11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

September 30, 2004

シス・カンパニー「ママがわたしに言ったこと」

 木内みどり(祖母)、渡辺えり子(母)、大竹しのぶ(娘)、富田靖子(孫娘)の4人が登場することで話題を呼んだシス・カンパニーの「ママがわたしに言ったこと」公演が東京・青山円形劇場で開かれています(9月4日-10月3日)。
 シス・カンパニーのWebサイトによると、英国の女性作家シャーロット・キートリーが、25歳だった1985年に書き下ろした作品で、母と娘、3組4世代に渡る女たちが、結婚や仕事、女性ならではの決断の瞬間を、時を超えて語り合う内容。時間と空間を自在に往還する劇構造や、女性だからこそえぐることができる<母と娘>という、女同士の複雑かつ繊細な関係描写が反響を巻き起こし、フランス・ドイツ・デンマークなどヨーロッパや、米国・カナダ、オーストラリア、イスラエルなど世界各国で上演されたそうです。
 CLP(クリティック・ライン・プロジェクト)のタカオカサチコさんは4女優の演技を評価しながらも、「女性作家が女性を描いた舞台ながら、本音の掘り下げが、少々物足りなかった」と述べています。

 「観客の誰もが自分の人生とどこかしら重ね合わせて感情移入して観ることができていたと思います。私も色々思うところあって、考えさせられたり共感したり、どっぷり作品の中に入り込みました」と言うのは、「しのぶの演劇レビュー」ですが、後半の展開で「属人的な事件に焦点をを当ててしまったため、“ある家族のドラマ”という枠内に納まってしまい、普遍性が感じられなくなってしまった」と指摘しています。
 「踊る芝居好きのダメ人間日記」は「キャスティングの豪華さ、的確さももちろんのことですが、演出家にスズカツ(鈴木勝秀)さんを迎えることが、プラスに働いたのではないかと思われます」と述べています。
 女優陣はそれぞれ持ち味を出していたようです。「藤田一樹の観劇レポート」は「4人ともオーラを発していて存在感があるので、凄いなぁと思いながら観ていました」と率直な感動を語っています。

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September 29, 2004

デフ・ウェスト・シアター「ミュージカル ビッグ・リバー」

 ホリプロ・テレビ朝日・朝日新聞社・TOKYO FM共催のデフ・ウェスト・シアター「ミュージカル ビッグ・リバー」公演(9月28日-10月24日)が東京・青山劇場で開かれています。
 「しのぶの演劇レビュー」が早速取り上げました。
 マーク・トウェイン原作の「ハックルベリー・フィンの冒険」をもとにしたミュージカルで、舞台版オリジナルは1985年に発表され、トニー賞を受賞した作品。「デフ・ウェスト・シアターの「デフ」は英語でdeaf、つまり聾者(ろうしゃ)。…聾者の俳優さんは声を出さずにアメリカ式手話(American Sign Language)で語り、聴者(耳の聞こえる健常者)の俳優さんが聾者の俳優さんの裏、または横でセリフをしゃべったり歌ったりします」「大人数でそろって手話をするのはとてもきれいでした。アメリカ式手話がいわばダンスの振付になっている」舞台だそうです。「興奮冷めやらぬ初日の夜が明けて、メルマガ号外(2004/09/29)を出しました!」と報告しています。

 米国に住みながらこの公演の応援サイトを立ち上げた「Neverland Musical Community」サイトの「クワスト」さんが米国の公演を見て、詳細なレビューを載せています。

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青年劇場 『夜の笑い』

「再演」の意味を問う

 青年劇場創立40周年と飯沢匡没後10周年を記念して、紀伊國屋サザンシアターで『夜の笑い』が上演された。前世紀の忠義や「御国のため」という絶対的な標語の下に否定される命の価値を批判的に再現してみせたものの、結局のところ、戯曲の力に大いに助けられた公演だった。

 「授業中に餡パンくったら死刑!?」という惹句に内容はほぼ集約されるだろう。島尾敏雄の小説『接触』を原作に飯沢匡が筆を振った快作で、かつてあった一時代の現実を不条理劇に見立て、変わらぬ国の論理の危うさに言及する。『夜の笑い』は「ブラック・ユーモア」に通ずる。そうして描かれた歪んだ世界のおもしろさに対し、要所要所で演出の不徹底が目についた。

 たとえば「死」を前にした子供らの明るさ。校則を破ったのだから、士族の名に恥じぬよう自決を潔しとする志。しかし彼らは「死」が一体どういうものかを理解しておらず、単純な名誉と忠義心によって支えられている。明け方、一番鶏とともに死が眼前に迫る。生徒はその恐ろしさを知る。単に天晴れ軍人の型を演じせしめなかったところに飯沢の望みがある。そこに「御国のため」という物語を背負って死すら厭わなかった若き特攻の「侍」たちの姿を連想し、また若者の純心を利用せし学徒出陣の罪を問うことは容易いけれど、根底を流れるのは「笑いは武器になる」という精神である。終始無邪気に教師と相対し、自決までの時間を子供らしく演じなければならない。それがあって、いよいよとなった際の「おら急に死ぬっとん恐ろしゅうなってきたばい」が生きるのだ。にもかかわらず、五人いる生徒の人物造詣が真面目一辺倒で画一的だったためか、少年の心境の変化が舞台に立ち現れなかった。また、死を命じられた生徒の一人、細川の嫁、いよが夫を助けるべく学校に乗り込んでくるわけだけれど、その無学な娘が学校制度の曖昧な論理を、極めて「論理的」に看破していく様の滑稽味が物足りない。全体に芝居がかった台詞回しと声の強さで押しきった印象は拭えないし、リアリズムを貫いた生真面目さが、肝心の「笑い」を抑える皮肉に陥ってしまった。

