11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

April 30, 2005

青島レコード「ぼくにとどけきみのうたごえ」

 「スタイリッシュに、どこでもない世界を構築する青島レコードの新作。何処でもない世界でありながら、今作は透け見える現実世界へのリンク」と書き出したのは「休むに似たり。」サイトの「かわひ_」さん。「イデオロギーの強い、好みの別れる芝居かも知れません。が、あたしは語られていることはよくわかるし、好きな芝居」「嫌なこと痛いことを避けるためには考えることを止めてはいけないという強烈なメッセージは、ずしりと響きます」とまとめています。

 では、どんな物語だったのでしょうか。
 「2歳で成長を止めた兄。いつか彼を追い越し大人の仲間入りしようとしている弟。単に成長しない兄を描いているかと思わせる前半からやがて、この世界が、「架空の敵」とやら相手に戦争をずっと続けていることがわかってきます。兄に見えているのは、大人のしがらみとやらを理由に思考停止して、見えもしない敵相手に戦争をつづける、流される世界」(「休むに似たり。」)です。

 子供の兄、大人の弟という逆転した関係がカギになっているようですが、これが混乱の元になっていたかもしれません。「#10の観劇インプレッション」サイトは「なんだかよくわからなかった。不条理っぽい部分もあればシリアスな場面もあり、アンサンブルは何を表現しているのか不明。物語もごちゃごちゃ混ざり合っていて、何が本筋かつかめなかった。個々のシーンでの演出は何か上手な印象を受けるだけに、全体としてのまとまりがないのが残念だった」としています。

[上演記録]
青島レコード「ぼくにとどけきみのうたごえ」
4月21日-24日
世田谷シアタートラム

[作・演出] 岡田望
[出演] 山中崇/扇田拓也/中尾あや/大和広樹/諌山幸治 ほか

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April 29, 2005

G2プロデュース「キャンディーズ」

 小劇場の人気俳優を集め、独自のプロデュース公演を開いてきたG2プロデュース。その最新公演「キャンディーズ」が東京、福岡、大阪で開かれました。「福岡演劇の今」サイトの薙野信喜さんは「仕事と恋―命を賭けるほどに大事なものがふたつ、ひとりの中で同じ時にガチンコでぶつかる。恋の喜びが勝つが、そのことの代償は大きい。G2の純愛物語は、けっこう苦い」と述べています。
 G2プロデュースのWebサイトによると、物語は次のような設定で始まります。

 戦後復興のさなかにある昭和30年。向島石鹸は手作りの工場を次々と閉鎖、オートメーションによる大量生産へと切り替えていた。   唯一残された第三工場に立花社長(山西惇)の娘・美雪(須藤理彩)が女工員のしじみ(新谷真弓)を訪ねてやってくる。遅刻してきた新入工員と勘違いされた美雪は、暗い影のある職人・渡部(長谷川朝晴)と大げんか。勢い余って工員として働くことになってしまう。   ところがそこへ第三工場閉鎖と職人のリストラの通達。社長である父の横暴に怒る美雪は、あろうことに労働組合のリーダーとして反対運動を起こすことに。   だが、工員は瞬間湯沸かし器の伝介(内田滋)、のんびり屋の浜田(陰山泰)、20年前の事件以来口がきけなくなってしまった横山(廣川三憲)と、役に立ちそうな者はいない。唯一、頼りになりそうな工場長・松永(竹下宏太郎)も意外な行動に。しかも、闘う相手は美雪の許婚の君島(木下政治)だ。  そこへ助け船を出したのがラジオ東京のディレクター菅井(菅原永二)。労使交渉の場をラジオで生放送してくれることに。  こんな騒動のなか、美雪は渡部の暗い影の奥に眠る熱い想いを感じていく。君島という許婚がありながら、渡部に心を奪われていくのを止めることができない美雪。   だが、渡部は20年前の事件に心を閉ざしたままだ。  20年前の昭和初期、社長の立花は軍の要請もあり工場のひとつを合成洗剤用に改造した。そんな流れに逆らうように第三工場の職人・柴田(久保酎吉)は「キャンディーみたいな石鹸」を作るべく、小豆島のオリーブに目をつけていた。太平洋戦争の陰が迫る中、チャンスはやってきた。宮内庁からフランス王朝御用達と同じ質の石鹸をという要請があったのだ。喜び勇んでオリーブを買いつけ、新人の渡部と徹夜で作業する柴田。  だが、渡部が同僚の永井(草野徹)の恋人・美千子(須藤理彩・二役)に心を奪われてしまったことから、事態は意外な方向へ転がり落ちて……。  果たして、20年前にいったいどんな事件があったのか? 二つの時間に存在する二つの三角関係のゆくえは? そして、キャンディーみたいな石鹸を作りたかった柴田の想いは成就するのか?

 「井上ひさしの昭和庶民伝と見まごうような舞台だ。テーマによって変幻自在のG2の幅広さを見る」「設定したふたつの時間を一瞬にして鮮やかに飛びながら、ふたつの時間を繋ぐものをじっくりと描いていく。柴田の作った石鹸は20年の時を越えて生き延び、渡部の胸からいちどは消えた恋も20年の時を経てよみがえる。気持ちのいい甘酸っぱさでハッピーエンド」だそうです。

 ただ結末には若干の留保も。「惜しむらくは、白馬の王子が現れて渡りに舟と救われるというやや甘いラスト。気持ちよく終わらせたい気持ちはわからないでもないけれど」と述べています。

 ネットをざっと見てみましたが、おもしろいと今公演を買う人は多いのですが、このラストにはかなりの異論が出ていました。「エンディングが妙にすんなりうまくまとまってしまったのがちょっと・・・だった」(「ジェット☆ジェットCAFE」)「最後はあれよあれよとハッピーエンドで、「ええ?それでいいのか?」ってちょっと思ったけど、たまには大団円ってのもいいかな」(「Pauseな日々」)「ラストがちょっと都合いいなーと思いはしましたが、楽しめたのでオッケーです」(箱雑記)あたりが代表的なコメントでした。

 G2プロデュースのWebサイトはあらすじだけでなく、稽古日誌や役者のコメントなど盛りだくさんの内容です。ためになりました。
 また冒頭に紹介した「福岡演劇の今」で、G2さんが芝居の現場体験を披露したトークの様子が紹介されています(「G2さんの話がおもしろい」)。興味深いエピソードを盛り込んで読ませます。参考まで。


[上演記録]
◎G2プロデュース「キャンディーズ」(Candy's)

東京公演 下北沢・本多劇場(3月30日-4月10日)
福岡公演 天神・西鉄ホール(4月18日-20日)
大阪公演 シアター・ドラマシティ梅田芸術劇場(4月22日-24日)

作・演出:G2
出演:
須藤理彩、長谷川朝晴、竹下宏太郎、新谷真弓、木下政治、内田滋、豊原里美、草野徹、菅原永二、廣川三憲、山西惇、陰山泰、久保酎吉

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April 27, 2005

能劇「姥捨-OBASUTE-」

 名古屋の小劇場演劇の様子をウオッチするとき、「しおこんぶ」さんの「観劇の日々」サイトは欠かせません。最近、能劇「姥捨-OBASUTE-」公演を取り上げ、「日本的な侘び寂びを強く感じる良質の舞台でした。引き際の美しさとでもいうのでしょうか、万物の霊長たる人としての誇りや叡智があり、積み重ねられた落ち着きによって融和されていく、理想の年寄り像がそこにあった気がします」と評価していました。

 作、振り付けの原智彦はロック歌舞伎「スーパー一座」の座長。「なにげにひたすら、ただただお山へ参る婆をものすごく美しく踊ってみたいと思い」「(元たまの)知久寿焼の音にゆられ、ふらり私はお山参る」という趣向です。
 4トンの流木と3,000足のビーチサンダルで作られた空間。「日頃忙しくしている人にこそ観て欲しい舞台。お勧め度8(10段階)」と述べています。


[上演記録]
◎能劇「姥捨-OBASUTE-」
 KDハポン(KDJapon)
 4月15日から5月1日まで変則10日間公演

作・振り はらともひこ
出演:
婆-ババー・男 原智彦
少女 茂手木桜子、夕沈
息子 野畑幸治
ムシ ムシムシガールズ・ムシムシボーイズ
スタッフ:
音楽 知久寿焼(元・たま)
舞台美術 岡部玄
宣伝美術・演出協力 天野天街
衣装 久野周一
映像 木下竜太
音響 森田太朗
制作 小瀬木いづみ、渋谷紘子、ハポンフェスproject

