11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

March 12, 2005

松本修構成・演出「城」(カフカ原作)

 「演劇時評」サイトはときに辛口ですが、1996年から続いている貴重なサイトです。筆者は中村隆一郎さん。「ひとりの観客として感じたことを率直に書いています。Web上の劇評は若い人のものが圧倒的に多いのですが、僕は二回りほど上の世代」だそうです。舞台への目配りや確かな文章からも、そんな落ち着きが感じられます。ただ続く文章で「だから青年達には珍品に見えるかもしれない。このギャップ(は)掲示板を読んで見たら楽しめると思います。意見があったら書き込んで下さい。毒にも薬にもならない役立たずの劇評に対抗してラディカルに劇を論じたいひとのために」とありました。なるほど。底力を感じるのはそのせいだったのですね。
 その中村さんが、東京・新国立劇場で開かれた松本修構成・演出のカフカ原作「城」公演(1月14日-30日)を取り上げました。

この芝居には映画やテレビでは到底味わえない舞台ならではのおもしろさがふんだんに盛り込まれている。松本修は実に摩訶不思議で猥雑でわくわくするエネルギッシュな劇世界をつくったものだ。これはカフカの「城」に違いはないが、少し大所から眺めると、60年代から始まる不条理劇や「新劇」解体、小劇場運動、あとに続く野田や鴻上たちを飲み込んで我が国の演劇文化を集大成したような様々の要素をカフカの世界で束ねた一種のパフォーミングアートになっている。…
 持続的に芝居を見てきた人のことばだけに、見逃したのが悔やまれます。

[上演記録](新国立劇場webサイトから)
スタッフ、キャスト、あらすじなど
舞台写真

Posted by KITAJIMA takashi : 11:29 PM | Comments (0) | Trackback

March 11, 2005

裸伝Q「黄色い線まで」

 「裸伝Q」は作・演出の鍋島松濤さんが主宰する演劇ユニット。東京・中野のスタジオあくとれで第7回公演「黄色い線まで」が開かれました(2月17日-20日)。鍋島さんによると、「子供の頃に描いた淡い夢、その残像が微かに残った大人達のお話」だそうです。

 劇評サイト「SayCorner」を運営している清角克由さんは、「役者四人による舞台。何か大きな事件が起こるわけではなく、ただ会話と過去への回想でシーンがつづられる。本来であれば、僕の苦手なタイプの芝居なのだが、最後まで芝居に飽きることなく見ることができた」と感想を述べ、「『サル劇』~サルでもできる演劇講座」も「鍋島さんは、無理をしない。大きい小屋だとか、派手な装置だとか、そういったものでゴマカシをしない。伝Qの芝居は、心地よく地味だ」と書いています。
 今回は日程の調整が出来ずに見られませんでしたが、前回公演「ほどけないヒモ」の印象も「心地よく地味」でした。ぴったりの表現だと思います。前回公演前のインタビューにも目を通してください。ちょっと珍しい名前の由来や演劇に対する考え方が述べられています。

[上演記録]
「裸伝Q」第7回公演「「黄色い線まで」
会場:中野スタジオあくとれ
   2005.2/17~2/20
作・演出:鍋島松濤
出演:
朴贊革、 しゃこ、 智絵、 稲葉能敬(劇団桟敷童子)

スタッフ
照明:松本 永(光円錐)
制作:裸伝Q
制作助手:宮田沙織
宣伝美術:大西由美子
協力:劇団桟敷童子

Posted by KITAJIMA takashi : 11:16 PM | Comments (0) | Trackback

March 10, 2005

東京ネジ「フロウフユウ」

 「東京ネジ」の第2回公演「フロウフユウ」が東京・王子小劇場で開かれました(1月27日-30日)。このグループは、盛岡を拠点に活動していた劇団ネジのメンバーら女性5人で2003年11月に結成。「佐々木」姓が3人、血液型AB型が3人だそうです(まとまりがいいのでしょうか?)。
 「デジログからあなろぐ」や「しのぶの演劇レビュー」も書いていますが、 
このほど小畑明日香さんから長めの公演評をいただきました。小畑さんは今春から大学生。フレッシュな目に、舞台はどう映ったのでしょうか。

