11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

May 24, 2005

少女単体「料理教室」

ことこ・本と花びら大回転!」サイトのkotokoさんが「少女単体 シークレットライブ 料理教室」の詳細な報告を載せています(5月17日、西荻WENZスタジオ)。
 じつはwonderlandにも、「少女単体」主宰苅谷文さん名の招待メールが届きました。残念ながら当日は都合がつかなくて行けず。ネット上での評価、評判も極端に分かれているのに、詳しい状況が霧の中。どういうライブか知りたいと思っていたところでした。実際の状況は見る人によって違うかもしれませんが、結成から過去のライブの出来事やテレビのドキュメンタリー番組出演のあれこれ、そして今回のライブの実況などリアルです。

少女単体」(しょうじょたんたい)は苅谷文さんののソロプロジェクト。自作戯曲を上演するために2003年12月に設立、デビュー公演は04年2月だそうです。その後の公演、ライブがネット上でも物議を醸し、2004年日本インターネット演劇大賞(えんぺ大賞)の話題賞になったりしています。

Posted by KITAJIMA takashi : 09:33 PM | Comments (0) | Trackback

May 23, 2005

bird's-eye view 「un_titled」

 bird's-eye viewのステージは前からみたいと思っていました。知人に誘われて勇躍、出向いた結果は正解でした。文句なく楽しい舞台、極上の演劇体験でした。以下、前後のいきさつを知らないまま、臆面もなくまとめてみた文章です。焦点を絞ったので全体の目配りがかけているかもしれません。乞うご容赦。

◎コードを揺さぶる言語ゲーム bird's-eye view の「un_titled」公演

 こまばアゴラ劇場でbird's-eye view の「un_titled」公演をみました(5月11日-22日)。
 おもしろい。あまりおもしろすぎて、涙が出るほど笑いました。うわさの演劇ユニットの初体験でしたが、テキストのロジカルな処理と構成の妙、それに演じている俳優の楽しそうなようすが伝わってきます。評判通りの才気と才能を堪能した一夜でした。

 舞台は透明アクリル板らしきもので仕切られた空間がメーンになっています。左右と奥の余白は、出入りする廊下の役割。アクリル板のドアを開閉して俳優が登場する仕掛けです。

 冒頭、俳優が大勢現れて(前後左右3人ずつ9人だった?)アゴラの狭いステージで踊ります。といってもただ踊るわけではなく、ある規則性があるように感じられました。両手を挙げる。水平と垂直。腕の関節を直角に。斜め前方に曲げる。首と頭を左右に。開脚30度…。などなどの動作をユニゾンでそろえるのはまれで、互い違いにいくつかの動作を組み合わせ、前後左右が異なりながら統一したイメージを残しています。どんな規則性か正確に言い当てられませんが、パズルをはめ込むような知的な作業だったのではないかという気がしました。

 この集団はダンスも衣装もステキですが、テキストの扱いが特に印象的でした。いくつかのことばの規則を決め、それぞれ身近に適用した連作形式を取るのです。例えば「…でない」というルールを定めた場面(話)が登場します。

 それがお芝居かと言えば、いわゆる芝居ではない。コントかと言われれば、いわゆるコントではない。ダンスかというと、ダンスでもない。混じり合っているのかと言えば、そうとも言えない-。
 舞台のせりふを真似ると、こんな感じでしょうか。仮に「…でない」というルールを「否定則」と名付けてみましょう。この否定則は、名詞だけでなく形容詞や動詞など、この場面のせりふすべてに厳しく適用されます。

 自分で初発の言葉の場合は適用を免れるようですが、他者の問いかけにはこの規則がまとわりつくことになります。恋人に好意を打ち明けようと「ぼくのこと、好き?」と尋ねると、返ってくるのは「好きではない」。逆に恋人から「わたしのこと、好きなの?」と聞かれて、ルールに縛られているので否応なく「好きではない」と答えてしまいます。恋敵が逆手を取って「ぼくが嫌いだよね」と尋ね、彼女から「嫌いではない」という返答をゲットするのと対照的な遣り取りでした。

 名詞に関しては、一般名詞も固有名詞も等しく適用されます。事実上「名付け」が禁じられるのです。父親が出勤しようとするのに、家族との会話で身動きできなくなってしまう場面がありました。父親は「出勤しない」「そこはドアではない」「父ではない」などなどの言葉に囲まれます。家族の口からこういう言葉が出るだけでなく、家族がが差し向ける問いに対して、自分でもそう答えざるを得ないのです。固有名前と続柄が否定されれば、家族の関係は無化されざるを得ません。自分がだれで、どこに属しているか、どんな関係の網の目に育ったかという履歴(歴史)が自他ともに取り結べなくなってしまうからです。