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April 26, 2005

劇団、本谷有希子「乱暴と待機」

 「劇団、本谷有希子」の第9回公演「乱暴と待機」が新宿シアターモリエールで開かれました(4月8日-17日)。自分の名前を劇団名にする1979年7月生まれの23歳。第7回公演の「石川県伍参市」が岸田國士戯曲賞の候補作になり、「ユリイカ」「新潮」などにエッセーや小説を執筆。この4月からニッポン放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティーも務め、小説「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(04年12月「群像」掲載)が三島由紀夫賞の候補作になるなど、いま注目の作家です。ネット上に公演レビューも数多く掲載されています。

 劇団のWebサイトによると、あらすじというか、次のような設定で物語が進行するようです。

成功者だったはずの男は毎夜、女を観察するため屋根裏に潜む。 男の人生をうっかり滅茶苦茶にした女はそれを黙認し、美貌を隠し、憂さ晴らしに付き合ってやる。 二人の間にセックスはない。恨む側と恨まれる側という関係を崩してはならないからだ。 穴から部屋を覗きながら、男は今日もこの世で最も惨い復讐方法を考え続けている。 穴から視線を感じながら、女は今日もこの世で最も酷い罰が自分に下されるのを待ち続けている。 だが、いつまでたっても復讐が実行される気配はない。 事故のあった日から来週で12年目-男の30歳の誕生日だ。
 2人の関係は舞台でどう具体化されているのでしょうか。「Somethig So Right」サイトは次の個所をピックアップしています。
中学時代のイジメ体験から、他人の顔色を極端に気にするようになった女。男が復讐の方法を思いつくまで、男と同居してすでに六年。毎晩、寝る前に二人はこんな会話をする。  「おにいちゃん、明日は思いつきそう?」  「思いつくさ」  「そう、よかった」
 象徴的かもしれませんね。  実は、さらに続きがあるようです。「正しくも松枝日記」によると「そう、よかったね」と答えた後、「カレンダーに丸印をして/そして電気を消して寝る」のだそうです。だめ押しですね。

 「物語の前提やストーリーにはところどころ腑に落ちないことがあったし、ラストも私には特に響くものがあるわけではなかったのですが、さらりとしながら非常に狡猾でいやらしい精神的SMの世界に、どっぷりはまり込んでめちゃくちゃ楽しませていただきました。あの少し冷めた視線からのどん底のいやらしさは、女性ならではのものじゃないかなぁ。いや、本谷さんならでは、なのかもしれませんね」と言うのは、「しのぶの演劇レビュー」サイト。相変わらず精力的な舞台渉猟ですが、目の付け所がほかのレビューとは違って、かなり食い込んでいるように思います。

序盤の馬渕英里何さんの失禁シーンがめちゃくちゃ私好みでした。会話をさえぎってはいけない、話しかけられたら答えなきゃいけないと思うばかりに、おしゃべりの途中で「トイレに行ってきます」の一言が言えず、そのまま我慢の限界が来て、スウェット女は居間でおしっこをもらしてしまいます。・・・私には「萌えー!」ってヤツでしたよ、マジで!(告白ですね、コレ)。あと、同僚の彼女が高校時代のクラスメートだったことがわかり、彼女に嫌われたくない一心で、同僚に脅されながらセックスをする、しかも天井裏からお兄ちゃんがその情事を覗きやすい場所をわざと選ぶという状況もタマりません(笑)。

 なるほど、なるほど。失禁シーンを取り上げたのは、「しのぶ」さんだけではないでしょうか。

 全体のイメージはどうなのでしょうか。「無駄だらけの毎日。」サイトの「更紗」さんはこうまとめています。

人の心の闇、いや違うな。歪み、それも違う。なんと表現するのが適切なのだろう、汚さとでも言うのか。悪どいとかずる賢い汚さとかでもない、本当の汚さ。汚物に近い感じの。そういう汚さを描くのが本当に巧い(中略)。救いようのなさこそが救いのようで、それなのに観終わった後に「良かったなあ」となるそんな作品。

 「ヤサぐれ者の魔窟vs発掘亭日乗越」サイトの乗越たかおさんは「小劇場的という設定としてはある種オーソドックスともいえる造りなんだが、よくできていて、引き込まれる。『突き放した感』と『いきなり懐に刺し込む感』の緩急が絶妙。相当に削いでいっているのがわかる」と感心しています。


 役者の皆さんも魅力的だったようですが、特にスウェット姿の馬渕英里何さんは印象深かったようです。「主演の馬渕さんのスウェット+メガネ姿がエロ心をくすぐりました。作家は女性ですが、女性にもこういう心が分かるんですかねえ。。。不思議」(きくちブログ
「芝居に熱中すればするほど、観客は繰り返し馬渕英里何のジャージ姿を意識させられることになる」(a piece of cake !
「馬渕英里何さんの灰色スウェットの上下がめちゃくちゃいやらしいです。これをいやらしいと思ってしまっている時点で私の好み(嗜好)ってヘン?男性っぽいでしょうか?」(しのぶの演劇レビュー)
「このスウェット、妙に着古してあってぺらぺらで、スウェットのエロスというものを感じることが出来ます」(正しくも松枝日記

 スウェット姿は本谷有希子の狙いだったようです。馬渕英里何との対談(前半)で、「馬渕さんに出演してもらうって決まった時、まず「スエット!」って思ったのね。ホリプロから呼んどいてスエットしか着てない役っていうのも「いいよねー」と思ったし、他の人が当てないような役を当てようという狙いもあって。他では見れない馬渕さんをうちで見せようと思うから」と語っている。

 とまあ、だらだら書き綴ってきました。みていないと、あれもこれもと気が散りますね。このほか取り上げ損ねたレビューもいくつかあります。追記の形で取り上げます。しばらくのご猶予を。


 劇団サイトは、本谷本人の日記のほか、この公演に出演した役者座談会や、演出助手の女性による演出・制作エピソードが盛り込まれたりして、なかなか興味深い読み物になっていました。


[上演記録]
「劇団、本谷有希子」第9回公演「乱暴と待機
 新宿シアターモリエール(4月8日-17日)

□出演者
馬渕英里何
市川訓睦(拙者ムニエル)
多門 優(THE SHAMPOO HAT)
吉本菜穂子

□スタッフ
作・演出  … 本谷有希子
舞台監督 … 宇野圭一+至福団
舞台美術 … 中根聡子
照明    … 中山 仁(ライトスタッフ)
音響    … 秋山多恵子
演出助手 … 福本朝子
小道具 … 清水克晋(SEEMS)+山本愛
衣装    … 金子千尋
宣伝美術 … 風間のう
宣伝写真 … 引地信彦
WEB担当  … 関谷耕一
制作助手 … 嶋口春香
制作協力 … (有)ヴィレッヂ 
制作    … 寺本真美 中島光司

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April 25, 2005

劇団上田「上田展[Spring]」

 第18回パルテノン多摩小劇場フェスティバル2005が始まり、参加5劇団のトップを切って劇団上田「上田展[Spring]」公演が4月22日に開かれました。
 「デジログからあなろぐ」サイトの「吉俊」さんはまず、冒頭のシーンに引きつけられたようです。

椅子が7つ並んでいる・・・そこに、黒いタイツと白いワイシャツを着た男達(1人女性)が粛々と現れる。 皆、黒のサングラスを掛けている・・・椅子に座ってそれぞれ思い思いにくつろいでいるが、1人がおならをする。
最初は、おならするなよ~という反応を周りはしているのだが、いつしかそのおならが連続的に繰り返されるようになり、気が付くとそれは音楽になっている。
音楽の名前は忘れたが、有名な曲だ・・・それを各々がおならで表現していく、おならの音に合わせてお尻を上げたり体が飛んだりという典型的な「おなら動作」をする訳であるが、それが上手いこと演出されていて、見ていて心地よい。
馬鹿っぽい事なのだが、ちゃんと練習してリズムが狂わないようにするというのは簡単ではないだろう。

 アイデアは分かった。実際の芝居はどうだろうか-。興味は当然そうなりますね。

初めのパフォーマンスで完璧にお客さんの心を掴みまして、私もこれは期待できるなぁという印象を持ちました。 その後も、物語とは名ばかりにパフォーマンスというかコントというか、その境目をスタスタと7人で渡っていくお芝居。(中略)
正直に言って、一番最初に面白いものを見せすぎたような気がします。(中略)
個性豊かな演者が多くて、いままでに見たこと無い雰囲気・・・それとパワーに溢れていてよかったと思います。

 審査員を一般公募、ほぼ1年かけて東京近辺の劇団公演を見て回り、参加劇団を選ぶ方式をとっているという。そのせいか、選ばれるのは、おもしろいというか、笑える芝居が多くなりがちとの印象が強い。あと4劇団。今年はどうでしょうか。