◎思い出して嬉しく、ささやかに描かれて切ない

 座席に赴くと、アンケート用紙の上にマスクが置いてあった。
 王子小劇場の高さを生かして東京ネジが造ったのは、お洒落な2階建ての家の断面図だった。吹き抜けの1階とカーテンで客席から閉ざされた2階を、緩やかに曲がった階段でつないでいる。最近流行りの「暖かみのある建築」。気鋭のデザイナーが一枚噛んでいそうなデザインだ。
 それを見渡す客席の上に、マスク。「演出の関係上少々埃っぽくなりますので」そのときに使えと前説が入って、芝居が始まった。

 この作品の舞台は未来だ。ロボットが人間と共存しているし、世間では温暖化が進んで、この冬は46年ぶりに雪が降るとかでニュースになっている。
 しかしこの話の主役は、あくまでも自らの幸せを模索する人間達だ。そしてその願いを叶え、幸せをもたらしてくれる、ケサランパサラン。
 この生き物はとても小さく、ちょうど綿の塊の表面を八方に引きちぎって毛羽立たせたような形をしている。白粉を食べて増殖し、タンスの奥に隠しておくとその家を繁栄させる。そのため嫁入り道具の1つとして、母から娘に受け継がれていたらしい。ただし人に見られてしまうとそれまでの繁栄も全て失ってしまうので、なかなか広まらなかったんだとか。

 レビューを書くにあたって調べてみて、初めてこれが東北地方に伝わる伝説だと知った。東京ネジの前身である劇団ネジも、北東北を拠点に活動していた。

 オッシャレーな家のインテリア、山吹色の背の低い円柱の中に、増殖したケサランパサランがこっそり飼われている。母の所から盗んできたそれで娘のみつるが願うのは、自分の不老不死と、男女それぞれ1人ずつの子ども。女の子には数字に関する予知能力があって、みつるはその能力を利用し、ギャンブルで大儲けして毎日を暮らす。

 SF的な設定が時代背景に徹している点がいい。それでいて、登場する人物達はちゃんと未来に馴染んでいる。「具現人格」という精神病を患った女から具現化された人格が産まれてきてしまったり、寿命がきた旧式の世話係ロボットを廃棄できない青年がいたりする。

 現代に無い物をたくさん登場させると説明が難しくなるが、この作品はその処理も巧みだ。ケサランパサランのことを東京の人間に解説するために、みつると母に絵本を音読させる。

「しかしその間にもケサランパサランは増えつづけ、とうとうタンスからあふれて部屋中に広がり始めました。
 ああどうしよう、このままじゃ、ケサランパサランが見つかってしまう。
 女の子は必死で考えて、とうとう窓を開けて叫びました。
 ケサランパサラン、風に乗ってゆけ。
 ケサランパサラン、雪になって吹け。」

 増えすぎたケサランパサランは仕舞いに効き目を失って、山吹色の円柱から噴き出す。みつるの目の前で、2人の子どもも、引いては今までの歳月全ても失われてしまう。そして46年ぶりに町に降る、雪。

 この場面は本当に美しい。3つのシーンでそれが表現されるのだが、雪の表現の仕方が3つとも違うのだ。(1つは雪じゃなくてケサランパサランだけど)
 個人的にはぜひ、3つのシーンを連続して観てみたかった。暗転は一切無しで、曲も同じ曲を流しっぱなしにするか、シーンごとに変える程度にして。それまで舞台転換が巧妙だっただけに、ケサランパサランが噴き出すシーンの前の暗転が大変勿体無く思えるのだ。

 芝居全体では3回しか暗転しないのだが、クライマックスからラストシーンまでに暗転が続くので、妙に長く感じてしまった。仕掛けの都合上難しいのかもしれないが、もしこの作品を再演することになったら、ぜひクライマックスを連続で観せてほしい。

