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April 02, 2005

フォルクスビューネ「終着駅アメリカ」

 東京国際芸術祭(TIF)の掉尾を飾ったのは、ドイツからやってきたフォルクスビューネ「終着駅アメリカ」公演でした(3月25日-28日、東京・世田谷パブリックシアター )。テネシー・ウイリアムズの戯曲「欲望という名の電車」をほぼ踏襲した脚本ながら、舞台をアメリカの低所得者向けワンルーム住宅に据え、ブランチは屋敷を売り払って妹ステラ夫婦の家にやって来る、ステラの夫スタンリーはポーランドの元「連帯」幹部という設定です。演出は92年以降、芸術総監督を務めるフランク・カストルフ、舞台美術は大胆な仕掛けで知られるベルト・ノイマンです。
 風琴工房主宰、詩森ろばさんのwebログサイト「LIVESTOCK DAYS」は「仕上がりはメチャクチャコミカルで、猥雑。ポップでロックでパンクでチャーミング」とした上で、次のように書き留めています。

ドリフの如き笑劇であり、前衛的なダンスであり、深いテーマ性を孕んだウェルメイドであり。そんなことが並び立つんだなあ、と深く感じ入り、なんか演劇の可能性ってスゴイって、思っちゃいましたよ。

 「(この作品の)台詞を隅から隅まで覚えている」という「しばいにっき」の筆者は「ここまでウィリアムズを解体するとは! 乱暴で出鱈目で面白いことこの上なし。カストロフが元東独のパンク演劇野郎だということがよくわかった」と気持ちの高ぶりを抑えきれないようです。「ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。」も「超刺激的で、いかにも現代的」と話しています。

 コンテンポラリーダンスなどに詳しい「dm_on_web」は「それで実際の舞台はというと、2時間40分もあるのに全然飽きなかったというのが凄いことは凄いのだけど、全く想像の範囲内というか、自分が改めて演劇に興味ないのだということをまざまざと見せつけてくれるような良質さ」と述べ、その上で「ライヴの演劇」が持つ性格に疑問を投げかけています。

 TIFの「劇評通信」ページで、ドイツもこの舞台をみている立教大学教授新野守広さんは、劇中に使われた音楽について、こう記しています。

ルー・リード、ベルベット・アンダーグラウンド、ニコ、ロキシー・ミュージック、ドン・マクリーン(『アメリカン・パイ』)、ジュリー・ドリスコルをはじめとして70年代アメリカのカウンター・カルチャーの音楽がここぞとばかりに流れる中で、第二のインターナショナルとも言われた「ワルシャワ労働歌」が耳にこびりついて離れず、そのリズムに思わず身体が反応して行進をはじめてしまうブランチは、アメリカへの違和感を全身で表現しているとともに、一旦身に染み付いた社会主義国家の現実を捨て去ることの難しさを暗示してもいるだろう。資本主義のオルターナティヴとしての社会主義はもはやなく、一方資本主義には人間を剥奪する力が荒れ狂っている。だが人間は生きる力を捨ててはいない。それを示すのがフォルクスビューネの演劇なのだ。

 この公演に関するプレス資料(PDF)はいつもながら詳細です。主催者側がこれほど充実した情報を提供するケースは珍しいのではないでしょうか。海外の劇団公演などでは助かります。

 ただフォルクスビューネのフルネームは「フォルクスビューネ・アム・ローザ・ルクセンブルグ・プラッツ」。ローザ・ルクセンブルグ広場にある国民劇場という意味でしょうが、ローザとはどういう人物だったか、彼女の名前を付けた広場にあることことをわざわざうたっているkとに意味があるかなど、どこかに書いてあると参考になったと思います。

追記(4月8日)
 「大岡淳の反資本主義日記」は「フランク・カストルフ演出『終着駅アメリカ』に関する限り、確かに『過去の上演史を参照する』手法がここでも採用されているのだけれど、一点大きく異なるのは、その『参照』という作業を施した痕跡が、あからさまに舞台上に露呈してしまっている」と指摘。「各場冒頭の舞台の設定を指示するト書き」の処理に関して詳細に分析しています。
 大岡さんは他のメーリングリスト(舞台研究MLエウテルペ)でもこの公演について言及しています。

 また「わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」のqueequegさんは原作の固有名詞を読み替えている個所を列挙しながら「原作においては交換可能な記号に過ぎなかったものが、そのコノテーションを思いっきり引き出されて政治とサブカルのにぎやかなコラージュを織り成してる。まあそうとうベタっちゃベタな世界観だけど、まあ普通に楽しい」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 06:52 PM | Comments (0) | Trackback

April 01, 2005

チェルフィッチェ「ポスト*労苦の終わり」

あたし的にわァ、めっちゃ面白かった。っていうかあ、こんなのありなんだあ!ってびっくりしたっていうかあ、なるほどなって感心したっていうかあ。しばらく見てて舞台で何しようとしてるか、あたし的にィ、もちろん作・演が何狙ってたんだかなんて、岡田利規さんにチョク聞いてェだけどオ、聞いてもそんなん、口で言えるようなら舞台創らんと言われるに決まってるしィ、決まってないかも知れないけどそういうものじゃない?ってとこあるしィ、だからアあたし的にだけどオ、解ったと思ってからはア、同じこと同じように繰り返しィ話されるとオ、話す人は同じじゃなくて変わったりするんだけどオ、そいでもあんまり同じこと何度も話すとオ、もち、意図的にやってるんだから笑っちゃうんだけどオ、笑っちゃいながらちょっと眠くなったっていうかあ、意識が遠のくってこともあったりしてェ、そっと見まわしてア結構目ェつぶってる人、あたしだけじゃないじゃんなんて、ほっとしなかったと言うとオ嘘になるけどオー、でもやっぱ行ってよかったっていうかあ、見とくべきだったー、見なかったらぜーんぜん損しちゃったんじゃないかなーって、そーんな気持ちみたい、なあんて言ったりして――。