 今回上演された「上田展」は「変態男爵 暗黒の脇毛編」。5月10日-11日に麻布die pratze で同「変態男爵 漆黒の乳毛編」公演が開かれる予定です。

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April 23, 2005

ポツドール「愛の渦」

 話題の「ポツドール」が新宿シアタートップスで、新作「愛の渦」を上演しています(4月20日-27日)。どんな物語かというと、「『心底スケベな男女数人が1室に集まって、朝まで好きなだけやる』という、羨ましい衝撃的なストーリー」(NO BUFFET,NO LIFE)「内容としては乱交パーティです。とは言えエロよりむしろ笑いの要素が相当の量」(キミテル日記)だそうです。

 前作「ANIMAL」はラジカセの音楽が大音量で流れ、せりふがほとんど聞き取れないまま終わったとの感想がありました。今回もせりふがあまり聞き取れない個所があったようです。
わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」のqueequeg さんがこの点について、「『何言ってるか分からない』というのはつまり『何か言ってるのは分かる』わけで、つまりコミュニケーションの内容は伝わらなくてもコミュニケーションの形式は伝わる」「あと聞こえないとハビトゥスが前景化される、みたいなことをちょっと思った。というか聞こえない会話の内容を補うためにハビトゥスが動員されるってことだけど」という指摘はなかなか鋭いと思います。

 ぼくらの心的構成に直に変容を迫るのではなく、ぼくらが持ち合わせる心的機序のトリガーを引き、そこからさまざまな感情の渦を湧出させる方法論と言えるでしょうか。これはやり方が極端に違うように見えながら、平田オリザが繰り返し述べている演劇論や演出論、今年岸田國士戯曲賞を受賞したチェルフィッチュ岡田利規の手法にも通底します。

 取材やインタビューで、同調的な態度で相手の言い分を引き出すのか、挑発的な態度で隠された意図や感情を露出させるか、両極端のやり方があるのと似ているかもしれません(この二つだけに限りませんが)。「内部」を引き出したり露出させたりするやり方はさまざまだと思います。こういう手法に関して憶測はいくらでも可能ですが、ポツドールは未見なのでこの辺にとどめたいと思います。

【追記】(5.30)
 ポツドールの舞台はよく「リアル」と言われているようです。具体的にはどういうことか、「Somethig So Right」サイトの今井克佳さんは次のように述べています。

「時間をおってパーティーの様子が描かれていく。最初はどうにもぎこちなく、会話もなく、取りつく島もない居心地の悪さが続き、次第に会話が交わされていくのだが、実際、こういう場所であれば、まったくこうであろうと思われるような、会話の始まり方(なぜか最初は女同士で話し始め、そこに男が言葉をはさもうとして、別の女と会話が始まっていく、というような)の描写がリアルである。
 なぜか最初は女同士で話し始め、そこに男が言葉をはさもうとして、別の女と会話が始まっていく」という個所に、おもわず頬が緩みました。鋭い観察ですね。  また最後にも「リアル」が用意されているようです。
印象的だったのは、店員がカーテンをあけると、明け方の陽の光が部屋のなかに入って一気に入ってくるのだが、この光の表現はすばらしい。本当に一晩空けた、その夜の非日常の時間を終わらせ、日常の世界に戻す陽の光そのものだった。夢の終わり。セリフにもあったが、夜中は局部をあけっぴろげに見せていた女も、恥じらいながら服を着替えている。

 夜と昼。秘密の時間が日常世界に切り替わる瞬間を演出する力が存分に発揮されているように思われます。

 CLP(クリティック・ライン・プロジェクト)の皆川知子さんはこの舞台に関して次のように指摘します。

 性欲というテーマと、リアルな演技が、結びつけられた。その結果、舞台上で暴かれたのは、逆説的にも、私たちの実生活のなかで行われている演技、つまり現実のなかの嘘=フィクションだった。
 先の紹介でも触れましたが、ポツドール公演には、ぼくらを舞台に引きつけつつ、そのことがかえって僕らの内部を浮き立たせることになるという仕掛けが施されているのでしょうか。「欲望に対する演出家のシニカルな視線が、終始、舞台を貫いていた」という締めくくりが鋭く突き刺さってきます。


[上演記録]
ポツドールvol.13「愛の渦」
4月20日-27日、新宿THEATER/TOPS

脚本・演出 三浦大輔
出演 安藤玉恵 米村亮太朗 小林康浩 仁志園泰博 古澤裕介 鷲尾英彰 富田恭史(jorro) 青木宏幸 岩本えり 遠藤留奈 小倉ちひろ 佐山和泉

スタッフ
 照明 伊藤孝( ART CORE design) /音響 中村嘉宏(atSound)/舞台監督 矢島健
 舞台美術 田中敏恵/ 映像・宣伝美術 冨田中理(Selfimage Produkts)
 小道具 大橋路代/衣装 金子千尋/演出助手 富田恭史/ 写真撮影 曳野若菜
 ビデオ撮影 溝口真希子/制作 木下京子/制作補佐 井崎久美子/広報 石井裕太
 企画・製作 ポツドール

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April 22, 2005

メタリック農家「尼」

 メタリック農家「尼」公演が下北沢 OFF・OFFシアターで開かれました(4月8日-12日)。週末は劇場通いという「休むに似たり。」サイトの「かわひ_ 」さんは「メタリック農家の骨太で「堪える芝居」。物語多少ごちゃつきますが飽きずに見られる1h30」と述べています。

 「ハンサム部ブログ」サイトは「物語の本質的なところは良いと思うけれど、いざ戯曲の構成となってみると、ぶつぶつになってしまっているのがもったいない。対話のかみ合わせ、前半はあまり機能していない、後半は面白く観られる」と指摘。「タンツーblog!!」サイトは「夢と現実が入り混じる、狭い舞台をうまく使う ひっじょーによいお芝居」と大絶賛でした。

[上演記録]
メタリック農家「尼」公演
脚本・演出:葛木英
出演:
鞠子 酒井杏菜
寅吉 伊藤一将
聡史 竹井亮介(親族代表)
春実 葛木英
夏枝 古市海見子
鶯   宮本晶子 
慈胤 岩田裕耳
イル  中島徹
慈徳 大川祐佳里

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April 20, 2005

流山児★事務所「High Life ハイ・ライフ」

 カナダの劇作家リー・マクドゥーガルの原作、吉原豊司の翻訳を、流山児祥が演出した舞台。2001年に開かれたカナダ現代演劇祭で作家と翻訳家を迎えて本邦初上演。2003年12月に再演。今回は国内ツアーで札幌・名古屋・大阪公演が開かれました。
名古屋公演をみた「観劇の日々」サイトの「しおこんぶ」さんは「生きること、それ自体の麻薬性を感じることができる舞台でした。個人的にはスッゲー面白かった。お勧め度9(10段階)」と絶賛しています。

 「流山児★事務所」のWebサイトもよるとあらすじは「世のならわしや常識でがんじがらめに縛られた普通人には到底まね出来ない、胸のすくような自由人4人の冒険と失敗譚。登場人物は中年のチンピラ・ジャンキー4人。口八丁手八丁、策士のディック。刑務所から出てきたばかりのバグ。腎臓がイカれてしまったコソ泥ドニー。そして、したたかな二枚目ビリー。男たちが銀行強盗を企むところから物語は始まります。目指すは街角のATM現金自動受払機。一世一代の大仕事を成功させ、田舎に引っ込んで『豊かな老後』を実現しようというデイックとバグ。一儲けして、もう1ラウンド生きながらえようというドニー等、胸のうちはそれぞれ。しかし、壮大な計画は仲間割れで見事に頓挫。元の暮らしに逆戻り…」だそうです。

 翻訳の吉原豊司さんはこの作品で、第9回湯浅芳子賞を受賞しています。吉原さんと演出家の貝山武久さんは「メープルリーフ・シアター」サイトで現代カナダ演劇を詳しく紹介、翻訳作品を頒布しています。興味のある方はご覧ください。


[上演記録]
札幌公演(4月9日-10日、ターミナルプラザ琴似パトス)
名古屋公演(4月15日-17日、愛知県芸術劇場小ホール)
大阪公演(4月19日-21日、梅田HEP HALL)

作/リー・マクドゥーガル
翻訳/吉原豊司
台本・演出/流山児祥
音楽/トムソン・ハイウェイ

出演/千葉哲也・塩野谷正幸・若杉宏二・小川輝晃

照明/沖野隆一 音響/藤田赤目 美術/塩野谷正幸 振付/北村真実
舞台監督/吉木均 映像/島田暁 照明操作/小木曽千倉 音響/畝部七歩
宣伝美術/サワダミユキ 宣伝写真/アライテツヤ 制作/米山恭子
平成17年度文化庁舞台芸術創造団体重点支援事業

