を通してある種の共同性を獲得することに他ならない。もちろんそのすべてが、9.11以後の世界情勢や、地雷という申し子が眠りのうちに牙を研いでいたすべての戦争の上、「現代社会の構成員としての私たち」という立地点にあることが前提なのである。

 『だるまさんがころんだ』は、ここ数年の坂手洋二、燐光群の創作活動のひとつの達成であったといえる。たとえば坂手は『屋根裏』から、十分から十五分ほどの短い場面をつないで一つの大きな物語を完成させるという手法に可能性を見出しているようだ。コマーシャルの挿入が度重なるテレビに慣らされてしまった現代において、短時間のシーンを暗転でつなぐ劇時間の処理は有効に作用する。「笑い」への意識的作業も『屋根裏』以降の産物である。

 時空の広がりは海外に及び、挿話も自立した意味を持つようになった。ラップ調の口上で地雷を売り歩く死せる武器商人は、多用される「専門用語」や坂手の硬質な劇言語と拮抗し、独自の文体を紡ぎだす。また今回の収穫としては非現実の領域にもう一歩足を踏み入れた点があろう。地雷敷地対の兄弟や地雷製作に従事する男の娘、地雷を食べる巨大トカゲなど、死者と生者との共生がより顕著となり、現実と非現実の柔らかな境界が異界への出入口を自在に広げる。

 小さな「挿話」という個人が集合してある形態を形成する。物語の中心に据えられる「家族」は最小限の共同体としてのモデルである。登場人物のそれぞれが集団のうちに生きている。地雷と一人で戦うヒロインの女(宮島千栄)がすべての登場人物と各国語で「だるまさんがころんだ」を遊ぶ。あらゆる種類の人間の共生という可能性を追うこの物語は、今失われつつある人間性の回復を眼中においてはいないか。

 思えば、無差別に不特定の人間を破壊する「地雷」と「通り魔殺人」を重ねた意図もそこにあった。作家の技法が彼の思想を体現するならば、まさに「創作」という冒険を通じて最小限の「劇団」単位から世界へ向けて発信されるメッセージが、ここにはある。
(後藤隆基 / 2004.8.15 )

Posted by KITAJIMA takashi : 11:19 AM | Comments (0) | Trackback

August 19, 2004

劇団バカバッドギター「伝染するラプンツェル」

無夢楼劇団(Dreamless Theatre、台湾)の主宰者C. Jan さんから劇団バカバッドギター「伝染するラプンツェル」公演(7月23-25日、新宿タイニイアリス)のレビューが届きました。筋書き、俳優の所作、演出から最後のあいさつ(礼)まで、同じ演劇人の経験を基にした詳細なレポートです。

Morbid, Twisted, Wicked - Eventually Indescribable Beauty
by C. Jan (Dreamless Theatre in Taipei)

Through conversation, when we use the word 'you', the concept 'you' actually means 'the memory memorized by you', not your mortal flesh or beautiful face, and the way things to be memorized decides one's personality.

Memories, sometimes equal forgetfulness, the play 「伝染するラプンツェル」 wraps the sentimental theme with spread little tizzies. At the beginning, performers wear cartoon clothes made by paper and cutely act a short part of the fairy tale, Rapunzel, unveils the main scene.

The structure of the plot is designed to be suspense drama, there is a mainly indoor scenic background and someone gets killed or injured, though the criminals all got caught at once, even themselves can't describe the motivations. Eventually, they find out that there seem to be hypnosis, or rather, under a curse.

The first suspense is a female staff member, Rinko Saeki. After the injury event, seem to lose her mind slightly, she whispers repeatedly: Memory A and memory B...it is a theory about how things being memorized can affect the way things looked like. For example, the truth, fact or reality, is nothing but how you recall it when needed. In other words, the so-called truth can be chosen, or even delicately designed.

I like the short stories told by different roles through the play, though some may say that those are irrelative to the plots and the theme, or it is just the show time for each character. Uh, well, at least the showers on stage widely open their arms to the audience.

A ghostly role, Karasu, without a face and acting like an old-age witch, symbolizes the hypnosis and the curse. As more appearances on stage, astonishingly, the atmosphere is becoming scary and breathless.

It is not easy to deeply convince the audience that there is a ghost at live theatre; especially this is not a high-budget production. However, the director seems to reach it. At least a foreigner like me who believes in the character Karasu at the moment. The only character without a face on stage arouses me lots of imagination; morbid, twisted, wicked, eventually expresses the elegant and indescribable beauty. Interesting.

Gradually, all clues point to one of the main characters, Shigeko Shigeta. Perhaps because Karasu is part of Shigeta's interior, she decides to chase Karasu. They have a long talk with each other. Eventually Karasu fades away to relief.

This production does his best to explore the vague part of the mind. Feeling like some scenes break my heart with theirs. It is the fragility (not weakness) courageously expressed on stage moves me. The performers are shining under the spotlight because of doubtlessness from director I suppose. Actresses and actors are trained to reach the ability to expose their deepest softness artistically to the audience, which makes the performance art.

At the bow of this play, each performer speaks the name of the role and themselves' one by one. The illusion created in about 120 minutes may be gone by the 3 minutes bow or not.

A wonderful bow at stage won't save a plain drama except their audience, but an inappropriate bow will drag down an excellent performance. The art about how to arrange the bow at the end of a play sometimes is even tougher than to direct the work itself.

Posted by KITAJIMA takashi : 07:33 AM | Comments (0) | Trackback

August 18, 2004

ゴキブリコンビナート「ナラク!」

「dm_on_web/日記(はてな)」がゴキブリコンビナート公演「ナラク!」を取り上げています。タイトルが「薄っ!」。「グロテスクなものをただ見せているだけで、ディテールがない」「露悪趣味もこだわれば楽しめるものになるのだけど、今どき露悪趣味“だけ”で盛り上がれると思っている節があり、その辺もちょっと時間が止まってる気がする」と指摘しています。


Posted by KITAJIMA takashi : 11:27 AM | Comments (0) | Trackback

劇団M.O.P「虚飾の町に別れのキスを」

30's SubCulture Blog」が劇団M.O.P公演「虚飾の町に別れのキスを」(東京・紀伊國屋ホール、8月6-12日)をみて、「難しく考えさせず、その舞台上にある世界と転がるストーリーを誰でも楽しめるエンターテインとして見せた軽快な舞台」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:15 AM | Comments (0) | Trackback

こまつ座「花よりタンゴ」

No hay banda」サイトがこまつ座第74回公演「花よりタンゴ」のレビューを掲載しています。「四姉妹は長女の旺さんと三女の鈴木さんの見せ場がたっぷりです。旺さんはさすがの存在感。歌手を目指す鈴木さんは歌をたっぷり聞かせてくれます…」と役者を評価しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:01 AM | Comments (0) | Trackback

非戦を選ぶ演劇人の会「あきらめない、夏 2004」

「しのぶの演劇レビュー」サイトが、永井愛さん、渡辺えり子らが実行委員をつとめる「非戦を選ぶ演劇人の会」のリーディング公演vol.6「あきらめない、夏 2004」の模様を報告しています。8月15日(日)に東京の紀伊國屋サザンシアターで開かれました。

Posted by KITAJIMA takashi : 09:51 AM | Comments (0) | Trackback

August 16, 2004

毬谷友子 語り芝居 『宮城野』

 その声は忍びやかに空間を支配する。無邪気な妖艶が切れ長の瞳と毒をも含んだ唇から漏れ出る。吐息が言葉を生み、息が命から生まれる。言葉の火が「演劇」を照らす標であるならば、劇場という暗がりに点された灯は毬谷友子その人である。

 『弥々』につづく語り芝居第二弾として毬谷が選んだのが、一九六六年に父、矢代静一が書いた『宮城野』。登場人物は女郎の宮城野と、馴染みの一番客である絵師、矢太郎の二人で、矢太郎の師、東洲斎写楽殺害の実相をめぐる会話の中に、互いの心の虚と実が巧みに編みあげられた緊密な対話劇である。と同時に宮城野の語りによって物語が展開する一人芝居でもあった。「言葉」による演劇の魅力を十分に発揮し、小空間での「語り芝居」にうってつけの題材。およそ一時間強の上演時間で一種のどんでん返しの起こる構成も見事であり、まずは戯曲ありきという前提のある上は、戯曲の力をいかに「声」と「言葉」において表現しうるかが企画の主眼となるだろう。そしてその試みはひとまず成功していたといっていい。

 彼女が姿を現した瞬間から、劇場はすでに彼女のものになっていた。香りたつ白粉は色街の座敷へと誘う。何か恥じらいのようなものを身にまとい、行燈の灯りの下、やや俯き加減の項からすっと口角を持ちあげて少し媚びるように見上げた先、虚空に相対する男の姿を描き出す。傍には矢太郎を演じる俳優(大鷹明良)も当然いるのだが、宮城野の心に宿る男の姿は遠くにいた。

