11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

June 13, 2005

岩松了「センター街」

 劇作家岩松了の作品3本連続公演の第2弾「センター街」が下北沢のザ・スズナリで開かれました(6月1日-8日)。最初の「アイスクリームマン」は5月11日-29日に終わり、「隣りの男」は6月15日-26日(本多劇場)の予定です。

 「女子大生カンゲキノススメ」サイトは岩松作品の特長を「岩松作品は一見、誰にでも見破れそうな展開や人間関係を巧妙な台詞回しで覆い隠したり、露呈させたと思ったら煙に巻いたりして観客の意識を惹き付ける。また、登場人物の視線や口調の端々から読み取れる情報が他の舞台より格段に多いので、明らかにされる事柄が少ないにも関わらず、目が離せなくなってしまう」と述べています。

 「アイスクリームマン」と「隣りの男」の演出は岩松自身ですが、この「センター街」は、劇団「ペンギンプルペイルパイルズ」を主宰する倉持裕が担当しています。略歴に「1994年岩松了プロデュース公演『アイスクリームマン』に俳優として参加」とあるほどなので、親しい間柄と思えます。その演出はどうだったのでしょうか。
 関連写真を併載してセンスよくブログページを作る「Club Silencio」サイトの「no_hay_banda」さんは、「これがなかなかツボを押さえた演出で感心した。局面を丁寧に積み重ね、ぬるくて実は熱い世界を見せる手捌きが絶妙である」と褒めています。

 ぼくもこれを含めて2作ともすでにみました。3作目も今週の予定に組み込んでいます。感想はその後でまとめます。

追記(6.23)
 Critic Line Projectの竹内孝宏さんが「センター街」のレビューをまとめています。
 この作品を「デビュー作『お茶と説教』(1986年)と最新作『シブヤから遠く離れて』(2004年)のあいだにはさまって」いると指摘した上で、「そこで際立っているのは時系列的な連続性よりもむしろ断絶である」と述べています。初期作品に描かれたのがご近所という近隣関係が成り立つ場だったのに対し、「センター街」ではさまざまな階層が吸いこまれそのままダラダラと居ついてしまう「都市のブラックホール」「場ならざる場」に様変わりしたと言うのです。「これはあきらかに作家の時代認識であり、また80年代末から90年代半ばにかけてこの国が経験した地殻変動の演劇的要約であるといえる」と述べています。

 なるほどこう読解してみると、だらしなく間延びした印象を与えていたいくつかの断片が、ある必然性を持って織り込まれたのだと推測が可能です。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:49 PM | Comments (0) | Trackback

June 11, 2005

劇団StoicStick「芝居をなめるな !! 」

 「さようならストイックスティック店じまい公演」と銘打っているが、サブタイトルらしい位置に"劇団ストックステップの演劇教室"というコピーが書かれている。「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんは「店じまい、という理由でか、小劇場劇団の稽古を題材にしている。学生演劇などの大きなジャンルの一つに『演劇部ネタ』があるが、その延長線上のものだ。最後だからこそ使えるネタではある」と始め、「新しく演出家としてやって来た胡散臭い男性に振り回され」「不満がつのっていく前半の展開は、客席まで倦怠感スモッグが立ち込めてきて結構辛い」けれども、その演出家を追い出したあとの様子や舞台の魅力を次のように述べています。

劇団員に降板させられた演出家は芝居未経験の愛妻を後釜に据えてしまうが、「お芝居は観てばっかり」の妻の意見が稽古を活気づかせていく。観客の率直な意見の大切さをさりげなく織り込んでいて、妙にはっとさせられた。 稽古に熱が入って高揚していく感じ、終演後の観客との一体感などまで殆ど芝居の魅力を網羅している。役者が生き生きと動き出す後半は、俄然舞台に惹きつけられる。 小劇場演劇版「演劇部ネタ」は、これでほぼ書き尽くされた感があった。劇団自体の解散公演、というのが作品の魅力を増していた。