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April 19, 2005

アーノルド・ウェスカー作、蜷川幸雄演出「KITCHEN キッチン」

 アーノルド・ウェスカー作、蜷川幸雄演出「KITCHEN キッチン」公演が東京・渋谷のシアターコクーンで開かれています(4月5日-24日)。コクーンのWebサイトで「1959年ロンドンで初演以降、世界22ヶ国、53都市で上演されてきたイギリス現代演劇の傑作です。物語りの舞台はロンドンのレストランの厨房(だけ!)。シアターコクーンの場内中央に仮設の舞台を設置、客席で厨房を挟む形で物語りが進んでいきます」と書かれている通り、「労働現場」としての厨房(調理場)が圧倒的な迫力で迫ってきたようです。

 本業はデザイナー&イラストレーターという「優」さんは「オドソン:カンゲキモード」サイトで「圧巻だったのはランチタイムのシーン。まさに”戦場”のような調理場に豹変した空気に飲み込まれて、芝居を観ているという事をしばし忘れてしまいました」と述べています。「しのぶの演劇レビュー」も「一幕では、早朝からランチタイムまでのチヴォリがダイナミックに迫力満点に描かれます。皿やグラスは実物が出てきますが料理は全てマイムで、それがすごくリアル!役者さんは相当お稽古を積まれていると思います。パティシエ(細かく丁寧で、静か)とコック(動きが激しく、色んな音が鳴る)の動作の違いが面白かった」と賛辞を惜しみません。

 しかしウェスカー作品は階級社会の色濃い英国の現実を踏まえています。「オドソン:カンゲキモード」は、調理場の雰囲気を次のように描写します。

ヨーロッパの歴史はさっぱり分かりませんが、イギリス・ドイツ・キプロス・アイルランドetcと、キャラクターの出身に絡んだ優劣関係が成立していて、「アイツは○○(国籍)だからな!」と差別的発言がごく自然な会話として入っていることに少しショックを受けました。新入りコックのケヴィン(長谷川博己)を誰も名前で呼ばず「おい、アイルランド!」と呼んだり、ドイツ人のコック、ハンス(勝地涼)とユダヤ人の菓子職人ポール(高橋洋)との間に微妙な違和感が存在したり。時代設定が1950年代のロンドンなので、今の時代には受け入れがたい事でも、その頃はそれが当たり前だった、ということなんでしょうね。

 メールマガジン「SANDWICH」(第3号、4月18日発行)に、演出家・演劇批評家の大岡淳さんがレビューを載せました。やはり労働現場のリアルな再現が目にとまったようです。

俳優たちは、食器や調理器具の類は小道具として駆使するが、本物の食べ物は登場せず(戯曲にそう指定されている)、マイムで表現する。マイムの技術の中では、無対象行動と、リアルな対象物を混ぜた動きは難しいとされており、この表現を俳優たちがてきぱきとこなす様からして、見ていて迫力がある。のみならずこの表現を駆使して、戦場のような調理場の様子が再現される様は圧巻。特に一幕の終盤、ウェイトレスたちとコックたちが猛烈なスピードで仕事をこなすくだりは、それだけで一見の価値がある。リアリティはディテールに宿る、とでも言うべきか。(略)労働者の感情やら主張やらではなく、〈労働〉という行為そのものに焦点を絞っている点で、これこそ唯物論的な演劇と呼ぶべきではないか、とすら思わせた。少なくとも、日本で上演された「キッチン」の中では、この蜷川演出が最高傑作であろう。

さらに言葉を継いで、英国社会に向けられた異物としての戯曲の性格を踏まえ、次のように書いていることを忘れてはならないでしょう。

きらびやかな“劇場”には似つかわしくない労働者階級の現実が――決してプロレタリア演劇のような教条的な図式には収まらず――感情も主張も排した具体的なアクションの積み重ねとして舞台上に登場する。(略)  いまどきの観客は、労働者としての自己は直視せず、“消費者”としてのアイデンティティに充足して生きているのだから、その消費行動のただなかにバグを滑り込ませることでしか、もはや社会批判的なメッセージは伝わらないと考えるべきだ。その意味でこの芝居は、渋谷でお買い物をするお嬢さんたちにしかけられたバグである、と評しておきたい。

大岡さんの意見をもっと知りたいととおっしゃる方は、「大岡淳の反資本主義日記」をご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/ooka/

[上演記録]
KITCHEN キッチン
東急bunkamura・シアターコクーン
(4月5日-24日)

作 アーノルド・ウェスカー
改訳 小田島雄志
演出 蜷川幸雄

美術 中越司
照明 原田保
音響 井上正弘
舞台監督 芳谷研

出演者
成宮寛貴
勝地涼
高橋洋
須賀貴匡
長谷川博己
杉田かおる
品川徹
大石継太

鴻上尚史
津嘉山正種 他

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April 18, 2005

うずめ劇場「ねずみ狩り」

 「あの“いまわのきわ”から3年、衝撃の問題作、日本初公開!」というコピーで上演されたうずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』は、オーストリアの劇作家ペーター・トゥリーニの出世作。1971年にウイーンで初演され、非難と賛辞が半ばする曰く付きの作品とのことでした。「いまわのきわ」という優れた作品を紹介した鑑識眼を信頼して劇場に足を運んだ人は少なくなかったに違いありませんが、3月初めの福岡を皮切りに、北九州(3月10日-13日)、東京(4月15日-17日)、そして名古屋(4月22日-24日)という国内ツアーの実際はどうだったのでしょうか-。皮切りの福岡公演をみた「福岡演劇の今」サイトの薙野信喜さんは「演出の力はどこに行ってしまったのだろうか」として次のように述べています。

最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。ここに緊張がないのは、演出も俳優も結末を当然と受け止め、それに向かって障害らしい障害を出すこともなく、スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ。(中略)戯曲と拮抗し火花が散る舞台を期待していたがみごとに裏切られた。ペーター・ゲスナーは、後進を育てることを理由に手を抜いていると見た。全力で取り組んでその力を見せつけることこそ、観客への礼儀であり、いちばんの後進指導ではないのか。  期待がものすごく大きかったので、つい厳しい感想になってしまった。

 演出はペーター・ゲスナーと藤沢友。共同演出とは、実質的には藤沢にほとんど任せ切りということなのでしょうか。薙野さんの指摘通り、ゴミ集積場に車で乗りつけた若い男女が身に着けたものをゲーム感覚で次々に投げ捨てていくプロセスが芝居のへそになるような構造だったように思えます。それにしては確かにふくらみが足りません。なにしろ客席に銃を向けるだけでなく、最後には客席に向かってネズミ呼ばわりしながら乱射する作品なのですから、どういう形であれ観客のコンテキストに作品の世界が収まらなければ、反発どころか無視という、最も望まないそぶりに振れかねません。

 演出に問題が残ったことは確かででしょうが、ぼくはその上、作品選択に関しても、やはりどこかに錯誤があったのではないかという気がします。演出方法とも関連しますが、いまさらこの手の威圧的、一方通行の作品を、どうして日本に紹介しなければならなかったのでしょう。いまの日本はこの手の「威圧」でへこむほど薄い単層構造でできていません。地肌がそれほどまでに荒れていて、よほど工夫しないと緑が育たないと考えた方がよさそうです。アングラ演劇の歴史に詳しいはずのゲスナーなのに、過去に何度も繰り返されたこの手のテーマを蒸し返すのは、いささか目測を誤ったのではないかと懸念します。

 最後に、撃ち殺される男女2人のヌード演出に触れないわけにいかないでしょう。ほとんど予定調和の進行の末に裸になる2人には、お疲れさまとしか言いようがありません。欲望をぎらつかせて交合の仕草をまねたりしながら舞台を飛び跳ねるのですが、肝心の男性のシンボルに生気がなかったのは、その舞台全体が不能だったことの象徴にみえました。反対にそうでなければ、それこそ無粋の極みですし、演劇としての場所を失いかねません。
 30年前はいざ知らず、この作品は日本デビューの時期を見誤ったような気がしてなりません。

[参考]
面白さに◎びっくり」(「福岡演劇の今」サイト「いまわのきわ」評)2002.3
筋書きを逆にたどるオムニバス」(wonderland「いまわのきわ」評)

[上演記録]
◎うずめ劇場第16回公演『ねずみ狩り』
■上演スケジュール
福岡:3月5-6日(ぽんプラザ)
北九州:3月10日-13日(スミックスエスタ)
東京:4月15日-17日(シアターX提携公演)
名古屋:4月22日-24日(第5回愛知県芸術劇場演劇フェスティバル参加)

