11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

May 31, 2005

B級遊撃隊『破滅への二時間、又は私達は如何にして「博士の異常な愛情」を愛するようになったか』

 名古屋を拠点に活動しているB級遊撃隊の公演『破滅への二時間、又は私達は如何にして「博士の異常な愛情」を愛するようになったか』 が愛知県芸術劇場小ホールで開かれました(5月13日-15日)。タイトルはスタンリー・キューブリック監督の映画「博士の異常な愛情又は私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」のもじりですが、劇団のWebサイトによると、映画の原作ピーター・ブライアントの「破滅への二時間」という米ソ冷戦時代の核戦争の騒動を描いた小説にインスパイアされ、舞台を現在の日本にしたB級遊撃隊のオリジナル作品だそうです。

 アメリカの原子力潜水艦が日本海沖に潜航し、突如単独で北朝鮮に対し宣戦布告。北朝鮮はアメリカの宣戦布告とみなし、同盟国の日本や米軍基地へミサイル発射の準備態勢に入った。アメリカからは国家機密として処理したいとの連絡が入り日本の首相ら政治家は右往左往。しかし時間は容赦なく過ぎてついにミサイルが…。

 「#10の観劇インプレッション」サイトは次のように指摘しています。

 今回の舞台にはあの映画(キューブリック監督作品)以上に圧倒された。(略)  気の触れた米軍将校が勝手に戦争を始め、政治家は必死でそれを止めようとする構図は映画と同じだ。しかしこの舞台ではもうひとつ、ゲームという要素が加わる。プレイヤーが政治的な判断を下して日本の将来を決めるというゲームの描写が、次第に現実の政治家たちと混ざり合い、プログラマーの手を離れて暴走する。
 ゲームの場面では、極端に左寄りの道と極端に右寄りの道がいずれも滑稽に演じられる。ぼんやり観ていると政治的メッセージ性の強い作品と勘違いしかねない。しかしこの作品が伝えようとしているのは政治ではなく社会、あるいは個人の意識の問題だ。どちらを選択するかではなく、選択するとはどういうことかを問いかけてくる。

観劇の日々」サイトの「しおこんぶ」さんは次のように述べて「お勧め度8(10段階)」にしています。

 国防問題に関しての質問にYesかNoで応えていき、選択を間違えるとミサイルが打ち込まれてしまうというシュミレーションゲームに見立てて芝居が展開していく。現実的には選択肢が2択なんてことは無いのですが、これを2択にすることで問題を単純化してみたり、窮屈な選択を迫っておいて、酔っ払いのオッサンが居酒屋で議論しているようなレベルで総理大臣や国防庁長官を登場させるあたりは本当に巧いなと思います。あまりにも滑稽で、現実と非現実の間に見事に落としてくれました。

 第5回愛知県芸術劇場演劇フェスティバル参加作品。7月に大阪公演が予定されているようです。東京公演を期待したいですね。

[上演記録]
破滅への二時間、又は私達は如何にして「博士の異常な愛情」を愛するようになったか
愛知県芸術劇場小ホール(5月13日-15日)

作: 佃 典彦
演出:神谷尚吾
出演:
佃 典彦/神谷尚吾/山口未知
斉藤やよい/池野和典/山積かだい
徳留久佳/向原パール
/江副公二/加藤裕子

舞台監督:近藤朋文
照明   :坂下孝則
音響   :後藤佳子
衣装   :上海リル’S
小道具  :才谷組
大道具  :江副組
宣伝美術:純と寝々
協力   :飯田真司・石原淳
制作   :Y企画

Posted by KITAJIMA takashi : 03:36 PM | Comments (0) | Trackback

May 29, 2005

ポツドール「愛の渦」(続)

 遅くなって申し訳ないのですが、ポツドール「愛の渦」公演について、先の紹介に興味深いレビューを2つ追加します。

 ポツドールの舞台はよく「リアル」と言われているようです。具体的にはどういうことか、「Somethig So Right」サイトの今井克佳さんは次のように述べています。

時間をおってパーティーの様子が描かれていく。最初はどうにもぎこちなく、会話もなく、取りつく島もない居心地の悪さが続き、次第に会話が交わされていくのだが、実際、こういう場所であれば、まったくこうであろうと思われるような、会話の始まり方(なぜか最初は女同士で話し始め、そこに男が言葉をはさもうとして、別の女と会話が始まっていく、というような)の描写がリアルである。
 と述べています。「なぜか最初は女同士で話し始め、そこに男が言葉をはさもうとして、別の女と会話が始まっていく」という個所に、おもわず頬が緩みました。鋭い観察ですね。  また最後にも「リアル」が用意されているようです。
印象的だったのは、店員がカーテンをあけると、明け方の陽の光が部屋のなかに入って一気に入ってくるのだが、この光の表現はすばらしい。本当に一晩空けた、その夜の非日常の時間を終わらせ、日常の世界に戻す陽の光そのものだった。夢の終わり。セリフにもあったが、夜中は局部をあけっぴろげに見せていた女も、恥じらいながら服を着替えている。

 夜と昼。秘密の時間が日常世界に切り替わる瞬間を演出する力が存分に発揮されているように思われます。

 CLP(クリティック・ライン・プロジェクト)の皆川知子さんはこの舞台に関して次のように指摘します。

性欲というテーマと、リアルな演技が、結びつけられた。その結果、舞台上で暴かれたのは、逆説的にも、私たちの実生活のなかで行われている演技、つまり現実のなかの嘘=フィクションだった。
 先の紹介でも触れましたが、ポツドール公演には、ぼくらを舞台に引きつけつつ、そのことがかえって僕らの内部を浮き立たせることになるという仕掛けが施されているのでしょうか。「欲望に対する演出家のシニカルな視線が、終始、舞台を貫いていた」という締めくくりが鋭く突き刺さってきます。
Posted by KITAJIMA takashi : 05:09 PM | Comments (0) | Trackback

May 28, 2005

ポタライブ「吉祥寺『断』」

 街頭のパフォーマンスは以前から見受けられますが、単純に下手くそだったり観客を暴力的に操作する悪癖がついて回ったりして敬遠しがちでした。しかし岸井大輔さんが始めたポタライブは全く違うようです。「白鳥のめがね」サイトの柳澤さんが、5月22日の「吉祥寺『断』」に「参加」したようすを書き記しています。

 柳澤さんによると、ポタライブは「『散策しながら楽しむライブ』という意味の造語」だそうです。吉祥寺駅前に集合し、ポタライブ主宰の岸井さんが案内人として町の再開発の歴史やエピソードを紹介していくのですが、中央分離帯や車道、ビルの谷間などにパフォーマーが配置され、町のたたずまいや物語のなかにとけ込んでいるとのことでした。ちょっと長めになりますが、以下の文章を引用します。

そうしたパフォーマンスは、ちょっとした虚構を現実に紛れ込ませることで、街が秘めていたドラマを浮き立たせるように作用していた。普段街を歩いているときには気に留めない様々な情報が眼に飛び込んできて、街を歩く一般の人々の姿が、独特のパフォーマンスのように印象深く見えてくる。
市街地の情報を引き立てるように、あまり虚構が過剰にはならないようにしつつ、しかし、市街地の情報に埋もれてしまわない程度には目立つものでなければならない、その絶妙なバランスがここでは達成されている。(略)
街頭でパフォーマンスすることは様々に試みられてきているだろうし発想としては珍しくないと思う。だが、問題は、その発想を方法に高めることができているかどうかだ。岸井さんが進めてきた「ポタライブ」の試みには、町並みの歴史を掘り起こしてくる確かな手法の蓄積がある。そこから、現代の生き方に瑞々しいものを吹き込む可能性が、様々な仕方で、大きく広がっていると思う。

報告は描写的なので、街のイメージ、その場の空気が立ち上ってくるような気がします。ぜひ、柳澤さんのサイトで全文をご覧ください。

5月のポタライブの日程は、主宰者岸井さんのWebサイトによると次の通りです。

■船橋編「ふねのはなしは、ないしょのまつり」
 5月7日、8日 14:00~16:00
 JR船橋駅南口改札前まちあわせ

■小金井編「かわあそび」
 5月14日、15日 15:00~18:00
 JR武蔵小金井駅南口改札前まちあわせ

■吉祥寺編「断」
 5月21日、22日 19:00~20:00
 JR吉祥寺駅中央口改札前まちあわせ

■市川編「うみをまつ」
 5月28日、29日 15:00~18:00
 JR市川駅中央口改札前まちあわせ

■吉祥寺編「斜」
 5月12日、26日(木曜日) 20:00~21:00
 JR西荻窪駅改札前まちあわせ

ご予約は、potalive@yahoo.co.jpまで!

