11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

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November 30, 2004

パラドックス定数「5seconds」

 東京の王子小劇場で11月初めから、佐藤佐吉演劇祭が開かれています(来年1月初めまで)。同劇場のサイトで「注目すべき作品・才能が集まった時にのみ開催」するとうたっていますが、「小劇場の青田刈りをするなら、今ここ(王子小劇場の演劇フェスティバル)に足を運ぶのが最も確実です」(踊る芝居好きのダメ人間日記)と言われるほど評判が高いようです。参加8劇団のトップは、1998年から活動している「パラドックス定数」の「5seconds」公演でした。1982年に実際に起きた羽田沖日航機墜落事故を扱い、生き残った機長と、真相を追う弁護士による2人芝居。力のこもったレビューが続きました。

 同劇場サイトによるとこのステージは「事故について口を閉ざす機長と執拗に追う弁護士。墜落直前の空白の五秒間、コックピットの中では何が起きていたのか。1999年初演の作品を大幅改訂しての再演。四方を客席に囲まれた、真っ向勝負の2人芝居」だそうです。

 「2人芝居ならではの緊張感に加えて男同士の机上の戦いはゾクゾクします。役者さんも達者です」と言うのは「しのぶの演劇レビュー」。さらに「パラドックス定数はこれまでにも実際に起こった社会問題や事件を題材に作品を作ってきたそうで、これからもその路線が続くようです。次回もぜひ観に行こうと思います」とエールを送っています。

 「Review-lution! on-line」は「一人一人の人間と社会の関係が置き去りにされる現代において、大事故の渦中に在る個人の葛藤にスポットライトを当てた『5seconds』は、『社会と個人の相克』という近代芸術の根本的テーマを内包した、いうなれば演劇の王道といっても良いのかもしれない」「演劇ファンのみならず、万人にとって必見の劇団」と述べています。

 生き残った機長より、相方の弁護士に注目するのが「休むに似たり。」です。「劇中現れる弁護士は、弁護団の中での『もっとも下っ端』。…会社という組織がどうやって個人を切り捨てていくか、その過程とともに、弁護団という組織の中での弁護士の位置がだぶります。どうやって、組織に抗っていくかという『ひと』の芝居なのだ」と分析します。

 この視点をさらに掘り下げ、劇構造に投影したのが「X-ray」の着想でした。「燐光群『CVR』と比較した初日評をいくつか読んで出掛けたせいか、へそ曲がりの私には、これを事件簿、社会派の芝居だと括り『いかに真実味があったか』という点だけで優劣を評価するのは、惜しいような気がした」と最初に見解を留保したあと、「全てが、弁護士・日向の独り言(=分裂した日向Aと日向Bの内面の対話)に見え、一人の人間の中にある様々な葛藤を、一見、対極にあって相容れないかのような大きな振り幅ながら、最後にある決断を持って収拾させるための、自身の投影=片桐であったように感じる」と述べています。この引用個所だけなく、ぜひ当該ページで全文をご覧ください。

 パラドックス定数は「ここ数年は社会派で重厚な作品を生みだしている。出演者は男性のみ。密室での会話劇。凄まじいほどの緊張感を孕んで進行する物語が特徴」(同劇場サイト)と言います。ことばを変形・解体するステージが最近少なくない中で、ことばに依拠し、ことばにこだわる本格的な会話劇は珍しくなりました。次回公演が楽しみです。


【上演記録】
■パラドックス定数「5seconds」
 2004.11.1-11.2, 11.8-11.9, 11.15-11.16 王子小劇場
 作・演出 / 野木萌葱
 出演 / 植村宏司・十枝大介

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November 27, 2004

上海歌舞団

 第11回神奈川国際芸術フェスティバル/コンテンポラリー・アーツ・シリーズの「上海歌舞団」公演が11月21日と23日、神奈川県民ホール大ホールで開かれました。弱冠23歳で芸術監督に就任した黄豆豆は、中国ダンス界の先端をゆくコンテンポラリーな表現で注目され、今回の公演ではソロ、振付も。コンドルズの近藤良平が上海に滞在して振付けた新作も予定され、公演の前評判も高かったようです。
 「ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。」サイトの曽田修司さんは、跡見学園女子大学マネジメント学部教授。芝居やコンテンポラリーダンスの現場に足を運んで「日々の発見」を報告しています。 23日の公演をみて「若き天才ダンサーにして同歌舞団の芸術監督である黄豆豆(ホアン・ドウドウ)のシャープでダイナミックな動きにはさすがに唸らせられるが、正直なところ、やや見せ場が少ないという印象」と述べた上、「8作品中、日本の近藤良平(コンドルズ)が振り付けた作品がコミカルな小品で異彩を放っていた」と報告しています。

 「ヤサぐれ者の魔窟vs発掘亭日乗越」サイトでダンス評論家の乗越たかおさんは「民族舞踊っぽさ全開であり、そこが合わない人もいるだろうが、フランス・タイプみたいじゃないからといって切り捨てるような狭量では『何でもあり』のコンテンポラリー・ダンスの名がすたるというものだ」と書いています。このページには黄豆豆の写真も載っていますね。

Posted by KITAJIMA takashi : 03:13 PM | Comments (0) | Trackback

November 26, 2004

三条会 『ひかりごけ』

 処女作を超えることは難しく、そこには作家の表現衝動がすべて潜んでいる、というような言説は屡々耳にするところだが、BeSeTo演劇祭の大トリを飾った三条会の『ひかりごけ』はまさにそうした性格を有している。1997年の旗揚げ以降も幾本となく公演を打ってきたことを蔑ろするのではない。2001年の利賀演出家コンクール最優秀賞を受賞し、第三者からの評価がまず確定した上で劇壇の表舞台に現れたというその意味において『ひかりごけ』は「処女作」と呼ぶにふさわしく、そこには近来の関美能留の演劇活動を通して感じられた多く魅力の原初形が表れていたと思うからだ。

 「自我」が発見され、「個人」の意識が重要を帯びるようになった「近代」という装置を糧に、三条会という濃密な「集団」と否応なく他者との関わりによって成立する「演劇」を以て、脈々と続く歴史の河に流れる「現在」を検証する。その方法論の根幹には演劇そのものへの問いかけがある。そしてその疑問符は、安くなってしまうのを恐れずに云えば、現代に生きることや、人間性という主題へとそのまま移行する。関美能留のつくりだす舞台は異様である。従来の「演劇」のルールからは大きくかけ離れて見えるのだ。しかし、芸術が常に温故知新と前世代の否定によって生かされてきたとすれば、三条会の描く「演劇」は極めて現在的な創造の一つである。

 近代戯曲の言葉を徹底的に異物として扱い、現代ではあり得ない台詞を云える状態をつくるため実に多彩な趣向が凝らされる。たとえば『ひかりごけ』では「人を食べる」感覚などとてもわからないという立地点から、舞台を学校に設定し、生徒たちはふざけ合いながら『ひかりごけ』を朗読していく。女教師に導かれて本を読み進める内に、生徒は台詞を咀嚼しながら舞台に置かれた机―もう一つ上の劇世界に上り、『ひかりごけ』の住人となる。観客は生徒と一緒になって「教育」されていく。戯曲に実感を伴わせる手段の一つとして、外からの視点をつくりだす劇についての劇という二層構造それ自体は決して珍しいものではなくなったのかも知れないけれど、その特異性で他との圧倒的なレヴェル差を感じさせられるのは、劇中劇にもまた一段、「演劇」への異和が表明されている点である。『ひかりごけ』の劇中で演じられる『ひかりごけ』は果てがない。額縁的な二次元の舞台から三次元へ、そこから先、四次元へと向かう劇時・空間の歪みが、或る種の異様さと映るのかも知れない。つまり演劇そのものが異物であるかのような「反演劇」的な世界を構築する手つきによって、演劇及び舞台を全き他者として扱い、その上で幾度も再生する。演劇に対して愛に溺れない、潔癖に距離をとりながら問いを発しつづける姿勢が、何処までも作品を奥深いものに仕立てていき、結果として底の見えない十二単のような世界が生れる。いわゆる「劇的」というイメージから遠く離れたところに、かくも「劇的」なものがある。愛するが故に、愛する為に憎み、その憎しみの裏側にこそ真の愛が見えるようにである。それだけの複雑にもかかわらず、すべて偉大なものは単純であるという箴言のように、そこで行われていることはひたむきなまでの王道である。技法が芸術家の思想を示すとすれば、関美能留という才能が演劇を選んだその時点で彼の思想哲学がそっくりそのまま「演劇」において表現されることはすでに決っていたのだ。

