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October 31, 2004

TRASHMASTERS「trashtandard」

 スピード感のある展開、緊密な構成、意外な結末などで人気上昇中のTRASHMASTERS(トラッシュマスターズ)が新宿タイニイアリスで第9回公演「trashtandard」(10月21日-27日)を開きました。舞台セットがすばらしいステージでしたが、その芝居をみた吉田ユタカさんから、「蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻」と題するレビューをいただきました。「すべてが一本の線でつながった」という吉田さんの驚きと戸惑いが伝わってきます。以下、全文です。(北)

◎蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻

 物語の舞台は小さな設計事務所。男女九人の社員とアルバイトは、消費者金融から返済を督促されたり、ゲームソフトを買うために徹夜で並んだり、仕事の合間にそろってジョギングに出かけたり、社内で恋に落ちたりしながら、コンペを勝ち抜くために日夜仕事に励んでいる。舞台横にスクリーンが設置されており、序盤は九人のうちの何人かの独白が順番に字幕で流れ、その各人の視点を通して話が進んでいくという構成だ。

 芝居のテンポは小気味よく、会話のやりとりは自然体で、キャラクターの感情の流れがわかりやすい。ストーリーの展開も巧みで、二時間超の長さを感じさせない。舞台では左右二つずつのドアから出入りすることで、広いとはいえないタイニイアリスのスペースでも多人数の演者の動きがうまく整理されていた。また、応接室という設定で客席部分の一角が活用されたのだが、観客のすぐ近くで二人だけの本音の会話やセックスが演じられ、非常に効果的だったと思う。

 しかし、腑に落ちないことが一つあった。事務所の社員(桃子)とつき合いながら、別の社員とも浮気におよぶ男(赤堀)の心情がまったくみえてこないことだ。政治や設計の話、哲学じみた議論では長広舌をふるいながらも、二人の女性に関する発言はほとんどない。二人の手前、単に冷静さを装っているだけというふうでもなく、浮気相手の女性が無断欠勤を続けてもどこ吹く風といった無関心ぶりだ。同じように事務所内の二人の女性に振り回される男(青柳)は、その苦悩と苦労が如実に描き出されているだけに、どうしても引っかかってしまう。

 その青柳をめぐる女性二人の修羅場は、みものだった。加害者の立場と被害者の立場がめまぐるしく入れ替わっていく状況を、客演の二人が見事に演じきっていたという印象だ。とりわけ、かたや顔面に硫酸を浴び、かたやビルから突き落とされて片足を失ったとたんに、二人とも憎々しく高圧的に性格が歪んでいくさまは、悲しいほどに人間の弱さを感じさせた。

 やがて物語は衝撃のラストを迎える。社長のビリー、赤堀、青柳、中国人の黄(こう)、桃子の社員五人がいつものようにジョギングに出かける。閑散とした事務所で、片足を失った女性社員が今度はみずから窓を超えて飛び降り、茫然自失となっている社員と警備員を残して幕が閉じる。スクリーンには「構成・演出:中津留章仁」の文字。

 ところが、次の瞬間「おまけ」という表示に変わり、そこから数分ほどスクリーンに流れる映像は、先ほどの五人の社員が戦隊もののヒーローに変身し、悪の軍団を倒すという奇想天外なストーリーだ。

 ふたたび舞台の幕が開き、事務所には普通の姿の五人。彼らの会話の内容から、実はこの五人は“地球人ではない”ことが明らかになる。やがて、新たに事務所に採用された女性社員三人が加わって、終わりのない会話のなかで今度こそ終幕となる。

 たしかに劇中で、ある登場人物がいっていた。いま起こっていることは劇みたいなものなのだと。だとすれば、東京に大地震が起こるのも「あり」だし、日本が戦争に参加するのも「あり」だと。その言葉に従うならば、最後の最後になって登場人物が実は宇宙人だったというのも、きっと「あり」なのだ。

 さらには前述の疑問も氷解する。赤堀の二股は当の桃子と仕組んだものなのだから、良心が痛む理由もなければ、苦悩する必要もない。浮気相手が無断欠勤しているのは、実は桃子が事務所の物置に監禁しているからであることを赤堀も知っていたのだし、そもそも、宇宙人に人間の感情の発露を期待するのはまったく無意味なことだったのだ。これで、すべてが一本の線でつながった。なんと見事な結末なのか!

