11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

PLAYMATE 「SWAP 2004」

 「休むに似たり。」サイトがPLAYMATE 「SWAP 2004」公演(10月5日-17日、新宿THEATER/TOPS)を取り上げ、珍しく長文を掲載しています。今回はメンバーの「近江谷と川上が出会うきっかけになった作品でもある『SWAP』(96年初演、97年再演)を完全リメイク」(PLAYMATEサイト)したバージョン。長くなったのは「『休むに似たり』(自転車キンクリート)をみるまで、あたしの中の芝居のベストはこれだった」というせいでしょうか。
 「濃密だが、どこかあか抜けなかった印象の会話劇だった初演に比べると、役者も演出もよりスタイリッシュで見やすくなっているしパワーも感じるのだけど、さらりとしすぎている感も。もしかしたら変わったのは、見ているこちら側や社会かもしれませんが。オススメ」とまとめています。

 「某日観劇録」も取り上げ、「『人を好きになるというのはどういうことなのか』というベタベタかつ永遠の謎を、笑い半分、真剣半分で進めていきます」「脚本は序盤のネタが後半の振りになっている構成が、近頃めったに観かけないくらい考えられています。ちょっと無理に掛けすぎな気もしますが、久しぶりにこういう構成の芝居を観られたのは嬉しい」などと述べています。出演者の演技や舞台美術と衣装についてもきちんと目配りしています。鋭いですね。

Posted by KITAJIMA takashi : 04:33 PM | Comments (0) | Trackback

銀幕遊學◎レプリカント、Riverbed theater

 アリスフェスティバル2004で、「Hedless」を共通タイトルにした2劇団の連続公演が10月9-10日の2日間、新宿タイニイアリスで開かれました。米国シカゴで創立されたRiverbed Theater(河床劇団)と、大阪の「銀幕遊學◎レプリカント」です。「銀幕」は1988年に結成。「楽曲を視覚化するための演劇的コラボレーション集団」(Webサイト)で、音楽、ダンス、ことば、衣装(ファッション)などが一体となったパフォーマンスを長年手掛けてきました。
 このwonderlandサイトでも先にレビューを掲載しましたが、「うたうた」も目を付けています。特に「銀幕」のステージについて「人形のような動き。繰り返される動作。動かされずにいられない動き。流されずにいられない流れ。開けては閉ざされるドアから解放されず。人形に操られ、束縛されるモノたち。そんな閉塞的な状況もやがて変化していく」と印象的なフレーズで描写しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 04:00 PM | Comments (0) | Trackback

October 17, 2004

松平健 錦秋公演

*以下の文章は公演内容について言及しています。新鮮な気持ちで公演をご覧になりたい方、これから劇場に行かれる方はご注意くださいますようお願い申し上げます。河内山

 新宿コマ劇場にはやはり、顔の大きな座長がふさわしい。
 三重の回り盆を従えワイドに丸く張り出したコマの舞台にあうのは、幅の広い顔だ。特に舞台前方で正面を向いて立った時、ワイドTV的(横に引き伸ばしたよう)に広がる舞台空間に負けない顔幅は、座長を座長たらしめる重要なファクターだといえよう。
 逆に顔が小さいと、コマ興行である必然性が希薄になってくる。そのことを確信したのが、昨年の氷川きよし座長公演であった。何かしっくりこないと思っていたら、顔が小さいのだ。もっとも客席へ視線を送る時、高齢の観客を確実に捉えゆっくりと微笑みを与える氷川の正確なアクト、また司会者を置き、氷川への賛辞とMCの段取りは任せる演出など、観るべきものはあったことをつけ加えておく。
 さてブームになって久しい「マツケン」。梅田コマ劇場と博多座に続く今回の新宿コマ興行は、一部を芝居、二部を歌謡ショウに分けた近年の彼のスタイルは取られず、『暴れん坊将軍スペシャル 唄って踊って八百八町~フィナーレ・マツケンサンバ』という一つの作品を上演するかたちで行われた。