Posted by KITAJIMA takashi : 11:45 PM | Comments (0) | Trackback

May 27, 2005

蜷川 幸雄演出/大竹しのぶ主演『メディア』

 東京・渋谷のシアターコクーンで、蜷川 幸雄演出/大竹しのぶ主演『メディア』が上演されています。5月6日-28日の長丁場。いよいよ終盤に差し掛かっていますが、演劇記者の山関英人さんから蜷川さんへのインタビューを踏まえた劇評が届きました。ご覧ください。

◎女の生理で演出を一新 大竹しのぶの『メディア』

 蜷川幸雄の世界デビューとなった作品『王女メディア』。ギリシャでは、1983年、アテネにあるリカヴィトス劇場で上演され、当時、ギリシャ以外の国の人間が同地でギリシャ悲劇を演じるのは有史以来、と言われた。今回は、演出を一新し、「男の論理」に対する「女の生理」を前面に出した。28日までシアターコクーンで上演されている。翻訳も新しくして、題名も『メディア』(賢い人という意味)に改変。男性だった主役とコロスを、全員女性に入れ替えた。

 この物語は究極の、女による復讐劇である。母親が子殺しをして、夫に復讐する「最高の悲劇」で終幕を迎える。その母であり妻である役を演じるのは大竹しのぶ。「翻訳劇の文体を、日本人が生理的にも違和感を持たないでやれる女優」として蜷川は高く評価している。

 大竹の身体には「最果ての地から連れて来られた異民族」を象徴する刺青が施され、衣装の右半身には綻びが目立つ。その露わになった太ももが白く光って、生々しい。短くした頭髪は「2人で相談した結果」(蜷川)であり、この場合も異民族を意識した。「坊主にする」ことまで検討したという。

 印象に残ったのは外見だけではない。淀みのないことばの連続は音楽を奏でるようで心地よい。怒りを含んだ台詞からはエネルギーが迸り、全身を粟立たせる。叫びの声は重みを伴って、観客席に響いた。

 一方、コロスの装いも目を惹いた。子を背負う母親のようであり、孫を背に乗せた老婆のようでもあった。蜷川は「男は観念でしか子どもと接しないけれど、女は生理で関わる。へその緒で繋がってたんだからね。そういうことも含めて、子どもを抱いているということは、一番本質的に、『メディア』という芝居の中ではいいかな」と思ったという。ただ、母親であり老婆でもあるのは「複雑にしたかった、女性の存在をね」という狙いもあったようだ。

 舞台全面に張られた水からも母性が窺えた。羊水を想像させ、胎内を意識させる。それが決定的だったのは、幕切れに舞台後方にある扉を「開門」し、シブヤの空気を劇場に取り入れたことである。2500年前の作品世界と現代の連続性を想起させるとともに、最高の悲劇があろうとも、人は産み落とされ、生き続ける、という宿命を意識せずにはいられなかった。

 扉の開放を決めたのは初日の前日だった。そのために「さまざまな苦労をみんなに強いた」という。せっぱ詰まった中、その作業のために、5時間ほどの遅れが出た。そうまでしたのは「かつての『メディア』より俺は進化しているか」という蜷川自身の問いであり、「自分自身への闘い」だった。その答えは「すべて舞台にある」。〈文中敬称略〉
(山関英人・演劇記者)


[上演記録]
蜷川 幸雄演出/大竹しのぶ主演『メディア
(東京・シアターコクーン、2005年5月6日-28日)

【スタッフ】
作: エウリピデス
翻訳:山形 治江
演出:蜷川 幸雄
美術:中越 司
照明:原田 保
衣裳:前田 文子
音楽:笠松 泰洋
音響:井上 正弘
ヘアメイク:佐藤 裕子
振付:夏貴 陽子
演出助手:井上 尊晶
舞台監督 :小林 清隆

【キャスト】
メディア: 大竹 しのぶ
イアソン:生瀬 勝久
クレオン:吉田 鋼太郎
アイゲウス:笠原 浩夫
メディアの乳母:松下 砂稚子
守役:菅野 菜保之
報告者:横田 栄司
コロス :市川 夏江/土屋 美穂子/井上 夏葉/江幡 洋子/羽子田 洋子/難波 真奈美/スズキ マリ/太田 馨子/関根 えりか/栗田 愛巳/坪井 理奈 ほか

Posted by KITAJIMA takashi : 09:54 AM | Comments (0) | Trackback

May 25, 2005

チェルフィッチュ岡田利規インタビュー(後編)

 今年の岸田國士戯曲賞を受賞したチェルフィッチュ主宰岡田利規さんのインタビュー(パート2)を掲載しました。パート2は横浜STスポットでのダンスとの出会い、「超口語」スタイルの芝居にも台本が欠かせない理由、そしてチェルフィッチュの方法論を踏まえて古典劇を上演したい、などなどが展開されています。参考情報もできる限り盛り込みました。
 企画当事者が言うのもおかしなものですが、長尺インタビューで読みごたえ十分、しかもおもしろいと思います。聞き手は、早くからチェルフィッチュ演劇の可能性に着目していた柳澤望さんです。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:27 AM | Comments (0) | Trackback

May 24, 2005

少女単体「料理教室」

ことこ・本と花びら大回転!」サイトのkotokoさんが「少女単体 シークレットライブ 料理教室」の詳細な報告を載せています(5月17日、西荻WENZスタジオ)。
 じつはwonderlandにも、「少女単体」主宰苅谷文さん名の招待メールが届きました。残念ながら当日は都合がつかなくて行けず。ネット上での評価、評判も極端に分かれているのに、詳しい状況が霧の中。どういうライブか知りたいと思っていたところでした。実際の状況は見る人によって違うかもしれませんが、結成から過去のライブの出来事やテレビのドキュメンタリー番組出演のあれこれ、そして今回のライブの実況などリアルです。

少女単体」(しょうじょたんたい)は苅谷文さんののソロプロジェクト。自作戯曲を上演するために2003年12月に設立、デビュー公演は04年2月だそうです。その後の公演、ライブがネット上でも物議を醸し、2004年日本インターネット演劇大賞(えんぺ大賞)の話題賞になったりしています。

Posted by KITAJIMA takashi : 09:33 PM | Comments (0) | Trackback

May 23, 2005

bird's-eye view 「un_titled」

 bird's-eye viewのステージは前からみたいと思っていました。知人に誘われて勇躍、出向いた結果は正解でした。文句なく楽しい舞台、極上の演劇体験でした。以下、前後のいきさつを知らないまま、臆面もなくまとめてみた文章です。焦点を絞ったので全体の目配りがかけているかもしれません。乞うご容赦。

◎コードを揺さぶる言語ゲーム bird's-eye view の「un_titled」公演

 こまばアゴラ劇場でbird's-eye view の「un_titled」公演をみました(5月11日-22日)。
 おもしろい。あまりおもしろすぎて、涙が出るほど笑いました。うわさの演劇ユニットの初体験でしたが、テキストのロジカルな処理と構成の妙、それに演じている俳優の楽しそうなようすが伝わってきます。評判通りの才気と才能を堪能した一夜でした。

 舞台は透明アクリル板らしきもので仕切られた空間がメーンになっています。左右と奥の余白は、出入りする廊下の役割。アクリル板のドアを開閉して俳優が登場する仕掛けです。

 冒頭、俳優が大勢現れて(前後左右3人ずつ9人だった?)アゴラの狭いステージで踊ります。といってもただ踊るわけではなく、ある規則性があるように感じられました。両手を挙げる。水平と垂直。腕の関節を直角に。斜め前方に曲げる。首と頭を左右に。開脚30度…。などなどの動作をユニゾンでそろえるのはまれで、互い違いにいくつかの動作を組み合わせ、前後左右が異なりながら統一したイメージを残しています。どんな規則性か正確に言い当てられませんが、パズルをはめ込むような知的な作業だったのではないかという気がしました。

