11月1日から新サイトに移行しました。URLは下記の通りです。リンクしている場合はURLを差し替えていただくようお願いいたします。

http://www.wonderlands.jp

June 30, 2005

机上風景「複雑な愛の記録」(追記)

 机上風景の第11回公演「複雑な愛の記録」に関して、24日付レビューを掲載しました。その後、「観劇インプレッション」サイトの「#10」さんが公演評を掲載しているのが分かりました。そこで「特殊能力ゆえに普通ではない感性を持っているはずの主人公だが、その行動はとても率直な感情にもとづいており、なぜか共感できる」「彼女の恋は悲劇で終わるが、ラストシーンは不思議と美しい印象を受けた」と書き留めています。

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June 29, 2005

女体道場「オタンジョウ日警報」

 女体道場第7回公演「オタンジョウ日警報」が高円寺・明石スタジオで開かれました(6月16日-19日)。シリアスなテーマを意外な角度で切り取ってみせる劇団が今回選んだのは「学習障害」でした。

 「休むに似たり。」サイトのはわひらさんは「小さい頃に学習障害と言われた男。成長してもあまり仕事も長続きせず、変態向けグッズショップでバイトの日々。そこに集う人々の姿。一方かつて彼を学習障害と判断した教師は痴漢の疑いで取り調べられて…」とあらすじをまとめています。その上で「この手の話題を取り上げようという勇気と、芝居を観ている最中に、あたしの気持ちの中に起こるさざめきと、重くも、しかし絶望的ではない結末、すっと肩透かしするかのように流す力量、たいしたものだと思う」と評価していました。

 「女子大生カンゲキノススメ」サイトは次のように述べて、舞台のケルンを評価します。

痴漢とか、変態とか、学習障害とか、色々な事柄を扱っているけれど
私がこの芝居から見たのは
「自分の弱さを何かのせいにしないといられない」
そんな何よりも人間らしい人間の姿と
「万人に受け入れて貰える事実には限りがあるという真実」
だった。
それらを見事に描き出している作品であると思う。

 さらに「役者の過剰な演技は気になったものの、そんなものを吹き飛ばしてしまうくらい脚本がよく出来ていた。女体道場という劇団名から観劇を敬遠している人が多いようだが勿体ないと思う。スタンダードな芝居作り、してる」と書き留めています。

 「観劇?飲んだくれ?日記」のnewroadさんは公演を2度みているようです。「人の心のどうしようもない部分をエンターテイメント化して描くのが持ち味」と特長を述べた後「しかし人の心をよくわかってるなあ」と舌を巻いていました。

 【参考】
 中野真希、桶川雅代さん(女体道場)「さわやかに、テンポよい悲劇を 見終わったときが始まり」(2004年8月8日)

[上演記録]記録
女体道場第7回公演「オタンジョウ日警報」
高円寺・明石スタジオ(6月16日-19日)

作・演出: 女体道場

◆役者◆
相沢樽介、がまこ、コシヒカリ、嶋田幸子、めすぶた、内山清人(project サマカトポロジー)浦壁昭一、大門郁子、田中誠、野村直生、服部紘平、パラディ

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June 27, 2005

劇団鹿殺し「百千万」

 劇団鹿殺し第12回公演「百千万(モモチマ)」(6月23日-28日)を王子小劇場でみました。入り口で眉をそり上げ、アイシャドウを塗ったお兄ちゃんが幟を抱えて客入れしています。いささか気持ちの悪いチラシの絵柄と同じ雰囲気。結局、舞台も似たような印象に終始しました。ゴキブリコンビナートと大人計画を足して2で割って、結果をすこし薄めたような感じのステージです。

 福井県の美浜原発3号機で爆発事故が起き、巨大な頭部を持つ子供「エンゲキ」が生まれます。父が欲しがった越前ガニや行方知れずの母を求めて、彼女が美浜町を目指すロードムービー、ある種の成長物語=ビルドゥングス・ロマンのような展開でした。
 ほぼ時系列順に6話構成。カニ売りとの出会い、父が属したことのある大学の原子力研究所の内幕、核爆発事故の真相などがチープなセット上で進行します。筋はあってなきがごとし、というより最後まで太線で引いてしまったので、かえってウソっぽく感じられてしまいます。

 役者はだれもが薄汚れて見え、粗野な男っぽい雰囲気。男の体臭というか、精液まみれの空気を漂わせています。エイズで亡くなったクイーンのボーカル、フレディー・マーキュリーのビデオ映像を流しながら、マイクを男性器に見立てて振り回すコピー・パフォーマンスは十八番(おはこ)のようでした。振りも堂に入って、さすがにビシッと決まっていたのが、そんなイメージをかき立てました。

 後半は局部を辛うじて隠した男性陣が、ほぼ全裸で踊ったり体をぶつけ合ったりの見せ場が出てきます。そこで宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をとことんコケにしたシーンは特筆モノでした。乙女チックな幻想に泥を浴びせるのですから、宮沢ファンにとっては憤激モノかもしれませんが、ぼくは文句なく笑えました。どこかで被いが外れるのではないかという一部観客の期待は満たされなかったようです。少なくともぼくが見た23日は、微妙なはみ出し!だけでした。

 原発反対のプラカードが出てきたりそれらしいせりふが散りばめられています。初期の大人計画にもそんなシーンがあったと記憶しますが、しかし本筋というより、ストーリー展開の上で織り込まれた背景のひとつに過ぎないような気がします。

 公演がひとまず終了したら、役者たち自身が両袖で「アンコール」「アンコール」と叫び出します。苦笑気味の客席がぱらぱら拍手すると、おそろいの黒いTバック姿で役者たちが登場し、路上ライブで鍛えたと思われるおそろいのダンスシーンを見せていました。劇団のWebサイトによると、セルフアンコールだそうです。男の肌のすべすべやムキムキ、それにモッコリ好きのファンにはたまらないおまけだったのではないでしょうか。

 劇団サイトに、昨年11月の大阪公演アンケートがいくつか掲載されています。
 「あたたかい劇でした」「初めて旅に出たくなりました」「やりたい放題、汗だくでやっている姿にしびれました」「楽しかったです。なんか元気でました」「カッコいいよ!粋だよ!キタねー、変態が!最高だよ!」…。
 筆跡がどれも似たり寄ったりに見えたのがご愛嬌ですが、ファンの関心のありようとともに、こういうアンケートを掲載した劇団の心情が吐露されているとみたほうがいいのかもしれません。(北嶋孝@ノースアイランド舎、6月29日、7月1日補筆)

[上演記録]
劇団鹿殺し第12回公演「百千万」(モモチマ)
東京・王子小劇場(6月23日-28日)

作 :丸尾丸一郎
演出:髭の子チョビン

出演:髭の子チョビン、丸尾丸一郎、山本聡治、JIRO..J.WOLF、渡辺プレラ、オレノグラフィティ、中村達也
サポート:リアルマッスル泉
歌手:青山和弘

スタッフ:
舞台監督 吉田慎一
舞台美術 津郷峰雪
照明デザイン 戒田竜治(満月動物園)
照明操作 海老澤美幸
音響協力 (有)T&Crew
衣装 赤穂美咲
コスチューム製作 坂下智宏
映像 三木康平・高堂勝
写真 溝添真紀
フライヤーデザイン&WEBデザイン 李
製作助手 山田裕美、内藤玲奈、束野奈央、李

企画製作 オフィス鹿


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June 26, 2005

劇団くねくねし「おみそれテクニク大辞典 ろくろっ首ロードくねくね!」

 芝居が始まると下手のスクリーンに、キューピーが半ズボンを履いたような2頭身のキャラが現れ、例のごとくピョンピョン跳ね回るのですが、危ないと思ったら案の定、地面の裂け目に落下。と同時に、ドーンという音で半ズボン姿の少年が舞台に登場する…。
 下北沢駅前劇場で開かれた劇団くねくねし「おみそれテクニク大辞典 ろくろっ首ロードくねくね!」公演(6月16日-19日)は、映像と現実との巧みな接合、ゲームを芝居に仕立てたというか、おとぎ話をゲーム感覚で作り上げたような冒頭のシーンで、切れ味のよいポップな芝居を予感させました。それから2時間。期待通り奇想天外なアイデアが次々に繰り出されるステージがスピーディーに、しかも手抜きなく目の前に現れ、エーッ、そんなのアリか、と思っているウチに、あれよあれよという間にラストのハッピーエンドまで連れて行かれます。ホントに、おみそれしました。

 「おみそれテクニク」の習得を目指す主人公の少年が、そのノウハウを集めた「大辞典」全100巻の読破、習得を目指す旅、というのがストーリーの大きな流れです。敵を倒してポイントを稼ぐような仕掛ではなく、桃太郎のように家来を集めて幼なじみの女友達と結婚するのがゴールですから、幸せなおとぎ話と言っていいかもしれません。

