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February 22, 2005

流山児★事務所「ハムレット」

 日韓演劇交流2005ワークショッププロジェクト公演と銘うたれていた。演出は流山児★事務所に招聘されて来日した玄志勳。10か月間の研修も終わりに近づき、その成果を公開しようというわけだ。実りのある、とてもいい企画だと思った。
 演出の言葉に「初めて東京に来た。初めて東京の町を歩いた」……「そして初めて日本で演出した」云々とある。初々しい若武者の、胸の高鳴りが聞こえるようだった。出演は人形糸操り崔永度とヴァイオリンの朴昡柱、そのほか7人はすべて流山児★事務所の役者たちだったから、日韓演劇交流がかけ声だけでないこともよくわかる。

  SPACE早稲田の階段を降りてまずまっさきに目についたのは、真っ白な段々で作られた李倫洙(「倫」のにんべんがない漢字)の装置。ハムレットの城壁なのだろう。壁のところどころから半分埋もれた車輪や靴やお皿や梯子などが顔を出している。都会の粗大ゴミ、廃棄物だろうか。みごとな才能だった。途中で段々の一つが客席の方に向かって開き、その上でも演技できるよう工夫されていた。
  この舞台、もとはチャールズ・マロウウイッツの「ハムレット」に拠ったのだとか。玄志勳はそのハムレットに「まだ全ての行動や思考が未熟な子供」をみつけたと記している。「まるで東京にいる自分みたい」に、と。
  ハムレットはしたがって、学生服を着た浅倉洋介。父を殺され母を伯父に寝とられながら復讐できない臆病ものとして登場する。彼に、自分の顔を見ろと鏡を渡したりナイフを持たせたり、同じ学生服を着た阿川竜一が何とか行動に踏み切らせようと励まし挑発する。フォーティンブラスであり、ハムレットの内心にいるもう一人のハムレットである。
  玄志勳は、マロウイッツ同様、筋や事件でなくハムレットの「意識変化」「心理的変化」に焦点をあてたいと書いていた。が、その後ハムレットがどう変わったかは、正直言うとよく分からなかった。どうやら最後のほうでハムレットは復讐に立ち上がった?らしいが、なぜそうできたか呑みこめなかった。どこから行動に踏み切ったか、ほんとに行動したのかどうかも、終始動きの激しい舞台だったので見分けが難しかった。ツンツンの可愛いワンピース、腕や足が食べてしまいたいほど魅力的なオフィーリア(佐藤華子)も出てきて、ピンク・パンツのお尻を捲くったりして吃驚させたが、ハムレットの「心理的変化」にどう関わったか? 王妃役の母親は? ……ここで言ってもしょうがないけれど、ひとこと女性の扱い方についてつけ加えると、性の対象としてしか見ていないこと、女性にばかり“操”を求めているところは、女の端くれとして大いに不満であった。どの国の「男」もまったくしょうがない。ブルータス、お前もか、である。
  この「ハムレット」、全体が街角の傀儡師崔永度に操られる人形たちという仕掛けになっていた。素敵な着想だ。はじめ役者たちが全員人形振りで動き始めたところなど、思わず期待で身を乗り出した。が、残念ながら折角の仕掛け。彼がどんなふうに人形を操り、どこに引っ込んでまたどこから出てきたか、お終いは?などなど、見ていくうちに彼は何者かどんどん曖昧になっていった。配役表に崔永度は「道化」とあったから、私たちは道化に操られているとただ設定してみただけかも知れないのだけれど……。
  いま、激しい戦火に見舞われている遠くを除いて、世界はどこもかしこもto be or not to beのハムレットばやり。自分をじっと凝視める誠実な玄志勳はやがての再演に、彼は、私たちは何ものに操られているのか、きっと明快な一つの回答を差し出してくれるにちがいない。私はそう信じている。        (西村博子 2005.02.19)