 彼は広義で「作家」であり、集団を束ねる「組織者」であり、同時に「教育者」でもある。個人の主宰する劇団においては演出家による俳優教育というものが絶対不可欠だと思われるし、制度として演劇教育の場がない日本では「たまたまそばにいた人」と演劇の現場をつくっていかなければならない。また俳優芸術としての演劇のかたちを考えてもである。舞台に閃く俳優の力量は創造が持続し行われる集団という場の価値に他ならない。何よりも「演出家」である関美能留が指揮棒を振る爰ではおそらくは正しく個人が「個人」として在り、だからこそその集合が「集団」として一つの有機体になり得るのではないだろうか。

 現代の日本という命題を示しながら、いわゆる日本的なモノは可視物としては一切用いられない。「~的」と括弧で綴じられるような様式の真似事もない。にもかかわらずどうして日本の演劇の伝統を消化した上で特異な関節に昇華できるのか。「心ノ中ノ日本」を眼に見える、耳に聞えるように演劇として立ち上げる作業は、ともすれば自閉的になりかねない。しかし、三条会の舞台では俳優の身体も、戯曲の言葉も、絶えず外に向って開かれているのである。四角四方の舞台を飛び出し、客席をも包み込んだ挙げ句にさらに遠くへまでその振幅は広がっていく。『ひかりごけ』の非常にミニマルなところから発信された宇宙的スケールは、衝撃とともに何処までもわたしたちの記憶に残っていくような気がしてならない。(後藤隆基/2004.11.25)

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November 25, 2004

劇団大阪新撰組 『玄朴と長英』

 BeSeTo演劇祭には東京だけでなく全国各地から多種多様の劇団が一堂に会し、他地域の芝居に出会える貴重な機会に恵まれた。最終日の早稲田どらま館で上演された劇団大阪新撰組『玄朴と長英』は今年度の利賀演出家コンクール参加作品で、伊東玄朴と高野長英の二人が真山青果の筆によって議論を戦わせる緊密な対話劇。劇団が日頃どのような作品をつくっているかは「ギャグがないのがつらい」という演出メモを手に想像する他ないけれど、今作は利賀に出品したということもあってか、戯曲をそのまま上演するのではなく外側からの視線を送り劇中劇として扱うという、もはや常套でさえある手法を実に簡素なかたちで用いていた。

 裸舞台に行燈が一つ、書物が散乱している舞台。暗闇にそっと浮かんだ、背広と茶髪、仕事に疲れたサラリーマン風の男がため息一つ漏らすと、彼の眼前に突然『玄朴と長英』の世界が「白日夢」として立ち現れる。家族を治療してもらった四人の女が順番に医者である玄朴に礼を述べていく。「先生、ありがとうございました」と一人一人の台詞が重ねられていき、それぞれ終えると四人は声を揃えて玄朴に呼びかける。戯曲にないこの操作、ありがちと云えばそうかも知れないけれど、幕開きの見せ方にはその先を期待させるだけの処置がされていた。女たちは玄朴の妻になり、終始舞台奥で家事をしつづける。男は目の前に繰り広げられる光景を不審そうに眺める。しかし、余りにわかりやすいその二層構造はそのあと特に大きな展開を見せるでもなく、兎に角『玄朴と長英』が進行していくのだ。そして最後には玄朴と長英の幻が消え、残された女たちが無言のまま男を睨みつけるところで幕となる。

 シンプルには違いないけれど、玄朴と長英それぞれを演じる俳優の真っ直ぐな熱演とただ二人を見つめつづける男の温度差は二つの世界を拮抗させる力に乏しく、現実世界に居るはずの男の姿が歯切れのよい(少しばかりよすぎるほどの)長英の台詞回しなどに圧倒されてかき消えてしまうような印象を持った。現実と幻想の価値が転倒し、夢こそが現実を覆い隠す。現実としての現代人が舞台から見えなくなる時、それではあえて二つの異なる世界の住人を出会わせる意味は何処にあるのかという疑問が生れた。いやむしろ、男の存在感の稀薄こそが狙いであり、そうすることで現実を超越する芝居がかることの力を再確認しようとしたのだろうか。たしかに「白日夢」としての『玄朴と長英』には、それとして観劇するに足るだけの力強さはあった。とはいえやはり「男」を舞台上の人物として創造するからには、彼がそこに居ることの意味づけがもう少し必要ではないだろうか。でなくては、作品の制作過程自体が単に「利賀」向けの御挨拶だったのかと思わざるを得ない。ならばいっそ純粋に俳優の勢い以て戯曲通りの『玄朴と長英』を積み上げた方が余程芯のしっかりした上演になったろう、などと思うのは余計なお節介かしら。(後藤隆基/2004.11.23)

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November 24, 2004

ユニークポイント 『あこがれ』

 2001年の初演以後、地方公演を経て今回BeSeTo演劇祭で再演されたユニークポイントの『あこがれ』は、太宰治『斜陽』を原作としながらそれとまったく毛色の違う、別の話に再構築された作品。小説で物語の裏にひっそりと隠されていたものを繊細に表舞台に引きずり出した戯曲は、『斜陽』を準拠にはするも奇を衒った新解釈は狙わない、山田裕幸という劇作家のスタイルが明確に示されている。

 「演出家」の活躍が眼を惹くBeSeTo演劇祭において、ユニークポイントはその名の通り、やや特異な存在とも云える。たとえば文学作品の演劇化は様々の演出家の手で行われているけれど、その他の劇団が作品を言語と身体の関係性から意識的に構築し、また作品読解にも過激な冒険が試みられているのに較べて、小説から「わたしたちの生活」を掬いとり「戯曲」化していく山田の筆致は此方もリアリスティックな演出法と併せて、一般に浸透しているであろう「演劇」というものの「標準形」をそのかたちのままに伝達する。

 新劇的リアリズムに則った作法は観客に安心感を与えるだろう。淡々とした日常描写、わかりやすい話し言葉。わたしたちの生活に近しい感情の表現。一々のリアルさは舞台を覆う清潔感とも無関係ではない。一歩間違えれば「平凡」の一言に止まってしまう危うさを、『斜陽』という、また「太宰治」という名前を利用して超克しようとする。それが『あこがれ』という物語の強度なのだった。原作の上原を大学で太宰研究をする先生にし、直治をそのゼミ生と設定する遊びもそれなりに活きていたようだ。全体に無駄を省いた台詞及び舞台構成は、『あこがれ』の裏に隠された『斜陽』という物語を観客の想像力に訴えかける。思えば、最後まで登場しない母親は観客によって想像されるべき『斜陽』そのものだとも云えるだろう。『斜陽』から生まれた新しい物語は何よりも『斜陽』によって生かされ、『あこがれ』を通して『斜陽』に別の角度から光があたるよう細工されていた。作家としての山田裕幸の恥じらいを微塵も見せない誠実がそこにある。

 小説に散りばめられた豊富な言語表現を登場人物に丁寧に分配して、極普通の善良なる人びとの生活を描く。そう、そこに居るのは本当に「普通」の人たちなのだ。東京に住む叔父夫妻、ゼミの同期の友人たち、田舎の病院の跡を継いだ若い医者、直治に連れられてきた女など、直治とかず子を取り巻く人びとに血を通わせることで、姉弟の異質さ、疎外感を浮き上がらせむとする作業があった。そしてもう少し付言するなら、たとい直治が破天荒な振舞いをし、かず子の御嬢様然たる世間知らずがあるにもせよ、将来への不安と、周囲の人間のしあわせに対比される己の不幸は、平々凡々としたわたしたちの送る毎日と同じ苦悩ではなかったか。繰り言にもなってしまうけれど、一見『斜陽』の衣を借りただけ、原作からは遠い、現代家庭劇であるかに見えるにもかかわらず、やはり『斜陽』あっての『あこがれ』なのだと思わざるを得ない。その意味で、原作との付合い方という可能性の幅の広さを感じさせられた。