 ただ、登場人物はほとんどゲーム世界の住人そのまんまです。野球帽の下にお皿を隠した河童のクォー、巨大な野菜を売り歩く喜瓜風太朗、主人公と同じようにテクニックを学ぶおみそれケンジロウは「若」と呼ばれ、3人の部下もそれなりに技を身に着けている-。ゲームというかマンガの中にいるような登場人物が動き回る世界を、全力を傾けて作り上げます。おみそれテクニクの修行物語に加え、姉のなりすまし、父の母捜し、芸比べに負けてころりと相手方に寝返る部下の離反、終着駅まで行くのに20年もかかる地中列車など、副筋を絡ませる作劇上のテクニックもてんこ盛りです。
 「おみそれテクニク」も具体的に言われてみれば、「醤油の染みはゴシゴシこするな、根気よく叩け!」とか「円周率はπに置き換えて計算」とかいう類の「常識」レベル。そのおばかさ加減が笑いを呼ぶほどです。オゲイジュツの臭みはこれっぽっちもありません。
 しかし劇中に使われる映像はクオリティーが高く、お化け屋敷に入る前後でカップルの親密度が違ってくるイラストも秀逸。舞台美術も物語世界にぴったりだし、特にオリジナル楽曲を使った音楽は知らないうちにぼくらをドライブしてくれました。
 荒唐無稽や無邪気な要素が散りばめられたストーリーを、それぞれの分野の才能が寄ってたかって、しかもおもしろがって実現しようとする姿勢に、むしろけなげな潔さがうかがえるような気がします。

 月並みな言い方を借りると、この芝居は大人も子供も楽しめますが、それでも観客を選ぶのではないでしょうか。芝居を見て、なにかをつかみ取ろうとする「飢えた人たち」には場違いな気がします。レストランのメーンディッシュではないのです。夜店でにぎわうお祭りの空間で、裸電球に照らされた綿菓子を思い浮かべればいいのではないでしょうか。デザートの甘い香りと舌触りに似ているかもしれません。必要なのは、ほんのちょっぴりでいい、夢みる力と遊び心なのです。

 それにしても、主役の少年を演じた小田井孝夫はカッコよかった。初々しいというか、好奇心に満ちた百武マナブのキャラクターを、とてもすがすがしく演じていました。謎の列車の案内役だった新倉壮一郎は8頭身。立ち姿というより、長い手足がすてきに目立ちます。羽鳥ユリコは謎のキャラクター。あの頭に乗せた風車は何なんだ、どういう役回りなのか分かりにくいのですが、若い時代を演じた吉川かおりさんはとても印象に残ります。ひそかにファンに…。

くねくねし「おみそれテクニク大辞典」公演チラシ 才能が集まっていると言えば、文庫本のカバーに見立てたチラシも楽しめます。アイデアもいいし、出来栄えも図抜けていて、本物がみすぼらしく見えるほどでした。目立ちますよね。
 もう一つ、劇団のWebサイトも作りはプロはだし。スタッフの力をこれほど集められるのも、くねくねしの魅力だと思います。
(北嶋孝@ノースアイランド舎 6.28補筆)

【参考】
杉林充章(脚本)インタビュー「ウソとホントの境界線を渡る 固有名詞が出ない芝居づくり」(2004年10月3日)


[上演記録]
劇団くねくねし第4回公演「おみそれテクニク大辞典ろくろっ首ロードくねくね!」
 下北沢駅前劇場(6月16日-19日)

作 :杉林充章
演出:小田井孝夫
出演:
小田井孝夫/三土幸敏/新倉壮一郎/真下かおる/斎藤祐介/塩田泰典/吉川かおり/奥村香里/藤本征史郎/やまざきゲジゲジ/持永雄恵
役者松尾マリヲ(ロリータ男爵)/猿飛佐助(ベターポーヅ)/財団法人ノリオChan(エッヘ)

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June 24, 2005

机上風景「複雑な愛の記録」

 机上風景第11回公演「複雑な愛の記録」が新宿タイニイアリスで開かれました(6月14日-19日)。「リアルな演技、シリアスなエンタテインメント」を標榜している劇団の特質がよく現れた舞台だったようです。

 「休むに似たり。」のかわひらさんは「手紙をただひたすら、電話に向かって読み上げる女、そうなるに至った理由は彼女の自由を奪うが、ふと目にした光景は彼女をとりこに」と舞台の設定を凝縮して表現、「会えない男女の、少し込み入った話は見応えがあります」と感想を書き留めています。
 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんも「主人公の女性を取り巻く物語というか、設定というか・・・に大変引き込まれまして、演じられていたおもちゃさんの雰囲気の良さも相俟って大変お気に入りでした」と褒めていました。その上で劇団の特質を「机上風景の舞台は、リアルを装い、シリアスを道具して、それこそを娯楽として提供するものでありました。リアルとは書いてあるけれども、現実をリアルに描き出していくという訳ではなくて、どちらかというと虚構であり作られた世界をリアルな言語で語っていくという舞台」と要約していました。

 机上風景のWebサイトに作者の高木さんが次のように書いています。

最後まで、いちども顔を合わせない男女の恋愛ものをやってみたかった。ひと言で言ってしまえばそれで終わりなのだが、それはべつに既成の恋愛ものに不満があるとか、自身の恵まれない恋愛体験を投影したいとかいうわけではなく(事実恵まれてないが)、なにごとに対しても不器用な人びとを描いてみたいと思ったからにすぎない。

 会場となった新宿タイニイアリスのwebサイトに、座付き作家の高木登さんのインタビューが掲載されています。その中で高木さんが「『ラブストーリー』という看板に偽りなし、『複雑な愛の記録』というタイトルにも偽りなし。悲劇的な結末かハッピーエンドかは見てのお楽しみ、というところでしょうか」と言っていました。これもリアルな表現だと思います。


(追記 2005.6.30)
 「観劇インプレッション」サイトの「#10」さんは、ストーリーの特質を次のようにまとめています。

 特殊能力ゆえに普通ではない感性を持っているはずの主人公だが、その行動はとても率直な感情にもとづいており、なぜか共感できる。そして彼女は恋をしている、あるいは恋をしているつもりになっている。正常ではないけれど素直な姿勢で愛を伝えようとする。  しかし姿を見ることができても心まで読むことはできない。彼女の恋は悲劇で終わるが、ラストシーンは不思議と美しい印象を受けた。


[上演記録]
机上風景「複雑な愛の記録」
新宿タイニイアリス、6月14日-19日

【作】 高木登
【演出・出演】古川大輔
【出演】平山寛人/おもちゃ/浜恵美/川口華那穂/坂口哲

【舞台監督】 伊丸岡慎
【照明】 千田実
【音響】 堀越竜太郎
【宣伝美術】 佐藤友香
【写真撮影】 イナヤマミツハル
【制作】 又木恭一郎

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June 22, 2005

岩松了「センター街」(追記)

 Critic Line Projectの竹内孝宏さんが「センター街」のレビューをまとめています。先に掲載したレビュー紹介に追加ます。

 この作品を「デビュー作『お茶と説教』(1986年)と最新作『シブヤから遠く離れて』(2004年)のあいだにはさまって」いると指摘した上で、「そこで際立っているのは時系列的な連続性よりもむしろ断絶である」と述べています。初期作品に描かれたのがご近所という近隣関係が成り立つ場だったのに対し、「センター街」ではさまざまな階層が吸いこまれそのままダラダラと居ついてしまう「都市のブラックホール」「場ならざる場」に様変わりしたと言うのです。「これはあきらかに作家の時代認識であり、また80年代末から90年代半ばにかけてこの国が経験した地殻変動の演劇的要約であるといえる」と述べています。

 なるほどこう読解してみると、だらしなく間延びした印象を与えていたいくつかの断片が、ある必然性を持って織り込まれたのだと推測が可能です。

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June 21, 2005

とくお組「マンション男爵」

 慶応義塾演劇研究会出身の「とくお組」第4回公演「マンション男爵」が東京・渋谷の LE DECOで開かれました(6月15日-19日)。昨年のガーディアンガーデン演劇フェスティバルでは残念ながら出場枠から外れましたが、多くの審査員が実力を認める存在でした(「公開審査」参照)。ぼくも予選審査会場にいて、彼らのパフォーマンスに感心した記憶があります。
 明治通りに面したビルの5階。マンションの一室らしいフロアーが会場です。時間ぎりぎりに入場したら、すでに大きなテーブルを囲んで「男爵」たちが席に着いています。すぐにメンバー同士が口論したりして内輪もめの様子でした。

 一段落したところで、片想いに悩む若い男が、会場入り口から入ってきます。恋の成就のために、男爵たちがそれぞれの特技を生かして悩みの原因を特定し、さまざまな手段を駆使して解決策を授けていきます。コンピュータを使って分析するアナリスト(クロコダイル男爵)、恋の相手に他人の名を騙って電話するネゴシエーター(スネーク男爵)、ダンディー気取りで説教を繰り返し、挙げ句の果てに豹柄の服装を強要するホスト(タイガー男爵)、そしてトイレットペーパーで恋の行方をみせようとする占い師(ポテト男爵)はストーリーの節々でボケ役を演じてみせる…。エピソードの割り振りやストーリーの起伏作りなど腕は確かです。

 会場の使い方が変わっていました。テーブルと同じフロアーの3面に客席がセットされ、正面にはスクリーンが張られています。怪しげなデータ解析はここに大写しされるわけです。扉を開けてベランダでケイタイを傍受しようとすると、会場には街の騒音が飛び込んできてなんとなくリアルな感じがします。大詰め近く、恋敵を妨害しつつ、女の子の行動を見張る場面を「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんは「場所いじり」として次のように書いています。

