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March 08, 2005

劇団印象「幸服」

 劇団印象の第3回公演「幸服」が横浜のSTスポットで開かれました(2月10日-13日)。慶応大出身者らが2003年に旗揚げ。当初は言葉遊びを多用した野田秀樹風のスタイルを採用していたが、昨年11月公演から「言葉にこだわった『エッチで、ポップで、ドキュメンタリー』な芝居でオリジナリティーを確立すべく奮闘中」だそうです。
 今回の芝居は父親と息子、それに父が通うバーのホステスがアパートの一室で展開する密度の濃い会話劇と言っていいのではないでしょうか。

 スタッフに友人がいるらしい「Sharpのアンシャープ日記」は「日曜日の夜6時からの開演だったのだが、もうすぐ『サザエさん』が始まるだの、7時から夕飯を食べ始めるのに献立は何にするだの、表面的にはリアルすぎるほどにリアルな日常生活の中で時間を進行させつつ、その根底で、通奏低音のように、家族とは何か、個人のアイデンティティとは何か、という問題を深く掘り下げていく」と書いています。

 舞台はアパートの一室。壁一面に女性の下着が飾られています。父親は女装が趣味。そのせいか母親と別居(離婚だったかな?)しているけれど、息子と同居している。そのアパートに、父がよく行く女装バーのホステスが姿を現すところから舞台が始まります。
 父と子、男と女、客とホステスという3層の関係が濃縮された空間に描かれるのですが、衣装を媒介とした「性」と「生」がいやでも浮かんできます。

 舞台の実際はどうだったか。劇団印象の主宰者鈴木厚人さんが個人ブロク「ゾウの猿芝居」サイトに「酷評から学べること」というタイトルで次のように書いています。

テーマがわからなかった、というアンケートも多かったのですが、
わからないこと、難しいことが問題なのではなく、
わからないけどわかりたい、と思わせられなかったことが問題で、
わからないが面白い、と思ってもらえなかったことが問題なのだと思います。

わからない、と言わせてしまったら負け。
面白い芝居は、わからなくても面白いし、
わからないことを忘れるぐらい面白いものだから。


これはその通りでしょう。唐十郎の芝居はその典型ではないでしょうか。あとでよく考えると荒唐無稽な筋書き、矛盾する仕掛けに気付いても、劇場で見ているときは放射する強烈なエネルギーに圧倒され、劇世界に引き込まれ、気が付けばはるか遠くまで飛ばされてしまうのです。

意味を説明するのだとしたら、 幸福のメタファーとして、幸服を配置し、 孤独のメタファーとして、空腹を配置しました。 (hangerとhungerは別にかかっていない) というのは、現代における空腹とは何に対する空腹なのか、 物質的にはいつも満腹だけど、 精神的にはいつも空腹である、 それは孤独がより一層、重みを増しているからではないのか、

そして、今思えば、そこが描き足りなかったのですが、
孤独になることが幸福か、
孤独を埋めることが幸福か、という対立を見せたかった、
ゆえに、
孤独な人間が家族を食べて、空腹と孤独を埋める、
そのことを腑に落ちるように描く演出力、脚本力が及ばず、
わからない、と言わせてしまっているのだと思います。
また、一人の人間が家族を食べてしまうまでのバックグラウンドが、
見えてこない、そこが「私の中では落ち」なかった原因だと思います。


 そこまでの射程があったとは気が付きませんでした。「父子相克」の末の「父子同根」が、この芝居の着地点に用意されています。それがまた、家族や孤独や空腹と絡んで重要なポイントだというわけです。おそらくその辺を実感できるかどうかに、公演評価のカギがあったように思われます。

Posted by KITAJIMA takashi : 11:40 PM | Comments (0) | Trackback

March 07, 2005

阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」

 長のご無沙汰でした。昨年末からWonderlandサイト編集がほとんど手つかずでしたが、やっと復帰の条件が整いました。また非力を顧みずあちこち歩き回ります。よろしくお願いします。

 さて、阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」の東京公演(2月17日-3月2日、下北沢・本多劇場)が終わり、大阪、札幌、仙台、 名古屋、福岡、広島公演が3月末まで続きます。楽しみにしている方もいらっしゃると思いますが、東京公演は好評だったようです。「しのぶの演劇レビュー」や「某日観劇録」など多くのサイトが取り上げていますが、今回紹介するのは青木理恵さんのレビューです。 今春から社会人だそうです。これからもどんどん書いてほしいですね。以下、全文です。