 この集団はダンスも衣装もステキですが、テキストの扱いが特に印象的でした。いくつかのことばの規則を決め、それぞれ身近に適用した連作形式を取るのです。例えば「…でない」というルールを定めた場面(話)が登場します。

 それがお芝居かと言えば、いわゆる芝居ではない。コントかと言われれば、いわゆるコントではない。ダンスかというと、ダンスでもない。混じり合っているのかと言えば、そうとも言えない-。
 舞台のせりふを真似ると、こんな感じでしょうか。仮に「…でない」というルールを「否定則」と名付けてみましょう。この否定則は、名詞だけでなく形容詞や動詞など、この場面のせりふすべてに厳しく適用されます。

 自分で初発の言葉の場合は適用を免れるようですが、他者の問いかけにはこの規則がまとわりつくことになります。恋人に好意を打ち明けようと「ぼくのこと、好き?」と尋ねると、返ってくるのは「好きではない」。逆に恋人から「わたしのこと、好きなの?」と聞かれて、ルールに縛られているので否応なく「好きではない」と答えてしまいます。恋敵が逆手を取って「ぼくが嫌いだよね」と尋ね、彼女から「嫌いではない」という返答をゲットするのと対照的な遣り取りでした。

 名詞に関しては、一般名詞も固有名詞も等しく適用されます。事実上「名付け」が禁じられるのです。父親が出勤しようとするのに、家族との会話で身動きできなくなってしまう場面がありました。父親は「出勤しない」「そこはドアではない」「父ではない」などなどの言葉に囲まれます。家族の口からこういう言葉が出るだけでなく、家族がが差し向ける問いに対して、自分でもそう答えざるを得ないのです。固有名前と続柄が否定されれば、家族の関係は無化されざるを得ません。自分がだれで、どこに属しているか、どんな関係の網の目に育ったかという履歴(歴史)が自他ともに取り結べなくなってしまうからです。

 これは、日常なにげなく使っている言葉に、特定の禁止あるいは拘束のルールを持ち込んでみるというゲームでした。人間関係がもつれたり歪んだりして、そこに予期せぬ笑いが生まれます。さらにある種の緊張関係が、舞台から伝播してきたように思えます。言葉ゲームの枠を超え、友人や恋人といった2者間関係だけでなく、家族のつながりをも空白にしてしまうからでしょうか。お腹が痛くなるほど笑いつつ、どこかでドキッとする自分に気付かされるのです。

 もうひとつ、忘れがたいルールがありました。「言動反復則」とでも言いましょうか。鏡のような対象性だったかどうか記憶が定かではありませんが、相対する人に向き合って、同じように手足を動かし、相手の言葉をオウム返しに繰り返すのです。まねするのが女性、まねされるのは男性。「まね女」は男の部屋に突如現れます。恋人が訪ねてきたら、男の部屋に見知らぬ女性がいるのですから、穏やかに済むはずがありません。

 先の否定則が究極的には自分を取り巻く関係を無化して存在の条件を剥奪しているのに対し、言動反復則は自分の模倣=コピーに直面するという逆のベクトルを描いていました。終幕近く、ステージの奥で鏡を使って無限の鏡像を映し出すシーンもそのだめ押しだったのでしょうか。一方では「名付け」が禁じられ、他方では「名付け」が複数存在することになる。こうなると文字通り「un_titled」であるほかないと思われます。

 しかもこういう対照的な右往左往がしかつめらしい相貌をまとうことなく、ユーモラスに、コミカルに、しかもリズミカルに展開されるのです。その練達した技に感心しました。

 そのほかにもゲームルールがあったようですが、ぼくが受けたイメージはこの二つが強烈でした。どちらも、ふだんは疑うことなく「生きている」現実のコードを、演劇的操作を通じて前景化していると言っていいでしょう。友人、恋人、夫婦の暗黙の了解から、集団、組織、民族、国家の文化的政治的コードにまで射程をのばすことも可能かもしれません。

 これらのコードが絶対であるはずがありません。ゲーム上でも、突如ルールが崩壊する場面がちゃんと用意されていました。自分の言動をまねする女に手を焼いていた男が、最後に突然、女の胸に手を触れるのです。すると女は、フリーズしてしまいます。言動反復則のルールが崩れる瞬間です。セクシャルな行為の多義性をあらわにする場面でした。

 この演劇ユニットは、演出家が提起したコンセプトをエチュードで骨肉化していくそうです。禁則ルールを舞台で生き生きさせたのは、ひとえに稽古場でのたたき合いがあったからに違いありません。そのうえでの舞台ですから、俳優が生き生きしていたのは言うまでもないでしょう。ぼくが観劇した5月17日のステージは、特に出来が良かったと聞きました。ぼく(ら)が楽しかったのは、彼ら彼女らが楽しんでいるステージの余熱のようなものだったかもしれません。
(北嶋孝@ノースアイランド舎、2005年5月23日)


[上演記録]
bird's-eye view 「un_titled」
こまばアゴラ劇場(5月11日-22日)

構成+演出_内藤達也

出演
杉浦理史
小野ゆたか
大内真智
日栄洋祐
松下好
山中郁
近藤美月
後藤飛鳥
小手伸也(innerchild)
櫻井智也(MCR)
森下亮(クロムモリブデン)

スタッフ
音楽  岡屋心平
舞台美術  秋山光洋
照 明  榊美香[I's] 
音 響  ヨシモトシンヤ
振付  ピエール
舞台監督  藤林美樹
コスチューム   伊藤摩美 
写真  引地信彦
宣伝美術 石曽根有也 
演出助手  明石修平
プロデューサー 赤沼かがみ
制作  山崎華奈子、保田佳緒

Posted by KITAJIMA takashi : 10:30 PM | Comments (0) | Trackback

May 20, 2005

桜会「P―天才って何?―」

  正直言うと、はじめちょっと驚いた。たとえば久しぶりの再会なら両手を大きく開いてちょっと後ろへ重心を移してから駆け寄っていって相手を抱きしめるといった、日本人離れした身のこなし。たとえば背筋をぴんと立てたままで話すちょっと気取った?言い回しのせりふ、せりふ。むか~したくさん見た翻訳劇を思い出したからだ。近ごろ稀な「新劇」正統派って感じである。

以下、全文をごらんください。

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May 18, 2005

reset-N 「Valencia」

 reset-N の「Valencia」公演が5月の連休中、ザ・スズナリで開かれました(5月3日-8日)。明快な劇言語と作劇法を持った実力派という印象の劇団ですが、「しのぶの演劇レビュー」によると、今回はこんな出だしのようです。

舞台はトダ(平原哲)とツゲ(原田紀行)が共同経営している小さなヘアサロン。2人の他にはアシスタントの女の子アズサ(丸子聡美)が働いている。今どきの若者らしい、ひょうひょうとしたリラックスムードの店内。閉店後の夜中にトダを訪ねてくる女がいる。その女はルミ(町田カナ)。ある仕事でトダに助けられて以来の縁。2人は急速に接近して・・・。

踊る芝居好きのダメ人間日記」は俳優に「底力」がついてきたと前置きして、「脚本や演出にも、そういう余裕みたいなもが現れて来ていて、笑いの間が上手く作れるようになった。つまり、アーティステックな作風から、よりエンターテイメントな作風に移行しつつあると思います。すっかり丸くなったとも言えるでしょうが」と指摘しています。

「しのぶの演劇レビュー」は今公演のの特長を「ヒリヒリするほど熱くて暴力的なシチュエーションを、極力ストイックにミニマムに凝縮するから、とんでもなくヤラしいんです。「秘すれば花」の世界ですね。だけど出すところはバシっと出す。そのさじ加減が絶妙です。また、今回は笑いがたくさんありましたねー。すごくウケてたし、私もいっぱい笑ったなー。演技の間がいいし、脚本も最後の最後まで笑えるように詰められていて確実なのです」と述べています。

早稲田の学生らが運営する「Review-lution! on-line」サイトで、小畑明日香さんは俳優の特色に触れながら「目の前で芝居をしても『映画っぽい』と思わせる力は役者にあったのだ。どんなに叫んでも唾の飛ばない台詞回しや、足音が気にならない歩き方。変に味があるよりは難しい」と書いています。


[上演記録]
reset-N Valencia
http://www.reset-n.org/jp/valencia/index.html
作・演出 夏井孝裕
下北沢 ザ・スズナリ(5月3日-8日)