 言葉の一挙手一投足に、笑う、仰け反る。眉をひそめ、瞳が曇る。愛する男のために騙りつづけた自分の過去、男への思い。それらすべてが裏切られ、幼気な童女のような半開きの口元から、決して恨み言でない本音が響くとき、その歌は何よりも彼女が彼女であることを表現する。矢太郎のためについた「嘘」は嘘をつけないからこその「嘘」。戯曲にはない、毬谷自身の作曲による歌は、宮城野が愛した男たちへの恋文でさえあった。誰もがどうしようもなく抗えない人間の業。宮城野は魔性と俗性にまみれながら、その無知と無邪気なる純粋は気高く、我が身を犠牲にして、いわば無償の愛を体現する聖女ともなる。生の辛苦悲哀を笑顔に変えてみせる女の姿は矢代作品のひとつの特徴でもあるが、『宮城野』はそうした意味でも『弥々』の源流にいる女性といえる。

 劇作家、矢代静一の描く、聖性と魔性を同時に兼ね備えたヒロインが現世界にそっと障子一枚、隣の部屋から入ってきた。それが毬谷友子である。その純度の高い「女」という結晶は、童女でありながら老女であり、聖母でありながら娼婦である。その幼子のような純粋は、純粋であるが故に、演技を超えて、そこに居る「女」で在ろうとしつづける。純粋過ぎるが故に、強さは危うさと背中合せであり、零れる涙は自分を抑えに抑えこんだ果ての掬いようもない魂の雫である。

 空気を通して伝わる身体的感触の生々しさにもかかわらず、その夢のような存在感は幼児性と妖艶の二面性を示す。「知性」「痴性」「稚性」。父の唱えた芸術家に必要な三種の「チ性」は間違いなく娘に宿り、そのすべてを形成している。誤解を恐れずに言えば、「一卵性親子」と云うほど仲がよかった父の作品を演じるとき、毬谷友子は明らかに他の作品の毬谷友子とは異なる姿を見せる。作品を通して、父と、また自分自身と出会い直す苦行を強いているように。往ける処まで内面を掘りさげ、湧水の源泉を探して、水底の砂を掴み浮かびあがる。その潜水と浮上の過程が描く軌跡こそが女優としての毬谷友子という生き様なのではないか。 (後藤隆基/2004.08.15)

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燐光群 『だるまさんがころんだ』

創作という冒険の道行 

 坂手洋二という才能は常に歩いている。「現実」の道を踏み外すことなく、自身が現代を生きている、極めて強い自覚を肌身離さずに歩いている。彼は自己模倣を嫌悪する。予定調和を拒否する。貪欲に演劇表現を追求し、常に現行の「坂手洋二」で在り続けようとする姿勢は、作品においても、その創作過程においても貫かれている。

 坂手洋二は、今のそして少し先にあるものを捉える、敏感な社会的な眼を持った劇作家である。その手法は、たとえば評伝劇を確立した井上ひさしと同様の影響を後続に与えたともいえなくはない。

 近年の劇作の特徴として、坂手は現代社会が抱える問題に基づいた或る一つのキーワードをもとに、そこにまつわるあらゆる事象を吹き寄せにしてみせる。一見それぞれが孤立して見える世界が、実はひとつの輪であることに気づかせる。『だるまさんがころんだ』で言えば「地雷」。しかし、独断の大薙刀を振るって言えば、主題が「地雷」であることにそれほどの大きな意味はない。「素材としての地雷」というならば別としても。彼の意識は「社会派」と括られるのを自らはねのける如く、題材が如何に演劇として成立し、且つ表現が演劇でなければならないのか。それに終始している。何をモチーフとするかは入り口でしかなく、その後の処理如何で綺羅星にも塵芥にもなる。

 今回の「地雷」の選択は、坂手洋二自身が世界とつながろうとする意思表示そのものなのであり、そこに関わるすべての人びとが「演劇」を通してある種の共同性を獲得することに他ならない。もちろんそのすべてが、9.11以後の世界情勢や、地雷という申し子が眠りのうちに牙を研いでいたすべての戦争の上、「現代社会の構成員としての私たち」という立地点にあることが前提なのである。

 『だるまさんがころんだ』は、ここ数年の坂手洋二、燐光群の創作活動のひとつの達成であったといえる。たとえば坂手は『屋根裏』から、十分から十五分ほどの短い場面をつないで一つの大きな物語を完成させるという手法に可能性を見出しているようだ。コマーシャルの挿入が度重なるテレビに慣らされてしまった現代において、短時間のシーンを暗転でつなぐ劇時間の処理は有効に作用する。「笑い」への意識的作業も『屋根裏』以降の産物である。

 時空の広がりは海外に及び、挿話も自立した意味を持つようになった。ラップ調の口上で地雷を売り歩く死せる武器商人は、多用される「専門用語」や坂手の硬質な劇言語と拮抗し、独自の文体を紡ぎだす。また今回の収穫としては非現実の領域にもう一歩足を踏み入れた点があろう。地雷敷地対の兄弟や地雷製作に従事する男の娘、地雷を食べる巨大トカゲなど、死者と生者との共生がより顕著となり、現実と非現実の柔らかな境界が異界への出入口を自在に広げる。ただ、個々の挿話の完成度は高いけれど、それらが一つの物語として大きな影を落とさない。世界観を広げるあまり、収集が難しいという一点が、今後の課題となるのではないだろうか。

 小さな「挿話」という個人が集合してある形態を形成する。物語の中心に据えられる「家族」は最小限の共同体としてのモデルである。登場人物のそれぞれが集団のうちに生きている。地雷と一人で戦うヒロインの女(宮島千栄)がすべての登場人物と各国語で「だるまさんがころんだ」を遊ぶ。あらゆる種類の人間の共生という可能性を追うこの物語は、今失われつつある人間性の回復を眼中においてはいないか。

 思えば、無差別に不特定の人間を破壊する「地雷」と「通り魔殺人」を重ねた意図もそこにあった。作家の技法が彼の思想を体現するならば、まさに「創作」という冒険を通じて最小限の「劇団」単位から世界へ向けて発信されるメッセージが、ここにはある。(後藤隆基/2004.08.15 )

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子供のためのシェイクスピアカンパニー「ハムレット」

子供のためのシェイクスピアカンパニー「ハムレット」公演が7月7日の新潟を皮切りに、9月初めまで全国を回っています。「しのぶの演劇レビュー」は東京公演(07月15-20日、世田谷パブリックシアター )をみて「老若男女を問わない日本製シェイクスピア・エンターテインメント」と評価。「stage note archives」サイトも「演劇好き、芝居好きだと自認する人ならば、絶対に一度は観ておくべき舞台」と絶賛しています(8月14日、クレオ大阪中央)。

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August 15, 2004

よこしまブロッコリー「グルグルPlanet 六畳半と彼方のアイツら」

名古屋の小演劇インプレッション」サイトで「#10」さんが、よこしまブロッコリー「グルグルPlanet 六畳半と彼方のアイツら」公演(愛知県芸術劇場小ホール、04/08/14-15)を取り上げています。「面白かった。明確なドラマがあるわけではなく、二つの場所で起こる出来事が淡々と描かれているような舞台だが、何かが伝わってくる。…全編を通じて流れるのどかな、でもどこかに切なさを残す空気感は絶妙」と述べています。

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August 14, 2004

こまつ座「父と暮せば」

力作をいただきました。こまつ座第73回公演「父と暮せば」です。
執筆した後藤隆基さんは「『演劇って何だろう』という素朴な疑問を、一つの舞台がどのように構成されているか、主に「聴く芝居」という観点から考えています」という大学院生。これから内容の濃い原稿が次々に登場します。
今回の記事は内容を考えればもっと早く掲載すべきでした。編集サイドの怠慢です。ご容赦ください。

◎劇場はなみだにゆすれ こまつ座第73回公演「父と暮せば」

 1994年の初演から数えて10回目の再演となる『父と暮せば』のこまつ座公演(ロシア公演1回を含む)は、過去の例に漏れず、劇場に笑いと涙の汪溢する舞台であった。紀伊國屋サザンシアターを埋め尽くした客席が流した、その涙の理由はどこにあるのか。そこには何より圧倒的なまでの戯曲の力が存在している。

 作品の主題を云々することはこれまで散々行われてきており、夢幻能の形式を借りた「一人二役(二人一役)」の劇構造についても作者自身が常々語っていることなので今更鹿爪らしく愚言を弄することもあるまい。しかし、「戦争を知らない子供たち」のそのまた子供である筆者のような世代から見える「戦争」とは何か。井上ひさしとこまつ座が「昭和」、「戦争」についての演劇をつくりつづけている理由がそこにはあるし、『父と暮せば』の軸に少しは触れることにもつながろう。

 「戦争」、あるいは「原爆」という「鍵言葉」を柱の一つに置くことは、次世代への啓蒙でも同世代への共感でもない。かつて存在した「昭和」という時間に、「こんなことがあったそうじゃ」と語られる「おはなし」。知らなければならないことがある。聞いてしまった声がある。井上ひさしはそれを話してくれる。ただそれだけのことだが、ここには「物語」の本質がある。「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを」伝える図書館の司書であり、広島女専では「前の世代が語ってくれた話をあとの世代にそっくりそのまま忠実に伝える」いう根本方針である「昔話研究会」の副会長を務めた美津江。郊外の村々で土地の年寄から仕入れてきた昔話を、今度は自分が子供たちに聞かせようとする。そこで竹造は、よく知られている話の中に原爆資料をくるみ込むことを思いつく。