◎気持ちが悪いほど人間らしい 阿佐ヶ谷スパイダース『悪魔の唄』

捕らわれ続けるのは簡単である。
難しいのは、一度何かに捕らわれてしまったところからどうやって生きていくのか、なのだ。

ある地方の一軒家に引っ越してきた、愛子(伊勢志摩)と壱朗(吉田鋼太郎)の夫婦。
その家に、「探し物があるのだ」とサヤ(小島聖)と眞(長塚圭史)の夫婦が突然訪問してくる。

愛子は精神的に病んでいる。そのきっかけは、過去の壱朗の浮気が原因だった。
サヤは眞から逃げ回っている。本当に愛する人が他にいるからだ。
思い通りにならない妻に戸惑い、追い詰めてしまったり、無理に優しくつとめようと空回りしたりする夫たち。

そんなさなかに、床下から人格を持ったゾンビが現れる。
戦争中に散ってしまった鏡石二等兵(伊達暁)、平山二等兵(山内圭哉)、立花伍長(中山祐一朗)の三人である。
米国への憎しみが晴れない彼等は、自分たちの手で再び米国を倒そうと立ち上がる。
三人に順応し、愛子は自分も兵の一員だと思い込む。
壱朗は、愛子を壱朗から引き離そうとやってきた愛子の弟、朝倉紀行(池田鉄洋)の力も借りて、何とか愛子を現実に引き戻そうとする。

また、サヤの想い人とは立花伍長であると分かる。
つまり、サヤと眞も死してなお、思いを残して現世に留まっている者たちだったのである。
思いを伝えたいサヤと、それを引き止めようとする眞。

一人一人の思いは、全て別の方向を向いている。誰もが、自分の思いのみ達成されれば良いと願う。

人間は強い思いを持った弱い生き物だ。
しかしその強さとは関わりなく、思いは必ずしも成し遂げられるとは限らない。
そうなった時、思いに強く捕らわれているほど、自らの身は破滅へと向かう可能性が高いということを、人はすぐに忘れたがる。
それを忘れてひた走る登場人物たちの、最期は。空白という言葉が、一番似合っていた。

人は強い意志と混迷との狭間で、いつも苛まれる。
「こうしたい」と「どうしたら良いか分からない」は、矛盾した感情のはずなのに
どちらも強く主張をし、互いに一歩も譲らない。実は矛盾自体が、人間らしさなのかもしれない。

阿佐ヶ谷スパイダースの作品は、気持ちが悪いほど人間らしい。
描かれる世界はファンタジーさえ感じるものなのに、そこに内包されている人々の精神的な動きは他人事には感じられない。
作品を通しながら、「私自身も矛盾した思考を持っているのだ」と見せ付けられる。

この劇団を初めて見たのは、前回公演『はたらくおとこ』である。
日本一まずいりんごを作ろうとして倒産した会社に、いつまでも執着し続ける社員や、農業経営者たちの閉塞的な人間関係を軸にした物語である。

お金を手に入れようと、危険な生物兵器の入った荷物を運ぶ仕事に手を出す。
しかし、事故により生物兵器が外に漏れてしまう。
ラストで一人、また一人と死んでいく中、まだ生きている者が、生物兵器におかされきったりんごを次々とほおばり出す。
自らの正当性を、最期まで否定したくない。私は間違っていないのだ、と。
そこまで抗い続ける姿は、もはや崇高ですらあった。

「人間の持つ矛盾の威力」という点に関しては、前回の方が上だったかもしれない。
けれど、「人間の持つ純粋な思いの強さ」という点に関しては、今作は圧倒的だった。

米国に一泡吹かせてやるのだと、愛子の解放と引き換えに、飛行機の手配を要求する兵士たち。壱朗に騙され、体が消えかけているにも関わらず、飛行機が置いてあると指定された、嘘の方向へ突き進んでいく。
壱朗はそんな彼ら姿を見て、大きな罪悪感に苛まれる。そして自らを兵の一員だと信じていた愛子は、心ごと崩壊してしまう。

自分の思いを叶えたい。ただそれだけのために動いたはずだ。
例えそこに憎しみや絶望すら含まれていたとしても、自分の思いだけを信じて。だが結局、背後には取り戻せない何かが口を空けて待っていた。
人生には、そういう瞬間が多々訪れる。