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February 18, 2005

Ugly duckling 「フル・オーケストラ」

ものすごくリキの入った、スケールのでかい装置にまず驚かされる。ヨーロッパ風の建物かなあ、広い舞台いっぱいに規則正しい長四角の石を積み上げたいくつかの階段や壁。町と言われればそんな気もするし、あちこちにマンホールの蓋があり、高い壁が上のほうでカーブを描き、ぽっかりあいた丸い穴に向かって垂直な梯子が伸びているので、都市の下を流れる下水道と見れば見えないこともない。

正面の高い出入り口から二代目針子と名乗る主人公?(山下平祐)が出てきて、まず、自分の母親は(お)針子、布を縫い足していろいろなものを創り上げる。自分も母の仕事を継ぎたいが許してくれないので、針ではなく、コンクリとセメントで同じことをしたい、といったことを言う。実際に母親とお針子の女性たちも出てきて、その動作を見ながら聞く自己紹介?だから、説明的な感じはしないが、論理はかなり強引である。
彼はどうやら都市造り、あるいは再建をしようとする現場監督らしい。工事人夫たちを指揮して工事をすすめているところへ、スコップを持った男(早川丈二)がまぎれこんできて、これは違う、前の町ではないと言う。と、あちこちにあった穴やマンホールから、「東西屋」をはじめいろんな人々が代わる代わる出てきて、いろんなことをする。あるいは彼らのさまざまをみせる。それぞれの孤独、といってしまえば簡単だろうが、彼らが一体何もので、その関係はほんとのところ何だったのかといったことは、脚本でも借りてじっくり読んでみないことには分からない。ただ池田祐佳理の見せ方の巧い演出にただあれよ、あれよと見ているばかりである。
おしまいに二代目針子がもう一度出てきて、客席に背を向け、役者全員に向かってタクトを振りかざしたところで、終わる。一人一人音色の違う役者たちが総力挙げてこの芝居を創ってきたという想いであろうし、これから力を合わせて新しい町を創っていこうという決意表明でもあった、にちがいない。タイトル、「フル・オーケストラ」の所以である。縫ったり修復したり纏めたり指揮する人、といえばそれにちがいはないが、それにしても二代目針子=現場監督=オーケストラの指揮者とはまた、強引としか言いようがない。最初と最後に、少年更生施設?の金網挟んで少年(樋口美友喜)が愛と憎しみをこめて少女(吉川貴子)の髪を強く引っ掴んで離さないシーンがあったから、この町づくり、ないしフル・オーケストラによる芝居づくりのすべてが樋口少年の遠くへの憧れ、夢ないしは欲望――だったかも知れない、という可能性が残る。
強引という言葉を2度も使ったが、たしかに作劇術のふつうの常識では考えられない構造である。二代目針子に主人公?とクエッション・マークをつけたのも、一見主人公にみえて、実はそれからのさまざまな出来事に関わってはいかず、古典的な意味で言う「ドラマ」の主人公にはならないからである。にもかかわらず終わりに、まるで「ドラマ」の主人公みたいに「発見」をし、再び指揮をとりはじめるのだから、不思議である。
が、前回の東京公演「アドウェントューラ」(2003)を見て、今回の「フル・オーケストラ」を見て、この不思議、この強引こそ樋口美友喜だと思った。「フル・オーケストラ」も古いカセットテープを聞こうとした「アドウェントューラ」も、基本的な構造として変わりはない。不良少年、少女が仮設されただけ複雑になったと言えようか。だが、その底の底に樋口の、“町”や“人々”あるいはそれとごっちゃになったそれらによって“創りだされる芝居”に対する強い希求がある。旧約聖書から逆に現代を眺めようとするのがいかにも体験不在の現代っ子らしいが、それがよくある日常のふとした想いなどに収斂せず、思いっきりでかく世界や日本を向こうにまわしているところも並みではない。彼女の祈りにも似た感受がどうしたら観るもののそれとなるか、Ugly ducklingに今一息の工夫をと望んでも、期待が大きすぎるということはない、だろう。                     (西村博子 2005.02.13 東京芸術劇場小ホール)