作 ペーター・トゥリーニ
翻訳 寺尾格
演出 ペーター・ゲスナー/藤沢友
上演台本 うずめ劇場
出演 後藤ユウミ、荒牧大道、藤沢友 他
主催 うずめ劇場
共催 北九州市・北九州市教育委員会
助成 (財)セゾン文化財団、芸術文化振興基金、
(財)アサヒビール芸術文化財団
後援 オーストリア大使館

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April 17, 2005

針ヶ谷プロデュース「二十日鼠と人間」

 米国の作家J.スタインベック原作「二十日鼠と人間」が東京・シアターVアカサカで上演されました(4月14日-17日)。主催の針ヶ谷プロデュースは「新劇、小劇場、学校公演、マスコミ-各方面で活躍するキャスト・スタッフが集まり、一つの作品のアンサンブルを創りあげていく、俳優・針ヶ谷修のプロデュース公演」だそうです。この作品は、同じ作者による「怒りの葡萄」「エデンの東」などと同じように、映画化されているほど有名です。実際のステージはどうだったか、小畑明日香さんからレビューをいただきました。

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 開演に遅刻してしまった。劇団関係者の方本当にごめんなさい。

 舞台の使い方が典型的なヨーロッパ演劇、という感じだ。最前列の演技スペース、そこに入ってくる通路、一番奥の遠景と三段に舞台が分かれていて、遠景の役者は風景の一部に徹している。最前列は必ず部屋の中だから、入り口以外のところから新たな役者が入ってくることはできない。
 
 映画化もされているというこの話は、知恵遅れの怪力男レニーと友人のジョージを軸に、アメリカの農場で起こる話だ。

 小作人の二人は、自分達の家と土地を手に入れるために働く。協力者も現れて順調に夢は実現に向かうが、知恵遅れと怪力が災いし、レニーは誤って女性を殺してしまう。ジョージは河原で、兎小屋のある十エーカーの土地の話をしながら、レニーを後ろから射殺する。

 友人がたまたま映画のファンだったので楽しみにしていたが、予想したほどは泣けなかった。
 なんだか詰めが甘い。

 喧嘩っ早くてわがままなハーリーに対して、小作人のジョージは最初から強気な態度を取る。ハーリーは雇い主の息子だ。レニーとジョージは新入りで、おまけに手違いで契約時間に遅れている。明確に身分の違いが示されているのに、いきなり喧嘩売ったりしていいのかよジョージ。それともアメリカではそれが普通なのか。レニーが馬鹿にされたから怒ったんだ、と思わせるには、我慢している時間が少ない。ジョージに限らず他の小作人たちも、主従関係を意に介しているようには見えない。色目を使って歩く、カーリーの妻にも脅威を感じないようだ。

 抑圧があるから、夢を語る口調にも熱意がこもるのだと思う。ハーリーがレニーに喧嘩を仕掛けて逆に怪我しても、場の皆がレニーに味方する。理屈は分かるが嘘っぽい。そうした主従関係への意識の欠如が、一幕目の展開を冗長に見せていた。

 作中に登場する子犬だって、小道具なんだからもうちょっと凝った方がいいと思う。力加減を誤って殺してしまった子犬をレニーが投げるシーンがあるのだが、床に犬が落ちると
「さきゅっ」
とビーズの音がするのだ。ラストシーンでも使われるのだし、素材にも気を遣ってほしかった。ここが嘘になると、怪力ゆえに、大好きな小動物を殺してしまうレニーの哀しさも頭でしか理解できなくなる。

 詰めの甘さを多々論じてきたが、反面、舞台美術に関する神経は行き届いている。大掛かりな場転のため完全暗転はできないでいたが、青いライトを浴びて作業する人達が、農場で働く人達に見える一瞬があって興味深かった。布を床に敷いて納屋の藁を表現するのも、効果的に作用していたと思う。

 日本の近代劇の原点になった欧米形式の芝居を観れただけでも勉強になった。今度ぜひ映画を観ようと思う。
(小畑明日香、2005.4.17)

[上演記録]
針ヶ谷プロデュース「二十日鼠と人間」
 東京・シアターVアカサカ(4月14日-17日)

出演
レニー   針ヶ谷 修
ジョージ  佐藤 太
キャンディ 角谷 栄次(劇団 民芸)
カーリー  日花 一善
スリム   亜南 博士
カールソン 今井 徳太郎(劇団ギルド)
ホィット  藤井 としもり
クルックス 吉岡 扶敏(劇団 民芸)
ボス    元山 裕隆
カーリーの妻 秦 由香里(演劇集団 円)

スタッフ
作/J.スタインベック
訳/守輪 咲良
演出/鷲田 照幸 ・ 阿南 聡
美術/塚本 祐介
照明/北島 雅史
音響/城戸 智行 (オフィス新音)
制作/Youko
制作協力/ぷれいす
チラシ画/深作 廣光

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April 16, 2005

楽園王「ELECTRIC GARDEN」

 楽園王「ELECTRIC GARDEN」公演が東京・荒川区の町屋ムーブで開かれました(4月13日-15日)。「デジログからあなろぐ」サイトの「吉俊」さんはここまでカバーしているか、というほどまめに都内の小劇場に足を運んでいて、この公演のレビューもしっかり書いています。

とても綺麗ではある、私は好きなタイプだ・・・テクノイズな音楽のノリ+照明効果・・・抽象的な世界を場面展開で次々に語っていく。半円形舞台で、中心の舞台を取り囲むように座った客席の後ろでも役者が演じる。対面の客の後ろの役者を見たり、後ろからの声を聞いたりと、舞台の使い方は変わっていましたね。
 その後、役者の演技、場面転換など「スタッフワークでのセンスのよさ」を指摘しています。ただ「芝居の雰囲気と語られる脚本の親和性」などバランスに欠けるとの苦言も。

 これは神楽坂と麻布に劇場拠点を持つ die pratze 主催の「M.S.A.Collection2005」シリーズの一つ。中野成樹(POOL-5)+フランケンズ「ラブコメ」に次いで2回目の観劇でした。

 舞台はある若い会社員が、不良とみられる男を次々に殺害したという設定で始まります。殺害事実は認めているのに、動機が不明。取り調べと同時進行で、会社員の家庭や幼少期の出来事が、過去のフラッシュバックと語りかける死者たちとの遣り取りなどから浮かんできます。
 ステージらしい舞台は見あたりません。フロアーにパイプで組み上げた客席が三方にあり、劇が始まると間もなく、いわゆる正面にあったキャスター付きの大型組み立てパイプが移動して、死者らの居場所になったりします。フロアー付近から青白い照明がサーチライトのように闇に走り、ノイズ風のテクノ音楽があるときは低くある時は強く轟音のように響いてきます。
 娘(生者と死者に二重化されている)の引きずるような足取りと音節をずらした発語が平仄を合わせ、確かに言葉が生起するどろどろした部分のイメージは伝わってきます。低くかすかに響く鈴の音が、幽明の境を行き来する合図のようにも聞こえました。

 楽園王のWebサイトによると、この作品は「は1992年春、当時田端にあった田端ディプラッツにて初演。楽園王旗揚げ1年目のことである。現実と非現実の境界線を曖昧にし、迷宮的な物語と、それが翻って現実を浮き彫りにする長堀戯曲の特徴を強く持った作品の一つ。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を護身用に常時携帯していた時期の執筆から影響が強く、また現実に起こったある凄惨な事件を扱ったことから何より恐怖感を感じる作品となった」とあります。

 初演から13年たっての再演。作品の構成は余り変わっていない印象を受けます。調べ室と死者との会話、過去のフラッシュバックなどが入り組んで時には理解不能状態になりました。ツァラトゥストラという言葉が表現されるコンテキストも「お母さんのために薬になる言葉を探す」というフレーズも客席に飛び込まず、宙をさまよっているように感じられました。

 主宰・演出の長堀博士は、利賀演出家コンクール2004で、イヨネスコ作「授業」で優秀演出家賞を受賞しています。別の作品で力量のほどを味わいたいと思いました。


[上演記録]
楽園王「ELECTRIC GARDEN」
 町屋ムーブ(4月13日-15日)

作・演出 長堀博士
出演 松の秀明、大畑麻衣子、塩山真知子、杉村誠子、小林奈保子、二階堂洋右、田中新一、植村せい、岩崎雄大、嶋守勇人、辻崎智哉、小田さやか、吉田郷子、丹生谷真由子(OM-2) ほか

スタッフ 照明:南出良治、音響:齋藤瑠美子、選曲/美術:長堀博士、舞台監督:田中新一、宣伝美術:小田善久、制作:楽園王オフィス

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April 14, 2005

双数姉妹「ラバトリアル lavatorial」

 双数姉妹「ラバトリアル lavatorial」公演が東京・新宿のTHEATER/TOPSで開かれました(4月1日-10日)。

しのぶの演劇レビュー」は「久しぶりに拝見したのですが、ストーリーも演出もとても面白かった」と述べています。どんなお話なのでしょうか-。「Badlands ?映画と芝居と音楽と?」は次のように紹介します。

