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February 22, 2005

流山児★事務所「ハムレット」

 日韓演劇交流2005ワークショッププロジェクト公演と銘うたれていた。演出は流山児★事務所に招聘されて来日した玄志勳。10か月間の研修も終わりに近づき、その成果を公開しようというわけだ。実りのある、とてもいい企画だと思った。
 演出の言葉に「初めて東京に来た。初めて東京の町を歩いた」……「そして初めて日本で演出した」云々とある。初々しい若武者の、胸の高鳴りが聞こえるようだった。出演は人形糸操り崔永度とヴァイオリンの朴昡柱、そのほか7人はすべて流山児★事務所の役者たちだったから、日韓演劇交流がかけ声だけでないこともよくわかる。

  SPACE早稲田の階段を降りてまずまっさきに目についたのは、真っ白な段々で作られた李倫洙(「倫」のにんべんがない漢字)の装置。ハムレットの城壁なのだろう。壁のところどころから半分埋もれた車輪や靴やお皿や梯子などが顔を出している。都会の粗大ゴミ、廃棄物だろうか。みごとな才能だった。途中で段々の一つが客席の方に向かって開き、その上でも演技できるよう工夫されていた。
  この舞台、もとはチャールズ・マロウウイッツの「ハムレット」に拠ったのだとか。玄志勳はそのハムレットに「まだ全ての行動や思考が未熟な子供」をみつけたと記している。「まるで東京にいる自分みたい」に、と。
  ハムレットはしたがって、学生服を着た浅倉洋介。父を殺され母を伯父に寝とられながら復讐できない臆病ものとして登場する。彼に、自分の顔を見ろと鏡を渡したりナイフを持たせたり、同じ学生服を着た阿川竜一が何とか行動に踏み切らせようと励まし挑発する。フォーティンブラスであり、ハムレットの内心にいるもう一人のハムレットである。
  玄志勳は、マロウイッツ同様、筋や事件でなくハムレットの「意識変化」「心理的変化」に焦点をあてたいと書いていた。が、その後ハムレットがどう変わったかは、正直言うとよく分からなかった。どうやら最後のほうでハムレットは復讐に立ち上がった?らしいが、なぜそうできたか呑みこめなかった。どこから行動に踏み切ったか、ほんとに行動したのかどうかも、終始動きの激しい舞台だったので見分けが難しかった。ツンツンの可愛いワンピース、腕や足が食べてしまいたいほど魅力的なオフィーリア(佐藤華子)も出てきて、ピンク・パンツのお尻を捲くったりして吃驚させたが、ハムレットの「心理的変化」にどう関わったか? 王妃役の母親は? ……ここで言ってもしょうがないけれど、ひとこと女性の扱い方についてつけ加えると、性の対象としてしか見ていないこと、女性にばかり“操”を求めているところは、女の端くれとして大いに不満であった。どの国の「男」もまったくしょうがない。ブルータス、お前もか、である。
  この「ハムレット」、全体が街角の傀儡師崔永度に操られる人形たちという仕掛けになっていた。素敵な着想だ。はじめ役者たちが全員人形振りで動き始めたところなど、思わず期待で身を乗り出した。が、残念ながら折角の仕掛け。彼がどんなふうに人形を操り、どこに引っ込んでまたどこから出てきたか、お終いは?などなど、見ていくうちに彼は何者かどんどん曖昧になっていった。配役表に崔永度は「道化」とあったから、私たちは道化に操られているとただ設定してみただけかも知れないのだけれど……。
  いま、激しい戦火に見舞われている遠くを除いて、世界はどこもかしこもto be or not to beのハムレットばやり。自分をじっと凝視める誠実な玄志勳はやがての再演に、彼は、私たちは何ものに操られているのか、きっと明快な一つの回答を差し出してくれるにちがいない。私はそう信じている。        (西村博子 2005.02.19)

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February 18, 2005

Ugly duckling 「フル・オーケストラ」

ものすごくリキの入った、スケールのでかい装置にまず驚かされる。ヨーロッパ風の建物かなあ、広い舞台いっぱいに規則正しい長四角の石を積み上げたいくつかの階段や壁。町と言われればそんな気もするし、あちこちにマンホールの蓋があり、高い壁が上のほうでカーブを描き、ぽっかりあいた丸い穴に向かって垂直な梯子が伸びているので、都市の下を流れる下水道と見れば見えないこともない。

正面の高い出入り口から二代目針子と名乗る主人公?(山下平祐)が出てきて、まず、自分の母親は(お)針子、布を縫い足していろいろなものを創り上げる。自分も母の仕事を継ぎたいが許してくれないので、針ではなく、コンクリとセメントで同じことをしたい、といったことを言う。実際に母親とお針子の女性たちも出てきて、その動作を見ながら聞く自己紹介?だから、説明的な感じはしないが、論理はかなり強引である。
彼はどうやら都市造り、あるいは再建をしようとする現場監督らしい。工事人夫たちを指揮して工事をすすめているところへ、スコップを持った男(早川丈二)がまぎれこんできて、これは違う、前の町ではないと言う。と、あちこちにあった穴やマンホールから、「東西屋」をはじめいろんな人々が代わる代わる出てきて、いろんなことをする。あるいは彼らのさまざまをみせる。それぞれの孤独、といってしまえば簡単だろうが、彼らが一体何もので、その関係はほんとのところ何だったのかといったことは、脚本でも借りてじっくり読んでみないことには分からない。ただ池田祐佳理の見せ方の巧い演出にただあれよ、あれよと見ているばかりである。
おしまいに二代目針子がもう一度出てきて、客席に背を向け、役者全員に向かってタクトを振りかざしたところで、終わる。一人一人音色の違う役者たちが総力挙げてこの芝居を創ってきたという想いであろうし、これから力を合わせて新しい町を創っていこうという決意表明でもあった、にちがいない。タイトル、「フル・オーケストラ」の所以である。縫ったり修復したり纏めたり指揮する人、といえばそれにちがいはないが、それにしても二代目針子=現場監督=オーケストラの指揮者とはまた、強引としか言いようがない。最初と最後に、少年更生施設?の金網挟んで少年(樋口美友喜)が愛と憎しみをこめて少女(吉川貴子)の髪を強く引っ掴んで離さないシーンがあったから、この町づくり、ないしフル・オーケストラによる芝居づくりのすべてが樋口少年の遠くへの憧れ、夢ないしは欲望――だったかも知れない、という可能性が残る。
強引という言葉を2度も使ったが、たしかに作劇術のふつうの常識では考えられない構造である。二代目針子に主人公?とクエッション・マークをつけたのも、一見主人公にみえて、実はそれからのさまざまな出来事に関わってはいかず、古典的な意味で言う「ドラマ」の主人公にはならないからである。にもかかわらず終わりに、まるで「ドラマ」の主人公みたいに「発見」をし、再び指揮をとりはじめるのだから、不思議である。
が、前回の東京公演「アドウェントューラ」(2003)を見て、今回の「フル・オーケストラ」を見て、この不思議、この強引こそ樋口美友喜だと思った。「フル・オーケストラ」も古いカセットテープを聞こうとした「アドウェントューラ」も、基本的な構造として変わりはない。不良少年、少女が仮設されただけ複雑になったと言えようか。だが、その底の底に樋口の、“町”や“人々”あるいはそれとごっちゃになったそれらによって“創りだされる芝居”に対する強い希求がある。旧約聖書から逆に現代を眺めようとするのがいかにも体験不在の現代っ子らしいが、それがよくある日常のふとした想いなどに収斂せず、思いっきりでかく世界や日本を向こうにまわしているところも並みではない。彼女の祈りにも似た感受がどうしたら観るもののそれとなるか、Ugly ducklingに今一息の工夫をと望んでも、期待が大きすぎるということはない、だろう。                     (西村博子 2005.02.13 東京芸術劇場小ホール)