 「原爆」を物語に組み込むことは、「被爆者」と「非被爆者」との意識の間に横たわる溝は計り知れないほどに深く大きい。「非被爆者」であること自体がすでに「原爆」を語る資格を持ち得ない。「絵空事」が許されない世界が、事実があるということを、井上ひさしは資料収集の過程で被爆者の生の叫びを聞いた。井上が「聖書」とさえ呼ぶ、被爆者たちの「手記」がある。その手記から原爆にまつわる逸話を抜き出し、折り込む。美津江や、その周囲に起こった出来事はすべてが手記からの引用である。話をいじらず、一人の被爆者の女性の人生に託す。劇構造そのものが作者の思想を表現する。しかし、木下さんに「気に入ってもらおう思うて」「話をいじっ」てしまった「ヒロシマの一寸法師」は、美津江の古傷を思い出させ、被爆者にとっての被爆体験を「忘れたい」記憶にしてしまう。竹造の存在が、その行動は実は美津江のものだとしたら……。竹造は美津江自身であるという趣向は、劇中のあらゆる細部に効いてくる。劇中に現れるすべての逸話がそのまま『父と暮せば』の作劇法なのである。

 時間、世代をを超えて被爆者を痛め続ける「原爆症」は命の連鎖にまで言及する。恋を諦め、静かに生きて世の中から姿を消そうと思っている美津江。恋の成就はそのまま、つながっていく命を認めることにもなろう。口承による「物語」の伝播も、記憶と命の連鎖そのものであることは言うまでもない。『父と暮せば』という「物語」がいつか観客のそれぞれが語り伝えられる「おはなし」になったら。そんな願いがある。たとえば「一寸法師」のように。

 今公演の収穫は西尾まりではないか。『父と暮せば』は初演キャストのすまけい・梅沢昌代というこまつ座常連コンビによって、すでに一つの「完成形」が提出されてしまっている。幽霊の竹造と、竹造が死んでいるとわかっている美津江。遊びのある軽妙な個性の衝突によってつくりあげられた地点から見ると、果たして以降に以上の出来は期待できないのではないかさえと思わされる。実際その後、前田吟・春風ひとみ、沖恂一郎・斉藤とも子と引き継がれたが、初演を超える評判は聞かない。今回の辻萬長・西尾まりは四代目の竹造・美津江父娘である(1992年のカンパニー・パリ21によるフランス公演での小野地清悦とバルバラ・サルシを勘定に入れれば5代目)。すま・梅沢コンビとはまるで違う方向から攻めた好演であった。激情を、文字通り「必死で」抑え込み、一語一語吐き出すようにして台詞を語る西尾まりの演技は出色であり、「生きること」の困難に耐えながら過ごしてきた美津江の、意識の奥底に沈む記憶を表現して見せた。辻萬長の冗談が冗談にならない、力一杯、真っ直ぐな竹造とあいまって、新しい竹造・美津江像の可能性を示したといえる。
(後藤隆基 2004.8.1)

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August 13, 2004

dots「うつつなれ」

dots「うつつなれ」公演はさまざまな見方を提供しているようです。「dm_on_web/日記(はてな)」サイトは「良い意味で「いまだ何ものでもない」ものなのに、それをそれとして受容できる場にきちんと配置すべきだった」と述べ、コンテンポラリーダンスに詳しい「白鳥のメガネ」サイトは「いろいろ手持ちの手法や発想を均整のとれたかたちにまとめる力量はあるのかもしれないけど、一点突破の狙い撃ちはできていない。手馴れてはいるけど、大胆さはどこにもない」と手厳しい。京都の学生集団というと、すぐダムタイプを思い出させるのがいけないのかもしれません。

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August 12, 2004

中野成樹(POOL-5)とフランケンズ「ホーム&アウェー」

「白鳥のめがね」サイトが中野成樹(POOL-5)とフランケンズ「ホーム&アウェー」公演を取り上げています。舞台で起きたことの内的連関の提示、演技と演出の構造などが腑分けされ、公演がx線で透視されているような印象を受けます。「反転しあう第一部と第二部をおさめたSTスポットの空間が、ひとつのアレゴリーとして成立し、作品は終わる」。未見なのに、思わずうなずいてしまいました。

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ミュージカル「オクラホマ!」

 これまで特定の公演に絞ってサイトやページを紹介してきましたが、きょうはミュージカルを中心に、詳細なデータを取り込み、舞台の息吹を伝えるレビューが掲載されているサイトを紹介したいと思います。名前は「Neverland Musical Community」。筆者のクワストさんは米サクラメント在住で、日本でだいぶ舞台を見た蓄積があるようです。
 最新のレビューは「ペンザンスの海賊」。「ミカドのオペラッタで知られるギルバートとサリヴァンによる喜歌劇で初めてアメリカで上演された作品」だそうです。前後して掲載された「オクラホマ!」のレビューで、このミュージカルが日本で本格的な翻訳上演されていないのは「作品の根底に流れる異端を忌み嫌う差別主義の匂いを感じさせるせいかもしれない」と指摘するなど、ドラマの奥をつかみ取る姿勢が感じられました。充実したreview listを開くと、どのページにも舞台をみる楽しさがあふれているように思います。

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August 11, 2004

ランニングシアターダッシュ「POOL」

 大阪の劇団ランニングシアターダッシュの「POOL」公演が愛知県・長久手文化の家で開かれました(8月6日)。「名古屋の小演劇インプレッション」サイトで「しおこんぶ」さんが取り上げ「終演後、拍手がなかなかやまずなかった、小演劇でカーテンコールが起こったのは初めてだったが納得できる内容だった」と絶賛しています。7月の東京公演は賛否が入り乱れましたが、それだけインパクトが強いということでしょうか。

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「生田川物語」を観る。

「大岡淳の反資本主義日記」サイトが神奈川県立音楽堂で開かれた「生田川物語」(8月8日)を紹介し「期待に違わず極めて完成度の高いパフォーマンスで、美酒に酔い痴れるようなひとときを味わった。今年のベストワンはこの舞台かもしれない」と書き留めています。
同音楽堂の委嘱作品で、作:大岡信、演出:観世榮夫、音楽:一柳慧、書:井上有一、出演:観世榮夫、野村万作、三宅右近、茂山逸平、桜井真樹子、一柳慧(ピアノ)、神田佳子(打楽器)ら。「当代一流の芸術家が一堂に会した超豪華コラボレーション」が1日限りの公演とは残念です。

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August 10, 2004

宮本亜門演出「ドン・ジョヴァンニ」

 今年7月末に東京文化会館で行われた宮本亜門演出の「ドン・ジョヴァンニ」公演について、長文の評が寄せられました。欧米の演出家はドラマだけでなく、オペラを手掛けることは珍しくありません。このサイトではちょっと異例ですが、演出の問題に焦点を当てた力作ですので掲載することにしました。
 筆者の嶋田直哉さんは1971年生まれで現在横浜市内の私立中高教員。歌舞伎、文楽、能からストレートプレイ、バレエ、オペラ、舞踏など「ジャンルを越えた上で〈身体〉と〈政治〉を演劇的視座で考察してみたい」とのことでした。

モーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」(東京文化会館 2004/7/22~25)
指揮:パスカル・ヴェロ
演出:宮本亜門
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団 
合唱: 二期会合唱団
主催:二期会オペラ振興会

 オペラが演出の時代といわれて久しいが、そのような意味での「演出」に出会うことなんて滅多にない。しかし宮本亜門が昨年の「フィガロの結婚」に引き続き今回手がけた「ドン・ジョヴァンニ」はこのような意味でまさしく「演出」されたオペラであった。

 作品としての「ドン・ジョヴァンニ」を考えれば、レポレッロが歌う「カタログの歌」に代表されるように、女を口説いて回る色事師の滑稽さがどうしても前面に出てしまうのだが、この舞台はその滑稽さを敢えて回避し、あくまでこれが現代の物語であることを強調した。例えば「カタログの歌」ではそれぞれの国で口説き落とした女の数をレポレッロがいくつもの携帯電話をかばんから取り出すことで示すのだし、無邪気な村娘ツェルリーナと、その婚約者マゼットは麻薬中毒のヤッピーとして描かれ、毎夜狂ったようなパーティーが打ち上げられるといった設定だ。このような設定について宮本は現代の人々が愛に飢え「心枯れすさんでいる」風景を描きたかったとインタビューで語っている。

 実はこのような設定には1990年代のピーター・セラーズの演出が先立つものとしてあって、そこでもやはり舞台は90年代のニューヨーク、ドン・ジョヴァンニも麻薬中毒者として登場したのである。

 その流れを考えれば舞台を現代のニューヨークにして、スーツ姿の歌手が登場するなんて今となってはさほど驚くに当たらない演出なのだが、問題はこの演出が明らかに9・11以降を視野に入れている点だ。ニール・パテルの舞台装置は瓦礫で荒廃したニューヨークを描き出す。イラクの惨状を日常的に見せられているわれわれにとっては既に過去のものになろうとしている光景だ。宮本の「ドン・ジョヴァンニ」はここから始まる。