 紀伊國屋演劇賞をはじめ多くの賞を浚った初演は1978年、四半世紀前である。1987年の再演を経、今回再再演となる。初演、再演ともに指揮棒を執った飯沢匡はすでになく、劇団の古株、松波喬介がコンダクターとなった。劇団の代表作とも云える作品だけれど、今回は単に記念碑的上演でしかなかった。戯曲は秀作、しかし舞台は戯曲紹介の場ではないし、追悼の気持と追従とはまるで違う。過去の好評と戯曲の出来にのみ寄りかかった「再演」は、決して新しい舞台の魅力を伝えはしない。再演に足る作品を持つことは劇団にとって本当に心強かろう。けれども、二度三度と上演しつづけるならばそのときどきの工夫があってしかるべき。もしも今回の「正攻法」だけがそうだというならば、あまりに単純すぎる。どんなにすばらしい戯曲でも却ってその面白みを損なってしまうのでは悲しすぎる。出来のいい戯曲を使い回すのが再演ではないという、周知ではあれどこの一事にもう一度思いをめぐらしてもよいのではと思うのだ。(後藤隆基/2004.9.28)

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September 28, 2004

地人会「夜からの声」

 地人会第95回公演「夜からの声」(作:山田太一 演出:木村光一)を「No hay banda」サイトが取り上げました(新宿・紀伊国屋ホール、9月21日-10月2日)。「おどろおどろしい山田太一ワールドが炸裂か、と予想して出掛けたのですが、笑いもふんだんに盛り込んだ『安心して見られる』芝居」と報告しています。

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September 25, 2004

三田村組「イヌよさらば」

 「No hay banda」サイトが三田村組第8回公演「イヌよさらば」(9月22日-27日、中野ザ・ポケット)を取り上げています。「よくできた舞台です。まず作品の雰囲気を感じるのが美術。座敷の中央に座卓、上手奥には積み上げられた座布団と折り畳み式横長テーブル、下手手前にテレビと将棋盤、奥に違い棚、正面奥は廊下の向こうに夜の庭が広がり、落ち着いた日本家屋の味わいが得られます。そして音響。かすかな虫の音、さらには雨音と、美術とあいまって日本的感興を高めます。そこで濃い男の世界が演じられるのです」。お目当ての松金よね子らベテラン俳優が締めているので、きっと落ち着いた舞台だったのではないでしょうか。

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September 24, 2004

トリのマーク「花と庭の記憶-向島-その3」

 「中西理の大阪日記」サイトが、トリのマーク「花と庭の記憶-向島-その3 ワニシキは花を、プシュカルは山を」公演を取り上げていました。この劇団は名前がトリの絵。発音しようがないので通称「トリのマーク」と呼んでいる不思議な劇団です。方法論もおもしろい。まず気に入った場所を見つけ「場所に合わせて、作品を書き下ろし、上演する」のだ。選ばれるのは美術館やギャラリー、歴史のある建物、そして野外などさまざまですが、今回白羽の矢を立てたのは、由緒ある向島百花園でした。
 「緑に囲まれた回廊のような空間(中庭)で芝居ははじまるのだが、そこには観客のための椅子が置かれているだけで、それ以外に持ち込まれた舞台装置も照明音響機材もいっさいなし。これが普通の演劇公演とは大きく異なるトリのマークの野外劇の特異なところでもある」。興味津々ですね。

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September 23, 2004

東京コンペ#1 ダンスバザール大賞

 「東京コンペ・ダンスバザール大賞ダンス&パフォーマンス部門」の最終公開審査が9月20日、東京・丸ビルで開かれました。主催者のWebサイトによると、「東京コンペ(TOKYO COMPETITION)は、21世紀の都市・街区をアート化し、祝祭化する、新しいアート価値を生み出す、ニューヴァリューアーティストの発掘と支援を目的とする」そうです。
 第1回の今年は、大賞が岡本真理子「まばたきくぐり」に決まりました。残念ながら会場に行けなかったので詳細は分かりませんが、さまざまな意見、批判がネット上に載っています。
 「デイリー・サクラー」サイトは「問題は2つある。一つは、いろんなジャンルからノミネートされるとして、その個々のレベルはある程度揃えるべきではないか。また、審査は個々のジャンルの表現としてのクオリティで評価すべきではないか」と作品の審査基準、さらにはその内容、審査員の選考にも言及しています。
 「中西理の大阪日記」は各参加者のパフォーマンスを丁寧に紹介した上で「優秀賞にストリートダンス系のはむつんサーブ 『アニメーションスタイルダンス』を選んだことなどはこのコンペをトヨタや横浜と差別化しようという政治的な判断を感じられて、審査員の人選も含めて今後続けるとすれば課題が感じられる」と述べています。

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September 22, 2004

女体道場「芝浦食肉センター」

 いつもお世話になっている「休むに似たり。」サイトが、新宿タイニイアリスで開かれた女体道場「芝浦食肉センター」公演(9月17日-20日)のレビューを掲載しています。冒頭の一行は「劇団名も役者名もふざけたような印象なのですが、今作、実に傑作だと思います」とズバリ。ちゃーんと見ているのですね。劇団のメンバーにインタビューした経緯もあって、これまで目立たなかった劇団の公演を取り上げていただくのはうれしい限りです。

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September 21, 2004

ジンジャントロプスボイセイ「かもめ」

 「しのぶの演劇レビュー」は「短い時間内にきっちり本筋が描かれているのはすごい」と評価。「あぁ・・・つくづくこの作品は野外でぜひ観たいと思いました。(中略)全く違う味わいだったことと思います」と述べています。
 「白鳥のめがね」サイトは「戯曲の一側面を強調して照らし出しているという意味では、戯曲の再現的上演ではなく、解釈そのものの提示である」と述べた上で、「感傷性から遠い場所で、残酷さを強調して演出したという面では、三浦基演出の『三人姉妹』も連想した。こちらは11月に再演されるようなのでぜひ見比べてほしい」と付け加えています。