私は人間らしい作品が好きだ。その中にどんなに汚い感情が含まれていても。
汚さと純粋さ、ひっくるめて人間なのだから。
どちらも堂々と表現できる劇団は、実はとても少ない。
最近とみに人気が上昇してきている阿佐ヶ谷スパイダースだが、人間らしさを見失わない限り、この劇団は今後も成長していけると思う。
(青木理恵 2005.2.18)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:52 PM | Comments (1) | Trackback

March 02, 2005

三条会『若草物語』

この原稿の小見出し、のようなもの

・原書『Little Women』原作『若草物語』と、上方歌舞伎の和事の近さ
・歌舞伎・バレエ・ミュージカルを、歌舞伎・バレエ・ミュージカルたらしめる可視・不可視のもの
・三条会に物語は可能か
・倫理と友情よ永遠なれ
・「発条ト」参加の音楽から浮かび上がった三条会の猛々しい魅力

 前作『ひかりごけ』(原作は、厳寒の知床沖でシケに遭い難破した徴用船の乗組員が、死んだ仲間の肉を食べて生き延びたという実際の食肉事件を題材にした武田泰淳の小説/戯曲)で、演出の関が排泄を描かなかったのはなぜだろう、と私は考えていた。どんな肉であれ、食べ続けていたらやっぱり出るものはあっただろうと思うし、なぜ人間は決を「出したがる」かという話でもあったからだ。そのような経緯ゆえに、今回の『若草物語』の「1幕 便所 便所が何より楽しい。」で、しめなわ状の三つ編みを頭の両脇にくっつけたスキンヘッドの男優四人が、横に並び中腰で生理現象に悶える様子で―便器に腰掛けているように見える―プレゼントのないクリスマスについて思いの丈を述べているのを観て、その勢揃いのような絵面に驚くよりまず『ひかりごけ』以来の答えがここにあったという爽快な気持ちになり、勝手に大いに納得した。もちろん、演出の意図とは何の関係もない。

 そんな余談はおくとして、原作『若草物語』の原書『Little Women』についてここで若干の前置きをする。なぜなら訳書『若草物語』のエピソードが意味するものと、日本でいうと江戸の天保期~明治中頃を生きたアメリカ人女性による、19世紀に出版された半自伝的小説だということだけでこの作品を裁断すると、その特性は見えてこないと思うからだ。
 『Little Women』は、もう使われない古い英語表現が四人の娘のバイオリズムに巧みに織り込まれ、婦女子独特の間合いで会話として交わされて日常生活の襞の内側を繰りながら、クリスマスの「めでたし」を目指して進んでいくという、惰力のようなじわーとした感動のある、いいかえれば大変芝居的な作品だ。まずテキストには当時の家庭という固定された場があり、場には定まった人物の関係性がある。一定の関係性があるということは、そこで暮らし周りの環境に育まれた身体が存在するということであり、従って登場人物の言葉というのは、どこの誰とも知らないがただそこにいる人の物言いではなく、固定された場によってつくられた身体から発せられる言葉となる。また、関係性を持続させる上で非効果的な言い方は鮮やかに回避される。さらに作品の言葉には話者の帰属する階級、頭の回転速度、アメリカ人度など人物像を描く筆が沢山用意されているはずだが、その微細は到底わからなくても、言葉が映画などで俳優の口をついて語られる時、今聞く英語の日常会話と異なる音の流れ・間によって綴られる感情や心理の波に乗ると、もらい泣きできたりする。『Little Women』がアメリカで繰り返し映画化されてきた理由の一つは、ここにあるのではないかと思う。
 