出演
町田カナ/久保田芳之/篠原麻美/原田紀行/平原哲/綾田將一/長谷川有希子
岩本幸子(イキウメ)/丸子聡美
奥瀬繁(幻の劇団見て見て)

グランドデザインmassigla lab. 夏井孝裕/荒木まや/浅香実津夫/福井希
舞台監督 小野八着(Jet Stream)
宣伝美術 quiet design production
宣伝写真 山本尚明
制作 秋本独人、森下富美子、河合千佳
照明協力 木藤歩(balance,inc)
Web製作 松下好

Posted by KITAJIMA takashi : 11:40 PM | Comments (0) | Trackback

May 16, 2005

ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」

 連休が明けてもまだボーっとしています。あまりにも怠惰に過ごしすぎた報いかもしれません。連休中にみたステージで最も印象に残ったのは、ヒンドゥー五千回「ハメツノニワ」公演でした。彼らのステージは初めて。以下、妄想をまとめてみました。いつものことながら、遅くなってすみません。

◎モノクロ・ステージの不思議感覚

 ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」を世田谷・シアタートラムでみてきました(5月2日-3日、第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加)。ほとんどモノクロの舞台、言葉数の少ないテキスト、1人か2人の男たちが次々に登場、振幅の大きな声や動作を繰り返すパフォーマンス構成など、不思議な感覚に浸されたステージでした。
 2003年初演の作品の再演。このユニットの舞台は初めてなので、どこがどう変わったのか分かりませんが、選ばれての参加作品ですので、おそらくこのユニットの基本形が提示されているような気がします。
 ステージは、白い砂が支配していたと言ってもいいと思います。ほとんどモノクロに染められた空間を、ヒンドゥー五千回のWebサイトはこう描写しています。

白い砂がしきつめられた空間。
二脚の椅子と、天井に向かって伸びる一本の梯子がある。
そこはどうやら地下にあるらしく、
梯子の先からの差し込む光が、薄ぼんやりと砂地を照らしている。
誰かがそこに砂を運び入れたのか、また何かが長い年月をかけて風化し、
そうなったのか、その辺りのことは定かではないが、
そこが美しい場所であることは、どうやら間違いないようだ。

背景はほぼ黒一色。白砂とのコントラストがくっきりした舞台です。いすはハシゴを挟んで左右対称に、向き合って置かれています。「ますだいっこうのこと」サイトはこの舞台を「皮膚から空間を感じるようなヒンヤリした感覚」と表現していました。巧みな比喩だと思います。

最初、上手のいすに男が腰掛けています。反対側のいすには古びた消火器の箱がおかれています。この赤さび色の塗料が剥げかけた箱に、男が話しかけるところから始まります。次に殴り殺してしまった死体の処理にうろたえる男2人。手に持った訳書を交互に読み上げる男2人。かつて会ったことがあると主張する男と記憶がないと言い張る男のまたまた2人組。本を読み上げる声がだんだん大きくなったり、記憶のない男を声高になじったり、追い駆け回したり。こういう独立した数個のエピソードの組み合わせが登場し、確か最後はまた、男と消火器箱の組み合わせになったと記憶しています。

こういう舞台構成は、音楽の楽曲形式を強く意識しているような気がしました。モチーフの提示、変奏、さらに変奏または繰り返し、モチーフへの回帰。しかし元のままの回帰ではなく、少しずつ崩れたり壊れたり、時間という関数に挟まれて不可避の変形を被っているのです。時の経過による物体や関係の崩れを定着させようというのが、この作品(演出)のねらい所だったのでしょうか。

その意味で、殴り殺された死体の男(扇田 森也)がステージを軽やかに駆け回る姿が最も印象に残りました。裸の上半身はやや薄白く化粧され、白っぽいショートパンツと併せて身体の生臭さを消しています。まず目につくのは長い手でした。手首や腕の関節を折り曲げる動作が身体全体と調和しています。円弧を描くときのしなやかな動きも可動範囲が広く、遅からず早からずとてもスムーズでした。陳腐な表現ですが、鶴のように舞うイメージを想像していただけばいいかもしれません。そぎ落とされたというより、若さ特有の無駄のない身体が音もなく駆け回り、跳躍するのです。生者のどたばたした動きと対照的に、軽々と動く死者。ほれぼれするシーンでした。

舞台で飛び交ったテキストは残念ながらうまく取り出すことができません。辛うじて記憶に残っているのは「いのちは一つ、うまく出会ったかどうかが問題」「どうして僕らが会ったことを忘れてしまうのか」「死んだら身体は骨になり、やがて砂に変わる」「自分を埋めてくれる誰かに出会いたい」などの断片だけです。記憶があやふやで、引用したことばも正確ではないと思います。またことばにどれほどの重さを持たせたのかも測りかねるのですが、ぼくがことばの群れから想起したのは「ゴドー待ち」のぼんやりした影でした。

この作品では、「待つ」対象は第3者に仮託されることなく、2人の男の間に直接的関係として固着されます。登場人物が1人だけの設定でも誰かや何かを強烈に求め、しかし関係はいずれも崩れてしまいます。というより、あらかじめ壊れていることを前提に構成されたシーンで一貫しているような気がしました。それだけ切なさが、見終わった後にもじんわり感じられるのではないでしょうか。

このステージをみた「しのぶの演劇レビュー」サイトの高野さんは、音楽の音量、せりふや動作のダイナミックな変化を採用する演出に触れ、「それをヒンドゥー五千回の個性だと言うのも可能ですが、私にはまだまだ発展途上の実験段階で、これからもっと洗練させられる余地があるように感じられました」と指摘しています。

彼らが洗練に向かうのか、ハメツに向かうのか(!)は分かりません。どちらにしろ、しばらくは「実験」に付き合ってみようかと思せる魅力を感じました。


[上演記録]
ヒンドゥー五千回第13回本公演「ハメツノニワ」
第9回くりっくフリーステージ演劇部門参加
世田谷・シアタートラム(5月2日-3日)


構成・演出
扇田 拓也


出演
谷村 聡一
久我 真希人
結縄 久俊
向後 信成
藤原 大輔

宮沢 大地
鈴木 燦
谷本 理
扇田 森也


●スタッフ
演出助手 藤原 大輔
舞台監督 松下 清永
美術   袴田 長武(ハカマ団)
照明   吉倉 栄一
音響   井上 直裕(atSound)
宣伝写真 降幡 岳
宣伝美術 米山 菜津子
制作   関根 雅治 山崎 智子

●企画・製作
ヒンドゥー五千回
●主催
財団法人せたがや文化財団、フリーステージ実行委員会

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May 15, 2005

チェルフィッチュ岡田利規インタビュー(前編)

 今年の岸田國士戯曲賞を受賞したチェルフィッチュの岡田利規さんのインタビュー(パート1)を掲載しました。聞き手は、早くからチェルフィッチュ演劇の可能性に着目していた柳澤望さんです。チェルフィッチュが現在の「超口語」スタイルに転換した前後のいきさつや、言葉と身体の関連、平田オリザやブレヒトの影響などが明らかにされています。次回は25日掲載予定です。

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May 14, 2005

ジャンバルジャンパイレート「グランバザールX」

 いつも軽快なフットワークで小劇場を回っている「休むに似たり。」サイトのかわひらさんがJAM BAL JAN JAN パイレートの公演を取り上げました。
 「スピード感溢れる台詞、スタイリッシュでパワフルなダンス、センスのいい衣装や装置、加えて笑いも結構あったりする、清水恵利奈さんのユニットJBJJPの新作」
 こう書かれると、みたくなりますね。でも、いわゆる芝居を体験するのとはちょっと違った空気がステージに流れているようです。
 「物語を追って行こうとすると、おそらく失敗するのです。つぎつぎと浴びせられかける言葉、見た目の美しさに身をゆだねるのです。作家の思索の断片が、めまぐるしく提示されるのです」
 なるほど、なるほど。具体例は、「休むに似たり。」サイトでどうぞ。