全然うまく真似できなかったけど、チェルフィッチェ「ポスト・労苦の終わり」の言葉はちょっとこんな感じ。話し手の内心がそもそもあやふやな上に、それでもより的確に言い表そうとさ迷いもがくので、言葉はまるで金魚のウンコみたいに延々と続いていく。聞き手への気遣いというか、自分の言葉がどう受け取られるか相手の立場にたってみる想像力もないではないので、言葉はさらに紆余曲折し止めどない。身振りもそう、言葉との内的関係が切れているから、体はまるでどうしたらいいか分からないみたいにふにゃふにゃよじれ、手は意味なく手近の壁を這ったり相手の方に差し伸べられ、しかしくねくねと届かない。

横浜STの空間をそのまま使った白い壁。出入りできない出入り口が二つ。客席の後方から、まるで遅れて来た客といったふうの女性が前列へ出てきてスタンドマイクに向かい、町でみかけた、喧嘩してた夫婦の話をします、と始まって行く。そしてそれから、その二人は暫くは一緒に住んでから、じゃなかったかなと思うんだけど、とにかく別れて、そのたしか2年後の話になって、別れた妻は部屋を探してて、もう一人の部屋を探している女性とルームシェアすることになって、けれども、そのもう一人の女性を誰かが好きになったらしく、その誰かは舞台に出てこないのだけど、その誰かの友達っていう男の話によると、ま、いっか、すぐいっしょに住もかって話になって、けど最初の、別れた妻のほうにしてみれば、別に反対するわけじゃないけど、シェアしている部屋の契約更新料ちょうど払ったばかりだし……今度はちょっと文体似た、かしら?……といったような話が延々と続いていく(第1幕)。

話すのは最初に出てきた女性と、あともう一人の女性と三人の男性。代わる代わる話す。内容はどっかのミーティングか結婚式場でたまたま関係ない人のスピーチが耳に入ってきてしまったみたいな、聞いてもいいし聞かなくてもいいし、いかにもエエ加減な同棲、現代だなあと感心してもいいし主体性ないなあと呆れてもいいし、そんなこと思ったところでどうせすぐ忘れてしまうだろうし、要するにどっちでもいい話。それも、妻と女性の話は二人の女性がそれぞれ話すからまだ混乱はないにしても、夫のほうの話は二人の男性が交替で話すし、いっしょに住もかの男の話は本人ではない、友達と称する男性が話すので、いよいよ主体がぼけていく。誰が話そうと大した違いはないってわけだ。考えて見ればこの話、そもそも彼ら彼女ら自身の身の上ではなく、町でみかけた夫婦とその知り合い?の話だった。話の主体なんて最初ッからありはしなかったのだ。

岡田利規の言葉は「超リアル日本語」と言われているらしい。日本語は「源氏物語」の昔ッから主語なし、述語でちゃんと分かる言葉であったから、ただ主語を言わなかったり語順をテレコにしたり語尾を曖昧にしたりするぐらいではなかなか現代のリアリティを掬い取ることは難しい。が、彼は、ただ言葉をらしくしようとしただけでなく、いったい誰の話やらどうでもいい人の話を採り、つまりと要約すればせいぜい10分で済む話にその10倍もの時間をかけ、さらにその話を誰がなぜするのか、当事者と話し手を替え、その話し手をさらに替えたりずらしたり,――きわめて知的な戦略を施すことによって「超リアル」と感じさせることに成功した。曖昧で不確かな身振りとともに一つの新しい可能性を開いたと言えよう。交互に話す彼らを横から写すカメラとテレビ画面。ときに掌に書いたクイズ?を画面に大写しにしたりして、物語への同化を絶ったのもなかなかの仕掛けであった。身振りにまだまだ工夫の余地ありでは? あれから町のワカモノをいやにジロジロ眺めるようになってしまった私にはそう思われるけれども。

タイトルに「ポスト」がくっついていたのは、前作「労苦の終わり」の改訂版だったからとか。部屋をシェアしている女性が結婚して出て行くなら、その空いた室に元の夫が戻ってくる可能性もないではない。が、あしたは部屋を探しにいこうというその夜、女性は、元妻の愚痴だったか何かの話を聞かされて一睡もできず、出かける気力も体力もない。が、しかし男の友達が話すには、女性は翌朝、敢然と?!男と部屋探しに出かけて行った――と思ったら、それは夢だったと友達は話す。客席は思わず失笑。女性は白い壁のいちばん隅っこ、ペットボトルを口に押し当て、じっとうずくまって萎えたまま――というところで第2幕は終わる。タイトルどおりご苦労さま、でした――。

 岡田の絶望は深い。客席の笑いが彼の唯一の望みであった。   (2005.03.21)

Posted by : 11:23 PM | Comments (0) | Trackback
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