 3つの物語が巧妙に展開される「フロウフユウ」の魅力を、文章だけで伝えきるのは本当に難しい。娘と同じく不老不死になった母の、若い恋人とのベッドシーンのことを話すのは特に難しい。
 笑えるのだ。子供用のトランポリンぐらいしか大きさがない円柱の上を、
 「狼!」
 「子羊!」
 「(布団を被って)富士山!」
 「(男に寄り添って)チョモランマ♪」
 などと言いながら2人が走り回る。2人とも下着姿だし、小道具も布団だけ。(最後に母の恋人は煙草を吸う)動き回れるスペースも非常に狭いのに、多彩な表現に意表を衝かれた。ものすごく可笑しいのに品が良くて、2人の愛情の深さがよく伝わってくる。

 同じ恋人同士のシーンでも、「みつるの子ども(♂)と、精神病を患ってしまった30歳の彼女」の話になると、割に力が抜けて純愛もののテレビドラマのような雰囲気の芝居になる。クライマックスのそれは少し間延びして感じられたが、野田秀樹よろしく大騒ぎするみつるの母達と好対照を成していて面白い。

 恋人を想ったり、親が子を思いやったり、喧嘩して仲直りしたり、あるいは、陰湿に旧式ロボットを虐めていた新型ロボットが、旧式ロボットの思い遣りを知ったり。赤面してしまうほど純粋な数々の愛情が話を支えている。ここまで書いてきて初めて思い至ったぐらい、どのエピソードもささやかに描かれていて切ない。

 1つ1つを強烈に感じることは無いけど、全てを失ったみつるの
 「また、ゼロになりました!」
 という台詞で観客が後味良く席を立てるのは、話の中に織り込まれたそうしたエピソードが、(結果的に無かったことになっているとしても)確かに一時そこに存在していたからである。

 観ても面白いし、1つ1つシーンを思い出していると意外な伏線に気づいたりして嬉しくなる。
 いつまでも楽しめる、上質な作品である。
(小畑明日香 2005.3.09)


[上演記録]
東京ネジ第2回公演「フロウフユウ」(公演の予告編=ビデオもありました!)

日時:2005年1月27日-30日

作 :佐々木なふみ
演出:佐々木香与子

出演:
 佐々木香与子
 佐々木富貴子
 佐々木なふみ
 龍田知美(以上、東京ネジ)
 平野圭(ONEOR8)
 明石修平(bird's-eye view)
 宇田川千珠子
 浦井大輔(コマツ企画)
 田保圭一
 サイトウミホ

場所:王子小劇場(王子小劇場賛助公演)

Posted by KITAJIMA takashi : 03:07 PM | Comments (0) | Trackback

鳳劇団「昭和元禄桃尻姉妹」

 鳳劇団の旗揚げ公演「昭和元禄桃尻娘」を東京・新宿のタイニイアリスでみることができました(2月15-16日)。せりふや所作などでいわゆる大衆演劇の衣を借りているのですが、そこでよくみられる義理人情の淀みに融解するわけではありません。忘却の洪水に浸される現世に、戦中の忘れがたい一筋の記憶を刻もうとする確かな舞台です。「ロマネスク不条理劇」を掲げ、「游劇社」を拠点に長年活動してきた鳳いく太が、新しい展開を図る記念碑的舞台だったと思えます。変わった衣よりも、変わらない原石を見る思いの一夜でした。

 つぎはぎだらけの大幕が開くと、いきなり「かっぽれ」が始まります。曲に合わせて登場する2人の女優(かぢゅよ、康実紗)が、裾をからげ、ときに足を高く上げ腰を割って、わざとむっちりした太ももを見せびらかしたりします。エロいというかエグいというか、民謡や盆踊りが生まれてきた猥雑な部分をいきなりさらすようなスタートでした。

 物語は年取った仲居と若い女性客が出会う旅館の一室から始まります。仲居はわざわざ腰を曲げ、おぼつかない足取りという年寄り演技のステレオタイプ。怪しげな方言を大げさに話し、野卑な言葉遣いを混ぜています。若い女性客もスカしっ屁をうちわであおいだり。ホントにこの2人よくやるぜ、演出はもっとやるぜ、といった格好で進みます。

