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October 31, 2004

TRASHMASTERS「trashtandard」

 スピード感のある展開、緊密な構成、意外な結末などで人気上昇中のTRASHMASTERS(トラッシュマスターズ)が新宿タイニイアリスで第9回公演「trashtandard」(10月21日-27日)を開きました。舞台セットがすばらしいステージでしたが、その芝居をみた吉田ユタカさんから、「蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻」と題するレビューをいただきました。「すべてが一本の線でつながった」という吉田さんの驚きと戸惑いが伝わってきます。以下、全文です。(北)

◎蛇足なのか肝なのか? 衝撃的な“おまけ”に漂う余韻

 物語の舞台は小さな設計事務所。男女九人の社員とアルバイトは、消費者金融から返済を督促されたり、ゲームソフトを買うために徹夜で並んだり、仕事の合間にそろってジョギングに出かけたり、社内で恋に落ちたりしながら、コンペを勝ち抜くために日夜仕事に励んでいる。舞台横にスクリーンが設置されており、序盤は九人のうちの何人かの独白が順番に字幕で流れ、その各人の視点を通して話が進んでいくという構成だ。

 芝居のテンポは小気味よく、会話のやりとりは自然体で、キャラクターの感情の流れがわかりやすい。ストーリーの展開も巧みで、二時間超の長さを感じさせない。舞台では左右二つずつのドアから出入りすることで、広いとはいえないタイニイアリスのスペースでも多人数の演者の動きがうまく整理されていた。また、応接室という設定で客席部分の一角が活用されたのだが、観客のすぐ近くで二人だけの本音の会話やセックスが演じられ、非常に効果的だったと思う。

 しかし、腑に落ちないことが一つあった。事務所の社員(桃子)とつき合いながら、別の社員とも浮気におよぶ男(赤堀)の心情がまったくみえてこないことだ。政治や設計の話、哲学じみた議論では長広舌をふるいながらも、二人の女性に関する発言はほとんどない。二人の手前、単に冷静さを装っているだけというふうでもなく、浮気相手の女性が無断欠勤を続けてもどこ吹く風といった無関心ぶりだ。同じように事務所内の二人の女性に振り回される男(青柳)は、その苦悩と苦労が如実に描き出されているだけに、どうしても引っかかってしまう。

 その青柳をめぐる女性二人の修羅場は、みものだった。加害者の立場と被害者の立場がめまぐるしく入れ替わっていく状況を、客演の二人が見事に演じきっていたという印象だ。とりわけ、かたや顔面に硫酸を浴び、かたやビルから突き落とされて片足を失ったとたんに、二人とも憎々しく高圧的に性格が歪んでいくさまは、悲しいほどに人間の弱さを感じさせた。

 やがて物語は衝撃のラストを迎える。社長のビリー、赤堀、青柳、中国人の黄(こう)、桃子の社員五人がいつものようにジョギングに出かける。閑散とした事務所で、片足を失った女性社員が今度はみずから窓を超えて飛び降り、茫然自失となっている社員と警備員を残して幕が閉じる。スクリーンには「構成・演出:中津留章仁」の文字。

 ところが、次の瞬間「おまけ」という表示に変わり、そこから数分ほどスクリーンに流れる映像は、先ほどの五人の社員が戦隊もののヒーローに変身し、悪の軍団を倒すという奇想天外なストーリーだ。

 ふたたび舞台の幕が開き、事務所には普通の姿の五人。彼らの会話の内容から、実はこの五人は“地球人ではない”ことが明らかになる。やがて、新たに事務所に採用された女性社員三人が加わって、終わりのない会話のなかで今度こそ終幕となる。

 たしかに劇中で、ある登場人物がいっていた。いま起こっていることは劇みたいなものなのだと。だとすれば、東京に大地震が起こるのも「あり」だし、日本が戦争に参加するのも「あり」だと。その言葉に従うならば、最後の最後になって登場人物が実は宇宙人だったというのも、きっと「あり」なのだ。

 さらには前述の疑問も氷解する。赤堀の二股は当の桃子と仕組んだものなのだから、良心が痛む理由もなければ、苦悩する必要もない。浮気相手が無断欠勤しているのは、実は桃子が事務所の物置に監禁しているからであることを赤堀も知っていたのだし、そもそも、宇宙人に人間の感情の発露を期待するのはまったく無意味なことだったのだ。これで、すべてが一本の線でつながった。なんと見事な結末なのか!

 と、納得できた観客はどれだけいただろうか。少なくとも筆者は頭と気持ちの整理をするために、後日ふたたび劇場に足を運び、同じストーリーをなぞる必要があった。かりに、飛び降り自殺の直後の幕で話が完結していたならばどうだったのかと考える。夢も希望もないラストにはなるが、少なくとも、書かれざるその後の展開にあれこれと思いをめぐらせるだけの余地はあったはずだ。しかし、宇宙人という“なんでもあり”の結末を知らされてしまった以上、もはや我々はひたすらその事実に引きずられていくしかない。

 この毒こそが今回の芝居の肝であり、この劇団の持ち味だとすれば、受け入れるべきなのかもしれない。自明と思われることを疑うのは、これほどまでにむずかしくショッキングなものだということを。トラッシュマスターズの公演に初めて接した筆者は、まだそのあたりの判断が下せずにいる。
(吉田ユタカ/2004.10.25、10.27)

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October 29, 2004

いいむろなおきマイム公演「アンバランス」

 「中西理の大阪日記」がいいむろなおきマイム公演「アンバランス」(10月28日-31日、大阪芸術創造館)を取り上げています。
 「グループによるアンサンブルの部分は以前に見た公演よりも進歩していて、気持ちのいい集団演技を見せてくれるし、なかなかスタイリッシュでカッコよく仕上がった」と評価しながら「不満は後半のソロ部分に感じた」と指摘しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 03:24 PM | Comments (0)

October 28, 2004

野田秀樹「赤鬼 日本バージョン」

 今年の演劇界で、野田秀樹の「赤鬼」(RED DEMON)3バージョン公演は、長く記憶に残る出来栄えだったのではないでしょうか。ぼくも日本バージョンを見終わった瞬間は人並みに心動かされたのですが、会場を出ることは、かなり違和感が湧いてきました。どうしてそうなったのか、自分なりに舞台の構造を踏まえて考えたのが、以下の文章です。少し長くなりましたが、ご覧ください。

◎クライマックスはどこにあるか 鮮やかな舞台実践とテキストとの差異
 赤鬼(RED DEMON) 日本バージョン(10.13.2004 at Bunkamura's Theater Cocoon)

 うわさの「赤鬼」(日本バージョン)をやっとみることが出来た。10月13日のマチネ、場所はシアター・コクーンの中2階席だった。中央にしつらえられたひょうたん型の舞台を斜め上からみる2時間弱。おそらく今年の演劇界で特筆される公演だと思われる。野田の成熟が存分に発揮された芝居として語り継がれるかもしれない。日本バージョンをみただけのぼくでも、容易に想像できる見事な仕上がりだった。
 また外国人を配役に加えるとか海外公演に出かけるという例はあけれど、英語だけでなく、タイ語、日本語の3バージョン公演を実現する試みは聞いたことがない。しかもそれぞれの国ですでに公演したうえで3バージョンを一挙に国内で実現したケースは、一国的な空間に閉じこめがちな芝居を、アジアを含めて多元的に展開する鮮やかな実践と言うべきだろう。

 海外の俳優をそれぞれに配置し、演出も変え、その都度野田がステージにも立つ。8月14日のロンドンバージョン(「RED DEMON」)を皮切りに、タイバージョン(9月14日から)、そして10月2日から20日まで続く日本バージョンで「赤鬼」全体が締めくくられた。

 日本バージョンで舞台に立つのは小西真奈美、野田秀樹、大倉孝二の3人。「あの女」と、知恵遅れの兄「とんび」、それに「女」にまとわりつく村の道化役「ミズカネ(水銀)」だ。また3人は乳飲み子をさらわれたと訴える母親や、村人、長老などの役を一瞬のうちに演じ分ける。赤鬼はヨハネス・フラッシュバーガー。長身、ひげ面。明らかに異人と分かる体躯と風貌である。

 筋はそう入り組んでいるわけではない。
 ある日、異人が浜に打ち上げられる。怪異な風貌から村人は「赤鬼」と名付けるが、よそ者ゆえに疎まれている「あの女」ら3人はやがて「鬼」に近づき、気持ちの通じ合う「人間」だと気付く。赤ん坊をさらったという誤解や、安住の地を求めて航海する船団の斥候役だと見破られたことなどが重なって、赤鬼と女の処刑が決まる。しかしミズカネの機転で舟を調達、3人は海の向こう目指してこぎ出す…。

 四周を座席で囲まれたひょうたん型のステージで、ポールとネットという簡単な道具で浜辺や広場、洞窟を構成する手際。海の揺れと心の動揺を身体の揺れで同期させる技法。暗転を多用して時の推移を表現する工夫。せりふを効かせるため用いられる言葉遊びと道化的=異化的な身振り。いずれも淀みなく、巧みな手筋で運ばれる。せりふも演技も、熟達した演出のタクトで可能になった。

 外国人を暮らしの中に受け入れられるか、村世界を頑なに閉じて異人を排除するのか-。海に漕ぎ出すまでの展開が押し出す問い掛けは疑いようもなく直裁で、大小のエピソードと演劇的な起伏を折り重ね、だれにもわかりやすく提起される。開始早々は野田のせりふの一つ一つに笑いで応えようと待ちかまえていた客席も、幕切れ近くになると舞台に引き寄せられ、しわぶき一つ聞こえない。終演と同時に漏れるため息に似た高揚が熱い拍手に現れている。野田の直球が確かにそれぞれの胸に届いているように見えた。

 しかし、果たしてそうなのだろうか。会場から引き揚げる満足そうな顔、顔、顔を見ているうちに、何とも言えないわだかまりが胸に巣くうのを感じた。「異人排除」だって? それでは海に漕ぎ出してからの展開は、どこへ行ってしまったのか-。

 最後のドラマは、海に漕ぎ出した小舟の上で起きる。
 赤鬼を待っているはずの船団は姿を消していた。行くあてもなく食料もないまま、漂う小舟の上で意識が薄れた「女」は、ミズカネが与えるフカのスープで命を長らえた。やがて3人は飛び出したはずの浜辺に打ち上げられる。「鬼」の姿はない。消えたなぞをだれも語らない。「女」はあるとき、自分が食べたフカのスープが「赤鬼」の人肉だと知り、崖から身を投げて死を選ぶ。「鬼が人間を食うのではなく、人間が鬼を食う」事実がストレートに投げ出されるのである。

 Web上で演劇評を掲載してきたCLP(クリティック・ライン・プロジェクト)サイトで、評論家の長谷部浩は「純粋な結晶」というタイトルで次のように述べている。
 「『RED DEMON』は、単なる異文化コミュニケーションをめぐる寓話ではない。差別と被差別、自由への憧憬、人肉食と生の意味、知性の脆弱さなど、野田秀樹がこれまで執拗にこだわってきたテーマ系が、すべて出揃い、しかも縒り糸のようにからみあっていると気がついた」
 野田の軌跡を同伴しつつ考察してきた人らしいさすがの深読みだが、実際の舞台は深読み通り進行したとは言えなかった。