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February 17, 2005

こまつ座 『円生と志ん生』

◎ユートピアのゆくえ

 こまつ座にとっては『兄おとうと』(2003年)、井上ひさし自身にも『夢の泪』(新国立劇場、2003年)以来凡そ二年ぶりとなる新作は、二人のはなし家がその興行途中、敗戦直後の満州大連に閉じこめられた六百日間の道行を描いた『円生と志ん生』。五年前から構想をあたため、初日を二月五日に控えた一月二十七日に脱稿したという今作。前評判は相も変わらず頗る好調、前売完売も毎度の事ながら周囲の期待は否が応にも高まる。無事に、かどうかは舞台裏のこと、「遅筆堂」を支えるスタッフ一同の苦労は推して知るべしと云ったところだが、兎にも角にも初日の開幕ベルは紀伊國屋ホールに響き渡った。

 表題の通り、大枠は六代目三遊亭円生と五代目古今亭志ん生という戦後日本文化を担う二人の落語家を題材とした、従来の括りで云えば「評伝劇」の体裁をとる。歴史を虱潰しに調べ尽くし、微に入り細に入った膨大なる資料のほんのわずかな間隙を持ち前の想像力でグイと押し広げたところに、井上評伝劇の劇的宇宙は生れる。かつて『人間合格』(こまつ座、1989年)で太宰治の小説技法を戯曲化してみせ、また『連鎖街のひとびと』(こまつ座、2000年)では新劇や大衆演劇、軽演劇の台詞や結構を規範と仰いだ。上記の作品に限らず、井上戯曲には数ある「演劇」の様式そのものが台詞劇として顕されるが、『円生と志ん生』には「落語」の風味が大いに盛り込まれている。舞台には終始「舞台上の舞台」という可能性、落語のスタイルを示唆しつづける座布団に似た四角形の盆が置かれ、劇空間の基軸となる。おなじみのピアニストが寄席太鼓を鳴らすと、円生が高座の態で時代背景をおもしろおかしく語りだす。中途で志ん生が座布団担いで現れれば、観客は先ず第一場自体が『円生と志ん生』の枕であることに気づかされるのだ。そしてそれは終幕に至るまで劇を支配する約束事となる。

 三場の冒頭で或る曲がラジオから何気なく流れたとき、不覚にも落涙しそうになってしまった。胸にこみあげるものがあった。その曲とは石谷一彦作曲『小さな公園』。『連鎖街のひとびと』の劇中歌である。『円生と志ん生』が『連鎖街のひとびと』の延長線上にあることは云うまでもない。昭和二十年、つまり「あの」年の八月末の大連を舞台にした『連鎖街のひとびと』と、ほとんど時を同じくして『円生と志ん生』の舞台は設定されている。円生、志ん生二人が朝の寝床で聴くラジオからこの歌が流れ、その後、物語の進展に併走する形で「連鎖街」の話題が登場人物の口にのぼれば、『円生と志ん生』という物語の向こうに「連鎖街のひとびと」の姿がありありと浮かぶ。伊勢町の日本館から少し離れた連鎖街の今西ホテルには、片倉、塩見という二人の劇作家が、一彦やハルビン・ジェニイらが。さらには大連に閉じこめられ、帰りたくても帰れない多く日本人がいる。同じ思いを抱く人たちがそこに生きている。円生と志ん生は片倉と塩見の別の形象として舞台に現れていた。日本館の一部屋から、一曲の歌によって劇世界が一気に拡大される。同じ時を、同じ気持を、違う場所で様々の人が生きているという共生感覚。それはたとえば別場において、文化戦犯に指定された円生と志ん生が「これで巣鴨に入れる」と狂喜乱舞する場面にも明らかだろう。すなわち「巣鴨」とは「巣鴨プリズン」であり、『夢の裂け目』が、『夢の泪』が、『紙屋町さくらホテル』が次々と見えてくる。人は、自分と何かしら具体的な関わりを持つときにはじめて相手の存在を認めるのであって、以外のときにはたとえ壁一つ向こう、いやすぐ隣に坐っていたとしても、互いは別世界の住人であり、それは不在と同質でさえある。井上ひさしの演劇は、「昭和」「日本」を糧としながら観客の想像力のうちに何処までも広がっていく世界観に真骨頂がある。それも時代や歴史を賢しらに押しつけるのではない。基盤にあるのは、いまわたしたちが生きているこの瞬間、別の場所でも誰かが生きており、直接に関わることはなくとも、時代という大きな物語を背負って底辺でつながるという、至極単純な一事に他なるまい。しかし、はなし家の評伝劇、また「大連」の連作という趣向を身にまといながら劇世界を支える核は、大きな宗教劇としての側面である。

