11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

October 14, 2004

新国立劇場 THE LOFT Ⅰ 『胎内』(演出:栗山民也)

 新国立劇場〈演劇〉芸術監督である栗山民也からの「THE LOFT」という提案は、小劇場「THE PIT」をさらに縮小し、客席に挟まれる形で劇場中央に設置された小空間の創造。三好十郎『胎内』を皮切りに、『ヒトノカケラ』『二人の女兵士の物語』と、このところの栗山の仕事の根幹ともいえる「時代と記憶」という鍵言葉に沿った作品が上演される。御上のお膝元で行政と個人の演劇的欲求を統括してみせる、意欲的な活動の一環でもある。

 『胎内』の舞台となる、戦中に本土決戦に備え大地に無計画に掘られた洞窟は戦争そのものでもあった。そこに迷い込み、徐々に虚飾をはがれ生一本の精神と肉体をさらけ出していく三人の姿は、戦後責任への問いかけにもつながろう。自分たちのしたことに戻る、それが意図的であってもなくても、闇雲に駆け抜けた過去に立ち帰り、己のものとして見つめることから、「人間」としての再生がはじまる。極限の果てに死を示唆される幕切れ。母胎に帰ることで日本人―人間がもう一度生れなおす物語なのだった。

 上演に際し、栗山から『胎内』という作品に込められた願いがある。「THE LOFT」そのものを「胎内」に見立て、空間と演劇の関係性を再構築する。身体と言語の交流など殊更強調するまでもない常套句だけれど、作品の主題を覆う、題名にも示されるように霊的な防空壕を磁場にした原初的な人間存在と、言葉による濃密な舞台の追求を念頭においていた。

 にもかかわらず、舞台との間に感じた距離には劇場に仕組まれたはずの「胎内」感覚の欠如を思わずにいられない。「胎内」の言葉から単純に連想する内包感、肉感性は稀薄で、それは舞台演出にさえもやや洗練されすぎていた。各台詞は緊密に処理されるけれど、息づかいや肉感までも肌で見聞きするまでには至らない。そこでは「胎内」に観客が入ることは歓迎されず、傍観者としての立場を余儀なくされる。共犯者としてその場に居ることができない。ときに露骨な性的描写を気恥かしくも感じてしまったのは、筆者の小心だけが原因ではないだろう。粘着質の暴力性が目を惹く千葉哲也、おきゃんと艶の同居が魅力的な秋山菜津子、淡々としかし誠実な演技を見せた壇臣幸ら俳優陣は、肉体と精神の飢餓が牽引する狂気を熱演したが、その体温が客席にまで届かない。どこか冷静を保つ劇場は未完成の感も拭えず、観客と舞台が一体化することないまま幕は下りた。母胎の外側に置き去りにされたわたしたちは、登場人物の狂気と正気がせめぎ合う様をすら、ただ茫と眺めているほかに術がないのである。また三好十郎の硬質な言葉と生と死をめぐる重厚な観念―人生哲学に重きが置かれたためか、或いは空間上の問題もあってか、戯曲に見えるような、空気にすっと刃をひけばぬらっと血の滲みそうな頽廃的な生々しさが感じられなかったのが残念だ。(後藤隆基/2004.10.13)

Posted by : 02:02 AM | Comments (0) | Trackback

October 13, 2004

THE DEAF WEST THEATRE PRODUCTION OF『BIG RIVER THE ADVENTURES OF Huckleberry Finn』  

ミュージカル ビッグ・リバー ハックルベリー・フィンの冒険

アメリカの劇団、デフ・ウエスト・シアターに見た「違い」の意識 

 観に行こうと決めたのは、健常者と聾唖者が一緒に演じるこのミュージカルについて、手話が「いわばダンスの振付になっている」と紹介している文を読み、疑問を覚えたのが最大の理由だ。一見舞台をイメージしやすそうな説明だが、手話とダンス、どちらから考えてもその言い方は雑すぎるのではないかと思った。
 まず、アメリカ式手話(American sign language)はれっきとした言語(language)の一つだ。マイムとも違う。なぜダンスになるのだろう。ものの喩えだとしたら随分外している。『ビッグ・リバー』の俳優が創る身体のかたちは、最初から具体的な、決まった意味を持つsignが言葉として組み立てられたもののはずである。対してダンスは、必ずしも意味を持たされたり、物語のお供をする表現ではない。ダンスから振付家独自の音楽性や舞踊言語を観客が様々に受容し、作品をたぐり寄せることと、手話を見るのとはまったく別の行為である。いっしょくたに「どちらも身体の動き」と捉える目が、同じなのではないだろうか。
 紹介文の説明に疑問を呈するだけでは仕方がないので、道徳教育的な狙いが強い公演だろうか、と若干かまえるところもあったがとにかく観に行った。