 野田はどこに力点を置いたのか。「RED DEMON」に関して、ロンドンバージョンに登場した役者のコメントが、会場で販売されたプログラムにずらりと並んでいる。長いけれども引用してみよう。

 タムジン・グリフィン(あの女) アウトサイダーのこと、自分と違っている者を悪魔化してみることなどが、シンプルな美しさで描かれている。…シンプルと言っても浅いわけではなく、テーマが深く明確に描かれている作品です。
 マルチェロ・マーニー(とんび) 人が自分と違うものに対してどう扱うのかということが描かれています。われわれは決して開かれていない。人種問題を乗り越えたつもりでいても、自分でも気が付かないうちに壁を作ってしまう。だから戦争がある。秀樹はそういったことを普遍的な物語の形にして伝えている、すばらしい作品です。
 サマンサ・マクドナルド(村人) だれもが人生の中で、人と違うということを感じることがあるだろうけれど、人を受け入れる寛容さが重要であると語っている作品だと思います。

 これらのコメントで指摘されるのは人種的対立、異なる意見を持つ人との対応と受容である。少なくともロンドンバージョンの役者たちはこの作品を「異文化受容」問題として受け止め、演じていた。作品の基本性格について、野田がそう解釈されるよう仕向けたことは間違いないだろう。日本バージョンもその線に沿って構成されていた。だから、異文化コミュニケーションがテーマだとする評が圧倒的に多かったのもそれなりに根拠があると思われる。

 逆に言うと、この舞台は、海原で起きる一連の出来事をあっさり端折ったとしかいいようがない。特に赤鬼を食べて命をながらえた「あの女」が真相を知って崖から身を投げ、命を絶つエピソードも、伝聞の一こまとして簡単に処理されるのである。

 他人を食べて生きながらえる-。自分の命と他人の命がぶつかり合うアポリア、その事実を自死によって贖おうとする心性を、真っ向から問いかけるはずの結末は、物語のエピローグとして手短に美しく、しかも心のひだをすり抜けるように扱われる。演じられるクライマックスは、それ以前の村での出来事に集約されているのである。

 野田が意識的にそう仕向けたのかどうかは分からない。テーマの分割を避ける無意識の知恵が働いたのかもしれない。客席を混乱させず、しかも客席に過度に重いテーマを投げかけない。これは観客に余分な負荷をかけず、しっかり感動して帰ってもらうための確かな選択だったことは間違いない。

 演じられた舞台と語られたテキストとでは、クライマックスが違っていた。「赤鬼」に見えた狭間はまた、野田芝居の人気の秘密を裏から照らし出してくれたのかもしれない。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、10月28日)

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October 27, 2004

二兎社「新・明暗」

 人気劇作家永井愛が、夏目漱石の未完の小説を現代の夫婦の物語として描き直した意欲作の再演。初演時とほぼ変わらない顔ぶれで、10月初めの埼玉公演から全国ツアーが始まり、11月の大阪公演まで続く予定です。
 10月16日の福岡公演(大野城まどかぴあ・大ホール)を、「福岡演劇の今」サイトが「鮮明な表現で作る、何とも不思議な雰囲気」のタイトルで取り上げました。「漱石の原作が、決断しないことの自由さを中心に据えてアンニュイなのに比べて、この舞台では、それもひとつとしてのあり方と相対化していていくつかのありようを並存させ、それらの間を渡り歩く。それらのありようの鮮やかなコントラストは却ってそれぞれを鮮烈に印象づける」と述べています。

 東京公演は世田谷パブリックシアターで10月22日-11月7日、その後は札幌(11月17日)、滋賀(11月19日)、大阪(11月20日)の予定。

追記(10月30日)
 「藤田一樹の観劇レポート」は東京公演の様子を次のようにリポートしています。
 「本当に良かったです。初演よりも断然、パワーアップしていて再演の方が良かったです。
確実に完成度が高くなっていると思います。…初演では、脚本の印象が中心だったのですが、今回は演出がとても良くてやっぱり永井さんは、凄いなぁと思いました…」
 気持ちよく書き込んでいる様子が伝わってきますね。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:04 AM | Comments (0) | Trackback

October 26, 2004

メタリック農家「鳩」

 「休むに似たり。」がメタリック農家「鳩」公演(10月22日-24日、しもきた空間リバティ)を取り上げています。「血糊飛び散る、おどろおどろしい(ところもある)舞台の雰囲気。あたし個人としちゃ思うところはあるけれど、しっかりと見せる一本」と述べています。
 このページにコメントを寄せている「おくむら」さんは「休むに似たり。」の筆者と同様、筋金入りの芝居通。東京近郊にある小劇場のめぼしい芝居をほとんど見ているのではないかという目利きです。その人が「この若さでこういう破綻のない物語を書けてしまうところが、大したもんだと思いますな」と太鼓判を押しています。「眼福」で目がくらむとは思えませんから、作・演出の葛木英は要注目でしょうか。
 当然ですが、異なる印象も。「Stereo」サイトは「テンポも良く、ストーリーも面白い。一人一人のキャラもしっかりとしていて、個性を生かされているんだな~というのが感じられた」と前置きしながら、「しかし、ラストが解らなかった」と述べて「困惑」を感じているようです。

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October 25, 2004

少年王者舘「こくう物語」

 ダンスや演劇などをフィールドにする「ワニ狩り連絡帳」が、少年王者舘「こくう物語」公演(10月20日-24日、下北沢スズナリ)のレビューを載せています。
 「もともとがマンガ雑誌の平面性を舞台に移植する試みとして、遊び所満載の楽しい舞台であり、演出はより過激にカットアップ性を増して、時間軸も空間軸も飛び越えた楽しい舞台にはなっていた。…2次元と3次元を行き来するようなビザール感覚には満ちている。役者陣も、そういうバカバカしいシチュエイションを演じ切る「おばかキャラ」は、人材豊富になってきているようには思う。いや、変な男優が増えたよね。たしかにそういう面では面白い舞台だった」と述べています。続けて「特に、毎回ながらの意味不明な強引な展開は今回も冴え渡り」という個所にきて、思わず頬が緩みました、ハイ。
 その上でかつて舞台を牽引した役者や振り付けが不在の影響を踏み込んで指摘しています。

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October 24, 2004

五反田団「いやむしろわすれて草」

 五反田団「いやむしろわすれて草」公演のレビューがあちこちに出ています。
 「ハンサム部ブログ」は「今年一番おもしろかった。戯曲、良い。演出、的確。出演者、素敵。スタッフワークまとまりがある。ただ、やや玄人好みかも」と切り出し、「平田オリザ先生よりも、世界のとらえ方が好きだし、細かい技術にしてもそんなに負けてない」と推しています。
 「こんなものを買った。-ムダ遣い日記-」サイトは「真摯であることと、自分のスタイルを持つことは同意だと思う。そして五反田団既にそのスタイルを確立していると思う」と述べています。

 「休むに似たり。」も「わりとチープさが売りの五反田団、今回はどこか本気感漂います。チラシひとつとっても。いままでの五反田団と違う感じにとまどう指摘もありますが、作品を見れば納得、五反田団という枠の中では計り知れないぐらいの、傑作」と評価しています。
 五反田団「いやむしろわすれて草」はオルコットの「若草物語」が原作。「X-ray」サイトは珍しく?前田版「若草」を共感込めて紹介しています。「内気で病弱、亡くなって、その暖かさ、優しさが、いかに大きなものであったかを、他の家族に知らしめるお役目のベスには、『それでも、おとなしすぎる。彼女の言い分は何処に?』という疑問を、抱かずにはいられなかった。それを、前田若草が、ベットからほとんど離れることができない三女の視点で、スッキリと解明してくれたように思える」。そのあと、せりふを紹介しながら、そのわけをつぶさに展開しています。

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October 23, 2004

文学座『踏台』

◎愛すべきオジサンのための一喜劇

 文学座の喜劇である。創立以来、多岐に渡る喜劇のかたちに挑戦し、そのたびに白眉の出来を見せてきた。彼の系譜を辿れば久保田万太郎や岸田國士から別役実、つかこうへいまで、本当に多くの作家による良質の作品を上演しつづけている。水谷龍二の筆による『踏台』は、2000年に初演され好評を博した『缶詰』の後日譚。キャストはほぼ変わらず、渡辺徹が加わり花を添える。いや、添えるどころではなかったけれど。ともあれ、歌ありドタバタあり、そしてシンミリさせる。文学座流の風俗喜劇である。

 物語は大筋で感傷のかたまりであると云ってよい。かつて靴工場の社長、常務、専務だった三人のオジサンは、今やビルの清掃業者。或る夜、大手広告代理店の一室で社内人事をめぐる騒動に巻き込まれる。過去の悪夢を踏台として今を、未来を生きようとするオジサンたちは、我等遺物に非ずと気を吐くがしかし、どうにも「オジサン」然たる姿は否めるものではない。いわゆる「団塊の世代」と若者たちとのあからさまな時代表象的やりとりに思わず鼻が鳴る。その潔いまでのジェネレーション・ギャップ自体がすでに微笑ましく、敬遠されがちなオヤジギャグさえ何の臆面もなく連発される。それが許されるのは百戦錬磨の文学座オジサン俳優たちの魅力に他ならない。

 主演トリオを演ずる角野卓造、たかお鷹、田村勝彦ら文学座の手練の周りを気にしない必死さが笑いを誘う。そう、オジサンたちは一生懸命なのだ。そして熱い。ときに暑苦しいほどに。内向の世代もすでに遠く、目下流行の銘柄は「自閉」を旨として憚ることも知らない世情だけれど、愛すべきオジサンたちは負けじと舞台を駆け回る。中でも角野卓造は本当に達者で、そこに居るだけで或る種のおかしみを醸すのは、別役作品で演劇の基礎を築いた功でもあろう。たかお鷹の即興や楽屋ネタにさえ見える、計算し尽くされた演技や田村勝彦のすっとぼけた新喜劇調の優しさもいい。また渡辺徹の存在感は、舞台をあっと言う間にお茶の間に引き寄せてしまう求心力を持っており、観客の目を惹く。全体として線の細い女優OL陣の中、栗田桃子の器の大きさが光る。ジョニー・サマーズの「ワン・ボーイ」をはじめとするフォーク・ソングも郷愁を誘う。至って現代風、ややもすれば平々凡々とやり過ごしてしまうオフィス・コメディであり、鼻もちならぬ懐古趣味と見られておかしくない設定を、戯曲世界を丁寧に視覚化する鵜山仁の演出のもと、ほのぼのと、あっけらかんとした「おもしろい」舞台へと昇華させた。