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September 20, 2004

演劇計画2004+青年団リンク・地点『じゃぐちをひねればみずはでる』

 演劇計画2004+青年団リンク・地点『じゃぐちをひねればみずはでる』は既に本サイトの松本和也氏の評が掲載されていますが、ネット上でいくつかレビューが公開されています。
 「ワニ狩り連絡帳」サイトは「テキストと身体と声、そして共有される記憶。それぞれをカットアップし、サンプリングして構成された、音楽ではない21世紀のオペラ。踊りではない21世紀のダンス。そして今日の演劇」と総括しています。しかし別の意見も。「某日観劇録」サイトは「結局なんのことだかさっぱりわかりませんでした」とさじを投げています。

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September 18, 2004

野田秀樹「赤鬼」

  CLP(クリティック・ライン・プロジェクト)が野田秀樹の「赤鬼」特集ページを作りました。演劇評論家の長谷部浩さんのレビューを中心に「 2003年ロンドンで上演された「RED DEMON」にはじまり、2004年東京で連続上演されたロンドン版、タイ版、日本版の「赤鬼」の軌跡を追っていきます」とあります。


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September 17, 2004

reset-N 『reset-Nの火星年代記』

 横浜STスポットの主催する「劇場武装都市宣言 スパーキング21 vol.15」特別企画公演の先頭を切ったreset-Nによる『reset-Nの火星年代記』は、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』(小笠原豊樹訳)の「戯曲化」をめざした作品である。外題に「reset-Nの」と表記される以上は「原作」への戦術が期待されたが、小説自身の強い問題意識と豊かな詩情に比べて、新たな発見なり批評なりが付加されることなく、些か低調な印象が残る仕上がりだった。とはいえ、私たちが生きる世界での「時間」とは何かという問題に対する、ひとつの見解を示していたように思われる。 

 1999年、アンゴルモアの大王はやって来なかったし、2003年、アトムは生れなかった。奇しくも『鉄腕アトム』と時代を近くして書かれた『火星年代記』は一言で言えば、地球人が火星に浸食することで、火星人が滅びていくという話。数多存在する他の「SF・近未来もの」と同様、予測され、夢想された「未来」を描いている。今日から眺めれば、『火星年代記』の地球及び火星とは生れなかった赤子であり、或る地点から枝分かれしたもう一つの現在でもある。舞台化の過程で多くの「時間」が切り落とされてはいたが、絶対的な「2004年9月16日」という標準時に立っていることは、外された「もう一つの2004年」にも明らかである。物語時間の翌2005年、つまり「来年」、全世界を巻き込んだ核戦争が勃発する。2004年という現在時間を、状況が転換する境界として捉えた。1946年の「過去から見た未来」と「実際の現在」との間に焦点化される時差を一つの契機として、「現在形の未来」とでも云うべき舞台空間をつくろうという試みだった。
 そうした「現在」の感覚を象徴的に訴えるのが、舞台として設定された、現代の、恐らくリゾ-トホテルの一角にあるようなプールサイドである。「場」が提示する「現在」は二つの異なる次元に属する「21世紀」を同一の時間系列につなぐ。

 劇場には開幕前から陽気なレゲエなどの音楽がかかり、薄暗い煉瓦造りの場内も相まって、都心のクラブの如き空気も醸し出していた。すでに舞台に現れていた水着の俳優陣が日光浴や読書、歓談に興じる様は恰も「南国のリゾートホテル」とでもいった風情であり、「現在」の世界(日本)を思わせるに十分である。客席をプールに見立てる趣向は、「水」を契約とした異界への窓ともなる(幕切れの、火星人が運河越しにこちらを見ているという描写にも生きる)けれど、水中の観客から見上げるプールサイドの優雅な光景は、地球から見た火星への憧憬と見ることも可能だ。しかし、非日常空間としての火星=プールサイドという描き方は、たとえ彼らがどんなにそこを「楽園」と呼ぶとしても、「理想土地」は人の手で濁せられ「リゾート地」と化すという自明の主張でしかなかった。

 それらの題目が「演劇」に変換される際、火星に関わるような舞台装置は一切用いられず、台詞(というよりテキストそのもの)によって支えられる舞台は、地の文と台詞部分を役割分担した一種の「朗読劇」だった。ぶつ切りに、殆ど小説を順序立てて追っていく。ただ並列されるそれぞれの状況が、編年体で淡々と叙述されていく。その意味で、火星の「年代記」であること以上の付加価値は見いだせなかった。地球環境、世界情勢への警告もごもっともだし、当然作品の主題の大部分を占めるのだけれど、山場の殆どに「お説教」めいたモノローグがお約束のように配置されるだけでは、行き着く先は何のことはない、レイ・ブラッドベリの「言葉」を借りた「環境保護宣言」としてしか成立しないのではないか。夏井は宣伝文に「レイ・ブラッドベリが書いた『火星年代記』の美しさは何でしょうか。壮大な物語に秘められた深い内省を舞台に乗せたい」と書いていた。たしかに音楽や照明、構成に或る静謐さは感じられたものの、美しい何ものかは感じることができなかったことも事実である。

 総じて、原作を忠実に構成しながら、「火星」という星の美しさにまで届かなかった難はあったし、火星人の「想像」「暗示」「催眠」といった能力への言及欠如も悔やまれる。それらは殆ど「演劇」に対する問題提起でもあったのに。また、舞台上での時間の操作にもう少し気を配ってもいい。挿話の長短はあれ、同じパルスでの2時間は、流石に飽いてしまう観客もいるだろう。あれだけの音響、音楽への配慮があり、かつ人気も世評も決して低くない劇団なのだから(実際、場内はほぼ満員だった)、さらなる「演劇」としての「想像力」が求められる。それこそ、「火星人」を手本として、である。