 かつて満州国は大日本帝国によって理想国家として建設された。その表玄関であり、神社仏閣、教会から遊郭まで、あらゆる施設が整備され、市街中心の広場から放射線状に広がる大連は、内地の日本人には夢溢れる街、人工のユートピアだった。『ひょっこりひょうたん島』にはじまり、『吉里吉里人』などを経て常に「ユートピア」を探しつづけている井上ひさしにとっても、大連はこの世に実在した「夢の街」だった。井上芝居では「場」の設定が重要視される。その点において、「大連」は恰好の「場所」である。しかし、円生と志ん生が駆け回る大連市のあちこち、それこそ教会から遊郭、街外れの廃墟や井上戯曲には珍しい電信柱が一本立つばかりの道端という各場は、地獄とさえ呼ばれる夢の墓場、覚まされた夢の跡である。四人の女優が各場で女郎からシスターまでを演じ分ける趣向も秀逸である。中でも修道院の屋上で繰り広げられる圧巻の九場には、シスターとはなし家という「聖」と「俗」の対比とともに、「笑い」とは何かという究極の問題が提示される。
 
 「兄さん(=志ん生)」と「松っちゃん(=円生)」から、不条理劇で有名な「ゴゴ(=エストラゴン)」と「ディディ(=ウラジーミル)」を連想することは安直な深読みかも知れない。しかし、ベケットの静止、不動というモチーフを一身に受ける例のふたり組に対して、円生と志ん生はひたすら動き回る。移動しつづける。羽衣座で役者をしながら身を立てる円生と、死んだふりをするかのように街々を浮浪する志ん生。聖書の教えと小咄がことごとく符合し、シスターたちに救世主と勘違いされた挙句「偽者の救世主」とまで云われる志ん生だが、「ゴドー」というわけのわからないもの、もしかしたら運命のようなものを待つばかりではなく、世界が悲しみに満ちているならば「すてきな」悲しみに変えてしまう心の強さを、はなし家の、「笑い」の役割と求める。自分たちのいるその場所を幻想でない「ユートピア」にしなくてはならない。夢破れ、ロシアの侵攻に晒されている地獄にも似た大連の地でこそ、それが諒解されるのだ。「笑い」を以て現実世界の困難を超克せんと試みつづけてきた井上ひさし流ユートピア論の一つの解が、ここにはある。『円生と志ん生』は『ゴドーを待ちながら』に対する反歌のような性格を有する、とは些か穿った見方だろうか。ともあれ、「聖書」も「三代目柳家小さん集」も、この世という「涙の谷」を越えるための標である。落語家の口を借りて、「笑い」とは「人間であること」「生きること」と同義であることが語られる。そして観客参加型の大仕掛けに大いに腹筋を鍛えていただきたい。観客参加といって、客席におりたりだとか、はたまた観客が舞台にあがったりだとかいうように直接的な舞台と客席の交流が行われるわけではない。俳優の演技に対する観客の反応から舞台効果が高まり、「間」の操作によって観客との関係を濃密にしていく手法には劇場が寄席と化すような錯覚をさえ覚えた。

