11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

ウォーキング・スタッフプロデュース「ハレルヤ」

 ウォーキング・スタッフプロデュース「ハレルヤ」公演のレビューを「No hay banda」サイトが掲載し、「ドラマとソープドラマのあわいを疾走する舞台」と述べています。「しのぶの演劇レビュー」も取り上げています
 ウォーキング・スタッフは、演劇に真っ向から取り組む姿勢が印象に残る劇団でした。「プロデュース」になってもその基本は一貫しているようです。こういう腰の据わったグループの公演レビューを読めるのはうれしいし、頼もしいものです。

Posted by KITAJIMA takashi : 08:39 PM | Comments (0) | Trackback

September 13, 2004

Playing unit 4989「七人のドッペル」

 Playing unit 4989(シクハック)の「七人のドッペル」公演がウッディシアター中目黒で開かれました(9月10日-12日)。
こんな感じ?」サイトは「もぼさん(あえてこう呼ばせていただきます)の脚本作品は、これで3本観ましたが、どれもなかなか楽しく、女性の心理に関してもなかなかの洞察力というか「おおっ!」と思わせてくれる描写があります」と評価。「休むに似たり。」サイトも「自分探しを無理なく語るのです。楽しく肩がこらずに見られる一本」と好感度も高いようです。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:53 PM | Comments (0) | Trackback

September 12, 2004

龍昇企画「続・ああ無情」

 ストアハウスと提携した龍昇企画「続・ああ無情」公演が東京・江古田のストアハウスで開かれました(8月31日-9月5日)。舞台が始まってもライトは灯らず、闇の中で声明や祝詞を彷彿とさせる男たちのうなり声が響き渡る-。家族のきしみと悲鳴を予感させるアイデアに満ちたパフォーマンスでした。
 この公演を共同通信の中井陽さんに報告してもらいました。自分と触れあうリアルな叫びをステージから聞き取ったようです。

◎さらけ出される家族の軋み 自意識の殻を破って描く

 帰宅した「妹」が足を投げ出して座る。仕事も恋愛も何もかもうまくいかない。
 「疲れた…疲れた。なんだかわかんないけど…一生懸命やるのに疲れちゃったんだよ!」―。はじめはつぶやくように。最後は悲鳴のように、「祖父」に訴える。

 それを聞いていて、涙が出た。私は彼女を知っている。その台詞は俳優になる以前、演劇への想いが日に日に大きくなりながら会社勤めを続けた彼女が、実際に経験した感情に違いない。

 「ああ無情」は、役者が台本からすべて作っていくエチュード方式の芝居だ。会社でうまく働くことができない長男と、それぞれ問題を抱えつつ、彼を取り巻く家族の姿を描いた。

 駅前の果物店の上階にある小さな劇場。俳優たちは冒頭、顔をしわくちゃにして笑顔を浮かべ、観客席の前を無言でゆっくり横切る。観客席のすぐ前でライトに照らされてさらけ出される顔、顔、顔。見ている方は落ち着かない気分になる。

 舞台空間にあるのは、二脚の椅子だけ。父と母、長男とその妻、妻と二男、祖父と妹のように二人ずつ観客の前に姿を現し、対話する。家族に君臨しながら社会に居場所を見つけられないでいる長男、色っぽい長男の妻にほんろうされつつ、家族を想う二男。長年連れ添っているのにすれ違う父と母、祖父に当たり散らす妹…。

 演劇の上では、家族の関係を浮かび上がらせるための台詞が、ここでは役者の「素」の心をかいま見せるすき間でもあった。一つ一つが役者が自分をさらけ出した証しだから、おかしさや悲しさも、時に生々しい。

 母親が父親に言う。「あなた、私の目を見てしゃべってよ。あなたは昔からそうだった。出会った頃はなんて奥ゆかしい人なのかしらって思ったけれどずっとそうだったのよ」。父親はそれでも目をそらせてぼそぼそ話し、最後は怒鳴る。「うるさい!」。

 なぜ演じるのか。その問いに、出演者や演出家が背伸びせずに考えた。自分の悲惨な体験を皆の前で話してみる。お互いを本気でけなしあってみる。約三カ月のけいこは演出・企画を手掛けた龍昇氏のもと、まず普段まとっている自意識の殻を少しずつ破っていくところから始めたという。