 出演する役者を決めてから台本を書くことを「あて書き」と言うけど、今回のとくお組の公演は劇場版「あて書き」かもしれない。観客と同じドアから相談者は入り、クロコダイル男爵はベランダに通じる扉から外に出て、パソコンで相手の女の子の居場所を特定する。
「いました!」
「どこだ!」
「向かいのスターバックスコーヒーです!」
 この辺のやり取りは学園モノの学生劇団のノリだ。「マンション男爵」のすごい所はこの場所いじりを徹底させて、最後は実際に役者を(道路向かい側にある)スタバまで往復させてしまったところだ。(といっても真意は観客には分からないのだが)

 相談者を助けるつもりでアルバイト先の店長に電話したポテト男爵が、ささいなことでキレて店長と怒鳴り合いを演じたり、ケータイ傍受用のアンテナが鉄製のフライパンだったり、まことしやかな口舌と裏腹に、実際は恋の行方をあらぬ方向にそらす場面作りは会場の笑いを呼んでいました。この辺の呼吸は、好みの人にはこたえられないでしょう。よくできたシチュエーションコメディーと言っていいのではないでしょうか。ポテト男爵を演じた役者の個性が笑いに拍車をかけていました。

 今回の公演はおもしろかったのですが、フォーマルウエアに身を固め、舶来の「男爵」を演じる姿は、やはりどこか窮屈な印象を免れません。昨年のガーディアンガーデン演劇フェスティバルでみせたコント・パフォーマンスは軽快でしゃれていて、みていて気持ちが伸びやかになりました。しゃれたコントを連発して見せた舞台とガチガチに筋書きを固めた舞台と、劇団の才能の幅を見せてもらいましたが、これからどちらの流れに乗っていくのでしょうか。
(北嶋孝@ノースアイランド舎)

[上演記録]
とくお組 第四回公演『マンション男爵』
渋谷 LE DECO(6月15日-19日 )

脚本・演出 徳尾浩司
キャスト 堀田尋史、岡野勇、篠崎友、北川仁、鈴木規史、永塚俊太郎
舞台監督 高山隼佑
舞台美術 山崎愛子・久保大輔・金子隆一・恩地文夫
照明 中島誠
音響 とくお組
映像 岡野勇
制作 飯塚美江・菊池廣平・吉田陽子・佐藤仁美
宣伝美術 飯塚美江

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June 17, 2005

ジャブジャブサーキット「成層圏まで徒歩6分」

 劇団創立20周年記念公演・第1弾で第42回公演。名古屋、東京公演が終わり、大阪公演は6月末から7月初めの予定。ジャブジャブサーキットの芝居は何度か見ていますが、いつも平均以上の出来栄えなので安心して出かけることができます。SFっぽい話でも、現実世界との緊張感をオーソドックスに舞台に載せられる劇団という印象でした。今回はどうでしょうか。

 いつも変わらず活発にレビューを掲載している「しのぶの演劇レビュー」サイトによると、「舞台は天文台に隣接する“成層軒”という名のレストラン。天文台の持ち主である天文学者の森迫教授が急死し、助手の雨月(咲田とばこ)がその後を受け継いだが、町内では天文台の取り壊しが検討されるようになっていた。レストランを経営する夫婦(岡浩之と中杉真弓)と近所の和菓子屋の主人(小山広明)らは、天文台を立て直そうと策を練っている。そんな折、法律事務所の職員だと名乗る女(高木美千代)が訪ねてきて・・・」というお話です。

 「しのぶ」さんは「いいお話でした~・・・前作同様、優しいセリフにほろりとさせられ、よく練られた謎解きも楽しかったです」と書いています。
 ただ不満も。「役者さんの演技と演出の力が脚本に追いついていないため、作品の本当の魅力を伝えることができていません」と述べています。

 この辺は「観劇の日々」サイトのしおこんぶさんも「役者の空気に一体感がないので、作品全体のまで中途半端に感じてしまった」と惜しんでいます。しかし「ラストシーンはちょっと難解だったようにも思う」けれど「ミステリー風の謎解きが沢山あって、次々と解決されていくあたりはとても面白い」と作家の力量を認めています。

 はせさんの作品に対する評価はおしなべて高いようですね。「しのぶ」さんは最後に「『ニセS高原』(平田オリザさんの戯曲を4人の演出家が演出)みたいに、はせひろいちさんの戯曲を色んな劇団で上演する企画とかあったら嬉しいな」と書いています。そういう目利きのプロデューサーが現れないものでしょうか。


[上演記録]
ジャブジャブサーキット劇団創立20周年記念公演・第1弾
第42回公演「成層圏まで徒歩6分」

名古屋公演@七ツ寺共同スタジオ(5月18日-22日)
東京公演@ザ・スズナリ(6月10日-14日)
大阪公演@ウイングフィールド [ウイングフィールド提携公演] (6月29日-7月3日)

 作・演出:はせひろいち
 出演  小山広明 岡浩之 咲田とばこ 荘加真美(T) 中杉真弓 小関道代
      高木美千代 永見一美 小島好美(T) 千頭麻衣(T) 他
    (T)はトリプルキャストです。
    名古屋はトリプルキャスト。東京は荘加と小島、大阪は荘加と千頭が出演予定。

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June 15, 2005

しずくまち♭「穴ヲ食ベル」

 芝居者と音楽家の表現ユニット「しずくまち♭」の公演「穴ヲ食ベル」が麻布die pratzeで開かれました(5月19日-23日)。2002年に改名していますが、前身の劇団から数えると、活動歴は14年にもなります。公式サイトには「半音下がった視点から / 物語を言葉として音として立ちのぼらせて行く / 想いが液化する瞬間……感情の露点を私達は描きます」という言葉が載っていました。

 「#10の観劇インプレッション」サイトの「#10(ナンバーテン)」さんによると、「すべての女性が死滅し、残った男達は不老となった世界。ダンディズムに生きるよすがを見出した男達は、失われた女の記憶を取り戻すために女と子供を“造った”。彼女たちの出現によって男達は少しずつ変わっていく」という物語です。

 さらに「女のいない世界の男達を女優が演じ、造られた女を男優が演じる少々奇妙な舞台。最初は滑稽だったが、不思議なものですぐに見慣れて、シリアスな場面でも違和感なく観られた」としたあと、「奇抜な設定の世界でややベタな展開、そして少々意外なエンディング。バランスのとれた秀作だったと思う」と述べています。

 いつも紹介している「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは男女の役割取り替えについて次のように書いています。

演出上の取り組みとして秀でているのは男の役を女性が、女の役を男性が演じるという部分です。一聞すると、ただそれが笑いのネタとして行われているのでは?という感想を抱くかも知れませんが、この配役が意外にも物語にうま~く溶け込んでいる。男らしいという部分を見失った男、女の作り物であって女性を学ぶ女・・・そんな倒錯している設定を露骨に描き出す方法として、この男女の入れ替えはかなり上手くいっていると感じた。

 吉俊さんは末尾で「偏らないバランス感覚で、いろいろ楽しめる作品」と述べています。
 「しずくまち♭」 は、ユニークな個性を持ったユニットのようです。次作をみてみたい気分になりました。


[上演記録]
 しずくまち♭公演 「穴ヲ食ベル」 
 麻布die pratze (5月19日-23日)

■作・演出:ナカヤマカズコ
■作曲・編曲:侘美秀俊
■出演:岡島仁美、山崎龍一、坂本華子、上地正子、由田豪、伊藤美紀、 ナカヤマカズコ、飯野さくら、下中裕子、諏訪友紀、朴井明子
■演奏:侘美秀俊(ピアノ)、 海月たかこ(ヴァイオリン)、生形憲市郎(コントラバス)、堀米綾(ハープ)
■Staff
 照明/大堀久美子
 舞台美術/伊藤雅子
 宣伝美術/大下詠子
 衣裳/竹内陽子
 制作/伊藤美紀

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June 14, 2005

劇団乞局「耽餌(たぬび)」

 不気味な世界観と丁寧な演出などで評価の高い劇団「乞局」(コツボネ)の第8回公演「耽餌(たぬび)」が6月9日から12日まで王子小劇場で開かれました。同劇場が主催する「2004年佐藤佐吉賞」で最優秀作品賞(「汚い月 『陰漏』改訂現代版」)を受賞したこともあって、期待の舞台でした。

 劇団Webサイトによると、乞局の舞台は「何処かしら欠けた登場人物たちが救いようのないすれ違いを織り成し、不幸な結末へと静かに進んでいく」(プロフィール)と書かれています。確かにこの公演に登場する人物はどこかが「欠けている」ように見受けられます。

 産院で赤ちゃんの首を絞めた過去を持つ不妊の看護婦が刑期を終えて出所、ある安アパートに入居するところから舞台が始まります。犯罪の再犯防止と更正などに協力する「付き人」はゲイだと言い、赤ちゃんを殺された若夫婦が出所を知って付きまとったり、自分をナイフで刺したことのある不登校の中学女生徒にアパートで勉強を教える女教師がいたり、元夫婦でありながら同じアパートに住んで性的関係もあるタクシー運転手の男女も登場したりと、歪んだ人間関係や裏のある性格が描かれます。ちょっと訳ありのアパートの調理人ととんちんかんな見習い(?)も芝居の欠かせない要素なのかもしれません。「欠け方」はさまざまですが、人物配置と性格描写は手筋に適っています。

