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March 24, 2005

劇団無限蒸気社「BARBER OHCHESTRA」

 劇団無限蒸気社は「質の高い芸術表現を目指し地域性を生かした特色溢れる自作台本を上演し続ける事を目的に1996年愛媛県において創立」したそうです。
今年の東京芸術祭リージョナルシアター・シリーズのトップを切って、東京・池袋の東京芸術劇場小ホールで「BARBER OHCHESTRA」公演を開きました(3月2日-3日)。
 この公演に関して、葛西李奈さんからレビューをいただきました。以下、全文です。

◎日常のリアリティと非日常の訴え それぞれの言葉の意図は?

 劇場に入り、目前に広がるセットに思わず小さく声をあげる。豪華なセットに溜め息、というよりは、奥行きを出すために左右に置かれた数枚のつい立の配色の使い方によるものか、その厳粛な空気に瞬時に入り込んだ驚きを隠し切れなかった、と言ったほうが良いかもしれない。客入れ音楽も一切無し、である。

 パンフレットから、今回の公演「BARBER ORCHESTRA」のあらすじを引用する。

 日露戦争からちょうど百年。日本で一番初めにロシア人捕虜が収容された街。今も彼らの魂が眠るその地から、物語は始まる。街中のとある理容店。そこに小さな小包が届く。差出の日付は百年前。そえられた手紙にはこう書かれていた。
『おばあちゃんです。もうすぐ生まれます』
 歴史の封が開けられる。理容師たちのざわめきはオーケストラの響きに、黒髪の囁きはバイオリンの音色へ。「彼女」をめぐって闇の楽団が動き始める。高らかに鳴るは忘れられた交響曲。イースター(復活祭)の夜。最終楽章は成るや否や。

 無限蒸気社は、1996年に愛媛県松山市他の有志により創立された「半抽象表現」をコンセプトとして掲げている劇団である。「半抽象表現」とは、日常と非日常のはざまを描き、そこから見える真実性を舞台に乗せる表現方法、つまりは「夢の具現化」を試みるような方法論であるとのこと。また、愛媛特有の神事や歴史を表現の中に取り入れており、他には無い、地域に根ざした芝居づくりを目指しているそうだ。コンテンポラリーダンスなど、言葉と表現の融合なども試みとして行っているとあって、今回はその在り方の難しさと奥深さを、観客そして表現者に投げかけた公演であったのではないだろうか。

 物語は観客に背を向けた男の独白で始まる。早口で言葉を並べ立てると、すぐに別の男2人が現れる。2人は、舞台に背を向けていた男に新聞紙をかぶせる。3人の男の後ろからもう1人の男が現れ、男2人は呼吸を整え始める。が、瞬時にしてその空間は壊れる。男達は全員何かに引っ張られるようにして舞台から消える。次に現れるのは少年の匂いを漂わせる女。音に合わせて体をくねらせる。その動きは機械的であり、かつ操り人形のようだ。つい立ての脇からすっと現れる机に乗った人形の生首。女はゆっくりと、舞台奥の暗闇に消えていく。私は寺山修司の戯曲世界を思い出す。視覚的・聴覚的に訴える力が非常に大きい舞台だ。

 ところが、この後理容室の場面が出てきて、生首がカット見習い練習用のものだと観客に知れたところから、舞台は「物語性」を持ち始める。あらすじは上に引用させていただいたものを記載したが、要するに過去と現在の繋がりが描かれるのである。

 しかし、「物語性」は瞬時に観客の身に委ねられ、舞台では幻想世界が展開する。そしてまた、物語の展開は舞台上に返される。つい立てを利用し、左右自在に移動することによって空間を駆使しているのは興味を惹かれるが、私はこの抽象表現とリアリティの差がはっきりしないことで集中力が遮られてしまい、物語を追うことが出来なくなってしまった。途中で新聞紙が大量に落ちてくる演出があったが、「美しい」と感じられるばかりで、意図が読みきれず、ある種のもどかしさと悔しさを拭い去ることが出来ないまま、終演後、会場を後にした。

 開演前、案内で「半抽象表現」を表現方法として用いていると知って「なるほど」と思ったが、だとすると私のように「物語性」を追ってしまう観客には厳しい一面があるのではないかと感じられた。その一番の問題はこちら側に「言葉を発する責任」の重さが投げられてしまっているように感じられることだ。放たれる言葉が、こちら側に思考を帯びさせてしまう言葉なのである。感覚の流れに放り出されることは心地良いが、それに思考が伴うと何がやりたいのかこちらに伝わらず、息苦しくなってしまい、舞台を見る目に素直になれなくなってしまう。もし、これが劇団側が確信犯でやっていることだとしたらまた違ってくるが、もしそうではないのだとしたらもっと「日常のリアリティ」を作り込み、提示して欲しいと思ってしまった。美術や音響のセンスが高い故に、このように感じる気持ちが強くなっているのかもしれない。どちらにせよ、非常に勿体無いと思った。