 JAM BAL JAN JAN パイレート(JBJJP)のWebログに出演者の紹介はありましたが、JBJPの旗揚げ時期や活動の紹介は見あたりませんでした。ネット上にも、まとまった記事はありません。1995年の第5回ガーディアン・ガーデンフェスティバル演劇フェスティバルに出場(「極めて普遍的なベルベット・カフェは存在するか?」)。2002年9月には「書物」を題材にした作家達による短編作品の競演「書物をめぐる演劇の冒険」に出演。小松杏里(月光舎)さんが評価していた(「乾坤一擲」)ことなどが断片的に分かりました。

 [上演記録]
◆タイトル:「グラン・バザール × (エックス)」
◆日程:2005年5月6日(金)~8日(日)

◆作・演出:清水恵利奈
◆出演:阿保聖子/metan/清滝美保/桜井翔子/清水エリナ/
鈴木裕美子/水野恵美/榎本真弓
◆会場:ウエストエンドスタジオ(東京・中野)

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May 13, 2005

チェルフィッチュ岡田利規インタビュー掲載のお知らせ

 今年の岸田國士戯曲賞を受賞したチェルフィッチュの岡田利規さんのインタビューを2回に分けて掲載します。聞き手は、早くからチェルフィッチュ演劇の可能性に着目していた柳澤望さんです。チェルフィッチュが現在の「超口語」スタイルに転換した前後のいきさつや、言葉と身体の関連、平田オリザやブレヒトの影響などが明らかにされています。
 初回は15日、次回は25日公開予定です。昨年の小劇場シーンを振り返った「振り返るわたしの2004」に続く、特別企画第2弾です。ご期待ください。

 岸田賞の選評が最近、白水社のWebサイトに公開されました。選考委員は 井上ひさし、岩松了、太田省吾、岡部耕大、竹内銃一郎、野田秀樹の6人。 受賞した岡田さんと宮藤官九郎さんの2人に対する各委員の期待が伝わってきます。ご一読ください。

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May 12, 2005

文学座アトリエの会『ぬけがら』

 名古屋の劇団B級遊撃隊を主宰する佃典彦の新作を、劇団内外で活躍する気鋭、松本祐子の演出で。5月10日(火)~22日(日)。信濃町・文学座アトリエにて。以下公演評です。

◎昭和は未だ遠くあらず

 このところ、「平成」という今日を暮す日常ある家族模様に「昭和」を侵入させ、新旧の交点から現在そして未来を見直す契機とする、そんな演劇作品が目につく。暦が平成に改まり早十七年。明治が大正、大正が昭和ほどの変化があったのかしらん、などとさかしらを決め込むつもりはなし、感慨深げな顔をできるようなご身分でもない。しかし、とひとまず。歴史には常のこと、旧体制と新体制の転換は軋轢を乗り越えながら進展してきたが、状況はさして変わらないのじゃないか。技術は進歩したけれど……などと訳知り顔の紋切りを打ってはいけない。いけないが、「昭和」の際限ないエピローグとして「平成」が存在しているかにさえ感じられる、それはそれで確かなのだ。文学座アトリエの会で上演された『ぬけがら』も、そんな舞台のひとつと言っていいかも知れない。

 ほとんど痴呆状態の父親が、母親の葬式の翌日に突然脱皮し、二十歳ばかり若がえる。まるでセミのように脱皮を繰り返し、そのたびに若がえっていく。挙げ句にぬけがらたちが踊りだす。カフカや安部公房を思わせる不条理が視覚化されるが、主人公を筆頭に家族の反応は何となく中途半端であり、案外自然な装いで日常に織りこまれていく。そうしたリアルとフィクションの危うい処理に面白みがあったけれど、折角の趣向も最終的には平凡たる家庭劇の枠内に止まってしまった感は否めない。また、夫婦の離婚問題が物語の中でさしたる働きを見せないこと、軸となるべき夫婦関係の後先が今ひとつ描き切られていなかった点が残念でもある。

 表題にされた「ぬけがら」。脱ぎ捨てられた現在はすぐさま過去の残骸となる。やがて過去は動き出す。戦後60年にあたる今年、第二次世界大戦の記憶は、作中たしかに或る影を落としていた。脱皮と若がえりによって、過去(父親)が、現在=未来を経験する。それは、死者との対話から現在(主人公)が過去を知る手つづきでもある。「ぬけがら」と「ぬけ出た」自分という、父親が経験したような自己同一性と時間感覚との歪みに、何かしらの議論が必要だったのではないか。脱ぎ捨てられ、日が経つにつれて匂いを発する「ぬけがら」たち。「ぬけがら(=過去)」はどんどんクサくなる。気になる匂いにはファブリーズ。洗濯もしてみる。匂いは消えない。誤魔化せない。「昭和」を次々に巻き戻し、両親の出会いにまで時は遡る。「奇跡と宿命」に彩られた自分の誕生秘話。しかしそれらが主人公の明日に大きく活きない。結局は何も変わらないのだ。

 松本祐子の演出は、主人公と浮気相手のもつれや離婚をめぐる夫婦の口論などの心理的対決を、行動と観察の関係から生じる沈黙を巧みに利用しながら、劇的対話としてより緊密な時間に仕立て上げていた。特に主人公の妻、美津子役の山本郁子が近作以上の好出来。台詞もよく回り、いわゆる新劇調に終始してしまうやや冴えない男優陣の中にあって、一人気を吐く。浮気相手の奥山美代子も静かな強さが滲み出ていたし、母景子を演じる添田園子の大らかさもいい。舞台装置もディテールにこだわったアパートの一室を再現し、戯曲の奇妙な事件を対比的に包み込むが、そのリアルが勝ちすぎてしまったところに、物語の弱さもあるのかもしれない。(後藤隆基/2005.5.11)

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劇団プロメテウス「目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ」

 劇団プロメテウス公演『目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ』が東京・渋谷の東京ウィメンズプラザで開かれました(4月1日-3日)。2000年の旗揚げ公演の再演。高校時代の先輩2人が参加している舞台をみた小畑明日香さんからレビューが届きました。

◎劇団プロメテウス「目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ」

 ・・・だめだぁー。だめです。面白いんだけど。

 筆者の高校の演劇部で先輩だった人が二人、参加しているこの劇団。二階席まである舞台をフルに使って役者が動き回る。身体能力をフルに生かして走ったり飛んだりもする。照明に関しては何の知識も無いが、贅沢に使っていると思う。

 なのにどうもいけない。
 きっと熱意がありすぎるのだ。
 旗揚げ時の台本を、劇団結成時からの役者が演出して再演したという作品だからかもしれない。演出家にとっては一番距離がとりにくいだろうし、初演のイメージを払拭するために苦労したのが窺える。役者を縦一列にしたり横一列にしたり、円にしたり。凝りすぎてか、役者の動きも自分の動きに似せてしまっていて役者がやりづらそうだった。「左門」というギャグ担当の役が際立って新鮮に見えたのは、きっと彼だけ好き勝手やらせてもらっていたからに違いない。

 台本自体、旗揚げ時のノリが引きずられている感じがする。旧約聖書を土台にシェークスピアと白虎隊を混ぜてトッピングにゲーテ、という話だと、一つ一つの知識がごつごつ主張しているのはいただけない。やっぱ野田秀樹って上手いよな、と思ってしまった。

 殺陣は上手いし、先輩二人(一人は演出兼役者)の動きは図抜けて目を惹いた。上手いのはわかるから、そんなに一生懸命やらないでほしい。演出家は脚本の言い回しを直す権利だってあると思うし、台本から洗い直してみたほうがよかったんじゃないだろうか。
小畑明日香(2005.5.10)


[上演記録]
劇団プロメテウス
目覚めよ、と呼ぶ声が天より聞こえ

会場:東京ウィメンズプラザ (東京・渋谷)
期間:4月1日-3日

作:金井以政
脚色・演出:三島由流
出演
飯沼貞吉:大橋光
右子/おむね:若山栄子
左子/文子:かわさき愛子
篠田儀三郎:小野一博
神父/日向内記:石部雄一
生徒:桐生真一
黒川雄斗、阿部明日香、松岡貴史、他

企画・制作 小野一博
照明 久保良子
音響 大野幸彦
舞台監督 久保大輔
撮影 根田拓也
美術・衣装 八重沢晃祥
衣装協力 矢内原充志(nibroll about street)
Print textile work by yaezawa (ヤエザワロゴ)www.yaezawa.com
運営 株式会社テクノリンク