 このもらい泣きは上方歌舞伎の和事、人情ものを観てホロりとなるのに近い感覚だといえるだろう。近世の大坂、つまりある時代のある地域で記された言葉(義太夫訛り)が、型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体を通し音として目の前に立ち上る、その生々しく艶のある音の抑揚や運びから、言葉の意味を超えた人間の内面の起伏そのものをありありと感じ取ることによってもらい泣きが起こるのだ。登場人物の感情や心理を解読してもらい泣く、ということではない。エピソードの現実性や普遍性もとるにたらぬ問題である。
 松竹・上方歌舞伎塾の主任講師でもある歌舞伎役者、片岡秀太郎が「現代の男女の在り方と、歌舞伎のドラマに出てくる男女の心の機微とか義理人情というのはかけ離れていて、理解しにくい部分が多々あり」「それを演じてみせて感動を与えるには、まずセリフ」であると述べ、イントネーションに重きを置いて指導すると語っていることは、この私見の証左となるだろう。(1)
 原書と訳書共通の事柄では、物語の中で起きる出来事の意味が、結局ドリフ大爆笑の落ちで鳴るジングル「ブ・パ・パ・ブッ」とほぼ同等という整然としたドラマツルギーもまさに芝居で、『Little Women』『若草物語』と歌舞伎はこれらの点においてそもそも近い、と私は考えている。

 さて、三条会の『若草物語』に入ろう。
 「ちょっと歌舞伎を意識し」たと当日パンフにあるが、しかし「それに束縛されずに、「物語」とは何か考えてみよう」という言葉どおり、いわゆる「古典への批評と敬意を込めた引用」に眼目は置かれていなかったと思う。(2)後で詳しく述べるが、舞台で表現された歌舞伎らしきものは、どの狂言の何を引用したということではなく、また歌舞伎の他にもクラシック・バレエもどきに頭上へ両腕を上げ爪先立ちで身体を回転させる動きが出てきたり、それからミュージカルと呼ぶかはともかくとして、しばしば俳優は音楽にあわせて台詞を歌っていた。
 ここに挙げた歌舞伎・バレエ・ミュージカルは、いずれも特殊な身体言語と音楽を用いて表現される芸術であり、エンタテイメントでもある。こうした舞台を鑑賞する時、逐一「人はあんなふうじゃない」と考えながら観続ける客は、果たしてどのぐらいいるだろうか。ミュージカルではたまに、作品の骨格を音楽で表現することがわかりやすく提示されているのに「なぜ突然歌うのだ、普通に喋れと思う」、またバレエ・歌舞伎にも動物や「○○の精」など人間以外の役はあまたあるのだが「人間が猫や獅子になるのは苦手」という人を見る。ともあれバレエを観ながら「王子は着替えの途中みたいな格好で、飛びながら宴会に出てこない」「太股あらわな衣装で脚を上げたりブンブン回る姫などいなかっただろう」とか、はたまた歌舞伎にやってきて「男は女ではない」「弁天小僧→青砥藤綱のような、同一作品内での二役なんておかしい」などと、以上思いつくまま列記したが、こんな前座以下の発言は誰もしないはずだ。
 要するにこれらは、観ている内に視聴覚を通して客がなんとなく「そういう形式なのか」と了解する事項であり、何回か通っている客であればとうに了解済みのことであり、そしてバレエならバレエ、歌舞伎なら歌舞伎というように、それぞれをそれぞれたらしめている確固たる約束事だ。三条会の『若草物語』は、具体的な引用を目指したのではなく、こうした約束事を見せることにあったと思われる。胴体部の前後に役者を入れた馬、花道、正面向きの横長の舞台、引幕、勢揃い、役者の名前を狂言の中に出す、一人一役でない役者など、『若草物語』に出てきた歌舞伎を歌舞伎たらしめる約束事を一言でいえば、今やっているのは芝居ですよとはっきり明示することであろう。
 『若草物語』でたよりなくペラペラな、でも芝居の進行を支配する紅白の幕が上演途中にもかかわらず、「女」という役名の女優によって引かれ強制終了しようとする時、台詞を述べながら抗う俳優は、幕が芝居の時間を支配するという観客了解済みの約束事に抗っているのだ。引かれた幕の向こう側で『若草物語』を続けたのも、芝居の時間の主導権を引幕から俳優に置き換えることで、約束事を観客に意識させる意図があったからに相違ない。また白馬の胴体に入った二名の俳優の顔をわざわざ馬から出させ、蹄の音を言わせる演出には、俳優の全存在をかけて、芝居を芝居たらしめる約束事を逆説的に語らせる明快さがあった。

