11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

March 30, 2005

project サマカトポロジー「そういえば忘れてた」

 project サマカトポロジー「そういえば忘れてた」公演が新宿のタイニイアリスで開かれました(3月24日-27日)。「『ベタ寄りの不条理』な笑いと『とっても未練がましい』セリフで構成され『さほど計算しつくされてない緻密さ』を武器に暴れるエンターテイメント集団」だそうですが、今公演の評価は高いようです。
 東京と名古屋を行ったり来たりの観劇系ウェブログ「#10の観劇インプレッション」は「結論から言えば面白かった。個人的にこういうの大好き。首尾一貫したストーリーを説明するのは難しいし、あまり意味もない。ただ断片的なエピソードの積み重ねと複雑に絡み合った人間関係があり、人物相関図とか作りたくなる。でも実はその複雑さにそれほど意味がなかったりする辺りも良い」と好感を持っています。
 「休むに似たり。」は「ナンセンスな笑いと繊細な言葉が同居する不思議な手触りの芝居」と何とも言えない魅力を語っています。

 劇団主宰の澤唯さんとインタビューしたとき、次のように話していたのが印象に残っています。

大直球は苦手ですよね。正面切って「どうだ」っていうのはちょっと・・・気恥ずかしさがある。多分、役者としては「そんなもの」と言いながらも、実際やったら気持ち良かったりするんじゃないかと思うんです。ただ、書いたり演出したりという視点から見たときは、どうしてもそれを茶化したくなるんです。だから、同じようなことをやっているんだけれども、見ている側が、それがパロディーであるとか、それを少しズラしているんだということを分かって笑える方法を選択することが多いですね。その中で「ボソッ」と本音が出るところをどうやって拾ってもらうかというところに苦心しているような気がします。
 インタビューしたのに、日程の都合でどうしても舞台はみられませんでした。残念です。次回は足を運びたいと思います。
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March 29, 2005

ファミリア・プロダクション「ジュヌン 狂気」(続)

 ファミリア・プロダクション「ジュヌン 狂気」公演評(3月21日掲載)に追記しました。
 曽田修司の「 ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。」、薙野信喜さんの「 福岡演劇の今」、それにBlankPaperさんの「Somethig So Right」も、「表現の力強さ」「ことばの迫力」「言葉の圧倒的な強度」に強い印象を受けているようです。
 しかし全く逆の見立てもあります。「しばいにっき」は「どこかで見たことのあるようなものばかり」と、厳しいと言うより、評価の手がかりを見出せないようです。
 

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March 28, 2005

飛ぶ劇場「Red Room Radio」

 東京国際芸術祭で、北九州市を本拠地に活動する「飛ぶ劇場」の「Red Room Radio」公演(3月11日-13日、東京芸術劇場小ホール2)が開かれました。
 「男性40代オスの負け犬(笑)。職業大学講師。一応、文学専攻だがほとんど研究せず『表現法』などの授業と雑用ばかり。演劇は最近集中的に観ており、勉強中」というBlankPaperさんのサイト「Somethig So Right-東京舞台巡礼記」がこの公演を取り上げ、「ズシンと心の中に杭を打たれたような気持ちになって帰ってきた」と書いています。内容はかなりヘビーなのでしょうか。「『NYLON』や『大人計画』の終末が、どこか観客が別の世界として観られる枠に収まっているように感じられるのに対して、この芝居の終末は、なんだか他人事ではいられないところがある」とも述べ、内容に分け入っています。

 「休むに似たり。」サイトも「この救いの無い物語、どこかに気持ちがフックされるのです」と書き留めます。

 「デジログからあなろぐ」サイトは舞台の様子を詳しく紹介しながらも、最後に「物語がどうのこうのというよりも、私は役者陣の個性豊かさにワクワク。キャラクターの濃い人がいっぱいだなぁ・・・あんな馬鹿なことを本気でできるのが羨ましいです」と役者の個性に感心しているようです。

 「ゾウの猿芝居」サイトの鈴木厚人さんは「レッドルームレディオ -飛ぶ劇場の人を喰った芝居」というタイトルでこの公演を取り上げ、「今の私にとって、非常に貴重な演劇体験になった。胸が痛くなるほど考えさせられたからだ。なぜか?」とした上で、物語の展開が「安易に過ぎないか」と問い掛けます。鈴木さんは劇団印象(indian elephant)を主宰。舞台を正面から受け止めた上での発言とみられます。コメント欄にも書き込みがあり、議論が発展するのでしょうか。

[上演記録]
飛ぶ劇場「Red Room Radio」(東京芸術劇場小ホール2、3月11日-13日)
東京国際芸術祭参加作品

作・演出: 泊 篤志
舞台監督: 福田修志(F's Company)
舞台美術: 柴田隆弘
照  明: 乳原一美
音  響: 杉山聡
衣  裳: 内山ナオミ(工房MOMO)
小道具:  橋本茜(Art Stage KenTa)

出演: 寺田剛史/内田ゆみ/橋本茜/有門正太郎/鵜飼秋子/北村功治/藤原達郎/権藤昌弘/内山ナオミ/門司智美/葉山太司/藤尾加代子/木村健二/加賀田浩二/桑島寿彦

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March 27, 2005

ポポル・ヴフ「ドライトマトと飛行機と裏声」

 大阪・京都を中心に関西で活動しているパフォーマンスグループ、ポポル・ヴフの「ドライトマトと飛行機と裏声」公演が大阪のアリス零番館で開かれました(3月2日)。京都橘女子大学でアーツ・マネジメントを教えている小暮宣雄さんのメールマガジン「KOGURE Journal/Express」(vol.1532、3月24日発行)がこの公演を取り上げています。同じ内容が、小暮さんの「日録」ページとwebログ「【こぐれ日乗】消えつつ残りつつ」の双方に掲載されています。

 「抽象的だが穏やかな肌合いが感じられ」る「巧妙な音環境」を指摘したあと、次のように述べています。

ポポル・ヴフ(征服されて消されたマヤ神話自体は何も知らないのではあるが)とじっくりとつきあっているぼくには少しずつ、少しずつ、ここのダンスの核心みたいなのが見えてきているので、心底嬉しくなる。
それは、《水平線の不確かさのなかで、きれいでゆたかなのにすこしさびしい意思の所在を探すたび》なのだろうとかってに思っている。ダンスする二人は互いを意識しつつ意識しない。別々であって一緒なのである。2つめの座ってのストイックなダンスパート部分(はまだくみ&徳毛洋子スレンダーペア)においても同じこと。線香花火の映像も「きれいでゆたかなのにすこしさびしく」燃えている。
終わりを始まりに予感させ、終わりも余韻を残さないシンプルさ(さっと機械的に消える最後の映像だけは、もっとゆっくりとじわじわ消えていくのでもいいように思うのだけれど)。

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March 25, 2005

若手演出家コンクール2005

 日本演出者協会主催の「若手演出家コンクール2005」最終審査が行われ、3月8日の公開審査で最優秀賞に佐野崇匡(東京ミルクホール)と広田淳一(ひょっとこ乱舞)の2人、観客賞に左藤慶(WANDELUNG)が選ばれました。
 早稲田大学の学生サークル主催「Review-lution! on-line」サイトが、この選考結果に異議を申し立てています。「演出家協会に物申す」(by 外山タカキ)と「納得できませんね。」(東京ミルクホール 劇評 by 井上晋平)の2本。コメントにも長文の評が載っています。公開審査会で各委員がそれぞれどう言ったかなど、詳細な紹介があれば分かりやすいのですが、演出者協会のwebサイトにも選考経過は載っていないし、「Review-lution! on-line」の東京ミルクホール公演評だけでは状況をつかみがたいのも事実です。もうすこし読む人の判断材料があると助かりますね。

 日本演出者協会のwebサイトには残念ながら、最終的に審査委員はだれか、また審査での発言なども載っていません。昨年の選考委員は次の通りでした。
瓜生正美(青年劇場)/青井陽治(カンパニー・ワン)/岩淵達治(フリー)/加藤ちか(舞台美術家)/七字英輔(演劇評論家)/福田善之(日本演出者協会理事長、フリー)/森井睦(ピープル・シアター)/宮田慶子(青年座)/由布木一平(埼芸)/流山児祥(流山児★事務所)

最終審査に残った参加者は次の通りです。 (50音順)

・小松幸作(東京都) 海市(Kaishi)ー工房『アゲハ』
・左藤慶(東京都) WANDELUNG(ワンデルング) vol 6.9 petitwande『オハコ△▼ロック♪』
・佐野崇匡(東京都) 東京ミルクホール『大連☆純愛カーニバル?ドキッ、春だ!祭りだ!若手演出家コンクールだ!新入学おめでとう特別ディレクターズカット総集編2005~』
・清水友陽(北海道) 清水企画『隣の王様』
・白坂英晃(東京都) はらぺこペンギン『晩餐会』
・広田淳一(東京都) ひょっとこ乱舞『カリギュラ』

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March 24, 2005

劇団無限蒸気社「BARBER OHCHESTRA」

 劇団無限蒸気社は「質の高い芸術表現を目指し地域性を生かした特色溢れる自作台本を上演し続ける事を目的に1996年愛媛県において創立」したそうです。
今年の東京芸術祭リージョナルシアター・シリーズのトップを切って、東京・池袋の東京芸術劇場小ホールで「BARBER OHCHESTRA」公演を開きました(3月2日-3日)。
 この公演に関して、葛西李奈さんからレビューをいただきました。以下、全文です。

◎日常のリアリティと非日常の訴え それぞれの言葉の意図は?

