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October 07, 2004

BATIK『SHOKU-full version』

 8月最終週の週末は、We Love Dance Festival(このタイトル…素人オーガニックのような臭いが漂う)、芸術見本市とダンス関連の催しが都内各所で同時に行われた。イベントは互いにリンクしていたらしい。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2003 受賞者公演」と銘打たれていたBATIK『SHOKU』も、芸術見本市との提携公演である。会場のトラムは大入りで、公演に寄せられた関心の高さがうかがわれた。  

 さて『SHOKU』のポイントは靴だ。ダンサーの裸足に、ヒールのある尖ったパンプスが履かれている。重心が集まる細い踵の一点に力を込めて、ダンサーはガンガン床を踏む。中盤ではフラメンコ用と思われるシューズを複数のダンサーが履いて、音楽との間合いを取ったりずらしたりしながら激しく音を鳴らす。踏んでいる自分をアピールしているようにも見える。こうして時折靴の片方を脱いだり、両足とも裸足になったり、再び履いたりしながら地面を「踏む」ステップが執拗に繰り返された。
 
 公演当日に配られた来場者用チラシには、振付の黒田育世により「皮膚一枚に隔てられた内と外 内側を『自分』と感じる事、外側を『自分じゃない』と感じる事の不思議」(後略)と記されていた。
 靴と一言でいっても種類があるが、大抵それは皮(靴底)を隔てて内側(足)と外側(地面)を分けるものであり、靴を履いて地面を踏む時には、内・皮・外が必ず触れあう。そう考えると、靴は黒田のいう「内と外」を、もっともわかりやすいかたちで視覚化したものといえるだろう。黒田はおそらく、不思議と感じつつ自らも漫然と受け止めてきた「内と外との隔て」を、空気にさらされている足/靴の中の足、素足で踏む/靴を媒介に踏む、など足に特化してひたすら触れる感覚で検証しようとしたのだと思われる。
 ヒールの高いパンプスだけを用いたのなら、履くことによって「内側(足)」を、決して楽ではない靴の型にあわせる→枠によって「自分」がつくられていくという見方も可能かもしれない。しかし個人的には、踏んで音を出すダンス靴が出てきたことから、タイトルの『SHOKU』は「触(地面に触れる)」と、日蝕など「隠れる」という意味での「蝕(靴の中に隠れているが音で存在がわかる)」を含意しているのだろう考えた。というより、そうした『SHOKU』の音に感覚が導かれて、後から思考が「触」と「蝕」にたどり着いた、と書く方が実際の体験に近い。
 
 前半でダンサーの身体は回転しながら倒れ、痛そうな音をたてて繰り返し床に打ちつけられていた。先の「踏む」ステップは、幼児が癇癪を起こして地団太を踏んでいるようにも捉えることができるが、こちらは五体投地の行を思わせる厳しさがある。いずれにせよこうした黒田のたるみのない表現は、良い意味で彼女の「マーク」になりそうだ。かつて『セメント山海塾』という、セメントに浸かって身体が白くなった後、ゆらゆら動いている内に固まり運ばれて退場するというパロディーがあったが、『SHOKU』 のパフォーマンスもネタの材料にこと欠かない。
 
 身体が回転して打ちつけられる間、手は赤色のマントに覆われて半ば拘束状態にある。ダンサーはそれぞれ一昔前のテニスのアンダースコート(総フリル)状のパンツを身に着けており、別の場面で、手はそのパンツの中に突っ込まれる。何をしているのかは明らかにされないものの、幼児がとりとめもなくパンツの中をいじる、そんな趣がある。他にも、小道具の懐中電灯をつけるのは手でなく足であり、2人のダンサーが向き合って前傾姿勢の1人が相手を叩き続ける振りでは、手は叩いているというより地面と「触」する足のバランスを取って揺れているかに思われた。
 つまり作品では圧倒的に足が優勢であり、軽い手、本来の役割から逃れた手が表現される。徐々に靴を脱いでいき裸足で踊った後、黒田がステージ上をあちこち移動しながら、手に持った靴を叩きつけた。この手は「叩きつける」という役割を負うものの、鋭く伝わってきたのは叩きつける行為に込められた感情や意思や手の力の強さではなく、履いた(皮をまとった)状態の「触」では表すことのできない、内と外を隔てる「皮一枚」だけの音だ。
 場の転換により振りの動静・音楽・照明は大胆に変化するが、そうした中でも靴を叩いてからゆったりと踊る黒田のソロパートの、軽くしなやかな手は抜きん出ている。またラスト近く、膝をついたダンサーたちが横一列になって手を交差させる振りの弱々しく優しい動きには、理科のビデオなどによくある、モヤシがぬるぬると伸びていく様子を想起した。
 