 劇団webサイトによると、1997年に旗揚げ、公演毎に役者を集う演劇企画集団でした。リアリズムを追求したりトリッキーな作品だったりと毎回作風を変えながらも、「日常的なテーマでお客様が見て楽しめる舞台を作りつつ、軽快なタッチの奥底で常に人間の根底や生や死を描き、ただのコメディではない、シチュエーションコメディという名を借りての人間ドラマを上演」してきたそうです。今回の解散公演はそれぞれの再出発にふさわしい舞台だったようです。


[上演記録]
◎さようならストイックスティック店じまい公演「芝居をなめるな!! 」"劇団ストックステップの演劇教室"
 新宿タイニイアリス(6月2日-5日)

作・演出★浜田昭彦
出演★内田和宏 小玉慶晴 佐丸徹 外間勝 中川加奈子 中橋真澄美 浜田昭彦 若林史子 渡邊衛
annie 岡本篤(劇団チョコレートケーキ) KINOSHIN(UNITレンカノ) 木全隆浩 久米靖馬(クロカミショウネン18/UNITレンカノ) 小林真富果(UNITレンカノ) 町山みゆき(UNITレンカノ) 山下沙代

舞台監督★吉田慎一(MDC)
舞台監督助手★横川奈保子
照明★兼子慎平
音響★嶋田浩一(JOHNNY CLUB)
ちらしデザイン★たちばなかずまさ(radimide)
制作★のうこんばつぐん
企画・製作★劇団StoicStick

Posted by KITAJIMA takashi : 06:33 PM | Comments (0) | Trackback

June 10, 2005

Fragile 「塔」

 現代演劇ユニットFragile の第9回公演「塔」が5月25日から31日まで東京のこまばアゴラ劇場で開かれました。都内の小劇場を休みなく見歩いている「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんが取り上げています。ちょっと時間がたってしまったのが悔やまれますが、こんな記述で舞台の紹介を始めています。

舞台中央に鎮座する巨大な滑車・・・そこは111階建ての高層ビルの最上階の上、エレベーターの管理室である。 この滑車を中心に描かれている舞台空間の統一感と完成度、それを支える照明、音響というスタッフワークの力強さ・・・全ての質を限りなく高め、そこから始まる物語への予感を高めてくれる。 劇場に入った瞬間に感じたその想い・・・私の期待は期待以上に高まっていきました。

 この演劇ユニットは「THE・ガジラ主宰鐘下辰男氏によるワークショップ『塵の徒党』に参加した小里清(Playwriter)、桜井秀峰(Director)、渡辺陽介 (Player) によって98年に結成」されたそうです。作・演出の小里さんは2004年度岸田戯曲賞の最終候補になるほどの期待の新鋭です。小里さんはFragile のWebサイトで「真理や教訓を掲げるのではなく、私たちの考える社会の在り様、人間の実相を提示することで、道標を失った現代を生きる人々の意識に波紋を投げかけられる石となれればと願っています」と書いています。
 吉俊さんの期待は外れなかったようです。次のような感想を記していました。

物語は、この巨大なビルに集まってきた異人達が集まるエレベーターの管理室で展開する。 このビルには、世界中の企業や偉人が入居していて、言わば世界を動かしている建物であるという・・・そして、そのビルのエレベーターは世界の骨髄であり、その管理室は脳ではないか・・・それを管理し、保守している我々のお陰で社会が成り立っているのではないか?・・・なのに何故、自分達はこんな惨めな思いをしているのであろうか? 抑圧された人たちが巡らす極端な思想の展開・・・アメリカの同時多発テロのモチーフを借りて収斂していくエンディングは秀逸でした、鳥肌~。


[上演記録]
Fragile 第9回公演「塔」東京・こまばアゴラ劇場(5月25日-31日)

劇作・演出 小里清
出演
渡辺陽介/横畠愛希子(マンションマンション)・井上幸太郎・泉陽二・
有川マコト(絶対王様)・明樹由佳(La Compagnie A-n)