 と、納得できた観客はどれだけいただろうか。少なくとも筆者は頭と気持ちの整理をするために、後日ふたたび劇場に足を運び、同じストーリーをなぞる必要があった。かりに、飛び降り自殺の直後の幕で話が完結していたならばどうだったのかと考える。夢も希望もないラストにはなるが、少なくとも、書かれざるその後の展開にあれこれと思いをめぐらせるだけの余地はあったはずだ。しかし、宇宙人という“なんでもあり”の結末を知らされてしまった以上、もはや我々はひたすらその事実に引きずられていくしかない。

 この毒こそが今回の芝居の肝であり、この劇団の持ち味だとすれば、受け入れるべきなのかもしれない。自明と思われることを疑うのは、これほどまでにむずかしくショッキングなものだということを。トラッシュマスターズの公演に初めて接した筆者は、まだそのあたりの判断が下せずにいる。
(吉田ユタカ/2004.10.25、10.27)

Posted by KITAJIMA takashi : 08:58 PM | Comments (0) | Trackback

October 29, 2004

いいむろなおきマイム公演「アンバランス」

 「中西理の大阪日記」がいいむろなおきマイム公演「アンバランス」(10月28日-31日、大阪芸術創造館)を取り上げています。
 「グループによるアンサンブルの部分は以前に見た公演よりも進歩していて、気持ちのいい集団演技を見せてくれるし、なかなかスタイリッシュでカッコよく仕上がった」と評価しながら「不満は後半のソロ部分に感じた」と指摘しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 03:24 PM | Comments (0)

October 28, 2004

野田秀樹「赤鬼 日本バージョン」

 今年の演劇界で、野田秀樹の「赤鬼」(RED DEMON)3バージョン公演は、長く記憶に残る出来栄えだったのではないでしょうか。ぼくも日本バージョンを見終わった瞬間は人並みに心動かされたのですが、会場を出ることは、かなり違和感が湧いてきました。どうしてそうなったのか、自分なりに舞台の構造を踏まえて考えたのが、以下の文章です。少し長くなりましたが、ご覧ください。

◎クライマックスはどこにあるか 鮮やかな舞台実践とテキストとの差異
 赤鬼(RED DEMON) 日本バージョン(10.13.2004 at Bunkamura's Theater Cocoon)

 うわさの「赤鬼」(日本バージョン)をやっとみることが出来た。10月13日のマチネ、場所はシアター・コクーンの中2階席だった。中央にしつらえられたひょうたん型の舞台を斜め上からみる2時間弱。おそらく今年の演劇界で特筆される公演だと思われる。野田の成熟が存分に発揮された芝居として語り継がれるかもしれない。日本バージョンをみただけのぼくでも、容易に想像できる見事な仕上がりだった。
 また外国人を配役に加えるとか海外公演に出かけるという例はあけれど、英語だけでなく、タイ語、日本語の3バージョン公演を実現する試みは聞いたことがない。しかもそれぞれの国ですでに公演したうえで3バージョンを一挙に国内で実現したケースは、一国的な空間に閉じこめがちな芝居を、アジアを含めて多元的に展開する鮮やかな実践と言うべきだろう。

 海外の俳優をそれぞれに配置し、演出も変え、その都度野田がステージにも立つ。8月14日のロンドンバージョン(「RED DEMON」)を皮切りに、タイバージョン(9月14日から)、そして10月2日から20日まで続く日本バージョンで「赤鬼」全体が締めくくられた。

 日本バージョンで舞台に立つのは小西真奈美、野田秀樹、大倉孝二の3人。「あの女」と、知恵遅れの兄「とんび」、それに「女」にまとわりつく村の道化役「ミズカネ(水銀)」だ。また3人は乳飲み子をさらわれたと訴える母親や、村人、長老などの役を一瞬のうちに演じ分ける。赤鬼はヨハネス・フラッシュバーガー。長身、ひげ面。明らかに異人と分かる体躯と風貌である。