 物語は、問屋の娘お七と伊織、元は役者だったお夏と松平演じる新之助(実は上様:徳川吉宗)の二組の恋のゆくえを軸に、連続する不審火・木材買占め・「からゆきさん」の斡旋業にまつわる陰謀の謎が解き明かされていくというものだ。これに上様が親しんだ子守唄の悲しいいわれも絡んでくる。また、上様の母への想いが時折夢幻のように現れる。歌と踊りを交えた物語が一件落着すると、爺の「無礼講ですな」を合図に歌謡ショウの状態に入る。その時刻を確認したところ18:50近く。終演は19:20頃なので、正味30分のショウである。羽根をあしらった白いガウンや金の鱗状に輝くサンバ用着流しなどショウの衣装は数点、セットは無礼講開始時点で幾何学的なデザインに電飾をほどこしたものになり、後はラストまで変わらない。
 
 観劇した当初は、プロットを持ち出し歌や踊りとの辻褄を合わせたことによって、全体が薄くなったという印象を拭えなかった。例えば物語中盤、簡素な芝居小屋の前で朗々と読経声のラヴ・バラードを歌う松平。衣装は「しっかりした身なりのお侍」ではあるとはいえ、それでも日常の動作に即した着物姿だ。寂しい景色の中で、二人の恋心だけが夕日のように煌めく場面に思えないこともない。ところがこの展開では、いなせな若衆から弁財天までやる幅の広さ(以上は明治座で松平が行った)、性ばかりか洋の東西も自在に行き来し予想を超えるセットと衣装、何でも踊る群舞など、予算のある興行ならではのレビューのお楽しみは、ことごとく削がれる。「一回限り」という触れ込みでお夏と新之助が小屋の舞台に立ち、マンボを踊る場面構成はよく練られていたので、いっそ時代考証を全部無視して、上様が世界中の踊り子と出会うインター・ナショナル版にでもするか、喜劇的要素の強いオペレッタの手法を取り入れれば、これほど地味にならずに済んだのではないか。無駄な思索に駆られた。
 結局、彼らは一本のミュージカルを目指したのだと思われる。だが出演者の積極性にも関わらず無礼講前の演出は、「台詞・歌・踊りの順番と場面転換が、緩慢だけれどもそれっぽい舞台」の域を出ていなかった。まず、夢落ちで終わる話のあらすじを皆でかわるがわる朗読しているような台詞が、舞台の時間を停滞させている。その台詞の前後に流れる曲の転調や繰り返しは、乏しく唐突だ。おまけに一幕終わりの縮んだ群舞から露骨に伝わってきたのは、余裕がなくて歌や踊りを忘れていた劇中の人々の辛さより、後の無礼講までずっと抑えで行くという進行上のせこい計算だった。ミュージカルの特性は、楽曲の層の間を泳ぐ(転調・繰り返される)主要なメロディを聞き、振付や身体性を観ただけで、登場人物のキャラクターや心理のみならず作品の構造・背景も大まかに掴めることだ、という自分の認識に従えば、個人的にこれをミュージカルと呼ぶのは苦しい。
 
 しかしそれはおくとして、元ネタであるTVシリーズの『暴れん坊将軍』の大原則、つまり徳田新之助は、視聴者の希望年齢(おそらく三十前半か)のまま歳をとらないということを再考したら、薄いとは言えないと考えを改めた
 TVの上様は身分を隠して江戸の町に行き、徳田新之助と名乗って市井の人々と交わり悪をこらしめる。途中で女性との恋模様他、どんなことがあろうとロンド形式で終わりまでに元へ戻り、爺が見合いを勧めたりする。形式という枠を設けて表現の実験をしたり超法規的手段によりSFドラマになるのと違い、堂々たるロンド形式の中に、主役の松平さえ駒として組み込まれているのが特徴的だ。
 こうした延長上に今回の興行があるとしたら、上様はTVシリーズの「リアル」を死守し、上様然として在ることが第一に求められる。ならばわかる。江戸をうろつかない新之助、町娘や闇金に群がる悪党と絡まない上様など御法度だ。舞台の上様はパワーアップして歌や舞を披露し、町の人々と比較するとその賢さ、格好良さ、善性、浮世離れ度合いは宇宙的だが、あくまでも形式を遵守しながらの純化であったことに注目したい。すでにTVシリーズが終了した事実を踏まえると、SPものとして上様を原則から逸脱せずロング枠で、しかも一度終わらせて永遠になった話を昨日の続きのように、コズミックな身体というTVにはない強さを持って松平が演じたのは意義あることだったのだろう。
  一体TVシリーズはどのくらい続いたのかと思い調べたところ、足掛け26年とのことだった。徳川吉宗の治世は29年(1716-1745)なので、実際の在位期間に迫る長きに渡り、松平は徳川吉宗を演じたことになる。29年の治世の間に幕藩体制の建て直しを図り、貨幣ではなくそれまで引き継がれてきた米の経済に基づいて改革を行った吉宗。かたや26年間、一人の俳優が吉宗/新之助として生きてきたロンド形式の世界。史実とフィクションの20余年の月日を指一本分ぐらいの太さで繋ぐものは、変わっているようで変わらないという在り方かもしれない。
 