 芝居を芝居たらしめる可視のものが明示されると、今度はおのずと不可視だが、芝居を芝居たらしめるものもわかってくる。それは、先に述べた「ある時代のある地域で記された言葉」を蘇らせる、「型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体」を通した「音の抑揚と運び」だ。両者出揃ったところで、現代演劇の上演集団である三条会に立ち返ってみよう。観客了解の約束事や、特殊な言葉を蘇らせる型と口跡は?と考えると、彼らにはものの見事に何もない。四姉妹を演じるのが男優から女優へ、ある時はその逆へと変則的に入れ替わったり、数々の約束事を見せたのは、代々伝承されてきたものではなく三条会の演出・構成である。
 ところが三条会は訳語を超えて『Little Women』の、生活の襞を繰った時に聞こえてくる登場人物たちの笑い声や戸惑いや意地悪を舞台で実に生き生きと表した。すなわち19世紀アメリカの大変芝居的な作品に、現代の日本の俳優が血肉を与えたということである。「2幕 学校 異性のことだけを考えていた。」では、メグとジョーが舞踏会の招待を受けてから帰ってくるまでの騒動がメインに上演される。ケからハレまで併走して描かれ、見せ場のあるこの章を選んだセンスは、巧いと思わずにいられない。が、奉仕をいとわず姉メグとは違う慎ましさを持ちながら、大きく外れたところのある作者の分身=ジョーを、心底愉快に嫌味も迷いもなく現代の女優がやるのは難しくもあるだろう。
 大川潤子は期待に応えた。三条会の取り上げるテキストと現代とのいつものずれに加えて、今回は訳というもう一つのずれを、彼女は身体で受け止め扱わなければいけない。舞台上にある時、コントロールできなくなる瞬間はまったくないだろうと思わせる感動的な発声と身体や、すらりとした肢体でありながら相撲のしこ踏みのような動きをしてもぶれない重心のとり方などが、ジョーの愉快な表現に生かされていたのはもちろんのことだが、特筆すべきは彼女が、訳語を語っておりますというヨソの意識を常に持ち、外部に発していたことである。このヨソの意識と、期待どおりに失敗するジョーの外しっぷり双方を極限まで絞り出して表現することで、互いに「本」(大川は19世紀のアメリカ娘、ジョーはマナーのお手本)からどうしようもないずれがあるという共通項を引き出そうとする、力強い演技が生まれていた。大川に見られたこうした闊達な、困難に挑む力は、原作に即して考えるとまさにジョーの美点として描かれ、数々のエピソードで披露されるものである。この力があったからこそ、2幕は劇場内から笑いがもれる楽しい場面になり得たのだと思う。

 「3幕 友情 男女間なり国家なりを越えた友情なんて妄想かしら。」では、メグとブルーク先生の結婚話を軸に、おそらく「倫理」と「友情」という単語をモチーフにしたと思われるいくつかのイメージが展開される。前置きで「もう使われない古い英語」と書いたとおり、言葉は時代が変われば変わってしまうと思っていたが、先の大統領選や外交演説をかんがみるに、アイデンティティが変わらなければずっと使える言葉も確かにある、とこの幕を観てひっくり返された。と思いきや、打掛をまとった四姉妹お待ちかねの父が、ファーストフードの包みとコーラを引っさげ千鳥足で帰ってくる。姉妹の成長の様子を、半分眠った酔っ払いのたわ言として語るスーツ姿の父。その言葉は、やはり前置きで述べた『Little Women』における固定された場と関係性によってつくられた身体と言葉から、なんと隔たった得体の知れない軽さで劇空間に浮かんでいることだろう。食べ物やものの食べ方も、人の身体とともに在るものでありながら、言葉とは異なる次元で変化していることに気づく。ここで個人的に映画『スーパーサイズ・ミー』(3)を連想するやいなや、舞台ではネクタイを助六式に頭にしめた父が「あで、電気つけといて」とすべった声で、四姉妹の退場した下手に向かって言っていた。このように、わずかな時間の内に次々新しい『若草物語』が発芽し茎を伸ばしていく、そのどんな瞬間にもユーモアを確実に舞台へ刻む三条会の演出が、3幕ではひときわ輝いていた。
 粟津裕介(発条ト)参加の音楽は、この3幕で使用された「若草物語」が、三条会と音楽との関係に新しい可能性を開いたといえる。メロディは複雑ではない。しかし曲のシンコペーションが、大川・榊原の朗唱と横隊二列に並んだ身体の激しい動きを煽るのではなく、優しく外側から包みこむように用いられていて、これが三条会特有の劇空間の緊張を、たるませず和らげることに成功していた。だがその他は行儀のよさが耳に残る。三条会は『班女 卒塔婆小町』の「Tonight」(WSS)、『ひかりごけ』の「黒の舟歌」「カノン」、そして今回の「imagine」の選曲しかり、歌詞も曲調もメロディもリズムもひっくるめて楽曲としてもうこの世にある、曲の存在それ自体と真剣に対峙しつつ遊ぶところに本来の猛々しい魅力があると思う。演出家個人の薄暗い想い入れを一切練りこまず、また歌われている情景を再現するという関心などさらさらないはずのに、曲を視覚化してしまう関の才能は「imagine」で垣間見ることができた。(05.02.23 ホール椿)河内山シモオヌ