 近年の作品では作家や歴史的事件を題材にとったためか、歌や踊りを用いる巧みな結構ながら、説明や主義主張が耳に強く響くこともあった。しかし、饒舌を口立て式の対話や落語という「形式」のうちに織りこみ、また本当に、歌が台詞以上の役割を担う。それらは新劇という現代演劇の或るスタイルにおける台詞の在り方、語り方に一石を投じたとも云えるだろう。と、いろいろ愚言を並べたててみたものの、どうも『円生と志ん生』は旧来の井上戯曲とは景色が違う。先行芸能から様式を育み、「大衆芸術」とさえ呼ばれる落語からの視線は、「むずかしいことはやさしく、やさしいことはおもしろく」というこまつ座の理念に沿った上で、また新しいスタイルを発見した。奇妙な余韻残る幕切れとも併せ、井上戯曲を総括した際に問題作とさえ見えると思うのだ。そしてそれを見事に視聴覚化した鵜山仁の演出も特筆すべきだろう。(後藤隆基/2005.2.12)

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February 16, 2005

KUDAN Project「くだんの件」

 少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」のレビューをお届けします。筆者は青木理恵さん。日本文学専攻の大学生です。実は南船北馬一団の公演評より先ににいただいていたのですが、掲載が遅れました。スミマセン。

◎快感の余韻と気だるさの感覚 イイ男との一夜の火遊び…

夢の中へ紛れ込む。
そこは理想郷のようでもあり、また現実逃避の場でもあり。
それでも、逃れられない現実は、いつだって自分の前に立ちはだかっている。

小熊ヒデジと寺十吾。
昔住んでいた街を訪れた者と、その街である店を営む店主。
いつも一緒に遊んでいる、タロウとヒトシ。
同Project作品である、『真夜中の弥次さん喜多さん』の弥次と喜多。
夢を見ている者と、その夢の中の登場人物。
一対一の関係は、瞬間でその色を変え、
今出てきたのが誰なのか、やっと理解できたかと思うと、またすぐに移り変わってしまう。

この作品を説明しろ、と言われると困る。
私にはそれを上手く説明できるだけの語彙力がない。

リアリティもなければ、取り立ててメッセージがあるわけでもない。
観客は、舞台上の二人の濃密な空気感を、ぼんやりと眺めさせられるだけだ。
またこれが、驚くほど気持ちの良い時間なのだから、たまったもんじゃない。

ラストには、装置が全て取り払われた舞台の上で、二人がそっと離れていく。
初めから、何もなかったのだとでも言うように。
そして閉じられた幕に映し出される、数え切れないほどの「ゆめ」の二文字。
本来自分の眠りの中でしか見られないはずの夢を、舞台の上で見せ付けられる。
そんな感じ、である。

『真夜中の弥次さん喜多さん』を見終わったときも、
今回の『くだんの件』を見終わったときも、
まるで性行為を終えた後のような、
快感の余韻と気だるさが入り混じった、何とも言えない肉体感覚が残っていた。

ただ一時間半座っているだけで、
肉体感覚にまで浸透してくる天野天街の演出力は、
こちらの想像力の貧困さを露呈させる。
だからそこに、何もかも忘れて身を任せたくなってしまうのだ。

溺れるような気持ち良さの中で、一度でも夢を見てしまったら、
なかなか足を洗う事はできない。
だからといって、その世界ばかり見ているわけにもいかない。
夢は、あくまで現実の添え物であり、
現実そのものを「なかった事」にするために存在しているわけではないのだから。

例えて言うなら、私にとって、KUDAN Projectの作品とは、
手に入らないほどのイイ男との一夜の火遊び、のようなものかもしれない。
(青木理恵 2005.2.6)

Posted by KITAJIMA takashi : 10:07 PM | Comments (0) | Trackback

February 15, 2005

南船北馬一団「にんげんかんたん」

 昨年夏から続いてきたアリスフェスティバルのしんがりは、大阪を拠点に活動している南船北馬一団の 「にんげんかんたん」公演だった(2月4-6日)。旗揚げ公演「よりみちより」で96年スペースゼロ演劇賞大賞を受賞。2002年4月上演した「帰りたいうちに」で、第7回劇作家協会新人戯曲賞大賞を受賞するなど、活動の幅を広げている実力派劇団。新境地に挑む新作について、青木理恵さんからレビューをいただきました。

◎時の止まった街から、動き出した今へ 「無意味」の「意味」の追求を

幻想に逃避する、その意味を考える。
あなたはどこから逃げたいの?