 仲居はその昔に別れた妹がいると言い、泊まり客も妹らしき仕草を見せているのですが、身元は確かではありません。その血筋がちらりと見えそうになると、話はがらりと変わってしまいます。

 女の子が人形を相手に会話したり、着せ替え早変わりで学生と娘の役になったり、酔っぱらいサラリーマンになって愚にもつかない与太を飛ばしたり。2人の掛け合いで、岸と安保、池田勇人と貧乏人、新幹線、鬼の大松、白馬童子の山城新吾、遊星王子の梅宮辰夫、ミニスカート、3億円、全学連、背番号3などなど、おじさん世代には懐かしく、若い世代にはおそらく身に覚えのない昭和世相史のオンパレードが続きます。

 劇中で何度か場面転換に使われるのは、吉田拓郎の「今日までそして明日から」。そしてピンクレディーの「UFO」や守屋浩の「ありがたや節」も流れるのですから、確かに昭和元禄だったのかもしれません。

 そんな場面を切り裂き、時間の流れを堰き止めるように携帯電話の音がたびたび鳴り響きます。子供のころ遊んだ糸電話を取り上げて、モシモシ、モシモシと呼びかけると、空襲警報の甲高い音が鳴り、焼夷弾の轟音が響きます。時間の裂け目から、遠い記憶が呼び覚まされる一瞬です。

 大衆演劇でよく、場面と役が振り替わるコーナーがあります。梅沢武生劇団の舞台では、梅沢富美男がドジで間抜けな男役から一瞬で、あでやかな着物姿の女性役に早変わりして歌と踊りを披露します。鳳劇団の舞台はその形を借りながら、時間の流れを入れ替えて、矢継ぎ早にこんな言葉を放ちます。
 「透明人間になれるのと空を飛べるのとどっちがいい?」「不死鳥に生まれるのと人間に生まれるのと、どっちがいい?」「双子の姉に生まれるのと妹に生まれるのと、どっちがいい?」「人形のような人間になるのと人間のような人形になるのと、どっちがいい?」…

 東京大空襲で右耳が聞こえなくなった妹、離ればなれになった姉妹。人間と人形になった2人の間で交わされる問いは、昭和の歌謡曲と空襲の爆音に挟まれ、記憶に差し込まれる糸電話に答は返ってきません。問い掛けはむしろ客席側に向けられていると感じました。

 だからといって、それらしいせりふで客席を白けさせる、なーんてことはありません。恥ずかしいほど猥雑で、ばかばかしいほど楽しい仕草と遣り取りがふんだんに盛り込まれています。手練手管のやり手婆さん顔負けのサービスでしょうか。これで客席が沸かないわけがありません。旅芝居にもってこいの作品でしょう。鳳劇団がこの出し物を持って、各地の公民館や老人ホームを回ってもぼくは驚きません。

 2人の役者は出ずっぱりでくたくただったのではないでしょうか。特に姉役の「かぢゅよ」は個性的。あくの強い、エグイ役どころを生き生きと(?)演じているように見えました。そういえば開演前、浴衣姿でビールをさばいていた売り子は彼女たちでした。「ビールいかがですか。1本飲んだ方は、2本目をお忘れなく。遠慮せずに手を伸ばしてください。どうです、お客さん」なーんて強引に売り付けてたっけ。たくましいですね。

 舞台は役者の個性に彩られていますが、台本の世界はきわめて静謐、透明です。音楽を絞り、役者が違えばまたがらりと違う空気が流れ、違った空間が再現されたに違いありません。

 色の扱いはひときわ鮮やかでした。特に糸電話の赤いヒモ(糸)が闇に伸びるシーンは記憶に残ります。赤は空襲で燃える炎の色であり、流れる血の色でもあります。姉妹の「血」そのものでもあります。また考えてみれば、舞台となった温泉は、地底の裂け目から吹き出す赤い溶岩の賜物でもあります。赤=血が全編のモチーフとなり、記憶の底から噴き出す仕掛けだったのではないでしょうか。