 劇場に入り、目前に広がるセットに思わず小さく声をあげる。豪華なセットに溜め息、というよりは、奥行きを出すために左右に置かれた数枚のつい立の配色の使い方によるものか、その厳粛な空気に瞬時に入り込んだ驚きを隠し切れなかった、と言ったほうが良いかもしれない。客入れ音楽も一切無し、である。

 パンフレットから、今回の公演「BARBER ORCHESTRA」のあらすじを引用する。

 日露戦争からちょうど百年。日本で一番初めにロシア人捕虜が収容された街。今も彼らの魂が眠るその地から、物語は始まる。街中のとある理容店。そこに小さな小包が届く。差出の日付は百年前。そえられた手紙にはこう書かれていた。
『おばあちゃんです。もうすぐ生まれます』
 歴史の封が開けられる。理容師たちのざわめきはオーケストラの響きに、黒髪の囁きはバイオリンの音色へ。「彼女」をめぐって闇の楽団が動き始める。高らかに鳴るは忘れられた交響曲。イースター(復活祭)の夜。最終楽章は成るや否や。

 無限蒸気社は、1996年に愛媛県松山市他の有志により創立された「半抽象表現」をコンセプトとして掲げている劇団である。「半抽象表現」とは、日常と非日常のはざまを描き、そこから見える真実性を舞台に乗せる表現方法、つまりは「夢の具現化」を試みるような方法論であるとのこと。また、愛媛特有の神事や歴史を表現の中に取り入れており、他には無い、地域に根ざした芝居づくりを目指しているそうだ。コンテンポラリーダンスなど、言葉と表現の融合なども試みとして行っているとあって、今回はその在り方の難しさと奥深さを、観客そして表現者に投げかけた公演であったのではないだろうか。

 物語は観客に背を向けた男の独白で始まる。早口で言葉を並べ立てると、すぐに別の男2人が現れる。2人は、舞台に背を向けていた男に新聞紙をかぶせる。3人の男の後ろからもう1人の男が現れ、男2人は呼吸を整え始める。が、瞬時にしてその空間は壊れる。男達は全員何かに引っ張られるようにして舞台から消える。次に現れるのは少年の匂いを漂わせる女。音に合わせて体をくねらせる。その動きは機械的であり、かつ操り人形のようだ。つい立ての脇からすっと現れる机に乗った人形の生首。女はゆっくりと、舞台奥の暗闇に消えていく。私は寺山修司の戯曲世界を思い出す。視覚的・聴覚的に訴える力が非常に大きい舞台だ。

 ところが、この後理容室の場面が出てきて、生首がカット見習い練習用のものだと観客に知れたところから、舞台は「物語性」を持ち始める。あらすじは上に引用させていただいたものを記載したが、要するに過去と現在の繋がりが描かれるのである。

 しかし、「物語性」は瞬時に観客の身に委ねられ、舞台では幻想世界が展開する。そしてまた、物語の展開は舞台上に返される。つい立てを利用し、左右自在に移動することによって空間を駆使しているのは興味を惹かれるが、私はこの抽象表現とリアリティの差がはっきりしないことで集中力が遮られてしまい、物語を追うことが出来なくなってしまった。途中で新聞紙が大量に落ちてくる演出があったが、「美しい」と感じられるばかりで、意図が読みきれず、ある種のもどかしさと悔しさを拭い去ることが出来ないまま、終演後、会場を後にした。

 開演前、案内で「半抽象表現」を表現方法として用いていると知って「なるほど」と思ったが、だとすると私のように「物語性」を追ってしまう観客には厳しい一面があるのではないかと感じられた。その一番の問題はこちら側に「言葉を発する責任」の重さが投げられてしまっているように感じられることだ。放たれる言葉が、こちら側に思考を帯びさせてしまう言葉なのである。感覚の流れに放り出されることは心地良いが、それに思考が伴うと何がやりたいのかこちらに伝わらず、息苦しくなってしまい、舞台を見る目に素直になれなくなってしまう。もし、これが劇団側が確信犯でやっていることだとしたらまた違ってくるが、もしそうではないのだとしたらもっと「日常のリアリティ」を作り込み、提示して欲しいと思ってしまった。美術や音響のセンスが高い故に、このように感じる気持ちが強くなっているのかもしれない。どちらにせよ、非常に勿体無いと思った。

 ただ、これから先、この劇団が「半抽象表現」を追求していくことには興味がある。このバランスの取り方は難しい。「日常のリアリティと非日常の訴え」を確立するまでの劇団の成長が、今後の課題となってくるところではないだろうか。
(葛西李奈 2005.3.3 観劇)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:54 PM | Comments (0) | Trackback

March 22, 2005

芸術創造館プロデュース「背くらべ」

奥に二段ベッド。舞台ばなに玄関によくみかける帽子やコートをかけるスタンド。やがてひとりの女性が、ネグリジェというかパジャマというか寝姿で出てきて、ぼんやりスタンドのもとに座り込む。と、奥で人の気配。女性は急いでベッドの上段にもぐりこんで寝たふり。男性が入ってきて少し歩きまわってからベッドに背をもたせ、煙草に火をつけようとする……とたんに煙草は止めて! 私はてっきり深夜に帰った夫と待ちかねた妻と思い込んで二人の諍いを見ていった。が、かなり経ってから男性が女性のことをお姉ちゃんと呼び出すので、えッ!

 そう。これは基本的には80年代後半に起こって90年代に隆盛を誇った、いわゆる“静かな劇”あるいは“人間関係の劇”。何か劇的な出来事が起こったり人が相手に行動的に働きかけて発見をするといった“ドラマ”ではなく、あちこちに散りばめられている台詞に気をつけていると次第に相互の関係が見るものに解ってくる、未知が既知になってくるという仕組みの芝居であった。

 が、じゃ旧態依然の“静かな劇”だったか。というと、そうではなく、しばらくすると姉は手ぬぐいかぶった祖母?になり二つ折りの座布団腹に押し込んで妊娠した母になり麦藁帽子かぶった幼児になり、それに応じて弟もまた(祖父?か)父になり幼子になり、ときに二人は男女入れ替わって姉が金ボタンの中学生となり、弟がセーラー服の少女になったりさえする。そう、これは役者がいかに他に成り変わるか、成り変わりうるか、役者の背くらべ、ではない腕前くらべのための劇でもあった。観客はただ二人の演技を楽しめばいい。

世界の他はおろか、すぐ身近の他に対してさえほんとの関心が持てない現代において、後ろ向きに小声で話す台詞にさえ耳をそばだて関係を探らなければならない“静かな劇”なんてもはや有効ではないと感じはじめた幾人もの創り手たちが、静かな劇とみせかけて単なる静かな劇では終わらない方法をいま盛んに追求しはじめたように思われるが、この「背くらべ」の岩崎正裕(作・演出。劇団大阪太陽族)も確実にその旗手の一人だったと言えよう。

 そしてこの作品を“静かな劇”のふりした役者の腕比べ、芸くらべとして見てみると、中川浩三(弟)もみなみさゆり(姉)も観客をときに笑わせときにしんみりさせ、申し分なくよく演った。40歳になるとパンフにあった弟が、半ズボン姿で地べたを転げ駄々をこねたりするのも面白く、二人の台詞も、下手が当たり前の小劇場演劇では珍しいほどにうまい。昔の、姉弟仲良しがよく伝わってくる。二人の男女が入れ替わるのはお互いの立場に立ってみようとしたからか? 遊びの「ごっこ」でいいからもう少し必然があったらと惜しまれたのと、ときどき姉が喚くところ、(ふつうの台詞は声にも独特の魅力あってよく解るのに)音だけ聞こえて何を言ってるのか判らないということさえなければ満点だろう。あれは喉の奥で音を共鳴させ外へ出さないせいだろうか。

  ……普通ならここでペンをおくべきである。が、長年洗濯屋をしてきた父親がアイロンがけの最中に倒れて救急車。今にも危篤の知らせが来るかも?の実家に、久しぶりに大阪から1時間半かけて帰ってきた弟。それが売れない?俳優(芝居では映画俳優)で、役を貰うには下げたくもない頭も下げなければ……といった台詞を聞いたとき、ふっと作・演出の岩崎正裕のことを想ってしまったからいけない。芝居は冒頭、吸ってはだめと言われた煙草、最後に1本だけと許されてライターを灯し、それがふっと消されて終わったが、岩崎さんの父上はいまなお健在だろうか。好きな道に進むと言ったら父にもう金はやらないと言われ、母にそっともらったと芝居にあったが、あれはまるで作り話? カーテンコールのあとかなり唐突に♪われは湖の子、白波の~」と坂本九の♪見上げてごらん夜の星を」が聞こえてきたが、あれはまさか? 琵琶湖周航の歌にはたしか岩崎さんの故郷鈴鹿は入ってなかったはずだが?……。

だから仕方がない。舌足らずの大急ぎで聞くだけ聞いておきたい。(1)姉は弟に、役者をやめて洗濯屋を継げ、私が家に居ては帰りにくいだろうから嫁に行くと言った。手相見てあげようのグループに接近し、実際に路上で声かけたこともあるとも言った。が、そう言っただけでは嘘かほんとか見るものには判らない。二人は終わりに二段ベッドの柱に背の丈を測りっこしていた。姉はどう生きようとしているのか、弟と生き方くらべはしないのだろうか。 (2)パンフの表紙に父と姉と弟、3人の写真があり、もともとは弟と父との、あるいは姉弟と父との、懐かしい昔を彷彿とさせようとした芝居であった可能性が高い。しかしその父は、最初のほうの二段ベッドの上、なんだか気難しそうだった寝言(あれは祖父?)と、母に乗った父の行為を盗み見てしまった挿話と、真夏の我慢大会優勝と、せいぜいそれぐらいであった。これで作者は十分だった?

もしも、と思った。もう少し弟の創る喜びと経済のことも含めて生きることの辛さ、厳しさが――あの、たった一度撮影時の心持を話すだけでなく――芸くらべのなかで伝わってきたら。もう少し反抗した彼の、今死のうとする父への想いが伝わってきたら……と。姉に吹き消してと言いながら、煙草の火を消したのは弟だったから。

今度が三演とか。いま一度の加筆、不要の削除によって四演、五演。親に背いて芝居の道に走ってしまった若い役者たちからも上演希望が殺到し……帰りの想像は膨らんでいった。  (2005.03.20 東京芸術劇場小ホール)

Posted by : 03:43 PM | Comments (0) | Trackback

HUSTLE MANIA「青青青!!!」 

  あんまりスポーツのこと知らない私が言うことだからアテにはならないが、ラグビーはいちばん垢抜けしない、男臭いスポーツのように思われるのだが、どうだろう。飾り気がないといえば飾り気ないから好感度が低いわけではないが、憧れからほど遠いのは確かである。お世辞にも素敵なデザインとは言えないその横縞の汗っぽいユニホームは、アメリカン・フットボールや野球のそれとちがって太ももの筋肉から下腹の脂肪まですっかり剥き出し。サッカーのユニホームも似たようなものだけれど、泥んこの量が圧倒的にちがう。スマートに走り回るサッカー選手とちがって、ボール抱えて転げたり体こごめて尻をつきだし揉みあったりするからにちがいない。第一ラグビーには、メジャ-リーグだのアジア・カップだのといった陽など全く当らない。渋谷・F・真和作、瀧澤☆孝則演出の「青青青!!!」はそういうラグビーだった、じゃない芝居だった。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 06:11 AM | Comments (0) | Trackback

Big Smile「paper planes」

  Paper plane――訳せば「紙ヒコーキ」。終幕、あちこちから飛んでくる紙ヒコーキがとてもきれいだった。弁護士の夕平(中野正章)が幼かった昔を思い出すシーンだ。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:39 AM | Comments (0) | Trackback

プリンアラモード鯖「DOCK’N DOCK’N」 

  「僕はフリーターです。夜間のアルバイトをして暮らしているフリーターです」――開演前のちょっとした時間に読んだ作・演出細川貴史の「鯖のたわごと」は、こんな書き出しから始まっていた。それは、バイト帰りにコンビニの前でタバコを吸っていたら、ホームレスのおっちゃんから声をかけられたときのこと。たとえそれが知人でも心の準備がなかったら「しどろもどろのこんにゃく」になってしまうという細川は「その場にフリーズ」。タバコ1本やっと渡すと一目散に逃げ出したというのだ。東京なんか出てくるんじゃなかった。これから用のないところに絶対立ち止まらないぞ。人生を投げたりしないぞ……と「あらゆる後悔をしながら」。