 これは、日常なにげなく使っている言葉に、特定の禁止あるいは拘束のルールを持ち込んでみるというゲームでした。人間関係がもつれたり歪んだりして、そこに予期せぬ笑いが生まれます。さらにある種の緊張関係が、舞台から伝播してきたように思えます。言葉ゲームの枠を超え、友人や恋人といった2者間関係だけでなく、家族のつながりをも空白にしてしまうからでしょうか。お腹が痛くなるほど笑いつつ、どこかでドキッとする自分に気付かされるのです。

 もうひとつ、忘れがたいルールがありました。「言動反復則」とでも言いましょうか。鏡のような対象性だったかどうか記憶が定かではありませんが、相対する人に向き合って、同じように手足を動かし、相手の言葉をオウム返しに繰り返すのです。まねするのが女性、まねされるのは男性。「まね女」は男の部屋に突如現れます。恋人が訪ねてきたら、男の部屋に見知らぬ女性がいるのですから、穏やかに済むはずがありません。

 先の否定則が究極的には自分を取り巻く関係を無化して存在の条件を剥奪しているのに対し、言動反復則は自分の模倣=コピーに直面するという逆のベクトルを描いていました。終幕近く、ステージの奥で鏡を使って無限の鏡像を映し出すシーンもそのだめ押しだったのでしょうか。一方では「名付け」が禁じられ、他方では「名付け」が複数存在することになる。こうなると文字通り「un_titled」であるほかないと思われます。

 しかもこういう対照的な右往左往がしかつめらしい相貌をまとうことなく、ユーモラスに、コミカルに、しかもリズミカルに展開されるのです。その練達した技に感心しました。

 そのほかにもゲームルールがあったようですが、ぼくが受けたイメージはこの二つが強烈でした。どちらも、ふだんは疑うことなく「生きている」現実のコードを、演劇的操作を通じて前景化していると言っていいでしょう。友人、恋人、夫婦の暗黙の了解から、集団、組織、民族、国家の文化的政治的コードにまで射程をのばすことも可能かもしれません。

 これらのコードが絶対であるはずがありません。ゲーム上でも、突如ルールが崩壊する場面がちゃんと用意されていました。自分の言動をまねする女に手を焼いていた男が、最後に突然、女の胸に手を触れるのです。すると女は、フリーズしてしまいます。言動反復則のルールが崩れる瞬間です。セクシャルな行為の多義性をあらわにする場面でした。

 この演劇ユニットは、演出家が提起したコンセプトをエチュードで骨肉化していくそうです。禁則ルールを舞台で生き生きさせたのは、ひとえに稽古場でのたたき合いがあったからに違いありません。そのうえでの舞台ですから、俳優が生き生きしていたのは言うまでもないでしょう。ぼくが観劇した5月17日のステージは、特に出来が良かったと聞きました。ぼく(ら)が楽しかったのは、彼ら彼女らが楽しんでいるステージの余熱のようなものだったかもしれません。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、2005年5月23日)


[上演記録]
bird's-eye view 「un_titled」
こまばアゴラ劇場(5月11日-22日)

構成+演出_内藤達也

出演
杉浦理史
小野ゆたか
大内真智
日栄洋祐
松下好
山中郁
近藤美月
後藤飛鳥
小手伸也(innerchild)
櫻井智也(MCR)
森下亮(クロムモリブデン)

スタッフ
音楽  岡屋心平
舞台美術  秋山光洋
照 明  榊美香[I's] 
音 響  ヨシモトシンヤ
振付  ピエール
舞台監督  藤林美樹
コスチューム   伊藤摩美 
写真  引地信彦
宣伝美術 石曽根有也 
演出助手  明石修平
プロデューサー 赤沼かがみ
制作  山崎華奈子、保田佳緒

Posted by KITAJIMA takashi : 10:30 PM | Comments (0) | Trackback

May 20, 2005

桜会「P―天才って何?―」

  正直言うと、はじめちょっと驚いた。たとえば久しぶりの再会なら両手を大きく開いてちょっと後ろへ重心を移してから駆け寄っていって相手を抱きしめるといった、日本人離れした身のこなし。たとえば背筋をぴんと立てたままで話すちょっと気取った?言い回しのせりふ、せりふ。むか~したくさん見た翻訳劇を思い出したからだ。近ごろ稀な「新劇」正統派って感じである。