 ユニークポイントは普通さやリアルを真摯に突き詰め、日常からの違和感を感じさせない舞台の創出をめざしているように思う。よくまとめられており、静穏な会話劇でもある『あこがれ』は極めて新劇的な風味をもっている。それが山田裕幸という人の作家性でもあるのだろうが、そうした仕方を身につけ、尚かつ的確に表現できる才能は決して多くない。BeSeTo演劇祭だけでなく現代演劇という問題を考えたとき、リアリズムについて或る意味で「昔ながら」の延長線上を歩いているユニークポイントは、それがより洗練されていくにつれ、新劇的小劇場演劇を実践する稀有な団体になっていくのかも知れない。(後藤隆基/2004.11.23)

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November 21, 2004

鵺の会 『場景』

 BeSeTo演劇祭の中でも注目劇団の一つである鵺の会を都立戸山公園につくられた特設会場で観た。作品はジョルジュ・バタイユ『松毬の眼』と太宰治『燈籠』を原作に編まれた『場景』。構成・演出をつとめる久世直之の実験精神が満々と浸した舞台はまさに、「前衛」と云う名で呼んでも決して遜色のない精練された知的冒険の世界だった。

 二部構成。畳六畳の舞台には白い衝立が三枚。前半『松毬の眼』は人間のからだの動きを視座に、まずメトロノームによって一定のテンポを与えられた俳優は単純な動作を繰り広げる。途中BPMに合わせた照明、音響の微妙な変化は劇時間に揺らぎを与え、メトロノームと単調なピアノ曲に示唆されるビートの音間をたゆたうような舞踊めいた運動への変換を促す。一人で全編を演じきる藤間叟之助は、久世直之の観念を舞台上に表現してみせたと云える。

 一方、後半の『燈籠』は前半で確認された身体試論を言葉(台詞)に置き換えた。卓袱台が持ち込まれ真白の衝立は襖に変わると、一気にそこは親しみ深い空間になる。太宰治という男性作家が女性の独白体で書いた小説の言葉を男優が語る。そこに一つの趣向があったがしかし、言語を主体として描く『燈籠』では振付の一つとして言葉は機能していた。藤間が一枚きものを羽織って現れる。女性的な仕草と独特の発声はそれだけで有効な武器になり得るけれど、たとえ太宰の小説を素材にしたとはいえ、淡々と何の処理もされずに語られる言葉は起伏に乏しい。『松毬の眼』に比べて一定のパルスが舞台に流れつづけ、緊張を強いられたままの観客の身体は、寒さも相まって舞台を心から楽しめはしなかった。

 知的ゲームや実験は時に退屈なものになる。ストイックな場の提示は創造という過程においてよしと見るべきだけれど、如何せん観客は「楽しい」気持にならないだろう。実験性は評価するものにしても、果たしてそのままのかたちで提出された場合に「芸術作品」という呼称を与えられるかどうか。芸術観なぞそれこそ十人十色、人により相違はあるし、何を以て楽しみとするか、演劇に何を求めるのかは各々の勝手自由だと思う。しかし、とあえて私見を云えば、やはり理屈抜きに楽しみたいのが本音ではないかしら。「芸術」とは「注」を振らずとも楽しめるモノ。いや、こんなことは愚言に違いない。発展の途上をゆく確かな知性は、万事承知の上で或る仮定の実践を試みたのだろうから。(後藤隆基/2004.11.20)

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演劇集団 円「ビューティークイーン・オブ・リーナン」

 演劇集団 円の「ビューティークイーン・オブ・リーナン」公演が東京・両国のシアターΧで開かれています(11月16日-22日)。原作は、いま脂の乗っている英国の作家マーティン・マクドナーの戯曲第1作。1998年にトニー賞4部門を受賞、世界各地で上演されたそうです。ファッションやデザインの世界が長かった佐々木眞さんから、この公演のレビューが寄せられました。芝居は「年に1本ぐらいしかみない」と言いますが、どうしてどうして。奔放・闊達、読みごたえのある文章です。以下、全文です。


 快晴の土曜日の午後、久し振りに回向院に詣で山東京伝兄弟の墓前に額ずいた後で、すぐ隣のシアターXで演劇集団 円が公演している『ビューティークイーン・オブ・リーナン』を観た。何の予備知識もなく飛び込んだのだが、作者はマーティン・マクドナーというロンドン生れのアイルランド系の若者で、本作は彼が23歳の時にわずか8日間で書き上げたのだという。

 舞台はそのアイルランドの僻地。人よりは牛だの鶏の方が多い荒地に佇立する一軒家。厳しい自然の真っ只中で、その自然よりもシビアな40歳の娘と70歳の母の「戦争」がおもむろにはじまる---。

 ハジメチョロチョロ、ナカパッパ。もとい、はじめは処女のごとく、終りは脱兎の如し、テカ。母が頑固なら、娘も頑固である。吹きすさぶ海風と荒れ狂う雷鳴をBACKに、2人のしたたかな女が骨肉の争いを、あるときは軽妙なユーモアとウイットで、またあるときは口以外の手段を総動員してしのぎをけずる。その、しのぎの切口とけずりの多様性こそが、マクドナルドじゃなかったマクドナーの独壇場だ。

 若き天才劇作家は、かわるがわる黒い笑いと赤い殺意を3分おきにまるでパイのように舞台せましと僕らに投げつけ、僕らははらはらドキドキしながらどこか訳の分からない遠いところまで引っ張りまわされる。その不快さ!そして、その愉悦! お楽しみはどこまで続く。いっそ地獄の底まで落ちていけ!

 そして期待通りに悲劇は訪れるだろう。それはどこかヒッチコックのサスペンス劇に似ている。それはまたどこかギリシア神話のこだまに似ている。でも、ちょっとばかり違う。それは、今日たったいまあなたの家のキッチンのロッキングチエアで進行している「それ」に一番似ているのである。

 例えば僕だが、僕は僕の死んだ母と、それ以前に死んだ義理の祖母との間で最後の数年間に繰り広げられたの悪夢のような戦いを思い出していたよ。ったく、なんて芝居なんだ!! そしてなんてにっくったらしい奴なんだ、マーティン。

 ちなみに、役者は僕にははじめての人たち(年に1本くらいしか見ないもんね)。最高ではないだろうがまああんなもんだろう(ごめんなさい)。でも立石凉子の黒の下着はとてもエロチックで石田登星ならずとも興奮する。「もっと下、もっと下--」、なーんちゃって、ほんとに原作に書いてあるセリフなんだろうか? 演出美術照明は可もなく、不可もなし。音楽と芦沢みどりの翻訳がいい。11月22日までやっている。
(佐々木眞 2004.11.20)


【上演記録】
■演劇集団 円公演 シアターX提携 「ビューティークイーン・オブ・リーナン

キャスト
モーリン・フォーラン 立石凉子
マグ・フォーラン   有田麻里
パド・ドゥーリー   石田登里
レイ・ドゥーリー  佐藤銀平
ラジオの声    青山伊津美

スタッフ
作    マーティン・マクドナー
訳    芦沢みどり
演出   岸田 良二
美術   島次郎
照明   小笠原純
衣装   畑野一惠
音響   斎藤美佐男
舞台監督 田中伸幸
演出助手 渡邉さつき
宣伝美術 坂本志保
イラストレーション 深津真也
制作 桃井よし子

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アル・ムルワッス劇団「イラクから、船乗りたちのメッセージ」

――自由と平和の国!?へ、バグダッドからオリーブの枝をくわえて飛んできたかもめたち――

 Al-Murwass Group Folklore and Modern Artsの“Message Carried by Ship from Iraq”は東京、名古屋、大阪と、まるで16号台風に逆らうようにして元気に駆け抜けていった(10/3~25)。イラクの人を見るのは初めて、ましてやその舞台を見るなんて全く未知との遭遇だったといえる今度の新鮮体験は、実に実に多くの挿話と驚きを私に残していってくれた。 