 しかし、以上の長所はどうしても俳優の手慣れた演技だけに寄りかかり過ぎて、作品としての精度は物足りないと云わざるを得ない。前作の好評からか、それを受け継いでの路線が展開されるため、初見の観客にとっては少しばかり戯曲の不備を問わずにはいられないし、「つづきもの」として考えても、強引な展開とあまりに唐突な幕切れは予想の範囲内であるにもせよ、「物語」としての強度に欠ける。時代を超えて響く音楽のモチーフも、主演三人の歌の巧さは措いて、劇的機能は不発だった。文学座という恵まれた「場」に甘んじて、安易な「おもしろい芝居」をつくるだけではどうにも足りないと思うのだ。でなくては、劇場で味わう思いが本当にただの「団塊の世代のための演劇的感傷」になってしまわないかと、杞憂ながらもつい考えてしまった。それとも、筆者が団塊以降の世代であるがため舞台の熱を肌で感じきれずに、知らず冷めた眼で観ていたのだろうか。(後藤隆基/2004.10.22)

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October 22, 2004

時間堂「月並みなはなし」

 「ンチャ通信」サイトの「演劇の部屋」は1996年から毎年、数多くの劇評を掲載してきました。好みのランキングもあって目を離せない演劇サイトの一つです。この10月は時間堂「月並みなはなし」公演(10月1日-4日、王子小劇場)のレビューを1本だけ掲載しています。
 時間堂は黒澤世莉が「堂主」の演劇ユニット。今回は月移民に出発する人を、最終選考に落ちた6人の中からあらためて1人だけ選ぶ設定。ストーリー展開のおもしろさ、演出のすばらしさを指摘しながら「面白かったけど、心は動かされなかった」と述べ、その理由も詳細に述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 01:40 AM | Comments (0) | Trackback

October 21, 2004

ク・ナウカ「アンティゴネ」

 「舞台批評」サイトが1カ月ぶりに動き出したようです。H・アール・カオス「白夜」公演に続いてク・ナウカ「アンティゴネ」公演を取り上げています。
 ク・ナウカは昨年の「マハーバーラタ」公演に続いて、東京国立博物館を会場に使いました。特に今回は、正面の噴水池とエントランスを使って野外舞台にしました。まずその会場設定を取り上げ、「博物館本館という背景だけで十分にある種の荘厳さというか雰囲気が作られているので、このロケーションを選んだ宮城のさすがのセンス」と指摘したあと、物語のあらすじを詳しく紹介します。
 その上で「日本的な死の美学とギリシャ悲劇の死の美学が微妙に重なり合い、アジア的な音楽とともに、死そのものを異化しようとする印象だった」と述べています。

 公演は台風の影響で雨にたたられた(中止の日もあった)ようですが、「野外劇には厳しい状況だったが、雨合羽、クッション、カイロ、大きめのビニールの一式が配られ、十分な配慮がなされていた」と劇団の行き届いた態勢にも触れています。

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パパ・タラフマラ「パレード」

 パパ・タラフマラは息の長い活動を続けています。Webサイトをみると、1982年の公演がトップに載っているので、20年余りの長い歩みを続けてきたことになります。
 今秋、稽古場としても使っているスタジオサイで開かれた「島~ISLAND」公演をみました。ぼくがパパ…のステージを何度かみたのはもう10年あまり前ですから比べるといっても期限切れかもしれませんが、やはり年月の重みを感じさせるパフォーマンスでした。詳しくは別の機会に譲りますが、渋い、熟成した雰囲気が漂っていると思います。
 以下、参考までに、90年末の「パレード」公演について書いた感想を掲載します。

◎PAPA TARAHUMARA /PARADE
1990年12月26日、青山スパイラルホール。

冷たくてあったかい。モダンで懐かしい。さり気ないのに緻密…。そんなふしぎな撞着に出会うことはないだろうか。パパ・タラフマラの「パレード」公演をみて、相反する二重三重の感情のもつれを体験した。

パパ・タラフマラを初めてみたのは一昨年の秋、東京・恵比寿のファクトリーで行われた「パレード」公演だった。今回は東京・青山のスパイラル・ホールでの年末公演。何度か上演している代表的作品だけに、骨格は変わっていなかった。

白が基調のステージに、先の丸い白の円筒が何本か立っている。やはり白っぽい運動着ふうの衣服を身に着けた男女が、素早く、あるいはゆっくり、時には疾走して舞台を横切っていく-。そんなオープニングに、モダンなステージの特質がよく出ているように思えた。

言葉はほとんど出てこない。鳥の交信のような短い叫び、意味不明の言葉の散布が時折、ミニマル風ありアフリカのリズムありの音楽に乗ってみられるだけ。とりたててストーリーがあるわけでもない。時折ふしぎな形態のオブジェが現れ、出演者が戯れたりする-。

 基本のコンセプトをむりに振り付けたりしないから、こちらの身体にも余計な力が入らないし、自然なまなざしでいられた。 だから「意味」を汲み取ろうという試みは、肩すかしを食わされる。ぼくらはただ、そこに拡がるひとの動き、光と影(照明)、空間を演出する音楽に身を浸し、同調するだけである。

そんな「充実した空白」とでも表現するしかないステージから、何が浮かび上がってくるのだろうか。

都市でなければ発想できないモダンなオブジェや音楽。汗も臭いも感じさせない白っぽい清潔感。「意味」を消去する洗練されたスタイル。どこにでもあって、どこにもない、宇宙の異星に現れる無国籍の風景-。海外にも通じる普遍的な内実であろうか。

しかし何かが足りない。隙のない動き、統率された空間に欠けているのは何だろうか。しばらくぼんやりしていると、あるイメージが浮かんできた。それは笑いだった。身体に宿る哄笑、爆笑、失笑、微笑…。場を和らげ、空気を解き放つ笑い-。

 アランはたしか「幸福だから笑うのではない。笑いが私たちを幸福にするのだ」と語っていた。そのたった一つの欠如が、パパ・タラフマラの国境と国籍を、それこそさり気なく表しているように思えた。当然のことながらそれは、ぼく(ら)と通底しているという痛みの感覚を伴っている。

パパ・タラフマラは新作「ストーン・エイジ」の東京公演を3月にした後、京都、大阪、名古屋でも公演する予定という。また秋にはロンドンで開催される「ジャパン・フェスティバル91」に参加が決まっている。

それが待ち切れない人は、TEL0425(74)3270(サイ)でイベントやCDの問い合わせを-。
( 初出:医療総合誌 「ばんぶー」 1991年2月号)

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H・アール・カオス公演「白夜」

 舞台批評家の志賀信夫さんが「Tokyo Dance Square」サイトに「白夜を見つめて」というタイトルで、H・アール・カオスダンス公演「白夜」(10月14日-15日、世田谷パブリックシアター)のレビューを書いています。
 H・アール・カオスは1989年、演出・振付家の大島早紀子とダンサー白河直子により設立されたダンスカンパニー。独特な美意識と哲学に支えられた創作活動は国内外で高い評価を受けている。今回の白夜公演に関して次のように述べています。

 「白河直子のソロは、いつも同様の存在感で見ごたえがあるが、かつての暴力的とも思えるほどの早さと強さは感じない。そして、そのぶんしっかりとした風格のようなものが備わってきた。また、そぎ落とされた裸身の上半身を反らせた姿の美しさは、例えようもない」
 「大島早紀子は雑誌『Bacchus(バッカス)』(02号)のインタビューで、「『白夜』は夜の闇を失った時代の寓喩なのです。テクノロジーに取り憑かれた現代人の悲鳴を表現できればと思います」と語っているが、むしろ19世紀末小説やゴシックロマンに通じる、闇の幻想的世界に、デジタル映像が乱入するという印象が強かった」
 同時に多くの写真が掲載され、ステージの一端が伝わってきます。

 「H・アール・カオス」サイトによると、山口公演(10月23日-24日)、北九州公演(11月21日)が予定されているようです。

STAFF
構成・演出・振付/大島早紀子
照明/笠原俊幸
舞台監督/北條 孝、佐川明紀
音響/関 克郎、清田泰孝
映像制作/横堀 晶
映像/竹内一浩
衣装/朝月真次郎
空間美術/H・アール・カオス
舞台美術/渡辺美乃利
制作/柏 雅弘、梅原洋子、廣中由美子
制作協力/カンバセーション

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October 20, 2004

三条会 『女の平和』

 古のアテナイの地に戦争の雨が降る。どうにも止まぬに業を煮やした女たちが緊急に会議を開く。リーダーたるリュシストラテは各地から同志を招集、議題は「如何に戦争をやめさせるか」。アリストパネスの『女の平和』とは、男たちのつづける戦争に女たちが性のストライキによって終止符を打たんとするギリシア喜劇である。戯曲、演出、俳優という三条の光柱が舞台に会す。演劇にとって当り前と云えば当り前の、しかしその圧倒的な力強さと魅力で他の追随を許さない三条会が挑んだ最古典劇は、関美能留の演出が炸裂し、本当に「演劇を観た」という手応えを実感できる刺激的な一夜だった。

 もう時代遅れなのだろうか、いわゆる9.11からイラク戦争の頃、世の中を反戦運動が席巻したが、ほとんど裾野にとってデモはパレード、反戦歌は流行歌、言葉は虚ろに懸命な叫びも響けど余韻は残らなかった。古典に対する態度も同様のことが云える。特にギリシア劇などは概念と様式ばかりが先行して取り扱われ、「古典」という名のもと無条件に礼讃されることがままある。海の向こうからの時差を無理に我が身に抱き寄せたところでポーズにとどまり、さりとて今の生活感覚に沿って等身大に縮小すれば事実や物語を歪曲するだけなのである。これは一種の反戦劇でもある作品だけれど、関版『女の平和』は二十一世紀の日本に生きるわたしたちが声を大にして戦争反対を唱える胡散臭さを絶妙に回避し、本質を見事に抽出した上で現代に引きつけられている。しかも、ただわかりやすいだけではない、本当の意味での古典作品を現代に上演する試みが証明されている。

 「目眩く」という言葉がよく似合う舞台には一見、アリストパネスの影も形も消えてしまっているかのようだ。しかしよくよく観ていれば、たしかにアリストパネスの鋭い批判意識と猥雑さが心のあらゆる岸辺に押し寄せてくる。ギリシア、アテナイ、反戦、平和、オリンピック。恐ろしく単純な連想ゲームになってしまったけれど、遊び心沸き立つ祭典に宝石箱のような趣向が凝らされ、大上段に構えることのない反戦劇に仕上げられていた。そこで起こるすべて事は至極シンプル且つ親切なのだった。