 蛇足ながら、開幕前の光景は、男優と女優(男と女)の違いをあからさまに示す興味深い一場面であった。男女ともにプールサイドで過ごす「普通」の状態を「演じ」ているわけだが、如何に男が「見られる」ことに不器用かがよくわかる。水着という無防備な状況だったにしろ、男とは主体的に場にあろうとする。「見せる」という「過剰」な意識以て演技を成立させる。一方、女は自らを客体化でき、「そこにいる」という状態に軽々と移行できる。日常生活の中で常に「被視」意識を持続して保ち得る女性が、板の上でのこうしたたたずまいを身につけていることは、「演技」と「生活」というものが不可分であることの一つの証明ではないかとさえ思えるのだ。

 ともあれ、一夜の舞台に現れた火星人たちを思い返し、原作を読み返してみることで、改めてreset-N のめざした「美しいもの」が見えるかも知れない。(後藤隆基/2004.09.16)

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September 15, 2004

第14回ガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル

 第14回ガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル公開二次審査会が9月5日、天王洲アイルのスフィアメックスで開かれました。1次審査で選ばれた9団体が10分間のプレゼンテーションでアピールした結果、中学生の思春期をメルヘン風に表現した「野鳩」、音楽やサウンドを使ったコント集団「ラ・サプリメント・ビバ」、のぞき窓形式の芝居小屋を始めている「マダムゴールドデュオ」の3団体が選ばれ、来年2-3月に開かれるフェスティバルで公演できることになりました。
 「X-ray」サイトのkumaさんが、この審査経過を詳細にリポートしています。個々のグループや劇団の評価、さらに審査員のとんちんかんなコメントへの鋭い突っ込みなど、確かな鑑賞眼を示しています。

 このフェスティバルは「これからの演劇界を担う表現者を発掘し、表現の場を提供するとともに、演劇における新しい表現の可能性を 探る実験の場を提供」するのが目的で、「既存の演劇フェスティバルとは一線を画し、公募制というシステムをとることで、誰にでも公平にチャンスが与えられてい」るそうです。過去に選ばれた劇団やグループには、「珍しいキノコ舞踊団」「reset-N」「ポかリン記憶舎」「ニブロール」「チェルフィッチュ」などなど有名どころがそろっています。
 というわけで、ぼくも丸1日付き合いました。「野鳩」は審査員の満票をとるだけあって、関西や九州の方言を取り入れ、思春期をあっさり薄味で調理した奥行きのある芸風が決まっていて、頭一つ抜けていました。慶応義塾演劇研究会から独立した「とくお組」も才能を感じさせるグループでしたが、アイデア勝負の「マダムゴールドデュオ」にあぶらげをさらわれた感じです。それぞれの公演が楽しみです。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)
 

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スタジオライフ「ドリアン・グレイの肖像」

 スタジオライフ「ドリアン・グレイの肖像」の東京公演が紀伊國屋サザンシアターで開かれました(9月1日-15日)。「しのぶの演劇レビュー」は「今回は、萩尾望都連鎖公演『トーマの心臓』&『訪問者』@シアターサンモール以来の感動かも!! やっぱり耽美派文学が似合いますよね、スタジオ・ライフ! けっこう泣いちゃいました」と褒めています。 「おかめの客席日記」サイトは「舞台上にはドリアンが魂と引換えにしてまで手に入れた若さ、美、快楽の魅力がほとんど描かれないので、彼がなんのためにひたすら苦悩し続けているのかわからず気の毒な人に見えた」などと指摘しながらも「しかし、ドリアンが鏡をのぞき込むときのナルシスティックな動きや、男たちにしなだれかかるときに見せる痛々しい微笑み、女優シヴィルの華のある可憐さなどを楽しんでいるうちに、なんとなく引っ張られて最後まで見た。この芝居はストーリーよりもそうした人物のキャラクターで見せていくものなのかもしれない」と締めています。

 先日インタビューした松本淳一さん(劇団猿男女代表)はスタジオライフ出身。在籍当時の話もおもしろく聞けました。(アリスインタビュー2004「混乱の極みの先に突き抜けたい 全体で一つのものを作る魅力」)

StudioLife のWebサイトによると、配役などは次の通り。

◇「ドリアン・グレイの肖像」
原作/オスカー・ワイルド 脚本・演出/倉田 淳
東京公演/2004年9月1日(水)~15日(水) 紀伊國屋サザンシアター
大阪公演/2004年9月18日(土)~20日(月・祝) シアター・ドラマシティ

◇CAST
ドリアン・グレイ .......... 高根研一 山本芳樹
ヘンリー・ウォットン卿... 笠原浩夫 楢原秀佳
バジル・ホールワー... 岩崎大 山崎康一
シヴィル・ヴェイン...... 林 勇輔 及川 健
ハーリー公爵夫人/他. 深山洋貴
エイドリアン................ 佐野考治 篠田仁志
トマス卿/他................. 寺岡 哲
ジェイムス.................. 奥田 努 小野健太郎
アガサ伯母/他........... 牧島進一
ヴィクトリア................ 篠田仁志 佐野考治
ロミオ/他.................... 下井顕太郎
マキューシオ .............大沼亮吉 荒木健太郎
ヴェイン夫人.............. 石飛幸治
ブランドン夫人/他...... 藤原啓児
ヴィクトール............... 河内喜一朗