Posted by KITAJIMA takashi : 05:19 PM | Comments (0) | Trackback

June 08, 2005

三条会 『メディア』

「〈犯罪〉をテーマとするギリシア悲劇特集」と銘打たれた Shizuoka 春の芸術祭2005が、静岡芸術劇場と舞台芸術公園にて、5月から6月の毎週末に開催されています(6月18日まで)。鈴木忠志を中心に、若手演出家がさまざまのギリシア悲劇から「現代」を読み解かんとする、たいへん興味深い催しとなっております。過日、三条会がエウリピデス原作の『メディア』を上演しました。本当に本当に、本当に遅ればせながら、公演評です。

◎関美能留の〈時間〉感覚

 古典劇といわれるギリシア悲劇の一つである『メディア』。その三条会上演をみるわたしたちは、それを「古典」だと感じただろうか。「男と女の愛の抗争」とか、「母親が実の子を我が手で殺し得るか」というような議論でなしに『メディア』を描き切ってみせた関美能留の演出。特殊なある「場」を設定し、その状況下で演じられる必然としての「ギリシア悲劇」の物語から、普遍性とかを抽出するのではなく、徹底して無限定の素舞台に配置された俳優が「それを語る」行為自体に意味性を強くする。「メディア」というヒロインに主導されない一人複数役と複数人一役は、集団としての全体性をより高め、また舞台空間との関係のリアリティーによって、舞台上にはいくつもの時間が同時進行していく。一つの科白の流れ(『メディア』というプロット)に対して、原作とは別の感情が発生し、身体を伴い併走する多様なレベルの時間を以て、新しいギリシア悲劇の上演というにとどまらぬ、演劇という表現の新世界を織り上げたと云っていい。

 まず舞台には、赤やピンクを基調に道化めく衣装をまとった三人の女優(メディアである)が、各々包丁を握り締め、身構えるようにして立っている。上手奥・中央・下手手前と、舞台の対角線上に示された座標、その三層のラインに沿って、上手袖から三人の男優が、科白を語りながら舞台を横切っていくわけだけれど、彼らは局部を手で隠しただけの全裸である。のっけから平手打ちを食った観客は、さらに彼らがメディアの前に差し掛かった途端に刺し殺され地に伏すのを見てまたショックを受ける。トすぐさま起き上がり、下手へ向かう男三人。再び現れると下着を穿いており…と、強烈かつ鮮やかな幕開きに心はがっしと掴まれる。上手から下手、下手から上手の往復は繰り返され、一旦袖に消えるごとに下着・シャツ・ズボン・上着を身につけていく過程は堆積する歴史(=時間)のイメージを示唆しつつ、「殺す/殺される」というモチーフは幾度も反復される。

 関美能留は、物語の生成過程で粉飾を施され、複雑化した「犯罪」を、まず行為そのものにまで単純化する。その上で、原作とは異なるレベルの時間を構築していく。その後も賑々しく展開する三条会『メディア』における、「殺す(/殺される=待つ)→踊る」という鍵言葉は、たとえば「なぜ踊るのか」という疑問符を、「なぜ殺すのか」に転化する力業でさえある。外的特徴ではわからない、不可解な人間の内面。思ったことは口にせず、台詞とは裏腹の隠れた心理的対決により展開する演劇が、近代以降の人間・世界の捉え方だったとすれば、ここではそうして表象されない意識をこそ、視覚化する。人の心の深さ、異様さにつれ、舞台上の違和も深まる。外見が抽象に近づくほどに、現行の一般概念としてのリアルは失われてしまうだろう。しかし、どんなに物語を劇中劇として構造化しても、それは「物語を覆う物語」という枠組みによって結局は物語に回帰してしまうし、政治性や権威から逃れられない。とすれば、「とき・ところ」の明示されない劇空間は、劇構造そのものに対する問いかけであり、挑戦なのである。