以下、全文をごらんください。

Posted by : 09:01 AM | Comments (0) | Trackback

May 18, 2005

reset-N 「Valencia」

 reset-N の「Valencia」公演が5月の連休中、ザ・スズナリで開かれました(5月3日-8日)。明快な劇言語と作劇法を持った実力派という印象の劇団ですが、「しのぶの演劇レビュー」によると、今回はこんな出だしのようです。

舞台はトダ(平原哲)とツゲ(原田紀行)が共同経営している小さなヘアサロン。2人の他にはアシスタントの女の子アズサ(丸子聡美)が働いている。今どきの若者らしい、ひょうひょうとしたリラックスムードの店内。閉店後の夜中にトダを訪ねてくる女がいる。その女はルミ(町田カナ)。ある仕事でトダに助けられて以来の縁。2人は急速に接近して・・・。

踊る芝居好きのダメ人間日記」は俳優に「底力」がついてきたと前置きして、「脚本や演出にも、そういう余裕みたいなもが現れて来ていて、笑いの間が上手く作れるようになった。つまり、アーティステックな作風から、よりエンターテイメントな作風に移行しつつあると思います。すっかり丸くなったとも言えるでしょうが」と指摘しています。

「しのぶの演劇レビュー」は今公演のの特長を「ヒリヒリするほど熱くて暴力的なシチュエーションを、極力ストイックにミニマムに凝縮するから、とんでもなくヤラしいんです。「秘すれば花」の世界ですね。だけど出すところはバシっと出す。そのさじ加減が絶妙です。また、今回は笑いがたくさんありましたねー。すごくウケてたし、私もいっぱい笑ったなー。演技の間がいいし、脚本も最後の最後まで笑えるように詰められていて確実なのです」と述べています。

早稲田の学生らが運営する「Review-lution! on-line」サイトで、小畑明日香さんは俳優の特色に触れながら「目の前で芝居をしても『映画っぽい』と思わせる力は役者にあったのだ。どんなに叫んでも唾の飛ばない台詞回しや、足音が気にならない歩き方。変に味があるよりは難しい」と書いています。


[上演記録]
reset-N Valencia
http://www.reset-n.org/jp/valencia/index.html
作・演出 夏井孝裕
下北沢 ザ・スズナリ(5月3日-8日)

出演
町田カナ/久保田芳之/篠原麻美/原田紀行/平原哲/綾田將一/長谷川有希子
岩本幸子(イキウメ)/丸子聡美
奥瀬繁(幻の劇団見て見て)

グランドデザインmassigla lab. 夏井孝裕/荒木まや/浅香実津夫/福井希
舞台監督 小野八着(Jet Stream)
宣伝美術 quiet design production
宣伝写真 山本尚明
制作 秋本独人、森下富美子、河合千佳
照明協力 木藤歩(balance,inc)
Web製作 松下好

Posted by KITAJIMA takashi : 11:40 PM | Comments (0) | Trackback

May 16, 2005

ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」

 連休が明けてもまだボーっとしています。あまりにも怠惰に過ごしすぎた報いかもしれません。連休中にみたステージで最も印象に残ったのは、ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」公演でした。彼らのステージは初めて。以下、妄想をまとめてみました。いつものことながら、遅くなってすみません。

◎モノクロ・ステージの不思議感覚

 ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」を世田谷・シアタートラムでみてきました(5月2日-3日、第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加)。ほとんどモノクロの舞台、言葉数の少ないテキスト、1人か2人の男たちが次々に登場、振幅の大きな声や動作を繰り返すパフォーマンス構成など、不思議な感覚に浸されたステージでした。
 2003年初演の作品の再演。このユニットの舞台は初めてなので、どこがどう変わったのか分かりませんが、選ばれての参加作品ですので、おそらくこのユニットの基本形が提示されているような気がします。
 ステージは、白い砂が支配していたと言ってもいいと思います。ほとんどモノクロに染められた空間を、ヒンドゥー五千回のWebサイトはこう描写しています。

白い砂がしきつめられた空間。
二脚の椅子と、天井に向かって伸びる一本の梯子がある。
そこはどうやら地下にあるらしく、
梯子の先からの差し込む光が、薄ぼんやりと砂地を照らしている。
誰かがそこに砂を運び入れたのか、また何かが長い年月をかけて風化し、
そうなったのか、その辺りのことは定かではないが、
そこが美しい場所であることは、どうやら間違いないようだ。