 果たしてそれは、目で聞くパフォーマンスであった。彼らは手話で台詞を述べ、またある時はステップを踏みながら手話で歌っていた。声に出して同じ台詞を喋っても俳優の個性が出るのと同様に、一人一人の表現は違う。そうした彼らの台詞や歌のリズム、ブレス、強弱などを、私は語り手の身体を通して聞いているのだ。
 
 俳優は忙しい。ハックとともに旅をする逃亡奴隷のジム(M.マッケロイ)は、声に出して話し歌い、同時に手話を行う。厳しいダグラス未亡人の元から無法者の父親に引き取られ、逃げ出すハック(T.ジョルダーノ)は全身を駆使して手話で話し歌う。ハックの声の台詞と歌は、原作者のマーク・トウェイン役を兼ねた俳優(D.ジェンキンズ)が脇から担当する(彼は楽器も弾く)。麦藁帽に柔らかそうなシャツのハックに対し、三つ揃いを着こなしたマークのように、手話/音声の両者のいでたちは違う場合と、似た装いで出てくるパターンがある。その上、彼らの立ち位置が離れている(小説のページを模したパネルが立ち並ぶ装置の斜め上方、あるいはサイドから、または群集にまぎれ、音声担当が手話にあわせて台詞を言う・歌う)場合と、両者ぴったりくっつく場合に分かれる。立ち位置が離れている時は、聾唖の俳優の位置に近い方のスピーカーから音声が出る。
 ぴったりくっつく場合で代表的なのは、ハックの父親だ。容貌はあまり似ていないが、まったく同じ衣装を着て迫力ある髪型をした2人の俳優が現れ、ほぼ同じ振りをしながら手話と音声に分かれる。父親の周囲へ及ぼす迷惑、粗暴な振舞いは両者により増幅して表現される。両者はわずかに違う振りの時を中心に、細かく合図しあっているようだ。なお両者は、このように手話/音声に分かれる時と、手話/音声+手話になる場合がある。
 こうしたヴァリエーションは、演出上最大の効果を発揮するよう緻密に計算されているはずなのだが、繰り返し観ないと全貌を掴むのは難しいだろう。おまけに日本公演は字幕つきである。台詞を字で追いすぎると、手話による台詞を見逃してしまう瞬間がままあった。

 舞台を観ていると、手話は顔の表情や全身を駆使する特徴を持つ言語であり、感情を伝えるための身体表現力が鍛えられるのだなということもわかる。
 特にジョルダーノの、くるくる円を描くような滑らかな手話の軌道は際立っており、それは快活な喋り方のハックを思わせ、また一カ所に納まらない自由の希求者という、キャラクターの完結した側面をにじみ出させていた。一つ一つの手話が慎重で、強い意思を感じさせるマッケロイとともに卓抜した表現力である。ただし俳優の個性として突出しているジョルダーノの清潔感は、ハックという役柄を考えると評価が分かれるかもしれない。また弔いの場面で、メイドの母娘による深い海を思わせる圧倒的な声量の霊歌と、天上を繰り返し仰ぐ手と表情の、観ていて息が出来なくなるほどの万感を込めた手話の歌の二重唱は、今までに体験したことのない音楽だった。
 これらの動きは手話の言語的特性を生かして、手話による台詞や歌に発展させたものである。ステップ・表情・音による歌・手話による歌が層のように重なりキャラクターの感情の発露となった場面でも、他のミュージカル作品と同じく、歌とダンスが別の表現であることは注意深く観ていればわかるはずだ。仲間たちで遊びの計画を立てるところの、全員が浮き足立つステップなど、細かな振付は別に存在している。
 
 断っておくが、私は手話がダンスに見えたにもかかわらず「これは言語だ」と頑なに念じ続けていたのではない。実際に俳優の手話が始まったら、それは見るからに感情を伴う怒涛のsignsであり「言葉を話しているけれど、日常の喋り方とは違って、歌や台詞になっているのだろう」と、ごく自然に察したのだ。そして観ている間中、ここは語尾を伸ばしヴィヴラートを効かせているのだろうかとか、弾むように節をつけているのだろう、と想像力をかきたてられた。
 クライマックスでは大勢の俳優が舞台にいて、それまでの音声による合唱がふつっと消え、全員の手話だけが続く場面がある。静寂の中、大音量の歌が目に押し寄せてくるような、不思議な感覚にとらわれた。しかしいつもの「ものを見る手段としての目」を変えずに「揃って上体を動かしている」と考えたら、目から聞こえる歌の音量は絞られ、彼らの手話は群舞にも見えたかもしれない。結局のところ、手話が「ダンスの振付になっている」という言葉は、目を目としてしか使わなかった場合の感想なのだろうという結論に落ち着いた。