舞台上にはトイレのセットで、正面に男性用の小便器が3つ、その横には個室が2つ並んでいる。掃除のおばさん(野口かおる)が清掃をしていると、気弱そうな男ノムラ(今林久弥)がひとり逃げ込んできて、個室に閉じこもってしまう。それを追うようにやってきた二人組。ヤギサワ(小林至)とフルイド(佐藤拓之)は、TV局のプロデューサーとディレクターだった。どうやらノムラは、原稿が出来ない脚本家で、ヤギサワとフルイドは、なんとか書き上げるようにと脚本家を宥めすかして出て行く。 昔から公演日ぎりぎりまで本を書き上げることができない脚本家だったノムラには、かつて小さな劇団の座付作家だった時代に、台本の内容をめぐり劇団の女優マサメ(帯金ゆかり)を追い詰めてしまった苦い思い出があった。一方、掃除のおばさんにも、やはり脚本家だった恋人を失った過去があった。舞台は、個室に閉じこもることになったおばさんとノムラのやりとりから、ふたりの昔話が再現され、やがてそれが現在の物語とシンクロしていく。

某日観劇録」は「脚本家の苦労という点では時に細かすぎるほど丁寧に描いているのですが、芝居全体については「それで?」というレベルに留まってしまったという印象です。あちこちに客演するほど実力十分な役者のそろっている劇団ですが、今回は主人公である脚本家(今林久弥)以外の登場人物の印象があまり残りません」と書いています。

デジログからあなろぐ」は次のように指摘しています。

物語構造として丁寧な印象を受ける・・・新しいものを追求する姿勢よりも、描くべき言葉を描くための舞台を作っている。 内面世界と向き合う場所としてのトイレが、スクリーンに内的記憶を排泄する場所として書かれている。 トイレの性質を逆手に取った事で、そこに1つのメッセージが付加されてしまったといえる・・・同じ話を「トイレ」というキーワード無く書くことは容易ではあるが、きっと作家性を巡る物語にしかならなかっただろう。 トイレのトイレ性とでも言うべき人間が共通して持つ感覚を、作家というか1人の人間に投影させることで、1つ内面に入った物語に仕上がったという気がする」と

a piece of cake !」は「彼らの芝居にはどこか、大学の演劇サークルの青臭く、懐かしい香りがする。いや、これは決して悪口ではない」。また「Badlands ?映画と芝居と音楽と?」は役者らを次の通り褒めています。

役者は全員いい。男性陣では、主人公の脚本家を演じる今林久弥、声がとても魅力的な小林至、そして佐藤拓之あたりが特に目立ったが、それ以上に女優陣が素晴らしい。ワケあり掃除婦の野口かおるは不思議な存在感で、場にユーモラスな空気をもたらす。それと対照的に、神経症的な雰囲気をふりまく井上貴子。大きな成長を遂げたのが吉田麻起子。女優陣の中では突出して可愛らしく、それ故に前作では一人浮き上がっていた感もあったが、今回は彼女がそこにいる必然性をしっかりと感じさせてくれた。まだまだ「頑張って演技をしている」という感じが透けて見えるが、今後の更なる成長に期待がかけられる。そして一番の見物は北京蝶々から客演の帯金ゆかり。あの得体の知れぬ存在感は一体何だろう? ぜひ他の芝居も見てみたいと思わせる力に満ちていた。


[上演記録]
双数姉妹「ラバトリアル lavatorial」
THEATER/TOPS提携公演
2005年4月1日〈金〉~4月10日〈日〉

脚本・演出:小池竹見
出演:佐藤拓之 今林久弥 野口かおる 井上貴子 五味祐司 小林至 吉富光宏 中村靖 阿部宗孝 大倉マヤ 近藤英輝 吉田麻起子
帯金ゆかり(北京蝶々)

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April 12, 2005

演劇実践集団デスペラーズ「或る告白」

 あとから言えばまったく思い込みだったのだけど、デスペラーズという劇団名から何となくお笑いかな?と思って私は客席にいた。ところが全くの見当違い。まずプロローグ。敗戦直前にB29からパラシュートで降下してきた米兵を日本国民の総意の代行と信じて殺した元日本兵浅倉(吉田智則)が主人公。それが進駐してきたアメリカ軍によっていま捜査中、逮捕されれば戦争犯罪人として処刑は確実。それを、アメリカ生まれ?!の元戦友の友情によって偽名の身分証をもらい、行方をくらますことになる……と始まっていく。アメリカは広島、長崎に原爆落としたと米兵殺しの正当性を言う浅倉に、オッ、イラクの今と比べて敗戦後の日本人はどうしてあんなに簡単にアメリカにナツイテしまったのだろうとかねがね疑問に思っていた私としては、これは硬派。憎んだアメリカと友情受けたアメリカと、引き裂かれた日本人の私たちはさてどうするかの芝居だな、と身を引き締めた。日本演劇史上かつてなかった問題意識であり、真摯なテーマではないか!!

以下、全文をこ覧ください。

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April 11, 2005

中野成樹(POOL-5)+フランケンズ「ラブコメ」

 「白鳥のめがね」サイトは東京・麻布のディー・プラッツで開かれた中野成樹(POOL-5)+フランケンズ「ラブコメ」(原作/モリエール『女房学校』)をみて、「喜劇としてのテンポの良さみたいなものはなく、緩慢なリズムが持続する」と押さえたあと次のように指摘しています。

たぶん、主人公の男を嘲笑したおすというのが、本来のモリエールの戯曲のねらうところであり、それをテンポ良く畳み掛けて取り違いのドラマの中で策に溺れて翻弄される様を見せるところに喜劇としての面白みがあるということになるだろうが、そのテンポを思いっきり落として、スローテンポな舞台を作ることで、喜劇的枠組みの中のドラマの側面がむしろ浮かび上がる。

 4月に入って、横浜STスポットでも同じ公演がありました。「白鳥のめがね」サイトはここもフォローして、主人公ド・ラ・スーシュが夢見ていたアニェスとの結婚が挫折する結末が、麻布ディー・プラッツ版と横浜STスポット版では微妙に違ったと指摘しています。

今回、その男の描写がちょっと違っていた。前回は退場してしまったド・ラ・スーシュは、今回は、自分が育て上げ、結婚しようとしていた娘の部屋へと放心したように歩み入って、呆然とあたりを見回すようにして、終わる。 自分の計画すべてが崩壊したところで、自分のしたことを苦渋と共に思い返す男、というところだろうか。なんというか、喜劇の主人公を人間味ある存在に変えて、喜劇の内なるドラマを救い出すようなものになっているというところだろうか。

[上演記録]
◎中野成樹(POOL-5)+フランケンズ 『ラブコメ』(原作:モリエール『女房学校』)
 3月28日-29日、麻布die pratze
 4月08日-10日、横浜・STスポット

構成・演出=中野成樹
出演=村上聡一 福田毅 野島真理 石橋志保

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April 09, 2005

フォルクスビューネ「終着駅アメリカ」(続)

 フォルクスビューネ「終着駅アメリカ」に関して、いつにもまして公演評が多くネットに掲載いされたようです。先に4月2日付で紹介しましたが、さらに本日、以下のレビューを追記しました。

 「大岡淳の反資本主義日記」は「フランク・カストルフ演出『終着駅アメリカ』に関する限り、確かに『過去の上演史を参照する』手法がここでも採用されているのだけれど、一点大きく異なるのは、その『参照』という作業を施した痕跡が、あからさまに舞台上に露呈してしまっている」と指摘。「各場冒頭の舞台の設定を指示するト書き」の処理に関して詳細に分析しています。
 大岡さんは他のメーリングリスト(舞台研究MLエウテルペ)でもこの公演について言及しています。

 また「わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」のqueequegさんは原作の固有名詞を読み替えている個所を列挙しながら「原作においては交換可能な記号に過ぎなかったものが、そのコノテーションを思いっきり引き出されて政治とサブカルのにぎやかなコラージュを織り成してる。まあそうとうベタっちゃベタな世界観だけど、まあ普通に楽しい」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:38 AM | Comments (0) | Trackback

April 07, 2005

青年団「御前会議」

 青年団「御前会議」(こまばアゴラ、3月17日-30日)公演が「春の団まつり2005」シリーズに組み込まれて開かれました。『ヤルタ会談』『忠臣蔵・OL篇』に続く、平田オリザの会議シリーズ第3弾です。