 第1幕冒頭で起こるドン・ジョヴァンニによる騎士長の殺害は単なる殺害ではなく、新聞記者やテレビ・キャスターがドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオを取り囲むことによって無理失理なまでに〈復讐〉というテーマが紡ぎ出されてゆく。問題はそこに星条旗が介在する点だ。殺された騎士長はアメリカ軍人として星条旗に包まれて棺桶の中に収められ、オッターヴィオはスーツを脱ぎ捨て軍服に着替え、星条旗を片手に名アリア「今こそ、私のいとしい人を慰めに行って下さい」を歌い、〈復讐〉を誓う(第2幕)。幕を追うごとに「アメリカ」が舞台全面に押し出されていく。

 第3幕のジョヴァンニ邸でのパーティーではホームレスを相手にケンタッキーやハンバーガーといったいかにも「アメリカ」なジャンク・フードが登場する。そして最後は通常ならば騎士長の化身である石像によってドン・ジョヴァンニは地獄へ落とされるのだが、ここでは新聞記者、カメラマンに囲まれ〈復讐〉を誓ったオッターヴィオにいとも簡単に射殺されてしまう。〈復讐〉は遂げられ、「悪人の末路はこの通り」とオッターヴィオをはじめとする人物は高らかに歌いだすのだが、彼らの手には誇らしげに星条旗がはためいている。かくして「アメリカ」は「悪」に勝利したのだ、と思わせたその瞬間、舞台奥、地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニの手から一片の白い羽根が落ちる。

 あの9・11を髣髴とさせる瓦礫のなかでこの作品を観つづけると、結局この作品で「アメリカ」が戦っている相手がわからなくなってくるのだ。宮本はドン・ジョヴァンニを愛が枯れ、すさんだ現代に舞い降りた堕天使として考えているようなのだが、それが成功したかどうかはさておき、どう考えてもドン・ジョヴァンニはテロリストでも、サダム・フセインにも見えてこない。ただ彼だけが17世紀風の服装で、あの瓦礫の中を彷徨う異様な光景は、まさしく「アメリカ」のナショナリズムの、ただ単に〈復讐〉だけを念頭に起き、星条旗を振り回すことでしか表明できない時代錯誤な姿と重なってくる。

 このように考えてみれば宮本には既に9・11以前にスティーブン・ソンドハイム作曲、ジョン・ワイドマン台本のミュージカル「太平洋序曲」の優れた演出(新国立劇場主催2000/10)がある。日本開国を主題にしたこの作品は、まさにオリエンタリズムを逆手に「アメリカ」そのものをパロディで脱構築する演出であったのだが、ここでもやはり天井に張り付く星条旗や開国を迫る「アメリカ」人にくるまれた星条旗は日本への侵略と威圧の象徴として用いられるだけでなく、さらにはその象徴を無にするパロディがねらいとしてあった。今秋この作品が「東洋人初」の演出という触れ込みでブロードウェイで上演されるという。大いに期待したい。

 最後に演奏について触れておこう。演出がこれだけ読み替えを打ち出しているにもかかわらず演奏はあまりにも歯切れが悪かった。ただドン・ジョヴァンニ役黒田博は宮本の意図をよく理解し、過度に滑稽になることなく「悪人」を表現した。凛々しい舞台姿はもちろん、歌唱は問題なし。特に第2幕、ラジカセを片手に歌う「ドン・ジョヴァンニのセレナーデ」は美しかった。
(嶋田直哉 2004/7/22)

宮本亜門公式サイト
二期会サイト「ドン・ジョヴァンニ」公演

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August 09, 2004

あなざ事情団「三人姉妹」

「しのぶの演劇レビュー」があなざ事情団「三人姉妹」(08/06-8 アトリエ春風舎)を取り上げています。劇場で何が起きているか、ほぼリアルタイムの報告をこれだけ継続しているのは貴重です。

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August 08, 2004

青島レコード「SLAPHAPPY」

青島レコード「SLAPHAPPY」(08/04-08 THEATER/TOPS)を「しのぶの演劇レビュー」が取り上げました上演時間が長すぎると指摘しながらも「自ら前へ前へと進んで行きながらも、常に体の中に漠然とした不安を抱いている人間の、根源的な迷いと一寸の希望を表したのではないか」とやさしく救っています。

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August 07, 2004

劇団相殺「含羞」・「箸をかまえて」

劇団相殺の初公演「含羞」「箸をかまえて」(7月6-7日、新宿タイニイアリス)をみた台湾の「無夢楼劇団」(Dreamless Theatre in Taipei)主宰者C・Janさんから英文の劇評が寄せられました。Janさんは台北大学在学中から演劇活動を始め、今年4月に、サルトルの「出口なし」をもとにした「悪戯 Itazura」を作・演出して劇団を旗揚げ。2003年に「榴華殿」の台北公演「月下美人」に姉の役で主演するなど日本との交流があり、現在日本で演劇の勉強中です。Janさんのサイトにも全文が掲載されています。

A Dirge Sang Only at Midnights--劇団相殺「含羞」「箸をかまえて」
by C. Jan (Dreamless Theatre in Taipei)


In Taipei, performances are better took place at weekends to make sure that
the audience have the mood to appreciate the artistic live. However, there
are various kind of plays, talk shows everyday in Tokyo, therefore Iam
always curious at what kind of theatre troupes and their audience will show
up on week days.

Chopsticks are set up or Have chopsticks like sword, performed by July 6th
Tuesday & 7th Wednesday, offers me an opportunity. About 19:20, I enter the
Tiny Alice Theatre and have myself seated. Perhaps it is because the
exhausting daily job, the atmosphere is like the dense fog, lazy and dizzy.
Well, you can also call this a type of relaxation.

Seems like the average age of the troupe isn’t pretty young, maybe the
theme and the sense of values through whole work prove this. The performers
are not few, and the stage-sets, lightings, sounds and projections are
appropriately placed though, which makes you feel even more hollow and
empty, like a dirge of white-collar ideology sang only at midnights.

What interests me is the sense of time through the performance. At the
middle of the play, I feel like it is over twelve o’clock at night and this
is a play only for spirits or phantoms, therefore I’d better remain low-key
in case they will catch me (laugh).

When my mind is somewhere else for a while, the reaction of other audience
draws my attention. Not sleepy, whether this is a good show or not, they
REACT. Obviously the play speaks for them in some way.

Although myself cannot find a tunnel into that world for I can hardly
understand Japanese, sure there are supporters for them. Well, isn’t this
one of the essential meanings of performance, to at least please the
audience?

Most of the time we allow the artists to ignore the voices of the audience
in the process of creating or presenting the artistic works, in order to
reach the pure originality.

However, if there is some experienced creator also creates a space for
audience within the performance - even only an abstract concept, probably
will earn the creator some different admiration.

Posted by KITAJIMA takashi : 01:03 PM | Comments (0) | Trackback

August 06, 2004

The Godfather ゴッドファーザー デジタル・リマスター版

洗礼式のバッハ「パッサカリア」とコルレオーネ・サーガ、及びいくつかの所感  河内山シモオヌ
 
 まだ赤ん坊だったソフィア・コッポラが出演していることで知られる洗礼式の場面は、新しくコルレオーネ・ファミリーのドンを襲名したマイケル(アル・パチーノ)が甥の名づけ親として参列する中、教会でおごそかに進んでいく。その一方でマイケルの放った刺客たちが、各地を仕切る有力者らを次々暗殺していくシークエンスも交互に映し出される。ここは洗礼を進める牧師と銃を整える刺客、宣誓するマイケルと機をうかがう刺客、違う場所で汗をぬぐうそれぞれの刺客というように、粛々と進行する二つの儀式が、画面で重なりあいながら緊張が高まっていく、映画後半の山場だ。

 『ゴッドファーザー』を映画館で観るのは今回が初めてだった。そこでようやく気がついたのだが、この場面で鳴り響くオルガン曲の一部には、バッハ「パッサカリア ハ短調BWV582」(1)が使用されている。ちょうど警官に変装した刺客が紙袋から拳銃を取り出すあたりで、哀調を帯びた、だが力強い主題の旋律が流れてくる。
 バッハは一曲しかオルガン用のパッサカリアを残していない。きわめて優れた作品、バッハ代表作の一つと称されるこの「パッサカリア ハ短調」は、ペダルの独奏による8小節の主題提示で始まる。その後「リズムの細分・複雑化によって徐々に盛りあがり、最後の変奏でクライマックスが築かれる」(2)と説明されるように、20の変奏が続く。つまり最初に奏でられた8小節の低音の旋律が、変奏されながらずっと繰り返されるのである。このように、曲の展開の仕方まで有名な古典音楽をわざわざ被せるのには、場の雰囲気や主人公の感情にマッチした曲を作って使うのと違う意図があるはずだ。
 