 そのうちの一つは、国際交流基金フォーラム→タイニイアリス→ちくさ座→アリス零番舘-ISTと、公演を重ねるにしたがってその声は次第に少なくなっていったけれども、戦争の国から来た芝居、暗いかと想像していたら思いがけず元気でよかった、楽しかったといった感想のあとに、「ところで、あれは何を演っていたんです?」と、観た人から必ず質問されたことである。とくにそれは、フォーラムでの公演のあとに多かった。  
 しかし、それもまったく無理のないこと。4000年の歴史を持つというウート(ギターやマンドリンの先祖)の、いわば古代へのいざないに続いて、バスラ地方に古くから伝わるという民俗舞踊によるPart1と、マイムによるPart2の、いわば現代とが、まったく分離したような形で上演されたから、である。

 かなり長い休憩を間に挟んで、Part1は、①白い帽子をかぶり腰布をつけた船乗りたちが遠く大洋へと元気に漕ぎ出す踊り。②まるで月の砂漠かアラビアンナイトの昔みたいな衣装の女性たちが出てきて、遠くにいる恋人を想う踊り(むろん恋人は日本と重なろう)。③アラジンの魔法のランプから出てくるあの魔法使いをそれぞれ鞭のような杖をもって叩き伏せ、祈り伏せする踊り(魔法使いはフセイン独裁政権だろうかアメリカ占領軍だろうか)。④裾まで届く白い衣装の男性たちが手をつないで歌詞なしで踊る優雅な踊り(婚礼の祝い。とともに誤爆されたファルージャの婚礼が想いだされた)。⑤人類発生の地・アフリカから伝わってきたという打楽器、自分たちの劇団名でもあるムルワスを称え、伝統を守る決意を表わす歌と踊り。そして⑥最後のフィナーレ。イラクの国旗をふりながら、大丈夫、僕たちはへこたれてはいない、日本のみなさん、友情ありがとうを歌う歌で終わる。これはこんど来日のために新しく作られた歌という。そしてこれらの踊りや歌の合間を、物語の宝箱のなかに(あるいはフセイン政権下に?)長く閉じ込められていたシンドバッドが生き生きと新生し、しかし彼はみんなといっしょに踊ることができないという悲しみのマイムが――あまり上手くはなかったが――縫っていった。

 Part2はバグダッドの日常、現代のシンドバッドである。往来もままならぬ窮屈な中を友だちも訪ねて来てくれた。が、石油を運び出す汽車はひっきりなしにどこか遠くに向かって走っていくのに、僕たちはどこにも行けない。錠のおりた扉、コチコチと時を刻む秒針、日々の貧しい食事、決して通じぬ妻との会話。僕らはただ遠く、高くを望み見るしかない。(爆撃によって)人々もおおぜい倒れていく……といった無言の想いが、窓にもトランクにも時計にも額縁にもなる四角の白い木組みや、「戦場のメリークリスマス」のメロディに合わせたくるくる廻りや、ムンクの「叫び」のように大きく口を開けた顔――ただ額縁から片足突き出ているところがいかにも今のバグダッド。Pat2のタイトル「声にならない叫び」にふさわしい――の写真撮影やで表現されていった。

 以上の全体がイラクからのメッセージ。劇の冒頭、船といっしょに海を渡ってきたかもめが、観客たちに配布したもの、ということになっている。よく考えられた、わかりやすい舞台である。ムルワッスをはじめ、ウート、ゼルーナ、タール2丁、シンセサイザーによるライブ演奏もこよなく楽しく、私たちを遠い昔へといざなってくれたし、ときに力強くときに哀愁に満ちてこれからの困難を想わせたりした。

にもかかわらず、「あれは何を演っていたんです?」であった。これは構成に問題があるにちがいない。歌詞が分からないからということもむろん理解の拒否に影響あっただろうが、1960~70年代の言葉の意味に頼らない演劇を歴史的に経験した日本の私たちにとって、それはさしたる問題ではない、はず。私は耐えに耐えたけれども、とうとう、「Part2は、⑤と⑥の間でなければならないのでは?」と口を出してしまった。それはやっと、アリス零番舘でのシンポジウムが終わった夜のことだった。

驚いたことに、ジャバール団長とシャカール演出から即座に「それは僕たちの最初からのプランです」という返事が返ってきた。フォーラムである人に言われて急遽、構成を変更したというのである。な、なんと素直な人たちだろう。「ごめんなさい。私は日本の人たちにも、ほんとうに仲良くなり何でも思ったことが言いあえるようになるまで決してこういうことは言わないのだけど。あなた達とはもう会えないかも知れないので」と私は詫びて、話は次に移っていった。が、再び驚いたことに、翌日、アリス零番舘での初日からすぐ、①~⑤→マイム→⑥の友情と連帯の歌、と順序が変わっていたのだった。まあ、なんという素直な人たちであることか! これで、“ようやく新生した僕たちは民族の伝統を守りながら、厳しい今に耐え未来に向かっていくんだ”といった彼らの演劇的決意が、私たちに初めて伝わってくるようになったのであった。

むろん課題はまだまだ多い。①~⑤をつなぐマイムが、実際の宝箱を使うことのできたフォーラムやちとせ座はともかく、小スペースのタイニイアリス、アリス零番舘ではマイムの身体表現が貧しくて、シンドバットが何のためにたびたび出てくるのか分かりにくかったこと。伝統的な演奏者たちと現代を表現するマイマーたちとが、日本の「新劇」以上に分業的、バラバラだったこと。踊りとマイムとのあいだの幕間をいかに縮めるか、その工夫が足りなかったこと、等々。

 彼らが関空からドバイ経由、アンマンに向かって発っていくのとほとんど入れ違いみたいに、バグダッドでは行方不明を報じられていた香田証生さんが遺体で発見され、ファルージャでは米軍の包囲が総攻撃へと変わっていった。間一髪であった。いつか演奏者たち(完全なプロ。その技術がすばらしい)と、踊り手(近代日本が喪ってしまったなんばや、後ろに跳ねてしか進まない歴史的な身体を保持している)と、マイマー(パントマイムの型を演ずるのではなく、言葉にならぬ想いをどう表現するかが必然的にマイムの手法を採らせた)が、互いに役を担いあい一つの有機体となるとき――そのとき初めてムルワッス劇団はFolklore and Modern Artsという呼び名を胸張って言えるにちがいない。私はその困難な未来を、しかし羨望とともに夢みている。日本の同時代演劇では決して試みられなかったこと、だからである。   (3都市随行。西村博子 タイニイアリス主宰)

シンポジウム「イラクの今!―バグダッドの街、バグダッドの演劇―」
 10/6フォーラム, 10/18 名古屋女性文化学院, 10/21(大阪)アリス零番舘-IST

公演:国際交流基金フォーラム 10/7(木)~9(土) 3回
   タイニイアリス 10/12(木)~14(土) アフタ^トーク 各3回
   名古屋ちくさ座 10/19(火)~20(水) 3回
   アリス零番舘-IST 10/22(金)~24(日) 5回

団長・歌:MHAMMED/JABAR
演出:MOHAMMED SHAKAR
マイム:ANES AGEEL
ウート:ZUBER/HUSSIN
ぜル-ナ:JABAR/NASIR
ムルワース:SALMAN/SALEM
キーボード:SHIMAL./MAJEED
タール:JABAR/IBRAHEM,
     FARAS/MTANE
ダンサー:METHAK/SHNEN
     NAHAD/LAZEN 
     ADAE/ KAMEL
     ADAL/JAABAR
     HAEDAR/SHLAKA
     SAAD/SALAR
     MAHAMED/MAHAMED
     JAPAR/ANSAM  MS
     MOHAMMED/BOSHRA MS
メーキャップ:AEMAN/KHODHER  MS

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November 19, 2004

庭劇団ペニノ 「黒いOL」

――新宿西口広場の、今日、たった今―― 庭劇団ペニノ 「黒いOL」

 右手から静かに裸身の女性が出てきて、薄暗い舞台の真中、客席から見おろすと凸型に見える水溜りの窪みをビジョビジョと奥のほうへとゆっくり渡っていき、やがてその尖端でぼんやり立ち尽くす……と、舞台は果てた。もし私が男だったらここで最高のエロスを感じた、のかも知れない。私はひとりクスクス笑っていた。ペニノのいたずら?がおもしろかった。