(1)関西の伝統芸能 いま・歴史・みらい
(2)三条会の『若草物語』は、春夏秋冬と移り変わる原作を、便所・学校・友情の3幕構成に仕立ててる。俳優が原作の時間の流れの上に乗るのではなく、彼ら自身によって新しい時間の流れをつくり、舞台上の時空間を重層・立体的に広げていくことで、現代に生きる俳優自身の言葉として台詞を語ろうとする三条会の変わらぬ試み(参照レビュー:『班女 卒塔婆小町』)は、役者が物語の流れを止めて見得を切り見せ場を強調することで、具体的な人物の演技から抽象・様式的な表現に飛躍する(この時、舞台上の時空間も具象から抽象へ飛ぶ)歌舞伎の舞台と似ている。
(3)『スーパーサイズ・ミー』思想で身体がふくれた監督のとはタッチの異なる、ユーモアの機能したドキュメンタリー映画。店員からスーパーサイズを勧められたら断らずにファーストフードを食べ続けるとどうなるか、健康な監督モーガン・スパーロック(非ベジタリアン)が試す。本土各所でまともそうな肉魚や野菜や果物を揃えるのは、大変な時間を必要としたり金銭的負担がかかりすぎるのではないかというホラーをアメリカに見る。「マックのロナルド」が愛される理由や学校給食の実態(問題の多い搬入業者の社名がソデクソという図ったような名前)の他、特に戯画化されていないのに限りなくナチュラル・ボーン・マフィアな加工食品業界ロビイストの活躍も捉える。

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March 01, 2005

三条会 『若草物語』

 三条会が新作『若草物語』をひっさげて本拠地である千葉公演に臨んだ。所属俳優全員が顔を揃え、多彩なゲストを迎えた豪奢な華やかさ。また先達て関美能留が千葉市芸術文化新人賞を受賞したばかりということもあり、話題性は抜群、どうにも期待せざるを得ない。春も間近いホール椿。いざと心構え、不意打ちは重々覚悟ながらもやはりあれよの大展開に圧倒され、しかし気がつけばすっかり『若草物語』の世界に引きこまれてしまうのだった。

 三条会のつくる演劇は場の性質を最大限活かす空間処理が特徴的であり、劇場や舞台構造など、空間そのものを劇的な武器として、そこに俳優を配する位置関係を含めた体系の創造に魅力のひとつがあると思う。『若草物語』の舞台は昨年の公演に見たような自在な立体感を脇にのけ、奥行きわずか六尺ほどの横長の舞台、しかも背後には真っ白な壁というあからさまに制限された場所。俳優は常に下手から現れ、舞台の中心を行き交い、下手に引っ込む。花道もある。プログラムには歌舞伎への意識が綴られていたけれど、舞台作法を見ていればたしかに歌舞伎である。恰も『青砥稿花紅彩画』の稲瀬川勢揃の場様に四人の男優が自分の本名を名乗り連ねてゆく場面や、冒頭の便所の場などに見える俳優の力強さは、相変わらず小空間を濃密な触感で浸した。