 舞台後ろには大きな扉がそびえ、これは終始開かない。途中でダンサーが1人、逆立ちして寄りかかるがしばらくすると横たわってしまう。このように内省的な空間の使い方を踏まえれば、「内と外」は素足と靴という限定された表層の部分だけでなく、その背後に裸体と服、自分と他者、個人と集団という大きなテーマがあるはずなのだが、閉塞したまま終わった。
 最後、床に転がっている懐中電灯の合間をゆっくりと歩く黒田は、目立って内足だった。カーテンコールも内足だ。仮に内足歩きが振付ではなく単なる身体の癖だとしても、それは自分にとって「伸びやかな」身体の在り方を徹底して観せる、という黒田の意図なのかもしれない。クラシック・バレエの素養を持つ身体がそのように舞台上で表現されるのは、『SHOKU』における強度のある足から踊り手である黒田自身が距離を示す、戦略的な身体の使い方と捉えることもできる。

 しかし群舞は「意図的な脱力・弛緩」では済まない問題を残した。例えば一つ一つのシーンの後半になると、動きの強さ・リズムはそう変わらなのに全体が間延びして、場の転換や黒田の動きに頼りはじめるように見受けられた点。ダンサーたちの、シーンごとの意識のバラつきが原因なのだと思うが、どうみても戦略ではないという困惑を伴って素に引き戻される度に、作品の強度が失われていくのは明白だった。どんなダンスのステップとも違う『SHOKU』の破壊的な音によって、一瞬々の閃光にも似た「内/外の隔て」のゆらぎを感じることはできても、その先まで展開しなかった理由の一つはこんなところにあるのではないか。(04.08.29 シアタートラム)河内山シモオヌ

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October 06, 2004

イディット&ディマ「セパレイト・デュエット・イブニング」

 ロシア人のディミトリー・テュルパノフとバトシェバ舞踊団出身のイディット・ハーマンによって立ち上げられたイスラエルの身体表現集団クリッパ。総勢は若手も含めて20名前後の大所帯だが今回はリーダーの二人のみ来日。東京と福岡でワークショップとそれぞれのソロ公演を行いました。
 「福岡演劇の今」はソロ公演を取り上げ、「ふたつあわせてひとつの作品という作りになっている」「ふたつとも、えぐり出した現実をダンサーの身体に受け容れて定着させ、それを偽悪的とも見えるやり方でさらすが、ダンサーの受容力と圧倒的な表現力で多くのものを孕んだ存在感のあるダンスとして展開された。軽やかさや心地よさを拒否した、大地にへばりつくようなダンスだ」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:18 AM | Comments (0) | Trackback

October 05, 2004

東京「ドレスを着た家畜が…」

 「Culture Critic Clip」の西尾雅さんが「生と死、連鎖の破たんと迷い」と題して、大阪のビジュアル、ナンセンス、アバンギャルド系演劇を代表するクロムモリブデン、デス電所、WI'REの3劇団によるスペシャルユニット「東京」の企画公演「ドレスを着た家畜が…」(9月3-7日、HEP HALL)を取り上げました。作:竹内佑(デス電所) 演出:青木秀樹(クロムモリブデン) 美術:サカイヒロト(WI'RE)。そして3劇団から役者が3人ずつ出演。「エロでブラックなギャグに彩られた各ピースが再構成され、最後に全体像がわかる仕掛けだが、今回はひとり数役切替での複数の物語を廃し、固定した役のまま時系列どおりに進行する。いっけんシンプルな構成だが、謎は今回も次々くり出されサスペンスな展開はあきさせることがない」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 01:09 AM | Comments (0) | Trackback

October 02, 2004

世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』

 シェイクスピアには「普遍性」があるのだという。すぐれた古典作品が漏れず有するものだという。時代によらず常に「いま」を生きる人びとの共感できる心情があって、多く人が「本質」と呼ぶのがそれだろうか。シェイクスピアは世界でおそらく最も名の知られた劇作家。古今東西の劇場で、書斎で、学校で、「シェイクスピア」の読解が昼夜行われている。日本とて例外ではなく、上演、翻訳、研究は止まることを知らない。新解釈、新訳が次々と産み落とされ、また今日も「新しい」シェイクスピアが世田谷パブリックシアターに産声を上げた。母たるは四大悲劇の一『リア王』。彼女を孕ませた父親はこれも名高き佐藤信である。