 コルレオーネ・ファミリーを取り巻く世界では、生き残りをかけたり、聞く耳を持たない相手にメッセージや要求を伝える多くの場合、選ばれるのは凶悪かつ残忍な手段である。いくらヴィト(マーロン・ブランド)が矛盾を秘めた愛すべきドンであり、温情ある家父長制の体現者だったにせよ、あるいは継いだ三男のマイケルがビジネスの合法化に腐心しようとも、コルレオーネ・ファミリーもその例にもれないことは、容赦ない暗殺の映像が伝えている。この場面に被せられたパッサカリアは、そうした「手段」を音で表現したものと仮定してみよう。
 すでにマイケルの最初の妻アポロニアは、彼の身替わりとなって爆死した。喧嘩っぱやく頭に血がのぼりやすい長兄ソニーは義弟カルロにはめられ蜂の巣に、そのカルロもマイケルの指示により、洗礼式からほどなくして亡きものとなる。それから24年の間に、裏切った気弱な次兄フレドを殺害し(Part2)、愛娘メアリーがマイケルの眼前で射殺される(Part3)に及んで、コルレオーネ・サーガ―長編歴史物語―の全貌は明らかになる訳だが、変奏で繰り返されるパッサカリアの主題旋律と、マイケルの代になって徐々に強調され、より陰惨なかたちで家族を巻き込みながら繰り返し用いたり用いられたりする「手段」、この二つはやはり符合する。言い方を換えれば、パッサカリアの主題旋律によって、コルレオーネ・サーガの一貫したテーマはすでに暗示されていたのである。

 ところで階段というのは、やはり監督の「何か落としたい」気持ちを刺激するのだろうか。階段落ちの元祖『戦艦ポチョムキン』に挑んだ『アンタッチャブル』の乳母車や、(映画監督というより人間の叡智へのラヴレターを自演の映像で綴り続ける狂言作者)マイク水野『シベリア超特急2』の車椅子。『ゴッドファーザー』にも見事な階段落ちを見つけた。例の暗殺場面で任務を終えた刺客が去る後方、屋外の広い階段の上で倒れた有力者はあまりにもきれいにゴロゴロゴロゴロ転がりながら、落ち続けていたのだ。
 しかし『ゴッドファーザー』の階段落ちは、シベ超のように階段途中でやおら乱闘が始まり、踊り場の無人の車椅子が映った時点でもう場内爆笑というギャグにはならない。ケータリングの惣菜を一味でつついている場面ですら、光の差し加減、人物配置などまるで大きな油彩画を眺めているかのように壮麗なこの映画には、そうした壮麗さが生み出す重量感と、嘘だとわかっているのに突き放して笑えない不思議なリアリティがある。
 その反面、うらぶれた、どこかにせこさの残る、しかしそこはかとない薄気味悪さと粗暴な日常が一人一人の身体からにじみ出てくるといった描写はあまりない。高級ジャパニーズ・レストランで「じゃ、じゃあやるか」といわんばかりにオーナーをぽかすか漫然と殴り始める『フェイク』の連中、または『グッドフェローズ』で、いつもは勝気な主人公の妻が半泣きになって引き返すアパレル倉庫からの手招き、いずれもどんづまりな暗さのある場面だが、こうした表現と『ゴッドファーザー』、どちらを欠いても、アメリカのマフィア映画のリアリティは成立しないのかもしれない。

 映画のリアリティを支えた俳優たちについても、新たに気づいたことがあった。アクターズ・スタジオの花形だった、家父長ヴィト(ブランド)のみならず、息子たち三兄弟(ジェームズ・カーン、ジョン・カザーレ、パチーノ)、非イタリア系の養子トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)、三男の嫁ケイ(ダイアン・キートン)は皆舞台出身で、この意味においても彼らは劇場を母としたファミリーのようで興味深い。
 『ゴッドファーザー』のアメリカ初封切は1972年である。ベトナム戦争など社会的・文化的環境の大きな変化があった後の70年代アメリカという時代に、敢えて家父長制の、役柄の類型がはっきりしたジャンル映画を世に出したコッポラ。彼は大学の映画学科で学びヌーヴェルヴァーグの影響を受けた人だ。その若き監督が、68年のヘイズ・コード撤廃までは克明に描けなかった殺人や血をこれでもかと撮りつつ、一方で深夜の病院の場面のように、暗示にとどめる古典的手法を意識的に使い、スターに老け役を依頼し新進の舞台俳優らとつくったのが『ゴッドファーザー』だとすれば、この映画は大変な実験作だったといえるだろう(ブランド側には、タヒチに理想のリゾートを作る大プロジェクト―実際20年かかった―の資金集めという出演理由もあったらしい)。
 類型的とはいえ、兄弟の中でも特にヴィトから可愛がられたマイケルは、家業を避けイタリア娘ではないケイと交際しているという込み入った役柄だ。そのマイケルが、自ら志願して報復のため警部とソロッツォを射殺する時のクローズ・アップは忘れがたい。こんこんと涌く泉の水のように、役柄の類型というマス目を瞬く間に満たし画面からあふれ出すマイケルの意識と感情の流れが、台詞なしに伝わってくる。パチーノの表情の演技しか映っていないにも関わらず、観る側が得られるマイケルについての情報は無尽蔵だ。
 
 要するに、コッポラの狙いと意図がすべてぴたりと決まった作品、それがこの『ゴッドファーザー』なのだろう。そんな奇跡がめったに起こらないことは、『ゴッドファーザー』から5年後の『地獄の黙示録』を観るとよくわかる。(04.07.10 東劇)

(1)通常は「パッサカリアとフーガ ハ短調」と呼ばれる。パッサカリアの後に同じ主題による長大なフーガが展開されるため。また、ローラン・プティの振付けたバレエ『若者と死』(初演1946年)には、レピシーギ編曲の「パッサカリア」が使用されている。
030328「若者と死」と040129「プティ:ガラ/若者と死」に関連記事あり。
(2)『バッハ事典』磯山雅/他 東京書籍株式会社 1996.10.24
参考:『ゴッドファーザー』デジタル・リマスター版パンフレット(ブランドのフィルモグラフィーから、1956年『八月十五夜の茶屋』が漏れていた。ブランドはなぜか日本人役で出演し、いい味を出している。)

Posted by : 12:53 AM

August 04, 2004

青年団・五反田団「忠臣蔵・OL編」「ヤルタ会談」「家が遠い」

名古屋の舞台を伝えるblogサイト「名古屋の小演劇インプレッション」が、青年団・五反田団「忠臣蔵・OL編」「ヤルタ会談」「家が遠い」公演を取り上げています。三作とも名古屋の七ツ寺共同スタジオで7月21-26日に開かれました。東京で見た舞台とは違っているかもしれませんが、「家が遠い」の感想の中で、「役者が人形に感情を吹き込もうと試行錯誤して、最後に舞台上に残る哀愁」という表現がありました。意表を突かれた視角ですが、書かれてみると納得でした。

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劇団タコあし電源「阪神淡路大震災」

Blogサイト「某日観劇録」が、劇団タコあし電源「阪神淡路大震災」公演を取り上げています。「個人的にはものすごく良く出来ているという感想なのですが、観に行ったという感想をblogでも一行レビューでも見かけません」と観劇を勧めていました。東京・中野劇場MOMOで7月28日(水)~8月3日(火)の公演ですから、残念ながら昨日で終了しています。劇団主宰者の岡本貴也さんは早稲田大学院で生物物理学を修め、いまはテレビや映画の脚本などを手掛ける売り出し中の作家、演出家です。

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永井愛「こんにちは、母さん」

no hay banda サイトの「観劇アーカイブ」は読み応えのある劇評が集められ、いつも掲載されるのが楽しみです。今年3月に新国立劇場小劇場で開かれた永井愛の作・演出「こんにちは、母さん」公演の評が最近(8月3日)追加されました。舞台の様子や役者の動きなどが筆者の目を通してしっかり伝わってきます。

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August 03, 2004

燐光群「だるまさんがころんだ」

「漂泊する思考空間」サイトが、燐光群の「だるまさんがころんだ」(下北沢、ザ・スズナリ)を取り上げています。燐光群の舞台をみるのは初めてだそうです。しかしメッセージはしっかり伝わり、「芝居が終わったとき1時間半くらいかと思って時計を見たら2時間25分が過ぎていたし、芝居を観ている最中もいろいろなことを考えさせられた。いろいろなことを身体で感じた。これは是非芝居好きな方々には見て欲しい芝居のひとつである(滅多に勧めないけれど)」と手厚い感想を綴っています。

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August 02, 2004

デヴィッド・ルヴォー演出「屋根の上のバイオリン弾き」

演劇評論家の長谷部浩さんがCLP サイトでデヴィッド・ルヴォー演出の「屋根の上のバイオリン弾き」を紹介しています。綿密な分析の最後に「ルヴォーは、ヴァイオリン弾きに子供を寄り添わせ、楽器を幼い子に手渡す光景で、この劇をしめくくる。伝統や慣習が失われても、楽器にこめられた民族の音階やリズムは、引き継がれていくだろう。そのかすかな希望が疲れ果てたテヴィエの肩に、光明のように宿った」と締めくくります。これまでみたルヴォー演出の舞台が脳裏によみがえり、日本でもみたくなりました。

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唐ゼミ「盲導犬」

CLP クリティック・ライン・プロジェクトの皆川知子さんが唐ゼミ「盲導犬」 を取り上げました。「今回もまた、唐十郎の人間へのやさしさと残酷さが渾然となったことばの奔流に、目の眩むような思いをした」と切り出して、唐ワールドへ案内しています。