 筋はそう入り組んでいるわけではない。
 ある日、異人が浜に打ち上げられる。怪異な風貌から村人は「赤鬼」と名付けるが、よそ者ゆえに疎まれている「あの女」ら3人はやがて「鬼」に近づき、気持ちの通じ合う「人間」だと気付く。赤ん坊をさらったという誤解や、安住の地を求めて航海する船団の斥候役だと見破られたことなどが重なって、赤鬼と女の処刑が決まる。しかしミズカネの機転で舟を調達、3人は海の向こう目指してこぎ出す…。

 四周を座席で囲まれたひょうたん型のステージで、ポールとネットという簡単な道具で浜辺や広場、洞窟を構成する手際。海の揺れと心の動揺を身体の揺れで同期させる技法。暗転を多用して時の推移を表現する工夫。せりふを効かせるため用いられる言葉遊びと道化的=異化的な身振り。いずれも淀みなく、巧みな手筋で運ばれる。せりふも演技も、熟達した演出のタクトで可能になった。

 外国人を暮らしの中に受け入れられるか、村世界を頑なに閉じて異人を排除するのか-。海に漕ぎ出すまでの展開が押し出す問い掛けは疑いようもなく直裁で、大小のエピソードと演劇的な起伏を折り重ね、だれにもわかりやすく提起される。開始早々は野田のせりふの一つ一つに笑いで応えようと待ちかまえていた客席も、幕切れ近くになると舞台に引き寄せられ、しわぶき一つ聞こえない。終演と同時に漏れるため息に似た高揚が熱い拍手に現れている。野田の直球が確かにそれぞれの胸に届いているように見えた。

 しかし、果たしてそうなのだろうか。会場から引き揚げる満足そうな顔、顔、顔を見ているうちに、何とも言えないわだかまりが胸に巣くうのを感じた。「異人排除」だって? それでは海に漕ぎ出してからの展開は、どこへ行ってしまったのか-。

 最後のドラマは、海に漕ぎ出した小舟の上で起きる。
 赤鬼を待っているはずの船団は姿を消していた。行くあてもなく食料もないまま、漂う小舟の上で意識が薄れた「女」は、ミズカネが与えるフカのスープで命を長らえた。やがて3人は飛び出したはずの浜辺に打ち上げられる。「鬼」の姿はない。消えたなぞをだれも語らない。「女」はあるとき、自分が食べたフカのスープが「赤鬼」の人肉だと知り、崖から身を投げて死を選ぶ。「鬼が人間を食うのではなく、人間が鬼を食う」事実がストレートに投げ出されるのである。

 Web上で演劇評を掲載してきたCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)サイトで、評論家の長谷部浩は「純粋な結晶」というタイトルで次のように述べている。
 「『RED DEMON』は、単なる異文化コミュニケーションをめぐる寓話ではない。差別と被差別、自由への憧憬、人肉食と生の意味、知性の脆弱さなど、野田秀樹がこれまで執拗にこだわってきたテーマ系が、すべて出揃い、しかも縒り糸のようにからみあっていると気がついた」
 野田の軌跡を同伴しつつ考察してきた人らしいさすがの深読みだが、実際の舞台は深読み通り進行したとは言えなかった。

 野田はどこに力点を置いたのか。「RED DEMON」に関して、ロンドンバージョンに登場した役者のコメントが、会場で販売されたプログラムにずらりと並んでいる。長いけれども引用してみよう。

 タムジン・グリフィン(あの女) アウトサイダーのこと、自分と違っている者を悪魔化してみることなどが、シンプルな美しさで描かれている。…シンプルと言っても浅いわけではなく、テーマが深く明確に描かれている作品です。
 マルチェロ・マーニー(とんび) 人が自分と違うものに対してどう扱うのかということが描かれています。われわれは決して開かれていない。人種問題を乗り越えたつもりでいても、自分でも気が付かないうちに壁を作ってしまう。だから戦争がある。秀樹はそういったことを普遍的な物語の形にして伝えている、すばらしい作品です。
 サマンサ・マクドナルド(村人) だれもが人生の中で、人と違うということを感じることがあるだろうけれど、人を受け入れる寛容さが重要であると語っている作品だと思います。