 性愛は生活の必要である。男女変わらぬ生命の根幹である。従って我慢にも限界がある。いい加減に困り果ててしまうのだ。しかし、一方的ではない。互いに強いた忍耐の攻防の末、比較的あっさりと男が折れた。結局のところ戦争とは男同士のとったとらない、欲しい嫌だという喧嘩なのであって、単純化すれば殴り合いや「ぐさ」「いて」と刺しつ刺されつする一事に他ならない。男と女の風景も、男の強がりと情けなさに集約される。今日の性意識とのズレを、コミカルな男女模様と性描写によって、心情の上で大いに共感できる、しかし戯曲の風味は損なわない寓話として映しだした。降り止まぬ雨はイメージの連鎖を経て、やがて平和的な解決に向っていく。ピンカートンの帰りを信じて待つ蝶々夫人が歌う、プッチーニは『蝶々夫人』〈ある晴れた日に〉の美しさとともに、立崎真紀子から榊原毅へと移行したリュシストラテの宣言を受けて朝陽の注ぐなか、別れし男女は再びひとつに戻る。それまでの猥雑は静まり、神聖な光に満ちた大団円のフィナーレである。

 三条会は思想とか哲学とか呼ばれるものを、叩いて千切って丸めて捏ねて、しかし決して放り投げない。否、遙か遠くへ投げ飛ばす、ように見せる。行方を追うも視線の先には太陽が輝くばかり、ふと振返れば彼の手に花一輪、姿を変えてそこに在る。浅はかな予測などはまるで信じられぬ角度から裏切られる魔術的演出。BankART1929馬車道ホールの上下、左右、縦横、遠近とあらゆる位相に俳優が配され、すべての場所で同時多発的にそれぞれ登場人物の心情が交差する立体的空間。各場で温度と速度の抑揚が波のように襲いかかり、展開につれ楽しさに拍車がかかる、健康的な衝撃の連続。胸躍り、しみじみとし、笑いが溢れる。知性に富んだ比較の矛先を探せないユーモア感覚。荒唐無稽な哄笑とも昨今流行のナンセンスとも違う上質の喜劇がそこにはあった。もはや単なる古典劇の翻案ではない、紛うことなき現代演劇としての三条会的喜劇である。俳優の汗と唾、肉体の脈動。鍛えあげられた声の交響楽。次々と空間が塗り替えられていく、オリンピック競技300種目を束ねたような躍動を繰り返しながら50分をただならぬ昂奮のうちに駆け抜けた爽快感に、思わず我を忘れてしまった。肩こらず楽しめ、奥深い人生を考えさせてくれる。こうした魅力溢れる演劇を、身体中の全細胞が希求している。(後藤隆基/2004.10.15)

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October 18, 2004

チェーホフ記念モスクワ芸術座 『リア王』(演出:鈴木忠志)

 1984年、「利賀山房」における劇団SCOTの初演以来、世界中で絶賛されてきた鈴木忠志の代表作『リア王』を、ロシアリアリズム演劇の総本山であるモスクワ芸術座が上演する。今10月末のモスクワ芸術座公演に先駆けての静岡初演である。鈴木忠志と芸術座は水と油ではないか、などと素人考えに杞憂してしまったが、起用された劇団の若手俳優たちは馴染みのない演技と身体表現の要求にもかかわらず、流石の力量を見せつけた。日本語字幕はあるものの、ロシア語で語られる台詞に言葉自体の意味伝達性は弱かったけれど、そこは台詞回しで聴かせ、また物語を十分に届け得る身体演技の美しさは刮目に価する。

 親子の生き方の違いが悲劇を呼び、その信頼と愛情が問題化される中にリアの精神錯乱が狂乱にまで高まる『リア王』。鈴木版では病院を舞台に、家族の崩壊によって精神を冒された車椅子の病人(狂人)が主人公となる。男の過去の記憶が『リア王』の物語と重なる。自身がリア王となり、幻想世界の住人として物語を語れば、病院という「現実」と男の住まう「幻想」という二層の劇構造により、そこで演じられる『リア王』は劇中劇として機能する。男の意識がつくりあげた登場人物と実際の病院の医師や看護婦は舞台に同居しながら、互いに気づくことはない。男を媒介にして二つの世界が奇妙な符合を見せ、混沌とした人間の意識を観客に示していた。外界の刺激が内部に与える影響が視覚化されて舞台に立ち現れる。リア王のような孤独と狂気は、誰もの横に寄り添うているのである。明確な意図と徹底した演出のため、尊厳は保たれ、決して浅くならない。そうした二重構造は悲劇的な緊張感に滑稽味と不吉さを与えていた。最終場でヘンデルの「ラールゴ」が音量を上げながら、男の死体を傍に『リア王』を読みつづける看護婦の哄笑響く幕切れの美しさには胸が震える。

 劇全体を通して抑制された表情や動作は、たとえば今なお記憶に新しいシンクロナイズドスイミングのロシア勢に見える豊かな感情表現とは正反対である。表情は殆ど一定に保たれ、足袋を履き、普段の生活ではあり得ない制約を受けながらの演技を要請されている。しかし、たとえば車椅子での脚の動きや、人形の如く直立しながら上半身をつかった振付などに顕著な恵まれた肢体が描く大きな軌跡は、日本人俳優では届かない身体美にも到達していた。細かな所作などにやや未完成はあるにせよ、十分な教育を受けた俳優の力には圧倒される。また、様式美が時に過剰な印象もあったが、稽古により解決される範囲内の問題であろう。リアリズムが写実ではなく「真実」主義であるならば、鈴木忠志の方法論が厳しい規範に基づく特殊な様式であっても、モスクワ芸術座の現代俳優に無理なく浸透するはずなのだ。

 ロシア人俳優の肉体と鈴木忠志の幸福な出会いは、奥床しさと荘厳なスケール漂う舞台を生んだ。白鳥が空を舞うことはないが、大地に根ざした力強く美しい能とバレエの融合とでも云えばいいか、そんな幽玄と華麗の混在する新しい『リア王』の姿がある。鈴木忠志が演出する、物語を貫く悲哀と静かな滑稽はどうやらロシアの民族性とよく似合う。堂々たる「芸術」という呼称を以て何ら遜色のない演劇的舞台の萌芽を見た。今後さらに訓練を積み、俳優たちがスズキ・メソッドを獲得していくとしたら、「スズキ・バレエ」とでも云うべき『リア王』が確立するかも知れない。という考えは少しばかり突飛だろうか。(後藤隆基/2004.10.17)

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俳優座「きょうの雨 あしたの風」

 「福岡演劇の今」サイトが俳優座「きょうの雨 あしたの風」公演(9日、ももちパレス)を取り上げ、「この舞台が俳優座作品?という違和感」の題で「劇団の伝統」を問いただしています。
 「きょうの雨 あしたの風」は原作が藤沢周平の短編。吉永仁郎脚本、安川修一演出。02年に俳優座で初演。今年は東北と九州の地方公演が行われたようです。
 「この舞台が俳優座以外の劇団によるものだったら、何のわだかまりもなく褒めることができる。描かれた世界では、人情の機微をていねいにとらえて庶民の生活のなかの哀歓をたっぷりと見せて楽しめるし、そのことは評価もできる。だが、徹底的に知的な舞台をめざした俳優座が、このような人情の世界に安住の場所を見つけたとすれば、かっての伝統はどうなってしまうのか。それなりにおもしろくて、それを俳優たちが楽しそうに演じていればいるほど、心の底からわびしさがこみあげてきた」と述べています。
 

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PLAYMATE 「SWAP 2004」

 「休むに似たり。」サイトがPLAYMATE 「SWAP 2004」公演(10月5日-17日、新宿THEATER/TOPS)を取り上げ、珍しく長文を掲載しています。今回はメンバーの「近江谷と川上が出会うきっかけになった作品でもある『SWAP』(96年初演、97年再演)を完全リメイク」(PLAYMATEサイト)したバージョン。長くなったのは「『休むに似たり』(自転車キンクリート)をみるまで、あたしの中の芝居のベストはこれだった」というせいでしょうか。
 「濃密だが、どこかあか抜けなかった印象の会話劇だった初演に比べると、役者も演出もよりスタイリッシュで見やすくなっているしパワーも感じるのだけど、さらりとしすぎている感も。もしかしたら変わったのは、見ているこちら側や社会かもしれませんが。オススメ」とまとめています。

 「某日観劇録」も取り上げ、「『人を好きになるというのはどういうことなのか』というベタベタかつ永遠の謎を、笑い半分、真剣半分で進めていきます」「脚本は序盤のネタが後半の振りになっている構成が、近頃めったに観かけないくらい考えられています。ちょっと無理に掛けすぎな気もしますが、久しぶりにこういう構成の芝居を観られたのは嬉しい」などと述べています。出演者の演技や舞台美術と衣装についてもきちんと目配りしています。鋭いですね。

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銀幕遊學◎レプリカント、Riverbed theater

 アリスフェスティバル2004で、「Hedless」を共通タイトルにした2劇団の連続公演が10月9-10日の2日間、新宿タイニイアリスで開かれました。米国シカゴで創立されたRiverbed Theater(河床劇団)と、大阪の「銀幕遊學◎レプリカント」です。「銀幕」は1988年に結成。「楽曲を視覚化するための演劇的コラボレーション集団」(Webサイト)で、音楽、ダンス、ことば、衣装(ファッション)などが一体となったパフォーマンスを長年手掛けてきました。
 このwonderlandサイトでも先にレビューを掲載しましたが、「うたうた」も目を付けています。特に「銀幕」のステージについて「人形のような動き。繰り返される動作。動かされずにいられない動き。流されずにいられない流れ。開けては閉ざされるドアから解放されず。人形に操られ、束縛されるモノたち。そんな閉塞的な状況もやがて変化していく」と印象的なフレーズで描写しています。

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October 17, 2004

松平健 錦秋公演

*以下の文章は公演内容について言及しています。新鮮な気持ちで公演をご覧になりたい方、これから劇場に行かれる方はご注意くださいますようお願い申し上げます。河内山

 新宿コマ劇場にはやはり、顔の大きな座長がふさわしい。
 三重の回り盆を従えワイドに丸く張り出したコマの舞台にあうのは、幅の広い顔だ。特に舞台前方で正面を向いて立った時、ワイドTV的(横に引き伸ばしたよう)に広がる舞台空間に負けない顔幅は、座長を座長たらしめる重要なファクターだといえよう。
 逆に顔が小さいと、コマ興行である必然性が希薄になってくる。そのことを確信したのが、昨年の氷川きよし座長公演であった。何かしっくりこないと思っていたら、顔が小さいのだ。もっとも客席へ視線を送る時、高齢の観客を確実に捉えゆっくりと微笑みを与える氷川の正確なアクト、また司会者を置き、氷川への賛辞とMCの段取りは任せる演出など、観るべきものはあったことをつけ加えておく。
 さてブームになって久しい「マツケン」。梅田コマ劇場と博多座に続く今回の新宿コマ興行は、一部を芝居、二部を歌謡ショウに分けた近年の彼のスタイルは取られず、『暴れん坊将軍スペシャル 唄って踊って八百八町~フィナーレ・マツケンサンバ』という一つの作品を上演するかたちで行われた。