 案内の声にいざなわれて、拍手ひとつないポカンとした感じの客席から舞台へ、付け根?に掘られた深い穴や続けて細長く掘られた浅い水溜りや、それを取り巻くさまざまな道具や器具をタニノさんは好きなんだなあとつくづく眺めながら通り抜け、出口に設けられた丸橋を渡ってテントの外に出る。が、ふと黒い空を見上げると、周囲には巨大な高層ビルがニョキニョキとそそり立っていて、それらが今見たばかりの貧しい――とあえて言おう――ペニノの営為を見下し、まるであざ笑っているように感じられた。もっともっと粘ればいいのに。資本主義にはかなわない、のでは? 私はがっくりした。

 これは、タニノクロウの究極のテーマ、一度は必ず立ち上げなければならない舞台であったにちがいない。

 初めは確かにタイトルに惑わされ、黒いOLたちを追っかけて観ていた。が、途中でアッと気がついた。これは舞台からストーリーやメッセージを読み取るための舞台ではなかった。ただ紗の奥にポッと灯がともりそれが次第に数をまし、女性たちが長いことかかって濁った溜まり水でストッキングを洗い、すすいだり揉んだり、ときにはちょっと喫煙所に固まって休んだりもし、やがて暗く静かなクライマックスを迎える――といったプロセスを、ただ感じるための芝居であった。そういえば事前に、ピアノ演奏していた左手の男性とDJみたいにマイクを前にしてハンディ・テレビに見入っていた右手の男性とが、薄い乳白色の手袋――スキンのような――を両手にはめ、準備はすでに整っていたのであった。やがて全身ぽっと熱くなって行為がはじまるのだが、うす暗がりの中でうごめくOLたちの、あるときはさざめき、あるときは呟いたり声が高くなったり、音としては聞こえてきてもあまり粒立つことのなかった言葉たちのなかで、唯一正面切って言われ、はっきり耳に響いたのは、“私は「今」おか「今日」こです”の、ひとことだった。

 それにしてもその行為は貧しかった、と思う。60年代の黒人ジャズかホットな音楽で客入れ、それがやがてピアノのライブ演奏に変わり、ずっと奥でかすかに灯がともり、それが次第に数を増してこちらに近づいてきて……最初舞台は、十分すぎるほどの期待感から始まっていった。がその後、その行為はあまりにもひそやか、あまりに暗く単調で、愉楽に欠けるものになっていった。

 何日もかかって営々と労力を注ぎこんできたに違いないテント作りまで※勘定に入れるとこれは、途方もない前戯とそれに比べてあまりにも呆気ない行為であった。ほとんど不能と言わなければならない。折角火のついた蝋燭がなぜか一つひとつ消され片づけられていくのをじっと待っていなければならなかったり、何より、折角バカでかいパンティ・ストッキングが滴りを垂らしていたのに、それが丁寧に畳まれてしまうまで延々と無駄な時間を待っていなければならなかったことが辛かった。蝋燭はせめて燃え尽きるまでともっていなければならなかったし、デカパンはほかにすることないの?と気が揉めた。

 同じように行為を描いた作品に三好十郎の「胎内」(1949)、「冒した者」(52)がある。牟森作・演出の「紅鯡魚DES HARENGS ROUGES」(95 中日合作)もそうだった。が、前者は死を目前にした人間の生の実感、それを追求する粘りにおいて、後者は、さわやかな風のなかの田植え、噴き溢れる井戸、大きな水桶の中で嬉々として戯れる女、ぴちぴちはねながら噴出する泥鰌……その明るさ、勢いにおいて、圧倒的にパワフルだった。

 「黒いOL」に発射はあったのだろうか?屹立はしたのだろうか? 濁った溜まり水は最後まで澱んで残存していたような気がする。今日、ただ今、なのであろう。私たちはそれを(望遠鏡で)覗き見るしかない――とペニ●のタニノは考えているのかも知れない。そう思うよりない舞台だった。 (2004.11.13所見。西村博子)

 ※ 「黒いOL ドキュメント」(タイニイアリス 11/16)を見た。それによると、テント作りは10月15日から。16号台風にも襲われた大変な作業であったことがわかる。
 ※前回公演「小さなリンボのレストラン」(2004.4.29-5.16 追加公演 5.20-21, 27-28)の劇評は「気違いMealパーティーのAbsurd劇」をご覧ください。


【上演記録】
■庭劇団ペニノ 「黒いOL
作・演出:タニノクロウ
場所:西新宿6丁目13番地広場(グリーンタワー横)
日時:2004年11月3日-9日 11月3・4日・5・8・9日 20時開演 
    6・7日18時・21時開演 開場は開演の30分前
    ※上演時間は1時間を予定しております。
料金:日時指定 前売り2800円 当日3000円

出演
島田桃依
瀬口妙子 
墨井鯨子 
野中美子 
磯野友子 
六分一サラ 
河野辺舞 
野崎浩司
吉野万里雄 
海老原聡 
野平久志

スタッフ
舞台装置 掛樋亮太
舞台補佐 鈴木仁美
舞台美術 玉置潤一郎、谷野九朗

照明    今西理恵
音響    小野美樹
宣伝美術 渡辺太郎
演出助手 小野美樹

Web    定岡由子   
制作協力 三好佐智子
制作    小野塚 央、野平久志
舞台総括 海老原聡平
企画・製作 puzz works
協力  (有)quinada
写真モデル O.J.Loco


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November 15, 2004

少年社中「アサシンズ」

 少年社中「アサシンズ-THE VALLEY OF ASSASSINS」公演が中野ザ・ポケットで開かれました(11月06-14日)。「休むに似たり。」サイトは「鮮やかなビジュアルとスピード感、RPG的ファンタジー世界が身上の社中の新作。楽園に戻りたくて暗殺を繰り返す追放者を現代の衝動的殺人の多発に重ね、人が一緒にいることって何かを描く一本」とまとめています。
 「しのぶの演劇レビュー」は、「メルマガ号外にあと一歩の傑作でした!」とまず一言。(「しのぶ」さんは、これはという舞台をメルマガ号外に載せ、登録読者に観劇を勧めているのです) そのあと「テレビゲーム、大した動機もなく起こる殺人、テロリズム、家庭(夫婦)崩壊、そして中近東(の衣裳ビジュアル)等、まさに「今」のトピックをふんだんに取り上げながら、言葉と心、愛といった人間の普遍的なテーマを語ります。少年社中が得意とする複数の世界が交錯していく構成も、この作品では特に重要で巧みに作用していました」と述べています。

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November 14, 2004

Ort-d.d 『こゝろ』

 たとい日常生活からそれらが失われ、またわたしたちが実感として「日本」を愛することが難しいにしろ、日本人であるという血の嗜好は決して拭い去れるものではない。おそらくは自然の衝動として、日本の風土や文物に云い知れぬなつかしさを覚える。年中行事はすでに習慣として暮しの中に根を張っており、イベント化の誹りを受けもしようが、やはり新年のはじまりには幾万の足が寺社仏閣に向かう。桜に携帯電話を向けるのも一つの愛し方であろうと思う。

 しかし、かつて起臥した畳はフローリングへ、寝室にはベッドが設けられる。日本家屋は軒並み洋装に姿を変えた。などと今更鹿爪らしく言い立てることでもないのだけれど、もう少し常套句を積み上げるなら、わたしたちの生活様式は目下西洋化、アメリカナイズの果てに混乱し「共通化」されている。挙げ句、もはや身辺から姿を消した文物は余りに多い。愛したものを昔と同様に愛する術を知らぬ人も多い。「日本はダメね」という声も聞える。あるがままにあるべきものがない状況に、わたしたちは何を己のものとし、正しく生活していけばいいのか。

 日本的なるモノへの憧憬、追求は時代の節目ごとに多く識者の間で行われてきた議論ではあるのだけれど、今日ではそれが広く世上全般に広がっている。アスリートの海外での活躍を例にとるまでもない日本人の通用性や観光業界を筆頭に「忘れかけていた」日本の魅力を再考する動きが高まっており、「日本とは何か」という題目につながる道を懸命に模索しているかに見える。