 『リア王の悲劇』という劇がある。「古典作品の現代化」を眼目とした主演俳優と演出家に、リア王は居酒屋のオッサンにたとえられた。だからわたしたちにも彼の気持がわかるのだそうだ。リア王の苦悩が「俺の問題だ」と思えるのだそうだ。しかし果たして本当にリア王は居酒屋のオッサンなのか。いや、そういうことではないというのはわかるけれど、もしもリア王とオッサンを同じ位置に並べて古典の現代化を歌いあげるならば、これは喜劇である。リア王という大なるものを居酒屋でくだを巻く小なるオッサンにおとしめ、小さき中年男性を巨大な一国の王と比肩させる。従って『リア王』の「悲劇」はパロディとユーモアのきらめくべき「喜劇」となりうる。しかしならなかった。これは『リア王の悲劇』なのだ。実際、舞台には当然ながら居酒屋の風景などでてこない。くるはずもない。

 「共感」と「等身大」、二つの鍵言葉から導き出された「ぼく(わたし)にもできる」という誤解はプロフェッショナルとアマチュアの境界を曇らせる。誰もがはじめは素人、それは当り前だけれど、自らを「プロ」と誤認したアマチュアがプロフェッショナルとして成立してしまう昨今の情勢は憂慮して然るべきものがある。と、訳知り顔にくどくど遠回りして何を云いたいのか。つまり、物語を自分たちの「身の丈」に合せることで古典作品を「現代化」するという論理は一見理解しやすそうに見えて、その実、原寸のスケールを甚だしく縮小してしまう危険も孕んでいる。石橋蓮司のリア王とて然りである。決して古典を現代に引きつける方法論の模索を否定するものではないし、むしろ心情は逆なのだけれども、「わかりやすく」することがどこまで「古典」の風味を保ちうるかは疑問だ。その点に於いて、演出家の視線はどうもシェイクスピアを上演することそのものに釘打たれ、出来上がった『リア王の悲劇』は斯く云われる「普遍性」とやらの誤解によって積み上げられた舞台にしか見えなかった、とは言い過ぎだろうか。先達て静岡グランシップで上演された『夢の浮橋』を、一年がかりで『源氏物語』を通読した結果の新解釈と宣うた佐藤はここでまた同じ失敗を犯してはいないか。「古典」という力に満ちた物語がある。「現代」という間口の広がった表現方法がある。『源氏物語』にしても同様、シェイクスピアは都合のいい実験材料になるのかもしれない。しかし実験に付合される観客こそいい面の皮である。観客は完成された商品を求めるのであって、フラスコに揺れる怪しげな液体を買うのではないのだ。

 シェイクスピアには昼下りのテレビに映る「愛の劇場」がある。ゴシップがあり、遺産争いがあり、それらを包み込む目眩く台詞群がある。シェイクスピアのそうしたサーカスのような人間模様と佐藤信のアジア的な猥雑がどのように結びつくかに期待はあったが、幕切れ近い立ち回りにわずか横顔を覗かせたものの、あとはワダエミや東儀秀樹の趣向かと見紛う衣装と音楽がそれぞれにそれらしさを醸すに止まった。(後藤隆基/2004.10.01)

*『夢の浮橋』に関して、「『源氏物語』をひと月かけて読破」との記述は、佐藤氏ご本人の御指摘がありましたように、筆者の間違いでした。深くお詫びの上、訂正致します。以後はこのようなことのない様、十分に注意致します。

Posted by : 03:48 AM | Comments (2) | Trackback

October 01, 2004

うずめ劇場「夜壺」

 「福岡演劇の今」は観劇歴35年という薙野信喜(なぎの・のぶき)さんが運営する演劇サイトです。これから掲載されたレビューを出来る限り紹介しますが、福岡・九州の動きを知る有力サイトの一つだと思います。
 このサイトで、北九州を拠点に活動する うずめ劇場の「夜壺」公演(9月5日-12日)を取り上げています。原作は唐十郎。演出は2000年の第1回利賀演出家コンクール(舞台芸術財団主催)で最優秀演出家賞を受賞した旧東ドイツ出身のペーター・ゲスナー。かれはうずめ劇場の主宰者です。
 「唐十郎の戯曲は、作者以外の人が演出したほうがよくわかる。この舞台は唐のスタイルを徹底的に意識し、その背後に見える唐のスタイルに収斂する『途上にある』ものだった。(中略)いいことも悪いことも、その『途上にある』ことから来ている」と述べています。
 9月末にカイロ実験演劇国際フェスティバルに参加、11月初めに東京公演が予定されています。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:42 PM | Comments (0) | Trackback
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