 物語は、問屋の娘お七と伊織、元は役者だったお夏と松平演じる新之助(実は上様:徳川吉宗)の二組の恋のゆくえを軸に、連続する不審火・木材買占め・「からゆきさん」の斡旋業にまつわる陰謀の謎が解き明かされていくというものだ。これに上様が親しんだ子守唄の悲しいいわれも絡んでくる。また、上様の母への想いが時折夢幻のように現れる。歌と踊りを交えた物語が一件落着すると、爺の「無礼講ですな」を合図に歌謡ショウの状態に入る。その時刻を確認したところ18:50近く。終演は19:20頃なので、正味30分のショウである。羽根をあしらった白いガウンや金の鱗状に輝くサンバ用着流しなどショウの衣装は数点、セットは無礼講開始時点で幾何学的なデザインに電飾をほどこしたものになり、後はラストまで変わらない。
 
 観劇した当初は、プロットを持ち出し歌や踊りとの辻褄を合わせたことによって、全体が薄くなったという印象を拭えなかった。例えば物語中盤、簡素な芝居小屋の前で朗々と読経声のラヴ・バラードを歌う松平。衣装は「しっかりした身なりのお侍」ではあるとはいえ、それでも日常の動作に即した着物姿だ。寂しい景色の中で、二人の恋心だけが夕日のように煌めく場面に思えないこともない。ところがこの展開では、いなせな若衆から弁財天までやる幅の広さ(以上は明治座で松平が行った)、性ばかりか洋の東西も自在に行き来し予想を超えるセットと衣装、何でも踊る群舞など、予算のある興行ならではのレビューのお楽しみは、ことごとく削がれる。「一回限り」という触れ込みでお夏と新之助が小屋の舞台に立ち、マンボを踊る場面構成はよく練られていたので、いっそ時代考証を全部無視して、上様が世界中の踊り子と出会うインター・ナショナル版にでもするか、喜劇的要素の強いオペレッタの手法を取り入れれば、これほど地味にならずに済んだのではないか。無駄な思索に駆られた。
 結局、彼らは一本のミュージカルを目指したのだと思われる。だが出演者の積極性にも関わらず無礼講前の演出は、「台詞・歌・踊りの順番と場面転換が、緩慢だけれどもそれっぽい舞台」の域を出ていなかった。まず、夢落ちで終わる話のあらすじを皆でかわるがわる朗読しているような台詞が、舞台の時間を停滞させている。その台詞の前後に流れる曲の転調や繰り返しは、乏しく唐突だ。おまけに一幕終わりの縮んだ群舞から露骨に伝わってきたのは、余裕がなくて歌や踊りを忘れていた劇中の人々の辛さより、後の無礼講までずっと抑えで行くという進行上のせこい計算だった。ミュージカルの特性は、楽曲の層の間を泳ぐ(転調・繰り返される)主要なメロディを聞き、振付や身体性を観ただけで、登場人物のキャラクターや心理のみならず作品の構造・背景も大まかに掴めることだ、という自分の認識に従えば、個人的にこれをミュージカルと呼ぶのは苦しい。
 
 しかしそれはおくとして、元ネタであるTVシリーズの『暴れん坊将軍』の大原則、つまり徳田新之助は、視聴者の希望年齢(おそらく三十前半か)のまま歳をとらないということを再考したら、薄いとは言えないと考えを改めた
 TVの上様は身分を隠して江戸の町に行き、徳田新之助と名乗って市井の人々と交わり悪をこらしめる。途中で女性との恋模様他、どんなことがあろうとロンド形式で終わりまでに元へ戻り、爺が見合いを勧めたりする。形式という枠を設けて表現の実験をしたり超法規的手段によりSFドラマになるのと違い、堂々たるロンド形式の中に、主役の松平さえ駒として組み込まれているのが特徴的だ。
 こうした延長上に今回の興行があるとしたら、上様はTVシリーズの「リアル」を死守し、上様然として在ることが第一に求められる。ならばわかる。江戸をうろつかない新之助、町娘や闇金に群がる悪党と絡まない上様など御法度だ。舞台の上様はパワーアップして歌や舞を披露し、町の人々と比較するとその賢さ、格好良さ、善性、浮世離れ度合いは宇宙的だが、あくまでも形式を遵守しながらの純化であったことに注目したい。すでにTVシリーズが終了した事実を踏まえると、SPものとして上様を原則から逸脱せずロング枠で、しかも一度終わらせて永遠になった話を昨日の続きのように、コズミックな身体というTVにはない強さを持って松平が演じたのは意義あることだったのだろう。
  一体TVシリーズはどのくらい続いたのかと思い調べたところ、足掛け26年とのことだった。徳川吉宗の治世は29年(1716-1745)なので、実際の在位期間に迫る長きに渡り、松平は徳川吉宗を演じたことになる。29年の治世の間に幕藩体制の建て直しを図り、貨幣ではなくそれまで引き継がれてきた米の経済に基づいて改革を行った吉宗。かたや26年間、一人の俳優が吉宗/新之助として生きてきたロンド形式の世界。史実とフィクションの20余年の月日を指一本分ぐらいの太さで繋ぐものは、変わっているようで変わらないという在り方かもしれない。
 
 何よりも今回は、殺陣をはじめ身体に入っている芸に関して「マツケン」というソフトが大変優秀であることを実感した。さらに彼は耳が敏感なのだと思われる。踊る音楽によって音の取り方を、とてもさりげなく変えていた。だからあれだけ多種の、時に定義不可能なダンスを数十分の間に次々踊ることが可能になるのだ。舞台のマツケンサンバについては、筆者は明治座公演の時と、それより以前に一度観た記憶がある。初回の衝撃は薄れても、カタルシスは観る度に大きくなっていく。どこまでも朗らかなグルーヴを感じるからだろう。
 松平の歌は音程が合っており、決して不味くない。ただ声質があまりに朗々としすぎていて、張り上げると先にも書いたように読経的に聞こえてくる。でも松平はそのまま「hoo!」と楽しげに掛け声を入れる。歌としてはここでずっこけてしまうのだが、ちょっとでも巧く聞かせようとか、無難にまとめるなどという小細工をしない潔さが端的に表れているのがこの「hoo!」だ。
 とにかく、松平は全身全霊でがんばっていた。将軍の名に恥じぬ天晴れな座長であり、エンターテナーだったと思う。演劇業界のみならず、趣味人の間では知られた松平健のパフォーマンスとはいえ、TVでは北島三郎出演の歌番組に突然現れて踊ったりゲリラ的な露出だったのが、ここ数年で当たり前となった。悲壮感を微塵も漂わせずブームを受け止めた彼の身体性が、今後どこへ向かうのか楽しみだ。

 あとは脇の話を少し。ドスの効いた声がするなと思ったら三原じゅん子が出ていた。松平が「寂しくなったらまた来てください」で〆るMCの間、三原は両腕の力を抜かず下げた十手でぴしっと×印をつくって待機しており、きれいな立ち姿を見せていた。
 物語についても補足しよう。「火事になると会える」という台詞もあることから「八百屋お七」を意識しているのは間違いない。古典を下敷きにするとか本歌取りとか、この際なくても誰も困らないのに読みかえや引用が半端に終わっていて、かといって単に客へのサービスとして取り入れたにしては、脚本の余計な自意識が感じられた。
 かつて藤田まことはコマ劇公演の際、『必殺仕事人』のオープニングを映すスクリーンの後ろから、ターミネーターよろしくにゅっと出てきた。むろん観客は、そのもてなしに大喜びである。長寿番組は、古典に頼らずともそれ自体がすでに笑いの種の宝庫だ。今回もTVあっての公演ならば、使用曲や馬上姿の松平など、TVシリーズとの連歌の関係を密にすると、長寿番組のマンネリズムを逆手に取ったサービスができたと思う。(04.10.08 夜の部 新宿コマ劇場)河内山シモオヌ
松平健とエンターテイメントについて

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October 15, 2004

維新派 「キートン」

 「n.p.d. blog」が維新派 「キートン」公演(10月8日-25日、大阪・ふれあい港館臨時第三駐車場野外特設劇場)を取り上げています。モノクロで統一した風景、走りに走る演技は「キートンと維新派の共通点」としたうえで、「高さのある橋の上で、本物の夜空をバックに汽車に追いかけられるシーンには鳥肌がたった。話の筋も前回よりかは見えやすい。…海外に招聘されても、喝采を受けること間違いなしな傑作だった」と締めています。屋台村の写真も雰囲気が出ています。

追記
 「関西観劇ネットワーク」で「DOG」さんが同じ公演の感想を、「今回はバスター・キートンをモチーフにしているため、言葉はいつもよりかなり少なかったと思う。その分、身体表現など、他の部分が洗練されていた印象。言葉をもっと聞きたかった気もするが、いつもとは一味違う維新派ということで良かったんじゃないかと思う」と述べています。(10月18日)
 「中西理の大阪日記」は「キートン」公演を2度にわたってみたうえで、その都度維新派の特質、美術、音楽、役者の動きなどについて詳しく考察しています。1回目は17日、2回目は19日。17日のページで「維新派は以前のような祝祭的な演劇ではなくなり、よりアートよりのディレクションへと大きく舵を切ったということが新国立劇場の「nocturne」をへてこの公演を見てみていよいよ明確になってきたことが分かった」と述べています。(10月22日)

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演劇集団円 『トラップ・ストリート』

 別役実は難しい。何がといって、戯曲の魅力に拮抗する舞台に出会うことが難しいのだ。職業的劇作家としての地位を確立し、多くの集団に作品を提供している別役だが、上演が戯曲を読んだときのおもしろさを超えることは滅多にない。「作:別役実」という文字をチラシの上に見つけたわたしたちは、そっとほくそ笑みながら、誰にも気づかれぬように肩をすくめざるを得ない。ひとつの理由として、俳優の不在がある。別役文法は俳優を選ぶ。それも技術などではなく彼(彼女)の生理をだ。「その人である」ことが、必要絶対条件であるにもかかわらず、「その人」は決して多くないという悲しさ。

 別役戯曲は、状況設定もさることながら台詞の妙に勘所がある。言語レベルで抑制と激昂のバランスが保たれ、〈場〉の静けさと相まって独特の「おかしみ」を醸す。それを舞台上で体現するのはどうやら至難の業のようなのだが、その点、新作『トラップ・ストリート』を書き下ろした演劇集団円は戯曲を危なげなく処理し、戯曲にプラスアルファの楽しさを付加することに成功していた。その中心にいるのが、岸田今日子、三谷昇の二人である。岸田と三谷はまるでタイプの異なる俳優だけれど、別役芝居の登場人物に欠かせない静謐な「タタズマイ」をもっている。三谷昇の老人像は悟達した穏やかさが滑稽を生み、岸田今日子はもはや年齢を超越した色香と、異質さを標準に変えてしまう妖女の魅力を備えている。『トラップ・ストリート』におけるそうした二人の「タタズマイ」は、年齢を重ねた男優と女優の或る到達点を感じさせる好演だった。