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February 17, 2005

こまつ座 『円生と志ん生』

◎ユートピアのゆくえ

 こまつ座にとっては『兄おとうと』(2003年)、井上ひさし自身にも『夢の泪』(新国立劇場、2003年)以来凡そ二年ぶりとなる新作は、二人のはなし家がその興行途中、敗戦直後の満州大連に閉じこめられた六百日間の道行を描いた『円生と志ん生』。五年前から構想をあたため、初日を二月五日に控えた一月二十七日に脱稿したという今作。前評判は相も変わらず頗る好調、前売完売も毎度の事ながら周囲の期待は否が応にも高まる。無事に、かどうかは舞台裏のこと、「遅筆堂」を支えるスタッフ一同の苦労は推して知るべしと云ったところだが、兎にも角にも初日の開幕ベルは紀伊國屋ホールに響き渡った。

 表題の通り、大枠は六代目三遊亭円生と五代目古今亭志ん生という戦後日本文化を担う二人の落語家を題材とした、従来の括りで云えば「評伝劇」の体裁をとる。歴史を虱潰しに調べ尽くし、微に入り細に入った膨大なる資料のほんのわずかな間隙を持ち前の想像力でグイと押し広げたところに、井上評伝劇の劇的宇宙は生れる。かつて『人間合格』(こまつ座、1989年)で太宰治の小説技法を戯曲化してみせ、また『連鎖街のひとびと』(こまつ座、2000年)では新劇や大衆演劇、軽演劇の台詞や結構を規範と仰いだ。上記の作品に限らず、井上戯曲には数ある「演劇」の様式そのものが台詞劇として顕されるが、『円生と志ん生』には「落語」の風味が大いに盛り込まれている。舞台には終始「舞台上の舞台」という可能性、落語のスタイルを示唆しつづける座布団に似た四角形の盆が置かれ、劇空間の基軸となる。おなじみのピアニストが寄席太鼓を鳴らすと、円生が高座の態で時代背景をおもしろおかしく語りだす。中途で志ん生が座布団担いで現れれば、観客は先ず第一場自体が『円生と志ん生』の枕であることに気づかされるのだ。そしてそれは終幕に至るまで劇を支配する約束事となる。

 三場の冒頭で或る曲がラジオから何気なく流れたとき、不覚にも落涙しそうになってしまった。胸にこみあげるものがあった。その曲とは石谷一彦作曲『小さな公園』。『連鎖街のひとびと』の劇中歌である。『円生と志ん生』が『連鎖街のひとびと』の延長線上にあることは云うまでもない。昭和二十年、つまり「あの」年の八月末の大連を舞台にした『連鎖街のひとびと』と、ほとんど時を同じくして『円生と志ん生』の舞台は設定されている。円生、志ん生二人が朝の寝床で聴くラジオからこの歌が流れ、その後、物語の進展に併走する形で「連鎖街」の話題が登場人物の口にのぼれば、『円生と志ん生』という物語の向こうに「連鎖街のひとびと」の姿がありありと浮かぶ。伊勢町の日本館から少し離れた連鎖街の今西ホテルには、片倉、塩見という二人の劇作家が、一彦やハルビン・ジェニイらが。さらには大連に閉じこめられ、帰りたくても帰れない多く日本人がいる。同じ思いを抱く人たちがそこに生きている。円生と志ん生は片倉と塩見の別の形象として舞台に現れていた。日本館の一部屋から、一曲の歌によって劇世界が一気に拡大される。同じ時を、同じ気持を、違う場所で様々の人が生きているという共生感覚。それはたとえば別場において、文化戦犯に指定された円生と志ん生が「これで巣鴨に入れる」と狂喜乱舞する場面にも明らかだろう。すなわち「巣鴨」とは「巣鴨プリズン」であり、『夢の裂け目』が、『夢の泪』が、『紙屋町さくらホテル』が次々と見えてくる。人は、自分と何かしら具体的な関わりを持つときにはじめて相手の存在を認めるのであって、以外のときにはたとえ壁一つ向こう、いやすぐ隣に坐っていたとしても、互いは別世界の住人であり、それは不在と同質でさえある。井上ひさしの演劇は、「昭和」「日本」を糧としながら観客の想像力のうちに何処までも広がっていく世界観に真骨頂がある。それも時代や歴史を賢しらに押しつけるのではない。基盤にあるのは、いまわたしたちが生きているこの瞬間、別の場所でも誰かが生きており、直接に関わることはなくとも、時代という大きな物語を背負って底辺でつながるという、至極単純な一事に他なるまい。しかし、はなし家の評伝劇、また「大連」の連作という趣向を身にまといながら劇世界を支える核は、大きな宗教劇としての側面である。

