11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

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April 23, 2005

ポツドール「愛の渦」

 話題の「ポツドール」が新宿シアタートップスで、新作「愛の渦」を上演しています(4月20日-27日)。どんな物語かというと、「『心底スケベな男女数人が1室に集まって、朝まで好きなだけやる』という、羨ましい衝撃的なストーリー」(NO BUFFET,NO LIFE)「内容としては乱交パーティです。とは言えエロよりむしろ笑いの要素が相当の量」(キミテル日記)だそうです。

 前作「ANIMAL」はラジカセの音楽が大音量で流れ、せりふがほとんど聞き取れないまま終わったとの感想がありました。今回もせりふがあまり聞き取れない個所があったようです。
わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」のqueequeg さんがこの点について、「『何言ってるか分からない』というのはつまり『何か言ってるのは分かる』わけで、つまりコミュニケーションの内容は伝わらなくてもコミュニケーションの形式は伝わる」「あと聞こえないとハビトゥスが前景化される、みたいなことをちょっと思った。というか聞こえない会話の内容を補うためにハビトゥスが動員されるってことだけど」という指摘はなかなか鋭いと思います。

 ぼくらの心的構成に直に変容を迫るのではなく、ぼくらが持ち合わせる心的機序のトリガーを引き、そこからさまざまな感情の渦を湧出させる方法論と言えるでしょうか。これはやり方が極端に違うように見えながら、平田オリザが繰り返し述べている演劇論や演出論、今年岸田國士戯曲賞を受賞したチェルフィッチュ岡田利規の手法にも通底します。

 取材やインタビューで、同調的な態度で相手の言い分を引き出すのか、挑発的な態度で隠された意図や感情を露出させるか、両極端のやり方があるのと似ているかもしれません(この二つだけに限りませんが)。「内部」を引き出したり露出させたりするやり方はさまざまだと思います。こういう手法に関して憶測はいくらでも可能ですが、ポツドールは未見なのでこの辺にとどめたいと思います。

【追記】(5.30)
 ポツドールの舞台はよく「リアル」と言われているようです。具体的にはどういうことか、「Somethig So Right」サイトの今井克佳さんは次のように述べています。

「時間をおってパーティーの様子が描かれていく。最初はどうにもぎこちなく、会話もなく、取りつく島もない居心地の悪さが続き、次第に会話が交わされていくのだが、実際、こういう場所であれば、まったくこうであろうと思われるような、会話の始まり方(なぜか最初は女同士で話し始め、そこに男が言葉をはさもうとして、別の女と会話が始まっていく、というような)の描写がリアルである。
 なぜか最初は女同士で話し始め、そこに男が言葉をはさもうとして、別の女と会話が始まっていく」という個所に、おもわず頬が緩みました。鋭い観察ですね。  また最後にも「リアル」が用意されているようです。
印象的だったのは、店員がカーテンをあけると、明け方の陽の光が部屋のなかに入って一気に入ってくるのだが、この光の表現はすばらしい。本当に一晩空けた、その夜の非日常の時間を終わらせ、日常の世界に戻す陽の光そのものだった。夢の終わり。セリフにもあったが、夜中は局部をあけっぴろげに見せていた女も、恥じらいながら服を着替えている。

 夜と昼。秘密の時間が日常世界に切り替わる瞬間を演出する力が存分に発揮されているように思われます。

 CLP(クリティック・ライン・プロジェクト)の皆川知子さんはこの舞台に関して次のように指摘します。

 性欲というテーマと、リアルな演技が、結びつけられた。その結果、舞台上で暴かれたのは、逆説的にも、私たちの実生活のなかで行われている演技、つまり現実のなかの嘘=フィクションだった。
 先の紹介でも触れましたが、ポツドール公演には、ぼくらを舞台に引きつけつつ、そのことがかえって僕らの内部を浮き立たせることになるという仕掛けが施されているのでしょうか。「欲望に対する演出家のシニカルな視線が、終始、舞台を貫いていた」という締めくくりが鋭く突き刺さってきます。


[上演記録]
ポツドールvol.13「愛の渦」
4月20日-27日、新宿THEATER/TOPS

脚本・演出 三浦大輔
出演 安藤玉恵 米村亮太朗 小林康浩 仁志園泰博 古澤裕介 鷲尾英彰 富田恭史(jorro) 青木宏幸 岩本えり 遠藤留奈 小倉ちひろ 佐山和泉