ひろ子という名の女性と、その姉が共に歩いている。
知らない街なのか、知っている街なのか。それは明かされるわけではなく、
ただ二人がいる街、である。

ある時はパン屋、またある時は喫茶店、そして酒屋と街中を流れる。
乗り損ねてしまったバスの待ち時間を埋めるように繋ぎ合わせられる時間は、
手からするすると零れ落ちていくような、ある種の無意味さを含む。

そしていつの間にか姉は妹の前からいなくなる。
慌てて追いかけていく妹。
街中を探し回り、やっと見つけ出した姉から発せられたのは、
「私はあなたよ」
という言葉だった。
姉は現実から逃げまどうひろ子自身の姿だったのである。

時の止まった街から、動き出した今へ。
逃げ続けていたかった自分を見つけ、前へ進めと。
ひろ子が夢から覚めて、この作品は終わる。

作品を通して伝えたい想いが、明白であればあるほど、
「余剰さ」の扱い方には細心の注意が必要だ。
正直この作品には、無駄が多いという印象が残った。
繰り返される機械的な肉体の動きや、前に進まない台詞の存在価値が
作品に対して、あまりにも薄かったのである。

この作品は、物語を突き詰めれば多分、一時間もかからずに終わってしまう。
ともすれば、ありがちと言われてしまう内容だ。
きついことを言えば、高校演劇的な青いテーマなのだ。
自分自身が高校演劇の経験者なので、「見覚えがあるな・・・」という実感が強くある。

しかし、それをあえて表現し、作品として二時間弱の大きさへと膨らませていくためには、
「自己と向き合うことの難しさ」という作品自身の持つテーマと、
作者は嫌というほど向き合わなければならない。
でなければテーマは上滑りし、
観客の心の中に「可愛らしさすら覚える若さ」しか残らなくなってしまう。

また、作品の中に「無意味」な瞬間を含むのであれば、
「無意味」であることの「意味」を追求しなければならない。
そうでなければ、「無意味」な部分はただの時間稼ぎにしか見えないのだ。

役者たちは良かった。
それぞれの声が印象的な上に、
「間」が作りこまれていて、流れはよくできていた。
完成度が低いわけではないのだ。
なので問題は、やはり作品自体の描き方ということになる。

この南船北馬一団という劇団は、今回の「にんげんかんたん」から
新しい表現を模索し始めている、と伺った。
これまでの公演内容と今回は、随分変化しているそうだ。

ならばぜひ、これまでの作品も見たいと思った。
その上で改めて今回の作品を見つめ直すと、
私の中にまた異なる意見が生まれてくるかもしれない。
十分に可能性は秘めている劇団なので、今後の発展を願っている。
(青木理恵 2005.2.14)

[上演記録]
南船北馬一団 「にんげんかんたん」

★作・演出:棚瀬美幸
★出演:藤岡悠子,末廣一光,菅本城支, 小崎泰嗣(発声ムジカ), 黒田恵(劇団潮流), 河村都, 経塚よしひろ, 後藤麻友, 白野景子, 長瀬良嗣, 山本雅恵
★舞台美術:柴田隆弘
★照明:森正晃
★音響:大西博樹
★舞台監督:中村貴彦
★チラシデザイン:米澤知子
★制作協力:石垣佐登子, 谷弘恵
★制作:南船北馬一団


Posted by KITAJIMA takashi : 09:40 PM | Comments (3) | Trackback
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