 かつて満州国は大日本帝国によって理想国家として建設された。その表玄関であり、神社仏閣、教会から遊郭まで、あらゆる施設が整備され、市街中心の広場から放射線状に広がる大連は、内地の日本人には夢溢れる街、人工のユートピアだった。『ひょっこりひょうたん島』にはじまり、『吉里吉里人』などを経て常に「ユートピア」を探しつづけている井上ひさしにとっても、大連はこの世に実在した「夢の街」だった。井上芝居では「場」の設定が重要視される。その点において、「大連」は恰好の「場所」である。しかし、円生と志ん生が駆け回る大連市のあちこち、それこそ教会から遊郭、街外れの廃墟や井上戯曲には珍しい電信柱が一本立つばかりの道端という各場は、地獄とさえ呼ばれる夢の墓場、覚まされた夢の跡である。四人の女優が各場で女郎からシスターまでを演じ分ける趣向も秀逸である。中でも修道院の屋上で繰り広げられる圧巻の九場には、シスターとはなし家という「聖」と「俗」の対比とともに、「笑い」とは何かという究極の問題が提示される。
 
 「兄さん(=志ん生)」と「松っちゃん(=円生)」から、不条理劇で有名な「ゴゴ(=エストラゴン)」と「ディディ(=ウラジーミル)」を連想することは安直な深読みかも知れない。しかし、ベケットの静止、不動というモチーフを一身に受ける例のふたり組に対して、円生と志ん生はひたすら動き回る。移動しつづける。羽衣座で役者をしながら身を立てる円生と、死んだふりをするかのように街々を浮浪する志ん生。聖書の教えと小咄がことごとく符合し、シスターたちに救世主と勘違いされた挙句「偽者の救世主」とまで云われる志ん生だが、「ゴドー」というわけのわからないもの、もしかしたら運命のようなものを待つばかりではなく、世界が悲しみに満ちているならば「すてきな」悲しみに変えてしまう心の強さを、はなし家の、「笑い」の役割と求める。自分たちのいるその場所を幻想でない「ユートピア」にしなくてはならない。夢破れ、ロシアの侵攻に晒されている地獄にも似た大連の地でこそ、それが諒解されるのだ。「笑い」を以て現実世界の困難を超克せんと試みつづけてきた井上ひさし流ユートピア論の一つの解が、ここにはある。『円生と志ん生』は『ゴドーを待ちながら』に対する反歌のような性格を有する、とは些か穿った見方だろうか。ともあれ、「聖書」も「三代目柳家小さん集」も、この世という「涙の谷」を越えるための標である。落語家の口を借りて、「笑い」とは「人間であること」「生きること」と同義であることが語られる。そして観客参加型の大仕掛けに大いに腹筋を鍛えていただきたい。観客参加といって、客席におりたりだとか、はたまた観客が舞台にあがったりだとかいうように直接的な舞台と客席の交流が行われるわけではない。俳優の演技に対する観客の反応から舞台効果が高まり、「間」の操作によって観客との関係を濃密にしていく手法には劇場が寄席と化すような錯覚をさえ覚えた。

 近年の作品では作家や歴史的事件を題材にとったためか、歌や踊りを用いる巧みな結構ながら、説明や主義主張が耳に強く響くこともあった。しかし、饒舌を口立て式の対話や落語という「形式」のうちに織りこみ、また本当に、歌が台詞以上の役割を担う。それらは新劇という現代演劇の或るスタイルにおける台詞の在り方、語り方に一石を投じたとも云えるだろう。と、いろいろ愚言を並べたててみたものの、どうも『円生と志ん生』は旧来の井上戯曲とは景色が違う。先行芸能から様式を育み、「大衆芸術」とさえ呼ばれる落語からの視線は、「むずかしいことはやさしく、やさしいことはおもしろく」というこまつ座の理念に沿った上で、また新しいスタイルを発見した。奇妙な余韻残る幕切れとも併せ、井上戯曲を総括した際に問題作とさえ見えると思うのだ。そしてそれを見事に視聴覚化した鵜山仁の演出も特筆すべきだろう。(後藤隆基/2005.2.12)

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February 16, 2005

KUDAN Project「くだんの件」

 少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」のレビューをお届けします。筆者は青木理恵さん。日本文学専攻の大学生です。実は南船北馬一団の公演評より先ににいただいていたのですが、掲載が遅れました。スミマセン。

◎快感の余韻と気だるさの感覚 イイ男との一夜の火遊び…

夢の中へ紛れ込む。
そこは理想郷のようでもあり、また現実逃避の場でもあり。
それでも、逃れられない現実は、いつだって自分の前に立ちはだかっている。

小熊ヒデジと寺十吾。
昔住んでいた街を訪れた者と、その街である店を営む店主。
いつも一緒に遊んでいる、タロウとヒトシ。
同Project作品である、『真夜中の弥次さん喜多さん』の弥次と喜多。
夢を見ている者と、その夢の中の登場人物。
一対一の関係は、瞬間でその色を変え、
今出てきたのが誰なのか、やっと理解できたかと思うと、またすぐに移り変わってしまう。

この作品を説明しろ、と言われると困る。
私にはそれを上手く説明できるだけの語彙力がない。

リアリティもなければ、取り立ててメッセージがあるわけでもない。
観客は、舞台上の二人の濃密な空気感を、ぼんやりと眺めさせられるだけだ。
またこれが、驚くほど気持ちの良い時間なのだから、たまったもんじゃない。

ラストには、装置が全て取り払われた舞台の上で、二人がそっと離れていく。
初めから、何もなかったのだとでも言うように。
そして閉じられた幕に映し出される、数え切れないほどの「ゆめ」の二文字。
本来自分の眠りの中でしか見られないはずの夢を、舞台の上で見せ付けられる。
そんな感じ、である。

『真夜中の弥次さん喜多さん』を見終わったときも、
今回の『くだんの件』を見終わったときも、
まるで性行為を終えた後のような、
快感の余韻と気だるさが入り混じった、何とも言えない肉体感覚が残っていた。