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September 14, 2004

天然ロボット homme plus 「翅蠱綺譚」

 天然ロボット homme plus 「翅蠱綺譚」公演は先に取り上げましたが、X-ray サイトのkuma さんがさらに詳細なレビューを掲載しています。「阿片で朦朧とした新吉が見たという蚕蛾の交尾は、夢か、現か。その交錯の加減ひとつで、大正浪漫溢るる叙情詩とも、耽美を気取った際物とも、映る作品」と物語を集約しています。オカイコ様の妖しい特徴がリアルに表現されています。耽美系には必読かもしれません。

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ウォーキング・スタッフプロデュース「ハレルヤ」

 ウォーキング・スタッフプロデュース「ハレルヤ」公演のレビューを「No hay banda」サイトが掲載し、「ドラマとソープドラマのあわいを疾走する舞台」と述べています。「しのぶの演劇レビュー」も取り上げています
 ウォーキング・スタッフは、演劇に真っ向から取り組む姿勢が印象に残る劇団でした。「プロデュース」になってもその基本は一貫しているようです。こういう腰の据わったグループの公演レビューを読めるのはうれしいし、頼もしいものです。

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September 13, 2004

Playing unit 4989「七人のドッペル」

 Playing unit 4989(シクハック)の「七人のドッペル」公演がウッディシアター中目黒で開かれました(9月10日-12日)。
こんな感じ?」サイトは「もぼさん(あえてこう呼ばせていただきます)の脚本作品は、これで3本観ましたが、どれもなかなか楽しく、女性の心理に関してもなかなかの洞察力というか「おおっ!」と思わせてくれる描写があります」と評価。「休むに似たり。」サイトも「自分探しを無理なく語るのです。楽しく肩がこらずに見られる一本」と好感度も高いようです。

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September 12, 2004

龍昇企画「続・ああ無情」

 ストアハウスと提携した龍昇企画「続・ああ無情」公演が東京・江古田のストアハウスで開かれました(8月31日-9月5日)。舞台が始まってもライトは灯らず、闇の中で声明や祝詞を彷彿とさせる男たちのうなり声が響き渡る-。家族のきしみと悲鳴を予感させるアイデアに満ちたパフォーマンスでした。
 この公演を共同通信の中井陽さんに報告してもらいました。自分と触れあうリアルな叫びをステージから聞き取ったようです。

◎さらけ出される家族の軋み 自意識の殻を破って描く

 帰宅した「妹」が足を投げ出して座る。仕事も恋愛も何もかもうまくいかない。
 「疲れた…疲れた。なんだかわかんないけど…一生懸命やるのに疲れちゃったんだよ!」―。はじめはつぶやくように。最後は悲鳴のように、「祖父」に訴える。

 それを聞いていて、涙が出た。私は彼女を知っている。その台詞は俳優になる以前、演劇への想いが日に日に大きくなりながら会社勤めを続けた彼女が、実際に経験した感情に違いない。

 「ああ無情」は、役者が台本からすべて作っていくエチュード方式の芝居だ。会社でうまく働くことができない長男と、それぞれ問題を抱えつつ、彼を取り巻く家族の姿を描いた。

 駅前の果物店の上階にある小さな劇場。俳優たちは冒頭、顔をしわくちゃにして笑顔を浮かべ、観客席の前を無言でゆっくり横切る。観客席のすぐ前でライトに照らされてさらけ出される顔、顔、顔。見ている方は落ち着かない気分になる。

 舞台空間にあるのは、二脚の椅子だけ。父と母、長男とその妻、妻と二男、祖父と妹のように二人ずつ観客の前に姿を現し、対話する。家族に君臨しながら社会に居場所を見つけられないでいる長男、色っぽい長男の妻にほんろうされつつ、家族を想う二男。長年連れ添っているのにすれ違う父と母、祖父に当たり散らす妹…。

 演劇の上では、家族の関係を浮かび上がらせるための台詞が、ここでは役者の「素」の心をかいま見せるすき間でもあった。一つ一つが役者が自分をさらけ出した証しだから、おかしさや悲しさも、時に生々しい。

 母親が父親に言う。「あなた、私の目を見てしゃべってよ。あなたは昔からそうだった。出会った頃はなんて奥ゆかしい人なのかしらって思ったけれどずっとそうだったのよ」。父親はそれでも目をそらせてぼそぼそ話し、最後は怒鳴る。「うるさい!」。

 なぜ演じるのか。その問いに、出演者や演出家が背伸びせずに考えた。自分の悲惨な体験を皆の前で話してみる。お互いを本気でけなしあってみる。約三カ月のけいこは演出・企画を手掛けた龍昇氏のもと、まず普段まとっている自意識の殻を少しずつ破っていくところから始めたという。

 年齢も個性もばらばらな俳優たちが、今までの自分の人生の断片をそれぞれ持ち寄って、本物の感情で芝居の台詞を作った。見ていると、日常生活の中で、薄いほこりに覆われて見えなくなったものを再発見できる気がした。
(中井陽)


【構成・演出】龍昇
【CAST】直井おさむ
     米田 亮
     猪股俊明
     吉田重幸
     龍昇
     伊藤弘子(流山児★事務所)
     岩井さやか(流山児★事務所)
     桜井昭子
【会場・日時】江古田ストアハウス
  2004年8月31日(火)/19:30
      9月1日(水)/19:30
      9月2日(木)/15:00・19:30
      9月3日(金)/19:30
      9月4日(土)/15:00・19:30
      9月5日(日)/19:00

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September 11, 2004

三条会『班女 卒塔婆小町』

タブーにつきあわない三条会  

 男優は皆スキンヘッドである。かぶると道端の石のように周りから気にされなくなるというドラえもんの道具「石ころぼうし」(てんとう虫コミックス4巻)を着用した絵にそっくりだ。三条会の『班女 卒塔婆小町』は、俳優という出たがりの人間が舞台にいて、三島由紀夫の長台詞を喋っているのに彼らの存在を消そうとするという、石ころぼうしを地で行く公演だった。