スタッフ
 照明 伊藤孝( ART CORE design) /音響 中村嘉宏(atSound)/舞台監督 矢島健
 舞台美術 田中敏恵/ 映像・宣伝美術 冨田中理(Selfimage Produkts)
 小道具 大橋路代/衣装 金子千尋/演出助手 富田恭史/ 写真撮影 曳野若菜
 ビデオ撮影 溝口真希子/制作 木下京子/制作補佐 井崎久美子/広報 石井裕太
 企画・製作 ポツドール

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April 22, 2005

メタリック農家「尼」

 メタリック農家「尼」公演が下北沢 OFF・OFFシアターで開かれました(4月8日-12日)。週末は劇場通いという「休むに似たり。」サイトの「かわひ_ 」さんは「メタリック農家の骨太で「堪える芝居」。物語多少ごちゃつきますが飽きずに見られる1h30」と述べています。

 「ハンサム部ブログ」サイトは「物語の本質的なところは良いと思うけれど、いざ戯曲の構成となってみると、ぶつぶつになってしまっているのがもったいない。対話のかみ合わせ、前半はあまり機能していない、後半は面白く観られる」と指摘。「タンツーblog!!」サイトは「夢と現実が入り混じる、狭い舞台をうまく使う ひっじょーによいお芝居」と大絶賛でした。

[上演記録]
メタリック農家「尼」公演
脚本・演出:葛木英
出演:
鞠子 酒井杏菜
寅吉 伊藤一将
聡史 竹井亮介(親族代表)
春実 葛木英
夏枝 古市海見子
鶯   宮本晶子 
慈胤 岩田裕耳
イル  中島徹
慈徳 大川祐佳里

Posted by KITAJIMA takashi : 10:42 PM | Comments (0) | Trackback

April 20, 2005

流山児★事務所「High Life ハイ・ライフ」

 カナダの劇作家リー・マクドゥーガルの原作、吉原豊司の翻訳を、流山児祥が演出した舞台。2001年に開かれたカナダ現代演劇祭で作家と翻訳家を迎えて本邦初上演。2003年12月に再演。今回は国内ツアーで札幌・名古屋・大阪公演が開かれました。
名古屋公演をみた「観劇の日々」サイトの「しおこんぶ」さんは「生きること、それ自体の麻薬性を感じることができる舞台でした。個人的にはスッゲー面白かった。お勧め度9(10段階)」と絶賛しています。

 「流山児★事務所」のWebサイトもよるとあらすじは「世のならわしや常識でがんじがらめに縛られた普通人には到底まね出来ない、胸のすくような自由人4人の冒険と失敗譚。登場人物は中年のチンピラ・ジャンキー4人。口八丁手八丁、策士のディック。刑務所から出てきたばかりのバグ。腎臓がイカれてしまったコソ泥ドニー。そして、したたかな二枚目ビリー。男たちが銀行強盗を企むところから物語は始まります。目指すは街角のATM現金自動受払機。一世一代の大仕事を成功させ、田舎に引っ込んで『豊かな老後』を実現しようというデイックとバグ。一儲けして、もう1ラウンド生きながらえようというドニー等、胸のうちはそれぞれ。しかし、壮大な計画は仲間割れで見事に頓挫。元の暮らしに逆戻り…」だそうです。

 翻訳の吉原豊司さんはこの作品で、第9回湯浅芳子賞を受賞しています。吉原さんと演出家の貝山武久さんは「メープルリーフ・シアター」サイトで現代カナダ演劇を詳しく紹介、翻訳作品を頒布しています。興味のある方はご覧ください。


[上演記録]
札幌公演(4月9日-10日、ターミナルプラザ琴似パトス)
名古屋公演(4月15日-17日、愛知県芸術劇場小ホール)
大阪公演(4月19日-21日、梅田HEP HALL)

作/リー・マクドゥーガル
翻訳/吉原豊司
台本・演出/流山児祥
音楽/トムソン・ハイウェイ

出演/千葉哲也・塩野谷正幸・若杉宏二・小川輝晃

照明/沖野隆一 音響/藤田赤目 美術/塩野谷正幸 振付/北村真実
舞台監督/吉木均 映像/島田暁 照明操作/小木曽千倉 音響/畝部七歩
宣伝美術/サワダミユキ 宣伝写真/アライテツヤ 制作/米山恭子
平成17年度文化庁舞台芸術創造団体重点支援事業