ただ一時間半座っているだけで、
肉体感覚にまで浸透してくる天野天街の演出力は、
こちらの想像力の貧困さを露呈させる。
だからそこに、何もかも忘れて身を任せたくなってしまうのだ。

溺れるような気持ち良さの中で、一度でも夢を見てしまったら、
なかなか足を洗う事はできない。
だからといって、その世界ばかり見ているわけにもいかない。
夢は、あくまで現実の添え物であり、
現実そのものを「なかった事」にするために存在しているわけではないのだから。

例えて言うなら、私にとって、KUDAN Projectの作品とは、
手に入らないほどのイイ男との一夜の火遊び、のようなものかもしれない。
(青木理恵 2005.2.6)

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February 15, 2005

南船北馬一団「にんげんかんたん」

 昨年夏から続いてきたアリスフェスティバルのしんがりは、大阪を拠点に活動している南船北馬一団の 「にんげんかんたん」公演だった(2月4-6日)。旗揚げ公演「よりみちより」で96年スペースゼロ演劇賞大賞を受賞。2002年4月上演した「帰りたいうちに」で、第7回劇作家協会新人戯曲賞大賞を受賞するなど、活動の幅を広げている実力派劇団。新境地に挑む新作について、青木理恵さんからレビューをいただきました。

◎時の止まった街から、動き出した今へ 「無意味」の「意味」の追求を

幻想に逃避する、その意味を考える。
あなたはどこから逃げたいの?

ひろ子という名の女性と、その姉が共に歩いている。
知らない街なのか、知っている街なのか。それは明かされるわけではなく、
ただ二人がいる街、である。

ある時はパン屋、またある時は喫茶店、そして酒屋と街中を流れる。
乗り損ねてしまったバスの待ち時間を埋めるように繋ぎ合わせられる時間は、
手からするすると零れ落ちていくような、ある種の無意味さを含む。

そしていつの間にか姉は妹の前からいなくなる。
慌てて追いかけていく妹。
街中を探し回り、やっと見つけ出した姉から発せられたのは、
「私はあなたよ」
という言葉だった。
姉は現実から逃げまどうひろ子自身の姿だったのである。

時の止まった街から、動き出した今へ。
逃げ続けていたかった自分を見つけ、前へ進めと。
ひろ子が夢から覚めて、この作品は終わる。

作品を通して伝えたい想いが、明白であればあるほど、
「余剰さ」の扱い方には細心の注意が必要だ。
正直この作品には、無駄が多いという印象が残った。
繰り返される機械的な肉体の動きや、前に進まない台詞の存在価値が
作品に対して、あまりにも薄かったのである。

この作品は、物語を突き詰めれば多分、一時間もかからずに終わってしまう。
ともすれば、ありがちと言われてしまう内容だ。
きついことを言えば、高校演劇的な青いテーマなのだ。
自分自身が高校演劇の経験者なので、「見覚えがあるな・・・」という実感が強くある。

しかし、それをあえて表現し、作品として二時間弱の大きさへと膨らませていくためには、
「自己と向き合うことの難しさ」という作品自身の持つテーマと、
作者は嫌というほど向き合わなければならない。
でなければテーマは上滑りし、
観客の心の中に「可愛らしさすら覚える若さ」しか残らなくなってしまう。

また、作品の中に「無意味」な瞬間を含むのであれば、
「無意味」であることの「意味」を追求しなければならない。
そうでなければ、「無意味」な部分はただの時間稼ぎにしか見えないのだ。

役者たちは良かった。
それぞれの声が印象的な上に、
「間」が作りこまれていて、流れはよくできていた。
完成度が低いわけではないのだ。
なので問題は、やはり作品自体の描き方ということになる。

この南船北馬一団という劇団は、今回の「にんげんかんたん」から
新しい表現を模索し始めている、と伺った。
これまでの公演内容と今回は、随分変化しているそうだ。

ならばぜひ、これまでの作品も見たいと思った。
その上で改めて今回の作品を見つめ直すと、
私の中にまた異なる意見が生まれてくるかもしれない。
十分に可能性は秘めている劇団なので、今後の発展を願っている。
(青木理恵 2005.2.14)

[上演記録]
南船北馬一団 「にんげんかんたん」

★作・演出:棚瀬美幸
★出演:藤岡悠子,末廣一光,菅本城支, 小崎泰嗣(発声ムジカ), 黒田恵(劇団潮流), 河村都, 経塚よしひろ, 後藤麻友, 白野景子, 長瀬良嗣, 山本雅恵
★舞台美術:柴田隆弘
★照明:森正晃
★音響:大西博樹
★舞台監督:中村貴彦
★チラシデザイン:米澤知子
★制作協力:石垣佐登子, 谷弘恵
★制作:南船北馬一団


Posted by KITAJIMA takashi : 09:40 PM | Comments (3) | Trackback

February 12, 2005

KUDAN Project「くだんの件」

 公演名を詳細に書くと、少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」。ちょうど10年前に東京・新宿のタイニイアリスで初演され、その後98/99、2000/01年にアジア公演と国内公演が行われています。作・演出は天野天街(少年王者舘)で、小熊ヒデジ(てんぷくプロ)と寺十吾(tsumazuki no ishi)の2人芝居です。1月26日-2月1日まで横浜相鉄本多劇場で。

 KUDAN Projectのwebサイトによると、物語は次の通りです。

 どこでもない時、どこでもないところ、どこでもない夏の或る日……記憶の奥に取り残された荒廃した店頭。ホコリの積もったカウンターの奥に座る一人の男(ヒトシ)のもとに、一人の男(タロウ)が訪ねてくる。タロウは昔、集団疎開をしていた頃、このあたりの二階の片隅で半人半牛の怪物「クダン」を飼っており、その「クダン」を探しに来たという。謎めいた二人の過去をめぐり会話は捩れ、過去と現在を行きつ戻りつしながら世界は迷走し、蝉時雨を背景に分裂と増殖を繰り返す。《夏》のイメージを明滅させながら、まるで極彩色の光の中をジェットコースターで走り抜けるようなスピードで物語は展開し、夢か現(うつつ)かわからぬ世界の先に待つオシマイへと向かいます。