 と、ふと思う。ともすれば当たり前のように観てしまうのだが、俳優は異形の存在としてわたしたちの前に現れていること。人間であって人間でない、舞台にいる役者は普通の人間ではないという一点が、強く響くのだ。かつて(現在でも)リアリズムという概念は多からず舞台を生活という現実世界の再現と捉えてきた。そこで演じられる役柄は或る人生の物語における各々登場人物であり、彼らがどんなに劇的な台詞を口にしたとしても、それは現実感を伴う「人間」であることに変わりないだろう。描かれる物語が日常的な断片でなくても然りである。役に扮するということ。役を生きるということ。そもそも「役」とは何ぞやという疑問を、三条会は笑いのうちに提示してくれる。開幕時に戻れば、男たちの剃りあげた頭にはりつけられた色鮮やかな三つ編み。すでに役者は単なる人間の再現ではない。歌舞伎だとて、たとえば『暫』の鎌倉権五郎のような衣裳は実際あり得ない。江戸時代にだってあんなものを着ていた人間はいなかったろう。隈取りもまた。にもかかわらず、様式という一面、また視覚的な美意識においても、誇張された人間の姿は心理劇に流されがちのわたしたちに、感覚的な演劇の楽しみ方を伝えてくれる。それは心情を、科と白の裏に暗示するのではなく、本来不可視である意識を色彩豊かに視聴覚化する手段である。「暫く」の一言を云うためにあれだけの時間を費やす不合理も、意識と時間感覚の関係性の表徴に他ならない。俳優の身体を、抽象を具象化するよりしろとして捉え、現実時間に拮抗する体感時間をつくりだす。まさに三条会の演劇そのものの姿なのだと再確認させられた。

 『若草物語』の「世界」を味わうために、幕の効用というものも一考する価値があるだろう。舞台と客席が幕で仕切られることの少なくなった昨今の演劇事情は今更強調するまでもない。多くがはじめから舞台を見せ、開幕前の舞台に様々の仕掛けを施し劇世界を予め提示する。しかし、幕のあることは舞台とわたしたちのいる客席とが明らかに異質のものであり、その距離感覚は芝居を芝居として幻想の世界へとわたしたちを誘う効果がある。見えない幕の向こうの世界に期待は高まり、想像力も掻き立てられる。設えられた紅白の引幕が開く、文字通りの「幕開き」。トいきなり剃りあげた頭に色とりどりの三つ編みをぶらさげ、不敵な笑みを浮かべた四人の男が並んでいるという絵面の強烈なインパクト。そしてのっけからミュージカル。冒頭の衝撃は一気に劇の世界観を強制諒解させる。また上手袖では常に一人の女優が舞台の成り行きを見守っており、基本的には彼女が引幕を操るわけだが、三場構成の各場切れは舞台上で台詞が続けられるにもかかわらず、彼女の幕引きによって終点が定められる。いわば、「女」と役名を振られた彼女は『若草物語』の劇的時間を支配する役割を負っているとも云えるだろう。時に男たちを統括する教師、四人姉妹の伯母を演じることと併せてみても、物語を(それは人生と云うもまた)外的な力で以てその進行を指し示す、運命にも似た存在を思わせる。便所や学校、はたまたマーチ家のように閉塞した場に対し外界から統率するのである。最終場、白馬に乗った王子様(=ブルーク先生)がメグへ求婚する行を、またも強引とさえとれる幕引きで終わらせようとする。しかし、舞台半ばまで引かれた幕をローリイに扮する男優がその度に引き戻す。猛烈に結婚反対する伯母に、当初は「王子様」に対してけんもほろろだったメグは次第心を変えていく。まるで決められることを嫌うかのように、如何にブルークがよい人間か、そして貧しくとも彼との生活がすばらしいものになるかを熱心に語り聞かせる。幕を引こうとする伯母、伯母に反発するメグの意識を代行するように、ブルークを弁護しつつ引かせぬローリイ。幕はそれが芝居であることの印である。幕が開いて世界は動きだし、幕が引かれれば世界はわたしたちの目の前から姿を消す。たとえその間にも幕の向こうの物語はとめどなく流れていたとしてもだ。物語の進行途中に挟まれる幕引きは暴力的でさえあるが、それを妨害する行為はさらに挑発的である。芝居を芝居として見せる、ひとつの鍵言葉でもあった引き幕の使用。はじまれば開き、終われば閉まるという約束事の境界をさらにかき回し、虚構と現実を混沌とさせながらぎりぎりまで勿体ぶって終幕。幕で装う舞台の裸体をスカートめくりの如く露わにしようとする。歌舞伎という系譜を受け継ぎつつからかってしまう。三条会版『若草物語』の楽しさは、舞台構造の制限を逆手にとって、物語時間を、マーチ家の四人姉妹が味わう季節の推移といった出来事の並列から、俳優及び観客の体感時間に引き寄せたところにあったのではないだろうか。(後藤隆基/2005.2.28)

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