 「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは「表面的には平穏な日常が紡がれているようでいて、でも背後はしっかりと崩壊している。そんな裏と表を抱えている、まさに『欠けた』人たちが織り成すアットホームな日常」を、京極夏彦の小説世界になぞらえます。「漠然とした恐怖がジワジワと積み重ねられていく」特有の雰囲気ですね。特に乞局は「欠けた非日常によって、補完された日常を想起させる」とみた上で「観客は、そのギャップの部分に『気味の悪さ』を感じ、救われないエンディングに『後味の悪さ』というコメントをつける」と述べています。京極ワールドとの対比は鋭いですね。

確かに、エグイ終わり方だったのですが・・・きっとそれだから「後味が悪い」のではなく、結局のところエピローグが無いからで、日常へと引き戻されないから観客はそう感じるのではないだろうか。 残酷な結末に明確な言葉を与えて日常の一部に昇華させない手法、誰もが答えを求めていて答えを与えられる事に慣れている時代の中で、実のところ後味の悪いものが日常に埋もれている・・・そういう答えの無いことに答えを与えないことの価値を与えているものかもしれない。

 「答えを与えないことの価値」に意味を見いだしている吉俊さんとは別に、物語の組み立て面や完成度からみると、また違った道筋が見えてくるようです。
 乞局を「贔屓の劇団」という「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんは、「褒め言葉ばかり考えながら開演を待っていたから、終演後は少しの間唖然としてしまった」「個人的には大変期待外れだった」と書いています。その後も「本作品では粘ついた会話が醗酵しない。いつ醗酵するのかなと思って観ていたら、くしゃっと崩れて終わってしまった。個人的な予測だが、題材を盛り込みすぎて半端に完結してしまい、書き直すに書き直せなくなってしまったのではないだろうか」と推測を交えつつ残念がっています。

 ぼくが見たのは10日(金)の公演です。初めての「乞局」体験なので過去の舞台との比較はできませんが、意外に垢抜けた印象を受けました。不気味さをよい意味で手堅く仕立てた舞台と言い換えてもいいと思います。演出が手堅いだけに、物語の組み立てに構造的な不具合が見え、なにか手違いがあったのではないか思われます。

 物語の隠れたモチーフは、人間の肉体や骨格の手応え、血と粘液の手触りだと思われます。首に手をかけたときの「ポキッと音がした感触」「思い出すたびに心が踊った踊った」という「人に言うわけにいかない」感覚が不気味さの源泉になっています。この穴場に観客をどう引きずり込むかが腕の見せ所でした。

 同じアパートに住む人たちの群像劇のようにみえながら、最後には些細な仕草を周到な伏線に変え、一挙に全編を集約するラストシーンが用意されるのではないかと思わせる進行でした。しかし元看護婦の最後の行動で、その暗闇に収斂される登場人物は半分もいません。残りはただ周りを取り囲む一員の役回りとなって、結末からこぼれ落ちているように思えました。

 これとも関係しますが、やはりストーリーの構造的な問題に触れないわけにはいきません。この芝居は、出所する元看護婦に「付き人」が伴うという設定でした。再犯防止と更正、さらには被害者の復讐防止のためだとプログラムに書かれています。しかしその存在が、劇全体を動かすキーパーソンの役割だとは最後まで思えませんでした。またゲイだから女性と同居して構わないという設定は、ゲイの実体を誤解しているか、でなければ偏見の影をまとっていると言われかねません。また付き人とは関係なく、ほかのカップルらが別々に動いていて、結末で束ねられるような印象も受けませんでした。

 もう一つ、プログラムでは、鳴き石という石塚のようなものを舞台上に配置しています。みんながツバを引っかける対象として存在していたことは分かりますが、物語にどう絡んでいたのか明瞭でありません。石の傍らで惨劇が起きるにしても、その場所が必然であるとも思えません。プログラムにわざわざ解説まで掲載された「付き人制度」と「鳴き石の伝承」が、プロット進行の捨て石になっているような印象を残しました。

 乞局のこれまでの公演をみて「演技も演出も洗練されてきた分、魅力が薄れてきた」という意見も耳にしました。確かに不快感を呼び覚ますほどの気味悪さが、ある種の稚拙な演技と演出によって醸し出されるかもしれません。しかしそれは一回性のパプニングに過ぎないでしょう。次のステップに踏み出してしまったのですから、後味の悪いドロドロした感触を、緻密な演出と練り上げた演技で具体化していく以外に道はあせません。

 京極ワールドになぞらえるわけではありませんが、これからは物語が決定的に重要になってくるはずです。骨格がしっかりすれば、血も肉もたわわに育ち、粘膜も粘液も発酵するほど滲み出ます。そうなってこそ、おぞましいほど後味の悪い収穫が期待できるのではないでしょうか。後味の悪さやおそましい結末の意味と意義の考察は、そのときまで待ちたいと思います。


[上演記録]
劇団乞局 第8回公演「耽餌」(たぬび)王子小劇場提携公演
2005年6月9日-12日

【脚本・演出】下西啓正
【出  演】役者紹介
秋吉 孝倫
田中 則生
下西 啓正
三橋 良平
石井  汐
酒井  純
古川 祐子

安藤 裕康
佐野 陽一
吉田 海輝
五十嵐 操
加藤めぐみ(零式)
松岡 洋子(風琴工房)

【スタッフ】
舞台美術
:丸子橋土木店(綱島支店)
照明
:椛嶋善文
照明操作
:谷垣敦子
音響効果
:木村尚敬
:平井隆史(末広寿司)
舞台監督
:谷澤拓巳
衣装
:中西瑞美
宣伝美術
:石井淳子
WEB管理
:柴田洋佑(劇団リキマルサンシャイン)
制作
:阿部昭義
:尾形聡子
制作協力
:玉山 悟
:石原美加子
:林田真(Sky Theater PROJECT)
協力
:田村雄介
:(有)エム・イー・シー
:岡崎修治・勉子
:古藤雄己(創像工房 in front of.)
:飯田かほり(蜷局美人)

製作
:乞(コツボネ)局

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June 13, 2005

岩松了「センター街」

 劇作家岩松了の作品3本連続公演の第2弾「センター街」が下北沢のザ・スズナリで開かれました(6月1日-8日)。最初の「アイスクリームマン」は5月11日-29日に終わり、「隣りの男」は6月15日-26日(本多劇場)の予定です。

 「女子大生カンゲキノススメ」サイトは岩松作品の特長を「岩松作品は一見、誰にでも見破れそうな展開や人間関係を巧妙な台詞回しで覆い隠したり、露呈させたと思ったら煙に巻いたりして観客の意識を惹き付ける。また、登場人物の視線や口調の端々から読み取れる情報が他の舞台より格段に多いので、明らかにされる事柄が少ないにも関わらず、目が離せなくなってしまう」と述べています。

 「アイスクリームマン」と「隣りの男」の演出は岩松自身ですが、この「センター街」は、劇団「ペンギンプルペイルパイルズ」を主宰する倉持裕が担当しています。略歴に「1994年岩松了プロデュース公演『アイスクリームマン』に俳優として参加」とあるほどなので、親しい間柄と思えます。その演出はどうだったのでしょうか。
 関連写真を併載してセンスよくブログページを作る「Club Silencio」サイトの「no_hay_banda」さんは、「これがなかなかツボを押さえた演出で感心した。局面を丁寧に積み重ね、ぬるくて実は熱い世界を見せる手捌きが絶妙である」と褒めています。

 ぼくもこれを含めて2作ともすでにみました。3作目も今週の予定に組み込んでいます。感想はその後でまとめます。

追記(6.23)
 Critic Line Projectの竹内孝宏さんが「センター街」のレビューをまとめています。
 この作品を「デビュー作『お茶と説教』(1986年)と最新作『シブヤから遠く離れて』(2004年)のあいだにはさまって」いると指摘した上で、「そこで際立っているのは時系列的な連続性よりもむしろ断絶である」と述べています。初期作品に描かれたのがご近所という近隣関係が成り立つ場だったのに対し、「センター街」ではさまざまな階層が吸いこまれそのままダラダラと居ついてしまう「都市のブラックホール」「場ならざる場」に様変わりしたと言うのです。「これはあきらかに作家の時代認識であり、また80年代末から90年代半ばにかけてこの国が経験した地殻変動の演劇的要約であるといえる」と述べています。

 なるほどこう読解してみると、だらしなく間延びした印象を与えていたいくつかの断片が、ある必然性を持って織り込まれたのだと推測が可能です。

Posted by KITAJIMA takashi : 10:49 PM | Comments (0) | Trackback

June 11, 2005

劇団StoicStick「芝居をなめるな !! 」

 「さようならストイックスティック店じまい公演」と銘打っているが、サブタイトルらしい位置に"劇団ストックステップの演劇教室"というコピーが書かれている。「おはしょり稽古」サイトのあめぇばさんは「店じまい、という理由でか、小劇場劇団の稽古を題材にしている。学生演劇などの大きなジャンルの一つに『演劇部ネタ』があるが、その延長線上のものだ。最後だからこそ使えるネタではある」と始め、「新しく演出家としてやって来た胡散臭い男性に振り回され」「不満がつのっていく前半の展開は、客席まで倦怠感スモッグが立ち込めてきて結構辛い」けれども、その演出家を追い出したあとの様子や舞台の魅力を次のように述べています。