Posted by KITAJIMA takashi : 11:08 PM | Comments (0) | Trackback

April 19, 2005

アーノルド・ウェスカー作、蜷川幸雄演出「KITCHEN キッチン」

 アーノルド・ウェスカー作、蜷川幸雄演出「KITCHEN キッチン」公演が東京・渋谷のシアターコクーンで開かれています(4月5日-24日)。コクーンのWebサイトで「1959年ロンドンで初演以降、世界22ヶ国、53都市で上演されてきたイギリス現代演劇の傑作です。物語りの舞台はロンドンのレストランの厨房(だけ!)。シアターコクーンの場内中央に仮設の舞台を設置、客席で厨房を挟む形で物語りが進んでいきます」と書かれている通り、「労働現場」としての厨房(調理場)が圧倒的な迫力で迫ってきたようです。

 本業はデザイナー&イラストレーターという「優」さんは「オドソン:カンゲキモード」サイトで「圧巻だったのはランチタイムのシーン。まさに”戦場”のような調理場に豹変した空気に飲み込まれて、芝居を観ているという事をしばし忘れてしまいました」と述べています。「しのぶの演劇レビュー」も「一幕では、早朝からランチタイムまでのチヴォリがダイナミックに迫力満点に描かれます。皿やグラスは実物が出てきますが料理は全てマイムで、それがすごくリアル!役者さんは相当お稽古を積まれていると思います。パティシエ(細かく丁寧で、静か)とコック(動きが激しく、色んな音が鳴る)の動作の違いが面白かった」と賛辞を惜しみません。

 しかしウェスカー作品は階級社会の色濃い英国の現実を踏まえています。「オドソン:カンゲキモード」は、調理場の雰囲気を次のように描写します。

ヨーロッパの歴史はさっぱり分かりませんが、イギリス・ドイツ・キプロス・アイルランドetcと、キャラクターの出身に絡んだ優劣関係が成立していて、「アイツは○○(国籍)だからな!」と差別的発言がごく自然な会話として入っていることに少しショックを受けました。新入りコックのケヴィン(長谷川博己)を誰も名前で呼ばず「おい、アイルランド!」と呼んだり、ドイツ人のコック、ハンス(勝地涼)とユダヤ人の菓子職人ポール(高橋洋)との間に微妙な違和感が存在したり。時代設定が1950年代のロンドンなので、今の時代には受け入れがたい事でも、その頃はそれが当たり前だった、ということなんでしょうね。

 メールマガジン「SANDWICH」(第3号、4月18日発行)に、演出家・演劇批評家の大岡淳さんがレビューを載せました。やはり労働現場のリアルな再現が目にとまったようです。

俳優たちは、食器や調理器具の類は小道具として駆使するが、本物の食べ物は登場せず(戯曲にそう指定されている)、マイムで表現する。マイムの技術の中では、無対象行動と、リアルな対象物を混ぜた動きは難しいとされており、この表現を俳優たちがてきぱきとこなす様からして、見ていて迫力がある。のみならずこの表現を駆使して、戦場のような調理場の様子が再現される様は圧巻。特に一幕の終盤、ウェイトレスたちとコックたちが猛烈なスピードで仕事をこなすくだりは、それだけで一見の価値がある。リアリティはディテールに宿る、とでも言うべきか。(略)労働者の感情やら主張やらではなく、〈労働〉という行為そのものに焦点を絞っている点で、これこそ唯物論的な演劇と呼ぶべきではないか、とすら思わせた。少なくとも、日本で上演された「キッチン」の中では、この蜷川演出が最高傑作であろう。

さらに言葉を継いで、英国社会に向けられた異物としての戯曲の性格を踏まえ、次のように書いていることを忘れてはならないでしょう。

きらびやかな“劇場”には似つかわしくない労働者階級の現実が――決してプロレタリア演劇のような教条的な図式には収まらず――感情も主張も排した具体的なアクションの積み重ねとして舞台上に登場する。(略)  いまどきの観客は、労働者としての自己は直視せず、“消費者”としてのアイデンティティに充足して生きているのだから、その消費行動のただなかにバグを滑り込ませることでしか、もはや社会批判的なメッセージは伝わらないと考えるべきだ。その意味でこの芝居は、渋谷でお買い物をするお嬢さんたちにしかけられたバグである、と評しておきたい。

大岡さんの意見をもっと知りたいととおっしゃる方は、「大岡淳の反資本主義日記」をご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/ooka/

[上演記録]
KITCHEN キッチン
東急bunkamura・シアターコクーン
(4月5日-24日)