 何よりも今回は、殺陣をはじめ身体に入っている芸に関して「マツケン」というソフトが大変優秀であることを実感した。さらに彼は耳が敏感なのだと思われる。踊る音楽によって音の取り方を、とてもさりげなく変えていた。だからあれだけ多種の、時に定義不可能なダンスを数十分の間に次々踊ることが可能になるのだ。舞台のマツケンサンバについては、筆者は明治座公演の時と、それより以前に一度観た記憶がある。初回の衝撃は薄れても、カタルシスは観る度に大きくなっていく。どこまでも朗らかなグルーヴを感じるからだろう。
 松平の歌は音程が合っており、決して不味くない。ただ声質があまりに朗々としすぎていて、張り上げると先にも書いたように読経的に聞こえてくる。でも松平はそのまま「hoo!」と楽しげに掛け声を入れる。歌としてはここでずっこけてしまうのだが、ちょっとでも巧く聞かせようとか、無難にまとめるなどという小細工をしない潔さが端的に表れているのがこの「hoo!」だ。
 とにかく、松平は全身全霊でがんばっていた。将軍の名に恥じぬ天晴れな座長であり、エンターテナーだったと思う。演劇業界のみならず、趣味人の間では知られた松平健のパフォーマンスとはいえ、TVでは北島三郎出演の歌番組に突然現れて踊ったりゲリラ的な露出だったのが、ここ数年で当たり前となった。悲壮感を微塵も漂わせずブームを受け止めた彼の身体性が、今後どこへ向かうのか楽しみだ。

 あとは脇の話を少し。ドスの効いた声がするなと思ったら三原じゅん子が出ていた。松平が「寂しくなったらまた来てください」で〆るMCの間、三原は両腕の力を抜かず下げた十手でぴしっと×印をつくって待機しており、きれいな立ち姿を見せていた。
 物語についても補足しよう。「火事になると会える」という台詞もあることから「八百屋お七」を意識しているのは間違いない。古典を下敷きにするとか本歌取りとか、この際なくても誰も困らないのに読みかえや引用が半端に終わっていて、かといって単に客へのサービスとして取り入れたにしては、脚本の余計な自意識が感じられた。
 かつて藤田まことはコマ劇公演の際、『必殺仕事人』のオープニングを映すスクリーンの後ろから、ターミネーターよろしくにゅっと出てきた。むろん観客は、そのもてなしに大喜びである。長寿番組は、古典に頼らずともそれ自体がすでに笑いの種の宝庫だ。今回もTVあっての公演ならば、使用曲や馬上姿の松平など、TVシリーズとの連歌の関係を密にすると、長寿番組のマンネリズムを逆手に取ったサービスができたと思う。(04.10.08 夜の部 新宿コマ劇場)河内山シモオヌ
松平健とエンターテイメントについて

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October 15, 2004

維新派 「キートン」

 「n.p.d. blog」が維新派 「キートン」公演(10月8日-25日、大阪・ふれあい港館臨時第三駐車場野外特設劇場)を取り上げています。モノクロで統一した風景、走りに走る演技は「キートンと維新派の共通点」としたうえで、「高さのある橋の上で、本物の夜空をバックに汽車に追いかけられるシーンには鳥肌がたった。話の筋も前回よりかは見えやすい。…海外に招聘されても、喝采を受けること間違いなしな傑作だった」と締めています。屋台村の写真も雰囲気が出ています。

追記
 「関西観劇ネットワーク」で「DOG」さんが同じ公演の感想を、「今回はバスター・キートンをモチーフにしているため、言葉はいつもよりかなり少なかったと思う。その分、身体表現など、他の部分が洗練されていた印象。言葉をもっと聞きたかった気もするが、いつもとは一味違う維新派ということで良かったんじゃないかと思う」と述べています。(10月18日)
 「中西理の大阪日記」は「キートン」公演を2度にわたってみたうえで、その都度維新派の特質、美術、音楽、役者の動きなどについて詳しく考察しています。1回目は17日、2回目は19日。17日のページで「維新派は以前のような祝祭的な演劇ではなくなり、よりアートよりのディレクションへと大きく舵を切ったということが新国立劇場の「nocturne」をへてこの公演を見てみていよいよ明確になってきたことが分かった」と述べています。(10月22日)