 表題の「トラップ・ストリート」とは戯曲のト書きによれば「地図製作者がコピーされることを防ぐために、原図に秘かに書き入れておく偽の街路のこと。当然ながら、人がめったに入りこんでこない袋小路の奥などに、さりげなく隠されている」わけだが、そこに図らずも足を踏み入れてしまった男が、あるはずのない道を地図に書き込んだ女と出会う話。時空間と人間関係の歪んでいく様は圧巻で、自分は「メディア」なのだという女2を病院に入れようと画策する、岸田演じる女1だけが強烈な存在感とともに息づいている。しかし、彼女以外の人物が抱える違和感が、実は精神を病んでいるのは女1であったと転換するのをきっかけにガラリと位相を変える。一瞬で劇世界が転倒し、女1だけが異常な世界にいること、そして、場に対してちぐはぐなその他の人物が極普通の市民なのだと思わされるのである。さりげなさのうちに劇的展開がそっと仕組まれている。とはいえ、「妻を裏切り家を出た夫に復讐するために、我が子二人をその手で殺めた」という壮絶なギリシア悲劇『メディア』を素材にとりながら、ぼんやりとした、何とも奇妙な手触りがじわじわと浸透してくる舞台だった。

 幕切れ近く、「私がメディアである」と舞台から去る女1の後を全員が追い、男1と男3だけが残される。「何があったんです……?」と訊ねる男1に対し、男3が「何もなかったのさ……」とだけ呟く。すると周囲の舞台装置が片づけられ、舞台は無性格な空間に変容していく。そこは地図に記された単なる道で、どこでもない、「ただ通りかかっただけ」の場所。地図上の嘘に迷い込んだ男はもう帰れない。おぼろげに再度現れ、白いパラソルで月光を避ける岸田が「私は、メディア……」と夢のように語れば、存在するはずのない場所だけが存在を示す。

 終演後、果たして今の時間は、この芝居は何だったのかという思いに駆られた。内容の理解云々ではない。自分の身にさえこの90分間には何も起こらなかったのではないかという不安がつきまとう。たまたま通りがかった、内容自体がないような世界。そんな不思議な感覚に戸惑う観客は、もしかすると「トラップ・ストリート」に迷い込んだ一人なのかも知れない。(後藤隆基/2004.10.14)

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October 14, 2004

新国立劇場 THE LOFT Ⅰ 『胎内』(演出:栗山民也)

 新国立劇場〈演劇〉芸術監督である栗山民也からの「THE LOFT」という提案は、小劇場「THE PIT」をさらに縮小し、客席に挟まれる形で劇場中央に設置された小空間の創造。三好十郎『胎内』を皮切りに、『ヒトノカケラ』『二人の女兵士の物語』と、このところの栗山の仕事の根幹ともいえる「時代と記憶」という鍵言葉に沿った作品が上演される。御上のお膝元で行政と個人の演劇的欲求を統括してみせる、意欲的な活動の一環でもある。

 『胎内』の舞台となる、戦中に本土決戦に備え大地に無計画に掘られた洞窟は戦争そのものでもあった。そこに迷い込み、徐々に虚飾をはがれ生一本の精神と肉体をさらけ出していく三人の姿は、戦後責任への問いかけにもつながろう。自分たちのしたことに戻る、それが意図的であってもなくても、闇雲に駆け抜けた過去に立ち帰り、己のものとして見つめることから、「人間」としての再生がはじまる。極限の果てに死を示唆される幕切れ。母胎に帰ることで日本人―人間がもう一度生れなおす物語なのだった。

 上演に際し、栗山から『胎内』という作品に込められた願いがある。「THE LOFT」そのものを「胎内」に見立て、空間と演劇の関係性を再構築する。身体と言語の交流など殊更強調するまでもない常套句だけれど、作品の主題を覆う、題名にも示されるように霊的な防空壕を磁場にした原初的な人間存在と、言葉による濃密な舞台の追求を念頭においていた。

 にもかかわらず、舞台との間に感じた距離には劇場に仕組まれたはずの「胎内」感覚の欠如を思わずにいられない。「胎内」の言葉から単純に連想する内包感、肉感性は稀薄で、それは舞台演出にさえもやや洗練されすぎていた。各台詞は緊密に処理されるけれど、息づかいや肉感までも肌で見聞きするまでには至らない。そこでは「胎内」に観客が入ることは歓迎されず、傍観者としての立場を余儀なくされる。共犯者としてその場に居ることができない。ときに露骨な性的描写を気恥かしくも感じてしまったのは、筆者の小心だけが原因ではないだろう。粘着質の暴力性が目を惹く千葉哲也、おきゃんと艶の同居が魅力的な秋山菜津子、淡々としかし誠実な演技を見せた壇臣幸ら俳優陣は、肉体と精神の飢餓が牽引する狂気を熱演したが、その体温が客席にまで届かない。どこか冷静を保つ劇場は未完成の感も拭えず、観客と舞台が一体化することないまま幕は下りた。母胎の外側に置き去りにされたわたしたちは、登場人物の狂気と正気がせめぎ合う様をすら、ただ茫と眺めているほかに術がないのである。また三好十郎の硬質な言葉と生と死をめぐる重厚な観念―人生哲学に重きが置かれたためか、或いは空間上の問題もあってか、戯曲に見えるような、空気にすっと刃をひけばぬらっと血の滲みそうな頽廃的な生々しさが感じられなかったのが残念だ。(後藤隆基/2004.10.13)

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October 13, 2004

THE DEAF WEST THEATRE PRODUCTION OF『BIG RIVER THE ADVENTURES OF Huckleberry Finn』  

ミュージカル ビッグ・リバー ハックルベリー・フィンの冒険

アメリカの劇団、デフ・ウエスト・シアターに見た「違い」の意識 

 観に行こうと決めたのは、健常者と聾唖者が一緒に演じるこのミュージカルについて、手話が「いわばダンスの振付になっている」と紹介している文を読み、疑問を覚えたのが最大の理由だ。一見舞台をイメージしやすそうな説明だが、手話とダンス、どちらから考えてもその言い方は雑すぎるのではないかと思った。
 まず、アメリカ式手話(American sign language)はれっきとした言語(language)の一つだ。マイムとも違う。なぜダンスになるのだろう。ものの喩えだとしたら随分外している。『ビッグ・リバー』の俳優が創る身体のかたちは、最初から具体的な、決まった意味を持つsignが言葉として組み立てられたもののはずである。対してダンスは、必ずしも意味を持たされたり、物語のお供をする表現ではない。ダンスから振付家独自の音楽性や舞踊言語を観客が様々に受容し、作品をたぐり寄せることと、手話を見るのとはまったく別の行為である。いっしょくたに「どちらも身体の動き」と捉える目が、同じなのではないだろうか。
 紹介文の説明に疑問を呈するだけでは仕方がないので、道徳教育的な狙いが強い公演だろうか、と若干かまえるところもあったがとにかく観に行った。

 果たしてそれは、目で聞くパフォーマンスであった。彼らは手話で台詞を述べ、またある時はステップを踏みながら手話で歌っていた。声に出して同じ台詞を喋っても俳優の個性が出るのと同様に、一人一人の表現は違う。そうした彼らの台詞や歌のリズム、ブレス、強弱などを、私は語り手の身体を通して聞いているのだ。
 
 俳優は忙しい。ハックとともに旅をする逃亡奴隷のジム(M.マッケロイ)は、声に出して話し歌い、同時に手話を行う。厳しいダグラス未亡人の元から無法者の父親に引き取られ、逃げ出すハック(T.ジョルダーノ)は全身を駆使して手話で話し歌う。ハックの声の台詞と歌は、原作者のマーク・トウェイン役を兼ねた俳優(D.ジェンキンズ)が脇から担当する(彼は楽器も弾く)。麦藁帽に柔らかそうなシャツのハックに対し、三つ揃いを着こなしたマークのように、手話/音声の両者のいでたちは違う場合と、似た装いで出てくるパターンがある。その上、彼らの立ち位置が離れている(小説のページを模したパネルが立ち並ぶ装置の斜め上方、あるいはサイドから、または群集にまぎれ、音声担当が手話にあわせて台詞を言う・歌う)場合と、両者ぴったりくっつく場合に分かれる。立ち位置が離れている時は、聾唖の俳優の位置に近い方のスピーカーから音声が出る。
 ぴったりくっつく場合で代表的なのは、ハックの父親だ。容貌はあまり似ていないが、まったく同じ衣装を着て迫力ある髪型をした2人の俳優が現れ、ほぼ同じ振りをしながら手話と音声に分かれる。父親の周囲へ及ぼす迷惑、粗暴な振舞いは両者により増幅して表現される。両者はわずかに違う振りの時を中心に、細かく合図しあっているようだ。なお両者は、このように手話/音声に分かれる時と、手話/音声+手話になる場合がある。
 こうしたヴァリエーションは、演出上最大の効果を発揮するよう緻密に計算されているはずなのだが、繰り返し観ないと全貌を掴むのは難しいだろう。おまけに日本公演は字幕つきである。台詞を字で追いすぎると、手話による台詞を見逃してしまう瞬間がままあった。

 舞台を観ていると、手話は顔の表情や全身を駆使する特徴を持つ言語であり、感情を伝えるための身体表現力が鍛えられるのだなということもわかる。
 特にジョルダーノの、くるくる円を描くような滑らかな手話の軌道は際立っており、それは快活な喋り方のハックを思わせ、また一カ所に納まらない自由の希求者という、キャラクターの完結した側面をにじみ出させていた。一つ一つの手話が慎重で、強い意思を感じさせるマッケロイとともに卓抜した表現力である。ただし俳優の個性として突出しているジョルダーノの清潔感は、ハックという役柄を考えると評価が分かれるかもしれない。また弔いの場面で、メイドの母娘による深い海を思わせる圧倒的な声量の霊歌と、天上を繰り返し仰ぐ手と表情の、観ていて息が出来なくなるほどの万感を込めた手話の歌の二重唱は、今までに体験したことのない音楽だった。
 これらの動きは手話の言語的特性を生かして、手話による台詞や歌に発展させたものである。ステップ・表情・音による歌・手話による歌が層のように重なりキャラクターの感情の発露となった場面でも、他のミュージカル作品と同じく、歌とダンスが別の表現であることは注意深く観ていればわかるはずだ。仲間たちで遊びの計画を立てるところの、全員が浮き足立つステップなど、細かな振付は別に存在している。
 
 断っておくが、私は手話がダンスに見えたにもかかわらず「これは言語だ」と頑なに念じ続けていたのではない。実際に俳優の手話が始まったら、それは見るからに感情を伴う怒涛のsignsであり「言葉を話しているけれど、日常の喋り方とは違って、歌や台詞になっているのだろう」と、ごく自然に察したのだ。そして観ている間中、ここは語尾を伸ばしヴィヴラートを効かせているのだろうかとか、弾むように節をつけているのだろう、と想像力をかきたてられた。
 クライマックスでは大勢の俳優が舞台にいて、それまでの音声による合唱がふつっと消え、全員の手話だけが続く場面がある。静寂の中、大音量の歌が目に押し寄せてくるような、不思議な感覚にとらわれた。しかしいつもの「ものを見る手段としての目」を変えずに「揃って上体を動かしている」と考えたら、目から聞こえる歌の音量は絞られ、彼らの手話は群舞にも見えたかもしれない。結局のところ、手話が「ダンスの振付になっている」という言葉は、目を目としてしか使わなかった場合の感想なのだろうという結論に落ち着いた。