 年齢も個性もばらばらな俳優たちが、今までの自分の人生の断片をそれぞれ持ち寄って、本物の感情で芝居の台詞を作った。見ていると、日常生活の中で、薄いほこりに覆われて見えなくなったものを再発見できる気がした。
(中井陽)


【構成・演出】龍昇
【CAST】直井おさむ
     米田 亮
     猪股俊明
     吉田重幸
     龍昇
     伊藤弘子(流山児★事務所)
     岩井さやか(流山児★事務所)
     桜井昭子
【会場・日時】江古田ストアハウス
  2004年8月31日(火)/19:30
      9月1日(水)/19:30
      9月2日(木)/15:00・19:30
      9月3日(金)/19:30
      9月4日(土)/15:00・19:30
      9月5日(日)/19:00

Posted by KITAJIMA takashi : 12:25 PM | Comments (0) | Trackback

September 11, 2004

三条会『班女 卒塔婆小町』

タブーにつきあわない三条会  

 男優は皆スキンヘッドである。かぶると道端の石のように周りから気にされなくなるというドラえもんの道具「石ころぼうし」(てんとう虫コミックス4巻)を着用した絵にそっくりだ。三条会の『班女 卒塔婆小町』は、俳優という出たがりの人間が舞台にいて、三島由紀夫の長台詞を喋っているのに彼らの存在を消そうとするという、石ころぼうしを地で行く公演だった。

 舞台上手にエレベーター。下手に地下階段へ通じる穴がある。エレベーターには途中で俳優が乗るものの、実際のところ上下移動はせず、「上手より退場」と同様の使い方をしている。前半の『班女』で花子を演じる榊原毅(大柄で筋張った体躯に、薄桃色のドレスをまとっている。なお役名は「ドレスの男」)が本作品全体の軸となり、後半の『卒塔婆小町』では榊原を含めた5人の俳優が、変則的に役を入れ替えしていく。間に休憩はなく、一つの作品としての繋がりを持たせていた。

 『班女』は役が固定され、最初からいるのに花子と実子に気づかれない吉雄の存在により、「居ながらにしていない俳優」という演出の意図は明快である。吉雄と花子が、実子に会わせろと揉める場面はいじり倒してコントのように、敢えて長い時間を割きながら上演していた。
 初日では『卒塔婆小町』の公園の恋人、舞踏会の客の処理がうまくできておらず、ところどころ舞台上の時間が停滞したのが残念だ。それらが滞ることなく繋がれば、元々の戯曲に流れる時間のリズムを、消える俳優が自在に変えたのではないかと想像できる。
 中頃で榊原がワインの瓶をぶらさげて登場したのは、最後の場面で警官から泥酔の果てに死んだとみなされる詩人と繋がって効果的だった。

 総じて、戯曲に流れる時間のリズムを変えることで「いじれない」といわれる三島の戯曲を操ろうとする面白さがある。その面白さの次に彼らが目指しているものは、俳優が近代能楽集における『班女』及び『卒塔婆小町』の時間の流れの上に乗って演技するのではなく、俳優がそれらの時間を一度身体に入れ、各々の体内リズムによるありとあらゆる再構築の過程を経て、新しい時間の流れそのものを彼らの在・不在によって舞台上に作り出し、老婆の「また100年待つ」という台詞を現代に生きる俳優自身の言葉として語ることだろう。(04.06.10 こまばアゴラ劇場)河内山シモオヌ 
*08.06初出 再掲載

Posted by : 03:47 AM

文学座アトリエの会 『TERRA NOVA』

 文学座のアトリエ公演として、『羊たちの沈黙』でアカデミー賞脚本賞を受賞したテッド・タリーによる戯曲『TERRA NOVA』が、座内の新鋭、高橋正徳の演出で上演されている。外部作家への執筆依頼など、「新劇」という枠内で実験的な試みを展開するアトリエの会だが、今回は劇団内での演出プランコンペで選ばれたという企画。26歳の若手演出家と経験豊富な俳優陣という顔合せが、すでに話題を呼んでいた。

 『TERRA NOVA』は、アムンゼン率いるノルウェー隊とスコット大佐の英国隊が南極点初到達を競った、男たちの物語である。表題はスコット隊が南極に向かった船の名で、「新しい大地」の意。アムンゼンに先を越されたスコットらが極寒の地で遭難、死を迎えるまでが描かれており、極限の状況下での人の誇りと苦悩を問う。