 このWonderlandサイトの常連執筆者だった松本和也さんは4月から独立。自分のwebログサイト「現代演劇ノート~〈観ること〉に向けて」で「御前会議」公演を「政治・形式・紋切型 」のタイトルで取り上げました。「平田オリザの新作『御前会議』は、『もう風も吹かない』にも増して、90年代に培われた平田戯曲の文法(スタイル)に忠実に、しかも体裁としてはよりシンプルに、それでいて会議という場に縦横かつ動的に仕掛けられた関係の網目は複雑に、(当たり前だが)『演劇入門』の作劇法を見事なまでに生かした佳作だったように思う」と切り出しています。

 平田作品は初めてという「演劇時評」の中村隆一郎さんは「平田オリザの重層的な問題意識が平明な言葉で語られ、人間が構成している社会というものの本質にも迫る、知的なユーモア漂う傑作と言っていいと思う」とまとめています。その上で、野田秀樹の手法との違いや、昭和天皇の「お言葉」に関する引用など、興味深い考察があります。

 「デジログからあなろぐ」サイトは「一見町内会のメンバーと、共通項の無い幾つかの議題、それらは殆どなんの解決案も提示されないままにどんどん先送りにされていく・・・それは何故であろうか? つまり、この会議は、結論を出したくない会議なのである」と指摘。責任の所在が不透明で、むしろ中心が空っぽなのに、人間関係の部分で議論が熱くなる日本的な体質が浮き彫りにされているようです。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:32 AM | Comments (0) | Trackback

April 06, 2005

燐光群「屋根裏」

 2002年5月に初演、8月に追加公演するなどこれまで何度か上演された燐光群の「屋根裏」がいま全国ツアーの最中です。1月末から2月半ばまで米国ツアー、2月末から伊丹、北九州、金沢、熊本、岡山と回り、3月末から4月16日まで東京の梅ヶ丘BOXで公演。その後、松本、相模原まで続く予定です。

 北九州で上演された舞台を「福岡演劇の今」サイトを主宰している薙野信喜さんが「見せつけられる、大きな構成」という題で次のように書いています。

奥の深い題材をみごとに表現する、大きすぎるほどの構成と圧倒的な切れ味―予想を裏切り続ける展開にもうワクワクした。  ズシリと重い内容とそのための強烈な仕掛けがあるのに、その表現は簡潔で軽やかにさえ見え、含蓄と余韻たっぷりだ。

 この作品は2002年度の読売文学賞戯曲部門賞受賞作となり、紀伊國屋演劇賞、読売演劇大賞[最優秀演出家賞]受賞も併せて受賞しました。燐光群の代表作と言っていいでしょう。

 初演時のパンフに掲載されたあいさつで、主宰者の坂手洋二は次のように記しています。

そう、私は生かされている。いつも、私以外の誰かの存在の御陰によってだ。(中略) これほど劇団員の一人一人をすべて生かそうと思って書いた戯曲は過去にそれほどない。これでがんばれなかったら、みんな俳優や劇団員などやめたほうがいい。私も座付作者を気取ることなどやめてしまおう。  必要なことは、演劇の楽しさである。それが人生の楽しさになるべく、努力したい。こんな脳天気な言い方にこそに厳しさがあるのだとは、このアトリエに辿り着く前の私は、まだ認識し得ていなかったかも知れない。

 生かし生かされる、極当たり前の日常生活が濃密に書き込まれ、この作品のモチーフがさりげなく感じられる一文だと思われます。
 ぼくも02年8月公演と今回の東京公演をみましたが、基本的な考え方は変わりません。以前のレビューは「虚実すれすれ、緩急自在な世界」をご覧ください。

Posted by KITAJIMA takashi : 12:15 AM | Comments (0) | Trackback

April 05, 2005

風琴工房「機械と音楽」

 CLP(クリティック・ライン・プロジェクト)サイトで、皆川知子さんが風琴工房の「機械と音楽」公演(ザ・スズナリ、2005年3月9日-16日)を取り上げています。

 皆川さんによると、物語は「1917年、ロシアの10月革命が成功した夜にはじまる。構成主義の建築家イヴァン・レオニドフを主人公として、ロシア・アヴァンギャルドの芸術家たちがモダニズムを求めて戦い、敗れるまでを描いた群像劇」です。
「レオニドフを演じる役者はまた、革命詩人マヤコフスキーの役も兼ね」「2人の芸術家を一人の役者の上に重ねあわせることで、一見相容れない機械と言葉が、同じ美――つまり人間の幸福を求めて、ともに血を流しているのだと語りかける」と指摘。「芸術における革命のために戦い、苦悩し、絶望した芸術家たちに深い共感を寄せながらも、人間に幸福をもたらすべき真の革命の困難を、冷厳な現実として描き出し」(中略)「観終わった後、私はしばらくことばを失った」と述べています。

[上演記録]
風琴工房code19「機械と音楽」(ザ・スズナリ、2005年3月9日-16日)
脚本・演出:詩森ろば
出演:倉品淳子(山の手事情社) 久保田芳之(reset-N) 鈴木歩己(グリング) 小高仁(第三エロチカ)好宮温太郎(タテヨコ企画)平山寛人(机上風景) 、広田豹、松岡洋子、椎葉貴子、山ノ井史、宮嶋美子、笹野鈴々音
音楽:寺田宏
舞台美術:長田佳代子
照明:関口裕二
音響:青木タクヘイ

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April 04, 2005

1176エグリントン「naivete」

 「デジログからあなろぐ」サイトが、1176エグリントンの「naivete」公演を取り上げました。英語だとナイーブですが、フランス語で何も知らない、愚かなというニュアンスをもつ言葉だそうです(制作日記)。

 「今回の作品は、言葉で感じるという事をさせてくれない作品でした・・・そもそも『言葉』が殆ど無いのですから、言葉を解釈するなど到底無理」。「一番おもしろい!と思ったのは、照明でした」と語り、「照明に促されるように物語が進んでいく」ようすをつぶさに描写して、「語る照明」と名付けています。

 エグリントンは芸術監督の荒木英俊(脚本・演出家)と「惑星ピスタチオ」で活躍していた福岡ゆみこの2人ユニット。「舞台効果や舞台美術、音響、照明、そして役者の演技を融合させ、言葉を視覚的、思想的イメージと等価に近づけていく」作風と、自分たちの特徴を述べています。また「身体感覚を/呼び覚ます/演劇を作ります」とも言っています。みたことのない私にも、ぼんやりながら、イメージがつかめそう。次回はぜひ、足を運びたい集団です。


[上演記録]
1176エグリントン「naivete ナイヴェテ」公演
[日時、会場]2005年4月1日-3日、麻布 die pratze
[作・演出]荒木英俊
[出演]
福岡ゆみこ、中島美紀(ポかリン記憶舎)
泉 光典、入交 恵
村島智之、楠木朝子(劇団桃唄309)

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April 02, 2005

フォルクスビューネ「終着駅アメリカ」

 東京国際芸術祭(TIF)の掉尾を飾ったのは、ドイツからやってきたフォルクスビューネ「終着駅アメリカ」公演でした(3月25日-28日、東京・世田谷パブリックシアター )。テネシー・ウイリアムズの戯曲「欲望という名の電車」をほぼ踏襲した脚本ながら、舞台をアメリカの低所得者向けワンルーム住宅に据え、ブランチは屋敷を売り払って妹ステラ夫婦の家にやって来る、ステラの夫スタンリーはポーランドの元「連帯」幹部という設定です。演出は92年以降、芸術総監督を務めるフランク・カストルフ、舞台美術は大胆な仕掛けで知られるベルト・ノイマンです。
 風琴工房主宰、詩森ろばさんのwebログサイト「LIVESTOCK DAYS」は「仕上がりはメチャクチャコミカルで、猥雑。ポップでロックでパンクでチャーミング」とした上で、次のように書き留めています。

ドリフの如き笑劇であり、前衛的なダンスであり、深いテーマ性を孕んだウェルメイドであり。そんなことが並び立つんだなあ、と深く感じ入り、なんか演劇の可能性ってスゴイって、思っちゃいましたよ。

 「(この作品の)台詞を隅から隅まで覚えている」という「しばいにっき」の筆者は「ここまでウィリアムズを解体するとは! 乱暴で出鱈目で面白いことこの上なし。カストロフが元東独のパンク演劇野郎だということがよくわかった」と気持ちの高ぶりを抑えきれないようです。「ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。」も「超刺激的で、いかにも現代的」と話しています。

 コンテンポラリーダンスなどに詳しい「dm_on_web」は「それで実際の舞台はというと、2時間40分もあるのに全然飽きなかったというのが凄いことは凄いのだけど、全く想像の範囲内というか、自分が改めて演劇に興味ないのだということをまざまざと見せつけてくれるような良質さ」と述べ、その上で「ライヴの演劇」が持つ性格に疑問を投げかけています。