 無駄に長い枕を漸く爰に引きつけて云えば、Ort-d.d版『こゝろ』には、日本「的」なるモノから「日本」を抽出せんとする作業の一端があった。明治から大正期の、いわゆる「近代化」に伴う環境の変化と自意識のズレを鍵言葉として、夏目漱石『こゝろ』に立ち向った倉迫戦術はまさに、わたしたち日本人のからだに潜む「土」への無意識の愛着に訴えかけようとする。違い棚を拡大したような舞台装置。吊り洋燈が仄かに映す陰翳の風景。わたしたちの美意識はそれらを美しいと観るだろう。音楽は一切用いられない、攻撃的な、武器としての静寂に、言葉(声)や音(したたる水、軋む床など)の、また常にその間を支配しつづける無音の美しさを聴くだろう。作品の読解以上に、『こゝろ』の書かれた「時代」、そこに生きた「夏目漱石」、今なお読みつづける「わたしたち」という距離感そのものを舞台化して見せたように思う。そしてその疑問符自体が『こゝろ』の読み、解釈として提出されていた。

 「物語」にも目を向けてみれば、やはりその構成力、台詞処理の巧さは一言に価するだろう。云わずと知れた『こゝろ』の下巻「先生の遺書」から、「K」の恋の告白から自殺に至までの行を抜き出し、その死の地点から「なぜKさんは死んだの」という疑問を軸に一連の経緯を現在に向けて語り、時間の糸を一気にたぐり寄せるような「私」の死を以て幕を閉じる。読み手がどんな距離をとるとしても十分な魅力を発揮するこの箇所に、原作の「奥さん」と「御嬢さん」を姉妹に置換してさらに父親との近親相姦を盛り込んだ。「恋」や「青春」というものが普遍であるならば、「近代的自我の目覚め」などと読まれる原作へのイメージは当然あるにもせよ、「近代的自我」って何なのさ、という気持もないではないことを鑑みた上で、『こゝろ』が現代のわたしたちにまで届けられた疑問への一つの解ともなる。

 たとえば世界の中での日本文化の独自性や、身体的特質を叫ぶ前段階として、先ずは日本人が日本人であり、何をわたしたちが愛するのか、愛してきたのかという問いかけがなされているとは云えないだろうか。思想云々と大袈裟なことではない、直ぐ隣にあるはずの生活のためにである。漱石が感じたのであろう「近代」のズレと、わたしたちが感じる「現代」のズレの相似形が倉迫康史の『こゝろ』を形づくっている。そういった意味で、歌は世につれではないけれど、極めて今日的な問題提起を含む作品なのだ。(後藤隆基/2004.11.11)

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Ort-d.d「こゝろ」

 東京国立博物館・表慶館を使った「四谷怪談」で評判となったOrt-d.dが、2000年に初演した夏目漱石の「こゝろ」を再演しました(11月10-11日)。早稲田大学周辺で11月後半に集中して開かれているBeSeTo演劇祭・東京公演の2番手(トップバッターは東京オレンジ)。会場は学習院女子大のやわらぎホールでした。2人の男が下宿する家の母子は、ここでは姉妹に組み替えての上演。漱石が直面した「近代化」との格闘をどう取り込んだかの見方を含めて、再演の評価は多様でした。

 優れた舞台を矢継ぎ早に紹介している「しのぶの演劇レビュー」は「夏目漱石の名作『こゝろ』の中の『先生と遺書』の部分を1時間強に凝縮した珠玉の一品でした」と評価。「今日は・・・泣きじゃくってしまいました。若者の高い志や全身全霊をかけた恋、その全てに覆いかぶさってくる嫉妬心が、まるで手で触れられるかのように重々しく、はっきりと立ち表れました。ワタシ(岡田宗介)の愚かしい嫉妬とそれゆえの復讐、K(三村聡)の孤独と深い悲しみが痛いほど伝わってきて・・・あぁ今書いてても涙ぐんでしまう~っ」と感情の高ぶりを隠していません。

 早稲田大学の学生サークル「Project starlight」が「消費されない演劇を求めて」ということばを掲げて始めた演劇批評サイト「Review-lution! online」は、「原作の雰囲気を十二分に伝え、緊張感と分かり易さを兼ね備えた作品に仕上がっていた」としながらも、「中盤で下宿先の娘(先生もKも彼女のことを好きになるのであるが)とその姉(下宿の主)の家庭を巡る近親相姦の話が挿入されているが、これはやや唐突な感を否めない」などと指摘。「パンフレットに、漱石のテーマであった『近代都市に変貌しつつある東京に生まれた新中間層の家庭』『魂のよりどころとしての風景を失った』『不安を抱えた個人』をついて、自分なりに考えてみたとあるが、私は上演中にそこに対する確固たる指摘を見出せなかった」と直球を投げ込んでいます。

 軽快なフットワークでコンテンポラリーダンスや演劇などの舞台をリポートしている「ワニ狩り連絡帳」も、「前回の『四谷怪談』ではあそこまで物語を解体再構築して興味深い戯曲に仕上げていたというのに、この『こゝろ』では、そのちょっとした趣味の良さを見せるに留まってしまっていたという」とジャブを放ち、「例えば原作からの改変、母娘を姉妹にした点において、唐突にその見えない父による『近親相姦』というテーマが挿まれたりするのだけれど、そういう漱石らしくない物語を作るのではなく、もっと徹底して『こゝろ』自体を読み解いて発展させて欲しかったのだ」「ただ、そのスタイリッシュな演出姿勢は、わたしは気に入っているので、又次の作品に期待したいと思う」としています。

 ぼくも10日の初日のステージを見ましたが、「Review-lution! online」や「ワニ狩り連絡帳」と似た印象を受けました。
 近代的な自我の目覚めと形成、(恋による)挫折を時代の流れの中にさらした、とされる漱石の原作イメージが強かったせいか、下宿先の娘(妹)が父と近親相姦の関係にあったというリセット版は恋物語になだれ込み、漱石の作品を取り上げる肝心の部分がなくなるような気がしてしっくりしませんでした。
 「四谷怪談」だけでなく、横浜・山手ゲーテ座で「ポかリン記憶舎」と組んで上演した「少女地獄」公演(10月9-12日)でも「様式的身振りと発声」が極上の効果を上げていましたが、今回の公演では「間延びしたせりふ」がところどころに挟み込まれ、劇の流れを中断したようにも感じました。これも演出意図に含まれていたのでしょうか。いずれにしろ、4年前の作品という制約が強く作用したように思えました。ことばと様式化の問題は、いずれ考えてみるつもりです。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

Ort-d.d presents
『こゝろ』
第11回BeSeTo演劇祭東京開催参加
原 作  :夏目漱石
構成・演出:倉迫康史
出 演  :市川 梢  岡田宗介 三橋麻子 三村聡(山の手事情社)
照 明/木藤歩  舞台監督/弘光哲也  美術・衣装/田丸暦

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November 13, 2004

「ダンスが先?音楽が先?-振付家と作曲家の試み」

 京都橘女子大の小暮宣雄さんが演劇やダンスなどに接した体験をつづる「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」は、ライブ感覚にあふれた貴重なリポートが掲載されています。最新報告は「「ダンスが先?音楽が先?-振付家と作曲家の試み」。これは京都芸術センターの企画事業「コンテンポラリーダンス・ラボ」のシリーズで、10月27日に同センターで開かれました。

 「一番しびれたのは何と言っても最後の組であった。というか、ぶっとんでしまって口を開けたまま見続け聴き続けたというのが正直のところ。こちらの覚醒度というか興奮度というか(正反対の概念のはずなのだが)そのどちらの度合いも桁外れで、計測不可能にまで針が振れてしまい、おお、これからどうしよう・・というほどに、『希有で、愉快で、さっそうとした』コラボ。そのコラボレーションの神髄に触れていてかつ客席との一体感も抜群な、爆笑と驚きと共感に満ちたステージであった」と「激震」体験を語っています。

■京都芸術センター「コンテンポラリーダンス・ラボ
当日のラインアップは:
1. 砂連尾理+寺田みさこ×桜井圭介 「O[JAZ]Z」
2. TEN×港大尋 ゲスト出演=三林かおる(ダンス)、小川真由子(パーカッション) 「ill sounded ill counted」
3. 北村成美×巻上公一 「インダスヒュー」