以下、全文をご覧ください。

Posted by : 05:33 AM | Comments (0) | Trackback

鳳劇団「昭和元禄桃尻娘」

  タイトル見たとき思わずカナンワーと首をすくめた。電車の中でおっちゃんたちがよく読んでるスポーツ新聞、そのピンク見出しと同じセンスだからだ。実際、鳳劇団の一本柱かぢゅよと康実紗(劇団アランサムセ)のピチピチ娘、二人だけの1時間半。たとえば踊りに股を開いて♪モッコリ、モッコリ」 両手をハスに上下する手振りがあったり、たとえば○○タマとあけすけな単語が飛び出したり。女優さんたちよう演るわ、よう演らせるわとカンシンする個所も少なくない。游劇社から今回の鳳劇団旗揚げへ。鳳いく太は、怒れる息子世代から現実受け入れのオジン世代へ確実に変貌した、と私は感じた。成長、ではない。受け入れざるをえないから受け入れたのだ。

以下、全文をご覧ください。

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Jules†ジュール「砂城のビショップ」

 憂いを含んで、きりっとしたルックスも素敵だが、少年サキヤ(伊東香穂里)のほっそりとした両肩、その背中がとりわけ魅力的だった。黒十字のリボンでうしろを絞った白いワイシャツ、細身の黒いズボンもよく似合う。 最近、男優の扮する女性で美しいといえるのが滅多にないのは、たぶん、あれもこれも同じような仕草、同じようなメーキャップ。シホンシュギシャカイにおける女性の商品価値をその美と思いこんでいるせいだろう。それに比べると女優の少年のほうは、こうすれば美少年というジョーシキなんてないから、そのひととして美しいかどうかだけが問われる。もし魅力的ならそのひとにしかない魅力、ということになる。

以下、全文をご覧ください。

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劇団きらら「ほね屋」

昨年上海演劇大学から、3年に1度開催する国際実験演劇祭in Shanghai にAlice Festival2004から何かいい作品をという依頼をもらったとき、私は躊躇なくAlice 賞の劇団きらら「キリンの眼」を推した。それから始まったいろいろな連絡やりとり。そのうちの一つに、作・演出の池田美樹さんから新作「ほね屋」で行きたい、それで熊本、福岡、東京へも、という希望が出た。で、そのことを上海に。まだ見てない作品、さてそのタイトルをどう伝えよう? 頭をかしげて、とりあえずBone‐sellerと直訳しておいた。

以下、全文をご覧ください。

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DEAD STOCK UNION「メルティング ポット」

――たっぷりの在庫、上質の人情喜劇――
  まず、役者が揃ってる!ことに驚いた。劇団の公演で老人役を若い人が演るとか、やむを得ぬミスキャストはよくあることだが、ここデッドストックのプロデュース公演にはそんなことがまるでなかった。デッドストックとは未来を目指す俳優たちの「在庫」の意とか、なるほど豊富な在庫から選び出された役者たちはそれぞれの役どころに実にぴったりだった。私の好みを先に言わせてもらうと、なかでもアネサンの二の子分アキラ(石田彬)はピカピカ若くてカッコよくて、意外に可愛い弱虫で、最高に魅力的だった。役者はただ筋を運ぶだけじゃなく、その前にまず観るものを魅了しなくちゃと改めて思ったことだった。

以下、全文をご覧ください。

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March 21, 2005

ファミリア・プロダクション「ジュヌン 狂気」

 実在の若い統合失調症患者と女性精神療法医の15年に渡る対話の記録を題材に、家族の崩壊、貧困と虐待、アラブ社会の敗北、宗教的抑圧など、さまざまな社会的重圧によって押しつぶされたチュニジアの若者の出口なき絶望と屈折、内面の崩壊と再構築を見事に描き切る。社会と狂気の関係に深く切り込んだ問題作-。東京国際芸術祭(TIF)のwebサイトでこう紹介されているチュニジアの劇団ファミリア・プロダクションによる公演「ジュヌン . 狂気」が東京・パークタワーホールで開かれました(3 月18日-20日)。
 TIFのwebサイトに設けられた「劇評通信」ページにも早速、河野孝 ( 演劇ジャーナリスト )、エグリントンみか ( 英演劇・演劇批評 )の2人によるレビューが掲載されています。作品の内容、社会的背景、演劇の特質などがそれぞれ力を込めて紹介されています。
 同サイトの公演情報プレス資料も貴重な紹介だと思います。興味のある方はご一読ください。

追記(3.23, 29)
 曽田修司さんの「 ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。」がこの公演をみて次のように書き記しています。

終演後、某放送局最高幹部の人が、「私は絶対に確信したわ」という口調で、「(この舞台は)モノが違うわね」と宣言していた。そうだったのだ。「モノが違う」。
つまり、舞台の構成力や、表現の力強さがケタはずれなのだ。これほどまでに妥協を排した舞台を作り出せる精神というものに、日本ではなかなか出会えない。
・・・ということを、見終わったあとに自分の中で何度も確認し、反芻するような、そう、そうせざると得ないような舞台である。あたかも、チェスのチャンピオンの試合を見ているような、理詰めの、しかし、自分の存在をあらわにするような、神経がヒリヒリするのが明らかに見える、すべてがあらわな舞台なのである。

また「世界があらかじめ毀れてしまっていることに知らず知らず気がつかされてしまったかのような、とんでもない舞台」とも述べています。

 「福岡演劇の今」サイトを主宰する薙野信喜さんは「言葉の力が、迫ってくる」とのタイトルで取り上げています。「現実をギリギリまで見つめ顕わにしていて、暗くて救いのないという内容だが、この舞台を観ていると、表現することで現実が客観化され、救いのない現実が浄化されるようにさえ感じられた」とした上で、次のように書いています。

ヌンを嫌いつづけた母親をはじめとする家族の心の中の”おり”が言葉となって出てくる(略)。独白が多い中で、兄が刑務所から戻ってくる海辺のシーンや、家族の食事における皿のやりとりのような象徴的なシーンが織り込まれ、独白シーンとガッチリと繋がれるというみごとな構成だ。

 「Somethig So Right」も「もっともこころに残ったのは、言葉の圧倒的な強度である」と書きとめ、具体的にその場面を提示、分析しています。

 しかし、この芝居を評価するレビューばかりではありません。「しばいにっき」サイトはまったく逆の見立てです

">(ファーデル・ジャイビは)フランス語圏演劇の二流(三流にはあらず)演出家というのが実際のところだろう。見事だが空虚なミザンセーヌ、思わせぶりな沈黙やポーズ、子供のゲームに打ち興じる俳優たち、音楽に合わせて振り付けられた俳優の動きなどはどこかで見たことのあるようなものばかり。光と音がシンクロする中で俳優たちがポーズを決め、短い言葉がテンポよく交わされる幕切れは80年代日本の小劇場演劇のフラッシュバックかと思ってしまった。

 複数の知人も同じような感想を漏らしていたので、これもまた有力な見方だと思います。
 それにしても、同じステージが多様な見方を可能にする。その不可思議なおもしろさを味わうこのごろです。
(注)ぼくの感想は、別建て掲載に回します。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:21 PM | Comments (3) | Trackback

March 20, 2005

アルカサバ・シアター「壁―占領下の物語II」

 パレスチナの状況を演劇で発信するアルカサバ・シアターが昨年の「アライブ・フロム・パレスチナ―占領下の物語」公演に続き、今年の東京国際芸術祭に新作「壁-占領下の物語II」で登場しました(3月10-15日、東京・新宿のパークタワーホール)。今回はNPO法人アートネットワーク・ジャパンとの国際共同制作。舞台美術は日本のメディアアーチスト椿昇が担当し、自治区を貫いて建設されている「壁」を舞台に組み上げ、圧倒的な迫力でせまります。
 「東京国際芸術祭(TIF)」のwebサイトに「劇評通信」ページが設けられ、河野孝 ( 演劇ジャーナリスト )とエグリントンみか ( 英演劇・演劇批評 )の2人がそれぞれ「 壁-占領下の物語II 」のレビューを掲載しています。主催団体がレビューを掲載するという試みは、公演の意義を広く社会に定着させたいという熱意の表れかもしれません。
 またこのwebサイトは公演紹介ページも充実し、「プレス資料」(pdfファイル)は作品の内容や背景を詳細に紹介しています。

Posted by KITAJIMA takashi : 09:48 PM | Comments (0) | Trackback

March 18, 2005

野鳩「お花畑でつかまえて」 

 「お花畑でつかまえて」は、漫画大好き少年が、自分の漫画を舞台に描きたいと作、一作努力してきて、ついに完成!――最後のシーンになぞらえて言えば、ついに卒業!――した舞台だったといえよう。これまでの野鳩の最高の到達であった。

  天王州アイルのスフィアメックス。ラクの客を送りだす出口に恥ずかしそうな顔して立っていた藤子不二雄が、オットット、作・演出の水谷圭一が、これまた恥ずかしそうな小さな声で「こんどはごく単純に創りました」と言っていたが、そのとおり、ストーリーはいたってシンプル。お祖父ちゃん子だった腰巡不二雄(畑田晋事)が同じ中学の美少女小豆畑つぼみ(佐伯さち子)に初恋。が、しかし徹底的に嫌われて終わるという、たったそれだけ。途中不二雄は、仏壇から現われたお祖父ちゃん(鳥打帽に眼鏡の水谷圭一。藤子不二雄にそっくり)の助けで男子から女子に変身、つぼみに近づく。が、不二雄が女子でいる間は、つぼみも、幼いとき太っていていじめられっ子だったと打ち明けてくれたり追っかけてきてくれたり、仲良くしてくれたのに、実は男子と解ったとたんに、いや! ――ひとことで言えばつまりこれは、好きな女子に友だちとしてならつきあってもらえるけど、異性として意識されたことがない、問題外だったという、コンプレックス少年の哀愁物語であった。
  男子中学生のコンプレックス。それが前作「きみとならんで空の下」では目の下にホクロがあるから、となっていて、それはそれで些細なところ、悪くなかった。が、今回はそういう設定いっさいなし。初めのほうで小柄な不二雄と背の高い親友宮野(堀口聡)とをただ並んで舞台に立たせただけ。見るものの想像にまかせたところがなお良かったように思う。他の人にはなんでもないことが気になる。それが人であり思春期であろう。 先に言ったストーリーがただ単線で描かれていくだけなく、つぼみや宮野の、美少年や不二子(腰巡不二雄が変身した女子中学生)への一目惚れと追っかけ、その挫折がそれぞれ挿入されていたのも、全体の厚みとなっていて、よかった。“好き”“嫌い”に理由なく、それが日々のすべてであった昔がほんのりと浮かんでくる。
  いちばん最後、不二雄がつぼみにふられてしまったあとだが、それまでお祖父ちゃんの仏壇が出現してきた以外、あまり使われず、惜しいなあと思っていた後方の石垣から舞台ばなにかけてが、一瞬にして美しい美しいi一面の菜の花畑へと変わる。溜めに溜めた、みごとな使い方であった。そして、そのお花畑に立ったつぼみと、客席まんなかに設けられていた花道、その後方に立っていた不二雄とが、あろうことか、手をあげ声をあげ、懐かしく懐かしく手を振り合っているではないか! それぞれ卒業証書の入った筒を持って――。冒頭、「ついに完成!」「ついに卒業!」と感じたのはこのときだった。 「お花畑でつかまえて」は、腰巡不二雄のつぼみへの憧れ、オマージュであったと同時に、水谷圭一の藤子不二雄へのまぎれもない憧れ、賛歌であった。もちろん見てきたとおり、つぼみが不二雄に手をふる必然は物語のなかにない。にもかかわらず、つぼみ――藤子不二雄はなんと、水谷圭一に手をふってくれたのだった……。おそらく水谷が、コンプレックスあるいは欠落、持っていないということを表現の根拠とし独特の魅力へと逆転させた力技を、それこそが漫画であり野鳩の芝居だと喜んでくれたから、にちがいない。
  嘘かほんとか、野鳩の大切な役者のひとりがこの公演を最後に劇団を去るかも?という噂を小耳に挟んだ。ここまで到達して、さあ卒業と去っていったらあまりに惜しい。一つ宿題を出すことにしよう。果たさなければ卒業させないわよの脅かしである。次回の提出を待っている。卒業がまた新たなる出発となりますように……。      (2005.03.04)
  宿題:つぼみが、不二子実は不二雄と気がつくところ。つぼみが引っ張っていた手を離すと不二子がいったん左袖に入り、入れ替わりに不二雄が出てくるが、これは、あまりに曲のないやりかた。漫画ならもっと上手に描く。これを藤子不二雄ならどう処理するだろうか、考えてきなさい。