劇団員に降板させられた演出家は芝居未経験の愛妻を後釜に据えてしまうが、「お芝居は観てばっかり」の妻の意見が稽古を活気づかせていく。観客の率直な意見の大切さをさりげなく織り込んでいて、妙にはっとさせられた。 稽古に熱が入って高揚していく感じ、終演後の観客との一体感などまで殆ど芝居の魅力を網羅している。役者が生き生きと動き出す後半は、俄然舞台に惹きつけられる。 小劇場演劇版「演劇部ネタ」は、これでほぼ書き尽くされた感があった。劇団自体の解散公演、というのが作品の魅力を増していた。

 劇団webサイトによると、1997年に旗揚げ、公演毎に役者を集う演劇企画集団でした。リアリズムを追求したりトリッキーな作品だったりと毎回作風を変えながらも、「日常的なテーマでお客様が見て楽しめる舞台を作りつつ、軽快なタッチの奥底で常に人間の根底や生や死を描き、ただのコメディではない、シチュエーションコメディという名を借りての人間ドラマを上演」してきたそうです。今回の解散公演はそれぞれの再出発にふさわしい舞台だったようです。


[上演記録]
◎さようならストイックスティック店じまい公演「芝居をなめるな!! 」"劇団ストックステップの演劇教室"
 新宿タイニイアリス(6月2日-5日)

作・演出★浜田昭彦
出演★内田和宏 小玉慶晴 佐丸徹 外間勝 中川加奈子 中橋真澄美 浜田昭彦 若林史子 渡邊衛
annie 岡本篤(劇団チョコレートケーキ) KINOSHIN(UNITレンカノ) 木全隆浩 久米靖馬(クロカミショウネン18/UNITレンカノ) 小林真富果(UNITレンカノ) 町山みゆき(UNITレンカノ) 山下沙代

舞台監督★吉田慎一(MDC)
舞台監督助手★横川奈保子
照明★兼子慎平
音響★嶋田浩一(JOHNNY CLUB)
ちらしデザイン★たちばなかずまさ(radimide)
制作★のうこんばつぐん
企画・製作★劇団StoicStick

Posted by KITAJIMA takashi : 06:33 PM | Comments (0) | Trackback

June 10, 2005

Fragile 「塔」

 現代演劇ユニットFragile の第9回公演「塔」が5月25日から31日まで東京のこまばアゴラ劇場で開かれました。都内の小劇場を休みなく見歩いている「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんが取り上げています。ちょっと時間がたってしまったのが悔やまれますが、こんな記述で舞台の紹介を始めています。

舞台中央に鎮座する巨大な滑車・・・そこは111階建ての高層ビルの最上階の上、エレベーターの管理室である。 この滑車を中心に描かれている舞台空間の統一感と完成度、それを支える照明、音響というスタッフワークの力強さ・・・全ての質を限りなく高め、そこから始まる物語への予感を高めてくれる。 劇場に入った瞬間に感じたその想い・・・私の期待は期待以上に高まっていきました。

 この演劇ユニットは「THE・ガジラ主宰鐘下辰男氏によるワークショップ『塵の徒党』に参加した小里清(Playwriter)、桜井秀峰(Director)、渡辺陽介 (Player) によって98年に結成」されたそうです。作・演出の小里さんは2004年度岸田戯曲賞の最終候補になるほどの期待の新鋭です。小里さんはFragile のWebサイトで「真理や教訓を掲げるのではなく、私たちの考える社会の在り様、人間の実相を提示することで、道標を失った現代を生きる人々の意識に波紋を投げかけられる石となれればと願っています」と書いています。
 吉俊さんの期待は外れなかったようです。次のような感想を記していました。

物語は、この巨大なビルに集まってきた異人達が集まるエレベーターの管理室で展開する。 このビルには、世界中の企業や偉人が入居していて、言わば世界を動かしている建物であるという・・・そして、そのビルのエレベーターは世界の骨髄であり、その管理室は脳ではないか・・・それを管理し、保守している我々のお陰で社会が成り立っているのではないか?・・・なのに何故、自分達はこんな惨めな思いをしているのであろうか? 抑圧された人たちが巡らす極端な思想の展開・・・アメリカの同時多発テロのモチーフを借りて収斂していくエンディングは秀逸でした、鳥肌~。


[上演記録]
Fragile 第9回公演「塔」東京・こまばアゴラ劇場(5月25日-31日)

劇作・演出 小里清
出演
渡辺陽介/横畠愛希子(マンションマンション)・井上幸太郎・泉陽二・
有川マコト(絶対王様)・明樹由佳(La Compagnie A-n)

Posted by KITAJIMA takashi : 05:19 PM | Comments (0) | Trackback

June 08, 2005

三条会 『メディア』

「〈犯罪〉をテーマとするギリシア悲劇特集」と銘打たれた Shizuoka 春の芸術祭2005が、静岡芸術劇場と舞台芸術公園にて、5月から6月の毎週末に開催されています(6月18日まで)。鈴木忠志を中心に、若手演出家がさまざまのギリシア悲劇から「現代」を読み解かんとする、たいへん興味深い催しとなっております。過日、三条会がエウリピデス原作の『メディア』を上演しました。本当に本当に、本当に遅ればせながら、公演評です。

◎関美能留の〈時間〉感覚

 古典劇といわれるギリシア悲劇の一つである『メディア』。その三条会上演をみるわたしたちは、それを「古典」だと感じただろうか。「男と女の愛の抗争」とか、「母親が実の子を我が手で殺し得るか」というような議論でなしに『メディア』を描き切ってみせた関美能留の演出。特殊なある「場」を設定し、その状況下で演じられる必然としての「ギリシア悲劇」の物語から、普遍性とかを抽出するのではなく、徹底して無限定の素舞台に配置された俳優が「それを語る」行為自体に意味性を強くする。「メディア」というヒロインに主導されない一人複数役と複数人一役は、集団としての全体性をより高め、また舞台空間との関係のリアリティーによって、舞台上にはいくつもの時間が同時進行していく。一つの科白の流れ(『メディア』というプロット)に対して、原作とは別の感情が発生し、身体を伴い併走する多様なレベルの時間を以て、新しいギリシア悲劇の上演というにとどまらぬ、演劇という表現の新世界を織り上げたと云っていい。

 まず舞台には、赤やピンクを基調に道化めく衣装をまとった三人の女優(メディアである)が、各々包丁を握り締め、身構えるようにして立っている。上手奥・中央・下手手前と、舞台の対角線上に示された座標、その三層のラインに沿って、上手袖から三人の男優が、科白を語りながら舞台を横切っていくわけだけれど、彼らは局部を手で隠しただけの全裸である。のっけから平手打ちを食った観客は、さらに彼らがメディアの前に差し掛かった途端に刺し殺され地に伏すのを見てまたショックを受ける。トすぐさま起き上がり、下手へ向かう男三人。再び現れると下着を穿いており…と、強烈かつ鮮やかな幕開きに心はがっしと掴まれる。上手から下手、下手から上手の往復は繰り返され、一旦袖に消えるごとに下着・シャツ・ズボン・上着を身につけていく過程は堆積する歴史(=時間)のイメージを示唆しつつ、「殺す/殺される」というモチーフは幾度も反復される。

 関美能留は、物語の生成過程で粉飾を施され、複雑化した「犯罪」を、まず行為そのものにまで単純化する。その上で、原作とは異なるレベルの時間を構築していく。その後も賑々しく展開する三条会『メディア』における、「殺す(/殺される=待つ)→踊る」という鍵言葉は、たとえば「なぜ踊るのか」という疑問符を、「なぜ殺すのか」に転化する力業でさえある。外的特徴ではわからない、不可解な人間の内面。思ったことは口にせず、台詞とは裏腹の隠れた心理的対決により展開する演劇が、近代以降の人間・世界の捉え方だったとすれば、ここではそうして表象されない意識をこそ、視覚化する。人の心の深さ、異様さにつれ、舞台上の違和も深まる。外見が抽象に近づくほどに、現行の一般概念としてのリアルは失われてしまうだろう。しかし、どんなに物語を劇中劇として構造化しても、それは「物語を覆う物語」という枠組みによって結局は物語に回帰してしまうし、政治性や権威から逃れられない。とすれば、「とき・ところ」の明示されない劇空間は、劇構造そのものに対する問いかけであり、挑戦なのである。

 背後にどこまでも広がる闇を背負う、夜の野外劇場。照明により拡大縮小し、自在に姿を変える舞台空間は、やがて光と荘重な音楽に包まれながら、使者がクレオンと彼の娘(イアソンの婚約者)の死の顛末を、いかにも「悲劇的」に語る。力強い俳優の身体、声を借りて、それは美しい一遍の叙事詩のごとく闇に響き渡る。言葉は途切れ、子供らの殺害が一瞬で行われた。そして、再び全裸になった男たちの演ずるコロスが、神を讃える一節を語りながら上手へと消え、夜の帳がしめやかに落ちてくる。円環構造まで用意しながら幕切れに収斂されるスピード感は圧巻の一言。メディアの行先を携え、事件の契機をもたらしたアイゲウスのコリントス来訪は、「子宝がどうすれば得られるか」というアポロンの神託の解釈を求めるためだった。予言の神アポロンは、光の神であり、また夢や空想世界の仮象をも支配する。「神々は思わぬでなく、事々を成したまう」。一見「ギリシア悲劇」らしからぬ仕方を横溢させ、経過しながら、「神」という、それこそ現代を生きるわたしたちにはいかにも理解し難いであろう神話にまで、観客を導いてしまった。