 舞台上手にエレベーター。下手に地下階段へ通じる穴がある。エレベーターには途中で俳優が乗るものの、実際のところ上下移動はせず、「上手より退場」と同様の使い方をしている。前半の『班女』で花子を演じる榊原毅(大柄で筋張った体躯に、薄桃色のドレスをまとっている。なお役名は「ドレスの男」)が本作品全体の軸となり、後半の『卒塔婆小町』では榊原を含めた5人の俳優が、変則的に役を入れ替えしていく。間に休憩はなく、一つの作品としての繋がりを持たせていた。

 『班女』は役が固定され、最初からいるのに花子と実子に気づかれない吉雄の存在により、「居ながらにしていない俳優」という演出の意図は明快である。吉雄と花子が、実子に会わせろと揉める場面はいじり倒してコントのように、敢えて長い時間を割きながら上演していた。
 初日では『卒塔婆小町』の公園の恋人、舞踏会の客の処理がうまくできておらず、ところどころ舞台上の時間が停滞したのが残念だ。それらが滞ることなく繋がれば、元々の戯曲に流れる時間のリズムを、消える俳優が自在に変えたのではないかと想像できる。
 中頃で榊原がワインの瓶をぶらさげて登場したのは、最後の場面で警官から泥酔の果てに死んだとみなされる詩人と繋がって効果的だった。

 総じて、戯曲に流れる時間のリズムを変えることで「いじれない」といわれる三島の戯曲を操ろうとする面白さがある。その面白さの次に彼らが目指しているものは、俳優が近代能楽集における『班女』及び『卒塔婆小町』の時間の流れの上に乗って演技するのではなく、俳優がそれらの時間を一度身体に入れ、各々の体内リズムによるありとあらゆる再構築の過程を経て、新しい時間の流れそのものを彼らの在・不在によって舞台上に作り出し、老婆の「また100年待つ」という台詞を現代に生きる俳優自身の言葉として語ることだろう。(04.06.10 こまばアゴラ劇場)河内山シモオヌ 
*08.06初出 再掲載

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文学座アトリエの会 『TERRA NOVA』

 文学座のアトリエ公演として、『羊たちの沈黙』でアカデミー賞脚本賞を受賞したテッド・タリーによる戯曲『TERRA NOVA』が、座内の新鋭、高橋正徳の演出で上演されている。外部作家への執筆依頼など、「新劇」という枠内で実験的な試みを展開するアトリエの会だが、今回は劇団内での演出プランコンペで選ばれたという企画。26歳の若手演出家と経験豊富な俳優陣という顔合せが、すでに話題を呼んでいた。

 『TERRA NOVA』は、アムンゼン率いるノルウェー隊とスコット大佐の英国隊が南極点初到達を競った、男たちの物語である。表題はスコット隊が南極に向かった船の名で、「新しい大地」の意。アムンゼンに先を越されたスコットらが極寒の地で遭難、死を迎えるまでが描かれており、極限の状況下での人の誇りと苦悩を問う。

 劇はスコットが日誌に「報告」を記しているところから幕を開ける。劇中の出来事は、すべてスコットが死の間際に出会った意識の奔流であり、その地点からの回顧を含んだ幻想が、たたみかけるように襲いかかる。常に示唆されつづけるのは、二者のうち一方だけが目的達成の名誉を得られる「競争」と、南極探検への参加から生死まで、求心化されるそれぞれの「選択」という問題。二者択一、二進法の現実に、制約のない「夢」がオーロラの光に乗せてあらゆる角度から侵入してくる劇構造は秀作といえるだろう。また、メフィストフェレスのようにスコットのまわりを徘徊するアムンゼンの影は、「紳士を犬の如く」扱ったアムンゼンと、「犬を紳士の如く」扱ったスコットが、実は表裏一体であることを示していた。『TERRA NOVA』とは、果てのない南極と一人の人間を対比させ、「回想記」という形式をとることで、一つの人生における様々な葛藤を描いた物語だったともいえる。

 この芝居を上記のように考えるとき、高橋の演出はスコットに収束すべき約束事を、分散させがちだったように見受けられる。彼の手つきは現代風ながら、恐らく重点を「対話」に置いていたと察せられるあたり、岸田国士らの提唱した「聴かせる芝居」を継承する「文学座らしさ」に好感が持てた。また、作品の選択にも、自ら「新しい大地」を開拓せんとする意欲が感じられる。しかし、全体として冗漫な印象は否めない。俳優の「身の丈」と合わない舞台のサイズもあってか、氷原を表現した純白の舞台は時に白々しい。2時間45分という長い上演時間(いまではそう珍しくもないが)に、リズムの単調が目立てば、演劇的振幅の稀薄という誹りは免れまい。とはいえ、台詞のやりとり、人間関係の構築における瞬間々々の密度は濃く、部分の描写に巧さがある。混在する時・空間の処理に難はありながら、対話によって「演劇」を成立させようという意思とともに、戯曲に対して真摯に真っ直ぐに取り組む姿勢が窺えた。