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劇団山の手事情社EXTRA企画『作、アレクサンドル・プーシキン』

「しのぶの演劇レビュー」は相変わらず精力的にレビューをアップして、「怒涛の演劇観劇人」の名に恥じない活躍です。今回紹介するのは、劇団山の手事情社EXTRA企画『作、アレクサンドル・プーシキン』。 こまばアゴラ劇場での公演(7.28 - 8.1)です。

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燐光群「私たちの戦争」「だるまさんがころんだ」

「おかめの客席日記」が燐光群「私たちの戦争」を取り上げています。「イラクの悲惨な状況を伝えるなら、映画などのカメラで写した映像にまさるものはない。だが演劇は、事実だけでなく人生の一コマから本質を描く力がある。だから観客の心を打つ。それが現実を演劇にする意味だと思った」。おそらく作者らの願いや望みが伝わった確かな形の一つなのでしょうか。
8月4日には「だるまさんがころんだ」を取り上げています。

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こまつ座第73回公演「父と暮せば」

「No hay banda」blog が新宿・紀伊国屋サザンシアターのこまつ座第73回公演「父と暮せば」を取り上げ、「出演者は2人とも達者です。しかし…親子の気持ちのぶつかり合いのところでは心からの触れ合いが伝わってこない演出」とズバリ。また遅刻客が開演中に入ってきて観劇の妨げになる事態も率直に指摘しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 02:50 PM | Comments (0) | Trackback

REAL TOKYOに寄稿したレビュー

文字数は250。半角カナなら倍に増やせるかと血迷ったが、往生際が悪いと思い直し、いざ始めてみるとそれは一筆描きのようで楽しい作業だった。  河内山シモオヌ

 UPしたのは、日英2ヶ国語の情報サイトREAL TOKYOに寄稿した舞台・興行のレビューだ。サイトでは、記事は公演終了とともに削除される。元々の記事には舞台写真などの画像、公演データへのリンク、星取り、執筆者一覧にリンクできる署名、読者星がついていた(今回は割愛する)。
 
 事前紹介が原則とのことだったが、私はできるだけ観劇後に書くようにしていた。そんな訳で、紹介できたのは比較的上演期間の長かった作品が多い。事前紹介した作品に関しては、ニュース記事的な文、過去の公演の様子などを記すにとどまった。
 
 やんわり原則を破ったのは、私の場合観てからでないと、扇ならば要となる一文が書きづらいという理由があったからだ。けれども演劇や興行全体を盛り上げるためのアプローチは、事前事後に関わらずいろいろな方法があっていいと思う。REAL TOKYOは執筆者の独断と偏見による取捨選択を前面に出す、という点で一貫している情報サイトだ。またREAL TOKYO向きの作品があれば紹介していきたい。
 
*特に記載のないものは、サイト内のSTAGEカテゴリーに掲載された。
 各タイトルの左はUPされた年月日、下はトップページ一行コメント

030327 白鳥の湖
ロンドンの人気ダンスカンパニー、AMPの追加公演
『くるみ割り人形』など古典バレエの楽曲を借りながら、バレエの「お形」への疑問を実験的な作品に変えてきたイギリスのダンスカンパニーAMP。映画大好きM.ボーンの現代人心理考察(何を観たがっているか、どんな悲劇に共感するか)が卓越している。いかにもクラシック、のスタイルで描かれるワキ筋との対比鮮やかな白鳥の踊りは、パワー全開でラストへ垂直落下。ある時は己に向き合えない王子を、ドッペルゲンガー的に揺さぶる。ゲイ表現は映画『セルロイド・クローゼット』の、隠喩を駆使した同性愛描写テクとは隔世の直球勝負だ。

030328 若者と死
斬新な装置も見どころ      
ジャン・コクトー原案による、ローラン・プティの初期代表作(1946年初演)。日本では牧阿佐美バレヱ団がプティの許可を得、4年前に初めて当時の装置を再現した状態で上演された。椅子が無秩序に置かれた汚い屋根裏のアトリエが、一転して40年代パリの上空夜景に変わる装置の斬新さもさることながら、高いアクロバティックな跳躍の後の激しい落下、首と肩を起点にしたねじれた倒立など、振りは意図的に重力を感じさせる。死神に操られて一人の青年が命を「落とす」テーマを含めて、この約18分の落ちるバレエは時代を超えた新しさに満ちている。
*固有名詞訂正・加筆

030423 障害者プロレス『ドッグレッグス』第59回興行 Approach2
拝啓、健常者さま   
代表北島行徳が著した『無敵のハンディキャップ』から5年余り、最近は満員御礼続きのドッグレッグス興行。健常者と障害者、もしくは障害者同士が、その障害の程度に応じ階級別に分かれて試合を行う。ボランティアを取り巻くゆるぅい感動、自己満足、甘えを断固拒否。他者と自分との違いを、身をもって知る彼らが興行を続けるのは、人間同士が本気でぶつかることを決して厭わないという彼ら自身の立場表明でもある。女社長(すばらしい喋りのセンス)による漆黒ジョーク連発の実況は、北島のいう通りまさしく観客との「言葉のプロレス」。
*TOWNに掲載

030425 東京国際コメディフェスティバル
お台場だヨ!全員集合(ドリフは出ません)   
G.W.のお台場に内外のコメディアンやパフォーマーが大集結。見て楽しめる作品と、言葉を理解して笑うステージの内訳は5分5分の模様。日本発のプリンセス・テンコー、「一線を超えた物はすべてギャグである」が持論の大川豊総裁の下、政治・宗教・経済にお笑いゲリラを仕掛けてきた大川興業の江頭2:50など、今や某国関連のニュース映像経由で目にすることの多い2人を生で見られる絶好の機会だ。電撃ネットワークは、人間効果音のアンビリカル・ブラザーズと共演。ラーメンズ片桐仁も、エレキコミックとのコラボレーションで出演する。

030605 六月大歌舞伎 夜の部
ご存じ、幸四郎の幡随長兵衛に注目
三千余人の子分がいたという江戸の侠客、長兵衛を主人公にした狂言は数多い。かつて染五郎時代に、河竹黙阿弥作『極付 幡随長兵衛』を演じ、手塚治虫に「"二十一世紀に歌舞伎役者が示すような"芝居」と評された幸四郎。今回は長兵衛と白井権八の出会いを描く鶴屋南北作『御存 鈴ケ森』で、どんな幸四郎長兵衛を見せるのか。美貌の花形役者が演じてきた権八の殺陣、客席を海に見立てた趣向など、40分ほどの演目だが見どころは沢山。仁左衛門・玉三郎の顔合わせで贈る通し狂言『曽我綉侠御所染』は、両花道を用いる珍しい舞台だ。
*家庭画報国際版ウェブサイトに翻訳転載

030609 サド侯爵夫人―澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』による―
三島由紀夫作、シアターアーツが選ぶ戦後戯曲ベスト1
6人の女が語るサド侯爵。客席に張り出したチェス盤のような舞台の上で、彼女たちはシンプルにアレンジされたロココ調の衣装に身を包み、各々を象徴する思想に跨ってサドを語り、革命へと移り行く時代を背景に言葉のみの騎馬戦を繰り広げる。場ごとの立ち位置が細かく変わるので、人物相関や各人の心理の動きは明解だ。中央の空いた椅子はおそらく不在のサドであり、からっぽの椅子で示された、この世で「一番ふしぎな」実体サドと対峙し続けるルネの宿命は、19年の歳月を経た終幕で明らかとなる。ベタ過ぎるSEが台詞のリズムを分断。

030610 The Musical CHICAGO
ボブ・フォッシー渾身のトリック
ボードビル形式を取り入れたステージ。トリックやどんでん返し満載の物語ラスト、命運を賭けた「ショータイム」の終了を悟った後のロキシーとヴェルマの歌には、あえて猥雑な世界から機微を、老いと疲労から希望を描き続けたフォッシーの人生観と人間賛歌が託されている。このミュージカル最大のトリックは、50年もたてば全て変わってしまうと劇中で歌っておきながら、今なお踊り継がれている『CHICAGO』そのものだろう。元Wet Wet Wetのボーカル、M.ぺロウの扱いは座長公演的だが、自信を持って軽快に弁護士ビリーを演じている。

030805 世界バレエフェスティバル
フォーサイス、キリアンらコンテンポラリー作品も上演
世界各国のプリンシパル、エトワールが競演するバレエフェスも10回目を迎え、コンテンポラリー作品の上演が増加。期間中は度々、談笑しながら電車で上野から帰るダンサーたちに遭遇する。日常空間に現れた、この高い音楽性を備えた特殊技能集団には、強烈な個性を持つ者がいる一方で、美しいがよく似ているダンサーも。厳しい練習の連続、そして日々表現するものが似た場合、外見も相似形になるのだろうか。ジル・ロマン(ベジャールバレエ団)の『アダージェット』は涙が踊っているかのような哀しみに溢れ、かつて観た江頭2:50の一人芝居が思い起された。