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March 15, 2005

劇団千年王國『SL』

 東京国際芸術祭のリージョナルシリーズで、札幌を拠点に活動している劇団千年王國「SL」公演が開かれました(3月12日-13日、東京芸術劇場小ホール1)。作・演出の 橋口幸絵さんによると、この作品は16年前に書かれた第1作で、たびたび手を加えて再演されてきたそうです。劇団として2003年に1回、それに今年1月に札幌で再演された舞台ですから、劇団の中心演目と言っていいではないでしょうか。
 このところ精力的に東京の舞台を見ている「デジログからあなろぐ」サイトは「まず始めにこの一言だけを言っておきたいのですが、素晴らしかったです。物語もさることながら、演出、音響、照明、そんなスタッフワークのクオリティーの高さが一際目立った作品でありました。(中略)エネルギー溢れる男性陣の演技に支えられている最近ではなかなか珍しい劇団でした」と脱帽しています。

 劇団千年王國は1999年に結成された北海道・札幌市を拠点に活動する劇団。webサイトで劇団の活動を次のようにまとめています。

全ての作品の脚本・演出をてがけるのが橋口幸絵。千年王國としての『SL』が学生時代から通算すると17本目の演出作品となります。
作品作りは橋口を中心に、脚本作りをサポートする文芸助手、稽古場を運営する演出助手、舞台裏を固める演出部・衣装部、公演全体を支える制作部を核として、劇団員キャストに外部ゲストを公演ごとに加えてカンパニーを形成するプロデュース形式。作品の特性上、重要な役割を担うスタッフワークには札幌市内の第一線で活躍する舞台スタッフが継続的に参加しています。

この劇団の公演をみようとチケットも購入していたのですが、ほかの予定が入って残念ながら出かけられませんでした。

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March 14, 2005

西田シャトナー演劇研究所「感じわる大陸」

 名古屋に拠点を移したシャトナー研(西田シャトナー)が、名古屋で初めての公演を開きました。タイトルは「感じわる大陸」(七ツ寺共同スタジオ、3月07-08日)。関連のWebサイトによると「台本なし、プロットあり、暗転代わりに生演奏! 企画立ち上げから本番まで1週間という極限状態のなかで、恐ろしい(役者にとって)舞台の幕がいまマジであがる!」だそうです。相変わらず意欲的な作品だったようですね。
 「観劇の日々」サイトは「とにかく出演者全員が楽しんでて、観客にもそれが伝わって、巻き込まれてさらに盛り上がって、その場にいる全員が創り上げた舞台という感じで(中略)お勧め度9(10段階)」だそうです。

[上演記録]
西田シャトナー演劇研究所「感じわる大陸」

【日時】
2005年3月7日-8日

【場所】
七ツ寺共同スタジオ

【出演】
足立盟(-芝居空間-獏工房)
遠藤のりあき(E-style)
浦麗(メガトン・ロマンチッカー)
牧野謙(アーノルド.エス.ネッガーエクスプロージョンシステム)
草野.com
山口純(演劇襲団海賊船 II)
紗智(PERFORMERS「?」)
渡辺浩司(劇団とりあえず~F.O.A~)
ニシムラタツヤ(AfroWagen)
登紀子(アプリコットバス)
西田シャトナー

【スタッフ】
作・演出:西田シャトナー
照明:ありま
プロデューサー:大橋敦史(東海シアタープロジェクト)
制作協力:東海シアタープロジェクト

【協力】
七ツ寺共同スタジオ

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March 13, 2005

万能グローブ ガラパゴスダイナモス「ザ・グラマーボーイズ」

 年末年始のページに動きのなかった「福岡演劇の今」サイトが2月に入ってから活発にレビューを掲載しています。一安心しました。3月は執筆中の公演が4本、掲載済みが3本。その中で、万能グローブ ガラパゴスダイナモス「ザ・グラマーボーイズ」公演(3月10-11日、甘棠館Show劇場)を取り上げています。 ガラパゴスダイナモスは「1年の準備期間を経て」活動開始。今回が「第0回公演」(旗揚げ前のプレ公演)だそうです。福岡演劇の今」は「いいもの持ってるから、ねぇ」とのタイトルで冒頭、次のように述べています。期待が分かりますね。

無理やりでも見せてやろうという意欲が、多くの欠点を引きずりながらも、ラストまで何とか観客を引っぱっていくという舞台だった。
 その欠点の影に、まだ発見されていないこの劇団の演劇の魅力が埋まっているのを感じた。それを早く掘り起こしてほしいと願う。…


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March 12, 2005

松本修構成・演出「城」(カフカ原作)

 「演劇時評」サイトはときに辛口ですが、1996年から続いている貴重なサイトです。筆者は中村隆一郎さん。「ひとりの観客として感じたことを率直に書いています。Web上の劇評は若い人のものが圧倒的に多いのですが、僕は二回りほど上の世代」だそうです。舞台への目配りや確かな文章からも、そんな落ち着きが感じられます。ただ続く文章で「だから青年達には珍品に見えるかもしれない。このギャップ(は)掲示板を読んで見たら楽しめると思います。意見があったら書き込んで下さい。毒にも薬にもならない役立たずの劇評に対抗してラディカルに劇を論じたいひとのために」とありました。なるほど。底力を感じるのはそのせいだったのですね。
 その中村さんが、東京・新国立劇場で開かれた松本修構成・演出のカフカ原作「城」公演(1月14日-30日)を取り上げました。

この芝居には映画やテレビでは到底味わえない舞台ならではのおもしろさがふんだんに盛り込まれている。松本修は実に摩訶不思議で猥雑でわくわくするエネルギッシュな劇世界をつくったものだ。これはカフカの「城」に違いはないが、少し大所から眺めると、60年代から始まる不条理劇や「新劇」解体、小劇場運動、あとに続く野田や鴻上たちを飲み込んで我が国の演劇文化を集大成したような様々の要素をカフカの世界で束ねた一種のパフォーミングアートになっている。…
 持続的に芝居を見てきた人のことばだけに、見逃したのが悔やまれます。

[上演記録](新国立劇場webサイトから)
スタッフ、キャスト、あらすじなど
舞台写真

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March 11, 2005

裸伝Q「黄色い線まで」

 「裸伝Q」は作・演出の鍋島松濤さんが主宰する演劇ユニット。東京・中野のスタジオあくとれで第7回公演「黄色い線まで」が開かれました(2月17日-20日)。鍋島さんによると、「子供の頃に描いた淡い夢、その残像が微かに残った大人達のお話」だそうです。

 劇評サイト「SayCorner」を運営している清角克由さんは、「役者四人による舞台。何か大きな事件が起こるわけではなく、ただ会話と過去への回想でシーンがつづられる。本来であれば、僕の苦手なタイプの芝居なのだが、最後まで芝居に飽きることなく見ることができた」と感想を述べ、「『サル劇』~サルでもできる演劇講座」も「鍋島さんは、無理をしない。大きい小屋だとか、派手な装置だとか、そういったものでゴマカシをしない。伝Qの芝居は、心地よく地味だ」と書いています。
 今回は日程の調整が出来ずに見られませんでしたが、前回公演「ほどけないヒモ」の印象も「心地よく地味」でした。ぴったりの表現だと思います。前回公演前のインタビューにも目を通してください。ちょっと珍しい名前の由来や演劇に対する考え方が述べられています。

[上演記録]
「裸伝Q」第7回公演「「黄色い線まで」
会場:中野スタジオあくとれ
   2005.2/17~2/20
作・演出:鍋島松濤
出演:
朴贊革、 しゃこ、 智絵、 稲葉能敬(劇団桟敷童子)

スタッフ
照明:松本 永(光円錐)
制作:裸伝Q
制作助手:宮田沙織
宣伝美術:大西由美子
協力:劇団桟敷童子

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March 10, 2005

東京ネジ「フロウフユウ」

 「東京ネジ」の第2回公演「フロウフユウ」が東京・王子小劇場で開かれました(1月27日-30日)。このグループは、盛岡を拠点に活動していた劇団ネジのメンバーら女性5人で2003年11月に結成。「佐々木」姓が3人、血液型AB型が3人だそうです(まとまりがいいのでしょうか?)。
 「デジログからあなろぐ」や「しのぶの演劇レビュー」も書いていますが、 
このほど小畑明日香さんから長めの公演評をいただきました。小畑さんは今春から大学生。フレッシュな目に、舞台はどう映ったのでしょうか。

◎思い出して嬉しく、ささやかに描かれて切ない

 座席に赴くと、アンケート用紙の上にマスクが置いてあった。
 王子小劇場の高さを生かして東京ネジが造ったのは、お洒落な2階建ての家の断面図だった。吹き抜けの1階とカーテンで客席から閉ざされた2階を、緩やかに曲がった階段でつないでいる。最近流行りの「暖かみのある建築」。気鋭のデザイナーが一枚噛んでいそうなデザインだ。
 それを見渡す客席の上に、マスク。「演出の関係上少々埃っぽくなりますので」そのときに使えと前説が入って、芝居が始まった。

 この作品の舞台は未来だ。ロボットが人間と共存しているし、世間では温暖化が進んで、この冬は46年ぶりに雪が降るとかでニュースになっている。
 しかしこの話の主役は、あくまでも自らの幸せを模索する人間達だ。そしてその願いを叶え、幸せをもたらしてくれる、ケサランパサラン。
 この生き物はとても小さく、ちょうど綿の塊の表面を八方に引きちぎって毛羽立たせたような形をしている。白粉を食べて増殖し、タンスの奥に隠しておくとその家を繁栄させる。そのため嫁入り道具の1つとして、母から娘に受け継がれていたらしい。ただし人に見られてしまうとそれまでの繁栄も全て失ってしまうので、なかなか広まらなかったんだとか。