 背後にどこまでも広がる闇を背負う、夜の野外劇場。照明により拡大縮小し、自在に姿を変える舞台空間は、やがて光と荘重な音楽に包まれながら、使者がクレオンと彼の娘(イアソンの婚約者)の死の顛末を、いかにも「悲劇的」に語る。力強い俳優の身体、声を借りて、それは美しい一遍の叙事詩のごとく闇に響き渡る。言葉は途切れ、子供らの殺害が一瞬で行われた。そして、再び全裸になった男たちの演ずるコロスが、神を讃える一節を語りながら上手へと消え、夜の帳がしめやかに落ちてくる。円環構造まで用意しながら幕切れに収斂されるスピード感は圧巻の一言。メディアの行先を携え、事件の契機をもたらしたアイゲウスのコリントス来訪は、「子宝がどうすれば得られるか」というアポロンの神託の解釈を求めるためだった。予言の神アポロンは、光の神であり、また夢や空想世界の仮象をも支配する。「神々は思わぬでなく、事々を成したまう」。一見「ギリシア悲劇」らしからぬ仕方を横溢させ、経過しながら、「神」という、それこそ現代を生きるわたしたちにはいかにも理解し難いであろう神話にまで、観客を導いてしまった。

 多くギリシア悲劇は、登場人物の言葉によって—時として「神託」や「予言」という形を借りて、未来が暗示される。そうなることがすでに予想されており、定められた運命に誘われるように、先見された未来が実際に現れるのを待っている。そうした意識の流れは絶えず不意打ちされ、表面的な違和は、従来の価値体系に慣らされたわたしたちの感受性を刺激して止まない。その衝撃の連鎖が四拍子的な型にはまらない、一拍子とも云うべき可変の劇時間をうみだすのである。パターン化された時間を批判しながら、等間隔・順列の時間概念に待ったをかける。一回性とも呼ばれ、行雲流水が必定の演劇、あるいはわたしたちの生において、いかに絶対者たる「時間」とたたかうか。思えば、一時間の上演時間に大真面目に挿入された「三分間の休憩」—山口百恵、MCで「青春」を語ること—さえも、始まれば終わるまで止まらず、また過ぎて帰らぬ時間をせき止め、劇時間に揺さぶりをかけることに成功していた。観念や思想云々といった何ものかを具象として物質化し、且つまた、〈時間〉をも目に見える形で現出させてしまう。

 いかにギリシア悲劇がすぐれているとて、それを読むこと、解釈することは、すでに認識された「過去」の再理解に過ぎぬ。どんなに「何を云わんとしているか」を問うたところで、極言してしまえば「過去」を得るばかりなのではないか。括弧だらけで恐縮だけれど、たしかに「過去」なくして「今」はなく、その「次」も存在し得ない。現代演劇は「過去」を「今」に持ってきた、さてその後は…。考察・検証を経て、次の時間につなげるためにはどうすればいいのか。どのような演劇をつくっていくべきなのか。わたしたちには「いま」、それが問題となるように思えてならないのである。

 休憩を挟んで、音楽に弾ける賑やかな群舞があった。その最中、音楽は止み、ほかの人物が動きを止めてもなお、衝動がはみ出すようにして踊りつづけたあの明るさに、しきりと心救われる思いがするのだ。前衛などもはや無きに等しい今、正しく前衛精神を持って、なおかつエンターテイメントたるを忘れない。賢しらを気取って「ギリシア悲劇的」な物言いをするならば、アポロン的な理知と、ディオニュソス的な狂騒という二つの顔が綾なす舞台、そこに前衛性と大衆性は必ずや共在する証を見た。「過去」を知り、「現在」を賭け、「未来」を生きようと走る関美能留の、〈時間〉と対峙し、超克しようとする意志に裏打ちされた三条会『メディア』は、何か新しい演劇のイメージを、たしかにつくりだした。躍動する俳優の身体そのまま、さわやかであり、極めて健康的。己の貧しいながら観劇体験を総動員してみても、やはり稀有と云わざるを得ないのである。(後藤隆基/2005.5.21/静岡舞台芸術公園 野外劇場「有度」)