Posted by KITAJIMA takashi : 04:47 PM | Comments (0) | Trackback

演劇集団円 『トラップ・ストリート』

 別役実は難しい。何がといって、戯曲の魅力に拮抗する舞台に出会うことが難しいのだ。職業的劇作家としての地位を確立し、多くの集団に作品を提供している別役だが、上演が戯曲を読んだときのおもしろさを超えることは滅多にない。「作:別役実」という文字をチラシの上に見つけたわたしたちは、そっとほくそ笑みながら、誰にも気づかれぬように肩をすくめざるを得ない。ひとつの理由として、俳優の不在がある。別役文法は俳優を選ぶ。それも技術などではなく彼(彼女)の生理をだ。「その人である」ことが、必要絶対条件であるにもかかわらず、「その人」は決して多くないという悲しさ。

 別役戯曲は、状況設定もさることながら台詞の妙に勘所がある。言語レベルで抑制と激昂のバランスが保たれ、〈場〉の静けさと相まって独特の「おかしみ」を醸す。それを舞台上で体現するのはどうやら至難の業のようなのだが、その点、新作『トラップ・ストリート』を書き下ろした演劇集団円は戯曲を危なげなく処理し、戯曲にプラスアルファの楽しさを付加することに成功していた。その中心にいるのが、岸田今日子、三谷昇の二人である。岸田と三谷はまるでタイプの異なる俳優だけれど、別役芝居の登場人物に欠かせない静謐な「タタズマイ」をもっている。三谷昇の老人像は悟達した穏やかさが滑稽を生み、岸田今日子はもはや年齢を超越した色香と、異質さを標準に変えてしまう妖女の魅力を備えている。『トラップ・ストリート』におけるそうした二人の「タタズマイ」は、年齢を重ねた男優と女優の或る到達点を感じさせる好演だった。

 表題の「トラップ・ストリート」とは戯曲のト書きによれば「地図製作者がコピーされることを防ぐために、原図に秘かに書き入れておく偽の街路のこと。当然ながら、人がめったに入りこんでこない袋小路の奥などに、さりげなく隠されている」わけだが、そこに図らずも足を踏み入れてしまった男が、あるはずのない道を地図に書き込んだ女と出会う話。時空間と人間関係の歪んでいく様は圧巻で、自分は「メディア」なのだという女2を病院に入れようと画策する、岸田演じる女1だけが強烈な存在感とともに息づいている。しかし、彼女以外の人物が抱える違和感が、実は精神を病んでいるのは女1であったと転換するのをきっかけにガラリと位相を変える。一瞬で劇世界が転倒し、女1だけが異常な世界にいること、そして、場に対してちぐはぐなその他の人物が極普通の市民なのだと思わされるのである。さりげなさのうちに劇的展開がそっと仕組まれている。とはいえ、「妻を裏切り家を出た夫に復讐するために、我が子二人をその手で殺めた」という壮絶なギリシア悲劇『メディア』を素材にとりながら、ぼんやりとした、何とも奇妙な手触りがじわじわと浸透してくる舞台だった。

 幕切れ近く、「私がメディアである」と舞台から去る女1の後を全員が追い、男1と男3だけが残される。「何があったんです……?」と訊ねる男1に対し、男3が「何もなかったのさ……」とだけ呟く。すると周囲の舞台装置が片づけられ、舞台は無性格な空間に変容していく。そこは地図に記された単なる道で、どこでもない、「ただ通りかかっただけ」の場所。地図上の嘘に迷い込んだ男はもう帰れない。おぼろげに再度現れ、白いパラソルで月光を避ける岸田が「私は、メディア……」と夢のように語れば、存在するはずのない場所だけが存在を示す。

 終演後、果たして今の時間は、この芝居は何だったのかという思いに駆られた。内容の理解云々ではない。自分の身にさえこの90分間には何も起こらなかったのではないかという不安がつきまとう。たまたま通りがかった、内容自体がないような世界。そんな不思議な感覚に戸惑う観客は、もしかすると「トラップ・ストリート」に迷い込んだ一人なのかも知れない。(後藤隆基/2004.10.14)

Posted by : 03:34 AM | Comments (0) | Trackback
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