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November 11, 2004

松田正隆作、平田オリザ演出「天の煙」

 財団法人地域創造と各地の公共ホールが共同で企画・製作(公共ホール演劇製作ネットワーク事業)した、松田正隆作、平田オリザ演出「天の煙」が10月末から12月初めまで各地で開かれています。皮切りの埼玉公演をみた牧園直さんから、力のこもったレビューが寄せられました。以下、全文です。



 固定されることのない街に住む戸籍のない人間、交錯する垂直と水平、あるいは時間と空間。〈虚〉なのか〈実〉なのか判断できないほどに〈虚〉が積み重なった場所の話。それが『天の煙』である。

 焼跡のような石ころだらけの土地で、まず始まるのは天へと続くような綱の先にある鐘を鳴らす仕事だ。鳴手は笑っているのに笑っていない(ように見える)女。彼女は自分が笑い続けていると言うのだが、傍目には仏頂面である。彼女が本当に笑っているのかは確かめようがない。芝居を支配しているのは、この論理である。〈虚〉なのか〈実〉なのか、はたまたどちらでもないのか、舞台に示される要素一つ一つが、定位することができないもので満ちているのだ。

 実母の葬儀のため、毬子は夫の時男を連れ東京から帰郷する。故郷は「西の果ての西の街」と称される、常に揺らいでいる街だ。毬子の家は絶対君主制の王家のようであり、毬子の盲目の姉・霧子はまさに女王のように君臨している。

 霧子は少女のような外見である。成長しないと彼女は言う。だがもうすぐ妹を追い抜くように大きくなるらしく、時男にふたなりの病人・山目の背中の皮を剥いで妹の足で型を取った靴を造り、自分に履かせてくれと頼むのだ。靴屋となって稼業を継ぎ、没落した家を復興させてくれとも。

 この虚言そのものとも思える依頼を、時男は拒みつつも何故か振り切ることができず、毬子との会話で得た断片を手がかりに、この街の構造化を図る。山目の背の上で座標軸をつくり、石ころを並べて時男は悩み続ける。

 霧子のことを考えて生きるようにすれば世界が見えてくる、とこの街の住人は物語の前半で語る。目の前の出来事を霧子を座標軸に受けとめる住人には、虚実を判断する必要がない。判断の放棄が世界を把握する術なのである。

 時男が並べた石を見て、毬子は星座のようだと言うのだが、星座は空に広がる物語そのものだ。実際には並んでいないが、そこにあるように見える(見る)もの。ちなみに星座の神話でよく目につくのは、死んだ後に神によって天上に引き上げられたというエピソードだ。とすると、この街は死の世界なのだろうか? 時男は石を並べてこの世界を探ろうとするが、ある時は縦にも積む。その動作は完成することがないのに延々と試みられる、あの賽の河原の石積みを連想させる。

 結局、一つ一つが区別不可能な小石を並べて世界を可視化しようとする無謀な試みは徒労に終わる。時男は街の要素を山目の背中に配置もしきれないし、互いの関係性による意味すら見いだせない。そして時男の中に色濃い疲労が蓄積されるに従い、霧子による無謀でそれゆえに虚言とも思える願いが現実味を帯びてくるのだ。それは〈虚〉と〈実〉が混じりあい、いよいよ腑分けができなくなってきたあかしでもある。

 ところで霧子が所望する靴というアイテムは、この物語では重要な意味を持つ。靴は霧子たちの家の繁栄時代の象徴であるが、物としての役割は身体の移動を助けるということである。つまり、物語上で「西の果ての西の街」と対置される「東京」という具体的な地名、すなわち〈実〉へ向かう可能性を示すものでもある。〈虚〉の街から〈実〉の東京へ移動できた毬子の足で型取られ両性を具える者の背の皮を材料とする靴は、生きた足そのものと言えなくもない。東京に逃亡したことによって住人の戸籍の剥奪とそれによる街の放浪を導いた毬子は、罪を背負うことを決意し、履いていた靴を奪われて、街を包む業火の中〈処刑〉される。

 〈処刑〉は火を後景に歩く女(毬子か)の素足によって表される。霧子が自分の足で型どった靴を作ってもらおうとしてふらついた瞬間、とっさに鐘に続く綱を引くことによって執行されたそれは、移動手段の喪失を意味するだろう。あるいは街の外へと移動したいという願いが昇天する瞬間でもあるのかもしれない。物語の進行過程では、唯一街の構成要素を数値化できる装置であった時計も止まってしまう。時計は再び動きだすものの、示す時間が正しいかどうか、確かめられることはない。つまり街は空間のみならず時間軸によってもすでに定位することができなくなっていたのだが、結末において〈実〉へと接続する術も失ってしまった。街と外の役所を繋ぐ伝令役はまだいるが、街の周囲を取り巻く火は伝令の役目を果たさせないだろう。街はあらゆるものから断ち切られることになる。

 だが同時に「西の果ての西の街」は〈虚〉の積み重ねで出来上がる〈実〉の街になったのかもしれない。〈虚〉は〈実〉を参照することで立ち現れる可能性だが、〈実〉が存在も感じ取れないほど遠ざかってしまったら、〈虚〉は〈虚〉とも言えなくなってきてしまうからだ。しかしこの仮定も確定はできない。物語は最後まで可能性を閉ざさないままなのだ。

 この不確定でありながら存在感に満ちた世界の構築をやってのけた松田正隆と、シンプルで、だからこそ無駄なく時には豊富に物語世界を語らせることに成功した平田オリザには、感服した。俳優たちも、この難解でややこしく、ややもすれば観客を遠く遠く引き離してしまう恐れもあるような物語を、よくぞ説得力を持つように表現しえたと思う。

 この劇は「平成16年度公共ホール演劇制作ネットワーク事業」という長い名前のプロジェクトによって創られたそうだが、こんなに質の高い成果が出たことは関係者にとっては喜ばしいことだろう。同時に、こんなに難しくてすっきりしない成果でだいじょうぶなのかと要らぬ心配もしてしまう。上演中首で船を漕いでいる人も見かけたし、終演後、トイレでは演劇関係者らしき人たちによる「よくわかんなかったね、時々すごいけど」という会話が交わされていた。物語が結末を迎えた後の中途半端な規模の拍手は、その評価を端的に示していたように思える。

 明るく「面白かったヨー」とは言えない、誰にでもお勧めできない芝居。でもある人には観てもらって、何を思ったのか聞きたい芝居。今回の芝居は、そういう芝居だった。
(牧園直 2004.10.31)


■同公演公式サイト:http://www.ycam.jp/net16/
【作】    松田正隆
【演出】  平田オリザ

【舞台美術】  奥村泰彦
【照  明】  吉本有輝子
【舞台監督】  寅川英司+突貫屋 斎田創
【大 道 具】   C‐COM
【衣 装】    有賀千鶴
【演出助手】  井上こころ

【出 演】  (五十音順 *印はオーディション合格者)
  秋葉由麻*   内田淳子   佐藤誓   松井周(青年団)
  増田理*    山本裕子*   吉江麻樹*(兵庫県立ピッコロ劇団)

【企画製作】
 (財)つくば都市振興財団
 富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ
 (財)可児市文化芸術振興財団
 兵庫県立尼崎青少年創造劇場〈ピッコロシアター〉
 山口情報芸術センター
 長崎市
 (財)熊本県立劇場
 あしびなー自主事業実行委員会

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November 08, 2004

うずめ劇場「夜壺」

 ドイツ出身のペーター・ゲスナー主宰の「うずめ劇場」が、唐十郎作「夜壺」を11月3-6日、東京・森下スタジオで上演しました。「おかめの客席日記」は「現実と虚構の境を行ったり来たりするのだが、一生懸命な(ヒロインの)織江を中心に、全員が一貫したキャラクターで筋をとおしているので、最後まで楽しんで見られた」と述べています。
 「ワニ狩り連絡帳」サイトは、10月の唐組「眠りオルゴール」公演と比べながら、演劇から立ち上る「悪意」というか、「あくまで『河原乞食』を押し通す姿勢」「エネルギー」が希薄なのではないかとみているようです。
 9月の福岡公演に関して既に「福岡演劇の今」サイトのレビューを紹介しました。併せて読んでいただきたいと思います。