030805 blast
超マーチングバンド!
ドラム&ビューグル・コーとマーチングバンドを極限までショウアップ。サーベルやカラーフラッグも登場する。久々に「すべての芸術は音楽に憧れる」という言葉を思い出し、アメリカの多様性と寛容な文化を堪能した。ところで、軍の伝統でもあるマーチングバンド。たしかに聞いていると大変気持ちが高まる編曲であり、もしこれが「地元の」とか「自国の」バンドならば、連帯意識も芽生えよう。これだけ寛容で多様性を持った文化の利用目的の一つが、国威発揚というのは皮肉だ。オーチャードはいつもの通り、どこで観ても満足度の低いホールである。

030922 ALICE FESTIVAL '03
21回目の小劇場演劇祭、国内外10都市13劇団が参加
東アジアとの演劇交流を続けてきた「ALICE FESTIVAL」。今年は新たに2カ国のカンパニーが参加する。アクロバット、マジック、バレエ、コンテンポラリーダンスで構成された、旅芸人の愛の道行『Love:A Distant Dialogue_愛:よそよそしい対話』(ニューデリー)、夜の人々の物語を独特のダンス・テクニックで描く『Melatonin』(シンガポール)、両者に共通するテーマは「孤独」のようだ。なお『Melatonin』は、『Serotonine』(銀幕遊學◎レプリカント・大阪)との競作。演出家やゲストを交え、各都市の演劇状況、彼らの創造方法などについて話し合うシンポジウムも同時開催される。

031031 CVRチャーリー・ビクター・ロミオ
「ふるえるほどリアルだ!」(N.Y.Times) 
管制官との交信やパイロットの会話などを記録するCVR(コックピット・ボイス・レコーダー)。実際の飛行機事故のCVRに残された記録を、操縦室に模した舞台で俳優が演じる。網のような飛行マニュアルが何かの原因でほつれた時、その破れ目から立ちのぼるクルーの声は、専門用語のやりとりというより危機に向かう人間の精神そのものの発露だ。これはフィクションの広野から台詞で心理を掘り出す戯曲以上にタイトな「ドラマ」の構図であり、なぜ上演側が「演劇」として取り上げたかという問いへの答えだろう。初演時は「台詞を喋っている」感が強かったが・・・・・・。
*加筆

031121 野村萬斎企画・監修 現代能楽集 I『AOI』『KOMACHI』
麻実れい、手塚とおる好演
川村毅が「右に能の詞章を、左に三島由紀夫『近代能楽集』を置いて」書き下ろした2戯曲の上演。『KOMACHI』の小町は、原節子の軌跡を彷彿とさせる女優に置き換えられて登場。全編から川村の、映画に対する特異な、気味の悪さを感じさせるまなざしがこぼれてくる。『AOI』は『近代能楽集』収録の「葵上」の骨格や、幽界と現実の配置をそのまま踏襲した川村流日本演劇クロニクルに思えた。光源氏はカリスマ美容師。やや酸味を覚える「現代の」設定だが、そうしたディテールや通俗性より、すべてが個人の物語へ収斂されていたことに違和感が残る。

040119 プティ:マ・パヴロヴァ【DVD】
詩情あふれるカルフーニの熱演 
「ピアニストがピアノを持つのと同じように、自分のカンパニーを持つことは振付家には欠かせない」と語ったR.プティ。1972年の創立当初から26年間芸術監督を務めたマルセイユ・バレエ団出演の『マ・パヴロヴァ』は、ショパンやマスネ、ドリゴらの曲に振付けた16のパートで構成されている。バレエ団のミューズでプティの美しい楽器、D.カルフーニの全身を貫く詩情が、彼の舞踊言語をあますところなく伝える。信頼するダンサーとの共同創作こそ、プティの原点であったことを雄弁に語る作品だ。共演はD.ガニオ他。87年スタジオ収録映像。
*BOOK/DISKに掲載

040122 NANYA-SHIP:かけがえのない日々
動物を演ずるのはミュージシャン
1967年に書かれたラジオドラマ。上演にあたって、演出の宮田慶子は「夢を語った途端に『獏』に襲われる動物園の警備員たちという、清水邦夫作品特有の観念性を踏まえつつ、彼らと『拘束されることにむしろ安心感を持つ現代人』との間にブリッジをかける作品に仕上げたい」と話す。今回は3人のミュージシャンがアニマルと化し、生演奏でその生態を表現する。俳優とのコラボが楽しみだ。『萩家の三姉妹』やマキノノゾミ作品などで活躍中の女優、南谷朝子を中心に意欲的なプロデュース公演を続けるNANYA-SHIPの連続プロジェクト第一回。

040129 プティ:ガラ/若者と死【DVD】
トゥシューズで蹴られるヌレエフ 
野外ガラ公演と、約18分の傑作『若者と死』の二部構成。『若者と死』は、青年が娘(死神)に翻弄され命を落とすプロットや重力を強調した振付をはじめ、表象されるもの全てが「落ちていく」バレエだ。今回のヌレエフ版はギリギリと力を内側にためるような動きが多用され、小爆発を繰り返すアクロバティックなバリシニコフ版(映画『白夜』に収録)との違いに目を見張る。屋根裏部屋が上空夜景に一転する装置を使用していないので、屋根の彼方へ消え去る若者の最後の「浮遊」が見られずやや残念。音楽は管弦楽編曲のバッハ「パッサカリア」。
*BOOK/DISKに掲載

040315 三月大歌舞伎 夜の部
煩悩を焼き尽くせ! 息を飲むお坊さんの大群舞
お勧めは『達陀(だったん)』。達陀は梵語で「焼く」の意。奈良東大寺二月堂の秘法、火と水の行「修二会」のクライマックスで、達陀の行は燃えた松明を堂内で振り回し行われる。二世松緑はこれを4場の舞踊劇にした。行中の僧集慶(菊五郎)は、己の煩悩のあわせ鏡として現れた青衣の女人(菊之助)の誘惑と切ない訴えに、たまに負けながらも打ち勝つ。圧巻は練行衆による大群舞。グーパンチの両手を突き出し、邪悪を焼き煩悩を切る群舞は不揃いだが、骨まで斬れる肉厚いみだれ刃文の刀のような凄味があり、舞台に舞う春雪は炎の熱に解ける。
*家庭画報国際版ウェブサイトに翻訳転載

040315 Matthew Bourne's Nutcracker! くるみ割り人形
92年初演作品を全面的にリ・クリエイト
曲を物語に読みかえるM.ボーンが最初に手がけた全幕ダンスをリ・クリエイト。くるみ割り人形をもらった孤児院のクララは、夢の中でチクロやサッカリンをふんだんに使ったとおぼしき菓子の国の宴から締め出しをくらい、想いを寄せる相手には裏切られる。明るいが不安材料山積みで、強引な救済をもたらさないラストはボーンの宗教観でもあるのだろうか。映画からの引用は、古典バレエへの旺盛な批評精神に較べてオマージュ捧げっ放し。一人二役で踊られる孤児と菓子の国の住人は性格が一貫しており、DVD特典映像的に微細を楽しむことができる。

040331 四月大歌舞伎 夜の部
おなじみ白浪五人男、巡る因果をひも解こう
2月『三人吉三』と対をなすかのように、またも嬉しい黙阿弥の白浪(盗賊)物、『白浪五人男』を通し上演。弁天小僧や勢揃の名台詞、がんどう返しの大仕掛けに加え、通してこそ観られる因果の紐解き。『三人吉三』は、宿命を知り罪を抱えたまま極寒の中果てる悪党3人と、脇の人々の冬日にも似た善行とのコントラストが鮮やかだった。初役玉三郎のお嬢と共に、お坊吉三で圧倒的な歌舞伎の絵画美を見せつけ、滲む諦観が涙を誘った仁左衛門は今月、義賊と名高い駄右衛門親分に。背景も雪から桜へ。勘九郎の弁天らが快・怪盗ぶりを披露する。

Posted by : 01:15 AM

August 01, 2004

デス電所「ちょっちゅ念」

 関西の舞台芸術全般、関西圏で行われるアートシーンすべてを対象に、批評と支援を行っていこうと設立されたCCC(Culture Critic Clip)サイトは地味ながら堅実な劇評を発表していることで知られています。大阪・伊丹のアイホールで開かれたデス電所「ちょっちゅ念」公演(7月7-11日)を取り上げ、同メンバーの西尾雅さんが「煩悩で織り上げる曼荼羅の救い」という題で劇評を書いています。

Posted by KITAJIMA takashi : 08:37 PM | Comments (0) | Trackback

庭劇団ペニノ 「小さなリンボのレストラン」

――気違いMealパーティーのAbsurd劇―― 庭劇団ペニノ 「小さなリンボのレストラン」

  話題のユーメー劇団、立見の当日券求めて並ぶ行列を尻目にゆうゆうA席に着席するのも悪くないのかも知れないが、面白いから見てみたら?日ごろ信頼するシアター・ゴア-からのミニコミ、地図を片手にやっとのことで劇場を探し当て、さあ、何が展開するかドキドキしながら見ていく気分はこたえられるものではない。いわんやそれが期待以上の舞台においておや!である。 庭劇団ペニノの「小さなリンボのレストラン」はそういう、久しぶりの芝居見の醍醐味であった。