背景はほぼ黒一色。白砂とのコントラストがくっきりした舞台です。いすはハシゴを挟んで左右対称に、向き合って置かれています。「ますだいっこうのこと」サイトはこの舞台を「皮膚から空間を感じるようなヒンヤリした感覚」と表現していました。巧みな比喩だと思います。

最初、上手のいすに男が腰掛けています。反対側のいすには古びた消火器の箱がおかれています。この赤さび色の塗料が剥げかけた箱に、男が話しかけるところから始まります。次に殴り殺してしまった死体の処理にうろたえる男2人。手に持った訳書を交互に読み上げる男2人。かつて会ったことがあると主張する男と記憶がないと言い張る男のまたまた2人組。本を読み上げる声がだんだん大きくなったり、記憶のない男を声高になじったり、追い駆け回したり。こういう独立した数個のエピソードの組み合わせが登場し、確か最後はまた、男と消火器箱の組み合わせになったと記憶しています。

こういう舞台構成は、音楽の楽曲形式を強く意識しているような気がしました。モチーフの提示、変奏、さらに変奏または繰り返し、モチーフへの回帰。しかし元のままの回帰ではなく、少しずつ崩れたり壊れたり、時間という関数に挟まれて不可避の変形を被っているのです。時の経過による物体や関係の崩れを定着させようというのが、この作品(演出)のねらい所だったのでしょうか。

その意味で、殴り殺された死体の男(扇田 森也)がステージを軽やかに駆け回る姿が最も印象に残りました。裸の上半身はやや薄白く化粧され、白っぽいショートパンツと併せて身体の生臭さを消しています。まず目につくのは長い手でした。手首や腕の関節を折り曲げる動作が身体全体と調和しています。円弧を描くときのしなやかな動きも可動範囲が広く、遅からず早からずとてもスムーズでした。陳腐な表現ですが、鶴のように舞うイメージを想像していただけばいいかもしれません。そぎ落とされたというより、若さ特有の無駄のない身体が音もなく駆け回り、跳躍するのです。生者のどたばたした動きと対照的に、軽々と動く死者。ほれぼれするシーンでした。

舞台で飛び交ったテキストは残念ながらうまく取り出すことができません。辛うじて記憶に残っているのは「いのちは一つ、うまく出会ったかどうかが問題」「どうして僕らが会ったことを忘れてしまうのか」「死んだら身体は骨になり、やがて砂に変わる」「自分を埋めてくれる誰かに出会いたい」などの断片だけです。記憶があやふやで、引用したことばも正確ではないと思います。またことばにどれほどの重さを持たせたのかも測りかねるのですが、ぼくがことばの群れから想起したのは「ゴドー待ち」のぼんやりした影でした。

この作品では、「待つ」対象は第3者に仮託されることなく、2人の男の間に直接的関係として固着されます。登場人物が1人だけの設定でも誰かや何かを強烈に求め、しかし関係はいずれも崩れてしまいます。というより、あらかじめ壊れていることを前提に構成されたシーンで一貫しているような気がしました。それだけ切なさが、見終わった後にもじんわり感じられるのではないでしょうか。

このステージをみた「しのぶの演劇レビュー」サイトの高野さんは、音楽の音量、せりふや動作のダイナミックな変化を採用する演出に触れ、「それをヒンドゥー五千回の個性だと言うのも可能ですが、私にはまだまだ発展途上の実験段階で、これからもっと洗練させられる余地があるように感じられました」と指摘しています。

彼らが洗練に向かうのか、ハメツに向かうのか(!)は分かりません。どちらにしろ、しばらくは「実験」に付き合ってみようかと思せる魅力を感じました。


[上演記録]
ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」
第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加
世田谷・シアタートラム(5月2日-3日)


構成・演出
扇田 拓也


出演
谷村 聡一
久我 真希人
結縄 久俊
向後 信成
藤原 大輔

宮沢 大地
鈴木 燦
谷本 理
扇田 森也


●スタッフ
演出助手 藤原 大輔
舞台監督 松下 清永
美術   袴田 長武(ハカマ団)
照明   吉倉 栄一
音響   井上 直裕(atSound)
宣伝写真 降幡 岳
宣伝美術 米山 菜津子
制作   関根 雅治 山崎 智子

●企画・製作
ヒンドゥー五千回
●主催
財団法人せたがや文化財団、フリーステージ実行委員会

Posted by KITAJIMA takashi : 05:08 PM | Comments (2) | Trackback
 1  | 2 |  3  |  4  |  5  | all pages