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June 07, 2005

新国立劇場 『箱根強羅ホテル』

 前作『円生と志ん生』から三月、早くも井上ひさしの新作が新国立劇場中劇場に御目見え。例によって、と言ってしまえることがもはや「事件」なのだけれど、遅れはともあれ、その筆力には脱帽の一語。さて肝心の作品は、といえば、おそらくは「昭和庶民伝」から「東京裁判三部作」へとつながる系譜を引きながら、歌と笑いの機能を練りあげ、高めていった秀作。作家の熟成を感じさせる一本である。

 昭和二十年。箱根強羅ホテルにソ連大使館を再疎開させる動きが持ちあがり、それにあたって従業員が集められる。近眼・やぶにらみ・幼少の事故と、さまざまな理由で眼に不自由を持つ男三人、図書館員、戦地帰りの植木屋に女子工員たちが担うは靴みがき係、アイロン係、洗濯係、植木係…。外務省の思惑は、ここ箱根強羅ホテルを舞台にしてモスクワルートの和平交渉を進めること。やがて、和平交渉派と、軍部本土決戦派との駆け引きが展開していく。

 心理的な意味/主題としても、また舞台に具象化される仕掛けとしても、『箱根強羅ホテル』を読み解く上での重要な鍵言葉は「見えない」ことである。「見える」と思っていたことが「見えない」。よく見れば見えたはずのことが見えていない、あるいは見ようとしない。全体を包み込む「○○、じつは△△」式の二重構造は、最たる例証といえよう。新国立劇場のシリーズ「笑い」における最大のハイライトともいうべき第二幕冒頭、スパイの正体が次々と露見していく場面では、それが笑いの文法として活きた。「見えていない(=ばれていない)」と密談をつづける彼らの背後に人が集まり、万事発覚、お手上げへとなだれ込む絶妙なテンポは手練手管を知り尽くした作者ならでは。それらをすべて覆う観客の視線までもが一つの劇構造に組み込まれ、舞台と客席の交感により構築される劇的宇宙が見事に炸裂した。

 軍部の作戦にも笑いのペーソスは横溢する。「海軍マムシ作戦」や「H弾・H剤」をはじめ、珍妙な作戦が陸海軍によって語られ、笑いを呼ぶ。アメリカ軍の艦砲射撃を防ぐために陸軍本隊を海岸線から40キロ、山梨にまで後退させ、「これなら砲弾も届かない」と高笑いする軍部の「秘策」はもはや笑い話。状況しだいでは、天皇を長野、朝鮮、満州へと移し、「陛下のいるところが日本なんだよ」とあくまで戦う、そうすればそのうち敵も飽きて引き分けになるとのたまうなぞ噴飯物である。がしかし、「作中に登場する本土決戦用の珍作戦は、すべて実在したもので、作者が勝手に捏造したものではありません」という注が振られているように、一切が紛うことなき事実。冗談としか思えない作戦が、大真面目に考えられ、それを心底信じていた。大真面目に、そして誠実に、それが何より切ない。現代を生きるわたしたちの地平から見れば、「馬鹿」なことである。いま本気でそんなことを考えている人がいたならば、間違いなく精神病院にでも入れられるだろう。けれども、そうすれば勝てる、大丈夫と信じた人びとがいた。「国」を思う気持は、その仕方の差異こそあれ、変わらないにしても、「信じることと冷静に分析することは別のもの」という一言に尽きるわけだ。

 信念や希望は時に人を盲目にさせる。「勝てるはずだ→勝てるかもしれない→勝てる→勝つ!→バンザイ!!」という「手前勝手の四段活用」を駆使して、人は生きる。スパイ三人衆が眼を病んでいた(振りをしていた)ことも、見える/見えないことのメタファとなろう。しかし、目が曇っていたのは果たして戦中に限ったことだろうか。井上ひさしは、戦後、目をつぶって、今なお過去を見ようとしない日本人を、絶えず言及してはこなかったか。ロシア人学校の生徒たちが書いた作文、「忘れられない光景」が、それぞれの瞳に刻み込まれている。「記憶の畑を耕そう 時からこぼれ落ちる一瞬、の、光景集」。かつて「時代と記憶」をテーマにした小劇場での新作五作品連続をつなぐコピーである。記憶しつづけること。それはしっかと見ることであり、また、歌うことでもあった。