 舞台は骨董店かとみまごうほどごちゃごちゃっとした、汚いレストラン。タイトルにレストランとあるからレストランなのだろうが、カンテラ風のシャンデリア?や鹿の頭の剥製を見れば猟師小屋かも知れないし、出入口の庇に生えてるぺんぺん草?がこっち側に伸び、舞台バナはほんものの土、蕪なんかも植えてあるところをみると、ひょっとしたらここはかつての天野天街、内外逆転の世界みたいだし。そんな奇妙空間にシスターと呼ばれる女と寺山修司の大山デブ子のような女性と山高帽?かぶった紳士の三人が順に現れ、それぞれの食事をまあ済ませるといえば済ませるまで。ウエイトレスが「いらっしゃいませ、これはこれは本日はお日柄も良く、<略>ねえ。心よりお待ちしておりました」「ご予約の○○様でいらっしゃいますでしょう?」と尋ねるたびに、それは男女に否定されるから、ここはゴドー空間。客たちはポッツオー、ラッキーの末裔だったのかも知れない。

  その上彼らの食事はといったら! 背丈ほどもある皿の大山盛りを見る間に平らげ、楽譜メニューをピアノで弾きだす女性。ちっとも出てこない料理に札束を勘定し続けるシスター。豚の角煮を注文しながら最後までありつけない紳士――それはまるで「不思議の国のアリス」の気違いティー・パーティ、おっ!とではない、気違いMealパーティであった。昔、absurb theatreという海のあなたからの言葉が“不条理”劇なんてムズカシー日本語に訳されてしまったので、こういう、何が起こるかわからない、まるでワケ分からん可笑しな芝居をAbsurd劇といえば誤解を招くかも知れない。またこの小さなレストラン、言葉が決して噛み合わない私たちの日常にどこか似通うというには、この小品、あまりにささやか、大げさすぎると反論されるかも知れない。けれども庭劇団ペニノが見据えている(であろう)未来も含めて、私はあえて言いたいと思う。これは私たちの今居るAbsurb世界だった、と。

  もちろん、そう言い切ってしまうには躊躇がないわけではない。たとえば匂いや土や皮むき器の林檎やぶっちゃける赤ワイン、天井からしたたるネバネバなどなど、創り手はおそらく、意味の頭理解ではなく体感として直接伝えようとしたのだろう。が、その企みが、たとえば、よく拵えてはあるもののまるで食感に関わりのない料理たちや、終始目潰しくらわすシャンデリアの光や、何より、せめて意味不明の台詞にでも耳澄ますぐらいしか仕方のない、何にも伝えない俳優たちの体や声などによって、裏切られることが少なくなかったからである。

  作・演出の名はタニノクロウとあった。今言ったことがクロウ氏の目指すものだったかどうか、一度の出会いに断言することはできない。けれども、彼の狙う、何かこれまでの芝居にはない不思議世界が将来、観るものに十全に伝わっていくためには、これから山あり「谷」あり、散々「苦労」するにちがいない――そんな予感とこれからへの快い期待に、いま私の体は、クスクス笑っている。  (西村博子 5/27 所見 「Cut In」第28号=2004年7月号所載)

庭劇団ペニノ
第9回公演 「小さなリンボのレストラン

作・演出:タニノクロウ
公演日:2004.4月29日(木)~5月16日(日)
追加公演 5月20日(木)、21日(金)、27日(木)、28日(金)
場所:はこぶね
料金:前売 ¥1200 /当日 ¥1500

CAST
野平久志
絹田ぶーやん 
島田桃依
瀬口タエコ

STAFF
舞台美術/谷野九郎
照明/谷野九郎
音響/谷野九郎
チラシ画/谷野九郎
制作/小野塚央・野平久志
Web/定岡由子
製作/puzz works

Posted by : 06:24 PM | Comments (0)

劇団態変を見た

今年のタイニイアリス・フェスティバルの概要が明らかになりました。大阪の劇団態変の公演も年末に予定されています。劇団態変は昨年もフェスティバルに参加しましたが、そのときの公演「碧天彷徨」をみて、ダンスや演劇の分野で評論活動を続けている柳澤望さんが、身体障害者のパフォーマンスと舞台芸術の営みについて正面から受け止め、文章をまとめています。タイトルは「劇団態変を見た」。昨年の記事ですが、このテーマを考える貴重な手がかりになると考え、紹介します。

Posted by KITAJIMA takashi : 05:47 AM | Comments (0) | Trackback

こまつ座 『父と暮せば』

劇場はなみだにゆすれ

 1994年の初演から数えて10回目の再演となる『父と暮せば』のこまつ座公演(ロシア公演1回を含む)は、過去の例に漏れず、劇場に笑いと涙の汪溢する舞台であった。紀伊國屋サザンシアターを埋め尽くした客席が流した、その涙の理由はどこにあるのか。そこには何より圧倒的なまでの戯曲の力が存在している。

 作品の主題を云々することはこれまで散々行われてきており、夢幻能の形式を借りた劇構造や「一人二役(二人一役)」の趣向についても作者自身が常々語っていることなので、今更鹿爪らしく愚言を弄することもあるまい。しかし、「戦争を知らない子供たち」のそのまた子供である筆者のような世代から見える「戦争」とは何か。井上ひさしとこまつ座が「昭和」、「戦争」についての演劇をつくりつづけている理由がそこにはあるし、『父と暮せば』の軸に少しは触れることにもつながるのではないか。

 「戦争」、あるいは「原爆」という鍵言葉を柱の一つに置くことは、次世代への啓蒙でも同世代への共感でもない。かつて存在した「昭和」という時間に、「こんなことがあったそうじゃ」と語られる「おはなし」。知らなければならないことがある。聞いてしまった声がある。井上ひさしはそれを話してくれる。ただそれだけのことだが、ここには「物語」の本質がある。「あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを」伝える図書館の司書であり、広島女専では「前の世代が語ってくれた話をあとの世代にそっくりそのまま忠実に伝える」という根本方針を掲げる「昔話研究会」の副会長を務めた美津江。郊外の村々で土地の年寄から仕入れてきた昔話を、今度は自分が子供たちに聞かせようとする。「おはなし会」のリハーサルの場で竹造は、よく知られている話の中に原爆資料をくるみ込むことを思いつく。

 「原爆」を物語に組み込むことは、「被爆者」と「非被爆者」との意識の間に横たわる溝の計り知れない深さ大きさに、ただ呆然とするだけだ。「非被爆者」であること自体がすでに「原爆」を語る資格を持ち得ない。「絵空事」が許されない世界があるのだということを、井上ひさしは資料収集の過程で被爆者の生の叫びとして聞いた。井上が「聖書」とさえ呼ぶ、被爆者たちの「手記」がある。その手記から原爆にまつわる逸話を抜き出し、折り込む。美津江や、その周囲に起こった出来事はすべてが手記からの引用である。話をいじらず、一人の被爆者の女性の人生に託す。劇構造そのものが作者の思想を表現する。しかし、木下さんに「気に入ってもらおう思うて」「話をいじっ」てしまった「ヒロシマの一寸法師」は、美津江の古傷を思い出させ、被爆者にとっての被爆体験を「忘れたい」記憶にしてしまう。竹造の存在が、その行動は実は美津江のものだとしたら……。竹造は美津江自身であるという趣向は、劇中のあらゆる細部に効いてくる。劇中に現れるすべての逸話がそのまま『父と暮せば』の作劇法なのである。

 時間、世代を超えて被爆者を痛め続ける「原爆症」は命の連鎖にまで言及する。恋を諦め、静かに生きて世の中から姿を消そうと思っている美津江。恋の成就はそのまま、つながっていく命を認めることにもなろう。口承による「物語」の伝播も、記憶と命の連鎖そのものであることは言うまでもない。『父と暮せば』という「物語」がいつか観客のそれぞれが語り伝えられる「おはなし」になったら。そんな願いがある。たとえば「一寸法師」のように。

 今公演の収穫は西尾まりではないか。『父と暮せば』は初演キャストのすまけい・梅沢昌代というこまつ座常連コンビによって、すでに一つの「完成形」が提出されてしまっている。幽霊の竹造と、竹造が死んでいるとわかっている美津江。遊びのある軽妙な個性の衝突によってつくりあげられた地点から見ると、果たして以降に以上の出来は期待できないのではないかさえと思わされる。実際その後、前田吟・春風ひとみ、沖恂一郎・斉藤とも子と引き継がれたが、初演を超える評判は聞かない。今回の辻萬長・西尾まりは四代目の竹造・美津江父娘である(1992年のカンパニー・パリ21によるフランス公演での小野地清悦とバルバラ・サルシを勘定に入れれば五代目)。すま・梅沢コンビとはまるで違う方向から攻めた好演であった。激情を、文字通り「必死で」抑え込み、一語一語吐き出すようにして台詞を語る西尾まりの演技は出色であり、「生きること」の困難に耐えながら過ごしてきた美津江の、意識の奥底に沈む記憶を表現して見せた。辻萬長の冗談が冗談にならない、力一杯、真っ直ぐな竹造とあいまって、新しい竹造・美津江像の可能性を示したといえる。(後藤隆基/2004.08.01)

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