 葛西李奈さんから「くだんの件」のレビューが届きました。「ユメの終わるユメ」とラストの光景を重ねています。以下、全文です。

◎懐かしい「におい」 経過をたどる「おもい」

 わたしは天野天街のキソウテンガイに出会うとき、鼻先に触れる「におい」を実感する。

 それは言わば、子供の頃ぜったいにつかんで離さなかった毛布のボロボロの端切れのような、精一杯にぎりしめることの出来る「軌跡」から漂ってくるものではないかとおもう。
大好きで大好きで、ずっと一緒にいたかったのにくたびれてしまった、あいするものがあったとして、いつの間にかわたしはそれを忘れていて、何故か欠片でも良いから思い出したくて彼の舞台を観続けているような、そんな気がするのだ。

 就職活動を終え、地べたを雨が打ちつける中、わたしは重い身体を引きずって横浜にあらわれた。この日は朝から初めての面接を受けた帰りで、しかも前日は友人と遅くまで語りに力を入れていて、終電を逃し帰宅したのは午前二時、結局睡眠時間は二時間という「最悪」のコンディションで舞台に臨もうとしていた。何度も「今日は諦めよう」と思ったが、この日を逃したらもう時間がない、観るチャンスは二度と訪れないかもしれない・・・と精神と肉体にムチ打って観劇に至ったのである。

 そんな状態で観た舞台はどのようにわたしの胸に響いたのか。結果から言おう。睡魔に襲われる間もなく、わたしは「におい」の心地良さに心を奪われていた。むしろ、そのような疲れを身にまとっていると、空気の揺らぎに敏感になるので、逆にいつもより何倍も「におい」を全身で感知することとなったのである。

 蝉の声のもとに展開される、ヒトシとタロウの、繰り返し見ている夢、夢の見ている夢、夢の終わる夢。つめ、スイカ、しお、うめぼし、コップ、ピザ、わたし達が当たり前のように目にしている日常が、言葉あそびを持って新しい側面を提示していく。同じことを舞台にいる二人が形を変え品を変え繰り返していく中で、「タロウがヒトシを突き落とした」
このようなフレーズが見え隠れする。ギクリとした瞬間に次の場所へと進んでいる二人が、いや、ずっと同じ場所にいるのかもしれないが、わたしは目の前で起きていることを信じられなくなる。

 高校生時代から少年王者舘の舞台をいくつか観てきたけれど、舞台で繰り広げられる「奇跡」の数々と共に、わたしは登場人物達の「軌跡」の経過を追っている。それはとても懐かしいもので、じわじわとたちのぼる痛みを伴いながら、思考をゆっくりと止めてしまう。
まさにこれは、「ユメの終わるユメ」なのだ。

 ラストの舞台上に何もなくなった状態でタバコを吸う二人と、足元に残る現実の一点であるピザの箱に、光は差している。わたしは心地よさをその場で封じ込めるようにして持ち帰り、劇場をあとにした。きっとまだまだ、忘れていることと忘れられることはたくさんある。けれどこの世界を目にすることが出来る限り、救いは生まれているようにおもう。
(葛西李奈 2005.2.12)

[上演記録]
少年王者舘KUDAN Project「劇終/OSHIMAI~くだんの件」
場所:横浜相鉄本多劇場
日時:1月26日-2月1日

作・演出 天野天街(少年王者舘)
出演:小熊ヒデジ(てんぷくプロ)、寺十吾(tsumazuki no ishi)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:21 PM | Comments (0) | Trackback

February 10, 2005

双対天使「赤い、赤い、赤い靴」

  少女カーレン(上ノ空はなび)が何とも言えない、飾り気なしの可愛いらしさだった。レースの縁飾りのある黒いドレス、その短いスカートからにゅっと突き出た白いふっくらした両足が、後ろに前に右に左に、赤い靴に引っ張られて、めちゃ踊りする。もっと見ていたかった。もっと踊って欲しかった。

  あんまり洋ものを見ない私がなぜ阿佐谷アートスペース・プロットに? 理由は簡単。ルコック・システムとはそも何ぞや、この目で確かめたかったからだ。脚本・演出の猪俣哲史は、本場で実際に学んできた人。Physical Theatreに関する論文もいくつかある。帰国後の公演はこの「赤い、赤い、赤い靴」で3回目とか。どこまでこだわるかも見届けたいと思った。
作品は題名から明らかなとおりアンデルセンがもと。靴も母親手製の布靴がやっとという貧しい家の少女が、貴婦人に仕えることになり、夫人の目が見えないのを幸い、いけないと言われた赤い靴を靴屋で買い……と、ほぼ原作に添って始まって行く。が、その後、夫人はかつて自分の実の娘に嫉妬して見殺しにしたことがあり、その夫は戦いに負けて人肉を食べ、告白を聞くのが役目の牧師はロリコン、足フェチだった……と、話は思いがけない方向に進んでいく。が、実はこれはショータイム。誰がいちばん残酷かのコンテストだったというどんでん返しとなる。そして再びアンデルセンのほうに戻っていって、踊って踊って踊り続けなければならない少女は足を切ってと頼み、願いどおりの足切り。しかしなぜか天使が足を返してくれて、めでたしめでたし――のはず。
ところがこのハッピーエンド。放ったらかしの飢え死にか、実母のお葬式のすぐあとに続いており、少女の赤い靴はまたぴくぴく動きはじめる――というところで終わる。そう、これは、いちばん純真、可憐な少女が実はいちばん残酷だったという物語であった。少女がまったく少女。オンナなんかでないからいっそう残酷、理屈でいえない怖さである。その昔、童話を読みなおし、本来持っていた残酷さを蘇生させようとする作業が盛行したことがあったが、これもその流れ。別役の初期傑作と同様だ。
ほんとのことをいうと、初めはなかなか物語の中に入れなかった。日本人の顔や声と、もとはコメディア・デラルテとか、ガイジン風手振り身振りとが、しっくりしなかったからだ。やがて出てきた少女には、そういう型っぽい動きがなかったので助かった。幸い?少女は口もきけなかった。いずれ日本の、役者一人ひとりにぴったりの、イノマタ・システム?が生まれていくにちがいない。
とはいうものの、貴婦人の今は亡き娘の成長が3足の赤い靴で示されたり、電動ノコの音が少女カーレンの足の切断だったり、説明でなく観客の想像と感受に直接伝えようとするルコック・システム。そのポイントをという猪俣哲史の意図はよく伝わってきた。たとえば懺悔室が横に倒されると棺桶になったり、道具(モノと言ってくれと抗議されそうだが…)を、自然主義的にでなく、演劇として面白く使おうとする工夫もよく凝らされていた。
欲を言えばまだまだ。3階から落下した娘の音は? 人肉の味は手触りは? 言葉でなく直接伝えられるはずのことは少なくない、と思った。着想が面白いカニバリズムも、犠牲者決めるくじ引きと赤い靴の関係が今イチ呑みこめなかったし。盲目に聾唖に足の切断――知ってか知らずか、残酷はもっともっとあったのに、とも思った。
「赤い靴」とは、アンデルセンのなかでも飛び切り素敵な選択だったと思う。このままではもったいない。練り直して再度の挑戦をぜひ期待したい。少女はなぜ踊り続けないではいられなかったのだろう。赤い靴は猪俣哲史にとってなんだったのだろう。そして私には?――刺激的な芝居を見ると、あとが楽しい。                 (西村博子 2005.02.05)