 『ビッグ・リバー』は筆者のように手話を学んだ経験がない者にも、手話という言語が、作品を成立させる他の諸条件―例えば音で聞こえる台詞や歌・ダンスなど―とまったく対等に舞台表現として機能していることを、明快に示す作品である。さらに手話が作品の中で孤立せず、他の諸条件と睦みあい、かけあったりアンサンブルになったりしながら、奴隷制をめぐる当時のアメリカ南部社会の通念(キリスト教義の解釈が背景にある)と実際に友人ジムへ抱く尊敬・信頼の念との壮絶な矛盾に悩み、後者を信じて成長するハックルベリー・フィンの姿を描いているから感動的なのだと思う。
 ジムとハックが仲違いの後に、月夜のミシシッピ河上でデュエットする「見える太陽や月は同じ でも 僕らは違う世界にいる 一つより二つの方がいい」という内容の歌詞には、デフ・ウエスト・シアターのスタイルが簡明に表されている。歌が強調するフレーズは、明らかに「同じ」ではなく「違う」である。『ビッグ・リバー』は『ハックルベリー・フィンの冒険』の骨組みを借りながら、聾唖者と健常者が用いる言語の違いを知ることの難しさと、違いを侵さず協調して一つの作業をすることの難しさに挑んだ軌跡の記録でもあるのだろう。
 
 装置についてつけ加えると、 舞台の中央に二畳ほどの台が置かれ、それにジムとハックが乗ると、彼らは筏の上にいるという見立てになっている。いざ河へ漕ぎ出す時は、台の周囲に並んだセピア色のパネルが上と横にはねて、鮮やかなブルーのスクリーンが現われた。冒険が始まるという物語上の展開だけではなく、紙と文字で親しまれてきた古い原作から新しく作品が旅立つ、という意図もあって、小説のページを模した古めかしいパネルがはねる装置を創ったのだと思われる。
 だが、当時の空気が鮮明に舞台に映し出されていたか、さらにその空気を現代に生きる彼らがどう捉えたのかということに関しては、全般に解像度が低く不明瞭であった。一言で書くと、舞台は無臭で温暖で清潔すぎた。
 原作は『トム・ソーヤの冒険』とともに、本国では大変よく知られた物語なのだろう。のみならずこの小説を支えるアメリカの、これぞ大陸という広大な土地、場所によって激しく変わる自然や気候、父と息子の関係の重要性、自由の重さ、州ごとの強い権限などはいにしえの神話的事柄ではなく、文化を育み今の生活とも少なからず地続きであるに違いない。
 そんな空気のように共有されているものを、地形も歴史も宗教も違うところにいる人間が、この作品を観て想像・喚起できる描法がどれだけあっただろうか。今回はその一番大事な空気が真空パックのように抜かれ、ハックの冒険譚があらすじに沿って上演されている印象を受けた。
 それよりも作品の時代を生きた人々が感じ、嗅いだであろう南部の空気、大陸の内側にいる人間が意識/無意識的に「当たり前」だと思っている背景を彼ら自身がよく見て立脚点を定め、劇場で描法を駆使して観客の五感に訴えることこそ、アートの初歩的な仕事ではないかと思う。俳優らがとまどいを見せるほど淡々と舞台が進んだのは、言葉のギャグを理解できない観客のせいだけではないはずだ。カントリーやゴスペルを用いた楽曲は「Dang Me」で知られるロジャー・ミラー後期の作品(作詞・作曲)である。が、演奏は凡庸で、特にカントリーは勘所とでもいうべき盛り上がりがなく平坦に流れてしまっていて、俳優の歌唱力と身体のふんばりに頼っていたという点も、舞台の弱さの原因として挙げられるだろう。(04.10.11 青山劇場)河内山シモオヌ 