 レビューを書くにあたって調べてみて、初めてこれが東北地方に伝わる伝説だと知った。東京ネジの前身である劇団ネジも、北東北を拠点に活動していた。

 オッシャレーな家のインテリア、山吹色の背の低い円柱の中に、増殖したケサランパサランがこっそり飼われている。母の所から盗んできたそれで娘のみつるが願うのは、自分の不老不死と、男女それぞれ1人ずつの子ども。女の子には数字に関する予知能力があって、みつるはその能力を利用し、ギャンブルで大儲けして毎日を暮らす。

 SF的な設定が時代背景に徹している点がいい。それでいて、登場する人物達はちゃんと未来に馴染んでいる。「具現人格」という精神病を患った女から具現化された人格が産まれてきてしまったり、寿命がきた旧式の世話係ロボットを廃棄できない青年がいたりする。

 現代に無い物をたくさん登場させると説明が難しくなるが、この作品はその処理も巧みだ。ケサランパサランのことを東京の人間に解説するために、みつると母に絵本を音読させる。

「しかしその間にもケサランパサランは増えつづけ、とうとうタンスからあふれて部屋中に広がり始めました。
 ああどうしよう、このままじゃ、ケサランパサランが見つかってしまう。
 女の子は必死で考えて、とうとう窓を開けて叫びました。
 ケサランパサラン、風に乗ってゆけ。
 ケサランパサラン、雪になって吹け。」

 増えすぎたケサランパサランは仕舞いに効き目を失って、山吹色の円柱から噴き出す。みつるの目の前で、2人の子どもも、引いては今までの歳月全ても失われてしまう。そして46年ぶりに町に降る、雪。

 この場面は本当に美しい。3つのシーンでそれが表現されるのだが、雪の表現の仕方が3つとも違うのだ。(1つは雪じゃなくてケサランパサランだけど)
 個人的にはぜひ、3つのシーンを連続して観てみたかった。暗転は一切無しで、曲も同じ曲を流しっぱなしにするか、シーンごとに変える程度にして。それまで舞台転換が巧妙だっただけに、ケサランパサランが噴き出すシーンの前の暗転が大変勿体無く思えるのだ。

 芝居全体では3回しか暗転しないのだが、クライマックスからラストシーンまでに暗転が続くので、妙に長く感じてしまった。仕掛けの都合上難しいのかもしれないが、もしこの作品を再演することになったら、ぜひクライマックスを連続で観せてほしい。

 3つの物語が巧妙に展開される「フロウフユウ」の魅力を、文章だけで伝えきるのは本当に難しい。娘と同じく不老不死になった母の、若い恋人とのベッドシーンのことを話すのは特に難しい。
 笑えるのだ。子供用のトランポリンぐらいしか大きさがない円柱の上を、
 「狼!」
 「子羊!」
 「(布団を被って)富士山!」
 「(男に寄り添って)チョモランマ♪」
 などと言いながら2人が走り回る。2人とも下着姿だし、小道具も布団だけ。(最後に母の恋人は煙草を吸う)動き回れるスペースも非常に狭いのに、多彩な表現に意表を衝かれた。ものすごく可笑しいのに品が良くて、2人の愛情の深さがよく伝わってくる。

 同じ恋人同士のシーンでも、「みつるの子ども(♂)と、精神病を患ってしまった30歳の彼女」の話になると、割に力が抜けて純愛もののテレビドラマのような雰囲気の芝居になる。クライマックスのそれは少し間延びして感じられたが、野田秀樹よろしく大騒ぎするみつるの母達と好対照を成していて面白い。

 恋人を想ったり、親が子を思いやったり、喧嘩して仲直りしたり、あるいは、陰湿に旧式ロボットを虐めていた新型ロボットが、旧式ロボットの思い遣りを知ったり。赤面してしまうほど純粋な数々の愛情が話を支えている。ここまで書いてきて初めて思い至ったぐらい、どのエピソードもささやかに描かれていて切ない。

 1つ1つを強烈に感じることは無いけど、全てを失ったみつるの
 「また、ゼロになりました!」
 という台詞で観客が後味良く席を立てるのは、話の中に織り込まれたそうしたエピソードが、(結果的に無かったことになっているとしても)確かに一時そこに存在していたからである。

 観ても面白いし、1つ1つシーンを思い出していると意外な伏線に気づいたりして嬉しくなる。
 いつまでも楽しめる、上質な作品である。
(小畑明日香 2005.3.09)


[上演記録]
東京ネジ第2回公演「フロウフユウ」(公演の予告編=ビデオもありました!)

日時:2005年1月27日-30日

作 :佐々木なふみ
演出:佐々木香与子

出演:
 佐々木香与子
 佐々木富貴子
 佐々木なふみ
 龍田知美(以上、東京ネジ)
 平野圭(ONEOR8)
 明石修平(bird's-eye view)
 宇田川千珠子
 浦井大輔(コマツ企画)
 田保圭一
 サイトウミホ

場所:王子小劇場(王子小劇場賛助公演)

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鳳劇団「昭和元禄桃尻姉妹」

 鳳劇団の旗揚げ公演「昭和元禄桃尻娘」を東京・新宿のタイニイアリスでみることができました(2月15-16日)。せりふや所作などでいわゆる大衆演劇の衣を借りているのですが、そこでよくみられる義理人情の淀みに融解するわけではありません。忘却の洪水に浸される現世に、戦中の忘れがたい一筋の記憶を刻もうとする確かな舞台です。「ロマネスク不条理劇」を掲げ、「游劇社」を拠点に長年活動してきた鳳いく太が、新しい展開を図る記念碑的舞台だったと思えます。変わった衣よりも、変わらない原石を見る思いの一夜でした。

 つぎはぎだらけの大幕が開くと、いきなり「かっぽれ」が始まります。曲に合わせて登場する2人の女優(かぢゅよ、康実紗)が、裾をからげ、ときに足を高く上げ腰を割って、わざとむっちりした太ももを見せびらかしたりします。エロいというかエグいというか、民謡や盆踊りが生まれてきた猥雑な部分をいきなりさらすようなスタートでした。

 物語は年取った仲居と若い女性客が出会う旅館の一室から始まります。仲居はわざわざ腰を曲げ、おぼつかない足取りという年寄り演技のステレオタイプ。怪しげな方言を大げさに話し、野卑な言葉遣いを混ぜています。若い女性客もスカしっ屁をうちわであおいだり。ホントにこの2人よくやるぜ、演出はもっとやるぜ、といった格好で進みます。

 仲居はその昔に別れた妹がいると言い、泊まり客も妹らしき仕草を見せているのですが、身元は確かではありません。その血筋がちらりと見えそうになると、話はがらりと変わってしまいます。

 女の子が人形を相手に会話したり、着せ替え早変わりで学生と娘の役になったり、酔っぱらいサラリーマンになって愚にもつかない与太を飛ばしたり。2人の掛け合いで、岸と安保、池田勇人と貧乏人、新幹線、鬼の大松、白馬童子の山城新吾、遊星王子の梅宮辰夫、ミニスカート、3億円、全学連、背番号3などなど、おじさん世代には懐かしく、若い世代にはおそらく身に覚えのない昭和世相史のオンパレードが続きます。

 劇中で何度か場面転換に使われるのは、吉田拓郎の「今日までそして明日から」。そしてピンクレディーの「UFO」や守屋浩の「ありがたや節」も流れるのですから、確かに昭和元禄だったのかもしれません。

 そんな場面を切り裂き、時間の流れを堰き止めるように携帯電話の音がたびたび鳴り響きます。子供のころ遊んだ糸電話を取り上げて、モシモシ、モシモシと呼びかけると、空襲警報の甲高い音が鳴り、焼夷弾の轟音が響きます。時間の裂け目から、遠い記憶が呼び覚まされる一瞬です。

 大衆演劇でよく、場面と役が振り替わるコーナーがあります。梅沢武生劇団の舞台では、梅沢富美男がドジで間抜けな男役から一瞬で、あでやかな着物姿の女性役に早変わりして歌と踊りを披露します。鳳劇団の舞台はその形を借りながら、時間の流れを入れ替えて、矢継ぎ早にこんな言葉を放ちます。
 「透明人間になれるのと空を飛べるのとどっちがいい?」「不死鳥に生まれるのと人間に生まれるのと、どっちがいい?」「双子の姉に生まれるのと妹に生まれるのと、どっちがいい?」「人形のような人間になるのと人間のような人形になるのと、どっちがいい?」…

 東京大空襲で右耳が聞こえなくなった妹、離ればなれになった姉妹。人間と人形になった2人の間で交わされる問いは、昭和の歌謡曲と空襲の爆音に挟まれ、記憶に差し込まれる糸電話に答は返ってきません。問い掛けはむしろ客席側に向けられていると感じました。

 だからといって、それらしいせりふで客席を白けさせる、なーんてことはありません。恥ずかしいほど猥雑で、ばかばかしいほど楽しい仕草と遣り取りがふんだんに盛り込まれています。手練手管のやり手婆さん顔負けのサービスでしょうか。これで客席が沸かないわけがありません。旅芝居にもってこいの作品でしょう。鳳劇団がこの出し物を持って、各地の公民館や老人ホームを回ってもぼくは驚きません。

 2人の役者は出ずっぱりでくたくただったのではないでしょうか。特に姉役の「かぢゅよ」は個性的。あくの強い、エグイ役どころを生き生きと(?)演じているように見えました。そういえば開演前、浴衣姿でビールをさばいていた売り子は彼女たちでした。「ビールいかがですか。1本飲んだ方は、2本目をお忘れなく。遠慮せずに手を伸ばしてください。どうです、お客さん」なーんて強引に売り付けてたっけ。たくましいですね。

 舞台は役者の個性に彩られていますが、台本の世界はきわめて静謐、透明です。音楽を絞り、役者が違えばまたがらりと違う空気が流れ、違った空間が再現されたに違いありません。

 色の扱いはひときわ鮮やかでした。特に糸電話の赤いヒモ(糸)が闇に伸びるシーンは記憶に残ります。赤は空襲で燃える炎の色であり、流れる血の色でもあります。姉妹の「血」そのものでもあります。また考えてみれば、舞台となった温泉は、地底の裂け目から吹き出す赤い溶岩の賜物でもあります。赤=血が全編のモチーフとなり、記憶の底から噴き出す仕掛けだったのではないでしょうか。

 ネット上を歩いていたら、游劇社webサイトの中でこんな文章と出会いました。

我々は演劇だけが持つ臨場感を愛し、演劇だけがなし得るスペクタクル溢れる舞台を、不条理劇というスタイルを借りて上演し続けている。 (中略)演劇でこの世界は変えられなくとも、游劇社の舞台がひとりの観客の世界を変えていく。そんな、演劇の演劇の【夢見る力】を信じて活動している」(「感性体感浪漫的不条理劇とは」)