 多くギリシア悲劇は、登場人物の言葉によって—時として「神託」や「予言」という形を借りて、未来が暗示される。そうなることがすでに予想されており、定められた運命に誘われるように、先見された未来が実際に現れるのを待っている。そうした意識の流れは絶えず不意打ちされ、表面的な違和は、従来の価値体系に慣らされたわたしたちの感受性を刺激して止まない。その衝撃の連鎖が四拍子的な型にはまらない、一拍子とも云うべき可変の劇時間をうみだすのである。パターン化された時間を批判しながら、等間隔・順列の時間概念に待ったをかける。一回性とも呼ばれ、行雲流水が必定の演劇、あるいはわたしたちの生において、いかに絶対者たる「時間」とたたかうか。思えば、一時間の上演時間に大真面目に挿入された「三分間の休憩」—山口百恵、MCで「青春」を語ること—さえも、始まれば終わるまで止まらず、また過ぎて帰らぬ時間をせき止め、劇時間に揺さぶりをかけることに成功していた。観念や思想云々といった何ものかを具象として物質化し、且つまた、〈時間〉をも目に見える形で現出させてしまう。

 いかにギリシア悲劇がすぐれているとて、それを読むこと、解釈することは、すでに認識された「過去」の再理解に過ぎぬ。どんなに「何を云わんとしているか」を問うたところで、極言してしまえば「過去」を得るばかりなのではないか。括弧だらけで恐縮だけれど、たしかに「過去」なくして「今」はなく、その「次」も存在し得ない。現代演劇は「過去」を「今」に持ってきた、さてその後は…。考察・検証を経て、次の時間につなげるためにはどうすればいいのか。どのような演劇をつくっていくべきなのか。わたしたちには「いま」、それが問題となるように思えてならないのである。

 休憩を挟んで、音楽に弾ける賑やかな群舞があった。その最中、音楽は止み、ほかの人物が動きを止めてもなお、衝動がはみ出すようにして踊りつづけたあの明るさに、しきりと心救われる思いがするのだ。前衛などもはや無きに等しい今、正しく前衛精神を持って、なおかつエンターテイメントたるを忘れない。賢しらを気取って「ギリシア悲劇的」な物言いをするならば、アポロン的な理知と、ディオニュソス的な狂騒という二つの顔が綾なす舞台、そこに前衛性と大衆性は必ずや共在する証を見た。「過去」を知り、「現在」を賭け、「未来」を生きようと走る関美能留の、〈時間〉と対峙し、超克しようとする意志に裏打ちされた三条会『メディア』は、何か新しい演劇のイメージを、たしかにつくりだした。躍動する俳優の身体そのまま、さわやかであり、極めて健康的。己の貧しいながら観劇体験を総動員してみても、やはり稀有と云わざるを得ないのである。(後藤隆基/2005.5.21/静岡舞台芸術公園 野外劇場「有度」)

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June 07, 2005

新国立劇場 『箱根強羅ホテル』

 前作『円生と志ん生』から三月、早くも井上ひさしの新作が新国立劇場中劇場に御目見え。例によって、と言ってしまえることがもはや「事件」なのだけれど、遅れはともあれ、その筆力には脱帽の一語。さて肝心の作品は、といえば、おそらくは「昭和庶民伝」から「東京裁判三部作」へとつながる系譜を引きながら、歌と笑いの機能を練りあげ、高めていった秀作。作家の熟成を感じさせる一本である。

 昭和二十年。箱根強羅ホテルにソ連大使館を再疎開させる動きが持ちあがり、それにあたって従業員が集められる。近眼・やぶにらみ・幼少の事故と、さまざまな理由で眼に不自由を持つ男三人、図書館員、戦地帰りの植木屋に女子工員たちが担うは靴みがき係、アイロン係、洗濯係、植木係…。外務省の思惑は、ここ箱根強羅ホテルを舞台にしてモスクワルートの和平交渉を進めること。やがて、和平交渉派と、軍部本土決戦派との駆け引きが展開していく。

 心理的な意味/主題としても、また舞台に具象化される仕掛けとしても、『箱根強羅ホテル』を読み解く上での重要な鍵言葉は「見えない」ことである。「見える」と思っていたことが「見えない」。よく見れば見えたはずのことが見えていない、あるいは見ようとしない。全体を包み込む「○○、じつは△△」式の二重構造は、最たる例証といえよう。新国立劇場のシリーズ「笑い」における最大のハイライトともいうべき第二幕冒頭、スパイの正体が次々と露見していく場面では、それが笑いの文法として活きた。「見えていない(=ばれていない)」と密談をつづける彼らの背後に人が集まり、万事発覚、お手上げへとなだれ込む絶妙なテンポは手練手管を知り尽くした作者ならでは。それらをすべて覆う観客の視線までもが一つの劇構造に組み込まれ、舞台と客席の交感により構築される劇的宇宙が見事に炸裂した。

 軍部の作戦にも笑いのペーソスは横溢する。「海軍マムシ作戦」や「H弾・H剤」をはじめ、珍妙な作戦が陸海軍によって語られ、笑いを呼ぶ。アメリカ軍の艦砲射撃を防ぐために陸軍本隊を海岸線から40キロ、山梨にまで後退させ、「これなら砲弾も届かない」と高笑いする軍部の「秘策」はもはや笑い話。状況しだいでは、天皇を長野、朝鮮、満州へと移し、「陛下のいるところが日本なんだよ」とあくまで戦う、そうすればそのうち敵も飽きて引き分けになるとのたまうなぞ噴飯物である。がしかし、「作中に登場する本土決戦用の珍作戦は、すべて実在したもので、作者が勝手に捏造したものではありません」という注が振られているように、一切が紛うことなき事実。冗談としか思えない作戦が、大真面目に考えられ、それを心底信じていた。大真面目に、そして誠実に、それが何より切ない。現代を生きるわたしたちの地平から見れば、「馬鹿」なことである。いま本気でそんなことを考えている人がいたならば、間違いなく精神病院にでも入れられるだろう。けれども、そうすれば勝てる、大丈夫と信じた人びとがいた。「国」を思う気持は、その仕方の差異こそあれ、変わらないにしても、「信じることと冷静に分析することは別のもの」という一言に尽きるわけだ。

 信念や希望は時に人を盲目にさせる。「勝てるはずだ→勝てるかもしれない→勝てる→勝つ!→バンザイ!!」という「手前勝手の四段活用」を駆使して、人は生きる。スパイ三人衆が眼を病んでいた(振りをしていた)ことも、見える/見えないことのメタファとなろう。しかし、目が曇っていたのは果たして戦中に限ったことだろうか。井上ひさしは、戦後、目をつぶって、今なお過去を見ようとしない日本人を、絶えず言及してはこなかったか。ロシア人学校の生徒たちが書いた作文、「忘れられない光景」が、それぞれの瞳に刻み込まれている。「記憶の畑を耕そう 時からこぼれ落ちる一瞬、の、光景集」。かつて「時代と記憶」をテーマにした小劇場での新作五作品連続をつなぐコピーである。記憶しつづけること。それはしっかと見ることであり、また、歌うことでもあった。

 劇中歌は相も変わらず秀逸である。宇野誠一郎はもちろん、チャイコフスキー、ベートーヴェンからリチャード・ロジャースまで、日本語詞を西洋の旋律に乗せる業はお手の物。リチャード・ロジャースの "The Girl Friend" から生れた『まかふしぎなパジャマ』は、少女の喜びと安らぎを歌う佳曲である。また、姉弟の二十五年ぶりの再会を演出した『鬼ヶ島の子守唄』にみられる、歌による記憶の共有。『暗号歌』は笑いとともに「軍部」という特殊な所属を確認する。『勝利の日まで』は、身分・立場・思想の違う人びとを、「一億総心中」へと収斂される「日本国民」としての共同体意識につないだ。それはあたかも「天皇陛下」の一言に姿勢を正すように。井上戯曲における「歌」は、メッセージ色の強かった近作に対して、感情の高まりや、意識に訴えかけるものが増えていた。ドラマ・ウィズ・ミュージック(=音楽を伴う演劇)」を旨とする井上芝居の熟練スピードには目を見張るばかりである。