Posted by : 08:25 AM

October 10, 2004

ポツドール「ANIMAL」

 東京・三鷹芸術文化センターで開かれたポツドール「ANIMAL」公演(10月8-11日)を、「白鳥のめがね」サイトが取り上げています。いつものように舞台の進行を丁寧に腑分けして、「仕草の連鎖によってゆるく描かれている」構造や、「人物の関係性や、そこで起きた事件の背景は、想像を働かせればきちんと解釈できるように、周到に説明的な要素がちりばめられている」事実を指摘します。その上で「今時の若者風のリアリティーが確かにある水準で舞台に実現されてはいた。しかし、このリアリティーは、集団性の上に初めて成り立つものなのだろう、と思った」「集団性によって、擬似的に、ドキュメンタリー的なリアリズムを実現しているということではないか」と述べ、「結局、舞台へと逃げ込むことでリアリティを保障されているドキュメンタリー風劇映画、というのが、この作品の正当な評価なのではないか、と思われる」と結論づけています。

 ポツドールのステージはこれまで見ていないし、今回も見られませんでした。そのため「白鳥のめがね」の評価が妥当かどうか分かりません。ただ、チェルフィッチュとの対比で、ポツドールの舞台に触れている点がとても興味を引きました。「いま」の風景がどう見えているかによって、歩き方も方向も随分違うような気がします。

 ポツドールのWebサイトによると、東京公演の後、10月15日(金)-17日(日)に大阪公演(in→dependent theatre 2nd)が予定されています。

追記(10/12)
このほかいくつかのサイトが東京公演に関して言及しています。「佐藤治彦公式ホームページ『H』アッシュ」の10月8日に公演を見た後の感想がかなり長く書かれています。「台詞があろうがなかろうが、ドラマがあってもなくても、ストーリーがなくてもいいのですが、そこに観客の心に伝わる何かがあるかを期待するだけでなんです。ところが、それがない。それが問題なんです」という個所がポイントでしょうか。(いきなり.cgiページで戸惑い、さらに行間なしの読みにくいレイアウトで参りました)
こんなものを買った。-ムダ遣い日記-」は「チーマー系の若者たちが群れるなか、ヒップホップが大音量で流れる。普通に自然な会話がなされているのだろうが、観客にはほぼ一切聞こえない。ダイアローグは全く聞き取れないまま、演劇は幕引きとなる。客電がつくが音楽は鳴り響き、客席は若干戸惑いながら、時計を見て終演と認識し席を立つ。なるほど。見る者が注目する物を決めないといけない芝居というのは、面白い手だ」と書いています。
 「雑記」サイトは「自分の中で何かが確実に変わった作品」の一つに挙げています。


Posted by KITAJIMA takashi : 10:43 PM | Comments (0) | Trackback

October 09, 2004

Shang Yu 「萩家の三姉妹」

 女性だけの劇団・未来樹シアターが解散し、主だったメンバーがshang yu(シャンウィ)として再結集した第1回公演「萩家の三姉妹」(9月4-5日)が、エル・パーク仙台スタジオホールで開かれました。作:永井愛、演出:いとうみや。このステージのレビューを、佐々木久善さんが「a n o d e」サイトに書いています。「ある地方都市の旧家・萩家を舞台に鷹子、仲子、若子の三姉妹と、彼女たちを取り巻く人々とをめぐる物語が季節の変化とともに描かれるのがこの芝居」で、「今回の上演は見事な出来映え」でしたが、「演出やその他のスタッフがすべて外部の人間」という「課題」が残ったと述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:27 AM | Comments (0) | Trackback

G2プロデュース「痛くなるまで目に入れろ」

 G2プロデュース第8回公演「痛くなるまで目に入れろ」は、9月が東京、新潟、大阪、広島と回り、福岡が最終公演(10月1-3日)でした。「G2プロデュース」は、演劇プロデューサー・G2が主宰する演劇制作ユニットです。1995年、生瀬勝久、升毅ら関西系の小劇場の人気俳優を集めた「12人のおかしな大阪人」で活動開始。「エンターテインメント作品を、商業主義に走らない丁寧な作りで発表することをモットー」にしてきたそうです。
 「福岡演劇の今」はこのステージについて「基本的にはシリアスなのにエンターテインメントでもあるというこの舞台。なぜエンターテインメントなのだろうか。それは、観客にウケるために「ウケる技術」を多用しているからではないだろうか」と書いています。詳しくは「『ウケる技術』の、オンパレード」と題した全文を読んでほしいのですが、このステージに関する文章で、舞台の様子がもっともリアルに伝わり、評価に説得力を感じました。

Posted by KITAJIMA takashi : 01:54 AM | Comments (0) | Trackback
 1  |  2  |  3  |  4  | 5 |  6  | all pages