 『ビッグ・リバー』は筆者のように手話を学んだ経験がない者にも、手話という言語が、作品を成立させる他の諸条件―例えば音で聞こえる台詞や歌・ダンスなど―とまったく対等に舞台表現として機能していることを、明快に示す作品である。さらに手話が作品の中で孤立せず、他の諸条件と睦みあい、かけあったりアンサンブルになったりしながら、奴隷制をめぐる当時のアメリカ南部社会の通念(キリスト教義の解釈が背景にある)と実際に友人ジムへ抱く尊敬・信頼の念との壮絶な矛盾に悩み、後者を信じて成長するハックルベリー・フィンの姿を描いているから感動的なのだと思う。
 ジムとハックが仲違いの後に、月夜のミシシッピ河上でデュエットする「見える太陽や月は同じ でも 僕らは違う世界にいる 一つより二つの方がいい」という内容の歌詞には、デフ・ウエスト・シアターのスタイルが簡明に表されている。歌が強調するフレーズは、明らかに「同じ」ではなく「違う」である。『ビッグ・リバー』は『ハックルベリー・フィンの冒険』の骨組みを借りながら、聾唖者と健常者が用いる言語の違いを知ることの難しさと、違いを侵さず協調して一つの作業をすることの難しさに挑んだ軌跡の記録でもあるのだろう。
 
 装置についてつけ加えると、 舞台の中央に二畳ほどの台が置かれ、それにジムとハックが乗ると、彼らは筏の上にいるという見立てになっている。いざ河へ漕ぎ出す時は、台の周囲に並んだセピア色のパネルが上と横にはねて、鮮やかなブルーのスクリーンが現われた。冒険が始まるという物語上の展開だけではなく、紙と文字で親しまれてきた古い原作から新しく作品が旅立つ、という意図もあって、小説のページを模した古めかしいパネルがはねる装置を創ったのだと思われる。
 だが、当時の空気が鮮明に舞台に映し出されていたか、さらにその空気を現代に生きる彼らがどう捉えたのかということに関しては、全般に解像度が低く不明瞭であった。一言で書くと、舞台は無臭で温暖で清潔すぎた。
 原作は『トム・ソーヤの冒険』とともに、本国では大変よく知られた物語なのだろう。のみならずこの小説を支えるアメリカの、これぞ大陸という広大な土地、場所によって激しく変わる自然や気候、父と息子の関係の重要性、自由の重さ、州ごとの強い権限などはいにしえの神話的事柄ではなく、文化を育み今の生活とも少なからず地続きであるに違いない。
 そんな空気のように共有されているものを、地形も歴史も宗教も違うところにいる人間が、この作品を観て想像・喚起できる描法がどれだけあっただろうか。今回はその一番大事な空気が真空パックのように抜かれ、ハックの冒険譚があらすじに沿って上演されている印象を受けた。
 それよりも作品の時代を生きた人々が感じ、嗅いだであろう南部の空気、大陸の内側にいる人間が意識/無意識的に「当たり前」だと思っている背景を彼ら自身がよく見て立脚点を定め、劇場で描法を駆使して観客の五感に訴えることこそ、アートの初歩的な仕事ではないかと思う。俳優らがとまどいを見せるほど淡々と舞台が進んだのは、言葉のギャグを理解できない観客のせいだけではないはずだ。カントリーやゴスペルを用いた楽曲は「Dang Me」で知られるロジャー・ミラー後期の作品(作詞・作曲)である。が、演奏は凡庸で、特にカントリーは勘所とでもいうべき盛り上がりがなく平坦に流れてしまっていて、俳優の歌唱力と身体のふんばりに頼っていたという点も、舞台の弱さの原因として挙げられるだろう。(04.10.11 青山劇場)河内山シモオヌ 

Posted by : 08:25 AM

October 10, 2004

ポツドール「ANIMAL」

 東京・三鷹芸術文化センターで開かれたポツドール「ANIMAL」公演(10月8-11日)を、「白鳥のめがね」サイトが取り上げています。いつものように舞台の進行を丁寧に腑分けして、「仕草の連鎖によってゆるく描かれている」構造や、「人物の関係性や、そこで起きた事件の背景は、想像を働かせればきちんと解釈できるように、周到に説明的な要素がちりばめられている」事実を指摘します。その上で「今時の若者風のリアリティーが確かにある水準で舞台に実現されてはいた。しかし、このリアリティーは、集団性の上に初めて成り立つものなのだろう、と思った」「集団性によって、擬似的に、ドキュメンタリー的なリアリズムを実現しているということではないか」と述べ、「結局、舞台へと逃げ込むことでリアリティを保障されているドキュメンタリー風劇映画、というのが、この作品の正当な評価なのではないか、と思われる」と結論づけています。

 ポツドールのステージはこれまで見ていないし、今回も見られませんでした。そのため「白鳥のめがね」の評価が妥当かどうか分かりません。ただ、チェルフィッチュとの対比で、ポツドールの舞台に触れている点がとても興味を引きました。「いま」の風景がどう見えているかによって、歩き方も方向も随分違うような気がします。

 ポツドールのWebサイトによると、東京公演の後、10月15日(金)-17日(日)に大阪公演(in→dependent theatre 2nd)が予定されています。

追記(10/12)
このほかいくつかのサイトが東京公演に関して言及しています。「佐藤治彦公式ホームページ『H』アッシュ」の10月8日に公演を見た後の感想がかなり長く書かれています。「台詞があろうがなかろうが、ドラマがあってもなくても、ストーリーがなくてもいいのですが、そこに観客の心に伝わる何かがあるかを期待するだけでなんです。ところが、それがない。それが問題なんです」という個所がポイントでしょうか。(いきなり.cgiページで戸惑い、さらに行間なしの読みにくいレイアウトで参りました)
こんなものを買った。-ムダ遣い日記-」は「チーマー系の若者たちが群れるなか、ヒップホップが大音量で流れる。普通に自然な会話がなされているのだろうが、観客にはほぼ一切聞こえない。ダイアローグは全く聞き取れないまま、演劇は幕引きとなる。客電がつくが音楽は鳴り響き、客席は若干戸惑いながら、時計を見て終演と認識し席を立つ。なるほど。見る者が注目する物を決めないといけない芝居というのは、面白い手だ」と書いています。
 「雑記」サイトは「自分の中で何かが確実に変わった作品」の一つに挙げています。


Posted by KITAJIMA takashi : 10:43 PM | Comments (0) | Trackback

October 09, 2004

Shang Yu 「萩家の三姉妹」

 女性だけの劇団・未来樹シアターが解散し、主だったメンバーがshang yu(シャンウィ)として再結集した第1回公演「萩家の三姉妹」(9月4-5日)が、エル・パーク仙台スタジオホールで開かれました。作:永井愛、演出:いとうみや。このステージのレビューを、佐々木久善さんが「a n o d e」サイトに書いています。「ある地方都市の旧家・萩家を舞台に鷹子、仲子、若子の三姉妹と、彼女たちを取り巻く人々とをめぐる物語が季節の変化とともに描かれるのがこの芝居」で、「今回の上演は見事な出来映え」でしたが、「演出やその他のスタッフがすべて外部の人間」という「課題」が残ったと述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:27 AM | Comments (0) | Trackback

G2プロデュース「痛くなるまで目に入れろ」

 G2プロデュース第8回公演「痛くなるまで目に入れろ」は、9月が東京、新潟、大阪、広島と回り、福岡が最終公演(10月1-3日)でした。「G2プロデュース」は、演劇プロデューサー・G2が主宰する演劇制作ユニットです。1995年、生瀬勝久、升毅ら関西系の小劇場の人気俳優を集めた「12人のおかしな大阪人」で活動開始。「エンターテインメント作品を、商業主義に走らない丁寧な作りで発表することをモットー」にしてきたそうです。
 「福岡演劇の今」はこのステージについて「基本的にはシリアスなのにエンターテインメントでもあるというこの舞台。なぜエンターテインメントなのだろうか。それは、観客にウケるために「ウケる技術」を多用しているからではないだろうか」と書いています。詳しくは「『ウケる技術』の、オンパレード」と題した全文を読んでほしいのですが、このステージに関する文章で、舞台の様子がもっともリアルに伝わり、評価に説得力を感じました。

Posted by KITAJIMA takashi : 01:54 AM | Comments (0) | Trackback

October 07, 2004

BATIK『SHOKU-full version』

 8月最終週の週末は、We Love Dance Festival(このタイトル…素人オーガニックのような臭いが漂う)、芸術見本市とダンス関連の催しが都内各所で同時に行われた。イベントは互いにリンクしていたらしい。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2003 受賞者公演」と銘打たれていたBATIK『SHOKU』も、芸術見本市との提携公演である。会場のトラムは大入りで、公演に寄せられた関心の高さがうかがわれた。  

 さて『SHOKU』のポイントは靴だ。ダンサーの裸足に、ヒールのある尖ったパンプスが履かれている。重心が集まる細い踵の一点に力を込めて、ダンサーはガンガン床を踏む。中盤ではフラメンコ用と思われるシューズを複数のダンサーが履いて、音楽との間合いを取ったりずらしたりしながら激しく音を鳴らす。踏んでいる自分をアピールしているようにも見える。こうして時折靴の片方を脱いだり、両足とも裸足になったり、再び履いたりしながら地面を「踏む」ステップが執拗に繰り返された。
 
 公演当日に配られた来場者用チラシには、振付の黒田育世により「皮膚一枚に隔てられた内と外 内側を『自分』と感じる事、外側を『自分じゃない』と感じる事の不思議」(後略)と記されていた。
 靴と一言でいっても種類があるが、大抵それは皮(靴底)を隔てて内側(足)と外側(地面)を分けるものであり、靴を履いて地面を踏む時には、内・皮・外が必ず触れあう。そう考えると、靴は黒田のいう「内と外」を、もっともわかりやすいかたちで視覚化したものといえるだろう。黒田はおそらく、不思議と感じつつ自らも漫然と受け止めてきた「内と外との隔て」を、空気にさらされている足/靴の中の足、素足で踏む/靴を媒介に踏む、など足に特化してひたすら触れる感覚で検証しようとしたのだと思われる。
 ヒールの高いパンプスだけを用いたのなら、履くことによって「内側(足)」を、決して楽ではない靴の型にあわせる→枠によって「自分」がつくられていくという見方も可能かもしれない。しかし個人的には、踏んで音を出すダンス靴が出てきたことから、タイトルの『SHOKU』は「触(地面に触れる)」と、日蝕など「隠れる」という意味での「蝕(靴の中に隠れているが音で存在がわかる)」を含意しているのだろう考えた。というより、そうした『SHOKU』の音に感覚が導かれて、後から思考が「触」と「蝕」にたどり着いた、と書く方が実際の体験に近い。
 