 TIFの「劇評通信」ページで、ドイツもこの舞台をみている立教大学教授新野守広さんは、劇中に使われた音楽について、こう記しています。

ルー・リード、ベルベット・アンダーグラウンド、ニコ、ロキシー・ミュージック、ドン・マクリーン(『アメリカン・パイ』)、ジュリー・ドリスコルをはじめとして70年代アメリカのカウンター・カルチャーの音楽がここぞとばかりに流れる中で、第二のインターナショナルとも言われた「ワルシャワ労働歌」が耳にこびりついて離れず、そのリズムに思わず身体が反応して行進をはじめてしまうブランチは、アメリカへの違和感を全身で表現しているとともに、一旦身に染み付いた社会主義国家の現実を捨て去ることの難しさを暗示してもいるだろう。資本主義のオルターナティヴとしての社会主義はもはやなく、一方資本主義には人間を剥奪する力が荒れ狂っている。だが人間は生きる力を捨ててはいない。それを示すのがフォルクスビューネの演劇なのだ。

 この公演に関するプレス資料(PDF)はいつもながら詳細です。主催者側がこれほど充実した情報を提供するケースは珍しいのではないでしょうか。海外の劇団公演などでは助かります。

 ただフォルクスビューネのフルネームは「フォルクスビューネ・アム・ローザ・ルクセンブルグ・プラッツ」。ローザ・ルクセンブルグ広場にある国民劇場という意味でしょうが、ローザとはどういう人物だったか、彼女の名前を付けた広場にあることことをわざわざうたっているkとに意味があるかなど、どこかに書いてあると参考になったと思います。

追記(4月8日)
 「大岡淳の反資本主義日記」は「フランク・カストルフ演出『終着駅アメリカ』に関する限り、確かに『過去の上演史を参照する』手法がここでも採用されているのだけれど、一点大きく異なるのは、その『参照』という作業を施した痕跡が、あからさまに舞台上に露呈してしまっている」と指摘。「各場冒頭の舞台の設定を指示するト書き」の処理に関して詳細に分析しています。
 大岡さんは他のメーリングリスト(舞台研究MLエウテルペ)でもこの公演について言及しています。

 また「わぁ。(驚きに満ちた小さな悲鳴)」のqueequegさんは原作の固有名詞を読み替えている個所を列挙しながら「原作においては交換可能な記号に過ぎなかったものが、そのコノテーションを思いっきり引き出されて政治とサブカルのにぎやかなコラージュを織り成してる。まあそうとうベタっちゃベタな世界観だけど、まあ普通に楽しい」と述べています。

Posted by KITAJIMA takashi : 06:52 PM | Comments (0) | Trackback

April 01, 2005

チェルフィッチェ「ポスト*労苦の終わり」

あたし的にわァ、めっちゃ面白かった。っていうかあ、こんなのありなんだあ!ってびっくりしたっていうかあ、なるほどなって感心したっていうかあ。しばらく見てて舞台で何しようとしてるか、あたし的にィ、もちろん作・演が何狙ってたんだかなんて、岡田利規さんにチョク聞いてェだけどオ、聞いてもそんなん、口で言えるようなら舞台創らんと言われるに決まってるしィ、決まってないかも知れないけどそういうものじゃない?ってとこあるしィ、だからアあたし的にだけどオ、解ったと思ってからはア、同じこと同じように繰り返しィ話されるとオ、話す人は同じじゃなくて変わったりするんだけどオ、そいでもあんまり同じこと何度も話すとオ、もち、意図的にやってるんだから笑っちゃうんだけどオ、笑っちゃいながらちょっと眠くなったっていうかあ、意識が遠のくってこともあったりしてェ、そっと見まわしてア結構目ェつぶってる人、あたしだけじゃないじゃんなんて、ほっとしなかったと言うとオ嘘になるけどオー、でもやっぱ行ってよかったっていうかあ、見とくべきだったー、見なかったらぜーんぜん損しちゃったんじゃないかなーって、そーんな気持ちみたい、なあんて言ったりして――。

全然うまく真似できなかったけど、チェルフィッチェ「ポスト・労苦の終わり」の言葉はちょっとこんな感じ。話し手の内心がそもそもあやふやな上に、それでもより的確に言い表そうとさ迷いもがくので、言葉はまるで金魚のウンコみたいに延々と続いていく。聞き手への気遣いというか、自分の言葉がどう受け取られるか相手の立場にたってみる想像力もないではないので、言葉はさらに紆余曲折し止めどない。身振りもそう、言葉との内的関係が切れているから、体はまるでどうしたらいいか分からないみたいにふにゃふにゃよじれ、手は意味なく手近の壁を這ったり相手の方に差し伸べられ、しかしくねくねと届かない。

横浜STの空間をそのまま使った白い壁。出入りできない出入り口が二つ。客席の後方から、まるで遅れて来た客といったふうの女性が前列へ出てきてスタンドマイクに向かい、町でみかけた、喧嘩してた夫婦の話をします、と始まって行く。そしてそれから、その二人は暫くは一緒に住んでから、じゃなかったかなと思うんだけど、とにかく別れて、そのたしか2年後の話になって、別れた妻は部屋を探してて、もう一人の部屋を探している女性とルームシェアすることになって、けれども、そのもう一人の女性を誰かが好きになったらしく、その誰かは舞台に出てこないのだけど、その誰かの友達っていう男の話によると、ま、いっか、すぐいっしょに住もかって話になって、けど最初の、別れた妻のほうにしてみれば、別に反対するわけじゃないけど、シェアしている部屋の契約更新料ちょうど払ったばかりだし……今度はちょっと文体似た、かしら?……といったような話が延々と続いていく(第1幕)。

話すのは最初に出てきた女性と、あともう一人の女性と三人の男性。代わる代わる話す。内容はどっかのミーティングか結婚式場でたまたま関係ない人のスピーチが耳に入ってきてしまったみたいな、聞いてもいいし聞かなくてもいいし、いかにもエエ加減な同棲、現代だなあと感心してもいいし主体性ないなあと呆れてもいいし、そんなこと思ったところでどうせすぐ忘れてしまうだろうし、要するにどっちでもいい話。それも、妻と女性の話は二人の女性がそれぞれ話すからまだ混乱はないにしても、夫のほうの話は二人の男性が交替で話すし、いっしょに住もかの男の話は本人ではない、友達と称する男性が話すので、いよいよ主体がぼけていく。誰が話そうと大した違いはないってわけだ。考えて見ればこの話、そもそも彼ら彼女ら自身の身の上ではなく、町でみかけた夫婦とその知り合い?の話だった。話の主体なんて最初ッからありはしなかったのだ。

岡田利規の言葉は「超リアル日本語」と言われているらしい。日本語は「源氏物語」の昔ッから主語なし、述語でちゃんと分かる言葉であったから、ただ主語を言わなかったり語順をテレコにしたり語尾を曖昧にしたりするぐらいではなかなか現代のリアリティを掬い取ることは難しい。が、彼は、ただ言葉をらしくしようとしただけでなく、いったい誰の話やらどうでもいい人の話を採り、つまりと要約すればせいぜい10分で済む話にその10倍もの時間をかけ、さらにその話を誰がなぜするのか、当事者と話し手を替え、その話し手をさらに替えたりずらしたり,――きわめて知的な戦略を施すことによって「超リアル」と感じさせることに成功した。曖昧で不確かな身振りとともに一つの新しい可能性を開いたと言えよう。交互に話す彼らを横から写すカメラとテレビ画面。ときに掌に書いたクイズ?を画面に大写しにしたりして、物語への同化を絶ったのもなかなかの仕掛けであった。身振りにまだまだ工夫の余地ありでは? あれから町のワカモノをいやにジロジロ眺めるようになってしまった私にはそう思われるけれども。

タイトルに「ポスト」がくっついていたのは、前作「労苦の終わり」の改訂版だったからとか。部屋をシェアしている女性が結婚して出て行くなら、その空いた室に元の夫が戻ってくる可能性もないではない。が、あしたは部屋を探しにいこうというその夜、女性は、元妻の愚痴だったか何かの話を聞かされて一睡もできず、出かける気力も体力もない。が、しかし男の友達が話すには、女性は翌朝、敢然と?!男と部屋探しに出かけて行った――と思ったら、それは夢だったと友達は話す。客席は思わず失笑。女性は白い壁のいちばん隅っこ、ペットボトルを口に押し当て、じっとうずくまって萎えたまま――というところで第2幕は終わる。タイトルどおりご苦労さま、でした――。

 岡田の絶望は深い。客席の笑いが彼の唯一の望みであった。   (2005.03.21)

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