 今作の最大の功労者は梅沢昌代である。と思わず言い切ってしまったが、後悔はしていない。彼女なしに、『箱根強羅ホテル』は井上作品として最低限のラインを超え得なかったと言って過言ではあるまい。この劇に主人公(のようなもの)がいるとするならば、麻実れい演じるロシア語教師、山田智恵子だった。日本人(こちら)とロシア人(あちら)との混血(半々)である彼女は日露関係の楔となるよう位置づけられていたし、また、劇中歌も多くソロパートをあてがわれ、劇の中心として屹立すべきだったろう。しかし、井上作品初出演に加え、台本の遅れによる稽古の不備など、もう少し時間があったらな、仕方ないのかなとつい思ってしまう事情は鑑みた上で、舞台に立つだけで凛とした空気を放つ風格は流石ながら、やはり台詞がぼやけ、対話に勢いが足りない。逆に、梅沢昌代は井上作品の常連も常連、こうした状況は幾度もくぐり抜けて来た経験もあるにしろ、緩急自在の台詞術、他俳優との連携を巧みに主導し、劇空間を縦横に疾駆する。梅沢昌代の身体のリズムは、井上芝居のリズムに本当によく似合う。俳優と作品の幸福な出会いとは、こういうことを云うのだろう。ただ、少しばかり「よ過ぎた」ものだから、麻実れいを食ってしまったことは否めない。二人の絡む場面では多少抑えた印象もあったが、全体として、完全に劇の軸になっていた。バイプレイヤーが主役以上に輝いてしまう、それはそれで問題なのである。けれども、段田安則ら巧者も光り、また新境地を開拓した感のある内野聖陽も好演、中劇場の広い空間を、何とか調和させることに成功していた。

 井上ひさしは、「あの」ラジオ放送を境に変転する「日本人」の姿を描きながら、「1945.8.15」という刻印を舞台に乗せない。そこに至る「オキナワ/ヒロシマ/ナガサキ」を悲劇の現場として用いない。これまでの作品では、幕切れのその先に暗示される登場人物の運命は決して明るいものではなかった。希望は示唆されながら、常に、不安や不吉さが立ち込めていた。けれども、『箱根強羅ホテル』には、必死で生きていく人びとの光がある。前線へ飛ばされシベリアに送られた稲葉陸軍少佐、任務中に負傷し軍の病院に入院した岡陸軍軍曹と三浦海軍少佐、進駐軍にくっついてジープに乗り込んだ三人娘…。明るい未来ばかりではないにしろ、前向きに生きる術を得た登場人物の笑いによって幕は下りる。それをよしと見るか否か。観客の胸にのみ、答えは在る。(後藤隆基/2005.6.7/新国立劇場 中劇場 [PLAYHOUSE])

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June 06, 2005

OrangePunPKing『見つかりにくい温室』

 OrangePunPKing『見つかりにくい温室』公演が東京・中野のウエストエンドスタジオで開かれました(5月27日-31日)。「東京○×カンパニーでのプロデュース公演を皮切りに今回で四度目の公演になるが、とても好きな劇団で、第三回公演を除いて全部観に行っている」という「おはしょり稽古」サイトの「あめぇば」さんは、「OrangePunPKingは、役者の音感やリズム感をフルに生かして話を創る。少年の孤独を癒すためだけに創られた男女が、無表情でジンギスカンを踊る様子は怖い」としながら、次のように指摘しています。

作品の系統が少し変わった。国籍や時代が不特定だった前作までの世界観と違って、今回は明らかに現代の日本が舞台だ。登場人物の名前や「バイト」「飲み会」などの単語からそれが分かる。話もよりストレートな展開になったが、ラストの唐突な不条理さは健在だ。完全な空想世界でない分、勢いで押し切りきれなくなっている。温室の草花が「出られない」のだという絶望感は伝わりきらなかったのは、外に出た後の元・人形達や連れ去られた俊雄の末路が無かったせいでもあると思う。

 これまでの公演をすべて見てきた「おはしょり稽古」サイトも「伝わりきらなかった」と言うほどだからでしょうか、「デジログからあなろぐ」サイトの吉俊さんは「全ての問題は、物語の悪さに始まっている」と切り出した上で「最後に向かって物語がまとまってくるのを期待してはいたのですが、結局最後まで引き込まれず、特にエンディングの内容には逆に引いてしまう」などなど、最後に「あ~良い事を殆ど書いていない気がする」というほど、芝居の世界から疎外されていたようです。

 集団の名前がちょっと変わっています。OrangePunPKing。後半の綴りがPumpkin かと思って、Webサイトを見つけるのに手間取ってしまいました。サイトを見ても由来を見つけられません。どういう意味なのでしょうか。

[上演記録]
Orange PunPKing 春公演『見つかりにくい温室』
中野ウエストエンドスタジオ(5月27日-31日)

■原話:足利彩
■作・演出:宇原智茂
■出演
土居清光/あしかがあや
にしだみき(ゲキダン◎エンゲキブ)/中澤昌弘(楽天舞隊)
内山智絵(劇団お座敷コブラ)/MiSAKi(Funny*Flying*Fish)/森宏之
松岡大輔(カノン工務店)/久保田勇一(かわずおとし)/水崎蘭
宇原智茂

■スタッフ
照明:Jimmy(FREEWAY)/音響:志水れいこ/舞台監督:高田宏
チラシ画:三原等/記録:⑰アイボット/WEB管理:おかだよう
協力:⑰慈プロダクション/制作:SUI
企画・製作:Orange PunPKing

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June 05, 2005

劇団犯罪友の会「手の紙」

 野外劇場公演を軸足に据えて30年。大阪を拠点に活動する劇団犯罪友の会の久しぶりの東京公演「手の紙」が新宿・タイニイアリスで開かれました(5月27日-30日)。破防法が適用された戦後最初にして唯一のクーデター未遂事件「三無(さんゆう)事件」を題材に取りながら、戦争と平和、ロマンとリアリズムの狭間に純愛物語を小劇場で成立させようとする舞台でした。
 「ワニ狩り連絡帳」サイトは「正直言って、いったいどんなハチャメチャな舞台を見せてくれるのだろうか?などという期待があったのは確かなのだけれども、想像していたよりもずっとストレートな、直球勝負の舞台だった。とにかく、観終っての印象では、まずは戯曲としての完成度が高い」と述べています。

 「関西に粋なおっちゃんがいる」というタイトルでレビューをまとめている「おはしょり稽古」サイトは「小劇場出身の劇団と比べると圧倒的に役者の芝居は大きい。笑いをとってもいい脇役の演技は特にそうだ。野外劇の特性を取り込みつつ、主役陣の抑えた演技で小劇場サイズの作品に仕立て上げている」と指摘しながら「しかし、やはり次回は、彼らの評判の野外劇を観てみたい」と結んでいます。

 タイニイアリスのWebサイトに劇団の前触れが載っています。

◎平和ラッパという凄い漫才師がいた。
昭和三十年代前半まだ街中に「平和」という看板がやけに目についた頃だった。
「平和時計店」「平和美容院」「平和ビリヤード」等、まだ「平和」という文字が人々の心の中に大きな意味を持っていた時代だった…
 明治維新後七十余年に太平洋戦争が始まり、敗戦から六十年を経て、第三、四世代の若者達がイラクの戦場に派兵されている。
そこには多くの人達が一片の肉の塊になって転がっている。
戦場には正義も大儀も聖戦もない。
ただ無数の死と悲劇があるだけなのに…幾度繰り返せばいいのか…
流す涙なら「恋の行方」で流したい、この行く先の見えない時代にラブストーリーを作ってみました。
やるせない恋の行方の物語、楽しく笑って泣いてください。
「平和」という言葉をもう一度味わいながら…

 同じアリスWebサイトに主宰、作・演出を一貫して引き受けてきた武田一度さんの詳細なインタビューが載っています。実はぼくが急遽、公演直前にインタビューしたのですが、劇団の成立、活動、そしてコンセプトまで包み隠さず明らかにしています。ご興味のある方はぜひ、ご覧ください。
http://www.tinyalice.net/interview/0505takeda.html

[上演記録]
劇団犯罪友の会「手の紙」

☆作・演出=武田一度
☆出演=川本三吉 羽田奈津美 中田彩葉 玉置稔 デカルコ・マリー 小野正樹 金城左岸 山田山 瀧波四級

Posted by KITAJIMA takashi : 11:40 PM | Comments (0) | Trackback

June 04, 2005

strange GARDEN「マイン'05」

 strange GARDEN Ver.7.0「マイン'05」公演が東京・目白のアイピット目白で開かれました(5月26日-30日)。意欲的にレビューを書き続ける「おはしょり稽古」サイトの「あめぇば」さんがこの舞台を取り上げています(「伝えたいから人は創る」)。よく知られた劇団や話題のステージに大方の目は集中しがちですが、こういう芝居をきちんと記録する意味は決して小さくないと思います。

 物語はネットで知り合った人たちが集団自殺を図ろうとするのですが、いろいろと齟齬が生じて…という内容のようです。

 「あめぇば」さんはまず、「奇跡のような舞台だった。と言っても、褒めるところは見つからない。皆ものすごく下手だ」と切り出します。でもなぜか、惹かれます。その理由をこんな文章で綴っています。

喜劇も悲劇も飽きるほど書かれたこの設定で、演出家は役者の口を借りて「生きていこう」と呼びかけてくる。それまでの話の展開や辻褄なんかどうでもいいのでギャグで流しました、という感じすらある。直球極まりない台詞をつっかえつっかえ言う役者が、妙にリアルに感じられてくる。拙いギャグの連発で油断していると、つい観客は直球攻撃にやられる。(略) 痛々しいからではなく、正に中学生のようなひたむきな情熱に圧されてつい応援してしまう。切実なメッセージがあるということは表現活動で一番の原動力だと、久々に再確認した。 ダメ人間と自分を自覚する人が多い中で、この話は支持され続けるだろう。そういう意味でこれは奇跡のような舞台だ。

[上演記録]
strange GARDEN「マイン'05」アイピット目白(5月26日-30日)