 前半でダンサーの身体は回転しながら倒れ、痛そうな音をたてて繰り返し床に打ちつけられていた。先の「踏む」ステップは、幼児が癇癪を起こして地団太を踏んでいるようにも捉えることができるが、こちらは五体投地の行を思わせる厳しさがある。いずれにせよこうした黒田のたるみのない表現は、良い意味で彼女の「マーク」になりそうだ。かつて『セメント山海塾』という、セメントに浸かって身体が白くなった後、ゆらゆら動いている内に固まり運ばれて退場するというパロディーがあったが、『SHOKU』 のパフォーマンスもネタの材料にこと欠かない。
 
 身体が回転して打ちつけられる間、手は赤色のマントに覆われて半ば拘束状態にある。ダンサーはそれぞれ一昔前のテニスのアンダースコート(総フリル)状のパンツを身に着けており、別の場面で、手はそのパンツの中に突っ込まれる。何をしているのかは明らかにされないものの、幼児がとりとめもなくパンツの中をいじる、そんな趣がある。他にも、小道具の懐中電灯をつけるのは手でなく足であり、2人のダンサーが向き合って前傾姿勢の1人が相手を叩き続ける振りでは、手は叩いているというより地面と「触」する足のバランスを取って揺れているかに思われた。
 つまり作品では圧倒的に足が優勢であり、軽い手、本来の役割から逃れた手が表現される。徐々に靴を脱いでいき裸足で踊った後、黒田がステージ上をあちこち移動しながら、手に持った靴を叩きつけた。この手は「叩きつける」という役割を負うものの、鋭く伝わってきたのは叩きつける行為に込められた感情や意思や手の力の強さではなく、履いた(皮をまとった)状態の「触」では表すことのできない、内と外を隔てる「皮一枚」だけの音だ。
 場の転換により振りの動静・音楽・照明は大胆に変化するが、そうした中でも靴を叩いてからゆったりと踊る黒田のソロパートの、軽くしなやかな手は抜きん出ている。またラスト近く、膝をついたダンサーたちが横一列になって手を交差させる振りの弱々しく優しい動きには、理科のビデオなどによくある、モヤシがぬるぬると伸びていく様子を想起した。
 
 舞台後ろには大きな扉がそびえ、これは終始開かない。途中でダンサーが1人、逆立ちして寄りかかるがしばらくすると横たわってしまう。このように内省的な空間の使い方を踏まえれば、「内と外」は素足と靴という限定された表層の部分だけでなく、その背後に裸体と服、自分と他者、個人と集団という大きなテーマがあるはずなのだが、閉塞したまま終わった。
 最後、床に転がっている懐中電灯の合間をゆっくりと歩く黒田は、目立って内足だった。カーテンコールも内足だ。仮に内足歩きが振付ではなく単なる身体の癖だとしても、それは自分にとって「伸びやかな」身体の在り方を徹底して観せる、という黒田の意図なのかもしれない。クラシック・バレエの素養を持つ身体がそのように舞台上で表現されるのは、『SHOKU』における強度のある足から踊り手である黒田自身が距離を示す、戦略的な身体の使い方と捉えることもできる。

 しかし群舞は「意図的な脱力・弛緩」では済まない問題を残した。例えば一つ一つのシーンの後半になると、動きの強さ・リズムはそう変わらなのに全体が間延びして、場の転換や黒田の動きに頼りはじめるように見受けられた点。ダンサーたちの、シーンごとの意識のバラつきが原因なのだと思うが、どうみても戦略ではないという困惑を伴って素に引き戻される度に、作品の強度が失われていくのは明白だった。どんなダンスのステップとも違う『SHOKU』の破壊的な音によって、一瞬々の閃光にも似た「内/外の隔て」のゆらぎを感じることはできても、その先まで展開しなかった理由の一つはこんなところにあるのではないか。(04.08.29 シアタートラム)河内山シモオヌ

Posted by : 02:09 AM | Comments (1) | Trackback

October 06, 2004

イディット&ディマ「セパレイト・デュエット・イブニング」

 ロシア人のディミトリー・テュルパノフとバトシェバ舞踊団出身のイディット・ハーマンによって立ち上げられたイスラエルの身体表現集団クリッパ。総勢は若手も含めて20名前後の大所帯だが今回はリーダーの二人のみ来日。東京と福岡でワークショップとそれぞれのソロ公演を行いました。
 「福岡演劇の今」はソロ公演を取り上げ、「ふたつあわせてひとつの作品という作りになっている」「ふたつとも、えぐり出した現実をダンサーの身体に受け容れて定着させ、それを偽悪的とも見えるやり方でさらすが、ダンサーの受容力と圧倒的な表現力で多くのものを孕んだ存在感のあるダンスとして展開された。軽やかさや心地よさを拒否した、大地にへばりつくようなダンスだ」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:18 AM | Comments (0) | Trackback

October 05, 2004

東京「ドレスを着た家畜が…」

 「Culture Critic Clip」の西尾雅さんが「生と死、連鎖の破たんと迷い」と題して、大阪のビジュアル、ナンセンス、アバンギャルド系演劇を代表するクロムモリブデン、デス電所、WI'REの3劇団によるスペシャルユニット「東京」の企画公演「ドレスを着た家畜が…」(9月3-7日、HEP HALL)を取り上げました。作:竹内佑(デス電所) 演出:青木秀樹(クロムモリブデン) 美術:サカイヒロト(WI'RE)。そして3劇団から役者が3人ずつ出演。「エロでブラックなギャグに彩られた各ピースが再構成され、最後に全体像がわかる仕掛けだが、今回はひとり数役切替での複数の物語を廃し、固定した役のまま時系列どおりに進行する。いっけんシンプルな構成だが、謎は今回も次々くり出されサスペンスな展開はあきさせることがない」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 01:09 AM | Comments (0) | Trackback

October 02, 2004

世田谷パブリックシアター『リア王の悲劇』

 シェイクスピアには「普遍性」があるのだという。すぐれた古典作品が漏れず有するものだという。時代によらず常に「いま」を生きる人びとの共感できる心情があって、多く人が「本質」と呼ぶのがそれだろうか。シェイクスピアは世界でおそらく最も名の知られた劇作家。古今東西の劇場で、書斎で、学校で、「シェイクスピア」の読解が昼夜行われている。日本とて例外ではなく、上演、翻訳、研究は止まることを知らない。新解釈、新訳が次々と産み落とされ、また今日も「新しい」シェイクスピアが世田谷パブリックシアターに産声を上げた。母たるは四大悲劇の一『リア王』。彼女を孕ませた父親はこれも名高き佐藤信である。

 『リア王の悲劇』という劇がある。「古典作品の現代化」を眼目とした主演俳優と演出家に、リア王は居酒屋のオッサンにたとえられた。だからわたしたちにも彼の気持がわかるのだそうだ。リア王の苦悩が「俺の問題だ」と思えるのだそうだ。しかし果たして本当にリア王は居酒屋のオッサンなのか。いや、そういうことではないというのはわかるけれど、もしもリア王とオッサンを同じ位置に並べて古典の現代化を歌いあげるならば、これは喜劇である。リア王という大なるものを居酒屋でくだを巻く小なるオッサンにおとしめ、小さき中年男性を巨大な一国の王と比肩させる。従って『リア王』の「悲劇」はパロディとユーモアのきらめくべき「喜劇」となりうる。しかしならなかった。これは『リア王の悲劇』なのだ。実際、舞台には当然ながら居酒屋の風景などでてこない。くるはずもない。

 「共感」と「等身大」、二つの鍵言葉から導き出された「ぼく(わたし)にもできる」という誤解はプロフェッショナルとアマチュアの境界を曇らせる。誰もがはじめは素人、それは当り前だけれど、自らを「プロ」と誤認したアマチュアがプロフェッショナルとして成立してしまう昨今の情勢は憂慮して然るべきものがある。と、訳知り顔にくどくど遠回りして何を云いたいのか。つまり、物語を自分たちの「身の丈」に合せることで古典作品を「現代化」するという論理は一見理解しやすそうに見えて、その実、原寸のスケールを甚だしく縮小してしまう危険も孕んでいる。石橋蓮司のリア王とて然りである。決して古典を現代に引きつける方法論の模索を否定するものではないし、むしろ心情は逆なのだけれども、「わかりやすく」することがどこまで「古典」の風味を保ちうるかは疑問だ。その点に於いて、演出家の視線はどうもシェイクスピアを上演することそのものに釘打たれ、出来上がった『リア王の悲劇』は斯く云われる「普遍性」とやらの誤解によって積み上げられた舞台にしか見えなかった、とは言い過ぎだろうか。先達て静岡グランシップで上演された『夢の浮橋』を、一年がかりで『源氏物語』を通読した結果の新解釈と宣うた佐藤はここでまた同じ失敗を犯してはいないか。「古典」という力に満ちた物語がある。「現代」という間口の広がった表現方法がある。『源氏物語』にしても同様、シェイクスピアは都合のいい実験材料になるのかもしれない。しかし実験に付合される観客こそいい面の皮である。観客は完成された商品を求めるのであって、フラスコに揺れる怪しげな液体を買うのではないのだ。

 シェイクスピアには昼下りのテレビに映る「愛の劇場」がある。ゴシップがあり、遺産争いがあり、それらを包み込む目眩く台詞群がある。シェイクスピアのそうしたサーカスのような人間模様と佐藤信のアジア的な猥雑がどのように結びつくかに期待はあったが、幕切れ近い立ち回りにわずか横顔を覗かせたものの、あとはワダエミや東儀秀樹の趣向かと見紛う衣装と音楽がそれぞれにそれらしさを醸すに止まった。(後藤隆基/2004.10.01)

*『夢の浮橋』に関して、「『源氏物語』をひと月かけて読破」との記述は、佐藤氏ご本人の御指摘がありましたように、筆者の間違いでした。深くお詫びの上、訂正致します。以後はこのようなことのない様、十分に注意致します。

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October 01, 2004

うずめ劇場「夜壺」

 「福岡演劇の今」は観劇歴35年という薙野信喜(なぎの・のぶき)さんが運営する演劇サイトです。これから掲載されたレビューを出来る限り紹介しますが、福岡・九州の動きを知る有力サイトの一つだと思います。
 このサイトで、北九州を拠点に活動する うずめ劇場の「夜壺」公演(9月5日-12日)を取り上げています。原作は唐十郎。演出は2000年の第1回利賀演出家コンクール(舞台芸術財団主催)で最優秀演出家賞を受賞した旧東ドイツ出身のペーター・ゲスナー。かれはうずめ劇場の主宰者です。
 「唐十郎の戯曲は、作者以外の人が演出したほうがよくわかる。この舞台は唐のスタイルを徹底的に意識し、その背後に見える唐のスタイルに収斂する『途上にある』ものだった。(中略)いいことも悪いことも、その『途上にある』ことから来ている」と述べています。
 9月末にカイロ実験演劇国際フェスティバルに参加、11月初めに東京公演が予定されています。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:42 PM | Comments (0) | Trackback
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