 戌井市郎、鵜山仁、高瀬久男、松本祐子など、内外で活躍めざましい好演出家を多く抱える文学座にあって、こうした新しい才能の抜擢は好ましいことだ。ここ数年、「新劇」の諸劇団が続々と創立から凡そ半世紀を迎えている。先達の志が果たしてどのように受け継がれてきているのか。伝統が伝統として単に習慣化されてしまってはいないか。歴史に甘んじることなく、「新しい劇」の模索をこそ追求するべきであって、いま、そのひとつの成果が問われている。などと訳知り顔に云わずもがなではあるけれど、新劇界を見渡して、否、日本の劇壇全体が、たしかにある転換期にさしかかっているように思われるのだ。そんな中、高橋は先輩俳優の胸を借りて、経験値不足は拭えないまでも、堂々たる「楷書」の舞台をつくりあげた。今後も、訓練された熟練の俳優が身近にあることの幸運を、存分に生かしてもらいたい。そして、楷書ばかりでなく時には草書も観たい。世にはくずし字ならぬ「崩れ字」や「丸文字」が、果てには「記号」までも横行しているが、正確な楷書が書けなければ、美しさを保ったまま字体をくずすことは叶わぬ。新しさは新しさそのものに価値があるのではない。しかし、一つの方法論を愚直なまでにどこまでも掘り進めることで芋蔓式に多くの収穫を得られるというのは、自明のようで難しい。

 新劇とは、対話によってその山場がつくられる演劇。と云ったのは井上ひさしである。筆者などは、演劇は言葉であり、人の「声」を聴きたいのだなどと安直に考えているから、台詞を語り、対話でぐいぐい劇世界を広げることで成立する新劇には、まだまだ開墾の余地ありと思っている。それに加え、『TERRA NOVA』のように、どこか破綻を伴う筆記法にも工夫を凝らし、「聴かせる」だけでなく、「見せる」芝居づくりが求められる。結果として、今公演では未踏の地平を切り開く可能性を示す極点には到達できなかったが、文学座の文学座たるところを見せたという点で、ひとまず及第といっていいだろう。(後藤隆基/2004.09.09)

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September 10, 2004

サッカリンサーカス「女番長メス猫ブルース」

 サッカリンサーカスの 「女番長メス猫ブルース」公演が新宿のサンモールスタジオで開かれました(9月7日-13日)。精力的に都内の舞台を見ている「休むに似たり。」サイトがこの公演を取り上げています。「話は破綻しまくりというよりハナから放棄している気がします。(中略)話はともかくそれぞれキャラクタが生きてて見てて楽しいのです。とはいえ、じゃあ彼らは何がしたかったのかなあ、と思ったりもしますが」という感想が的を射ているのではないでしょうか。

 初日7日、雨の中を出かけて、ぼくも見てきました。
 Webサイトによると、作・演出の伊地知ナナコさんは早稲田大学大学院文学研究科方言学教室修士課程中退、第六回沖縄市戯曲賞大賞受賞、第二回日本演出者協会若手優秀賞受賞。その上、紀伊國屋書店のサイトですてきなエッセーも書いているので期待していました。しかし見事返し技(肩すかし)で場外に投げ飛ばされたような感じです。
 舞台は新宿と立川のスケ番たちが縄張り争いを繰り広げるというお話です。でも、頼りない女性数人で新宿のシマを仕切るなんて…。大沢在昌の「新宿鮫」シリーズをお読みになっているのか心配になりました。有名女子校の生徒が「裏番長」を張るという設定も「セーラー服と機関銃」を誤読したとしか思えません。「さあ、カツアゲに行くか」という女の子たちが「新宿にユートピアを作るんだ」と言ってもチグハグですよね。
 リアルであるかどうかよりも、リアルを知らないままファンタジーを紡いでいるような気がします。ミュージカルっぽいステージにしても、ウエストサイド物語が念頭にあったのかもしれませんが、歌や踊りで楽しませるところまでいきません。どこかで方針を誤ったとしか言いようのないステージでした。
 伊地知さん、どうしたのでしょう。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

Posted by KITAJIMA takashi : 10:09 PM | Comments (0) | Trackback

September 09, 2004

鳥肌実「時局講演会 御柱人柱油狸搾り取り演説」

 「30's SubCulture Blog」サイトが鳥肌実「時局講演会 御柱人柱油狸搾り取り演説」 を取り上げています。迷った末、カテゴリーを「お笑い」にしていますが、そのわけも本文を読めば分かります。ゴキブリコンビナート「ナラク」 のも掲載しているので、そっち系?に関心が向いているのでしょうか。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:24 AM | Comments (0) | Trackback

September 08, 2004

劇団青い鳥「シンデレラ・ファイナル」

劇団青い鳥が今年結成30周年を迎えました。記念公演に選んだのが「シンデレラ」です。「ファイナル」と名付けたのは、これが最後という意味があるのでしょうか。
その昔(!)福生の旧米軍宿舎を稽古場にしていたころ、最寄り駅から葛西さん運転の車で連れて行ってもらったことがあります。そのご都内で芹川さんと会ったとき、稽古場の隅に神棚があるのに気が付きました。創立メンバーで、当時と名前が変わっているひとが何人かいますね。時の流れを感じます。
さて、「きおくのクスリ」サイトは「懐かしさを凌駕する新鮮さも感じることができた」と書き留めています。「休むに似たり。」サイトは「ちょっとぴんと来なかったかなぁ。女性劇団ってのは結構スキなのに、なぜぴんと来ないのか、不思議な感じがしています」と戸惑い気味。「しのぶの演劇レビュー」は「うー・・・残念ながら良いと思うところは見つけられず、ほぼ寝てました」と手厳しい評価です。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:55 AM | Comments (0) | Trackback

September 07, 2004

「友達」、「赤鬼RED DEMON」

CLP(クリティック・ライン・プロジェクト)に新しい劇評が掲載されていたのに気付くのが遅れました。皆川知子さんと竹内孝宏さんが9月1日付で、ク・ナウカ若手演出家シリーズの安部公房作「友達」 を同時に取り上げています。一人暮らしの男の部屋に、見知らぬ家族が乗り込んで居着いてしまう話ですが、「この家族をすべてク・ナウカの役者が演じ、一人暮らしの男は他の劇団(山の手事情社)の役者が演じた」ことで浮かび上がるものを指摘した皆川さんの目が印象的です。演劇評論家の長谷部浩さんが4日付で野田秀樹の「赤鬼RED DEMON」 (ロンドン・ヴァージョン)を「純粋な結晶」のタイトルで論じています。