 これらのコメントで指摘されるのは人種的対立、異なる意見を持つ人との対応と受容である。少なくともロンドンバージョンの役者たちはこの作品を「異文化受容」問題として受け止め、演じていた。作品の基本性格について、野田がそう解釈されるよう仕向けたことは間違いないだろう。日本バージョンもその線に沿って構成されていた。だから、異文化コミュニケーションがテーマだとする評が圧倒的に多かったのもそれなりに根拠があると思われる。

 逆に言うと、この舞台は、海原で起きる一連の出来事をあっさり端折ったとしかいいようがない。特に赤鬼を食べて命をながらえた「あの女」が真相を知って崖から身を投げ、命を絶つエピソードも、伝聞の一こまとして簡単に処理されるのである。

 他人を食べて生きながらえる-。自分の命と他人の命がぶつかり合うアポリア、その事実を自死によって贖おうとする心性を、真っ向から問いかけるはずの結末は、物語のエピローグとして手短に美しく、しかも心のひだをすり抜けるように扱われる。演じられるクライマックスは、それ以前の村での出来事に集約されているのである。

 野田が意識的にそう仕向けたのかどうかは分からない。テーマの分割を避ける無意識の知恵が働いたのかもしれない。客席を混乱させず、しかも客席に過度に重いテーマを投げかけない。これは観客に余分な負荷をかけず、しっかり感動して帰ってもらうための確かな選択だったことは間違いない。

 演じられた舞台と語られたテキストとでは、クライマックスが違っていた。「赤鬼」に見えた狭間はまた、野田芝居の人気の秘密を裏から照らし出してくれたのかもしれない。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、10月28日)

Posted by KITAJIMA takashi : 01:21 AM | Comments (0) | Trackback

October 27, 2004

二兎社「新・明暗」

 人気劇作家永井愛が、夏目漱石の未完の小説を現代の夫婦の物語として描き直した意欲作の再演。初演時とほぼ変わらない顔ぶれで、10月初めの埼玉公演から全国ツアーが始まり、11月の大阪公演まで続く予定です。
 10月16日の福岡公演(大野城まどかぴあ・大ホール)を、「福岡演劇の今」サイトが「鮮明な表現で作る、何とも不思議な雰囲気」のタイトルで取り上げました。「漱石の原作が、決断しないことの自由さを中心に据えてアンニュイなのに比べて、この舞台では、それもひとつとしてのあり方と相対化していていくつかのありようを並存させ、それらの間を渡り歩く。それらのありようの鮮やかなコントラストは却ってそれぞれを鮮烈に印象づける」と述べています。

 東京公演は世田谷パブリックシアターで10月22日-11月7日、その後は札幌(11月17日)、滋賀(11月19日)、大阪(11月20日)の予定。

追記(10月30日)
 「藤田一樹の観劇レポート」は東京公演の様子を次のようにリポートしています。
 「本当に良かったです。初演よりも断然、パワーアップしていて再演の方が良かったです。
確実に完成度が高くなっていると思います。…初演では、脚本の印象が中心だったのですが、今回は演出がとても良くてやっぱり永井さんは、凄いなぁと思いました…」
 気持ちよく書き込んでいる様子が伝わってきますね。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:04 AM | Comments (0) | Trackback

October 26, 2004

メタリック農家「鳩」

 「休むに似たり。」がメタリック農家「鳩」公演(10月22日-24日、しもきた空間リバティ)を取り上げています。「血糊飛び散る、おどろおどろしい(ところもある)舞台の雰囲気。あたし個人としちゃ思うところはあるけれど、しっかりと見せる一本」と述べています。
 このページにコメントを寄せている「おくむら」さんは「休むに似たり。」の筆者と同様、筋金入りの芝居通。東京近郊にある小劇場のめぼしい芝居をほとんど見ているのではないかという目利きです。その人が「この若さでこういう破綻のない物語を書けてしまうところが、大したもんだと思いますな」と太鼓判を押しています。「眼福」で目がくらむとは思えませんから、作・演出の葛木英は要注目でしょうか。
 当然ですが、異なる印象も。「Stereo」サイトは「テンポも良く、ストーリーも面白い。一人一人のキャラもしっかりとしていて、個性を生かされているんだな~というのが感じられた」と前置きしながら、「しかし、ラストが解らなかった」と述べて「困惑」を感じているようです。

Posted by KITAJIMA takashi : 03:11 PM | Comments (2) | Trackback
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