 そう、その夢は悪夢かもしれないし正夢かもしれません。しかし今回の舞台は游劇社とスタイルこそ違え、確かに「夢見る力」によって、時間の狭間から赤い闇の響きを現前させる舞台でした。これも鳳ワールドの甘い毒なのでしょうか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 2005.3.10)

(注)東京大空襲は1945年3月10日未明に起きました。日本の木造家屋用に特別開発された焼夷弾を使用。あらかじめ退路を断つ形で40k㎡の周囲に火の壁を築き、その中に約100万発(2,000トン)もの焼夷弾が投下され、さらに機銃掃射が加えられたと記録にあります。死者は判明しているだけで10万5,400人に上ります。この文章は、この10日付で掲載します。

[上演記録]
鳳劇団昭和元禄桃尻姉妹」 (2005年2月15-16日)

作・演出:鳳いく太
会場:新宿・タイニイアリス
出演:かぢゅよ、康実紗(かん しるさ)
照明:中本勝之、村上みゆき、朴須徳
音響:鶴岡泰三、鳳いく太
作曲・振り付け:正田和代
宣伝・美術:もりちえ
総裏方:早坂ちづ
舞台監督:朴茂一

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March 09, 2005

山の手事情社『狭夜衣鴛鴦剣翅』

 この公演は2003年1月、東京・下北沢のザ・スズナリで開かれました。ちょうど2年経った今年1月、演劇通の間で密かに知られる「ひびのさいと」が「構築と脱構築の永久往還運動」というタイトルで取り上げました。筆者は成蹊大学文学部の日比野啓助教授。アメリカ演劇・映画、日本近代演劇、演劇理論を専攻する気鋭の研究者です。2年以上前の公演を紹介するのはこのサイトとして異例ですが、リンク先の一文を読んでいただければ賛否を超えて納得していただけるのではないでしょうか。
 昨年末、山の手事情社が結成20周年記念公演を青山円形劇場で開き、劇団(訓練された団員たち)の高い力量を見せたことも、「異例」を許容する少なからざる理由になっています。

 「ひびのさいと」はまず、次のように書き始めます。

 一九六六年十月二十八日から三十日、戸山ハイツ灰かぐら劇場で三日間だけ上演され、たった四十人しか観客が来なかったという状況劇場の野外劇『腰巻お仙・忘却編』、あるいは一九七六年十月VAN99ホールで上演された夢の遊眠社の実質上の旗上げ公演で五ステージしか行われなかった『走れメルス』と同様、二〇〇三年一月下北沢ザ・スズナリ、山の手事情社の『狭夜衣鴛鴦剣翅』上演は、七ステージというその短さにもかかわらず、いやそれゆえにかえって、日本の現代演劇史に残る伝説となった。

 この3公演をぼくはみていないので、残念ながら演劇史的総括をする立場にありませんが、公演の意義を次のようにまとめた個所は記憶にとどめていいのではないかと思いました。

 もちろん、歌舞伎も文楽もたえて取り上げなかった並木宗輔による浄瑠璃台本を初演以来二百六十余年ぶりに再演した、ということも賞賛に値するだろう。しかし何よりも、日本人の身体性(というフィクション)はどのように構築されるべきか、というアングラが提起した課題にこたえて、鈴木忠志以降の世代ではじめて一つの説得力のある答えを出しただけでなく、それを身体のレベルから物語のレベルに昇華させて示してみせたことにこの公演の意義がある。

 以下、その理由を述べています。全文は改行も少なく読みづらいかもしれませんが、ぜひご一読ください。

Posted by KITAJIMA takashi : 08:46 PM | Comments (0) | Trackback

March 08, 2005

劇団印象「幸服」

 劇団印象の第3回公演「幸服」が横浜のSTスポットで開かれました(2月10日-13日)。慶応大出身者らが2003年に旗揚げ。当初は言葉遊びを多用した野田秀樹風のスタイルを採用していたが、昨年11月公演から「言葉にこだわった『エッチで、ポップで、ドキュメンタリー』な芝居でオリジナリティーを確立すべく奮闘中」だそうです。
 今回の芝居は父親と息子、それに父が通うバーのホステスがアパートの一室で展開する密度の濃い会話劇と言っていいのではないでしょうか。

 スタッフに友人がいるらしい「Sharpのアンシャープ日記」は「日曜日の夜6時からの開演だったのだが、もうすぐ『サザエさん』が始まるだの、7時から夕飯を食べ始めるのに献立は何にするだの、表面的にはリアルすぎるほどにリアルな日常生活の中で時間を進行させつつ、その根底で、通奏低音のように、家族とは何か、個人のアイデンティティとは何か、という問題を深く掘り下げていく」と書いています。

 舞台はアパートの一室。壁一面に女性の下着が飾られています。父親は女装が趣味。そのせいか母親と別居(離婚だったかな?)しているけれど、息子と同居している。そのアパートに、父がよく行く女装バーのホステスが姿を現すところから舞台が始まります。
 父と子、男と女、客とホステスという3層の関係が濃縮された空間に描かれるのですが、衣装を媒介とした「性」と「生」がいやでも浮かんできます。

 舞台の実際はどうだったか。劇団印象の主宰者鈴木厚人さんが個人ブロク「ゾウの猿芝居」サイトに「酷評から学べること」というタイトルで次のように書いています。

テーマがわからなかった、というアンケートも多かったのですが、
わからないこと、難しいことが問題なのではなく、
わからないけどわかりたい、と思わせられなかったことが問題で、
わからないが面白い、と思ってもらえなかったことが問題なのだと思います。

わからない、と言わせてしまったら負け。
面白い芝居は、わからなくても面白いし、
わからないことを忘れるぐらい面白いものだから。


これはその通りでしょう。唐十郎の芝居はその典型ではないでしょうか。あとでよく考えると荒唐無稽な筋書き、矛盾する仕掛けに気付いても、劇場で見ているときは放射する強烈なエネルギーに圧倒され、劇世界に引き込まれ、気が付けばはるか遠くまで飛ばされてしまうのです。

意味を説明するのだとしたら、 幸福のメタファーとして、幸服を配置し、 孤独のメタファーとして、空腹を配置しました。 (hangerとhungerは別にかかっていない) というのは、現代における空腹とは何に対する空腹なのか、 物質的にはいつも満腹だけど、 精神的にはいつも空腹である、 それは孤独がより一層、重みを増しているからではないのか、

そして、今思えば、そこが描き足りなかったのですが、
孤独になることが幸福か、
孤独を埋めることが幸福か、という対立を見せたかった、
ゆえに、
孤独な人間が家族を食べて、空腹と孤独を埋める、
そのことを腑に落ちるように描く演出力、脚本力が及ばず、
わからない、と言わせてしまっているのだと思います。
また、一人の人間が家族を食べてしまうまでのバックグラウンドが、
見えてこない、そこが「私の中では落ち」なかった原因だと思います。


 そこまでの射程があったとは気が付きませんでした。「父子相克」の末の「父子同根」が、この芝居の着地点に用意されています。それがまた、家族や孤独や空腹と絡んで重要なポイントだというわけです。おそらくその辺を実感できるかどうかに、公演評価のカギがあったように思われます。

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March 07, 2005

阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」

 長のご無沙汰でした。昨年末からWonderlandサイト編集がほとんど手つかずでしたが、やっと復帰の条件が整いました。また非力を顧みずあちこち歩き回ります。よろしくお願いします。

 さて、阿佐ヶ谷スパイダース「悪魔の唄」の東京公演(2月17日-3月2日、下北沢・本多劇場)が終わり、大阪、札幌、仙台、 名古屋、福岡、広島公演が3月末まで続きます。楽しみにしている方もいらっしゃると思いますが、東京公演は好評だったようです。「しのぶの演劇レビュー」や「某日観劇録」など多くのサイトが取り上げていますが、今回紹介するのは青木理恵さんのレビューです。 今春から社会人だそうです。これからもどんどん書いてほしいですね。以下、全文です。

◎気持ちが悪いほど人間らしい 阿佐ヶ谷スパイダース『悪魔の唄』

捕らわれ続けるのは簡単である。
難しいのは、一度何かに捕らわれてしまったところからどうやって生きていくのか、なのだ。

ある地方の一軒家に引っ越してきた、愛子(伊勢志摩)と壱朗(吉田鋼太郎)の夫婦。
その家に、「探し物があるのだ」とサヤ(小島聖)と眞(長塚圭史)の夫婦が突然訪問してくる。

愛子は精神的に病んでいる。そのきっかけは、過去の壱朗の浮気が原因だった。
サヤは眞から逃げ回っている。本当に愛する人が他にいるからだ。
思い通りにならない妻に戸惑い、追い詰めてしまったり、無理に優しくつとめようと空回りしたりする夫たち。

そんなさなかに、床下から人格を持ったゾンビが現れる。
戦争中に散ってしまった鏡石二等兵(伊達暁)、平山二等兵(山内圭哉)、立花伍長(中山祐一朗)の三人である。
米国への憎しみが晴れない彼等は、自分たちの手で再び米国を倒そうと立ち上がる。
三人に順応し、愛子は自分も兵の一員だと思い込む。
壱朗は、愛子を壱朗から引き離そうとやってきた愛子の弟、朝倉紀行(池田鉄洋)の力も借りて、何とか愛子を現実に引き戻そうとする。

また、サヤの想い人とは立花伍長であると分かる。
つまり、サヤと眞も死してなお、思いを残して現世に留まっている者たちだったのである。
思いを伝えたいサヤと、それを引き止めようとする眞。

一人一人の思いは、全て別の方向を向いている。誰もが、自分の思いのみ達成されれば良いと願う。

人間は強い思いを持った弱い生き物だ。
しかしその強さとは関わりなく、思いは必ずしも成し遂げられるとは限らない。
そうなった時、思いに強く捕らわれているほど、自らの身は破滅へと向かう可能性が高いということを、人はすぐに忘れたがる。
それを忘れてひた走る登場人物たちの、最期は。空白という言葉が、一番似合っていた。

人は強い意志と混迷との狭間で、いつも苛まれる。
「こうしたい」と「どうしたら良いか分からない」は、矛盾した感情のはずなのに
どちらも強く主張をし、互いに一歩も譲らない。実は矛盾自体が、人間らしさなのかもしれない。

阿佐ヶ谷スパイダースの作品は、気持ちが悪いほど人間らしい。
描かれる世界はファンタジーさえ感じるものなのに、そこに内包されている人々の精神的な動きは他人事には感じられない。
作品を通しながら、「私自身も矛盾した思考を持っているのだ」と見せ付けられる。

この劇団を初めて見たのは、前回公演『はたらくおとこ』である。
日本一まずいりんごを作ろうとして倒産した会社に、いつまでも執着し続ける社員や、農業経営者たちの閉塞的な人間関係を軸にした物語である。

お金を手に入れようと、危険な生物兵器の入った荷物を運ぶ仕事に手を出す。
しかし、事故により生物兵器が外に漏れてしまう。
ラストで一人、また一人と死んでいく中、まだ生きている者が、生物兵器におかされきったりんごを次々とほおばり出す。
自らの正当性を、最期まで否定したくない。私は間違っていないのだ、と。
そこまで抗い続ける姿は、もはや崇高ですらあった。