出演
飯沼貞吉:大橋 光
右子/おむね:若山 栄子
左子/文子:かわさき愛子
篠田儀三郎:小野 一博
神父/日向内記:石部 雄一
生徒:桐生 真一
黒川雄斗、阿部明日香、松岡貴史、他

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May 11, 2005

コミュニケーションズ-現代劇作家たちによるコント集

 新国立劇場の「笑い」シリーズ第2弾は「現代社会におけるコミュニケーションについてさまざまな切り口から多様な視点を集めた、大喜劇集」(同劇場Webサイト)。日本劇作家協会と初めての共同企画で、別役実、いとうせいこう、ケラリーノ・サンドロヴィッチら実力派のほか、日本劇作家協会戯曲科の現役受講生たちの作品も取り上げ、演出の渡辺えり子が「昔のアチャコからはじまるようなベタな関西の笑いからシャープで都会的な笑い、落語的な笑い、漫才的な笑いなど、いろいろな笑いをごった煮にして、小劇場自体がヤミ鍋のように」仕立てようとしたそうです。

 ネット上での評判はあまり芳しくなかったようですが、「演劇時評」サイトの中村隆一郎さんが「11人の劇作家の作品を21のエピソード「場」にして構成した。その中には渡辺えり子が書いた「コミュニケーションズ」というコントを開幕からはじめて終わりまで都合六つ挿入し(略)がひとつのトーン・マナーを持っているのでそれがうまく句読点の役割を果たして飽きさせない工夫が施してある」と構成力を評価。さらに個別の作品を取り上げ、話のおもしろみや役者の演技などを丁寧に紹介、分析しています。
 コントは時代をつかむセンス、構成の切れ味など書き手、作り手の才能が露呈しやすい分野です。しかも演者との呼吸も欠かせません。さらに大事なことがあると中村さんは次のように指摘します。

コントという短い形式の喜劇は戦前の浅草の軽演劇に端を発し、戦後はやはり浅草のストリップ小屋の幕間に演じられた(略)。皮肉なことに浅草の観客にはコントを目当てに来るものは一人もいなかった。幕間をつなぐだけの短い時間にどれだけ観客の目を引きつけておけるかが即給金につながったから必死である。同じネタだが、客の反応を見ながら微妙に変えていくうちに練れてきて見ているものの心の琴線に触れるところまで来ると完成型である。(略)問題は浅草軽演劇-ストリップ幕間で育った形式というところに立ち返って考えた場合、観客の目によって練り上げられていく要素をどう取り込んでいけるかということである。

 観客の「鍛え」が何度も期待できないとすると、いまは台本の置かれた環境は厳しいというほかありません。特に1回限りの公演だと、それが先鋭的な形で表れるような気がします。

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May 09, 2005

ドロップD 「これからこいつと×××」

 昨年「劇団相殺」主宰者の1人として新宿タイニイアリスで公演を開いた飯田ゆかりさんが、連休中の5月3日-4日、同じアリスで単独ユニット「ドロップD」で、連作コント「これからこいつと×××」公演を開きました。この間何度か寄稿していただいている小畑明日香さんからレビューが届きました。先に西村博子さんがアップしたレビューと併せてご一読ください。

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 テレビでも芝居でもブラックユーモア全盛の時に、飯田ゆかりさんのオムニバス・コントを観ると心が安らぐ。驚かない、という意味とは少し違うが、安らぐというのがコントにとって褒め言葉かどうかは自信が無い。

二つの大きな話が卵でリンクしている、というのが全体の構成だろうか。どちらも卵が登場する、という以外は特に話に共通点は無い。一度、お互いの登場人物が少し会話するぐらいで終わっている。
誰も危険な目に遭わないし、不幸な結末を迎えることもない。それでも、笑えるんだなと思う。
ちゃんとお話したことは殆ど無いが、飯田ゆかりさんという人は根っから優しい人なのだろう。役者の熱意や拙さも含めて、演出家の人柄が滲み出ているように感じられた。

せっかくシチュエーションがぶっ飛んでいるのだし、もっと登場人物を追い詰めてほしかった。卵から恐竜が孵ってしまい慌てて箱の蓋を閉めて閉じ込める、というところで暗転してしまうのは惜しい。作中の人物の境遇に関わらず、役者は苦しめどころでしょう。やっぱり。
誰の揚げ足も取らずに観客を笑わせるのは難しい。ドロップDの名でなくても、ぜひまた公演を打ってほしいと思う。
(小畑明日香 2005.5.08)

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May 08, 2005

E.G.WORLD Ⅲ「みにくいフツウの子~突然変異は、未来の常識」

 熊の霊を神のもとに帰す儀式というイヨマンテ。その生贄に捧げられて咆える小熊役の志保(根元千可子)がもし「みにくいフツウの子」だったとしても、サブタイトルの「突然変異は、未来の常識」とは何のことだろう? ひょっとしたら金堂修一(作・演出・制作)の、初め創ろうと思った構想とできあがった舞台とはズレが生じたかも?と思った。

以下、全文をご覧ください。

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May 05, 2005

ドロップD「これからこいつと×××」

  もしもこの“コント・コラージュ”と自称するふんわか・へんてこ芝居が一つのスタイルとして完成したとしたら、日本の演劇はまた少し豊かになる、かも知れない。が、その前途は相当キビシソーという感じがした。飯田ゆかり作・演出の「これからこいつと×××」である。アリス インタビューによれば日本劇作家協会の戯曲セミナー、別役実のクラスを受講した人とか。前回公演のとき、その別役先生に「志の高さを感じる」と励まされた、ともあった。聞くだけで嬉しく、心温まる。が、書くだけでなく実際に演出し役者を集め情宣・制作し経済的な責任まで持つ――こんなにもまともに受けてたってくれる生徒がいるなんて! 長いことコント書くことを奨めてきた先生自身、もしやとまどっていられはしないか?と邪推した。 飯田ゆかりとしては必ずいつか、僕のできなかったことをし遂げたと先生を驚嘆させねばならぬ。

以下、全文をごらんください。

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東京サギまがい・ゲツメンチャクリク「お化け屋敷の中~断髪したライオン達~」

  「東京サギまがい」という名前がいい。なんか面白可笑しい口車、心かっさらってやるぞといった気概がみえる。よき市民よりもうちょっと危ない匂いのするほうに身を寄せようとする姿勢も小気味いい。その若手公演・ゲツメンチャクリクも “人類の偉大な第一歩”たらんと意気軒昂なネーミングである。そのせいか、彼らのVol.1 ♪初めの一歩は、見事に着地に成功した。

以下、全文をご覧ください。

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うずめ劇場「ねずみ狩り」

 「福岡演劇の今」(薙野信喜)に、「最初の男女ふたりによるねずみ狩り、そしてラストの男女ふたりがねずみとして狩られる、そこはおもしろいのに、そのあいだに長々と続けられるゲーム―男女が身につけたものを捨てていく―が決まった結末に向かって一直線で、単調でつまらない。〈略〉演出も俳優も結末を当然と受け止め、〈略〉スケジュールどおりに破綻なく進めることしか考えていないためだ」という言葉をみつけた。東京シアターXのラクを見た私もまったく同じことを思った。

 作者はドイツのペーター・トゥリーニ。1972年の作という。まったく単純明快な設定、単純明快そして力強いプロット。ところはゴミ捨て場なのだから劇場さえ選べば装置も不要、ただ役者の力量だけが問われるはずの舞台だ。何よりその、“すべてを捨てる”という作者の選択が素晴らしい。口で言うのは簡単だがそれを選ぶ=書くことはほんとの思想になっていなければできることではない。観るものにそれができるか!?迫ってくる厳しさだ。ふっと昔ニューヨークのOff Offでみた「Death List」を思い出した。ギャベージ缶もそこらに転がっていそうな汚いビルの上階。黒人がひとり、銃の手入れをしながら殺してやりたい人間の名前を延々と挙げていく。そして、私たちの入ってきた扉が突如蹴破られて弾丸の音。姿はない。黒人は殺されていた。作・演出は誰だったか記憶にないが、私は実際客席で飛び上がっていた。