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November 06, 2004

野鳩「きみとならんで空の下」

 今年のアリスフェスティバルに参加した野鳩「きみとならんで空の下」公演(10月16-18日)について、「うたうた」サイトが体言止めを多用した長めの感想を書き留めています。
 「ドラえもんを演劇にしたらこんな感じになるかもしれないというような、つまりはベタな展開。話はひどい状況でもマイペースな演技は変わらず。全ての過程を役者さんの演技がチャラにする。安心して観てられる。変な安心感。…ゆるゆる。しかし抜け目なくゆるゆる」

 なーるほど。「抜け目なくゆるゆる」という指摘は秀逸ですね。ぼくも見ましたが、こういう表現は思い浮かびませんでした。太極拳やヨガは、緩い動きを意識的に採用して、心身の緊張と弛緩をコントロールします。野鳩はそれと同じような方法論をとっていると感じました。新しいこころみではないでしょうか。期待している劇団の一つです。(北嶋孝@ノースアイランド舎)

「野鳩」公式サイト
□野鳩 第7回 公演「きみとならんで空の下」
 アリスフェスティバル2004参加作品
 2004年10月16日(土)~18日(月) 新宿 タイニイアリス
□作・演出 水谷圭一
□出演
 佐伯さち子
 畑田晋事
 村井亮介
 菅谷和美
 山田桐子
 水谷圭一
 吉田友則 (シベリア少女鉄道)

□スタッフ
 照明/増田純一
 舞台美術/仁平祐也
 小道具・造形部 部長/中島香奈子
 衣裳/矢島春恵
 イラスト/ル・カバコ
 宣伝美術/水谷圭一 畑田晋事
 制作/山下千春

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November 04, 2004

中野成樹(POOL-5)+フランケンズwith friends featuring劇団EnTRoPy「寝台特急“君のいるところ”号」

中野成樹(POOL-5)+フランケンズの「寝台特急“君のいるところ”号」は、原作が米国の劇作家T・ワイルダーの「特急寝台列車ハヤワサ号」で、よく上演される「わが町」と同じ作家の作品です。 「白鳥のめがね」サイトがこの公演を取り上げました。

 「同じ寝台特急に乗り合わせた人々の、それぞれの心境が、ニューヨークからシカゴへと向かう鉄道の背景やそれをとりまく世界との関わりを通じて描かれていくというオムニバス的な構成で、フランケンズの手に掛かるとコンセプトアルバムを一枚通して聞きましたという趣だ」とまず切り出します。
 その後ポツドールと比較しながら演技の質を考量し、「寝台車の客席はパイプ椅子を並べただけだし、役者は舞台奥につられた暗幕の裾を持ち上げて舞台に出入りする。そんな仕方で、むき出しにされたそっけない装置と同じような水準に、それぞれの演技はそっけなく置かれているようである。それでいて、その配置には、しっかりとした音楽的リズムが宿っている。そこでは、演劇が、演劇として造形され、完結する」と述べています。


-公演データ:
●10月27日(水)-31日(日)
●会場=横浜STスポット「スパーキング21 vol.15
●原作=T・ワイルダー「特急寝台列車ハヤワサ号」
●構成&演出=中野成樹(POOL-5)
●出演=村上聡一/福田毅/野島真理/石橋志保/劇団EnTRoPy/斎藤範子/岩本えり
●劇団POOL-5サイト=http://www.pool-5.com/

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November 03, 2004

榴華殿プロデュース R2 「のら猫」

 榴華殿プロデュース R2 「のら猫」公演(9月9日-12日)が新宿タイニイ・アリスで開かれました。 AliceFestival2004参加公演です。本公演とは趣が違い、榴華殿としては珍しいコメディ仕立ての作品でした。小劇場の芝居やダンス表現を伝える新聞「CUT IN」(タイニイアリスとディプラッツの共同発行)の最新第31号で、井上二郎編集長がこの舞台のレビューをトップに掲載しています。以下、井上さんの承諾を得て、全文を転載します。

◎異言語飛び交う状況を笑いで伝える これぞ小劇場の機知

 韓国人、日本人、在日中国人三世、在日朝鮮人三世の若い俳優たちが、それぞれの母国語をそのまま用いながら、言語の壁を笑いに変えて繰り広げるコメディだ。舞台が進むにつれ、言葉不用の生き生きしたコミュニティがその場に形成されていく。その活気、笑い、屈託のなさが持つ意味を、注意深い観客は見逃さないだろう。

 はじめ、洋服がびっしりぶら下がった洗濯屋の店内で主人(金世一)と女房(李知映)が韓国語で何か言い争っていると、そこにタマ(森田小夜子)が現れ、従業員募集に応募してきた旨を、当たり前のように日本語で喋る。女房はこれまた当然のごとく韓国語で受けるから会話はアサッテの方向へ。トンチンカンな面談を経て話はなんとかまとまり、タマは洗濯物の片づけに入る。主人と女房がそそくさと出て行くと、今度はミー(王美芳)が仕事を求めて現れ、タマの日本語とミーの中国語のずっこけた応酬に。数分後、これも適当な解決を見てタマとミーは仲良く働きだす。が、ミーがあらゆるものにアイロンをかけたがったりして、気配はスラップスティックに。それからやはり求職中でやたらと漬け物を作りたがるモゴ(梁學允)、リッチ&グラマラスにきめて洗濯物をとりに来たおバカなマリー(愛花)、探偵オタクのハナ(内藤加奈江)、さらには正体不明の放浪少女ラン(金蘭)も登場。

 狙ってない人の顔にモップの先が飛んで行く、「撫でてくれ」を「殴ってくれ」と聞き違えて殴る、あるいは日本語の語尾にやたらとスミダをつけて意志疎通を図る---。言葉が通じないことを逆手にとり、あるいは、その場のノリで雑駁な理解を成立させながら、俳優は伸び伸びと笑いを巻き起こしていった。

 この粗製濫造風のコメディは、言葉が違う人々の交流の実際をおおげさにデフォルメしながらたいへんよく伝えている。家庭や職場、飲食店の厨房や小劇場の楽屋、私やあなたの隣家。すなわちアジアの巷に無数に存在するその現場では、言葉の壁に逡巡するヒマなどなく、機知とギャグで壁を飛び越え、相手と自分の関係を見いだしていくしかない。舞台のちゃらんぽらんな方法は、じつはそういう真実をとらえる機知である。

 これは今の東京の状況を肌で感じ、率直に見つめるところから生まれた作品だ。逆に言えば、ようやく小劇場でごく自然に話題になるほど、異文化混交状況が熟して来たということかもしれない。だからこそ、この舞台には招聘とか翻訳上演という「交流」にはないリアリティがあるし、この地点から、例えばオフオフ・ブロードウェイの名作である「インド人はブロンクスへ行きたがっている」のような言語の壁を扱う秀作も生まれるのだろう。この先が楽しみである。ともあれ、なによりまず出演した俳優たちとって、本質的で根強い交流の端緒となったのは間違いないと思う。
(井上二郎 「CUT IN」編集長)


☆榴華殿プロデュース R2 「のら猫」
☆作・演出=川松理有
☆出演=森田小夜子 内藤加奈江 愛花 金蘭 金世一 李知映 梁斅允 王美芳
☆劇団サイト http://www.rukaden.com/

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November 02, 2004

劇団衛星のコックピット

 京都を本拠とする劇団衛星が、座席数50限定の「完全可搬型超具現寿司詰め劇場」を始めました。京都公演(9月18日-10月11日)は「第五長谷ビルのコックピット」 として、東京公演(10月28日-11月7日、こまばアゴラ劇場)は「東京駒場のコックピット」として開かれています。タイトルは「コンセプト1,2,3」。3作一挙公演です。京都公演を見た(体験した)京都橘女子大学教員の小暮宣雄さんが、演劇的仕掛けや作品のつながり、さらに「いま日本に蔓延している主語のあいまいな憎悪感」などについて「こぐれ日記〈KOGURE Journal〉」で詳しく報告しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:04 AM | Comments (0) | Trackback
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