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February 06, 2005

劇団タコあし電源×デジタルハリウッド大学院大学プロデュース公演「面接の人達2006」

 劇団タコあし電源×デジタルハリウッド大学院大学プロデュース公演「面接の人達2006」公演が1月28日(金)-2月7日、東京の中野・劇場MOMOで開かれました。就職活動中の大学生、青木理恵さんから身につまされるレポートをいただきました。以下、全文です。

◎作り手の自覚以上に高いニーズ 就職活動を通した自己成長物語

人生のうちで、就職活動ほど特殊なものはない。
・・・そう考えてしまうのは、私自身が今まさにその渦中にいるからなのだろうか。

物語の舞台は、ある就職塾。
就職を目指す学生や、リストラ再就職組の人々が織り成す、
就職活動を通した自己成長物語である。
と、安易にまとめてしまえばそれだけの話なのだ。

就活と恋愛の両立の難しさ。
就活と本当の夢との距離の取り方。
面接。自己PR。一分間スピーチ。
やりたい仕事と、自らの能力に適した仕事とはどう違うのか?
何十社と落ち続けていく自分を、どう位置づければ良いのか?

自分の意識とは無関係とも思えるほどの無常さで繰り広げられる、就職戦線の惨さ。
現在の就職活動というものを本当に知らなければ、描けないドラマである。

「就職活動を続けてきた自分を否定したくない」
面接官と口論になり、
「就職なんかしなければいい」
と言われてしまった男の子が、そう答える。
私は今まさに、そんな思いと戦っているのである。

軽やかな笑いを含んだそつのない構成は、特殊な方法論を使ったものではなかったが、
現在大学4年生、卒業寸前の2月まで就職の決まらない私にとっては、
特別に響いてくるものがあった。
「こんなに自分と向き合って、こんなに惨めになったことはない」
登場人物のセリフが、私の胸をかきむしって涙が出る。

就職支援企業が提供についていたり、
就活生必読の書「面接の達人」が作中で用いられたりと、
これほどリアリティの維持に力が注がれた小劇場作品を見たのは、初めてだと思う。

演劇を本気でやりたいと願う人の多くは、
「夢追い型」と呼ばれるフリーターとなるケースが多い。
演劇と就職活動ほど、並列しがたいものもそうないだろう。
それが同時に目の前で表現される、奇妙な矛盾感。
なのに、この一作を見たことで、どんな就職支援本を読むよりも
深く「就職」について考えさせられてしまったのである。

この作品は多分、作り手の自覚以上にニーズの高い内容である。
日本中の、就職活動学生たちが求め続けている作品だと純粋に思う。
演劇のビジネス活用としてのモデルにも、十分になりえる。
全国の大学で公演してほしい。
それくらい学生には、就職活動というものの具体的イメージが乏しいのである。

もっと早い段階で見られていたら、私も少しは状況が違っていたような気がする。
などというのは言い訳なので、まだ私も諦めずに就職活動を続けるつもりである。
(青木理恵 2005.2.2)

[上演記録]
■劇団劇団タコあし電源×デジタルハリウッド大学院大学 プロデュース公演 「面接の達人2006

▼脚本
 岡本貴也(タコあし電源)
 イケタニマサオ(くろいぬパレード)
 渡邉睦月(TBS「逃亡者」「太陽の季節」他)
 池谷ともこ、みつだりきや
▼演出:ブラジリィー・アン・山田(ブラジル)
▼プロデュース
 岡本貴也+デジハリ大学院演劇プロジェクト
▼1月28日-2月7日/中野・劇場MOMO

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February 04, 2005

人形劇団プーク「かちかち山」「金壺親父恋達引」

 人形劇団プークの本拠地を通りががりに眺めたことがある。新宿南口から徒歩5分ぐらいだろうか。甲州街道から少し代々木寄りに入った絶好の場所だった。 3日夜、その専用劇場ではなく、こまばアゴラ劇場で初めてプークのステージを体験した。おもしろかった。客席で無防備に、ころころ笑ってしまった。

 人形劇団というと、操り糸で人形を動かすというイメージがあったけれど、「かちかち山」は違っていた。被り物はあっても俳優は素面で、詰め物で膨らせた白の吊ズボンをはいて登場した。ヨーロッパのダンス集団で、豚の仮面をかむって登場したダンサーがそんなズボンをそろってまとっていたような記憶がある。A.C.O.A.がBeSeTo演劇祭でみせた「煙草の害について」でも、同じような衣装をかなりグロテスクに仕立てて登場した。 A.C.O.A.では衣装が重要な伏線になっていたけれど、プークでは動物との近縁を示す導線の役割を果たさせようとしているような気がする。