Posted by KITAJIMA takashi : 09:56 AM | Comments (0) | Trackback

September 06, 2004

tpt「カモの変奏曲/シカゴの性倒錯」

  「漂泊する思考空間」サイトがtpt「カモの変奏曲/シカゴの性倒錯」公演を2回にわたり取り上げています。最初は作品の内容に沿いつつ、2回目は作品が書かれた時代背景を描きながら。ともに舞台の様子を紹介するだけでなく、公演(作品)が現代の私たちに提起する問題を深化、敷衍する文章が魅力です。ともにアメリカの劇作家デヴィッド・マメットの作品です。

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「赤鬼」ロンドンバージョン

 「某日観劇録」サイトが野田秀樹作・演出の「 赤鬼」ロンドンバージョン」(Bunkamuraシアターコクーン、8月31日-9月8日)をみて「タイバージョンを前に観たので内容は知っていたのですが、何度観てもいい作品です」と述べています。
 「藤田一樹の観劇レポート」サイトもこの公演を取り上げ、「テレビで観たときは泣かなかったのに生で観たら泣いてしました」と言っています。
 このあと「タイバージョン」「日本バージョン」と続きます。どうしても3公演を見たくなる、最近流行の興行方式でしょうか。

シアター・コクーンの公演ページによると、配役などは以下の通りです。

8/31(火)~9/8(水) 9回公演  英語上演・イヤホンガイド(同時通訳)有り(無料)
上演時間:約1時間50分
翻訳・脚色=ロジャー・パルバース
ロンドン版脚色=野田秀樹&マット・ウィルキンソン
美術・衣裳=ヴィッキー・モーティマー&ミリアム・ブータ
照明=リック・フィッシャー
選曲・効果=高都幸男
出演= 野田秀樹(赤鬼)
タムジン・グリフィン(あの女)
マルチェロ・マーニィ(とんび)
サイモン・グレガー(水銀) 他


〔タイバージョン〕9/14(火)~22(水)
翻訳=プサディ・ナワウィチット
共同演出=ニミット・ピピットクン
美術・衣裳=日比野克彦
照明=海藤春樹
選曲・効果=高都幸男
出演= 野田秀樹(赤鬼)
ドゥァンジャイ・ヒランスリ(あの女)
ナット・ヌアンペーン(とんび)
プラディット・プラサートーン(水銀) 他


〔日本バージョン〕10/2(土)~20(水)
美術・衣裳=日比野克彦
照明=海藤春樹
選曲・効果=高都幸男
出演=  小西真奈美(あの女)
大倉孝ニ(水銀)
野田秀樹(とんび)
ヨハネス・フラッシュバーガー(赤鬼)

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September 05, 2004

天然ロボット「翅蠱綺譚」

 天然ロボットhomme plus「翅蠱綺譚」(はむしきたん)公演が東京・世田谷のシアタートラムで開かれました(9月2日-5日)。芝居速報を精力的に掲載している「休むに似たり。」サイトがこの公演を取り上げました。ぼくも同じ日に見ましたが、「シアタートラムはちょっと広すぎたかもしれません」との指摘に同感です。また「娘と子供、メイドと女性、おんな先生と社長、いろんな二人だけの会話の芝居があります。それぞれ全く違う様子だけど、共通しているのは、二人を貫く微妙な緊張感なのです」との鋭い指摘も。カオル役の河井青葉さんが目立ちましたね。

 天然ロボットのWebサイトによると、出演者などは次の通りです。
[脚本・演出] 湯澤幸一郎 
[美術] 恋月姫 
[出演] 今村祈履・河井青葉・依田朋子・加藤直美(ベターポーヅ)・粕谷吉洋・佐藤陽子・湯澤幸一郎
[照明] 清水朋久
[音響] 高塩顕
[舞台監督] 吉川悦子
[演出助手] 高木亜麗
[制作] ちくだふみ
[宣伝美術] 湯澤幸一郎
[宣伝ヘアメイク] 高村マドカ
[製作] 『翅蠱綺譚』製作委員会

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September 03, 2004

裸伝Q「ほどけないヒモ」

「うたうた」サイトが裸伝Q第6回公演「ほどけないヒモ」(新宿タイニイアリス、9月2日-5日)のレビューを載せています。「演技のほとんどすべて、一枚のビニールシート上でおこなわれる。なんだか窮屈そうな約一時間半。(中略)ビニールシートの外の世界は広いのでは?そこからもっとはみ出してほしい」と結んでいます。

第6回公演「ほどけないヒモ
☆作・演出=鍋島松涛
☆出演=三谷智子、ジョニー、朴贊革、大石丈太郎、渡辺多恵子

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September 01, 2004

We love dance Festial ユーモア in ダンス 東西バトル編

 「We love dance Festial ユーモア in ダンス 東西バトル編」について、「白鳥のメガネ」サイトが東京公演の全8作品について、長いメモを残しています。「ワニ連絡帳」サイトは第1日2日の両日をみて、それぞれ感想を書き留めています。第1日を見た感想は、「白鳥のメガネ」サイトと「しのぶの演劇レビュー」に報告されています。
 評論家の日下四郎さんもこのユーモアインダンスについて2日目のBプロとアメリカ編をみたレビューを書いています。(フレームになっているので、左メニューから8月の公演を選んでください。フレームは困るという方は、本文ページをご覧ください)
 それぞれの評価とともに、ダンスの「見方」やまなざしの「位置」の違いにも注意を払いたいと思います。

Posted by KITAJIMA takashi : 08:06 AM | Comments (0) | Trackback
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