 ただ、これから先、この劇団が「半抽象表現」を追求していくことには興味がある。このバランスの取り方は難しい。「日常のリアリティと非日常の訴え」を確立するまでの劇団の成長が、今後の課題となってくるところではないだろうか。
(葛西李奈 2005.3.3 観劇)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:54 PM | Comments (0) | Trackback

March 22, 2005

芸術創造館プロデュース「背くらべ」

奥に二段ベッド。舞台ばなに玄関によくみかける帽子やコートをかけるスタンド。やがてひとりの女性が、ネグリジェというかパジャマというか寝姿で出てきて、ぼんやりスタンドのもとに座り込む。と、奥で人の気配。女性は急いでベッドの上段にもぐりこんで寝たふり。男性が入ってきて少し歩きまわってからベッドに背をもたせ、煙草に火をつけようとする……とたんに煙草は止めて! 私はてっきり深夜に帰った夫と待ちかねた妻と思い込んで二人の諍いを見ていった。が、かなり経ってから男性が女性のことをお姉ちゃんと呼び出すので、えッ!

 そう。これは基本的には80年代後半に起こって90年代に隆盛を誇った、いわゆる“静かな劇”あるいは“人間関係の劇”。何か劇的な出来事が起こったり人が相手に行動的に働きかけて発見をするといった“ドラマ”ではなく、あちこちに散りばめられている台詞に気をつけていると次第に相互の関係が見るものに解ってくる、未知が既知になってくるという仕組みの芝居であった。

 が、じゃ旧態依然の“静かな劇”だったか。というと、そうではなく、しばらくすると姉は手ぬぐいかぶった祖母?になり二つ折りの座布団腹に押し込んで妊娠した母になり麦藁帽子かぶった幼児になり、それに応じて弟もまた(祖父?か)父になり幼子になり、ときに二人は男女入れ替わって姉が金ボタンの中学生となり、弟がセーラー服の少女になったりさえする。そう、これは役者がいかに他に成り変わるか、成り変わりうるか、役者の背くらべ、ではない腕前くらべのための劇でもあった。観客はただ二人の演技を楽しめばいい。

世界の他はおろか、すぐ身近の他に対してさえほんとの関心が持てない現代において、後ろ向きに小声で話す台詞にさえ耳をそばだて関係を探らなければならない“静かな劇”なんてもはや有効ではないと感じはじめた幾人もの創り手たちが、静かな劇とみせかけて単なる静かな劇では終わらない方法をいま盛んに追求しはじめたように思われるが、この「背くらべ」の岩崎正裕(作・演出。劇団大阪太陽族)も確実にその旗手の一人だったと言えよう。

 そしてこの作品を“静かな劇”のふりした役者の腕比べ、芸くらべとして見てみると、中川浩三(弟)もみなみさゆり(姉)も観客をときに笑わせときにしんみりさせ、申し分なくよく演った。40歳になるとパンフにあった弟が、半ズボン姿で地べたを転げ駄々をこねたりするのも面白く、二人の台詞も、下手が当たり前の小劇場演劇では珍しいほどにうまい。昔の、姉弟仲良しがよく伝わってくる。二人の男女が入れ替わるのはお互いの立場に立ってみようとしたからか? 遊びの「ごっこ」でいいからもう少し必然があったらと惜しまれたのと、ときどき姉が喚くところ、(ふつうの台詞は声にも独特の魅力あってよく解るのに)音だけ聞こえて何を言ってるのか判らないということさえなければ満点だろう。あれは喉の奥で音を共鳴させ外へ出さないせいだろうか。