 「かちかち山」だから、登場するのは狸とウサギ。かたや37歳の古狸なら、ウサギは今年16歳の処女という設定である。狸の死骸を発見した男女の警察官が現場を調べる冒頭から、やがて2人が狸とウサギに成り代わり、それぞれ狸とウサギの人形をときに手に持ち、人間と人形が一体となって舞台が進んでいく。語りと身体との間に人形が入り込んだり、人形が姿を消して俳優が表に出たり、その逆に人形の影に役者が隠れたり…。

 劇中劇という構造が演劇の相対化によく用いられる。しかし人形の効果的な登場が、今回の舞台でどれほど意識されているかどうか分からないけれど、劇自体を豊富化する手がかりになるのではないかと示唆深かった。プーク体験はぼくには目から鱗の舞台だった。同じように人形をメーンに登場させる文楽が、メタ演劇実現の視点から再評価されたことはあるのだろうか。
 そういえば、客席には「地点」演出の三浦さんや田島さんらの姿がみえていた。なるほど、よくベンキョウしてますね。

 狸汁から逃れようと、つかまえたおじいさんを殺した狸は、美しいウサギにほれ込んで疑うことを忘れているが、ウサギは殺されたおじいさん夫婦に恩義を感じており、冷静に復讐を図るという話。御伽噺をもとにした太宰の原作。ウサギ役の桐丘さんが舞台に登場すると、匂い立つような雰囲気が広がった。恩義と復讐を秘めつつ古狸の一挙手一投足に妖しく冷たい視線を向ける。その光景の背後にオーラが見えるような気がした。

 井上ひさし作の「金壺親父恋達引」はモリエールの翻案だが、相変わらずうまくできている。ただ劇形態は文楽方式で、黒子役が人形を動かし、同時にせりふも。足脚の動きが笑いを誘ったけれど、方法的には従来どおりのパターンを踏襲しているように思えた。

 決定的に重要なのは、人形だと思われる。そのキャラ、作り方で印象が決まるからだ。主役と同じ、いやそれ以上の比重があるのではないだろうか。

 今回登場した人形は、2つの演目で同じ作者と思われる。いや、同じかどうか分からないが、少なくとも「作風」は似ている。しかし人形の作風は上演する作品によって、がらりと変わっていいのではないか。リアルもあればシュールもパンクもあっておかしくはない。なるほど、人形制作者に問われるのは技量だけでなく、演出も含めた劇全体の方向が問われるようになるかもしれないと密かに考えた。

 こまばアゴラ劇場の 「冬のフェスティバル2004」参加公演。声をかけてくれた劇団のKさんに感謝。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:18 PM | Comments (0) | Trackback

February 03, 2005

人形劇団プーク 『金壺親父恋達引・カチカチ山』

 1929年に創立され、昨年75周年を迎えた人形劇団プークは現代人形劇専門の劇団である。普段は子どものための人形劇を中心に国内外を問わぬ活動を展開しており、さらにはテレビ、映画にもその幅を広げ、社会的評価も高い。また年に一回、新宿にある本拠地「プーク人形劇場」で「おとなのための」人形劇を上演している。人形劇は子どものものであるという一般のイメージを払拭せむとする劇団の提言を今回より深め広げるべく、「おとなの人形劇」と銘打ってこまばアゴラ劇場冬のサミットに参加したその演目は、井上ひさし『金壺親父恋達引』、太宰治『カチカチ山』の二本。人形劇は文楽を除けば子供の時分に見たきり雀の我が身ながら、確固たる様式がみせる多彩な表現に驚かされ笑わされ、非常に心楽めた。

 太宰治原作の『カチカチ山』は男女の道化による、狸殺害をめぐる推理劇という構造をとる。狸の死骸(人形)を前に現場検証、推理を連ねる二人。「惚れたが悪いか」に締め括られる動機解明に至るまでの過程が劇中劇としての『カチカチ山』に変貌していく。男と女はそれぞれ兎に惚れる醜狸三十七歳と、残酷なアルテミス、十六歳の処女兎を人形で以て演じる。俳優が先ず演技をし、彼らが人形を使うという行為自体が一つの仕掛けとして機能していた。端から人形劇というスタイルを前面に押し出すのではなく、いうなれば「普通」の芝居からはじまり、人間が人形を道具として扱っていくうちに人間のほうが人形に支配されていく。その発端となる人形が狸の死骸であることの怖ろしさは、一見可愛らしくも見えるお伽話の裏に潜む太宰版「お伽草紙」の黒い笑いを引き出していた。美しい顔をして冷酷な行動をとる兎。一体に残酷はその心と裏腹な静謐な態度にもっとも顕著なのである。

 幕間を挟んでモリエールの『守銭奴』を原作に井上ひさしがラジオのための現代義太夫節として書き上げ、後にテレビ文楽化された『金壺親父恋達引』。人に聞いて曰く、井上ひさしと云えば『ひょっこりひょうたん島』というように、もともと作家と人形劇との関わりは極めて大きいものだった。こちらは前半と打って変わって、人形による芝居。両手で操られる赤子ほどの人形は、繰り手の声を借りて台詞を語る。氏の劇言語は異様でさえある。とめどなく溢れかえる地口や掛け言葉などの言語遊戯が乖離させる意味の世界は拡散の危険も孕むけれど、人形は「言葉」を、まさにそのまま身体としての表現に結びつける。たとえば、「肩を落とす」という慣用句があるとしよう。実際あるのだが、もしそうした場面が劇中にあるとするならば、人形はがっくりと文字通り肩を落とし、その背中はひどく寂しげに去っていくことだろう。「腹を抱え」て笑うような場面では本当に腹を抱えるに違いない。そしてそれが如何にも真実らしく、またおもしろいのだ。井上戯曲では何よりも「言葉」が演劇的な武器となる。時に過剰とも云われる饒舌は人形という仮面が語るのを望んでいたかのようによく似合っていた。