  男女ふたりの俳優はよく演った、と思う。生まれたままの姿で舞台に立つことは想像するよりずっとずっと大変なことにちがいない。その俳優たちを、上記評の指摘するとおり演出※は生かしきれなかった。白いビニ―ルのゴミ収集袋で埋め尽くされた舞台。覆い被さっていた大きな布地がさっと宙に舞い上がり車の座席が現れる――技術のある、見事な開幕といえよう。が、それはそれだけ。男の手帳?にこれまで交渉を持った何人かの女の名も記されていたと言っていたが、なぜ二人は他の相手とちがって互いにあらゆるものを捨てることができたか、それを演出は見逃した。二人は次第に脱ぎ去り捨て去り一糸纏わぬ姿になっていく。が、Wonderland by KITAZIMA takasiにも「交合の仕草をまねたり」「舞台を飛び跳ね」たりするだけ、「肝心の男性のシンボルに生気がなかった」とあったが、なぜ二人は互いに魅せられないのか。なぜ最高の美となっていかないのか。見るものの感性が引っくり返せるかどうか、舞台はこの一点にかかっていたはずである。

 終幕のライフル持った男二人も同様。戯曲にそうあったからそうやらせたというだけに見えた。「Death List」の黒々と口を開けたドア、得体の知れない恐怖は、創り手の感受をよく伝える一つの方法であった。さっきまでそこにいた自分は殺す側かも知れない。同時に、いつ殺されるか解らない恐怖だ。「ねずみ狩り」の演出にとって現代の恐怖は何だったのだろう。演出は「ねずみ」ではないのか?

  なぜ日本にこういう素晴らしい戯曲が生まれないのか。口惜しまぎれに思わず演出に毒づいたが、いい作品を日本に紹介してくれたことに感謝しないわけにいかない。いつかぜひ、鼠の棲みつきそうな小屋で、二人に惚れ惚れ見惚れるような再演を!と望みたい。     (2005.04.17)

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楽天舞隊「三人三色」

  たいていの俳優はただ与えられた役に力を尽くすだけ。表現の肝心かなめは作・演出におまかせで、そもそも表現したいことなんてまるで内部にないのじゃない? ずっと私は疑っていたのだが、それがそうではないと判って、嬉しかった。石垣まさき(第一話)、大田良(第二話)、中澤昌弘(第三話)、それぞれが原作を担当した楽天舞隊の「三人三色」である。原作を書いた俳優はむろん、それぞれの主役を演じる。俳優がただ演技が上手か下手かだけでなく、その人のものの見方、感じ方が見えて、いい。

以下、全文をご覧ください。

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May 03, 2005

劇団唐組「鉛の兵隊」

◎現在と昭和(?)が交錯する“大人の童話”

 スタントマン事務所「ドタンバ」の若き星である二風谷(にぶや)。幼少時から二風谷とは仲ふかく、自衛隊員として赴任しているムサンナ州から帰国する七々雄(ななお)。七々雄の姉でパーラー<マリー・ゴールド>の華である冴(さえ)。弟思いの冴が、二風谷に七々雄の身代わり(スタント)を依頼し、なんとかその期待に応えようとする二風谷・・・というのが、複雑なストーリーのおおまかな導入部です。

 第一幕の序盤が終わるころ、舞台に巨大なアクリルの箱(スタント事務所が請け負った縄抜け・脱出のマジックで使用したもの)が登場。そのマジックで脱出を果たせずに行方不明となったスタントウーマン“ララ”を、いまでも思い続ける伝説のスタントマン“荒巻シャケ”。彼女を思うあまり、その箱のなかで塩とともに埋もれている「新巻鮭」(荒巻が本当に鮭のレプリカを頭につけている)が姿を現して「塩の中から、ゴメンナサイ」のひとことに、場内は拍手喝采でした。単に笑いをとれる役者ということでいえば、小劇団のなかにもたくさんいるでしょうが、登場しただけで拍手喝采を沸き起こせるというのは、唐十郎ならではの貫禄ですね。

 ムサンナ州から帰国した自衛隊員という設定が、2005年の現在をなんとかつなぎとめていますが、舞台のセットやBGM(シャンソンや「桃色吐息」)をはじめ全体の雰囲気としては「昭和の日本」が舞台といっても過言ではありません。最近の若手芸人がテレビで繰り出すような“いまっぽい”笑いとも無縁です。30代前半の評者にとっては、幼かった頃の情景をかろうじて思い起こさせるノスタルジックな舞台でしたが、ハタチ前後の観客には違和感があったかもしれません。

 最近の小劇団の芝居をみていてなんとなく気にかけていたことが、今回の唐十郎の芝居をみてはっきりとしてきました。家庭や職場といった半径5メートルくらいの身辺で起こる日常的な出来事に題材を求めがちな前者に対し、時間的・空間的に広がりをみせて非日常的なドラマを提示しつづける後者。また、スマートで洗練されていてニヒリスティックともいえる人物設定と演出スタイルが多い前者に対し、愚直で粗野で直情径行な人物設定と演出スタイルを貫きつづける後者。

 いまに限らず、昔から唐十郎の芝居はほかと比べて独特なのだともいえるでしょう。そもそも、両者のアプローチは単に芝居に求めるものの違いというふうに割り切るだけのものかもしれません。ただ、唐十郎的な表現者が新たに登場していないように見受けられる現在の状況は、個人的には寂しいということを再認識しました。

 速射砲のごとく繰り出される長ゼリフに加え、終盤では二谷風、七々雄、冴のほか、七々雄の上官の匠(たくみ)や墨師の娘の小谷の感情が複雑に交錯するため、話の筋がやや難解になっていきますが、セリフの展開に合わせて照明と音響が小刻みに切り替えられていく演出は圧巻でした。ラストで、「ドタンバ」には戻らずに一人で骨拾いの仕事に行くという二風谷が、文字どおり「劇場のそと」へ飛び出してこちらを振り返り、終幕になります。

 アンデルセンの「鉛の兵隊」を知らずに公演に出向いたのですが、さほど大きな支障はなかったと思います。唐十郎流の“大人の童話”として堪能できること請け合いです(元の童話を知っていれば「錫のスプーン」とか「片足の兵隊」といった引用が楽しめるようですが)。なお、季刊の文芸誌『en-taxi』(扶桑社)の第9号に、唐版「鉛の兵隊」の文庫本がおまけとして付属しています。

 二幕構成で、幕間の10分を含めて2時間あまり。おそらく状況劇場の時代から足を運んでいるとおぼしき年配客から、唐十郎の孫の世代の小学生!(関係者の親類か?)まで、老若男女およそ400人が花園神社に詰めかけました。

 新緑も心躍らすテントかな

(吉田ユタカ 2005.4.30)


[公演予定]
大阪公演(4月15-17日 大阪城公園・太陽の広場)
神戸公演(4月23日 湊川公園)
東京公演(4月30日-5月1日 新宿・花園神社)
    (5月7-8日、5月14-15日、6月18-19日 西新宿原っぱ)
    (6月10-12日 雑司ヶ谷・鬼子母神)
水戸公演(5月20-22日 水戸芸術館広場)
豊田公演(6月4-5日 挙母神社)

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May 02, 2005

遊牧管理人「ヒマワリ-鰐を飼う人」

 作・演出の広瀬格。力のある人だと思った。なぜかひとの心の中がわかってしまう、と思っていたら、その「ひと」はぜんぶ自分だった!――なんて、複雑骨折気味の人間にはひょっとして私のこと??? ドキッとするようなテーマ。それを、心中を吐露したり台詞で説明するなんて下手なこと一切なし、劇の展開で伝えていく作といい、缶蹴り、鬼ごっこ、もぐら叩き、家族ごっこに兄妹ごっこ……それも俳優の役割をどんどん交替させてお父さんが次から次へと出てきたりお兄さんが次々と出てきたり、テンポよく繰り出す遊びで客をほどよく混乱させたり笑わせたりしながら見せていく演出といい、なまなかの凡手ではない。

以下、全文をご覧ください。

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May 01, 2005

劇団、本谷有希子「乱暴と待機」

◎卑屈で不謹慎な人々の、上質な愛の物語

劇団、本谷有希子。
言わずもがな、ではあるが今現在、小劇場界で最も注目を集めている劇団の一つである。

 自分の名前を劇団名にした主宰・本谷有希子の専属役者を設けない「プロデュースユニット」として2000年8月に旗揚げされたこの劇団は、女の濃い情念や身勝手な妄想などを題材にして芝居作りを行っていると聞いていた。題材としては非常に私好みであったものの「松尾スズキに影響を受け過ぎている」という反応を多く目にしていたのであまり気が進まなかった。同時期に、別の劇団で松尾スズキに影響を受けたと思われる舞台を観て、そのあまりの出来に落胆していたので、比べるわけではなくともどこか足踏みをする気持ちが生まれていたのかもしれない。