 劇中歌は相も変わらず秀逸である。宇野誠一郎はもちろん、チャイコフスキー、ベートーヴェンからリチャード・ロジャースまで、日本語詞を西洋の旋律に乗せる業はお手の物。リチャード・ロジャースの "The Girl Friend" から生れた『まかふしぎなパジャマ』は、少女の喜びと安らぎを歌う佳曲である。また、姉弟の二十五年ぶりの再会を演出した『鬼ヶ島の子守唄』にみられる、歌による記憶の共有。『暗号歌』は笑いとともに「軍部」という特殊な所属を確認する。『勝利の日まで』は、身分・立場・思想の違う人びとを、「一億総心中」へと収斂される「日本国民」としての共同体意識につないだ。それはあたかも「天皇陛下」の一言に姿勢を正すように。井上戯曲における「歌」は、メッセージ色の強かった近作に対して、感情の高まりや、意識に訴えかけるものが増えていた。ドラマ・ウィズ・ミュージック(=音楽を伴う演劇)」を旨とする井上芝居の熟練スピードには目を見張るばかりである。

 今作の最大の功労者は梅沢昌代である。と思わず言い切ってしまったが、後悔はしていない。彼女なしに、『箱根強羅ホテル』は井上作品として最低限のラインを超え得なかったと言って過言ではあるまい。この劇に主人公(のようなもの)がいるとするならば、麻実れい演じるロシア語教師、山田智恵子だった。日本人(こちら)とロシア人(あちら)との混血(半々)である彼女は日露関係の楔となるよう位置づけられていたし、また、劇中歌も多くソロパートをあてがわれ、劇の中心として屹立すべきだったろう。しかし、井上作品初出演に加え、台本の遅れによる稽古の不備など、もう少し時間があったらな、仕方ないのかなとつい思ってしまう事情は鑑みた上で、舞台に立つだけで凛とした空気を放つ風格は流石ながら、やはり台詞がぼやけ、対話に勢いが足りない。逆に、梅沢昌代は井上作品の常連も常連、こうした状況は幾度もくぐり抜けて来た経験もあるにしろ、緩急自在の台詞術、他俳優との連携を巧みに主導し、劇空間を縦横に疾駆する。梅沢昌代の身体のリズムは、井上芝居のリズムに本当によく似合う。俳優と作品の幸福な出会いとは、こういうことを云うのだろう。ただ、少しばかり「よ過ぎた」ものだから、麻実れいを食ってしまったことは否めない。二人の絡む場面では多少抑えた印象もあったが、全体として、完全に劇の軸になっていた。バイプレイヤーが主役以上に輝いてしまう、それはそれで問題なのである。けれども、段田安則ら巧者も光り、また新境地を開拓した感のある内野聖陽も好演、中劇場の広い空間を、何とか調和させることに成功していた。

 井上ひさしは、「あの」ラジオ放送を境に変転する「日本人」の姿を描きながら、「1945.8.15」という刻印を舞台に乗せない。そこに至る「オキナワ/ヒロシマ/ナガサキ」を悲劇の現場として用いない。これまでの作品では、幕切れのその先に暗示される登場人物の運命は決して明るいものではなかった。希望は示唆されながら、常に、不安や不吉さが立ち込めていた。けれども、『箱根強羅ホテル』には、必死で生きていく人びとの光がある。前線へ飛ばされシベリアに送られた稲葉陸軍少佐、任務中に負傷し軍の病院に入院した岡陸軍軍曹と三浦海軍少佐、進駐軍にくっついてジープに乗り込んだ三人娘…。明るい未来ばかりではないにしろ、前向きに生きる術を得た登場人物の笑いによって幕は下りる。それをよしと見るか否か。観客の胸にのみ、答えは在る。(後藤隆基/2005.6.7/新国立劇場 中劇場 [PLAYHOUSE])

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