 劇はスコットが日誌に「報告」を記しているところから幕を開ける。劇中の出来事は、すべてスコットが死の間際に出会った意識の奔流であり、その地点からの回顧を含んだ幻想が、たたみかけるように襲いかかる。常に示唆されつづけるのは、二者のうち一方だけが目的達成の名誉を得られる「競争」と、南極探検への参加から生死まで、求心化されるそれぞれの「選択」という問題。二者択一、二進法の現実に、制約のない「夢」がオーロラの光に乗せてあらゆる角度から侵入してくる劇構造は秀作といえるだろう。また、メフィストフェレスのようにスコットのまわりを徘徊するアムンゼンの影は、「紳士を犬の如く」扱ったアムンゼンと、「犬を紳士の如く」扱ったスコットが、実は表裏一体であることを示していた。『TERRA NOVA』とは、果てのない南極と一人の人間を対比させ、「回想記」という形式をとることで、一つの人生における様々な葛藤を描いた物語だったともいえる。

 この芝居を上記のように考えるとき、高橋の演出はスコットに収束すべき約束事を、分散させがちだったように見受けられる。彼の手つきは現代風ながら、恐らく重点を「対話」に置いていたと察せられるあたり、岸田国士らの提唱した「聴かせる芝居」を継承する「文学座らしさ」に好感が持てた。また、作品の選択にも、自ら「新しい大地」を開拓せんとする意欲が感じられる。しかし、全体として冗漫な印象は否めない。俳優の「身の丈」と合わない舞台のサイズもあってか、氷原を表現した純白の舞台は時に白々しい。2時間45分という長い上演時間(いまではそう珍しくもないが)に、リズムの単調が目立てば、演劇的振幅の稀薄という誹りは免れまい。とはいえ、台詞のやりとり、人間関係の構築における瞬間々々の密度は濃く、部分の描写に巧さがある。混在する時・空間の処理に難はありながら、対話によって「演劇」を成立させようという意思とともに、戯曲に対して真摯に真っ直ぐに取り組む姿勢が窺えた。

 戌井市郎、鵜山仁、高瀬久男、松本祐子など、内外で活躍めざましい好演出家を多く抱える文学座にあって、こうした新しい才能の抜擢は好ましいことだ。ここ数年、「新劇」の諸劇団が続々と創立から凡そ半世紀を迎えている。先達の志が果たしてどのように受け継がれてきているのか。伝統が伝統として単に習慣化されてしまってはいないか。歴史に甘んじることなく、「新しい劇」の模索をこそ追求するべきであって、いま、そのひとつの成果が問われている。などと訳知り顔に云わずもがなではあるけれど、新劇界を見渡して、否、日本の劇壇全体が、たしかにある転換期にさしかかっているように思われるのだ。そんな中、高橋は先輩俳優の胸を借りて、経験値不足は拭えないまでも、堂々たる「楷書」の舞台をつくりあげた。今後も、訓練された熟練の俳優が身近にあることの幸運を、存分に生かしてもらいたい。そして、楷書ばかりでなく時には草書も観たい。世にはくずし字ならぬ「崩れ字」や「丸文字」が、果てには「記号」までも横行しているが、正確な楷書が書けなければ、美しさを保ったまま字体をくずすことは叶わぬ。新しさは新しさそのものに価値があるのではない。しかし、一つの方法論を愚直なまでにどこまでも掘り進めることで芋蔓式に多くの収穫を得られるというのは、自明のようで難しい。

 新劇とは、対話によってその山場がつくられる演劇。と云ったのは井上ひさしである。筆者などは、演劇は言葉であり、人の「声」を聴きたいのだなどと安直に考えているから、台詞を語り、対話でぐいぐい劇世界を広げることで成立する新劇には、まだまだ開墾の余地ありと思っている。それに加え、『TERRA NOVA』のように、どこか破綻を伴う筆記法にも工夫を凝らし、「聴かせる」だけでなく、「見せる」芝居づくりが求められる。結果として、今公演では未踏の地平を切り開く可能性を示す極点には到達できなかったが、文学座の文学座たるところを見せたという点で、ひとまず及第といっていいだろう。(後藤隆基/2004.09.09)

Posted by : 01:50 AM | Comments (0) | Trackback
 1  |  2  |  3  | 4 |  5  |  6  | all pages