「人間の持つ矛盾の威力」という点に関しては、前回の方が上だったかもしれない。
けれど、「人間の持つ純粋な思いの強さ」という点に関しては、今作は圧倒的だった。

米国に一泡吹かせてやるのだと、愛子の解放と引き換えに、飛行機の手配を要求する兵士たち。壱朗に騙され、体が消えかけているにも関わらず、飛行機が置いてあると指定された、嘘の方向へ突き進んでいく。
壱朗はそんな彼ら姿を見て、大きな罪悪感に苛まれる。そして自らを兵の一員だと信じていた愛子は、心ごと崩壊してしまう。

自分の思いを叶えたい。ただそれだけのために動いたはずだ。
例えそこに憎しみや絶望すら含まれていたとしても、自分の思いだけを信じて。だが結局、背後には取り戻せない何かが口を空けて待っていた。
人生には、そういう瞬間が多々訪れる。

私は人間らしい作品が好きだ。その中にどんなに汚い感情が含まれていても。
汚さと純粋さ、ひっくるめて人間なのだから。
どちらも堂々と表現できる劇団は、実はとても少ない。
最近とみに人気が上昇してきている阿佐ヶ谷スパイダースだが、人間らしさを見失わない限り、この劇団は今後も成長していけると思う。
(青木理恵 2005.2.18)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:52 PM | Comments (1) | Trackback

March 02, 2005

三条会『若草物語』

この原稿の小見出し、のようなもの

・原書『Little Women』原作『若草物語』と、上方歌舞伎の和事の近さ
・歌舞伎・バレエ・ミュージカルを、歌舞伎・バレエ・ミュージカルたらしめる可視・不可視のもの
・三条会に物語は可能か
・倫理と友情よ永遠なれ
・「発条ト」参加の音楽から浮かび上がった三条会の猛々しい魅力

 前作『ひかりごけ』(原作は、厳寒の知床沖でシケに遭い難破した徴用船の乗組員が、死んだ仲間の肉を食べて生き延びたという実際の食肉事件を題材にした武田泰淳の小説/戯曲)で、演出の関が排泄を描かなかったのはなぜだろう、と私は考えていた。どんな肉であれ、食べ続けていたらやっぱり出るものはあっただろうと思うし、なぜ人間は決を「出したがる」かという話でもあったからだ。そのような経緯ゆえに、今回の『若草物語』の「1幕 便所 便所が何より楽しい。」で、しめなわ状の三つ編みを頭の両脇にくっつけたスキンヘッドの男優四人が、横に並び中腰で生理現象に悶える様子で―便器に腰掛けているように見える―プレゼントのないクリスマスについて思いの丈を述べているのを観て、その勢揃いのような絵面に驚くよりまず『ひかりごけ』以来の答えがここにあったという爽快な気持ちになり、勝手に大いに納得した。もちろん、演出の意図とは何の関係もない。

 そんな余談はおくとして、原作『若草物語』の原書『Little Women』についてここで若干の前置きをする。なぜなら訳書『若草物語』のエピソードが意味するものと、日本でいうと江戸の天保期~明治中頃を生きたアメリカ人女性による、19世紀に出版された半自伝的小説だということだけでこの作品を裁断すると、その特性は見えてこないと思うからだ。
 『Little Women』は、もう使われない古い英語表現が四人の娘のバイオリズムに巧みに織り込まれ、婦女子独特の間合いで会話として交わされて日常生活の襞の内側を繰りながら、クリスマスの「めでたし」を目指して進んでいくという、惰力のようなじわーとした感動のある、いいかえれば大変芝居的な作品だ。まずテキストには当時の家庭という固定された場があり、場には定まった人物の関係性がある。一定の関係性があるということは、そこで暮らし周りの環境に育まれた身体が存在するということであり、従って登場人物の言葉というのは、どこの誰とも知らないがただそこにいる人の物言いではなく、固定された場によってつくられた身体から発せられる言葉となる。また、関係性を持続させる上で非効果的な言い方は鮮やかに回避される。さらに作品の言葉には話者の帰属する階級、頭の回転速度、アメリカ人度など人物像を描く筆が沢山用意されているはずだが、その微細は到底わからなくても、言葉が映画などで俳優の口をついて語られる時、今聞く英語の日常会話と異なる音の流れ・間によって綴られる感情や心理の波に乗ると、もらい泣きできたりする。『Little Women』がアメリカで繰り返し映画化されてきた理由の一つは、ここにあるのではないかと思う。
 
 このもらい泣きは上方歌舞伎の和事、人情ものを観てホロりとなるのに近い感覚だといえるだろう。近世の大坂、つまりある時代のある地域で記された言葉(義太夫訛り)が、型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体を通し音として目の前に立ち上る、その生々しく艶のある音の抑揚や運びから、言葉の意味を超えた人間の内面の起伏そのものをありありと感じ取ることによってもらい泣きが起こるのだ。登場人物の感情や心理を解読してもらい泣く、ということではない。エピソードの現実性や普遍性もとるにたらぬ問題である。
 松竹・上方歌舞伎塾の主任講師でもある歌舞伎役者、片岡秀太郎が「現代の男女の在り方と、歌舞伎のドラマに出てくる男女の心の機微とか義理人情というのはかけ離れていて、理解しにくい部分が多々あり」「それを演じてみせて感動を与えるには、まずセリフ」であると述べ、イントネーションに重きを置いて指導すると語っていることは、この私見の証左となるだろう。(1)
 原書と訳書共通の事柄では、物語の中で起きる出来事の意味が、結局ドリフ大爆笑の落ちで鳴るジングル「ブ・パ・パ・ブッ」とほぼ同等という整然としたドラマツルギーもまさに芝居で、『Little Women』『若草物語』と歌舞伎はこれらの点においてそもそも近い、と私は考えている。

 さて、三条会の『若草物語』に入ろう。
 「ちょっと歌舞伎を意識し」たと当日パンフにあるが、しかし「それに束縛されずに、「物語」とは何か考えてみよう」という言葉どおり、いわゆる「古典への批評と敬意を込めた引用」に眼目は置かれていなかったと思う。(2)後で詳しく述べるが、舞台で表現された歌舞伎らしきものは、どの狂言の何を引用したということではなく、また歌舞伎の他にもクラシック・バレエもどきに頭上へ両腕を上げ爪先立ちで身体を回転させる動きが出てきたり、それからミュージカルと呼ぶかはともかくとして、しばしば俳優は音楽にあわせて台詞を歌っていた。
 ここに挙げた歌舞伎・バレエ・ミュージカルは、いずれも特殊な身体言語と音楽を用いて表現される芸術であり、エンタテイメントでもある。こうした舞台を鑑賞する時、逐一「人はあんなふうじゃない」と考えながら観続ける客は、果たしてどのぐらいいるだろうか。ミュージカルではたまに、作品の骨格を音楽で表現することがわかりやすく提示されているのに「なぜ突然歌うのだ、普通に喋れと思う」、またバレエ・歌舞伎にも動物や「○○の精」など人間以外の役はあまたあるのだが「人間が猫や獅子になるのは苦手」という人を見る。ともあれバレエを観ながら「王子は着替えの途中みたいな格好で、飛びながら宴会に出てこない」「太股あらわな衣装で脚を上げたりブンブン回る姫などいなかっただろう」とか、はたまた歌舞伎にやってきて「男は女ではない」「弁天小僧→青砥藤綱のような、同一作品内での二役なんておかしい」などと、以上思いつくまま列記したが、こんな前座以下の発言は誰もしないはずだ。
 要するにこれらは、観ている内に視聴覚を通して客がなんとなく「そういう形式なのか」と了解する事項であり、何回か通っている客であればとうに了解済みのことであり、そしてバレエならバレエ、歌舞伎なら歌舞伎というように、それぞれをそれぞれたらしめている確固たる約束事だ。三条会の『若草物語』は、具体的な引用を目指したのではなく、こうした約束事を見せることにあったと思われる。胴体部の前後に役者を入れた馬、花道、正面向きの横長の舞台、引幕、勢揃い、役者の名前を狂言の中に出す、一人一役でない役者など、『若草物語』に出てきた歌舞伎を歌舞伎たらしめる約束事を一言でいえば、今やっているのは芝居ですよとはっきり明示することであろう。
 『若草物語』でたよりなくペラペラな、でも芝居の進行を支配する紅白の幕が上演途中にもかかわらず、「女」という役名の女優によって引かれ強制終了しようとする時、台詞を述べながら抗う俳優は、幕が芝居の時間を支配するという観客了解済みの約束事に抗っているのだ。引かれた幕の向こう側で『若草物語』を続けたのも、芝居の時間の主導権を引幕から俳優に置き換えることで、約束事を観客に意識させる意図があったからに相違ない。また白馬の胴体に入った二名の俳優の顔をわざわざ馬から出させ、蹄の音を言わせる演出には、俳優の全存在をかけて、芝居を芝居たらしめる約束事を逆説的に語らせる明快さがあった。

 芝居を芝居たらしめる可視のものが明示されると、今度はおのずと不可視だが、芝居を芝居たらしめるものもわかってくる。それは、先に述べた「ある時代のある地域で記された言葉」を蘇らせる、「型という特別な修練を積んだ現代の人間の身体」を通した「音の抑揚と運び」だ。両者出揃ったところで、現代演劇の上演集団である三条会に立ち返ってみよう。観客了解の約束事や、特殊な言葉を蘇らせる型と口跡は?と考えると、彼らにはものの見事に何もない。四姉妹を演じるのが男優から女優へ、ある時はその逆へと変則的に入れ替わったり、数々の約束事を見せたのは、代々伝承されてきたものではなく三条会の演出・構成である。
 ところが三条会は訳語を超えて『Little Women』の、生活の襞を繰った時に聞こえてくる登場人物たちの笑い声や戸惑いや意地悪を舞台で実に生き生きと表した。すなわち19世紀アメリカの大変芝居的な作品に、現代の日本の俳優が血肉を与えたということである。「2幕 学校 異性のことだけを考えていた。」では、メグとジョーが舞踏会の招待を受けてから帰ってくるまでの騒動がメインに上演される。ケからハレまで併走して描かれ、見せ場のあるこの章を選んだセンスは、巧いと思わずにいられない。が、奉仕をいとわず姉メグとは違う慎ましさを持ちながら、大きく外れたところのある作者の分身=ジョーを、心底愉快に嫌味も迷いもなく現代の女優がやるのは難しくもあるだろう。
 大川潤子は期待に応えた。三条会の取り上げるテキストと現代とのいつものずれに加えて、今回は訳というもう一つのずれを、彼女は身体で受け止め扱わなければいけない。舞台上にある時、コントロールできなくなる瞬間はまったくないだろうと思わせる感動的な発声と身体や、すらりとした肢体でありながら相撲のしこ踏みのような動きをしてもぶれない重心のとり方などが、ジョーの愉快な表現に生かされていたのはもちろんのことだが、特筆すべきは彼女が、訳語を語っておりますというヨソの意識を常に持ち、外部に発していたことである。このヨソの意識と、期待どおりに失敗するジョーの外しっぷり双方を極限まで絞り出して表現することで、互いに「本」(大川は19世紀のアメリカ娘、ジョーはマナーのお手本)からどうしようもないずれがあるという共通項を引き出そうとする、力強い演技が生まれていた。大川に見られたこうした闊達な、困難に挑む力は、原作に即して考えるとまさにジョーの美点として描かれ、数々のエピソードで披露されるものである。この力があったからこそ、2幕は劇場内から笑いがもれる楽しい場面になり得たのだと思う。