 ネット上を歩いていたら、游劇社webサイトの中でこんな文章と出会いました。

我々は演劇だけが持つ臨場感を愛し、演劇だけがなし得るスペクタクル溢れる舞台を、不条理劇というスタイルを借りて上演し続けている。 (中略)演劇でこの世界は変えられなくとも、游劇社の舞台がひとりの観客の世界を変えていく。そんな、演劇の演劇の【夢見る力】を信じて活動している」(「感性体感浪漫的不条理劇とは」)

 そう、その夢は悪夢かもしれないし正夢かもしれません。しかし今回の舞台は游劇社とスタイルこそ違え、確かに「夢見る力」によって、時間の狭間から赤い闇の響きを現前させる舞台でした。これも鳳ワールドの甘い毒なのでしょうか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 2005.3.10)

(注)東京大空襲は1945年3月10日未明に起きました。日本の木造家屋用に特別開発された焼夷弾を使用。あらかじめ退路を断つ形で40k㎡の周囲に火の壁を築き、その中に約100万発(2,000トン)もの焼夷弾が投下され、さらに機銃掃射が加えられたと記録にあります。死者は判明しているだけで10万5,400人に上ります。この文章は、この10日付で掲載します。

[上演記録]
鳳劇団昭和元禄桃尻姉妹」 (2005年2月15-16日)

作・演出:鳳いく太
会場:新宿・タイニイアリス
出演:かぢゅよ、康実紗(かん しるさ)
照明:中本勝之、村上みゆき、朴須徳
音響:鶴岡泰三、鳳いく太
作曲・振り付け:正田和代
宣伝・美術:もりちえ
総裏方:早坂ちづ
舞台監督:朴茂一

Posted by KITAJIMA takashi : 10:43 AM | Comments (0) | Trackback

March 09, 2005

山の手事情社『狭夜衣鴛鴦剣翅』

 この公演は2003年1月、東京・下北沢のザ・スズナリで開かれました。ちょうど2年経った今年1月、演劇通の間で密かに知られる「ひびのさいと」が「構築と脱構築の永久往還運動」というタイトルで取り上げました。筆者は成蹊大学文学部の日比野啓助教授。アメリカ演劇・映画、日本近代演劇、演劇理論を専攻する気鋭の研究者です。2年以上前の公演を紹介するのはこのサイトとして異例ですが、リンク先の一文を読んでいただければ賛否を超えて納得していただけるのではないでしょうか。
 昨年末、山の手事情社が結成20周年記念公演を青山円形劇場で開き、劇団(訓練された団員たち)の高い力量を見せたことも、「異例」を許容する少なからざる理由になっています。

 「ひびのさいと」はまず、次のように書き始めます。

 一九六六年十月二十八日から三十日、戸山ハイツ灰かぐら劇場で三日間だけ上演され、たった四十人しか観客が来なかったという状況劇場の野外劇『腰巻お仙・忘却編』、あるいは一九七六年十月VAN99ホールで上演された夢の遊眠社の実質上の旗上げ公演で五ステージしか行われなかった『走れメルス』と同様、二〇〇三年一月下北沢ザ・スズナリ、山の手事情社の『狭夜衣鴛鴦剣翅』上演は、七ステージというその短さにもかかわらず、いやそれゆえにかえって、日本の現代演劇史に残る伝説となった。

 この3公演をぼくはみていないので、残念ながら演劇史的総括をする立場にありませんが、公演の意義を次のようにまとめた個所は記憶にとどめていいのではないかと思いました。

 もちろん、歌舞伎も文楽もたえて取り上げなかった並木宗輔による浄瑠璃台本を初演以来二百六十余年ぶりに再演した、ということも賞賛に値するだろう。しかし何よりも、日本人の身体性(というフィクション)はどのように構築されるべきか、というアングラが提起した課題にこたえて、鈴木忠志以降の世代ではじめて一つの説得力のある答えを出しただけでなく、それを身体のレベルから物語のレベルに昇華させて示してみせたことにこの公演の意義がある。

 以下、その理由を述べています。全文は改行も少なく読みづらいかもしれませんが、ぜひご一読ください。

Posted by KITAJIMA takashi : 08:46 PM | Comments (0) | Trackback
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