 ところが、前回公演の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と今回公演の反響コメントを目にして、私は居ても立ってもいられなくなった。いろいろとこだわりを持つより自分の目で確かめるべきだ。ということで、恥ずかしながら今回が初見である。本谷有希子の「馬渕英里何にスエットを着せたい」という思いから生まれたという『乱暴と待機』。当日券・立見席で観劇。

 端的に結論を言うと、「面白い!観に来て良かった!」である。
 役者の力も大きいけれど、その役者の力を引っ張り出した台本と演出にも脱帽した。松尾スズキの影は私にはあまり見受けられなかった。特に馬渕英里何の演技力が存分に生かされていることに驚いた。長塚圭史作・演出の『真昼のビッチ』を観た時に「この人は舞台女優として成長するな」という予感があったが、今回の舞台で見事、開花したという印象。

 内容。冒頭で突如、物語のラストの男女四人の光景が繰り広げられる。もちろん、この時点では、おそらくの範囲内でしかなかったのだけれど、観客は物語の前後が分からないままに、男が「最高の復讐を思いついた」と言って家を出て行き、電車に飛び込んだというエピソ―ドを見せつけられる。
 「何で突然、死んじゃってんだよ!」
 印象的なこの台詞を残し、物語は始まる。

 献身的に相手に尽くそうとする小川奈々瀬(馬渕英里何)と寡黙で笑わない山岸(市川訓睦)は二人暮らし。日々、山岸は奈々瀬に対する「最高の復讐」の内容を考えており、奈々瀬はその「最高の復讐」を受ける機会を待ち続けている。奈々瀬は毎晩山岸を笑わせるためのネタを考え、山岸はそのネタに全く表情を変えることなくシュ―ルとベタな笑いの違いについて講義したりしている。そして二人は二段ベッドの上下にそれぞれに横になり
 「おにいちゃん、明日は思いつきそう?」
 「ああ、明日はきっと思いつくさ」
 「良かった」
 と言葉を交わし、眠りにつくのである。どうやら、そんな毎日が繰り返されているらしい。

 そんな中、刑務所で死刑執行のボタンを押す仕事をしている山岸の同僚の万丈(多門優)が奈々瀬に興味を持ち、加えて万丈に思いを寄せている故に振り回されているあずさ(吉本菜穂子)が「奈々瀬に笑いを伝授する」という名目のもと、部屋を訪れるようになってから、二人の不可思議な同居の実態が浮き彫りになってくる。

 なんと「復讐の原因」が何なのか、どちらも思い出せないというのだ。幼なじみだった二人は、十二年前に車の踏切事故で山岸の両親を亡くしているらしい。その際、後部座席に乗っていた山岸と奈々瀬だけが生き残ってしまい、山岸の足に後遺症が残ったとのことだが、そこからは奈々瀬への復讐の原因は汲み取れない。

 山岸いわく、自分の人生がうまくいかなくなり始めた起源を辿ったら奈々瀬に行き着いたのだと言う。奈々瀬も自分のもとに会いに来て「誰も思いつかないような最高の復讐をしてやる」と言った山岸の意思を受け入れ、それで今まで六年間もの共同生活が続いているというのだ。はっきりした復讐の理由もわからないままに。そして山岸は、天井に空いた穴から、時折、奈々瀬の姿を盗み見ては復讐の内容を考えているのである。

 何だかゾクリとした。恐怖とはまた違う。行き場が無いと認識した瞬間の人間の行動に覚えがあるような気がして、興味を惹かれたのだ。感情の理由づけをするために必死な登場人物たち。私は物語の展開と矛盾を楽しみながら、依存状態に入り込む瞬間の人間の姿について考えた。この二人はそれぞれ憎しみと同情の思いに互いが一緒に居ることの意味を持たせているのである。性交渉もない二人の関係は、壁一枚、いや布団一枚を隔てた自身の生きている実感を保つための鎖であるというわけだ。

 その鎖が、万丈とあずさが介入してくることによって徐々に錆びれてゆく。どこか軽快な会話のテンポに笑いながらも、私はちくちくと胸を刺してくる痛みに気付いた。その痛みは、女である自分と奈々瀬を重ねている状況に対するものだった。馬渕英里何は、奈々瀬の「人から嫌われることが何よりも苦痛で、過剰に遠慮して逆に不快感を与えてしまう」キャラクターを堂々とやってのけていた。

 奈々瀬はそれから、誰からも嫌われたくないあまり相手の思うままになり、自分の部屋で万丈と体の関係を持ったり、あずさに見つかって殺されそうになったりする。屋根裏に居た山岸がその行動を止めたことから、覗き見の事実が露呈して、山岸は奈々瀬と別々に暮らすことを提案する。奈々瀬はそれを受け入れる。二人は二段ベッドで、いつもとは違う会話を交わす。嘘を話すという前提で、お互いの思いを伝え合う。

 ところが、いざ奈々瀬が出て行こうとする時に山岸は「復讐の原因」の内容を思い出したと言って部屋に戻ってくる。その理由とは、車が線路内に入ってしまった時に、山岸が「前」と言ったのに奈々瀬が「後ろ」と言って両親を混乱させたからだという。原因を思い出すことが出来た喜びで、六年ぶりに高らかに笑う山岸。しかし、その場で内容を聞いていたあずさが冷静に状況を分析する。

 ―― 前に進んでいたら山岸も奈々瀬も死んでいたのではないか。後ろに戻ったから、二人は助かったのではないのか。

 山岸の笑いが止まる。奈々瀬が焦りを見せる。そんなんじゃない。私が悪いの。私が余計なことを言ったからいけないの。必死で山岸をかばう奈々瀬。呆然とする山岸。すると奈々瀬がここで初めて口調を荒くしながら自分の思いをぶちまける。そうやって、私のことを無かったことにするんでしょうと。そして実は、覗き見の穴は奈々瀬が用意したものだったということが露呈される。奈々瀬は山岸に対し、自分を「復讐」という言葉のもとで受け入れて欲しいがためにそのような行動をとっていたのだった。

 「面倒臭い私ごと、受け入れて欲しかった」

 この台詞が、女である私の胸を突き刺した。う―ん。痛い。どうやらこのシ―ンで奈々瀬が語ったことに対しては賛否両論あるようだが、私は強烈に見入ってしまった。不器用に振舞うことしか出来ない奈々瀬が人間臭くてたまらなかったからだろう。卑屈で不謹慎でどうしようもないけれど、愛しい。・・・と感情移入していると、山岸が「最高の復讐を思いついた」と言って外に飛び出していった。あぁ、冒頭で見せ付けられたラストシーンだ。そういうことか。奈々瀬は山岸が電車に飛び込んだと聞いて笑う。最低で、最強の愛情表現である。なんて、後味の悪い締めくくり。暗転になった舞台を見つめながら、私は胸の中にずっしりと重いものがかぶさってくる感覚を味わっていた。これで終わりだ。カーテンコール・・・と思ったら、舞台は明転し、部屋にひょこひょことミイラ状態になった山岸が帰ってくるではないか!

 指を無くしたものの、助かった山岸は、「本当は絵を描きたかったことを思い出した」と言い放つ。そして再び、奈々瀬との「復讐」という名のもとの共同生活が始まる――。

 本当のカーテンコールの時、私は、しばらくぼんやりとしてしまった。最後に山岸と奈々瀬が、とても幸せそうに笑ったのが印象的だった。これは立派な「愛のカタチ」であるとそう思った。恐るべし。劇団、本谷有希子。心の襞をこのような形で描き出すとは。

 万丈とあずさの展開に強引な箇所は見受けられるものの、それでも充分な満足感を得ることが出来た。女の情念や思い込みを描き出すというから、もっとヒステリックなものを想像していたけれど、全然違う。これは、しっかりと作り込まれた、上質な愛についての物語である。

 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』がDVD化されるらしい。是非、購入して、今回公演との違いを見比べてみたい。
(葛西李奈 2005.4.30)

Posted by KITAJIMA takashi : 11:07 PM | Comments (2) | Trackback
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