 「3幕 友情 男女間なり国家なりを越えた友情なんて妄想かしら。」では、メグとブルーク先生の結婚話を軸に、おそらく「倫理」と「友情」という単語をモチーフにしたと思われるいくつかのイメージが展開される。前置きで「もう使われない古い英語」と書いたとおり、言葉は時代が変われば変わってしまうと思っていたが、先の大統領選や外交演説をかんがみるに、アイデンティティが変わらなければずっと使える言葉も確かにある、とこの幕を観てひっくり返された。と思いきや、打掛をまとった四姉妹お待ちかねの父が、ファーストフードの包みとコーラを引っさげ千鳥足で帰ってくる。姉妹の成長の様子を、半分眠った酔っ払いのたわ言として語るスーツ姿の父。その言葉は、やはり前置きで述べた『Little Women』における固定された場と関係性によってつくられた身体と言葉から、なんと隔たった得体の知れない軽さで劇空間に浮かんでいることだろう。食べ物やものの食べ方も、人の身体とともに在るものでありながら、言葉とは異なる次元で変化していることに気づく。ここで個人的に映画『スーパーサイズ・ミー』(3)を連想するやいなや、舞台ではネクタイを助六式に頭にしめた父が「あで、電気つけといて」とすべった声で、四姉妹の退場した下手に向かって言っていた。このように、わずかな時間の内に次々新しい『若草物語』が発芽し茎を伸ばしていく、そのどんな瞬間にもユーモアを確実に舞台へ刻む三条会の演出が、3幕ではひときわ輝いていた。
 粟津裕介(発条ト)参加の音楽は、この3幕で使用された「若草物語」が、三条会と音楽との関係に新しい可能性を開いたといえる。メロディは複雑ではない。しかし曲のシンコペーションが、大川・榊原の朗唱と横隊二列に並んだ身体の激しい動きを煽るのではなく、優しく外側から包みこむように用いられていて、これが三条会特有の劇空間の緊張を、たるませず和らげることに成功していた。だがその他は行儀のよさが耳に残る。三条会は『班女 卒塔婆小町』の「Tonight」(WSS)、『ひかりごけ』の「黒の舟歌」「カノン」、そして今回の「imagine」の選曲しかり、歌詞も曲調もメロディもリズムもひっくるめて楽曲としてもうこの世にある、曲の存在それ自体と真剣に対峙しつつ遊ぶところに本来の猛々しい魅力があると思う。演出家個人の薄暗い想い入れを一切練りこまず、また歌われている情景を再現するという関心などさらさらないはずのに、曲を視覚化してしまう関の才能は「imagine」で垣間見ることができた。(05.02.23 ホール椿)河内山シモオヌ

(1)関西の伝統芸能 いま・歴史・みらい
(2)三条会の『若草物語』は、春夏秋冬と移り変わる原作を、便所・学校・友情の3幕構成に仕立ててる。俳優が原作の時間の流れの上に乗るのではなく、彼ら自身によって新しい時間の流れをつくり、舞台上の時空間を重層・立体的に広げていくことで、現代に生きる俳優自身の言葉として台詞を語ろうとする三条会の変わらぬ試み(参照レビュー:『班女 卒塔婆小町』)は、役者が物語の流れを止めて見得を切り見せ場を強調することで、具体的な人物の演技から抽象・様式的な表現に飛躍する(この時、舞台上の時空間も具象から抽象へ飛ぶ)歌舞伎の舞台と似ている。
(3)『スーパーサイズ・ミー』思想で身体がふくれた監督のとはタッチの異なる、ユーモアの機能したドキュメンタリー映画。店員からスーパーサイズを勧められたら断らずにファーストフードを食べ続けるとどうなるか、健康な監督モーガン・スパーロック(非ベジタリアン)が試す。本土各所でまともそうな肉魚や野菜や果物を揃えるのは、大変な時間を必要としたり金銭的負担がかかりすぎるのではないかというホラーをアメリカに見る。「マックのロナルド」が愛される理由や学校給食の実態(問題の多い搬入業者の社名がソデクソという図ったような名前)の他、特に戯画化されていないのに限りなくナチュラル・ボーン・マフィアな加工食品業界ロビイストの活躍も捉える。

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March 01, 2005

三条会 『若草物語』

 三条会が新作『若草物語』をひっさげて本拠地である千葉公演に臨んだ。所属俳優全員が顔を揃え、多彩なゲストを迎えた豪奢な華やかさ。また先達て関美能留が千葉市芸術文化新人賞を受賞したばかりということもあり、話題性は抜群、どうにも期待せざるを得ない。春も間近いホール椿。いざと心構え、不意打ちは重々覚悟ながらもやはりあれよの大展開に圧倒され、しかし気がつけばすっかり『若草物語』の世界に引きこまれてしまうのだった。

 三条会のつくる演劇は場の性質を最大限活かす空間処理が特徴的であり、劇場や舞台構造など、空間そのものを劇的な武器として、そこに俳優を配する位置関係を含めた体系の創造に魅力のひとつがあると思う。『若草物語』の舞台は昨年の公演に見たような自在な立体感を脇にのけ、奥行きわずか六尺ほどの横長の舞台、しかも背後には真っ白な壁というあからさまに制限された場所。俳優は常に下手から現れ、舞台の中心を行き交い、下手に引っ込む。花道もある。プログラムには歌舞伎への意識が綴られていたけれど、舞台作法を見ていればたしかに歌舞伎である。恰も『青砥稿花紅彩画』の稲瀬川勢揃の場様に四人の男優が自分の本名を名乗り連ねてゆく場面や、冒頭の便所の場などに見える俳優の力強さは、相変わらず小空間を濃密な触感で浸した。

 と、ふと思う。ともすれば当たり前のように観てしまうのだが、俳優は異形の存在としてわたしたちの前に現れていること。人間であって人間でない、舞台にいる役者は普通の人間ではないという一点が、強く響くのだ。かつて(現在でも)リアリズムという概念は多からず舞台を生活という現実世界の再現と捉えてきた。そこで演じられる役柄は或る人生の物語における各々登場人物であり、彼らがどんなに劇的な台詞を口にしたとしても、それは現実感を伴う「人間」であることに変わりないだろう。描かれる物語が日常的な断片でなくても然りである。役に扮するということ。役を生きるということ。そもそも「役」とは何ぞやという疑問を、三条会は笑いのうちに提示してくれる。開幕時に戻れば、男たちの剃りあげた頭にはりつけられた色鮮やかな三つ編み。すでに役者は単なる人間の再現ではない。歌舞伎だとて、たとえば『暫』の鎌倉権五郎のような衣裳は実際あり得ない。江戸時代にだってあんなものを着ていた人間はいなかったろう。隈取りもまた。にもかかわらず、様式という一面、また視覚的な美意識においても、誇張された人間の姿は心理劇に流されがちのわたしたちに、感覚的な演劇の楽しみ方を伝えてくれる。それは心情を、科と白の裏に暗示するのではなく、本来不可視である意識を色彩豊かに視聴覚化する手段である。「暫く」の一言を云うためにあれだけの時間を費やす不合理も、意識と時間感覚の関係性の表徴に他ならない。俳優の身体を、抽象を具象化するよりしろとして捉え、現実時間に拮抗する体感時間をつくりだす。まさに三条会の演劇そのものの姿なのだと再確認させられた。

 『若草物語』の「世界」を味わうために、幕の効用というものも一考する価値があるだろう。舞台と客席が幕で仕切られることの少なくなった昨今の演劇事情は今更強調するまでもない。多くがはじめから舞台を見せ、開幕前の舞台に様々の仕掛けを施し劇世界を予め提示する。しかし、幕のあることは舞台とわたしたちのいる客席とが明らかに異質のものであり、その距離感覚は芝居を芝居として幻想の世界へとわたしたちを誘う効果がある。見えない幕の向こうの世界に期待は高まり、想像力も掻き立てられる。設えられた紅白の引幕が開く、文字通りの「幕開き」。トいきなり剃りあげた頭に色とりどりの三つ編みをぶらさげ、不敵な笑みを浮かべた四人の男が並んでいるという絵面の強烈なインパクト。そしてのっけからミュージカル。冒頭の衝撃は一気に劇の世界観を強制諒解させる。また上手袖では常に一人の女優が舞台の成り行きを見守っており、基本的には彼女が引幕を操るわけだが、三場構成の各場切れは舞台上で台詞が続けられるにもかかわらず、彼女の幕引きによって終点が定められる。いわば、「女」と役名を振られた彼女は『若草物語』の劇的時間を支配する役割を負っているとも云えるだろう。時に男たちを統括する教師、四人姉妹の伯母を演じることと併せてみても、物語を(それは人生と云うもまた)外的な力で以てその進行を指し示す、運命にも似た存在を思わせる。便所や学校、はたまたマーチ家のように閉塞した場に対し外界から統率するのである。最終場、白馬に乗った王子様(=ブルーク先生)がメグへ求婚する行を、またも強引とさえとれる幕引きで終わらせようとする。しかし、舞台半ばまで引かれた幕をローリイに扮する男優がその度に引き戻す。猛烈に結婚反対する伯母に、当初は「王子様」に対してけんもほろろだったメグは次第心を変えていく。まるで決められることを嫌うかのように、如何にブルークがよい人間か、そして貧しくとも彼との生活がすばらしいものになるかを熱心に語り聞かせる。幕を引こうとする伯母、伯母に反発するメグの意識を代行するように、ブルークを弁護しつつ引かせぬローリイ。幕はそれが芝居であることの印である。幕が開いて世界は動きだし、幕が引かれれば世界はわたしたちの目の前から姿を消す。たとえその間にも幕の向こうの物語はとめどなく流れていたとしてもだ。物語の進行途中に挟まれる幕引きは暴力的でさえあるが、それを妨害する行為はさらに挑発的である。芝居を芝居として見せる、ひとつの鍵言葉でもあった引き幕の使用。はじまれば開き、終われば閉まるという約束事の境界をさらにかき回し、虚構と現実を混沌とさせながらぎりぎりまで勿体ぶって終幕。幕で装う舞台の裸体をスカートめくりの如く露わにしようとする。歌舞伎という系譜を受け継ぎつつからかってしまう。三条会版『若草物語』の楽しさは、舞台構造の制限を逆手にとって、物語時間を、マーチ家の四人姉妹が味わう季節の推移といった出来事の並列から、俳優及び観客の体感時間に引き寄せたところにあったのではないだろうか。(後藤隆基/2005.2.28)

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