  ……普通ならここでペンをおくべきである。が、長年洗濯屋をしてきた父親がアイロンがけの最中に倒れて救急車。今にも危篤の知らせが来るかも?の実家に、久しぶりに大阪から1時間半かけて帰ってきた弟。それが売れない?俳優(芝居では映画俳優)で、役を貰うには下げたくもない頭も下げなければ……といった台詞を聞いたとき、ふっと作・演出の岩崎正裕のことを想ってしまったからいけない。芝居は冒頭、吸ってはだめと言われた煙草、最後に1本だけと許されてライターを灯し、それがふっと消されて終わったが、岩崎さんの父上はいまなお健在だろうか。好きな道に進むと言ったら父にもう金はやらないと言われ、母にそっともらったと芝居にあったが、あれはまるで作り話? カーテンコールのあとかなり唐突に♪われは湖の子、白波の~」と坂本九の♪見上げてごらん夜の星を」が聞こえてきたが、あれはまさか? 琵琶湖周航の歌にはたしか岩崎さんの故郷鈴鹿は入ってなかったはずだが?……。

だから仕方がない。舌足らずの大急ぎで聞くだけ聞いておきたい。(1)姉は弟に、役者をやめて洗濯屋を継げ、私が家に居ては帰りにくいだろうから嫁に行くと言った。手相見てあげようのグループに接近し、実際に路上で声かけたこともあるとも言った。が、そう言っただけでは嘘かほんとか見るものには判らない。二人は終わりに二段ベッドの柱に背の丈を測りっこしていた。姉はどう生きようとしているのか、弟と生き方くらべはしないのだろうか。 (2)パンフの表紙に父と姉と弟、3人の写真があり、もともとは弟と父との、あるいは姉弟と父との、懐かしい昔を彷彿とさせようとした芝居であった可能性が高い。しかしその父は、最初のほうの二段ベッドの上、なんだか気難しそうだった寝言(あれは祖父?)と、母に乗った父の行為を盗み見てしまった挿話と、真夏の我慢大会優勝と、せいぜいそれぐらいであった。これで作者は十分だった?

もしも、と思った。もう少し弟の創る喜びと経済のことも含めて生きることの辛さ、厳しさが――あの、たった一度撮影時の心持を話すだけでなく――芸くらべのなかで伝わってきたら。もう少し反抗した彼の、今死のうとする父への想いが伝わってきたら……と。姉に吹き消してと言いながら、煙草の火を消したのは弟だったから。

今度が三演とか。いま一度の加筆、不要の削除によって四演、五演。親に背いて芝居の道に走ってしまった若い役者たちからも上演希望が殺到し……帰りの想像は膨らんでいった。  (2005.03.20 東京芸術劇場小ホール)

Posted by : 03:43 PM | Comments (0) | Trackback

HUSTLE MANIA「青青青!!!」 

  あんまりスポーツのこと知らない私が言うことだからアテにはならないが、ラグビーはいちばん垢抜けしない、男臭いスポーツのように思われるのだが、どうだろう。飾り気がないといえば飾り気ないから好感度が低いわけではないが、憧れからほど遠いのは確かである。お世辞にも素敵なデザインとは言えないその横縞の汗っぽいユニホームは、アメリカン・フットボールや野球のそれとちがって太ももの筋肉から下腹の脂肪まですっかり剥き出し。サッカーのユニホームも似たようなものだけれど、泥んこの量が圧倒的にちがう。スマートに走り回るサッカー選手とちがって、ボール抱えて転げたり体こごめて尻をつきだし揉みあったりするからにちがいない。第一ラグビーには、メジャ-リーグだのアジア・カップだのといった陽など全く当らない。渋谷・F・真和作、瀧澤☆孝則演出の「青青青!!!」はそういうラグビーだった、じゃない芝居だった。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 06:11 AM | Comments (0) | Trackback

Big Smile「paper planes」

  Paper plane――訳せば「紙ヒコーキ」。終幕、あちこちから飛んでくる紙ヒコーキがとてもきれいだった。弁護士の夕平(中野正章)が幼かった昔を思い出すシーンだ。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:39 AM | Comments (0) | Trackback

プリンアラモード鯖「DOCK’N DOCK’N」 

  「僕はフリーターです。夜間のアルバイトをして暮らしているフリーターです」――開演前のちょっとした時間に読んだ作・演出細川貴史の「鯖のたわごと」は、こんな書き出しから始まっていた。それは、バイト帰りにコンビニの前でタバコを吸っていたら、ホームレスのおっちゃんから声をかけられたときのこと。たとえそれが知人でも心の準備がなかったら「しどろもどろのこんにゃく」になってしまうという細川は「その場にフリーズ」。タバコ1本やっと渡すと一目散に逃げ出したというのだ。東京なんか出てくるんじゃなかった。これから用のないところに絶対立ち止まらないぞ。人生を投げたりしないぞ……と「あらゆる後悔をしながら」。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:33 AM | Comments (0) | Trackback
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