作 アーノルド・ウェスカー
改訳 小田島雄志
演出 蜷川幸雄

美術 中越司
照明 原田保
音響 井上正弘
舞台監督 芳谷研

出演者
成宮寛貴
勝地涼
高橋洋
須賀貴匡
長谷川博己
杉田かおる
品川徹
大石継太

鴻上尚史
津嘉山正種 他

Posted by KITAJIMA takashi : 11:24 PM | Comments (0) | Trackback

April 18, 2005

うずめ劇場「ねずみ狩り」

 「あの“いまわのきわ”から3年、衝撃の問題作、日本初公開!」というコピーで上演されたうずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』は、オーストリアの劇作家ペーター・トゥリーニの出世作。1971年にウイーンで初演され、非難と賛辞が半ばする曰く付きの作品とのことでした。「いまわのきわ」という優れた作品を紹介した鑑識眼を信頼して劇場に足を運んだ人は少なくなかったに違いありませんが、3月初めの福岡を皮切りに、北九州(3月10日-13日)、東京(4月15日-17日)、そして名古屋(4月22日-24日)という国内ツアーの実際はどうだったのでしょうか-。皮切りの福岡公演をみた「福岡演劇の今」サイトの薙野信喜さんは「演出の力はどこに行ってしまったのだろうか」として次のように述べています。

最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。ここに緊張がないのは、演出も俳優も結末を当然と受け止め、それに向かって障害らしい障害を出すこともなく、スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ。(中略)戯曲と拮抗し火花が散る舞台を期待していたがみごとに裏切られた。ペーター・ゲスナーは、後進を育てることを理由に手を抜いていると見た。全力で取り組んでその力を見せつけることこそ、観客への礼儀であり、いちばんの後進指導ではないのか。  期待がものすごく大きかったので、つい厳しい感想になってしまった。

 演出はペーター・ゲスナーと藤沢友。共同演出とは、実質的には藤沢にほとんど任せ切りということなのでしょうか。薙野さんの指摘通り、ゴミ集積場に車で乗りつけた若い男女が身に着けたものをゲーム感覚で次々に投げ捨てていくプロセスが芝居のへそになるような構造だったように思えます。それにしては確かにふくらみが足りません。なにしろ客席に銃を向けるだけでなく、最後には客席に向かってネズミ呼ばわりしながら乱射する作品なのですから、どういう形であれ観客のコンテキストに作品の世界が収まらなければ、反発どころか無視という、最も望まないそぶりに振れかねません。

 演出に問題が残ったことは確かででしょうが、ぼくはその上、作品選択に関しても、やはりどこかに錯誤があったのではないかという気がします。演出方法とも関連しますが、いまさらこの手の威圧的、一方通行の作品を、どうして日本に紹介しなければならなかったのでしょう。いまの日本はこの手の「威圧」でへこむほど薄い単層構造でできていません。地肌がそれほどまでに荒れていて、よほど工夫しないと緑が育たないと考えた方がよさそうです。アングラ演劇の歴史に詳しいはずのゲスナーなのに、過去に何度も繰り返されたこの手のテーマを蒸し返すのは、いささか目測を誤ったのではないかと懸念します。

 最後に、撃ち殺される男女2人のヌード演出に触れないわけにいかないでしょう。ほとんど予定調和の進行の末に裸になる2人には、お疲れさまとしか言いようがありません。欲望をぎらつかせて交合の仕草をまねたりしながら舞台を飛び跳ねるのですが、肝心の男性のシンボルに生気がなかったのは、その舞台全体が不能だったことの象徴にみえました。反対にそうでなければ、それこそ無粋の極みですし、演劇としての場所を失いかねません。
 30年前はいざ知らず、この作品は日本デビューの時期を見誤ったような気がしてなりません。

[参考]
面白さに◎びっくり」(「福岡演劇の今」サイト「いまわのきわ」評)2002.3
筋書きを逆にたどるオムニバス」(wonderland「いまわのきわ」評)

[上演記録]
◎うずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』
■上演スケジュール
福岡:3月5-6日(ぽんプラザ)
北九州:3月10日-13日(スミックスエスタ)
東京:4月15日-17日(シアターX提携公演)
名古屋:4月22日-24日(第5回愛知県芸術劇場演劇フェスティバル参加)

作 ペーター・トゥリーニ
翻訳 寺尾格
演出 ペーター・ゲスナー/藤沢友
上演台本 うずめ劇場
出演 後藤ユウミ、荒牧大道、藤沢友 他
主催 うずめ劇場
共催 北九州市・北九州市教育委員会
助成 (財)セゾン文化財団、芸術文化振興基金、
(財)アサヒビール芸術文化財団
後援 オーストリア大使館

Posted by KITAJIMA takashi : 08:00 PM | Comments (0) | Trackback
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