作・演出: 佐藤隆輔

出演:
五味田扶美子
樋泉秀幸
舟橋晋
岩田章子
尾木亜紀子
佐東まんごろう
遠山悠介
佐藤隆輔

Posted by KITAJIMA takashi : 11:54 PM | Comments (0) | Trackback

June 03, 2005

メガトン・ロマンチッカー「モンスターとしての私」

 名古屋を拠点に活動している「メガトン・ロマンチッカー」の公演「モンスターとしての私」が5月25日から29日まで名古屋・東文化小劇場で開かれました。
 「#10の観劇インプレス」サイトによると、「フランツ・カフカの『変身』、佐世保の小6児童殺害事件、神戸の酒鬼薔薇事件、これらをモチーフに、「少女/変身/孵化」をテーマとした舞台」。「観劇の日々」サイトのしおこんぶさんは「芝居ではあるが、嘘はどこにもなかった」と印象的なフレーズを残しています。

 もう少し引用すると、「#10の観劇インプレス」サイトは次のように述べています。

芝居という面では一言。美しい舞台だった。以前からメガトン・ロマンチッカーの舞台はどの瞬間を切り取っても絵になると感じていたが、今回は特にそれが意識された演出だった。背伸びして描くことで力量不足が露呈する劇団も少なくないが、実力のある役者を揃えて、演技も満足のいくものだった。

 劇団のWebサイトに解説が載っています。書いたのはおそらく作・演出の刈馬カオスさんと思われます。

この物語を考えたのは、昨年の春前だった。
フランツ・カフカ『変身』を原作に、毒虫を、現代に生きる少女に置き換え、
友達を殺した罪から社会復帰したときの、家族・世間のリアクションを描く構想だった。
企画書をまとめた翌日、佐世保で事件が起きた。
衝撃を受け、現実を前にひるみもした。
だが、私たちは1人の表現者として、この問題へと立ち向かうのは責務だと考えた。
賭けに出た。
佐世保の小6児童殺害事件と、酒鬼薔薇聖斗の医療少年院仮退院。
当初の構想はそのままに、2つの事件を調査し、その要素を大きく取り入れた。
かなりダイレクトにストレートに、現実の事件を想起させる描写もある。
この選択は、私たちにとってリスクには違いない。
それでも私たちは挑むのだと、覚悟した。
加害者とその家族、被害者とその家族、誰もが納得する表現を。
そんな地平はないのかもしれないが、それでも求める。
丁寧に現実を見つめ、描写することで何かを発見することができるはずだ。
演劇の力。
私たちはそれを信じる。

この作品は、
社会派であり、
エンターテイメントであり、
等身大の私たちの物語であり、
そしてあくまでも、恋愛演劇だ。

しおこんぶさんは先のサイトで「こういった戯曲(現実にあった事件を元にしたもの等)は世の中にもっとあっていい。メディアとしての演劇とでもいうか、現実を見つめなおすきっかけになる芝居は想像力を刺激する」と述べています。その意味でも、名古屋だけの公演は惜しまれます。もっと広汎な人たちが見る機会をぜひ、用意してほしいと思います。

[上演記録]
「メガトン・ロマンチッカー」の公演「モンスターとしての私」
5月25日から29日、名古屋・東文化小劇場

作+演出=刈馬カオス

Company CAST
大久保明恵
岸良端女
来々舞子
浦麗

Guest CAST
久川徳明(劇団翔航群)
ヒート猛
時田和典
茂手木桜子
織田紘子

○ スタッフ
演出助手 山崎信人
照明+舞台監督 村瀬満佐夫(劇団翔航群)
劇中映像 田中博之
音響 菊森公介
選曲+舞台美術 刈馬カオス
宣伝美術 ル・ゴウ総合美術
制作 則武鶴代 梅村卓哉
制作協力 東海シアタープロジェクト
プロデューサー 大橋敦史(東海シアタープロジェクト)
企画・製作 メガトン・ロマンチッカー

○ 協力
松井組
シネマパルチザン
奥林劇団
猫足企画
田原幸二
デンキヒツジ(立体交差中心)

Posted by KITAJIMA takashi : 05:52 PM | Comments (0) | Trackback

June 01, 2005

平田オリザ/金明和作「その河をこえて、五月」

 「日韓友情年2005」記念事業の一環として開かれた公演「その河をこえて、五月」は2002年サッカーワールドカップ共同開催の年に生まれ、日本では朝日舞台芸術賞グランプリに輝き、韓国・ソウル公演でも好評を博して権威ある演劇賞を獲得、日韓ダブル受賞となった作品の再演でした(5月12日-29日、新国立劇場小劇場)。作者は日本側が平田オリザ。韓国側は1997年の劇作家デビュー後、立て続けに演劇賞を受賞した劇作家金明和。演出は李炳焄と平田オリザが共同で当たったそうです。
 新国立劇場Webサイトによると「言葉の通じない状況で、なんとか意思疎通を図ろうとする人々の姿。日韓の歴史的関係、家族の絆、在日問題。そして、国家観、習慣の違い、民族を超えて共感できる人間のつながり……。“異国間コミュニケーション”をテーマに、ソウルの人々が集うという河原の風景を切り取り、出会いと別れを織り込んだ会話のなかから、“日韓の現在”の断片が静かに描かれ」ます。

 「Somethig So Right」の今井さんは「最近の東アジアの政治状況は憂慮すべきだが、実は今年、日韓友情年、なのだそうだ。そうした政治状況は別にして、この作品時代は素晴らしい両国演劇人のコラボレーションだ」と押さえた上で、「平田オリザ流のいわゆる『静かな演劇』の調子が保たれており、派手な動きやドラマはないのだが、ひとつひとつの会話や出来事に、日韓関係がかかえる様々な問題が浮き彫りにされており、目が離せない。二時間半近い上演時間も気にならず、集中した」と述べています。

 「現代演劇ノート」サイトの松本さんは冒頭、次のように始めます。

再演となる『その河をこえて、五月』は、さしあたり〈文化(間)翻訳をめぐる物語=ドラマ〉といえようが、細かなエピソードやモノを介して展開していく話題の多くは、むしろ花見に集まった様々な人々の間に走る〈境界線〉を次々と浮かび上がらせてしまう。従って、展開につれて舞台は〈文化(間)翻訳が頓挫してく反・物語=ドラマ〉といった様相を深めていくのだが、不思議なことに、それと同時に、舞台には力強いまでの明るさが、とある深さをたたえながら満ちていくようなのだ。『その河をこえて、五月』とは、こうした不思議な、そして実に演劇的な魅力を持った作品なのである」

 ここにすべてが集約されていますが、そのあとで「相互理解」に関して次のように述べたくだりがあります。

最後まで会話は何度も挫折し、相互理解は思うようにいかず、双方が安定した場で、共有のコードによって何かが〈伝達=翻訳〉されることは、極めて少ない。となれば、問題なのは「こえる」ことでも「こえたあと」のことでもなく、文字通り「こえて」という、多面的に構成される溝をこえていこうとする絶えざる伝達可能性に向けた運動=意志であるに違いない。 このことは、舞台上ばかりでなく、舞台と客席の関係にも転移している。舞台では、何度か客席が河に見立てられるが、おそらく、日韓双方で上演されるこの作品は、他の多くの演劇作品(真価や意図はおくとして)が「通じる」と思っている言語や身体のコードをあてにしていない。むしろ、そうしたコードの成立が、極めて困難であるということを自覚するところから作られたのが『その河をこえて、五月』であり、だから、〈困難を引き受けながら、絶えざるつながるための営為を繰り返す〉という意味において、この物語は、演劇という形式を模倣しており、あるいは、演劇という表現形態に対して、上演それ自体を通じて批評的に関わろうとした意欲作であるとも言える。そうした言葉の正しい意味において『その河をこえて、五月』は「メタ・シアター」とも言えよう。

 平田演劇を系統的に読み解いてきた蓄積だけでなく、冷静な視線がリアルと演劇の形作る関係を見通しているように感じられます。

 東京公演は終わりましたが、大津・富山・北九州・神戸・富士見(埼玉県)で公演が予定されています。

[上演記録]
「日韓友情年2005」記念事業
その河をこえて、五月
 新国立劇場小劇場(5月13 日-29日)

 全国公演/大津・富山・北九州・神戸・富士見
   大津公演/びわ湖ホール
   富山公演/オーバード・ホール
   北九州公演/北九州芸術劇場
   神戸公演/神戸文化ホール
   富士見公演/富士見市民文化会館
   
作 : 平田オリザ/金 明和
演出 : 李 炳焄/平田オリザ

美術 : 島 次郎
照明 : 小笠原 純
音響 : 渡邉邦男
衣裳 : 李 裕淑/菊田光次郎
ヘアメイク : 林 裕子
演出助手 : 慎 鏞漢/申 瑞季
舞台監督 : 田中伸幸

芸術監督 : 栗山民也
主催 : 新国立劇場

協力 芸術の殿堂(ソウル・アート・センター)
後援 駐日韓国大使館 韓国文化院

三田和代 小須田康人 佐藤 誓 椿 真由美 蟹江一平 島田曜蔵
白 星姫 李 南熙 徐 鉉喆 鄭 在恩 金 泰希

Posted by KITAJIMA takashi : 08:27 PM | Comments (0) | Trackback
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