 直接感情を表情に出せない人形は身体そのものが雄弁である。人間が人形を手にとる。彼乃至彼女が人形を支配し、動作を指示するにもかかわらず、その後人形に反映される身体及びイメージは、人間を遙か超越したところにまで到達する。演技という点で、誇張が最大の武器となる。そして、表情の一定に保たれた人形が生身の人間では決して届かない身体表現を可能とする。極めて細かな仕草から大袈裟な心象所作まで、人形であることの制約が単なる叙情をよりふくよかに表現するのである。ただ、顔の表情の乏しさを補う為もあってか、その台詞回しはともすれば極端に抑揚ばかりが先行し勝ちだった。日頃の子どもたちのための芝居づくりという功罪を問うものではないけれど、わかりやすい明度ばかりでない、声の表現を聴きたい。『金壺親父恋達引』の義太夫が、単なる語りにとどまったのも残念だ。その点、桐丘麻美夏の兎やお高のような抑制の効いた演技が印象に残った。

 人形劇にも様々の形がある。ここに見えたのは、諷刺に富んだ笑劇としての人形劇だった。人形は人間のデフォルメされた形である。その行動、動作、はたまた人形の容姿外見など、特徴を際立てて演じるほどにおかしみは増す。リアルとは対極にある抽象的舞台は、物や音など、数々の見立てによって成立するが、言葉遊びも見立ての代表格であるといえよう。人形も、人間の見立てであることは云うまでもない。人形を見るわたしたちの視線は、或いは異形のものとして彼らを見るかも知れない。人間にあらざる「人形」がまるで「人間」らしく振舞うのを見てわたしたちは笑うだろう。感情を露わにしない人形が仰々しくも感情的になるとき、わたしたちは笑うだろう。そうした人間のパロディとしての姿を自分自身の身替わりとして見ながら、安心しているのかも知れない。人形劇という可能性は未知である。そして奥が深い。特に『カチカチ山』のような、人間と人形の関係性の追求をめざしてもらいたい。この先「人形」という、実は遙かな歴史を持つよりしろを用いて、どのような演劇がつくられていくのか。非常に楽しみである。(後藤隆基/2005.2.2)

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February 02, 2005

ストアハウスカンパニー「Remains」

東京・江古田を本拠としてているストアハウスカンパニーの「Remains」公演が04年11月に開かれました(11月17日-23日)。ストアハウスカンパニーは既存の枠組みにこだわらず、現代演劇の新しい形式を模索し、海外公演にも積極的に取り組んでいる演劇集団です。2ヵ月余り前でやや日時が経っていますが、先に「女囚さちこ」のレビューを寄稿していただいた葛西李奈さんがこの公演を正面から取り上げました。以下、全文です。

◎日常に潜む何処にでもある溝にはまる人々

 ひとつ咳をしたら、客席から劇場の隅々にまで伝わってしまうような静寂の中、役者は互いに肉体を放棄したかのように舞台奥に積み重なっている。薄暗い照明にてらされて、誰が誰の顔なのかもわからない。

 私たちは彼らの姿を意志を持って確認している。演出の意図を探ろうとして頭をめぐらせながら、次に起こることを予測する。都会の孤独に疲れ果てた老若男女が互いを貪り合い飲み込んでいく姿を思い浮かべる。舞台からは皮膚に染み込んでくるような冷たさがひしひしと伝わってきていた。

 客電が消える。舞台は薄暗い。ようやく役者の動きが見えるぐらいだ。彼らはようやっと目を覚ましたかのように起き上がり、うつろな目で地に足がついていることを確認するように歩き出す。それぞれが、ばらばらに、それぞれの視点を保ち、だんだん歩調は早くなり、照明も明るくなり、一人にもう一人、さらにもう一人と連なりを作っていく。なんとか無視をしようとしていた他の人々も、その状況に耐えることが出来なくなり、連なりに加わる。加われなかった最後の一人が突き飛ばされ、地に身体を打ちつけ、苦い表情を浮かべる。なんとか抵抗しようともがくが、誰も助けてはくれない。仕方なく連なりに加わる。仕方なく加わるが、連なりの一人となった今は違和感なくその場に存在している。何も問題はないように見える。しかし、それぞれに破綻が生まれてくる。もともとの自分のリズムに逆らって動いているのだ。どうしようもない痛みにうずくまる人々。その痛みを振り払い連なりを作ろうとする人々。そして脱落者。不調和音に舞台が飲み込まれる。ぼろぼろになっていく人間の姿が浮き彫りにされ、最終的にはうずたかく積まれていた洋服の山に助けを求めるようにして人々はしがみついていく。

 舞台に洋服がちらばっていく。人々の身体に絡みついた洋服が私達の目の前にさらされていく。舞台の上をごろごろと転がりながら胎児のように目をつぶり、自分の在りかを確かめているようだ。自身が身につけているものをはぎとっていく姿は、まるで生まれ変わろうとしているかのよう。

 なんと集中力を用する舞台なのだろう。気付くと動けなくなってしまっている自分がいる。何故か、自分もその舞台にいるような気になるのだ。役者の視線はまっすぐで、澱んでいて、まるで私が日々目にしている電車の中のサラリーマンではないか。私が無意識に恐れている社会に押しつぶされそうになっている人々ではないか。それは、私なのか? 問いは頭の中でぐるぐる巡る。役者の熱気がこちらまで伝わってくるようだ。いつの間にか冬だというのに私は汗をかいていた。台詞の一切無い舞台というのは、以前観た「上海異人娼館」と同じように私達の想像力をまんべんなく刺激してくる。

 舞台の人々は、ストッキングを頭から一人一人かぶっていく。顔が再び見えなくなる。のっぺらぼうがたくさんいる。さきほど、最後まで抵抗していた人物も、他の人物にストッキングをかぶせられ、苦しそうにもがく。誰の表情も見えない。静寂。私は逃げ出したくなっている。人間が人間ではなくなる瞬間をさらされているようだからだ。最終的に彼らは互いにストッキングを引きちぎり、足元に落ちている洋服に着替え、日常に帰っていった。ストアハウスカンパニーは、毎回このような芝居を作っているとのことである。役者の肉体から発せられるものの威力を存分に信頼している劇団のようだ。海外公演もなしているとのことで、これから私が注目していきたい劇団の一つと相成った。
(葛西李奈 2004.11.17)

[上演記録]
ストアハウスカンパニー「Remains」公演
作・演出 木村真悟
出演  真篠剛 星野和香子 柴山美保 田口アヤコ 岡本考史 大沢元輝 新健二郎

Posted by KITAJIMA takashi : 12:27 AM | Comments (2) | Trackback
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